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五右衛門の極楽輪廻物語  作者: 磯部勝彦
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第四章 四・七日【礼の審問】

ギリシャ神話の神々によって謙譲謙虚の節度について審問が行われます。スクリーンに映し出されるのは広州行きの列車の中です。

 急勾配の石段をそろりそろりと下り終えて、淡い光に照らされた一本道を進んで行くと、やがて大平原は土漠へと変わる。砂地に草地の入り混じる荒地の先に黒水晶の谷が行く手をさえぎる。


 橋も石段も無い絶壁の谷間を、風化した魂が転がり落ちてまたよじ登る。そのまた先に精霊の高峰がそびえ、そのまた先に霊妙万華の峡谷が行く手を阻む。切り裂かれた極光が霊魂を目くらまして桃色の空間が押し寄せて来る。

 

 おお、何と、桃色(ピンク)の光におおわれた空間の真っ只中に、黄金の神殿を戴く丘が白光を浴びてそびえているではないか。

 かつてギリシャ地中海格安パック旅行に参加した五右衛門は、ライトアップされたパルテノン神殿を見上げて感銘を覚えた記憶がある。そうだ、あれはアクロポリスの丘に相違ない。


 胸を躍らせた五右衛門は、勇躍(ゆうやく)丘の麓に駆け寄った。神殿へ上がる通路の入口には二層の羅城門があり、仁王のごとき一対の鬼が金棒を手にして立哨していた。これまでの鬼と違うのは、肌がド派手な桃色(ピンク)だということだ。

 

 右方の鬼が険悪な眼光で、五右衛門を見つけて手招きをしている。肌の色はピンクでも、獰猛であることに違いはなかろう。

 やっぱり関わり合うのは避けようと決めて、五右衛門は鼻クソをほじくりながら顔をそむけて行き過ぎようとした。するとビュンと空気が裂ける音が頭上を走り、いきなり巨大な岩石が弾丸のごとく脳天をかすめて飛び去っていった。


「あ、危ねえ」

 古代ギリシャの勇者ヘラクレスでさえも、これ程の岩石をいとも簡単に投げつけられはしないだろう。下手(へた)になめてかかると何をされるか分からないと観念した五右衛門は、とりあえず笑顔をつくろって機嫌をうかがうのが得策と考えて、満面の笑顔に揉み手をしながらゲートの鬼に近付いた。


「やあやあ、こりゃどうも。なかなかの陽気でようござんすね。こんな日には上野公園か九段のお堀端の桜の花弁の舞う下で、芸者でも揚げてちょいと一杯やりたいもんだねえ。それともお兄さん方はなにかい、有楽町のガード下で、直火の焼き鳥と酎ハイが絵になるかねえ、あん?」


 不動の鬼は鉄塊の金棒を一閃させて、五右衛門の顔面を打ち砕いた。


「う、グググググ、いきなり何しやがんでい。イ、イテテ、こ、この野郎、ピンサロの客引きみたいな派手なピンクの肌しやがって、節分でもないのに鬼が何していやがるんだ、こんな所で」


 あやうく失禁の粗相をするところを我慢して、果敢にも抗弁する五右衛門に鬼は牙を剥いて怒声を放った。

「なんで顔をそむけて逃げようとした」


「逃げようとした訳じゃねえ。様子をうかがっていただけだ。俺はパルテノンの神殿を拝みたくて丘に上がろうと思っているのに、お前さん方がそこで邪魔しているんじゃねえか」

「あれはパルテノン神殿でもなければ上野公園でもお堀端でもない。『(れい)』の審問が行われる裁判宮だ。明日、お前の審問が行われる。待っていたのだ。ここに記帳して門をくぐれ」


「何で明日なのだ? 黄泉の世界に時間があるのか? いつになったら日が暮れて、今日が明日になるんだよ」

娑婆(しゃば)の世界では明日がお前の四七日(よなのか)なのだ。娑婆で弔う参考人の声も聞けるかもしれんぞ、楽しみだろう」


「楽しくなんかねえよ。俺はパスする」

「パスなんか出来る訳ないだろ」


「そんな審問なんか、受けたかねえんだよ俺は。何でお前らの言いなりになって裁判なんか受けなきゃならねえんだよ。そんなゲートなんか潜らねえよ。お前らの世話になんかならねえと言ってましたと、閻魔の親分に報告しときな」

「無駄だ。逃げられはせん」


「チッ、俺はなあ、高校時代には軟式野球部の補欠として国民体育大会にも出場したんだ。一塁ベースと二塁ベースを五・二秒で走るんだ。お前らのベタ足で追って来たって捕まらねえよ。自分の力で丘の裏側まで回り込んでやる。アバヨ」

 言い捨てると五右衛門は猛ダッシュした。足の無い足で空間を駆けた。後ろも振り向かずに夢中で走った。


 羅城門から続くピンク色の塀が延々と伸びる。塀の色がピンクからオレンジに変わり黄に変わり、さらに紫に変わる。やがて塀がとぎれて毛氈の几帳が霧間にたなびく。これで長い塀から抜け出せた。

 肺が無いのに息が切れて、心臓が無いのに動悸が乱れる。山手線を百周くらい走ったような疲労感だったが、ようやく目の前に羅城門が見えて安堵した。

 

 おお、あれは次の門に違いない。これで四七日の裁判だけは免れた。もう審問なんてたくさんだ。次の門も何とか切り抜けてやろうと五右衛門は奮い立った。

 門の先には丘があり、丘の上に黄金の宮殿が輝いていた。門の横にたどり着くと、中からひょっこり桃色(ピンク)の鬼が現われた。五右衛門はいきなり向こうずねをバコンと一発けり飛ばされた。


「イテテ、あ、テメエは、さっきのピンクの客引きじゃねえか。どうやってここまで来やがったんだ?」

「どんなに走っても無駄だ。この門をくぐり、裁判宮での審問を終えない限り桃色(ピンク)の結界から抜け出ることはできん」


「分かったよ畜生。そこをどけよ、門をくぐってやる」

「パスポートを見せろ」


「何だとこの野郎。どこの世界にパスポートを持ってフラフラ冥土をふらついてる死人がいるってんだ。門に入れとかパスポートを見せろとか、勝手なことを抜かして人間を愚弄しやがって。どけ、門に火を付けてやる」

「落ち着け、おっさん」


「やかましい! いきなりスネをけたぐりしやがって、見ろ、真赤っかに腫れちまったじゃねえか。びっこにでもなったらどう落とし前着けるつもりだ。面白くも可愛げもねえピンクの肌をしやがって、むき出しの牙と歯茎を口の中にしまいやがれ、みっともねえ」

「おい、五郎」


「五郎じゃねえ、五右衛門だ。俺のパスポートなら麻布十番七面坂のマンションの七階三号室のベッドルームの電話台の二番目の引き出しに入っているから、お前が行って取って来い。可愛げのねえピンクズラしやがってウスラボケ」

「調子に乗るなよ」


「うるせえ!」

「鬼を甘く見るなよ」


「親の言うこと聞がね子はいねがー。泣ぐ子はいねがー」

「なまはげじゃねえよ」


「四谷怪談のお岩とか、テレビから這い出す貞子とか……」

「そりゃ幽霊だろバカ。どこの貞子だ。お前、信仰心はあるのか。長野の善光寺に行ったことはあるか、鬼に引かれて」


「何で鬼に引かれるんだ。そんな寺は知らねえよ。善福寺なら知ってるけど」

「どこだ、それは」


「麻布十番に決まってるじゃねえか。福沢諭吉の墓もあるらしいよ」

「知らん。お前、一度でも教会に足を運んだ事があるのか? 懺悔とかしに」


「中学校の修学旅行で長崎の大浦天主堂に行ったよ。売店のお姉ちゃんに薦められて、ロザリオのペンダントを買ってミヨちゃんにプレゼントしてやったけど」

「お前には神を敬い、仏にすがり、鬼を恐れるという謙虚さが皆無なのか」


「仏にはさっき会ったが、救ってやるとは言わなかったぞ。アステカの神は減点とか言うし。ところで一つ教えて欲しいんだけどねえ、鬼にも男女の区別があるのかい? 同棲とか不倫とかあるのかい? ええ、どうなんだい、あん?」


 鉄塊の金棒を大上段に振りかぶる鬼の殺気を察した五右衛門は、一目散に門の裏手に回って逃れた。鬼はあきれて金棒を下ろして命じた。

「記帳して門を入れ。お前の汚れた偽りの礼を、裁判宮で厳しく裁かれて来い」


 おずおずと進み出て記帳を済ませて門をくぐると、滑るような熱気が五右衛門の魂を包み込む。くすみかけた視界が一変して金魚鉢の内から外界を眺める魚眼のように、アクロポリスの丘は永遠の彼方まで裾野を拡げ、無数の石段が天に張り付くように果てしなく延びている。


 

 ーソクラテスー


 誘引されて導かれて、幾千万の石段を上り詰めて丘の上にたどり着くと、滑る大気は黄金の霊気となり浄化され、壮麗な黄金宮が陽炎の中にたたずんでいた。


 黄金の(いらか)()かれた重厚な石屋根を太い黄金円柱が支える。床面と同じ大理石模様の壁面が矩形の四面を飾る。正面の大扉には金無垢の地獄絵図が緻密な技法で刻まれている。


