第五章 五・七日【智の審問】
ヒンズーの神々によって心理に基づく徳と無知について審理が行われます。インドネシアの孤島をリゾートシティとして開発して事件が発生します。
天も地も無い無間の隧道を歩いているのか漂っているのか、いまだ滑るようにこびりつく塵労のこだわりを拭い去れずに五右衛門の魂が流されて行く。
煙草の吸殻を灰皿にグイと揉み消すと、手持ち無沙汰になった人差し指と唇が新たな一本の感触を求めて悲鳴を上げる。毒による中毒ではなく、習慣による誘惑に負ける。
遠く遠く過ぎ去った記憶に紫煙の香華がほのかに漂う。煙草の吸殻が指に焦げ付き夢を求めて眠りに落ちる。眠りに落ちる闇の底が死への旅立ちを連想させて瞼を閉じることに不安を抱き、眠り続けないように目覚ましを掛ける。
やがて永遠の眠りに落ちて習慣も不安も消えた筈の魂が疼き、目覚めの時を待つかのように煩悩を求めて時を駆ける。時が無い筈の闇空間に光陰の流れを感じる。
千億万歩も歩いたのか転がったのか、隧道の先にほのかな光が見えた。闇がうねり空間が歪みパープル色の光暈と共に天が裂けて地が割れた。水が流れ大地が生まれて隆起して、大環海に玲瓏と魔笛が轟き渡った。
おお、何と、盛り上がった台地の上にそびえる巨大宮殿は、かつて麻布十番五目並べ同好会格安パックのチベット旅行に招待されて訪れた、ラサのポタラ宮殿ではないか。
なだらかな丘の上にパープルカラーの光輝を浴びて周囲を威圧するように聳え立ち、豪壮な巨大砦を思わせる宮殿の窓々からは金色の光が放たれる。
ふと見ると、白い衣をまとった一人の男が、長い石の階段を一歩ずつ上って行く姿が目に留まった。五右衛門は男に近付き声をかけた。
「おい、兄さんよう、ここは何処だい?」
「ゴルゴダの丘だ」
「いいかげんなことを言うなよ。あれはポタラ宮殿じゃねえか。だったらマルボリの丘じゃねえのかよ」
「そう思ってるなら聞くなよ」
「そう邪険に言うもんじゃあねえよ。お前、どこから来たんだい?」
「ナザレ」
「どこだ、それは?」
「エルサレム」
「何でそんな材木なんか背負ってこんな坂道を上っているんだよ?」
「ただの材木じゃあないだろう。良く見てみろよ」
「おお何と、十字架じゃあねえか。丘の上で焚き火でもするのか。芋でも焼いて?」
「お前の家では、いつも十字架を燃やして芋を焼くのか、罰当たりが」
「よし、俺も手伝ってやろうじゃねえか。後ろを担いでやる」
「やめろよ。よけいな事しなくていいから、あっちへ行けよ」
「お前、け飛ばさなくてもいいじゃねえかよ。人が親切に言ってやっているのに」
「ほっといてくれよ、考え事をしているんだから」
「何を考えてるんだ。女か、あん? そうか、図星だな。まあ無理もねえよ、お前の面じゃあ悩みも深かろう。で、どこにいるんだその女は、あん?」
「うるさいなあ、あっちへ行けよ」
二人が言い合っている所に紫色の肌をした鬼がやって来て、五右衛門をとがめて言った。
「おい、こら。こんな所で何をしているのだ。とっととゲートに行って記帳しろ」
「やかましい! 人が話をしている最中に、厚かましく割り込んで来るんじゃねえよ。気が向いたら行ってやるから大人しく待ってろよ」
一トン塊の紫色の鉄棒が五右衛門の脳天をぶち割った。
「イテテ、何て事しやがるんだ、この野郎。痛えじゃねえか。やいテメエ、紫芋みたいな面しやがって。あ、やめろ、危ねえ」
飛びすさった五右衛門の足元に、一トン塊の鉄棒の先がズズンと音を立てて振り下ろされた。慌てて逃げ出した五右衛門の後頭部を狙って岩石の礫が飛んで来た。
ベキッと頭蓋がひび割れ、目眩と嘔吐にヨタヨタとふらつきながらゲートにたどり着いた五右衛門に、門番の鬼が気付け薬代わりにこれを飲めと言って、冥界の銘酒『鬼ごろし』をコップに注いで振舞ってくれた。
グククッと一気にあおって完璧に気力を復活した五右衛門が、壜ごと寄越せと調子に乗って酒を奪い取ろうとした頭上に一トン塊の金棒が降ってきた。
ーモーゼー
さらに激しい目眩と苦しい嘔吐に咽びながらも、死に体の身を引きずるようにヨタタヨタタとパープルに輝く宮殿に近付くと、薄汚れたマントを羽織ってひげ面のむさ苦しいかっこうの男が、扉の前に立ちはだかっていた。
「どいてくれないか。中へ入りたいのだ」
五右衛門は、か細い声で男に言った。
「ここは五七日目の審問が行われる『智』の裁判宮だぞ」
「誰だ、お前は?」
「ワシを知らんのか?」
「知らねえから聞いてんだろうがアホウ」
「ワシはモーゼじゃ」
「牛か?」
「それはモーじゃ。バイブルを知らんのか」
「知ってるよ。鶯谷のハルちゃんが使い過ぎて不感症になったと嘆いてたなあ」
「それはバイブだろ不謹慎な。どんな関係だハルちゃんと。ワシの話を聞け。人間の欲の突っ張りは多様にして根が深い。己の気付かぬ懐深くに潜んだ欲が、精粋なる清心を屠り、煩悩の中枢において止め処の無い過ちを犯し続けて、愚かしくも正義の剣と称して振り翳しているやもしれぬ。また、欲に陰と陽があり、陰の道理を判断し、陽の真理を知らねばならぬ。正邪曲直の本質を見極め在世の業をふるいに掛けて審判に臨まねば、『智』の裁判宮に於ける減点の比率は高く、地獄への道を歩む事になるやもしれぬ。弱き者よ、さあ、そこに座して語ってみよ。己が歩んだ人生の、欲得羞恥煩悩……」
「どいてくれ。目眩がひどくなってきた」
「ならぬ。見よ、これを。これは十戒と申して神から示された……あ、こら、それを押してはならぬ」
「うるせえなあ。お前ねえ、エジプト軍からヘブライ人を守るために葦の海を割って奇跡を起こしたっていうけど、嘘だろあれは。年老いたジジイが杖をかざして海が割れるならサンマだって鯨だって取り放題ですよって、あれはもうろくモーゼの妄想だって、社会科の真知子先生があざ笑ってたぞ、お前のことを」
「なんと無礼極まる発言を、海を割ろうが割るまいがどうでも良いわ。なにが鯨だ愚か者。迫害と虐待に苦しむヘブライの民衆を率いて勇猛果敢に戦いを挑み、シナイの山にて神から十戒の石板を授かった英雄であることに変わりはなかろう。ユダヤ語も読めずバイブルも解せず、ガキを相手にいいかげんな教育をするなって、社会科の真知子先生に言っとけ」
煩わしくなった五右衛門はモーゼを押しのけ、紫色に点滅する扉横のボタンに指を伸ばした。
「こら、駄目だと言うに。そっちの釦ではない、あっ、もう知らん」
構わず釦をグイッと押し込むと、高さ五メートルもある重厚な紫檀の大扉が勢いよく手前に開き、体をかわすゆとりもない五右衛門の顔面をバコンと直撃した。
内側から勢いよく扉を開いた鬼がパープルカラーの顔を覗かせると、素知らぬ顔で背中を向けているモーゼの足元に霊魂が這いつくばって失神している。
鬼は無造作に五右衛門の首根っこを掴むと、ズルズルと引きずって審判室まで行き、扉を開いて中に放り込んだ。
放り込まれた拍子に目が覚めた。全身打撲患者が白内障を患ったような、立ちくらみと目ヤニに霞んだ視力で壇上を見上げると、何とか審判官の姿が薄ぼんやりと浮かんで見えた。
ーヒンズーの神ー
霞の中から声が響いた。
「被告は錦川五右衛門か? かなり疲弊しておるようだが、気は確かであるか?」
「確かじゃねえよ。見りゃ分かるだろ。お前、誰だ?」
「私はヴィシュヌだ。右におわすはシヴァ神、そして左におわすはブラフマー神とガネーシャ神。ここが智の裁判宮だという説明はすでに受けたと思うので、精粋にして崇高なる智の徳にして、無知のカルマによる咎の帰結について審問を行う」
「意味が分からん。何者だ、お前ら?」
「言葉を慎め、愚かなる被告」
四面の顔を持ち、四本の腕には数珠と杓と水の器を手にして座されるブラフマー神が代わって被告を諫められた。
「ここは智の審問宮なるぞ。私はブラフマーだ」
「ブラとマフラー……、妹のブルマー……」
「妹のブラでもブルマーでもない。ブラフマーだ。智の審問をなめんなよ。しかと被告の生きざまを切り裂き、無知の業を見極め検証することになる。無駄な思考は不要ゆえに、誠の心をさらすが良かろう。たとえ地獄に落ちることになろうとも、神聖な審問に逆らい、虚実の申し立ては許されぬ」
「気安く地獄って言うけどあんた、どんなとこなんだよ其処は。針の山とか火炎の海に放り出されてのた打ち回るってのが定番だと聞いてるけど、時間の無い世界で身体の無い魂が、一体どうやっていつまでのた打ち回るのか、教えてくれよ、ブラブルマー」
すでに仁義礼と三度の審問を終えた五右衛門は、神や仏の姿に畏怖も敬意も希薄になって、言葉遣いさえもぞんざいになってしまった。それをたしなめるようにブラフマーが、神々への威儀を正すべく諭される。
「宇宙を祖とするヒンズーの神々を侮るなよ。中央に座しますヴィシュヌ神は、鳥神ガルーダにまたがり世界の平安と慈悲を維持するために、見よ、円盤、棍棒、法螺貝、蓮華を手にされて自在に操り根幹の悪意に鉄槌を下される。隣りに座して瞑想されますシヴァ神は、額に第三の眼を持ち悪魔の化身を成敗される破壊の神にして、その証が身にまとわれた虎の毛皮とコブラの抜け殻。そして私の隣りに座しますガネーシャ神は、訳あって象の顔をしておられるが、無限の知恵紐をあやつり富と学問をもたらしになる。私はブラブルマーでもマフラーでもない、宇宙の創造神であるブラフマーだ。地獄がどうであろうが余計な詮索は無用だ。しかと得心できたか、礼儀をもわきまえぬ不肖のボンクラ」