 ふと見ると、大扉のかたわらに白い衣を羽織った金髪の男が佇んでいる。瞑想にでもふけっているかのように、脂肪太りの身体を円柱にあずけて天を見上げて直立していた。


「おい、邪魔だな。どいてくれ」

 五右衛門が邪険に言い放つと、金髪の男は目を閉じたまま、天をあおいで口を開いた。

「汝はどこから何しにやって来た?」


「ぶっ殺してやろうかテメエ。鬼でもねえのに横着な態度でほざきやがって。誰なんだオンドレは?」

「私はソクラテス」


「嘘だろ」

「ソクラテス……」


「俺は昔ねえ、太った豚より痩せたソクラテスになれって、どこかの大学の偉い学長さんの話を聞いた覚えがあるけど、お前は派手に出っ腹じゃねえか。そんな醜いソクラテスなんて聞いたことがないぞ」

「君は見かけで人を判断するのですか?」


「当たり前じゃねえか。それ以外に何で判断するんだボケ」

「気を確かに持ちたまえ。この宮殿では『礼』の所業について審問されるのですぞ。見かけで礼を判断できると言うのですか。礼というものは君の心の傲慢な、あ、イテッ、いきなり何で私の向こう脛をけ飛ばすのですか、乱暴な」


「さっき鬼にけ飛ばされた仕返しだ」

「これから審判を受けようとする者が、そのような暴圧的な言動は許されません。私は神に選ばれてここにいるのですよ。君たち精霊の気魂を安らげ、無知を悟らせ、徳の概念と共に礼の真理を諭すために、(おご)りのない謙虚な心を覚醒させて、不利な発言のないように裁判に臨む心得と心構えを、あ、これ、待ちなさい。まだ準備と段取りが、こら」


「やい、クソタレス!」

「ソクラテスです」


「お前のくだらねえ哲学なんか聞きたかねえや。何が真理だウンコたれ。俺は俺のやり方が正しいと信じて生きて来たんだ。誰にも後ろ指一本さされるような罪は犯しちゃいねえ。前科も借金もねえし、胸にトゲの刺さるような覚えは何もねえ。いくら学問や知恵があったってなあ、金儲けもできずに、酒も博打も知らず女も抱けずに、真理だの摂理だの道理だのって、一銭にもならねえ世迷い言をならべて(わめ)いていたって幸せな人生なんか望めやしねえよ。お前の女房は途方もなく悪妻だって言うじゃねえか。俺を裁くだと? 礼の審判だと? とぼけた冗談も大概にしろい。他人に真理を諭す前に、己の中性脂肪を何とかしろよクソタレス。分かったらあっちへ行って、鼻クソでも尻の穴でもほじくってメタボリックな哲学でも追及してろ」


「落ち着きなさい凡骨の愚人。途方もなく傲慢(ごうまん)な恥知らず。そんな乱心まがいの荒んだ根性で審問に臨めば、宸襟(しんきん)の怒りに触れて永遠の無間地獄に突き落とされるのは必定。己が鬼魅鬼畜の生涯を研ぎ澄まされた徳義の鏡面をもって反芻し、さらした倨傲(きょごう)の業を戒めて、埋没した礼の禍根と過失を取り戻すのです」


「どういう意味だ、そりゃあ」

「君は赤鉛筆がなぜ赤いか知っていますか?」


「馬鹿じゃねえのか、赤鉛筆が青けりゃ青鉛筆じゃねえか。日本の国旗が赤くなきゃどうなるんだ、真っ青な日の丸がオリンピックで掲揚されるのか。お前んちの赤信号も夕焼け空も青いのかボケ」

「そうではありませんよ、深い意味があるのです。赤は藍でもなくて朱でもない。そこに奥深き哲学の機微があるのです。あなたがお風呂に入ればお湯があふれる。あふれたお湯とあなたの体重が同じなのですよ。それが浮力の原理です、分かりますか」


「そりゃアルキメデスが考え付いた法則じゃねえのかよ。幼稚園のガキだって知ってるぜ」

「赤いリンゴはなぜ木から落ちるか知っていますか?」


「そりゃニュートンだろバカ。他人の研究をパクるんじゃねえよ。お前、どんないかさまやって名を残したんだ」

「無知の知の本質を知らないのですか。自分が無知であるということを知ることこそが、極限の知なのですよ」


「結局なんにも知らねえってことじゃねえか。どこが本質だ。あのねえ、古代ギリシャの哲学者とか無知の知とかほざいて賢者ぶってるけど、本当は何にも知らない能無しの白痴だって、保健室の千代子先生がお前のことをあざ笑ってたぞ」


「何と無礼千万な! 無知の哲理を悟るまでに、どれほど尊厳なる葛藤があったと思っているのですか。百億時間の苦悶の末に、賢者の論理を模索し法則を見出したのですぞ。保健室で仮病(けびょう)のガキを相手にじゃれあって、くつろいでいるほど愚かではないのだと千代子先生に言っといて下さい。そもそも君は、保健室で何をしていたのですか?」


「田んぼの畦道でイノシシにお尻を噛まれて血だらけになって、保健室に行ったら千代子先生が傷口をなめながら教えてくれたぞ、文句あるのか」

「あるでしょうよ。そのイノシシはどうしたのですか?」


「イノシシなんかどうでもいい。赤トンボが何で赤いか知ってるか?」

「知らないでどうしますか。赤トンボは赤鉛筆の化身なんですよ」


「何だと……?」

「秋の茜の夕焼け空には、ウスバカゲロウよりも赤トンボがよく似合うから、()えた産毛(うぶげ)で大空をフラフラと飛翔しているうちに、真夏の灼熱の太陽に染色体が日焼けして、尻尾の先から醜いウンチが飛び散り我が身を艶やかな血の色に染めたのですよ。赤鉛筆の進化の結晶と言えましょう」


「お前、マジ哲学者か? 今からでも遅くはないから、千年でも万年でも滝に打たれて無知の知を極めて目覚めて来いよ。赤トンボにはね、とっても悲しい物語があるんだって知ってたか? 赤トンボは昔、青トンボだった」

「何ですって……?」


「教えてやるから良く聞けよ。照りつける熱暑の陽射しを避けようと、インパチェンスの葉陰で雌雄の青トンボが仲良く頬を寄せ合って羽を休めていた。しかし、華麗な花弁から放たれる蜜の香りに誘われて様々な昆虫や小鳥が群がって来て、恐ろしい天敵さえもが密かに獲物を求めて狙いを定める。長く留まっているのは危険だから、早く東の空へ飛び立とうと彼氏が急かせるのだが、喉が渇いたからもっと休みたいのだと彼女が駄々をこねていた。不安にイラつきモゾモゾと身をよじらせた彼氏の姿が、いかにもカラスアゲハの芋虫に似ていた。間違えて襲いかかってきた笑いカワセミに食われてしまった。ケセラケラケラと鳴きながら、彼氏の死骸をくわえて飛び去って行った。夏が過ぎて秋風が吹き、炎夏えんかに浮かれて犯した罪の重さを悔いた彼女の真っ赤な涙が、全身を巡って鼻の先まで赤く染まってしまった。やがて来る寒い冬が恐くて日暮しの夕日を求め、切ない涙を流して夕焼け空に染まって飛んでいる。赤とんぼの土手っ腹を切り裂いてみれば、どす黒い膿と真っ赤な鮮血が飛び散るって、千代子先生がお尻を舐めながら教えてくれたぜ」


「でっち上げも大概にして下さいよ。古代パルテノンの中庭にだって赤トンボは元気いっぱいに飛んでいましたから。ならば訊きますがね、黒糸トンボはなぜ黒いのですか? はらわたを抉れば真っ黒い血反吐がチョロチョロ流れ出ると言うのですか?」


「糸トンボなんかどうでもいい」

「どうでもいいでは済まないでしょうが。寒い冬が恐くないのか血が黒いのか、校長先生に訊いてみてもらいたいもんですねえ」


「そうムキになるなよ、たかがトンボじゃねえか。いいからどけ」

「あなたそんな不埒な態度で審判に臨めば血の池地獄に落とされますよ。血の池がなぜ赤いか知っていますか? 遠い国から飛んで来た、ペリカンのメンスの血の色なんですよ。そんな水を一滴でも飲んでごらんなさい、青酸カリの苦しみですよ。分かりますか?」


「そんな出任せ誰から聞いたんだ。あれはなあ、七か月のお腹の子供を、堕ろせ、堕ろせ、と彼氏に迫られて泣いている雌カラスの真っ赤な血の涙の色だって、千代子先生が教えてくれたぞ」

「なんでカラスの涙が赤いのですか? 保健室の千代子は血の池地獄へ行ったのですか? あれは赤トンボの涙でしょうが」


「お前、言ってる事がでたらめ過ぎて、信憑性(しんぴょうせい)がまるでねえぞ。マジ哲学を学んだのかほんとに」

「だから先程から私が言っているではありませんか、裁判に臨む心構えを謙虚な気持ちで備えなさいと。無知の知たる智慧の本質を求め、清廉潔白純潔にして清浄無垢なる礼の真理を己の胸に手を当てて見極めるのです。さあ、私のそばに座しなさい。さあ、ほれ、さあ」