顔が四面に手が数本もあって、顔が象だったり身体の色も青黒く尋常でない姿がいきなり四体現れて、ヒンズーの神々が宇宙創造の祖だとか言われても簡単に脳味噌が受け入れるはずもない。
仏教とかキリスト教なら何となく耳になじんで違和感は無いが、こんな異様な神々に裁かれること自体に不安を感じる。さりとて相手が神ならば、ぶしつけに、いやもうすでにぶしつけではあるが、あからさまに渋い表情では気が引けるので、さりげない振りを装い問いかけてみた。
「ちょっとお尋ねしますがねえ、あんたら宇宙の果てからやってきたエイリアンの生き残りかい? 神様とか偉そうに言ってるけど、どこに住み着いて何やってるのか知りたいもんですねえ」
「まだ分からんのかボンクラ。バラモンの曼荼羅に眠る無色界の大梵天を学ぶがよい。ヒマラヤより遥か天上を源流にして流れ至る聖水こそが、ヒンズーの神々に免じて魂の解脱を許されるガンジスの流れなるぞ。手に触れてみよ、肌に感じてみよ、神への禊を必然と思い誓うであろう」
「あんたらガンジス川の深海魚かい?」
「やかましい! 馬鹿を相手にするのはこれぐらいにして、それでは被告の業の一抹を端緒に検証することに致しましょう」
ブラフマーの言葉が終わると同時に、七色の光が交差してスクリーンに映し出された映像は、ジャングルに覆われた熱帯雨林の無人島であった。
ーゴエモンカップ海峡ヨットレースー
香港の劉孔明からその話を持ち掛けられたのは十年ほど前のことだった。インドネシアには一万を越す島嶼があり、はるか対岸の住民ですら名を知らない小さな無人島も多々あるという。
ボルネオとジャワ島に挟まれた赤道直下のジャワ海に、濃緑の樹林に覆われた小さな無人の孤島があった。その島の所有者はインドネシア在住の金満華僑であったが、島によそ者が密かに潜り込んで戦闘の訓練をしているらしいと不穏な噂が流れ、島を維持するメリットが無いどころか危険を回避したくて売却先を探しているという話を劉孔明が耳に挟んだ。
五右衛門は不動産を売買して利鞘を稼ぐだけの商売から超脱して、南洋のリゾート開発を手掛けて経営の規模を拡大したいという夢を抱いていた。
だが、女子供や貧乏人を満足させる程度のけちな事業など考えてはいない。そんな程度なら何処にでもある遊園地のジェットコースターかディズニーランドのスペースマウンテンで充分だ。
真に開発すべきは世界中の紳士淑女を永遠に満足させられる究極の桃源郷でなければならない。まさに世界最高レベルのリゾート開発という構想を掲げていたのだ。
五右衛門は劉孔明から孤島の話を聞くと、直ぐに紹介を受けて現地に飛んだ。ガルーダ航空でジャカルタに飛び、ジャカルタから海軍の哨戒ヘリコプターで孤島へ飛んだ。
ジャカルタから北東へ約三百五十キロ、何の整備も開墾もされていないまま放置されている熱帯雨林の無人島、絶海の孤島とはいえ東京ドームの二百個分以上はあるだろう。
五右衛門は躊躇無くその島を購入して『ゴエモン・アイランド』と命名した。
五右衛門は島を最大限に活用できるアイデアを求めて奔走し、収集した情報、資料を切り刻むように分析して繋ぎ合わせて構想を練った。その結果、フローティングシステムを活用した洋上のリゾートシティを描き上げた。
大手の建設会社や造船会社を巻き込んで、基盤となる具体的な企画を練り設計図を描かせた。同時に、香港の劉孔明を始めとする東南アジアの有力華僑や機関投資家からの融資を募った。
一方で、インドネシアの関係省庁を訪れて、申請書類の数々が滞りなく受理されて、決して机上に積み重ねられて置き去りにされることの無いように、賄賂、袖の下、金の延べ棒をばら撒いて回った。
造船会社のドックで巨大なデッキバージが次々に建造される。発電プラントや海水淡水化装置のモジュールが製造される。建設会社によってホテル、コテージ、レストラン、カジノ、スポーツ施設などが建設される。それらが夫々の巨大バージに搭載される。
海上保安庁の指示に従って、巨大バージの一団がタグボートに曳航されて洋上に出る。太平洋から南シナ海の公海上を一か月も掛けてジャワ海に達する。数ヵ月後にはまた次の一団がドッグを出て曳航される。
島内ではジャングルで伐採された木材が輸出用の船に積載され、整地が進んだところに小型機用の滑走路やヘリコプター発着所が作られる。
碁盤の目状の運河には、自動車の代わりにモーターボートや乗り合いの小型船がゆっくり走る。あたかも地中海の水の都ベネチアを思わせるような幻想の都市が姿を現し、熱帯の陽光を浴びて赤道直下の洋上に浮かぶ。
浮体式ヨットハーバーには数百本のマストが林立し、横付けされた大型クルーザーの船内では毎晩のように華やかなパーティーが催される。
運河には青や黒に塗られたゴンドラが静かに浮かび、洋上ではサーフボードが高波に乗って舞い上がる。
街の歩道にシャンソンが流れ、ハーバーでは心地良いロックのリズムが身を震わせる。市中には車も塵も存在しない。公害も無ければ汚染も無い。メインストリートのネオンの輝きは、新宿歌舞伎町も不夜城ラスベガスでさえも色あせて舌を巻く。
企画から五年を要してリゾートシティの第一期建設計画を完工し、ようやく迎えたオープニングセレモニーにはスハルト大統領を始めインドネシアの関係官僚、有力実業家に出席を賜った。
東南アジアを中心とする政治家、大物華僑、日本の関係企業及び金融機関のトップを招いて延々粛々たる祝辞の挨拶を賜った。そして、当初の設計図を完全に実現するまでには更に五年を要したのであった。
募集開始と同時に米欧の裕福な年金生活者や退役軍人たちが、リビエラやフロリダの家を売り払って妻を連れてリゾートシティにやって来た。アラブやインドやイスラムのスルタンや各国の王族貴族が避暑と避寒に集まって来た。
世界の金融機関が金の流れに目を付けて、ホテルやマンションの一角に事務所を構えた。ラジオ局やテレビ局が開設されて、ファッションショーやラグジュアリーな宝飾展が煌びやかに報じられ、各国のマスコミを騒がせた。
セレブの懐を狙ってプロの詐欺師や犯罪者たちが集まって来た。しかし、リゾートシティの防犯体制はFBIもスコットランドヤードも度肝を抜かれる程に鉄壁だった。
毒を以って毒を制するが如く、華僑の裏の闇組織を蜘蛛の巣のように二重三重に張り巡らせて、罪を犯した者は決して島から抜け出すことは許されない。誰の眼にも触れることなく、警察に代わって闇から闇へと葬られて消えて行く。
リゾートシティの施設は計画通り充実し、運営も順風満帆に推移する中で、更なる名声とプレステージを高める為に、趣向を凝らした洋上のイベントが試みられた。中でも五右衛門は、『ゴエモンカップ6000海峡ヨットレース』に特別の思いを込めて予算と時間を注いで取り組んだ。
世界に名立たるブランドメーカーや国際企業を回ってスポンサーシップを掻き集め、タイム誌やニューズウイーク誌などの国際媒体にフルページの広告を掲載した。
外務省やインドネシア政府の協賛も得て、毎年八月三日、錦川五右衛門の誕生日にヨットレースは開催された。
嵐が来ようが津波が押し寄せようが、決して中止される事も延期される事もない。レースに参加を希望するヨットチームは、事前にレジストレーションを済ませて帆にゼッケンを縫い付け、希望するヨットハーバーに出発の準備を整えて集合する。
日本の江ノ島、インドのボンベイ(ムンバイ)、オーストラリアのシドニーのうち、どの出発ルートを選んでも、各港からリゾートシティまでの距離は概ね6000キロメートルである。
どのように気象が変化しても、どんなアクシデントがあろうとも、最初にシティのハーバーに到着したチームが勝利者として、リゾートシティのハーバー永久係留権と別荘一戸を獲得できるというサバイバルレースであった。
帆走航路としては、シドニーからオーストラリア大陸の東海岸を迂回して島々の細い海峡を抜けて走るよりも、相模湾の江ノ島から一直線に南下して南シナ海を抜けてジャワ海に入るか、ボンベイから東方に直進してマラッカ海峡を抜ける方が風の向きを変えることなく有利であったが、八月初旬といえば東シナ海やインド洋上に台風や津波が発生し易い季節である。
第一回、第二回ともフィリピンやマレーシアの港に避難して棄権したチームが続出し、いずれもシドニーから出発したチームが優勝していたので、日本や欧州のチームがシドニーでレジストレーションを行うケースも多かった。
従って、レース開催当日は島の空に派手に花火が打上げられて、リゾートシティ中がサンバのリズムやお祭り騒ぎの熱気に覆われるのだが、肝心のヨットの姿は何処にも見当たらないのである。
ー鰐淵源之助と敬子ー
鰐淵源之助と敬子夫妻は日本人ヨットマンとして、あくまでも日本からの出発にこだわった。
学生時代のヨット部で親しかった二人の同僚と資金を出し合い、スウェーデン製クルーザー・タイプ、全長三十八フィートのヨットを共有して、白塗りの舷側にVampire(バンパイア号)と鮮やかな赤紫色で船名を塗装していた。