「明日の朝まで、そう言い張ってろバカ」

 五右衛門はソクラテスを押しのけて宮殿の大扉の前に立ち、取っ手を両手で持ってゆっくりと手前に引いた。


 いきなり大扉が開いたので、中で警備していた番卒の鬼が驚いた。

「おい、まだお前は呼ばれていないぞ。外で待っていろ」


 ピンクの大鬼の股座から、金色のタイルが敷きつめられている廊下が見えた。廊下の突き当りには大鏡の扉があり、黄金のリングの取っ手が引き手を待っているかのようにプラプラプラリと揺れていた。


 五右衛門は鬼の股座を瞬時にくぐり抜けてダッシュした。後方からビュインと風を切るような音が聞こえたかと思うと、一トン塊の鉄棒が五右衛門の頭上をかすめて正面の大鏡に向かって飛んでいった。


 大鏡の扉はこっぱみじんに砕け散り、己の失態による懲罰を恐れた鬼は、ピンクの肌を真っ赤に染めて両手で顔をおおって立ち往生した。その隙に五右衛門は扉の向こうに駆け込んだ。


 

 ーギリシャ神ー


 飛び込んだ部屋の空間にゆがみを感じて立ちくらんだ五右衛門は、思わず蹲って床を見つめると、、己の姿が映し出された黄金鏡の眩さにたじろいだ。

 正面からは眩いスポットライトが浴びせられ、天井を見上げると、そこにも黄金の鏡が自分の姿をとらえていた。やがて光が消えて審判官の姿が黄金霞の左右に浮かび上がった。


 光輝の鎧とアイギスの肩当てを(まと)い、アダマスの鎌を剛腕の右手に握りしめて座す巨神から、天蓋(てんがい)も床も揺るがす怒涛の大声が発せられた。


「これより審問を始める。被告は席に座すが良い」

 朦朧(もうろう)としてうつ伏せていた五右衛門はようやく正気を取り戻して立ち上がり、おもむろに被告席に座ると、恐れ多くも審判官を藪にらみにして言い放った。


「あんた、誰?」

「ゼウスだ」


「何でゼウスが出て来るんだ?」

「神々しきオリンポスの神殿に、全能の神ゼウスが現われて何が不服だ」


「オリンポスだか俺んちのポチだかどうでもいいけど、仁義礼智信とは孟子がのたもうた人倫五常の徳の教えだって、さっきの裁判宮で阿弥陀如来が言ってたぞ。中国四千年の儒教の世界に、何で西洋の神様が出て来るんだよ。そういえば、この前はメキシコのピラミッドにケツァルコアトルとかいう訳のわからねえ土着の神が出て来やがった。恐山に如来が登場したのは我慢できるが、西洋の神様が儒教の世界に首を突っ込むのはおかしいじゃねえか。テリトリーを間違えやがったなお前ら」


「被告の分際で余計な詮索をするな。何をしようがワシ等の勝手じゃ。御託(ごたく)を並べてないで名を名のれ」


「……」

「名のらんのか」


「毒蛇錦蛇の錦、淀川の川、五助の嫁の五、右翼の右、自衛隊の衛、切らずに治すイボ痔の肛門の門」

「何だと」


「ボロは着てても心は錦、おお故郷へ錦を飾って帰らねばの錦、翼よあれがパリの灯だ、エッフェル塔にセーヌ川の川と書いて錦川。ドイツが生んだ偉大な天然パーマ、ベートーベン作曲運命第五交響曲の五、おいそこの原付ボロバイク、二段階右折違反で青切符だボケ野郎の右、人工衛星スプートニクが野良犬を乗せて空を飛んだよの衛、ああ霧のサンフランシスコでマリリンを乗せてドライブしながらごらんあれがゴールデン・ゲート・ブリッジだよの金門橋の門と書いて五右衛門」

「…………」


「もう一回言って欲しいかい?」

「もう良い。偏頭痛がしてきた」


「ゼウスさま、それでは審問を」

 右隣に座します女神のアテナが、審問の進行を促すように声をかけられた。

「おおそうじゃ。忘れるところであったぞ」

 気を取り直してゼウスが続けた。


「聞け、被告。礼とは謙虚辞譲の心をもってへりくだり、豊満なる度量をもって人に接する思いやりの道である。礼を失すれば驕りがたかぶり秩序を失う。被告に問う。貴様の人生において示し残した礼の証左と、驕慢我執の行為について、包み隠さず申してみよ」

「…………」

「鼻くそほじくってないで早く答えろ!」

 

 礼に当てはまる行為と即座に問われても、ピンとくる出来事など思いつかない。仕方がないのでとっさに思いついた返答を適当につくろった。


「先生おはようございますの礼なら、学級委員の号令に合わせて毎朝やっていたよ」

「お前、神の言葉をちゃんと聞いておるのか。人倫秩序の規範のなかで、爪の先ほどの礼の善行くらいあったであろう。しかして非礼なる哀痛苦肉も、下腹に溜まった醜い贅肉か皮下脂肪ほどにあるであろう。洗いざらい吐露して楽になるが良い」


「下腹に脂肪なんか溜まっちゃいねえよ。トロと言えば大間のマグロの大トロが何といっても一番でしょうねえ。勝浦のクラゲや瀬戸のイソギンチャクも脂肪が乗れば美味いのかねえ。スッポンのコラーゲンは脂肪かね、あれは」


 ゼウスの顔が引きつって青ざめた。

「肛門に鼻クソ塗り付けて屁をするな。神も法廷も侮辱しおって。かつてこれほどまでに人類に虚仮にされた記憶はないぞ。貴様を地獄へ突き落とす前に、ここで中トロにして三途の川の雷魚の餌にしてやろうか」


「ゼウスさま、冷静におなりあそばせ。被告がゼウスさまの怒りにおびえておりますわ」

 女神アテナがゼウスをなだめた。


「ワシにはおびえているようには見えんがのう。見よ、あくびをして、よそ見をしてまた屁をしたぞ」

 慌ててアテナが被告を諫めた。


「これ被告、ここは神聖なる審問宮の法廷でありますことを認識しなさい。私は冥界のマドンナにして女神でありますアテナです」


「アンテナ?」

「アテナ」


「アンキモ?」

「アテナ」


「テンプラ?」

「私はアンキモでもテンプラでもありません。美貌と知性の聖処女、アテナです。またの名をミネルヴァと言います。分かりましたか? では審問を続けますゆえ慎んで返答しなさい、よろしいか?」


「…………」

「被告錦川五右衛門のカルテには、香港の実業家、劉孔明なる中国人に終生の礼を誓って敬い、義を尽くして恩に報いる義侠の心が強くあったけれども、ほどこしを受けることが多い割には恩義に報いる努力はしなかったと記されております」

 ゼウスはうなずいて五右衛門をにらみ付けた。


「おい五右衛門、恩人に礼を誓いながらも恩義を示せぬとはどういうことか、具体的にかつ微細に申し述べてみよ」

 したりと表情を緩めて五右衛門が答える。


「劉孔明という爺さんはねえ、人間としても実業家としても途方もなくスケールのでかい大物なんだよ。そんな人物から受けた恩義を、コンビニで買ったカップ麺でも差し出すように、簡単に返せる訳がないでしょうよ。だけど努力をしなかった訳じゃねえよ。いつだって恩に報いる気持はあったんだから」


「具体的に述べよと言ったはずだぞ。神の審問を軽く聞き流すなよ、唐変木(とうへんぼく)


「まあまあ、ゼウスさま、まずは記憶の立体鏡にて、被告の礼の断片的行動の経緯を投影してみることに致しましょう」

 アテナの言葉が終わると同時に七色の光が鏡面に反射され、虹の糸がつむがれるように光の渦が螺旋に巻かれて黄金の立体スクリーンがゆらめいた。

 ゴトゴトと鉄路を走る列車の客室の光景が、たちまち鏡面に浮かび上がった。


 

 ー中国の広州へー


 時は昭和の五十年代、奇跡ともいえる戦後の大復興をとげた日本の産業は、右肩上がりのGNPと貿易黒字に舞い上がっていた。

 欧米先進諸国から経済大国だ、ジャパン・アズ・ナンバーワンだともてはやされて、日本人の誰もが有頂天になって上を向いて歩いていた。


 安かろう悪かろうのイメージを払拭し、円高にもオイルショックにもめげず、メイドインジャパンの御旗を掲げた廉価高品質の家電や自動車や船舶までも、ありとあらゆるジャンルの日本製品が世界のすみずみにまで輸出されていた。


 やがて調子に乗り過ぎて、世界のあちこちでバッシングを受け始めた日本のメーカーは、汲々としながらも新たな市場を模索していた。

 隣国中国の巨大な大地は、消費市場としても生産拠点としても有力で、メーカーや商社のみならず、金融機関や経営コンサルタントまでもが注目して最新の情報を求めていた。


 

 麻布十番の不動産会社を本業にしながら香港にも事務所を置き、東南アジアの華僑人脈を通じて中国につながりを持つ錦川五右衛門は、大学教授や国会議員や企業の経営コンサルタントと名乗る人たちの要望に応じて、中国本土への案内役を務めていた。


 その日も二人の客を連れて香港に一泊し、九龍駅から中国広東(かんとん)省の広州(こうしゅう)駅に向かう特別快速列車に乗り込んでいた。

 一人は長身細身だが、下腹だけは七福神の布袋さまのように出っ張っている関西の地方代議士、横山陸人(よこやまりくと)であった。


 もう一人は、やはり関西で経営コンサルタントの事務所を開いている小柄でチェーンスモーカーの中津川睦夫(なかつがわむつお)である。前歯を煙草のヤニで黄黒く染めてしまった中津川の笑い顔は不潔というより不気味であった。


 列車には東海道新幹線こだま号自由席並みに快適な外国人用の軟座のシートと、乗車賃の安い板張りベンチシートの硬座車両がある。三人が乗り込んだ列車は、裕福そうな香港の旅行者や外国人を乗せた軟座の快速列車であった。

 

 九龍駅を出発した列車は高層のアパート群を見上げるようにゆっくりと進む。亀の歩みのような速度でようやく市街地を抜けると、郊外の住宅地へとつながる一本の道路に沿ってひた走る。

 土煙を上げて走行するトラックやバイクに追い越されながら、レールは山裾をなぞりながら国境へと向かう。


 列車の右手の窓外に湖が広がる。湖のように見えるが、実は、南シナ海の海水が入り込む沙田海の光景なのである。ゆるゆると流れゆく風景を窓越しに一時間ほど眺めていると、英国統治領香港と中国本土を隔てる国境の駅、羅湖に到着する。


 普通列車の乗客たちがざわざわと、亀や鶏の入った籠を背負って通関の手続きのために降車する。快速列車の乗客は降ろされることなく時間調整の後、国境のゲートを抜け、川をまたぐ鉄橋を超えて羅湖駅を出発した。

 

 鉄条網の国境線を後にすると列車はグングンと速度を増した。香港の色や香りを拭い去るかのように車窓の風景が一変した。鉄筋のビルディングやアスファルトの道路が消えて、豊穣な緑黄色の田園と大地が一面に広がる。


 車両出入り口の上部に設置されたテレビモニターに中国の明媚な風景が映し出された。弦の奏でる中国独特のメロディーが流れ始めて、伝統的な文化の紹介やパンダの曲芸などが放映され始めた。

 窓外に目を移すと、遮断機の無い踏み切りに農作業を終えた農夫が日焼けした顔で列車を見送る。田圃に水を送るために、足漕ぎの水車にまたがった少女が恥ずかしげに手を振る。

 赤いレンガ塀と白壁の建屋は裕福な農家の住まいなのだろうか。林を横切り、田圃を抜けて、悠久の時間がたおやかな大地を駆け抜ける。


 突然客室のドアが開いて小銃を肩から下げたカーキ色の軍服の人民兵が二人現われ、乗客の一人一人を眼光鋭く検閲の眼差しでにらんで行き過ぎる。


「あの目付きはなあ、戦時中にワシ等の小学校へ突然やって来た憲兵の眼光と同じやで」

 地方代議士の横山陸人が、兵隊に聞こえないように声をひそめてささやいた。

「私は戦後の生まれやから戦争の本当の恐さを知りまへんけど、あの制服と銃と目付きには鳥肌が立ちまんなあ」

「そうですねえ。何度出会っても緊張しますよ」

 団塊の世代に生まれた中津川睦夫と五右衛門が、横山のささやきに応じて眉をひそめた。


「おい、トイレに行きたいやろ」

 トイレを済まして戻ってきた横山が、経営コンサルタントの中津川を指差して言った。

「別に行きとうおまへんで」


「ええから行って来いや」

「駅で済ましたばかりでっせ。どうかしましたんかいな横山はん」


「ええから行って来いちゅうねん」

「なんでやねん」


 ぶつぶつ愚痴りながらも強引な横山に追い立てられて、しぶしぶ中津川が車両後部のトイレに向かった。

 おもむろにトイレのドアを開いて小便をしようと狙いをすましたその時に、アッと叫んで度肝を抜かれて立ちすくみ、思わずのけぞって後ろの壁にゴツンと頭を打ちつけた。


 ぽっかりと口を開けた便器の穴の下に見えたのは、二本のレールと次々に走り去る枕木であった。

 中津川はとっさに後ずさり、小便が飛散するのもかまわずパスポートも財布も落とさないように全てのポケットを両手で押さえた。


「横山はん、びっくりして腰抜かすとこでしたで。額に汗がにじんでもうたわ」

 よろめきながら通路から席に戻った中津川が、ぼやくように呟いた。


「どや、ジェットコースターの上で小便してるような按配やったやろ。垂れ流しとはなあ。さすが中国のやる事は大陸的で大らかですなあ、錦川はん」


「この前お連れした方は、足を踏み外して死ぬところだったとおっしゃっていましたよ。まあ、ドアがあるだけましでしょう」

 五右衛門は口をすぼめてマルボロの紫煙を噴き上げた。


 

 ー趙香蘭ー


 昼過ぎに九龍駅を出発した列車が、広州駅のプラットホームに到着したのは既に陽のかげる頃合いだった。


 (かび)臭い倉庫のような暗がりで通関の手続きを済ませて外に出ると、広州駅前は出迎えの人たちでごった返していた。

 その中から紺色の人民服を着た一人の女性が三人の前に近付いた。

「あなたたちは日本から来ましたか?」


「そうです。あなたは通訳の方ですか」

 五右衛門が、意外にも若い女性の迎えにたじろぎながら確かめた。

「はいそうです。趙香蘭(ちょうこうらん)と申します。よろしくお願いします」


「おう、あなたが趙香蘭さんですか。まさか我々の通訳として登場されるとは思わなかった。あなたのことは香港の劉孔明さんから聞いております。私は錦川五右衛門です。こちらは代議士の横山陸人さん。そしてこちらが経営コンサルタントの中津川睦夫さんです」


「先生がたの滞在中のお世話をさせて頂きます趙香蘭です。よろしくお願いします」

 化粧も飾り気もなく、えりあしをすっきりと剃り上げた色白の両頬は信州のりんごのような爽やかさを思わせたが、物怖じしない奥二重に黒瞼の輝きが勝気そうに中年の男たちを見返していた。


「おう、よろしゅう頼むで姉ちゃん。なかなかの別嬪(べっぴん)やないか。化粧なしの素っぴんでその器量なら、えらい男衆にもてるやろ」

「ほんまや。姉さん、歳は何ぼや? 亭主はおるんかいな、あん?」


「プライベートな質問にはお答えできません。他に質問が無ければホテルまでご案内します」

 横山と中津川のぶしつけな言葉をピシリとかわした香蘭は、クルリと背を向けると駅前の大通りをスタスタと歩き始めた。

 


 十月の中旬を過ぎるというのに、背広の背中にジワリと汗がにじむ。香港と同じ青い空の下で同じ肌の色の人間たちが生活しているというのに、何故か街並みに華やぎが欠けている。

 その理由はすぐに分かった。男も女も小さな子供までもが人民服だから。


 背広姿のビジネスマンや白い毛皮のコートを羽織った有閑マダムなどは存在しない。人民服という国家で定められた単色の制服の内側に、個性も思想も華やぎも、共産主義の指導の下にかたくなに身を潜めている。


 香蘭は自分の意志と気性をおおらかにさらけ出し、三人に対しても臆することなく誠意と規律をつらぬいた。

 政治と恋愛に関する話になると、貝のようにピタリと口をつぐんでしまうのだが、さばさばとして小気味良い知的な会話と笑顔が爽やかで、五右衛門の目には香蘭の着ている灰色の人民服が、鮮やかな舞台衣装のようにも映りはじめた。


 香蘭の後に従い大通りを真っ直ぐ五分くらい歩き、左折するとすぐ右手に予約された東方賓館(とうほうひんかん)ホテル正面玄関に到着した。

 道を挟んだ真向かいの建物にはたくさんの外国人が出入りしており、その流れが東方賓館のロビーにまで続いていた。


「姉ちゃん、何だいあの建物は? 随分たくさんの毛唐(けとう)が出入りしとるが、お祭りでもやっとるんかいな」

 横山が香蘭にたずねた。


「秋の広州交易会が開催されているのです。世界中のバイヤーたちが集まって来て、中国の技術や製品を品定めして交易を図っているのです。日本からも毎年たくさんの人たちが来られます」


「知ってまっせ。私もね、大阪の中小企業の社長さんに頼まれて、一度だけ同行したことがありますのや。そんときは香港から飛行機で入りましたんで、あっと言う間でしたわ」

 中津川が口を挟んだ。


「その社長さんはねえ、中国古来の薬草を原料にした精力剤を探し求めておったんですわ。ところがね、意外な情報を入手したんですよ。中国製のコンドームはゴム手袋みたいに厚過ぎまんねや。日本製の何倍もね。なにしろ中国では人口抑制のために一人っ子政策が浸透しておりますやろ、そやから避妊具の使い心地は彼等の生活にとって重要なアイテムだったんですなあ。社長さんは考えたんですわ。ごく薄の日本製コンドームは必ず需要があると。だけどそのまま輸出すれば値段が高すぎて一般の市民や農民には欲しくても手が出せない。そこで日本製コンドームの製造機械を輸出しようと考えはったんですなあ。なあ香蘭ちゃん、使たことあるか? なあなあ、日本製のごく薄を使たことあるか? どやった姉さん」