これまでに何度も一緒に外洋レースを経験してきた二人の同僚も、江ノ島からの出発に依存は無かった。
一九九六年、八月三日、いつもは静まり返って人気の無い早朝のヨットハーバーに、真っ黒に海焼けしたヨットマンたちが黄色や白のウインドブレーカーを羽織って朝靄の中をせわしそうに動き回っていた。
「いよいよだな」
友部が言った。
「ああ」
鰐淵源之助がそっけなく応じた。
「吸うかい?」
黒川がフィリップ・モーリスの箱を指でポンと弾いて差し出した。飛び出したフィルターを指先で一本摘まんで抜き取った源之助が、口に銜えると同時にジッポーの炎を深く吸い込むと、いつになく高揚した声で呟いた。
「どんな事があってもトロフィーを奪ってやるぜ」
「事務局の発表によると、江ノ島から八艇、ボンベイから十六艇、シドニーから三十五艇だそうだ。日本人チームが五艇もシドニーから出発しやがる。アメリカ人チームが三艇も江ノ島から出発するっていうのにさ」
友部が思い切り紫煙を空に吹き上げて言った。
「台風が恐いのさ。根性無しの連中に勝ちは譲らねえよ。気象予報に変化は無いんだろ」
「ああ、フィリピン沖に小さな熱帯性低気圧があるだけだ。影響は無いよ。ちっぽけな台風なら歓迎だよ。それより恐いのは無風の凪に遭遇することだ」
「そうだな」
「アルコールの量は足りるかなあ。もう少し買込んでおいた方が良いんじゃないかなあ。ええ、おい」
黒川がどちらに言うとも無く不満げな顔で呟いた。
「お前、いつも肝腎な時に泥酔しているから頼りにならないんじゃないか。今回は死ぬ気でトロフィーを奪いに行くんだから、絶対に深酒はさせないぞ。あれだけ積み込めば充分だろうよ」
友部が怒りを込めた素振りで言い放った。
「だってさあ、アルコールが抜けるとどうにも力が入らなくてさあ、眼がかすんで指が震えて北と南が分かんなくなるんだよ。だからさあ、ビールくらいあと一ケース補充しないかよう」
「ビールより飲料水の補充が先だよ。ビールの重みでヨットのスピードが落ちたらどうするんだよ」
「何言ってるんだよ。俺達のヨットは参加チーム最大級の三十八フィートもあるんだぜ。マストだって帆だって特大だぜ。しかも少数精鋭の四人クルーで走らせるんだ。エネルギーが切れたらどうするんだよ」
友部を見詰めて恨めしそうに黒川が愚痴った。
「食事が出来たわよ。運んでちょうだい」
艇内のキッチンから敬子が後部デッキの三人に声を掛けた。フレンチトーストの横にバター炒めのホウレン草を盛られた皿と、アメリカン・コーヒーのカップを敬子から交互に受け取った三人は、再びデッキに座って湾内の漣に揺られながら、レースの進攻に思いを馳せて黙々とフォークを動かした。
源之助はトーストをゆっくり咀嚼しながら、目的地までの航路を脳裏に描いて既に百一回目のトレースを行っていた。
たくさんの貨物船やタンカーと擦れ違う。風の向きや潮の流れが思い掛けなく変化する。海峡の水路はジグザグだから気を抜けない。南シナ海を通過する台風の長期予測まではできない。
六千キロの航路を平均五ノットで走行したとしても二十七日を要する。ヨットの速度を計算するのは容易ではない。緊急の際の対応と役割分担。何度もシュミレーションを繰り返しながらトーストをごくりと飲み込んだ。
友部はアメリカン・コーヒーをズズッと啜りながら、準備に怠りがないか、積み忘れはないかを頭の台帳でチェックしていた。
三十四日分の水と食料と医薬品。最大六ノットで帆走していても凪や風向きの変化に対応するうちに速度は落ちる。しかし、平均四ノットを割って三十四日を超えれば棄権するしかない。平均四・五ノット以上で三十日以内に到着できなければ勝ち目はないと計算していた。
太陽光発電装置、無線機、羅針盤、海図などをチェックしながらアメリカン・コーヒーを飲み干した。
黒川はホウレン草をフレンチトーストに挟んで頬張りながら、ビールとウイスキーの配分を心配していた。足りなくなったら近場の港にでも立ち寄って補充すれば良いかと、レースを忘れて不敵な妄想に耽っていた。
そして敬子はレースの勝敗よりも、無事に完走できれば良いと胸の内で祈っていた。リゾート・アイランドで無事の乾杯を出来ますようにと願っていた。
湾内の霧がすっかり晴れると、遮る物のない真夏の陽光がギラギラと輝き始め、ウインドブレーカーに覆われた肌からじわじわと汗が滲み出す。
マスメディアの取材陣やカメラマンに混じって見物の人たちが野次馬となり、にわかに岸壁の周辺は賑わいを増していた。
ピチピチギャルのキャスターが、テレビ局のカメラマンを引き連れて出場チームのヨットを回り、インタビューのマイクを突き出していた。
「すみませーん、一言お願いしまーす。体調は如何ですかー? 勝利の自信はありますかー?」
黄色い声が甲板のクルーに浴びせられ、どのチームからも画一の返事と、いかにも闘志をみなぎらせた表情のVサイン姿がテレビのカメラで映されていた。
「よし、出発するぞ」
源之助の合図で、三人が素早い動作で動き始めた。黒川がアンカーロープを手繰って錨を上げる。友部が発動機のエンジンを始動させる。敬子がティラーを取って進路を定める。
敬子の操舵によって、ヨットはゆっくりと湾の外へと移動する。
バンパイヤ号に続いて参加チームのヨットが次々と動き始めて、八本のマストが湾外のポイントでピタリと止まる。
源之助がメインセールを拡げてブームに結び、バテンを傷付けないようにロープを引いてマストのトップに固定する。
友部と敬子がバウに移動してジブセールを張る。黒川がウインチを巻いてセールの張りを調節する。鮮やかな赤紫色の帆が張られ、ゼッケン番号が翻る。全てのチームの帆が張られ、横一線にカラフルな八艇のヨットが待機した。
正午の時報と同時に号砲が一発轟くと、何十発もの打上げ花火が相模湾の碧空を白い爆煙で覆い隠した。一斉に八艇のヨットは満帆の風を受けて走り始めた。
ー友部ー
友部は青森県と秋田県をまたいで広がる白神山中の、樵の息子として生まれ育った。ラジオもテレビも無かったけれど、満天の星が友だった。
僻村の小学校に入学して音楽の時間に「海は広いな、大きいな……」と歌ったけれど海が何だか分からなかった。
先生から、海は川と同じ水だがしょっぱいと教えられた。海は広くて青いが空の青さとは違うのだと教えられ、なぜ水が青くてしょっぱいのかを知りたくて、海を見たいと憧れた。
お前は樵にならなくても良いから一生懸命勉強をして大学へ行けと、親父に叱咤されて弘前の県立高等学校へ進学した。山奥の自宅から通学できないので弘前の親戚に居候した。
高校一年の夏休み、友人と弘前駅から電車に乗った。川部駅で五能線に乗り換え五所川原を経て鯵ヶ沢駅で下車した。
生まれて初めて海を見た。白神山中の湧水のせせらぎしか知らなかった友部の心臓は、感動に絶句して鼓動が止まった。
空の青よりも碧く、限りも無く豊潤で深遠なコバルトの水が果てもなく続き、空と海の空間が美しい一本の水平線となって重なり視界を閉ざす。その神秘的な神々しさに触れて己の卑小な生きざまを恥じた。
友部は思わず崖を駆け下りると、岩の裂け目に打ち寄せる波の飛沫に手を触れた。暖かい潮の滑りに安らぐ揺籃のまどろみとは裏腹に、じわじわと燃える血潮が野望を求めて猛るように全ての臓腑から吐き出されていった。
グループサウンズが演歌もソウルも凌駕して日本中を風靡していた。ビートルズが武道館を埋め尽くし、ベンチャーズがギターをかき鳴らし、アストロノウツがエレキを弾けば太陽と海とサーフボードが頭の中を駆け巡った。
友部は友人に誘われて駅前の映画館に入った。海の若大将と呼ばれた加山雄三の爽やかに日焼けした笑顔がスクリーン一杯に映し出された。紺碧の洋上に銀色の波頭が煌くヨットのデッキにさりげなく片足を乗せてギターをつま弾いていた。
爽やかなギターの音色と甘い歌声が潮風に乗って空を舞うと、鴎も一夏の恋に頬を染めてしまうのではないかとさえ思われた。
若大将に憧れたのか、海に憧れたのか、体中に痺れが走って胸の鼓動がビンビンと高鳴った時、銀幕を見詰める友部の心は海の若大将になりきっていた。
若大将の指がギターの弦をビャラーンと奏で、振り上げた右手の平でギターの腹をポンと叩く仕草がカッコ良かった。友部も真似て奏でて振り上げた右手の平が、前の座席の坊主頭のサングラスのお兄さんの頭をバチンと叩いた。薄暗い弘前の映画館の中で鼻血と涙を垂らしながら、友部は海の男になろうと心に決めた。
首都、大東京のど真ん中に本拠を置く東都国際大学に入学した友部は迷うこと無くヨット部に直行した。
東北訛りが恥ずかしく、気おくれ気味で引っ込み思案だった友部に、最初に声を掛けてくれたのは同期入部の鰐淵源之助だった。
港区の一等地、白金台で生まれ育った源之助は、無駄な口数は少ないけれども能弁で、先輩に対しても思った事を堂々と主張して飄々としていた。その気骨と男臭さに惹かれて友部と黒川が親しくなった。
尾道出身の黒川は瀬戸内の気候のように温厚で、厭味も無いが主体性も無く、いつも源之助と友部にくっ付いていた。
四年生になって、源之助がヨット部のキャプテンになった。その年の入学式を終えて、一人の女性がマネージャーを希望して入部して来た。
ツンと鼻を尖らせた瓜実の美形に、細身の脚がスラリと伸びた桜田敬子が部室に入って来た時に、友部は一目で恋をした。
白神山地の山奥で山犬の遠吠えと盛りのついた蝙蝠しか知らずに育ち、純情無垢朴訥を重ねて羞恥を合わせたような友部にとって、都会のセンスの溌剌と香る敬子の物怖じのない笑顔が眩し過ぎて、望遠鏡で太陽を直視したような目のくらむ思いであった。
女性のいなかったヨット部が華やいだ。源之助はキャプテンとして、新入生である敬子の面倒を見た。そのうち敬子は源之助の家を訪れるようになった。
仲睦まじくなっていく二人の姿に、友部は遣る瀬のない嫉妬を感じた。あせった。あせるだけでただ見詰めているしかすべは無かった。
訥々として東北訛りがしつこく残る東京弁で、好きだとか、惚れたとか、どの面を下げて言えるだろうか。
ひとたび禁断の言葉を口にして断られたならば、その日限りでお仕舞いとなる。二度と口も利けずに傍にも居られなくなるのが耐えられなくて辛いから、誰にも言えずに切ない思いを歪められた箱に閉じ込めていた。
他人から見れば捻れた愛かもしれないが、友部にとっては一途な愛を貫いていた。だからこそ、敬子が源之助の妻になって十年を経た今でも、恋する思いが変わらないからヨットを共有しているのではないか。
ヨットは一夏だけの遊びではない。枯葉が舞おうが雪が降ろうが、海の男たちは四季を問わずにヨットに集う。一千万円を超えるクルーザー型ヨットを、三人で資金を出し合い共有しないかと源之助から持ち掛けられた時に、友部は喜んで承諾した。
自分を狡獪だとは思わなかった。いや、心の奥底では意地汚く狡猾な惨めさに悲憤していたのかもしれない。未練がましく遣り切れない疚しさに慷慨していたのかもしれない。しかし、そんな事はどうでも良かった。敬子と接していられる時間を得られる事が安寧至福の条件だった。
人倫の道をはずしてはならぬと天の声が囁いた。そんな天などけ飛ばして切り刻んで踏み潰した。それでも友部は歪んだ己の道理の先に、何があるかを知っていた。
知ってはならぬ、妄想してはならぬと闇雲に咎の矛先を逸らしてみても、永遠の邪恋の呪縛をほどけなかった。
ー台風ー
「いい風だな。直角に風を受けている」
正面から風を受けながら、源之助が艇首デッキから振り返って友部に言った。
「ああ、この風が続いてくれればいいんだけどなあ。もうすぐ大東島に差し掛かる」
大きな波のうねりに水平線が見え隠れする。メインセールは真横からの風をはらみ、海面すれすれまでに傾いだ左舷が波切りの飛沫をなめるようにして滑る。
波のうねりと水平線以外に見えるものは何も無い。鴎の舞いも海猫の鳴き声も無い無尽の空に、真赤な太陽だけがギラギラと照りつける。
「もっと強い追い風が来ないかなあ」
友部が言った。
「焦ることは無いさ。下手に追い風に乗ればヒールしてしまう。不安定な走りになるより、このまま横風を受けてアビームの状態で帆走できれば充分さ」
そう言って源之助は口に銜えた両切りのショートピースに、カチンと上蓋を弾いてジッポーの炎を近付けた。
「他のチームの姿がどこにも見えなくなっちまったよ。まさか先を越されたって事はないだろうなあ」
「気にするなって。見えない敵はボンベイとシドニーにもいるんだからさ」
キャビンのデスクに固定されたラジオのスピーカーから、太平洋上に熱帯性低気圧が発生したことを告げる気象予報のアナウンサーの声が流れていた。
北緯五度、東経百六十度、ソロモン諸島の北方千五百キロの沖合いに発生した双子の熱帯性低気圧に台風十六号、十七号と名付けられ、毎時三十キロの速度で西に進んでいることを報じていた。フィリピン沖の太平洋上から北上を始めて、沖縄本島周辺を通過するであろうと予測していた。
その頃にはバンパイア号は、台湾とフィリピン諸島の間に散らばる島々の海峡を抜けて南シナ海に入っている筈だから、そこまでたどり着けば太平洋上の何処で台風が発生しても影響は無いと、源之助は考えながら紫煙を空に吐き出した。
あとは風だけを味方に付けて一直線に南下できれば、他からのチームに決して負けはしないともくろんでいた。
相模湾を出て二週間を過ぎた頃だった。順風に恵まれて南下しつつ、バンパイア号は小さな海峡を抜けた。
南シナ海の熱風を肌に受けながら、ルソン島の沖合いを九ノットの快速で帆走していた時、突然風がピタリと凪いだ。大きなうねりが漣となり、水平線の揺れが静止した。
「おーい、リーチを開こう。メインシートを引いてくれないか」
舵柄を握る敬子の正面に座ってブームを支えていた友部に源之助は声をかけて、微風を少しでも帆に受ける為に艇首のジブタックをグイと引いてジブセールを浅くした。
それでも失速してしまったバンパイア号のメインセールは、死に際の鶏のようにパタリと帆を羽ばたいて息を止めた。
「変ねえ。あんな疾風が急に凪いでしまうなんて」
ラダーを操る敬子が、白いショートパンツから剥き出しの、スラリと細身の脚を放り出すようにしてつぶやいた。
「嘘みたいにベタ凪ぎになっちまったね。時化るより増しだけどさ」
敬子の正面に座り直した友部が応じた。
「後ろのチームに追い着かれちゃうわね、きっと」
「後ろのヨットよりもさあ、シドニーやボンベイのチームが気になるけど、まあいいさ。焦っても仕方がないからさあ、敬子ちゃん、ビールでも飲まないかい」
「そうね、私が持ってくるわ。友部さん、舵をお願いね」
学生時代の友部は敬子に憧れながらも気安く会話を交わすことが出来なかった。都会の華やぎを振りまく敬子の挙動の所作が、絢爛な眩しさとなって友部の侵入を阻んでいた。
話しかけようとしても、言葉の訛りとはにかみに気後れがして、心の内で語りかける言葉でさえもがおずおずと上擦る。うぶでおぼこな少年のように、目を見詰めるだけで頬が火照り、心臓が慄き張り裂けそうに鼓動する。
それでも勇気を振り絞り先輩風を装って敬子に言葉をかけた時、頭の中は津軽三味線じょんがら節の乱れ弾きとなった。ろれつが回らないだけでなく、舌足らずな言葉が思い切り浮いて、意に反してと言うよりも予想通り、白々とした会話にしかならず、しばらくの間は壊れた潜水艦のように海底深く沈んでいた。
ところが源之助と結婚して以来、なぜか不思議に緊張の縛りが解けて、自然と会話が出来るようになっていた。嫉妬と戒めの混濁する感情に、投げ遣りと迷執の思慕が積欝を飛ばして呪縛が解けた。
「おい、何だか様子が変だぜ」
キャビンの中でラジオを聴いていた黒川が顔を覗かせて言った。
「何が変なんだよ?」
友部が問い返した。
「南太平洋で発生した双子の台風なんだけどさあ、十六号は北西に進路を変えて沖縄方面に向かっているそうだ。だけど、同時に発生した十七号の動きが遅く、進路を変えずにそのまま西に進んでいるって言うんだよ。しかも、十七号の規模が停滞している間に大きくなって、九九九.八ヘッドパスカルに最大瞬間風速が毎秒四十四メートルだってさ。ミンダナオ島周辺の港に暴風波浪警報が出されたそうだ。まさかこっちへ抜けて来ないかなあ」
「冗談じゃないよ。そんな台風に揉まれたんじゃあ、どんなヨットだっていちころだよ。だけど変だなあ。そんな台風が来ているのに、どうしてこんなに凪いでいるんだろう」
「だから変だって言うんだよ。嵐の前の静けさじゃないだろうなあ」
「心配無いよ。南太平洋上で発生した台風が、南シナ海に抜けたことなんて今までに一度も無いよ」
黒川と友部の杞憂を源之助が打ち消して続けた。
「むしろ、抜けてくれた方が好都合かもしれないぜ。暴風でも受けなきゃあ帆がはらまないよ。無風の凪より増しってもんだぜ」
「それもそうだけどさあ。南シナ海のど真ん中に入ったら逃げ場が無いぜ」
黒川が不安そうに呟いた。
「黄色いセールが見えてきたぞ。アメリカのチームだ」
バウに立って双眼鏡を覗いていた源之助が叫んだ。やがて、オレンジやブルーのメインセールが二つ、三つと肉眼でも確認できるまでに近付いて来た。
鏡の絨毯が敷かれたように、静まり返った水平線に雲が動く。マラッカ海峡を通過して来たのか超大型のタンカーが、クルードオイルを満載にして海面下に吃水線を沈めて航行して行く。
「さてと、今のうちに食事の支度をしようかな」
敬子はキャビンに入り、揺れの止まったギャレーに立って野菜や缶詰を取り出した。黒川は入れ替わりにウイスキーのボトルを持ってデッキに出た。
そうして二日間、凪のような微風に帆は垂れ下がり、潮の流れに任せて進んでいるのか後退しているのかコンパスを見詰めて源之助はいらついていた。
友部は後部デッキに座って缶ビールを片手に、少しの手応えも感じない舵柄を片手で握っていた。黒川は久しぶりに新鮮な刺身でも食おうと言って、釣り糸を垂らしてウイスキーを口飲みで呷っていた。
三日目の朝、キャビンのベッドの小さな丸窓に、チャプコン、チャプコンと打ち寄せる波の音を聞いて源之助は眼を覚ました。風が出てきたのだ。源之助は急いでベッドを抜け出した。
煙草を銜えてデッキに出ると、徹夜で舵を取っていた黒川のそばで、友部がじっと立ち尽くして空を見上げていた。