「…………」


「なんや、ふくれっ面してもうて。可愛い顔して怒ったらあかんで。そんなカマトトぶらんでいっぺん我愛你(ウォーアイニー)て言うてえな、な、な、我愛你」

「…………」

 それ以来、中津川は完璧に香蘭に無視されることになってしまった。

 

 歴史と格式を感じさせる東方賓館の重厚なロビーに一歩踏み入ると、真正面に横幅十メートルもありそうな幽谷山水の描かれた額縁が、来客の目を釘付けにして圧倒させる。

 受付カウンター上部の壁面には、外国人と中国人の宿泊料金の違いを明確に示す料金表が、遠慮も臆面もなく掲示されている。


 翌朝、大食堂の大鍋に用意された本場中華粥に油条(揚パン)とザーサイを放り込んで五杯もお代わりをした三人は、香蘭の案内によりハイヤーを手配して広州市郊外の視察に向かった。


 荷台に大きな籠を載せた自転車が、広い車道を占領して何台も行き交う。幌をかぶせた三輪の小型自動車が、バタバタと騒音をまき散らして道路を横切る。

 二匹の巨大な芋虫を蛇腹で連結したようなトロリーバスを追い抜きながら北へ向かって市街を抜けると、すれ違う車両は土煙を上げて走るトラックだけになってしまった。

 


 二十キロ余り走るとようやく並木の道が続く市街に入る。花都(かと)市である。四人を乗せた車は工業院と書かれた建物の玄関前で停車した。


 香蘭が訪問の趣旨を告げると簡素な応接室に通されて、まもなく現われた人民服の人たちに熱烈な歓迎の言葉を香蘭の通訳で聞かされた。

 彼等は花都市を広州市の衛星都市として産業開発を推進するために、外国資本、特に日本からの企業誘致にひときわ熱心であった。

 中国沿岸地域の開発が急速に進展する中で、広州市を核とする広東省の経済実績は上海市と競うように目覚しく、花都市としても地の利を生かし産業の実績を上げるには外資の導入が必須だったのである。


 彼等は日本から来た三人に熱弁を振るった。珠江デルタの港湾の広幅工事を計画しており通関サービスの利便を図ること。華南地区最大の交通の要衝としてコンテナ基地建設を計画していること。道路、鉄道、電気、通信、ありとあらゆるインフラの整備計画と有効性について。人材の質と量、賃金、税制、治安などくどくどしいほどの説明を受けたのち、工業団地としての候補地や、雑草が広がる広大な空き地や、企業誘致に関わる諸施設など、市内の隅々までを車で案内してくれた。

 そして最後に、代議士先生、経営コンサルタント先生、錦川先生、花都市と日本国との友好繁栄のために尽力をお願いしますと励まされ、熱い握手をされて花都の市街を後にした。

 


 夕食後の東方賓館の大ホールの座席は、金髪の外人客や東南アジア地域から集まった華僑の客で満席だった。

 ホールの中央まで張り出した円形のステージの上では、七色にきらめくミラーボールの照明を浴びながら、香港から招かれた男性歌手が谷村新司作詞作曲の『(すばる)』を中国語バージョンで熱唱していた。


「最初に案内されたとこがあるやろ、ほれ、トラックが何台も止まってたとこや。あそこなら五千ヘクタール以上の工業団地が建設可能やなあ」

 水割りの氷を舌先で転がしながら横山が言った。


「インフラの問題は解決すると思いまっせ。そやけどねえ、税制を見直して優遇制度を設ける言うとったけど、一地方都市の判断で簡単に制度を変えられるとは思われへんし、それに人材や。なにせ日本企業の製品チェックは異常に厳しおまっさかいなあ。人材の量より質と教育システムのレベルが問題でっせ」

 中津川が青島ビールをすすりながら横山に応じた。


「大学の新設や分校の誘致を計画しとるて言うとったやないか」

「そやかてねえ横山はん、日本企業が進出するとなったら生半可な人数じゃあ補えまへんで、質、量共にねえ」


「中津川さん、広東省がバックに控えている事をお忘れなく。着実に実績を上げている広東省の発言力は大きいと思われます。労働人口の確保についても、質を含めて問題ないと思いますよ。これはね、まだ未確認の情報ですが、我々は香港から鉄路で国境を越えて来ましたが、あのあたりに、つまり深圳駅の周辺に特別な経済地区を設けて、海外の金融機関や企業を誘致するという噂があるんですよ。恐らく一九九七年の香港返還を睨んでの対策だと考えれば、まんざらガセネタとも思えません」

 言い終えて五右衛門は、水割りの氷をガリリと噛み砕いた。


「さすが錦川はん、えらい情報を持ってはりまんなあ。あんた東南アジアを縄張りに不動産を売りさばいて商売しとるんやから、今のうちにそこいらの土地をみんな買い占めとったらええやないか。間違いのう偉い儲かりまっせ」


「そうはいきませんよ、横山さん。ここが共産主義国家である事をお忘れなく。日本や香港のように勝手に土地の売買はできません。手荒な事をやっていたら命を失いますよ。彼等はねえ、日本の企業と仲良くしたいなんて生ぬるい事は考えちゃいませんよ。だからね、いくら誘致を叫んでいても単独の進出は許さない。中国企業との資本提携が条件ですよ。本当は日本人の顔なんか見たくもないんですよ。欲しいのは先進の技術とすぐれたノウハウと当面の資本です。ですからね、そんな所で土地転がしなんかやってごらんなさいよ、黄河か揚子江の藻くずにされて魚の餌にされてしまいますよ」


「まさか、国ぐるみでそんなヤクザな事はしませんやろ」

 中津川が口を尖らせるようにして言った。


「日本のヤクザには仁義があるって言うじゃありませんか。ところが中国の歴史をひも解いてご覧なさいよ。権力の為には皇帝だって殺してしまう。権力に屈した者は、一族皆殺しどころか墓まで暴かれてしまう。日本の企業が利益ばかりを追求して、中国人の国民性や国情を理解せずに進出を図ればとんでもないしっぺ返しを喰らうことになりますよ。このホテルにはね、外国人がたくさん宿泊します。我々の部屋にだって、盗聴器が仕掛けられていないなんて断言できませんからねえ。我々は自分の宿泊するホテルを指定できないのですから」


「な、何やて」

「ほんまでっかいな」

「フハハハハ」


 ミラーボールの七色の光が、中央に張り出したステージで熱唱する香港歌手の白いドレスを染めて回転する。人民服のズボンに白い制服を着たウエイトレスが、金髪のゲストから飲み物の注文を受ける。

 三千坪の中国庭園を持つ古色蒼然たる威厳を備えた東方賓館の、この大ホールの空間だけが中国ではないように倒錯させられてしまう。

 

 翌日も、また翌日も広州郊外の地区を車で訪問して回った。香蘭の通訳はきびきびと的を得て正確だった。日曜日には市内見物にもパンダのいる広州動物園にも案内してくれた。

 代議士の横山の要望に応じて、蛇料理の店にも案内してくれた。


 人民路を南に車を走らせ、珠江近くの路地を右折した漿欄路に蛇料理専門の蛇賓館が店を構えている。

 店の入口には大きなショーウインドウがあり、鮮やかな緑色のウロコを持つ三角頭の蛇が数匹、眠っているのか餌を待っているのか木の枝にからまってじっと動かない。

 二階に案内されてテーブルにつくと、中国語で書かれたメニューが出された。


 蛇は高級食材だから、中国人にとって蛇料理を食するのは贅沢なのだと香蘭は説明してくれた。たしかに店内を見回すと、人民服を身につけた客は一人もいない。香港から帰省した人たちの家族か、旅行者であろうと香蘭は言った。


「メニューを見たかてよう分からんで。香蘭のお姉ちゃん、教えてくれへんかいな。蛇の肉がどんな味なんかよう分からんが、炒め物が一品ほしいなあ。」

 メニューに書かれた炒め物らしき中国文字を指差しながら横山が言った。


「蛇の肉は鶏肉に似て、脂身の少ない上品な味です。ジャコウネコと鶏肉の細切りに野菜を入れて炒めたものが良いでしょう。から揚げや煮込みもありますよ。それにスープもおすすめですわ」


「おう、スープは是非とも飲みたいねえ。おい、中津川はん、あんた好みの料理は無いんかいな」

 横山が中津川に問いかけた。饒舌な中津川は蛇賓館の入口をくぐってから一度も口をきかない。蛇料理を前にして、話の種に食べてみたいという思いはあるが、口に入れる勇気がわかない。