漆黒の空に星は無い。腕時計を見ると既に午前五時を回っている。それなのに早暁の兆しは無く、空一面に覆い被さる黒雲が東から西へと速い気流に乗って流されていた。
「風が出てきたようだなあ」
ジッポーの上蓋をコチンと鳴らし、口に銜えたショートピースに火を付けながら源之助が二人に声をかけた。
「上空で強い風が吹き始めている」
空を見上げたまま友部が答えた。
「すごい水気を含んだ熱風だよ。風の流れがどうも不安定でさあ、ラダーがピクピク反応して定まらないんだよ。夜中になって雲が流され始めてさあ、入道雲がいつの間にか曇天の黒雲になっちまったよ」
黒川が睡魔をまぎらすように、しきりに瞼を擦りながらつぶやいた。
水平線に白い光芒が蛤の口元のように輝き始め、闇の薄絹に覆われていた東方の海面がほのかに碧い色彩を取り戻す。
キャビンからインスタント・コーヒーの香りを漂わせて敬子が顔を覗かせた。
「黒川さん、ご苦労さま。眠気覚ましにコーヒーはいかが?」
「うん、ありがとう。敬子ちゃん、舵を代わってもらえるかい?」
黒川は言って、返事を待たずに舵柄を放り出してキャビンに入った。
「すごい空模様だわね。嵐の前触れみたいな不気味さだわ」
そう言って敬子は後部デッキに座って舵柄を握った。ラダーに海流の反応を強く感じて思わず舵柄をしっかりと握り直した。
しばらくしてキャビンの中から黒川の大声が聞こえた。
「おーい、事務局から無線が入ったぞ。台風十七号がフィリピンのミンダナオ島に上陸して大暴れしているそうだ。思わぬ上陸にかなりの被害が出ているそうだ。風速四十メートルの勢いを保ったままフィリピン諸島に沿って台湾方面に北上すると思われるが、そのまま進路を変えずに南シナ海を横切り、海南島かベトナム方面へ向かうことも予測されるので、充分に注意をするようにと言ってるぞ」
「何だって? そのまま西に向かえば俺たちのヨットに直撃じゃないか」
友部が不安そうに振り向いて言うと、源之助はニヤリと笑って言い返した。
「ウェルカムだぜ。この二日分の遅れを取り戻すには好都合じゃないか。これまでの事務局からの連絡によると、ボンベイ発の先頭チームはインド洋を快走し、既にスマトラ沖まで到達している。シドニー発のチームは一団となって東海岸を回りきり、アラフラ海へ入ろうとしている。このままヨタヨタ走っていたんじゃあ、俺たちの勝ち目は薄い。十七号の風の勢いを少しでも味方に付けて、一気にボルネオ沖まで突っ走ろうじゃないか」
「だけど、万が一にも十七号が北上せずに南シナ海へ向かって来たら、俺たちのヨットは完全に逃げ場を失ってしまう。せめて大陸沿いにヨットを寄せて走らせるべきだと思うけどなあ。海南島からサイゴンまで沿岸を走り、それからリゾートアイランドまで一直線に進路を取る方が安全だし、勝利の可能性も充分残されている」
「駄目だ! 三角形の二辺を走ることになる。致命的なロスだよ。大丈夫だよ友部、十七号が直撃することは有り得ない。必ず北上する。だから十七号が逃げて行かないうちに満帆の風を受けて走るんだ」
「源之助さん、私は友部さんの意見に賛成だわよ。見てごらんなさいよ、満天の雷雲を。台風の前触れだわよ。台風に呑まれてしまったら、こんなヨットなんか忽ち大波に巻き込まれて沈んでしまうわよ。事務局だって十七号の進路を予測仕切れないから、注意を促してきたんでしょう。やめましょうよ、危険な賭けは」
敬子は不安な表情を強張らせて源之助に突っ掛かった。
「どうしてそんなに弱気になるんだい。今までにこんな黒雲なんか何度も見てきたじゃないか。賭けじゃないんだ、確率なんだ。ソロモン沖で発生した熱帯性低気圧は必ずフィリピン沖を北上している。双子の台風十六号の影響で少しだけ方向が逸れてミンダナオ島に上陸しただけさ。大陸の高気圧に押されてそのまま北上する確率は百パーセントだと言い切れる。台風の追い風を受けて帆走するチャンスなんて二度と無いぜ。強風を受けて十五ノット以上の速度で帆走できれば、ボルネオ島沖まであっというまに着いてしまう。勝利の女神がニッコリ微笑んで、俺たちに栄光のチャンスを与えてくれたんだよ。どうだい、そうは思わないか?」
源之助の覇気に気圧されて、三人は顔を見合わせるだけで返す言葉を失っていた。
翌日になると風に雨が伴った。強さを増した突風が唸りを上げて上空の黒雲を攪乱し、大粒の雨滴がマストや甲板を激しく叩き始めた。
波頭の飛沫は白濁した水泡の群となり、熱風に煽られて海面を飛び跳ねる。分厚い黒雲に太陽の光は閉ざされて、バンパイア号は羅針盤だけを頼りに漆黒の海を突っ走る。大きく傾いだデッキの左舷は海面に沈みながら飛沫を切り裂き、海水が艇内にあふれ始めた。
尋常ならざる低気圧の風に乗って暴走する艇の速度は確実に十五ノットを越えている、いや、二十ノットを超えているかもしれないと友部は思って身震いをした。
恐らくこれまでに誰も体験したことのないであろう凄まじいスピード感に、痺れるような快感と死神を背負ったような恐怖を覚えた。
夕刻になると風の勢いは更に増し、波の飛沫は白濁の塊となって吹き上げられて視界を閉ざし、激しい雨が体中を鞭打つように打ちつける。
「源之助、もう限界だぞ。これ以上の帆走は危険だ」
友部が大声で叫んだ。
「よし、セールを下ろそう」
源之助が立ち上がろうとしてよろめいた。大きなうねりに乗り上げたヨットの艇首が天を仰いで、ワイヤーを掴もうとした源之助が思わず仰け反った。
ドンと音を立ててバウが波頭を叩き、舵に掛かる流圧の激しい反動を受けて、舵柄を握る敬子の身体が跳ね飛ばされた。
「敬子、キャビンに入っていろ。黒川、舵を頼む。友部、メインセールを下ろしてくれ。俺はジブセールを片付ける」
源之助は大声で叫んで指示を与えると、自分はマストとワイヤーを掴みながら艇首に向かった。
「源之助、マストの命綱にベルトのフックを掛けろ。危険だぞ」
友部が叫んだ。
「大丈夫だ。ライフジャケットを着けている。早く帆を下ろさないと裂けてしまう。急いでくれ」
友部は全身びしょ濡れになりながらメインセールを下ろしてブームに巻き付け、暴れ回ろうとするブームの先端をワイヤーでしっかり固定した。
操舵する黒川がティラーを握り締めて狼狽えた。波のうねりが旋回するように捻れ始めて、思い掛けない力がラダーに加わり艇の方向が定まらない。
波に乗れないぞ。横波にさらわれる。黒川の背筋に怖気が走った。
黒川は舷側に足を踏ん張り、ティラーに胸を押し当てるようにして全体重を押し付けた。容赦の無い雨粒が瞼を叩く。前も見えず、後ろも見えない。
打ち寄せる飛沫と水泡の狭間に、うねりの方向を必死の思いで見定める。凄まじいローリングに裸のマストが弧を描き、ブームがワイヤーを引き千切ろうとしてビシビシと暴れる。
逆巻くうねりが船底に突き出たセンターボードを弄び、攪乱された流圧に絡まれたラダーに制御が利かず、黒川の体が操り人形のように振り回される。
巻きつけられたメインセールに降りしきる雨滴の飛沫を弾かせながら、ガシガシと暴れるブームの先端が、足を滑らせてつんのめった友部の後頭部を打ち付けた。その時、艇首デッキでジブセールを片付けていた源之助が艇の横揺れに体勢を崩して強風に煽られた。
「あっ」と叫ぶ声を聞いて、友部は後頭部を押さえながらも艇首甲板でよろける源之助の姿を視野に捉えた。
重心を失った源之助がワイヤーに手を伸ばしていたが、すでに動作は空を切り、激しい暴風雨の餌食となって正に荒れ狂う大波にさらわれようとしていた。
とっさに、命綱をマストに結わえていた友部は、思い切り甲板をけ飛ばして源之助の身体に跳び付いた。
とぐろを巻いたうねりの捕縛に半身を奪われながらも必死で差し出す源之助の左手首を、差し伸ばした友部の右手がハッシと掴んだ。源之助の体重がうねりの力に引き摺られ、一体となった友部の腰の命綱がピシリとしなってベルトが臓腑をグイッと締め付けた。
友部の右腕を雨滴が洗う。雨滴に覆われた甲板の上で俯せの身体が左右に滑る。大波に絡みつかれた源之助の体が、艇の横揺れに翻弄されて舷側に打ち付けられまた沈む。
呼吸を整え腹筋に力を込めて、源之助の手首を引き寄せようとしたその刹那、黒雲を切り裂く雷光が一閃、轟きわたる雷鳴が天海を揺るがし、友部の気力が萎えて、邪智奸佞の悪魔が友部の耳元で囁いた。己が待っていたのはこの瞬間ではなかったのかと。
手首を放せば源之助の身体は狂波の逆巻く怒涛の海にさらわれて、南シナ海の藻屑となって沈んでしまう。ライフジャケットなど、荒れ狂う海に引き摺り込まれて呼吸を奪われてしまえば何の役にも立つはずもない。
友情の絆とは何だったのか。それは敬子と己とを繋ぎ止めるだけのまやかしの糸ではなかったのか。この世の中に鉄壁の友情なんてありはしない。
女の涙と色香に触れれば、幾千年万年の雪も氷も小川のせせらぎの如くさらりさらりと流れて消える。恋愛もせず、結婚もせず、ヨットだけが生き甲斐だよとうそぶいて生きてきた。そのけじめの時を待ち続けていた。
己の心を取り戻せ。白神の山奥の田舎者が、一生に一度みそめた女を諦め切れずにいじけた人生を送り続けた。もう許されるだろう。もう辛抱することはないだろう。愛を掴め! その手を放せ! 女を奪え!
駄目だ! 人の命を己の欲望の天秤に掛けることなど出来るものか。命を賭しても守るべきもの、それが友情だと信じて生きてきた。
源之助は欲も穢れも無い心で、田舎者の自分を最初の友として選んでくれた。互いに海を愛し、智恵を分け合い、笑い、悲しみ、友として、強い信頼を紡いできた。だからこそ、敬子との結婚も祝福できた。
真の友を裏切ることは、己の心を裏切ることに等しい。神を冒瀆し心を穢し、正義人道を踏み外した魂は阿鼻叫喚の地獄へ落ちる。
己はそうやって負け犬の人生を送ってきたのだ。野鼠に小便を引っ掛けられた土竜のような人生かもしれぬ。友とは誰の為に存在するのか、何の為に必要なのか。己が生きる為の糧として、つっかい棒として必要ならば、邪魔になった時に消さねばならぬ。
この世の中に真の善人などいやしない。正義にへつらい正道を装い偽善の仮面を被っているだけだ。パンドラの箱が覆されたこの世の中で、そのとき好きな感情を一つ選べば良いのだ。
一度見逃した運は、一度掴み損ねた幸せは、二度と巡っては来ないのだぞ。運命の基軸はそこを基点に回り始める。
神が居るなら、仏が居るなら、何処に居るのか教えてくれよ。天にも地にもそんな者など居やしない。居ると言うなら、何処に居るのか教えてくれよ。
突如、稲妻が轟き天が裂けた。雷光の煌めきが手首を射ると、源之助の身体は一瞬にしてうねりにさらわれ波間に消えた。
友部は激しい嘔吐を催し胃液を吐いた。友部の右の手の平から真赤な血の流れる暖かい鼓動が消えた。頬を濡らしているのが雨滴なのか涙なのか分からなかった。甲板に糸を引く胃の粘液は打ち寄せる波頭に洗われて、涙と一緒に流されていく。
裸のマストは弧を描き、ローリングを繰り返しながらバンパイア号は、熱帯の洋上を木の葉のように浮いては沈み嵐の中を漂った。
台風十七号はミンダナオ島を通過して南シナ海に出ると北方に進路を変えて、ルソン島から中国沿岸をかすめて北上した。
洋上で発見された源之助の遺体はヘリでマニラに運ばれた後、東京へ空輸されて自宅に運ばれた。悲嘆に呉れて自失する敬子に代わって友部が葬儀の一切を取り仕切り、親族と共に通夜と告別式に付き添った。
敬子は、初七日の法要を済ませてようやく夫の死を現実の事態として受け入れられた。落ち着きを取り戻した敬子は、いきなり迫り来る生活の不安に戸惑いを覚えた。
会社勤めを辞めて以来の十数年間、何の資格も技術も持たない自分が、ただ年齢を重ねただけであることに気付いてたじろいだ。そんな時に、友部の如才無いアドバイスや親切がことさら嬉しく身に沁みた。
幾許かの蓄えでもあるのなら、鋭気を養うために暫く静養したらどうかと勧めてくれた。更に友部は、敬子に残されたマンションに重く伸し掛かる住宅ローンの支払いを、当分肩代わりしても良いと申し出てくれた。
身内でもない人間が、夫の友人という理由だけでそこまで尽くしてくれる友部の心情にほだされて、四十九日の法要を無事勤め終えた頃には親しく食事を共にするようになっていた。
友部は決してあせらなかった。女心の扱いに不得手な友部にとって、待つ事だけが戦術だった。これまで何年も待ち続けてきた。あきらめかけていたその獲物が、今こそ手中に収まろうとしている。
敬子が源之助と結ばれる事を知った時、心臓がぶっちぎれる程に苦悶した。源之助に敬子を奪われた恥辱に苦悶した訳ではない。自分の思いを、マグマのように燃え盛る愛の火焔を、敬子に告白できなかった己の卑小な精根を、死ぬほどまでに卑しみ、悶え苦しみ、自虐した。
世に悲恋の沙汰は多くあれども、すべからく時の流れが癒してくれると先達はのたもうているけれど、友部は敬子との恋が破綻したとは考えていなかった。敬子への恋慕を伝えることが出来ないままに、ひたすら時が行き過ぎてしまったものと認識していた。
だから待ち続けていたに過ぎないのだ。それだけ心の犠牲を負っているのだから、時を経て、多少は世の中を知り、男女の情も道理も矛盾もわきまえられる年齢になり、今度こそは決して逃してはならないと冷然たる戒めが働いていた。
執拗に追い回せば獲物は逃げる。素知らぬ構えで餌をちらつかせれば隙を見せる。傷付いた獣でも情を施せば恩を返す。
仕掛けた罠に獲物を呼び込み、蹣跚とよろめく弱みに付け込み呪縛の果てに絡めるまでは、あせらず油断せずじっくり待つこと、それが友部の生きざまだった。
四十九日の喪が明けて一週間が過ぎた頃、一通の封書が敬子宛に送付されてきた。裏を返して差出人を見ると、ゴエモンアイランド・リゾートシティ総支配人、錦川五右衛門と記されていた。
リゾートシティ主催のゴエモンカップ6000海峡ヨットレース事務局からは、すでに多額の見舞金と保険金を受け取っていた。今頃何用だろうかと、敬子はいぶかりながら封を開いた。
鰐淵敬子様
前略 この度のご不幸を心より深くお悔やみ申し上げます。止め処の無い落涙のうちにも四十九日の法要を滞りなく営まれたものと推察致し、一筆啓上させて頂きました。
海を愛し、ヨットを慈しみ、暴風の荒海と勇猛果敢に戦って、非業の死を遂げられた源之助殿に敬意と哀悼の意を表します。お内儀様に於かれましては断腸の思いに、無念の日々を過ごされておられる事とお察し申し上げます。
さて、私もまた、果てしもなく広がる紺碧の海を愛し、畏れ、挑み、戦う者であります。
嵐の際に座礁して大破したバンパイア号が源之助殿の遺愛のヨットであったと聞き及び、廃船焼却処分にするには忍び難く、私が個人的に引き取りまして、修理復元することに致しました。
デッキも内装も最高級の資材を使い、新生ヨットにゴエモン号と命名します。来月の末には再びジャワの大海に浮かべ、満帆の風を受けて走らせる予定でございます。
つきましては、敬子殿にもリゾートシティに御出でを願い、源之助殿と育まれた嬉しき日々の思い出を偲び、癒し、そして決別の時を過ごして頂くと共に、是非とも新生ゴエモン号に試乗して頂きたくご招待申し上げる所存であります。
なお、渡航、滞在諸経費一切のお気遣い無く、ただ出発の日取りのみをご連絡頂きたくお願い申し上げます。来月の末までにお会いできます事を、今より楽しみにお待ち申し上げます。
秋冷の候にて、悪い風邪など召されませぬよう、御身ご自愛の程、御留意下さい。
錦川五右衛門
敬子は友部と黒川に連絡を取り、せっかくの招待だから三人で一緒に行かないかと誘って手紙を見せた。
浮き足立ってその気になる黒川を友部はいさめた。招待者がリゾートシティではなく錦川五右衛門個人であること、招待されているのが敬子一人であることを、冷静に指摘して友部は同行を辞退した。
「どうして俺たちも招待してくれないのかなあ」と、黒川が不満げにつぶやいた。
リゾートシティは大破したバンパイア号を破格の金額で買い取ってくれた。充分過ぎる分配金を友部も黒川も受領した。それで確かにバンパイア号とは縁が切れた。
だが、修復不可能と思われたバンパイア号にわざわざ大金を投じて新生し、ゴエモン号と命名して敬子だけを招待する行為にしこりが残り、よりどころの無い不快感を友部は抱いた。
数日後、敬子宛にゴエモンアイランド・リゾートシティから正式な招待状がエアメールで送付され、ガルーダ航空ファーストクラスのチケットが一枚同封されていた。
インドネシアの守護神ガルーダは、敬子を乗せてジャカルタへ飛んだ。ジャカルタからアイランド行き小型専用機に乗り換えて、蒼穹の機窓から顔を覗かせて見下ろすと、源之助と共にバンパイア号で帆走していたはずの紺碧のジャワ海が、静かに嫋やかに眼下に広がる。蒼茫たる大鏡面に、源之助のたくましく日焼けした笑顔が浮かび上がる。
小型専用機の車輪がキュルキュルンと軽い悲鳴を上げてアイランドの小さな滑走路にランディングすると、両手を振って待ち構えていた一人の男の前でピタリと停まった。
小さなタラップを降りる敬子に近付いた男は、慇懃な物腰で弔辞の言葉を並べ立て、錦川五右衛門ですと名乗ってニコリと笑った。
可憐な瞳と獣の黒目が出会ったその衝撃に、キラリと輝く七つの星がバチンとはじけて火花が飛ぶのを五右衛門は見た。
三十路の峠をとうに越しているはずの敬子の容姿は、写真で見るより美しかった。萌えて麗しい熟年の色香が若き艶肌を凌駕して、恋慕愛欲の炎に萎えた自制の楔もタガを外した。
五右衛門はモーターボートに敬子を乗せて運河を走った。南洋の樹木が茂る人工のフローティング・コテージの集落を抜けると、高層のホテルやカラフルな商店の建ち並ぶ賑やかなシティの中心部に出る。
五十メートル道路のように広々と交差する運河を、乗り合い船や貨物を積載したボートが行き来する。運河を抜けて外洋に出ると、見事に整備されたヨットハーバーが姿を現す。
何本ものマストが林立する中を、五右衛門が指差す先にアイボリーホワイトに塗装されたクルーザータイプのヨットが見えた。
遠目に見てもはっきり読み取れる大きな赤文字でGOEMONと舷側に記されていた。モーターボートがヨットへ近付くに連れて、華麗に新装された艇の全容が確認できた。
マストもデッキもコンパスも、何もかもが新装されて、艇長六十フィートにも巨大になったヨットにはバンパイア号の面影は無い。源之助や自分たちの、匂いの残るものも何も無い。
キャビンの中は豪奢なアンティーク調に装飾が施され、中央のテーブルを挟めば二十余名の立食パーティーが何時でも催せるのではないかと思われた。
敬子は毎夜、五右衛門に招かれホテルのレストランで晩餐を共にした。ロブスターやムール貝や深海魚のムニエルなどを思う存分堪能した。
話題の尽きない五右衛門の話術は巧みで、敬子との会話を退屈させることはなかった。