 トカゲや蛇など目にするだけで怖気が走るというのに、そのしっぽや肉を刻んで食するなんて想像するだけで卒倒しそうになる。


「僕はいいですよ。横山さんのお好みでどうぞ」

「そうかいな。ほな香蘭ちゃんのおすすめに任せまっせ」


 テーブルにスープの入ったボールと三品の料理が並べられた。横山が箸で小皿に取り、おもむろに肉片を口に運んだ。

「旨い。ほんまにニワトリの肉とおんなじや。あっさりしてなかなか行けまっせ。おい中津川はん、あんたも食うてみんかい」


 中津川は箸を手にしたまま石のように固まっていた。頭の中ではとぐろを巻いた鮮緑色の毒蛇に睨みつけられ、自分が食うかそれとも食われるか、必死に闘っていたのだ。

 香蘭は通訳としての厳しい規律があるのか、どんなに勧めても決して料理を口にはしなかった。


 五右衛門は、物怖じしない香蘭の放胆な快活さと、吸い寄せられるような黒い瞳に強く惹かれて、恋が芽生えていく自分に気付いていた。

 香蘭もまた、横山たちの不謹慎な言動に比して、五右衛門の端正な風貌と礼儀正しい優しさに、心の揺れを感じていた。なによりも気になったのは、広州駅に迎えに出た際にすぐさま彼は、自分の名前を劉孔明から聞いていると知っていた。


 その彼から、ようやく仕事は終わって明後日には帰国だから、明日は天気も良さそうだし、土産に端渓の硯を買おうと思っているのだけれど、通訳として付き合ってくれないだろうかと頼まれた。

 しばし逡巡したが、劉孔明との関係も気になって香蘭は頷いた。

 


 五右衛門は、今回の広州市訪問に際して劉孔明から香蘭のことを依託されていた。共産主義という情報隔離の束縛から解き放たれ、国際都市香港でビジネスを学び、さらには日本へ渡航したいと願っている趙香蘭という娘がいるのだと聞かされていた。

 本来であれば劉孔明が香蘭の身柄を預かり面倒を見れば良いことなのだが、それができない理由があったのだ。


 劉孔明は第二次世界大戦中に、香蘭の父である趙智林(ちょうちりん)に命を救われた。毛沢東(もうたくとう)の率いる中国共産党は、一九三七年の日中戦争勃発と同時に蒋介石(しょうかいせき)の統率する国民党と手を結び、徹底したゲリラ戦による抗日運動を開始した。


 劉孔明は上海から広東省広州市を中心に、中国共産党軍の一員として密かに便衣隊をあやつっていた。便衣隊とは正規の軍人とは区別されたふだん着のゲリラ隊のことであり、諜報活動をもとに、暗殺、放火、破壊などのあらゆる戦闘行為をくり返していた。

 上海や南京、そして広州においても、関東軍本部施設はもちろんのこと、領事館、通信施設、新聞社や小学校まで狙いを定めて破壊をくり返し日本軍を苦しめていたのだ。


 戦後、極東国際軍事裁判においてA級戦犯となり死刑に処された土肥原賢二は、一九三七年に勃発した盧溝橋事件を機に中国に渡り活動を始めた。上海に拠点を置き、みずから特務工作機関を率いて、中国軍の背後でうごめく秘密工作員の活動を蜘蛛の糸をたぐるようにして追い求めていた。


 土肥原は軍紀に厳しい軍人であったが、中国の一般民衆には誠意を持って接することを旨として部下に徹底させていた。中国語を流暢に話せる土肥原は、食に貧した難民たちや農民たちにほどこしをしたり便宜を与えたりすることによって慕われ、中国人たちの些細な噂話や時には思いがけない重要な情報を得ることができたのである。


 そのようにして得た情報の中から、劉孔明なる人物が中国軍間諜の首謀者の一人として上海および広州の便衣隊をあやつっていることを暴き、その所在を必死で追い求めていた。

 そしてついに、上海からひそかに広州へ移動し、漓江をさかのぼり広西チワン族自治区である桂林(けいりん)まで逃げ延びて行く劉孔明を追い詰めたのである。


 漓江のほとりで稲作農業を営んでいた趙智林は、桂林に逃げ延びた劉孔明を土肥原の放った工作員の捜索から、日本軍降伏の日まで隠し通した。

 桂林には幾千もの奇峰が連なり、桃源郷と呼ぶにふさわしい優美な湖沼や洞穴や奇観に満ち溢れて、人々の長閑な暮らしが笑顔となって訪れる人たちをなごませる場所である。一人くらいの人間をかくまうにもまた容易な地形と風土であるともいえるだろう。

 

 趙智林は、英国による無謀な阿片の輸入を根絶するために毅然として戦った国士、林則徐の血を引く末裔であることを自慢にしていた。それゆえに、中国を蹂躙して植民地化をもくろむ欧米諸国や日本の軍隊には許しがたき憎しみを抱いていた。

 日本軍と戦う劉孔明を救うことは、趙智林の名誉にかけても必然だったのである。


 劉孔明は、この時に受けた趙智林への恩を一生忘れてはならないと心に誓った。しかし、劉孔明が命の恩人に対する恩返しをいくら申し出ても、頑として趙智林は応じなかった。その理由は、劉孔明の経営する企業がジャーデン・マセソン商会と密接な商取引を継続しているからだった。

 阿片戦争やアロー号事件の引き金となったアヘン密輸の代表格といわれるジャーデン・マセソン商会を、趙智林は深く憎んでいたのだ。

 

 劉孔明は、金銭名誉の恩恵を頑なに拒む趙智林への恩返しを諦めた。それならば、彼の愛娘に対して出来得る限りの施しと、至福の人生を享受させてやりたいと慮った。

 彼の愛娘である趙香蘭は、かねてから日本の風土や文化、発展著しい経済や産業に憧れていた。だから桂林の田舎から広州へ出て来て日本語を真剣に学んだ。そこまでの金銭的援助は密かに劉孔明が手配していた。


 しかし、大陸本土から離れて英国の統治する香港や、日本の企業で働くとなると、さすがに劉孔明の支援を父親の趙智林が知るところとなり、怒りを買って香蘭が悲しい思いをすることにもなりかねない。

 だから、決して自分の名前を表沙汰にする事なく、香蘭の意図するままの希望を叶えてやって欲しいと、五右衛門は劉孔明から依頼されていたのだ。



 英領香港から中国広東省広州へ入る方法は三通りある。九龍駅から鉄路を利用してのんびり国境越えをするか、啓徳空港から空路で短時間に入国する方法と、中国第三の流域を持つ珠江をフェリーで遡行する方法である。


 東方賓館から散策がてら三十分も歩けば珠江の川辺に辿り着く。橋上を走る通勤自転車の群れが朝の陽光を逆光に受けてシルエットに映え、車輪だけが光輝を放つ銀輪となり不気味な生き物のように押し寄せる。

 その珠江の遥か上流に桂林という町がある。その郊外の農村で香蘭は生まれ育った。


 香蘭は日本の風土、経済、企業に憧れていた。だから日本語を真剣に学んだ。せめて足掛かりに香港の日本企業に勤務したいと考えていた。


 五右衛門は香蘭と二人で逢うために、横山と中津川から離れて行動したかった。だから、彼らに広州見学を促した。

「今日は日曜日です。私はプライベートな用事がありますので、よろしかったらお二人で広州市内をゆっくり散策されてみてはいかがですか。その町を知るには自分の足で歩いてみることが一番ですよ。それまで気づかなかった様々なことが観察できるかもしれませんよ」

 


 五右衛門にそう言われて手渡された市内の地図を広げながら、横山と中津川の二人は東方賓館の玄関を出て、ゆっくりと歩いて街へ向かった。

 男も女もみんな人民服だった。たまにすれ違うモダンなドレス姿は、香港からの帰省者か観光客だと思われた。


 路上に店を広げて孟宗竹のようなサトウキビを売っていた。幼少の頃、近所の畑にサトウキビが生えていた。堅い皮を剥ぎ取って口に含んで噛み締めると、サクサクッとして甘い汁がジュワッと舌を包み込む。

 こんな孟宗竹のように太いサトウキビを、どんな歯で噛めば甘い汁が出るのだろうかと考えた。


 大通りに面した大きな洞穴が気になって、「入ってみよう」と横山が好奇心を掻きたてる。奥は深く電線が引かれてランプのようなライトが灯り、通路の所々にテーブルも置かれていた。

 二人が入っても咎める者はいない。戦時中の地下通路ではなかったかという意見で一致した。


 竹垣を透かしてテーブルが見える。竹垣の横に鉄板が熱せられ、若いお兄さんが白い液をチョロリと垂らして餃子の皮のようなものを焼いている。

「美味そうやないか。よし、食おう。熱さえ通せばコレラ菌も死ぬで」


 引け気味の中津川を促して、横山は竹垣のテーブルに座った。アツアツに醤油のような黒い液を少し垂らして食べた。中にミンチの肉も入って結構いけるワンタンの味だった。


「この肉のミンチは犬かもしれへんなあ。牛でも豚でもない気がするで。美味い順に一赤、二黒、三まだらやて言うそうやないか」

「そういえばこの辺り、犬を見かけへんなあ」

 通りに面する民家の間取りは一様で、開け放たれた窓を覗くと一階の土間に家族が集まり、長椅子に両足を伸ばした老人が点けっぱなしのテレビを観ていた。

 

 横山が掛軸を購入したいと言う要望に応じて、二人は地図を頼りに掛軸専門店を探して回った。ようやく見つけた店は骨董掛軸専門というだけあって、うらぶれた店内の書棚の中に丸められた古い掛軸が幾つも収められており、客の希望に応じて一つ一つが取り出されて拡げられた。