そうしたある晩のこと、ドンペリのシャンパンを敬子のグラスに注ぎながら五右衛門は言った。
「敬子さん、貴女には爽涼に澄み渡った紺碧の空と、太陽に輝く碧瑠璃の海とが良く似合う。花粉と排気ガスにまみれて淀んだ東京の空気は、貴女の清らかな心と美貌をけがしてしまう。このシティには、世界中のブランドが揃っています。アミューズメントもアドベンチャーもあります。リッチな食事と酒とコミュニケーションがあります。そして何より、美しい空と海があります。決して貴女を退屈させることは無いでしょう。どうですか敬子さん。ここで暮らしませんか。もうすぐシティに新しいホテルが完成します。僕は貴女にそのホテルの支配人をお願いしたいと考えているのですよ。東京のマンションは僕が買い取りましょう。いえいえ、ご心配は無用です。僕の本業は不動産業ですから」
敬子の心は大きく揺らいだ。東京に戻って残されているのは僅かな貯金と、二十年余まで継続する住宅ローンの身震いするような重い残額だけである。
生きて行く為には職を見付けて働き続けなければならない。三十路どころか四十の峠を越してビジネスのビの字も忘れた出戻り女が、丸の内の洒落たオフィスでキャリアウーマンを気取る事など出来はしない。せいぜい保険の外交か、デパ地下食品売り場のアルバイトか、スーパーのレジを叩く年増の女という現実を想像すると、気が滅入るどころか気が狂う。
そんな敬子の腹の内を見透かしたように、五右衛門はニッコリ微笑んで追い討ちをかけた。
「敬子さんに是非受け取って頂きたいプレゼントがあるのですよ。僕はね、敬子さんに最もふさわしい装飾品は、百カラットのダイヤモンドでも黒蝶真珠のネックレスでもないと思っていますよ。そんな石ころや貝殻よりも、敬子さん自身の輝きが何よりも素晴らしく煌いているからですよ。ゴエモン号のメインセールの色を、敬子さんの大好きなパープルカラーに変えました。それから舷側に書かれていたGOEMONの赤文字を消して、Mademoiselle KEIKOと鮮やかな紫で塗り替えました。あのヨットはもう僕の物ではありません。エメラルドのように碧い海の似合う敬子さんに受け取って欲しいのです。艇のメンテナンスはハーバー内のドックで何時でも出来ます。バリでもハノイでもシンガポールでも、熱帯の大海原の涼風を受けて自由に帆走して行けますよ。リゾートシティには海の仲間がたくさんいますからねえ」
素直に喜ぶ敬子の笑顔が眩しいと五右衛門は思った。小便臭いカマトト振りを、若さの特権と勘違いする青臭いコギャルには望みようもない理智的な凛々しさと、媚びをひそめた可憐な羞恥に新鮮なときめきを覚えていた。
敬子と一緒に東京へ戻った五右衛門は、源之助名義のマンションを買い取り、銀行にローンの残額を支払った。
各部屋の小物を整理して掃除を済ませる敬子に、家財はいつでも使用できるように、そのままにしておけば良いではないかと五右衛門は言って、あっけに取られて見詰める敬子に合鍵を手渡した。
そそくさと身辺の整理を終えた敬子はふと思い付いて、友部に報告の電話を入れた。ずっと帰りを待っていた友部は、久し振りに敬子の声を聞いて心が浮いた。
友部は受話器を鼓膜に押し当てて、訥々と語る敬子の話を黙って聞いていた。話の成り行きが佳境に入るにつれて、友部の心臓は千万ボルトの熱を帯びていきり立つ。
絶望の冷気がトルネードの嵐となって中枢神経を駆け巡り、非情の怒りが凄まじい震えとなって襲い掛かった。ブルブルとブルブルと臓腑が暴れ、受話器を持つ手が震えてきた。
敬子の話を聞き終えた友部は、すぐに会いたいと一言だけ告げて受話器を置くと、破裂しそうな胸の鼓動と脚の震えを引きずりながら敬子のマンションを訪れた。
その男のことを、私たちと同じように海を愛する心清らかな人だと敬子は言った。その親切を拒絶する理由はどこにもないと言って微笑んだ。自分に残された第二の人生を、南海のアイランドで試してみたいと敬子はきっぱり言い切った。
顔面を蒼白にして、友部は身じろぎもせずに聞き入った。語られる言葉の一語一語を篩いに掛けて吟味して、敬子の真意を推し量り、自分の付け入る隙があるのか、翻意の余地が有り得ないのかを必死の思いでうかがう内に、ただ一つの結論を導き出した。
源之助の急逝によって、敬子は思いがけなく生計の不安に直面してしまった。窮状を察したその男は、牝馬の眼前に人参を吊るして操るように、悪銭をちらつかせて敬子の身体をもてあそぼうと企んでいるに違いない。
その男は、他国の洋上に浮かぶ孤島を手に入れて、壮大なリゾートシティを開発できるだけの金と力を持っている。その金で、ダイヤモンドの刻まれた金時計やフェラーリさえも簡単に買い求めるように、敬子という仮初めの恋人を手に入れようとしているに違いないのだ。
その男が、通りすがりの未亡人を誠心誠意いつくしむことなど出来るものか。心から女を愛せるはずなど無いのだ。
敬子も本当は気付いているに違いない。目の前に立ちふさがる障壁から逃避する心のよりどころを求めて、男の甘言に乗じているに過ぎないことを。
敬子がそんな男に好意を持っているはずがない。その男との間に愛のかけらもあるはずがない。あるはずがないと、友部はかたくなに自分に言い聞かせた。
許せない。絶対に許せないと、友部の臓腑は煮えくり返った。そもそも敬子を窮地に追い込んだ原因は、その男の主催する外洋ヨットレースではなかったか。そのヨットレースで自分は友を裏切ったのだ。断腸の思いで親友を捨てたのだ。苦しみ続け、悶え続けた苦節の二十年、これ以上道化師を演じ続けることなど耐えられない。
その男を消さねばならない。その男さえ消えてしまえば機軸は戻り、敬子の浮いた心も平静になる。敬子があの男の島へ旅立つ前に消さなければ、二度と敬子は自分の前に戻っては来ないのだと苦悶して、永遠に自分の女にはならないのだと焦燥を極めて決意を固めた。
自宅に戻った友部は、ヨットのギャレーで包丁代わりに使っていたサバイバルナイフを懐に忍ばせて、敬子の話にたびたび出てきた麻布十番のマンションへ向かった。
エレベーターで最上階へ上がると一番奥側のドアが開け放たれて、ニシキ・リアルエステートと書かれた表札の横に、ゴエモンアイランド・リゾートシティと書かれた表札が並んでいた。
部屋の内を覗き込んだが人の気配が感じられない。足音を忍ばせて奥へ入ると豪華な木製の大机が据えられ、そのガラス越しのベランダにあの男が背を向けて、タバコの煙を麻布の空に向けて吹き上げていた。
友部は靴を脱いで音を忍ばせ、息を殺してベランダに出た。男がハッと気付いて振り向くと同時に、友部のナイフが一閃して男の喉を切り裂いた。
のけぞる男の両脚を持ち上げ、頭から真っ逆さまにベランダの外へ放り出した。
ー神の審問ー
「それで被告は死んだのか?」
シヴァ神が被告席の五右衛門に問い質された。
「違うよ」
五右衛門が答えた。
「何で違うのだ。最上階のベランダから真っ逆さまに突き落とされても、死なずに済んだと言うのか、喉まで掻き切られて」
「あの男は俺じゃねえよ。秘書の権兵衛じゃねえか。気の毒なことをしたよなあ」
「何で権兵衛が五右衛門の部屋にいたのだ。不自然ではないか。お前が死んだから此処に居るのであろうが。いい加減な事を言っていると地獄行きだぞ」
「どこが不自然なんだよ。秘書がベランダでタバコを吸ってちゃいけねえのかよ。第一考えてみろ、くたばった年代が違うじゃねえか。今から十年以上も前の出来事だぜ。手元のカルテに俺の年齢が記入されてんじゃないのかよ、あん」
「何だ、その言い草は。被告のくせに審判官の神経を逆撫でするような口を利くなよ。カルテに死刑と書き込んでやろうか」
「死んだ人間が何で死刑になるんだ。被告をいたぶって好い気になるなよ人工芝」
「人工芝だと、神の名を愚弄しやがって罰当たりが」
「まあまあ落ち着きましょう、シヴァ神」
ヴィシュヌがシヴァをなだめて被告に問いかけた。
「まず智の徳について検証しよう。汝は闇の金貸しや土地の売買など、他人の褌を借りて利鞘を稼ぐような商売に満足できず、大規模なリゾートを開発し、自らが経営するという夢を見た。図らずも南海の孤島を手に入れて、失敗を恐れずリスクに拘泥することもなく、ひたすら努力奔走の暁に夢を叶えた。この所業が智の徳であったか盲目の腐敗であったかを被告に質す。汝が理想として求めたユートピアとは、真に海を慈しみ活力の息吹を与え、あまねく人々に安寧の潤いを与えるものなのかを問うが、如何に」
「活力だか安寧だか知らねえが、そうでなかったら何の為だと言うんだよ」
不貞腐れたようにぶっきらぼうな五右衛門の態度に、業を煮やしたシヴァ神が口をはさんだ。
「分からないのか、無骨者めが。理想の楽園だのリゾートシティだのとまやかしの夢をかたって富裕者を集め、己の利潤だけを追求した欲の皮の突っ張りではなかったかと問うているのだ。己が心に一片のやましさでもあれば有り体に答えよ」
「理不尽な事を言うじゃねえか。事業を起こせば利潤を追求するのは経営者の基本じゃねえか。金の無い貧乏人を集めて一体何が出来ると言うのだ。金持ちに潤いという価値を与えて、その代償を支払わせてやってどこが悪い。その行為が強欲だと言うのなら、世の中の商売は皆いやしいって理屈になるじゃねえか。その利益の上積みから遠慮会釈も無しに口銭を撥ねて偉ぶる役人なんて、欲の塊で生きているって事になるがそうなのかい、あん。脳味噌にしっかり血を巡らせて質問しろよ、人工芝」
「審問の真意は深いのだアホウ。ここは小学校の社会科の授業ではないのだ。誰が商売の原則について聞いておるか。己の心の奥底に潜む本性について問うておるのだ。己が真に求めていたのは人々の幸福ではなく、虚飾と安穏を求めるが為に人間としての生の努めを疎かにした浅はかな業ではなかったのか、心の襞に隠した不浄を露わにせよと糺しておるのだ」
「人の世というのはなあ、おっさん、金が無ければ闇なんだよ。明日の飯も食えずに死んじまうのさ。あなたのそばに居るだけで、お金なんか無くても幸せよとほざいて一緒になった嫁だって、稼ぎが悪くて本当に金が無くなりゃあ、蹴飛ばされて罵倒されて離婚されちまうんだよ。汗水たらして稼ごうが、博打で派手に当てようが、金さえあれば幸せの真似事くらいは出来るのさ。金に心なんかありゃあしねえ。そんな金を稼ぐのに清浄と不浄があるって言うのかい。苦労して起業した親父のレールに乗っかって粋がる二代目の若旦那みたいな奇麗事を言うんじゃねえよ」
「生きる目的と手段を混同するな、愚か者。高邁な精神を持つか、不浄な卑しさを持つかによって生きる目的も欲の質も違うのだ。どうもお前の根性には不浄の腐臭が漂っておる」
「たわけた事を抜かすな人工芝。俺は生きる目的なんか持って生まれて来た訳じゃねえ。ただ、オギャーと泣いて生まれて来ただけだ。それから先は死ぬのが恐くて生き続けてるだけじゃねえか。親の都合で生んでおきながら、後は勝手に自分で生きろってのも冷酷な話だと思わねえかい。手前の都合で生んだのなら死ぬまで面倒見ろってんだ。それが出来ないから自分で勝手に生きてるんじゃねえか。血の汗を流して働いて稼いで生きて来たあげくの果てに、三途の川を渡ってまで余計な説教なんか聞きたかねえや」
「お前はほとほとの馬鹿か。生の起源というものを知らぬ低能児め。地獄の火焔の池で顔を洗って出直して来い」
「何だと人工芝」
「シヴァ神さまと呼べ、ドアホウ」
「まあまあ、そのくらいで良ろしかろう。次に智の盲目について審問をしよう」
ヴィシュヌが双方を制して言葉を続けた。
「被告は正妻を持ちながら三人目となる妾を囲わんとした。これは明らかに智の盲目であるが、清純な欲であるか不純な欲であるかによって減点の基準が異なる。愛欲の帰結について清廉の潔斎や如何に」
「女に惚れて減点とは得心が行かねえぞ。この世の中には男と女しか居ねえんだ。植物だってそうじゃねえか。オシベとメシベがじゃれ合って花を咲かせるし果実も実る。女を囲ってどこが悪いんだ」
ヴィシュヌに代わってガネーシャがとがめた。
「お前の脳味噌には道徳とか倫理とかいう概念は無いのか。人が生きる為には人道があり、女と接する為には人倫がある。節操も見境も無しに金をちらつかせて、女を手当たり次第に手籠めにする事が真の幸せかと問うておるのだ」
「人聞きの悪い事を言うんじゃねえぞ、象みたいな長い鼻をしやがって。俺がいつ手籠めにしたって言うんだ。節操だってある。だからどの女も皆俺に感謝しているじゃねえか。金があるから女を養える。それが男の甲斐性ってもんだ。お前もいっぺん囲ってみろよ、クセになるから」
「その無節操な思い上がりが人類を破滅に追い込むのだ。お前の不純な欲が起因して一人の男が罪を犯し、一人の男が殺された。人の不幸を踏み台に、欲の上に胡坐をかいて純潔を装い女をあさる。観念して本音を語れ」
「あんたねえ、寝言も冗談も糞味噌に言うんじゃないよ。俺は友部という男の顔も知らないし口を利いた事も無い。勝手に勘違いして秘書の権兵衛をベランダから突き落としやがって。そもそも力も根性も無いくせに、往生際の悪い横恋慕でイジイジと惚れた女にまとわり付いたあいつこそ、愛欲の権化と化した醜穢な殺人鬼じゃないか。俺はバンパイア号の座礁を不慮の事故だとは思っちゃいねえ。バンパイア号は台風を恐れず嵐の海を勇猛果敢に突っこんで来た。俺の主催するヨットレースに命を懸けて挑みかかった。その度胸と気迫に感動を覚えたのだ。だから、バンパイア号をレースの象徴とする為に修復し、未亡人となってしまった敬子に施しをしなければ義理が立たぬと考えて、招待状を送付した行為には何の邪心もありはしなかった」
一息呼吸を継いで五右衛門は、怪しげな妖気をはらむガネーシャの瞳から視線をそらさずに言葉を続けた。
「人生は川の流れに運命を託した笹舟のようなものだと思うが、たまたま合流する向こうの川に浮いて流れて来た赤い薔薇の花弁を認め、それを美しいと思った時に男と女の出会いが始まる。俺は敬子の中に真赤な薔薇の匂いを嗅いだのさ。他人の女房だろうが尼さんだろうが、美しいと思った女が赤い薔薇さ。俺はその薔薇に赤い糸を括り付けただけじゃねえか。恋慕愛染の感情に理屈なんぞあるものか。それでも不純だの邪欲だのと小娘の屁みたいな事を言いたいのなら、感情の無いアメーバかミドリムシでも相手に気の済むまで説教してろい」
「真っ赤な薔薇の棘々の絨毯と、淫風不徳の毒牙の雨降るタランチュラの檻地獄に、蟻地獄と火焔地獄も加えとこう」
「やいこら、何を書いてんだ、俺のカルテに」
「さて、そろそろ制限時間になりますので、皆様方の結審に関わるご意見をおまとめ下さい。最後に映像を早送りに致しますので、その後の被告の様子をしばしご確認下さい」
ブラフマーが声をはさんでその場を仕切り、霞のスクリーンが広がった。
ーリゾートシティー
島を取り巻くリゾートシティの居住空間が広がるに従って、犯罪による苦情が居住者から管理本部へ寄せられた。
最初の被害はコテージ内の窃盗だった。カルティエの婦人用腕時計が盗まれた。五右衛門は空港及び港を閉鎖して島外への移動を禁止した。賞金を懸けたら即日、従業員の垂れ込みによって清掃員のポケットから盗品が発見された。島の地下に秘密の小さな刑務所が建設されていた。そこに犯罪者は幽閉された。
次に発生した犯罪は誘拐だった。十五歳の令息が誘拐されて百万ドルの身代金が要求された。二日後に少年は無事救出され、五人の犯罪者が捕縛された。彼らはインドネシアの警察に渡される事もなく裁判にかけられる事もなく、島の地下刑務所に閉じ込められた。
その後もしばらく窃盗事件が頻発したが、島の小さな地下刑務所が犯罪者で溢れることは決してなかった。数日後に彼らは素っ裸にされてヘリコプターに乗せられ、はるか対岸のボルネオ島のジャングルの上空から突き落とされた。
運良く軽傷で命を取り留めたとしても、猛毒を持つサソリやヒルや大蛇から、或いはジャングルを徘徊する猛獣から無事に逃れて生きて島から脱出する事など出来はしない。
完璧な安全の保障と治安の維持に魅了されて、世界中の高額所得者や金満退職者が移り住む。そして、彼等から保安税の徴収を始める。ボディガード無しに命の保障が得られるならば、彼等にとって保安税など、例え年額一万ドルを超えても安価なものである。
五右衛門はその金を、インドネシア政府官僚や軍部への賄賂に使った。政治にも軍隊にも宗教にも関わることなく、完全自治のアイランドシティとして、安全と観光と海洋エンターテイメントを看板に世界レベルのリゾートに仕立て上げることが夢だった。
東京麻布十番の事務所と香港セントラルのオフィスとインドネシア・ゴエモンアイランドの三拠点を軸に、着々と五右衛門の野望は華麗に順風に発展を遂げつつあった。
「補足の映像は以上であります。さて、結審の刻限となりましたので、これまでの皆様方の心証、意見を簡潔にご披露下さい」
ブラフマーの言葉が終えると、まず、シヴァが挙手をして発言を始めた。
「窮状に戸惑う女の弱みと浅薄な欲に付け込み、金権を餌にたぶらかして妾にして囲う被告の所業に大減点の帰結があります。希薄な愛の戯れ事の情欲は誠心の徳にあらず」
シヴァの発言が終わると、ガネーシャが無限紐を右手に掲げられて意見を述べられた。
「青瑠璃の空と海とが良く似合うとか、東京の空気は美貌を穢すとか、百カラットのダイヤも石ころだとか、たわけた甘言で女を酔わせ、ヨットにマンションまでおまけに付けてたぶらかす。悪魔の本性をワンタンの皮でくるんで糖蜜をまぶして幼児の口にねじ込むような、下卑た言動を為せるはおよそ智とは程遠い。己が人生と立場が逆転したならどうなりますやら、しかと被告の魂に思い知らせてやらねばなりますまい」
さらにヴィシュヌが意見を添えられた。
「無人の孤島を活用して価値を高めて富をつむぐ事業の意図は智と言えなくもないが、治安維持を目的に手段を選ばぬ非道の所業は智と裏腹にある。人命を踏み台にした冷血非道は邪見にして暴虐なり。魂に潜む夜叉羅刹の虚像に救いの手を差し伸べなければなりますまい。煮沸の釜地獄で顔を洗い、針底の滝にて身を清めて来るがよかろう」
最後にブラフマーが結審を求める。
「人間の奸智は多様にして際限が無い。望蜀にして智謀が働き拙策に溺れて人の道を踏み外す。ところが被告の欲には底無しに鬱屈した邪念に欠ける。金欲も愛欲も中途半端に清々し過ぎて妙味に欠ける。被告の心には欲という概念も認識もまるで無い。ここは智の判決ゆえに、天中命殺四十五獄点として如何でしょうか」
「異議ありませぬ」
全員同意を決裁として『智』の審問は終了した。瞬時にして四神の審判官の姿が失せて、廷内の照明が消された途端に裁判宮が回転を始めた。
グルグル、グルグル回転しているうちに、裁判宮が回っているのか、自分の身体が回っているのか見境が付かなくなり、中枢神経が微塵の靄に吸い取られていくような深い虚脱の渦に翻弄される。
やがて羽毛の雪が舞い、冷気の精が五右衛門の歩みを促すように絡み付く。虚空のさら雪をかき分けて、時空白濁の薄闇の中を六七日、四十二日目の命日に向かって五右衛門は進む。否も無い、応も無い。全ての感情を失くしてひたすら進む。闇が雪を被い、雪が闇にあらがうように冷気を放つ。
次の章では、これまでの人間関係が一本の糸に結び付き、柏原弘毅への突飛な復讐が決行されます。