 横山は期待していた近代作家による今風の山水掛軸が一本も吊るされていないのに落胆して、隣りの書道具の専門店に入り、書道を嗜む女房の土産に端渓の硯と墨を購入した。

 金額を確かめて兌換券を支払うと、店のお姉さんはおつりに皺くちゃの人民元紙幣をカウンターの上に放り投げて寄越した。日本であれば、女性といえども店員がこんな横着な対応をしたなら即刻首が飛ぶところであろうが、中国勤労者は学校の先生だろうが商店の店員だろうが全て公務員だから、顧客サービスの概念もなければ男女の差別もない。丁寧な対応など望むべくもないのであろう。


 表通りに出ると自転車が群れを成して走り抜ける。車は警笛を鳴らしながら歩行者を蹴散すように横暴に走る。蛇腹で連結されたバスがゆっくりとロータリーをカーブする。

 二人は町歩きも面倒になり、五右衛門から教えられた|友誼《ゆうぎ》商店へ行くことにした。そこは外国人専用の土産物売り場で、象牙細工や翡翠の香炉や唐三彩(とうさんさい)の陶器の馬や汕頭(すわとう)のテーブルクロスや鹿の角の精力剤まで、あらゆる商品が並べられていた。

 二人はここでお土産を買い求めることにした。



 東方賓館八階の五右衛門の部屋から流花湖(りゅうかこ)公園が見下ろせる。夕日に映える水面の輝きも美しいが、早朝の慌ただしい湯気の向こうにひっそりと輪郭を見せる湖面もまた、くすんだ街の風景をなごませて清々しい。


 横山と中津川から解放された五右衛門は、約束の時間に湖畔の東屋(あずまや)に行くと香蘭がベンチに座って待っていた。

 下宿の庭に咲いていたから大家のおばさんに断って摘み取って来たのだと言って白い菊の花を一輪くれた。


「ありがとう。香蘭の白い頬のように可憐で美しい」

「日本の男性は心にもないお世辞を言うのが得意だから気を付けなさいって、劉おじさまが言っていましたわ」


「僕はお世辞も嘘も嫌いだよ。だから劉先生からも信頼されている」

 香蘭の頬が緩んで瞳に優しい光が見えた。その眼差しで率直に訊ねた。

「錦川さんは、劉おじさまとどういう関係なのですか?」


 五右衛門は劉孔明からの依頼について話した。そして香蘭もまた、両親や友人や学問のことや、これまでの環境や経緯や将来の思いなどについて話してくれた。

 広州市街を網の目に流れる珠江の遥か上流に桂林という町があり、その郊外の農村地帯で香蘭は生まれ育ち、両親と兄が今もそこで暮らしているという。


 五右衛門は香蘭の気持ちを確かめたかった。きっかけは劉孔明からの依頼であったが、香蘭に出会って本気で好意を抱いてしまった。感情を殺した表情に、時折見せるはす睨みの瞳の鋭さと清楚な唇、眺めているだけでうっとり幸せな時間におぼれそうになる。


 五右衛門は香蘭を口説いた。自分には妻子がいる。だから結婚はできないが経済的支援をするので香港の事務所で働いて欲しい。恋愛干渉も行動の束縛もしないので、香港での仕事に慣れたら東京に来て私設秘書をして欲しいと想いを告げた。


 香蘭は両掌を唇にあてがいしばらく思案した。これまでは劉孔明の援助を受けてここまで来られたが、いつまでも父に内緒で甘えてばかりもいられない。香蘭は五右衛門を信じて快く承諾したかった。だが、どうしてもできない理由があった。


 桂林で両親と兄が細々と稲作をして貧しい生活をしているから、毎月兄がバスで広州までやって来て、給料の半分を受け取って帰って行くのだと香蘭が悲しい顔をして話す。

 香港へ行けば兄は中国との国境を越えられない。まして日本へ行けば、兄も両親も見捨てることになってしまう。


「そんな心配は無用だよ」と、五右衛門は微笑んだ。

「わざわざお兄さんが香港へ来ることも、日本へ来る必要もない。僕が援助を申し出る。それなら問題はないだろう」と言って説き伏せた。


 それならば、桂林で農業を営んでいる両親に是非とも会って安心させて欲しいと香蘭は希望した。もちろん五右衛門は承知して、香蘭の手をしっかと握りしめた。

 それから香蘭の案内で広州の市街をそぞろ歩き、裏通りに入った古看板の小さな店で端渓(たんけい)(すずり)を買い求めた。



 ー鐵観音ー


 横山と中津川は友誼商店で一通りの土産物を買い揃えると、へとへとに疲れてホテルに戻った。

「ワシは飯の時間まで一眠りするよ」


 土産に買った景徳鎮の壺を置いて部屋のドアを開けた横山は、足元に一通の封書が差し込まれているのに気がついた。

 達筆な墨字で横山陸人先生と表書きされた封書を開くと、二枚の便箋が入っており、一枚目には広州市訪問歓迎の挨拶文が数行ほど記されており、二枚目は広州交易会レセプションへの招待の案内状になっていた。


「おい中津川はん、ちょっと来てくれんかいな」

 隣りの部屋のドアを開けて入ろうとしていた中津川を呼び止めた横山は、けげんな顔で案内状を差し出した。


「なんでワシが交易会のレセプションに招待されるんやろなあ。関係あれへんで」

「そりゃあ代議士先生でっさかいなあ。ほれ、ここにも書いてありますやないですか。日本の高名な横山先生の来訪を知り、レセプションへ招待致したく是非ともご出席いただきたいと。いやあ、さすがですなあ」

 持ち上げるような口調の中津川に、眉をひそめるようにして横山は言った。


「それにしても今日の夕刻やで。なんか釈然とせんけど、まあええか。せっかくの招待やから行ってやるか。中津川はん、あんたも来いや」

「ええっ、私は招待されてませんよ」


「かまうこといるかいな。日本の高名な経営コンサルタントやて言うたらええやないか。ええから一緒に行こうや」


 東方賓館からゆっくり歩いて十分ほどの場所に、ホテルではない会館風の建屋があった。入口には受け付けも無く中扉も開け放たれていたので中を覗くと、たくさんのテーブルに大皿が並べられ、各国からの招待客の熱気が漲っていた。明かりに乏しい会場だったが独特の雰囲気を醸すに充分だった。


「さすが広州交易会や。これからは中国がどでかいマーケットになりまっさかいに、世界中から人が集まって来よる」


「そやな。ほれ、日本人もいるやないか。おう、あっちもこっちも、たくさんいよるで」

「日本の貿易商社は必ず来てますよ。横山はん、せっかくですから食べませんか」


「おう、そや、食おう。しかし何か、あれやな。あんまり食い気のそそるもんは無いで」

「ほんまですねえ。やっぱり社交の場っちゅうことですかいな」


「これ見てみい。落雁みたいやけど甘味はないで。食在広州やいうてるのに、日本のホテルのパーティーとはちと趣が違うなあ」

「まあ、日本人は社交というより食い気がまさっていますさかいに。この前、ロンドンの企業に招かれて参加したレセプションでは、ピスタチオの実とビスケットだけでしたからねえ」


「まあ、そんなとこもあるやろ。うちの選挙事務所みたいなもんやな」

 そろそろ帰ろうかと横山が中津川に目配せをして、会場を出ようとしたその時に、どこから見られていたのか、新品の人民服をピシリと身に着けた男性が、片言の日本語で話しかけて来た。


「横山先生、本日はよくいらっしゃいました」

 そう言って差し出された名刺の肩書きには、日中友好技術交流連合会会長と記されていた。

「先生のような高名な方に、日中技術交流の懸け橋になっていただければ、広州交易会もますます実のあるものとなる事でしょう」


「いやあ、わざわざこんな偉い会長さんに招待してもらい、丁寧なご挨拶までいただいて恐縮ですな。ここにおります中津川氏は経営コンサルタントをしておりまして、日本企業へ工場誘致を促すための調査に訪れました。私も新しい中国の産業発展に注目しております。まあ、非力ではありますが尽力を惜しみませんよ」


「それは何と心強いお言葉です。実は先生にお土産を用意して参りました。福建(ふっけん)省の安渓(あんけい)にて生産された最上級の中国茶『鐵観音(てつかんのん)』ですよ」


 渡された手提げには二つの包みが入っていたのだが、白い包みは横山への手土産に、そしてもう一つの青い包みを指差して、神戸にある在日支部の同胞に渡していただけないかと頼まれた。


「いいえ、届けていただく必要などありません。先生の事務所に同胞がうかがいますので、分かるようにしておいていただければ有り難いのですが」

 託されて断る理由もないし、日中友好の橋渡しであればと横山は承諾して受け取った。



 ホテルに戻って横山は、中津川と五右衛門を自室に呼んで、紹興酒の封を切って三つのグラスに注ぎながらレセプションの話題を切り出した。

「なかなか律儀(りちぎ)なもんやないか。会長さん自らが手土産まで寄越して来よったで」


 いたく感心して持ち上げる中津川を横目に、そのような連合会など存在しないと怪しんだ五右衛門は、横山から手提げの包みを受け取って、青い方の包みを開いた。


「おいおい、それはまずいで。それは中国同胞へと託された預かり物やで。開封したことがバレてまうで」

「かまやしませんよ。事務所の者が間違って開けてしまったと言えばいいじゃありませんか。茶葉の包みまで開けるわけじゃないんですから」


 鐵観音と書かれた赤い缶は透明のビニールで密封されていた。五右衛門は横山の気遣いを無視して爪切りの刃を当ててビニールを切り裂き缶を開いた。缶の中から出てきたのは紛れもない、黒味がかった鐵観音の茶葉の包みであった。

 さらに五右衛門は、もう一つの白い包みを開いて封を切った。赤い缶の中から出てきたのは茶葉の包みではなく、小さなハンバーグをいびつに伸ばして固めたような飴色の欠片がいくつも入っていた。

 鼻を近付けると、僅かに不快な臭いが鼻腔の粘膜を刺激する。珍しげに横山も顔を近づけて覗き込む。


「ほう、鐵観音いうのはこんな固まりもあるんかいな。どうやって飲むんやろな」

「とんでもありません。これは生阿片に違いありません」


「なんやて。ど、どういうこっちゃ。こっちの包みはワシへの土産やというてくれたもんやで。なんでや」

「どういう目的か分かりませんが、狙われましたね横山さん。これまでに中国の知人や日本の闇社会に関与されたことはありませんか」


「あるもんか。ワシは中国に関心を持つ関西の企業とはいろいろと関わりがあるが、中国人との面識はないぞ」

「そうですか。官憲に踏み込まれるという事はないと思いますが、念のために今夜は私が預かりましょう」


 高純度に精製されたヘロインの密輸なら理解も出来るが、生阿片なんかを日本に持ち込んでどうするつもりなのか。代議士を利用すれば通関の手続きも甘いだろうと高を括ったにしても、持ち込む量や手間に対して価値が低すぎる。

 なぜなのか、何者なのか、その時には知る由もなかったが、五右衛門とは無縁の世界で柏原弘毅の狡猾な企みが動き始めていたのだった。

 翌朝、五右衛門は珠江のほとりまでタクシーを走らせ、飴色の鐵観音を大河の流れに放り込んだ。

 


 成田に着いて横山と中津川は大阪伊丹空港行きの便に乗り換え五右衛門と別れた。伊丹空港に到着してロビーに出ると、迎えの者がハイヤーを用意して横山を待ち受けていた。


「おい、中津川はん、良かったら一緒に乗って行かへんか」

「そうでっか。それではお言葉に甘えまして梅田までお願いできますか」


 中津川を梅田で降ろして事務所のある阿倍野方面へと向かう途中、横山は鼻腔の奥にツンと鋭い臭いを嗅いだような気がしたが、旅の疲れとハイヤーの揺れにまかせて軽やかな眠りにおちた。


 横山が目を覚ましたのは、誰も居ないアパートの一室だった。六畳だけの室内には家具も装飾も人の住んでいる気配もない。腕時計を見ると空港からハイヤーに乗って五時間が経過していた。そばに手荷物が置かれ、トランクが開かれたまま放置されていた。

 もしやと青ざめて財布とパスポートを確認したが盗まれてはいなかった。ただひとつ、横山が身震いを覚えたのは、トランクに入れていた鐵観音の赤い缶の封が空けられ、茶葉が撒き散らされていたことだ。


 横山は慌てて入口のドアのノブを回してみたが、監禁されているふうでもなくすぐに開いた。錦川五右衛門が言っていたように、代議士という肩書きに目を付けられて、麻薬の運び屋として利用されるところだったのか。



 ー桂林へー


 帰国した五右衛門は翌年の春、成田空港から中国民航機で桂林(けいりん)に向かった。広州白雲空港で乗り換えて、飛行機は三十分遅れで桂林上空へと差し掛かった。


 見よ、機窓の前方を。痘痕(あばた)と吹き出物を箱庭にして幾つも並べたようなカルストの奇観が雲の切れ間に姿を現す。腸壁に隆起したポリープが大根畑に連なる如く、怪奇的、神秘的な光景に息が詰まる。

 思わず五右衛門は機窓に額をくっ付けて瞳を凝らした。豊潤な水に湛えられた水田地帯が眼下に広がり、赤土の大地を隔てた先の眺望が一変する。何億年もの時を経て造形された稀有壮大な自然の力にただ息を飲むばかりだ。

 飛行機はグイグイと機首を下げて、起伏した奇観の大地の真っ只中に降下していく。やがてだだっ広い空港にタラップが降ろされて、周囲を見渡すとそこはもう奇勝桂林の真っ只中に佇むノアの箱舟のようであった。

 五右衛門は滑走路から周囲を見渡して、すでに山水の描かれた画中に佇んでいるような静寂な美しさに感動して胸を震わせた。

 


 簡単な通関を終えてロビーに出ると、はじけるような香蘭の笑顔が待ち受けていた。その一瞬、五右衛門の心の隅で、邪淫のとまどいと罪のやましさが鞭を振るった。

 けがれを知らない純潔無垢の香蘭の笑顔が本当にふさわしいのは、人間という(ほこり)にまみれ、百万ドルのネオンのきらめく大都会ではなく、自然の山河と清爽な美しさに恵まれたこの桂林の地ではないのかと。


 薄いベールをはがせば魑魅魍魎の咆哮する闇の大都会香港へ、己の情欲で彼女を底無し沼へと誘い出し宿命をもてあそぶ、それは魔性の罪ではないのかと葛藤が渦巻いた。


「五右衛門さんのお陰で許可が下りたよ」

 待ちかねていたように駆け寄ってきて香蘭は言った。

「長引いたけど良かったね」


 国家公務員として国民の一人一人に業務が定められている中国で、女子といえども勝手に職場を移ったり国外に出ることは許されない。五右衛門は華僑の縁故と金を使って申請の速やかな許可を頼んだのだ。

 五右衛門は妖精の瞳でほほ笑む香蘭の肩を抱きしめたい衝動に駆られたが人目をはばかり、人形のようにしなやかな手を包み込むように握りしめて笑みを返した。

 

 二人は空港からバスに乗り、離江(りこう)の船着場へと向かった。遊覧船で離江を下れば桂林の絶景を堪能できますと、香蘭からの便りに綴られていた。そして離江の水を使って両親と兄が農業に従事しているのだと付け加えられていた。


 広西チワン族自治区興安県の猫児山の湧水が源流となって南に下り、桂林に到って離江となる。更に下って珠江に合流し大河となって九竜半島の河口に到る。

 豊潤な離江の碧水が肥沃な桂林の土壌に豊穣を促し、大自然が造形した不可思議な奇峰と融和して山水の幽玄な美しさを描き上げる。


 船着場を出航した遊覧船は八十キロ余り川下の陽朔を目指す。橋上の欄干から身を乗り出した子供たちが手を振って船を見送る。

 角と目玉だけを川面に突き出した水牛たちが気持良げに沐浴をする。その合間を縫って男の子たちが水と戯れ飛沫を撥ねる。


 棕櫚樹や孟宗竹林の緑に囲まれた白壁の人家が中国風で印象的だ。竹編みの細長い(いかだ)(ざる)を載せた老人が振り向きもせずに流れをよぎる。

 ときおり擦れ違う乗り合い船には、買出しの食料やら農機具、自転車などが積載されて長閑(のどか)な表情の若者が真っ黒に日焼けした顔でくつろいでいる。上りと下りの遊覧船が擦れ違うたびにヴォーヴォーと鼓膜破りの汽笛が響く。


 草坪を過ぎて楊堤から浪石の辺りまで来ると離江下りも佳境に入り、奇巌の峰を見下ろすように流れる碧雲が霞となって山肌を覆い、降り注ぐ光を削がれた山峡の淡い光景が幽邃(ゆうすい)の境へと変貌する。

 濃淡の墨汁を流したように山峡を縫って霧が舞い、碧水の蛇行が無彩色の世界に悠久の時間を巡らせる。この世のものとは思えない水墨山河の大画額の中へと船は迷い込む。


 かつて麻布十番自治会バス旅行で訪れた猊鼻渓(げいびけい)の舟下りでも、長瀞(ながとろ)の川下りでも、これ程の感動を覚えることは断じて無かった。

 万里の長城に度肝を抜かれ、霊峰黄山に畏怖を覚え、揚子江の三峡を下って壮麗な渓谷観に感動した。しかし、これ程までに幽玄夢幻な幽境のスケールに陶酔を覚えたことはない。


 その時だった、山上の霧が流れて稜線が動いた。雲が黒点となり峰々を飛び渡るのは觔斗雲(きんとうん)に乗って如意棒を振りかざす孫悟空ではないかと思って五右衛門は目を擦った。

 湿りを帯びた峡風に顔面を拭われて、我に返ってデッキを見ると、清楚な人民服に身を包んだ香蘭の黒髪が川風に吹かれて、鱗粉を振り撒く胡蝶の羽のように舞っていた。

 

 遊覧船が陽朔(ようさく)の船着場に到着する頃にはすっかり霧も晴れて陽も傾いていた。バスに乗って北へ走る。離江の碧流が一面の水田に変わり、地中から飛び出した大根のようなカルストの小山が車窓の彼方まで埋め尽くす。


 停留所で降車したのは五右衛門と香蘭だけだった。田圃の畦をしばらく歩き、二瘤駱駝(ふたこぶらくだ)に似た隆起を背にした所に香蘭の家が一軒ポツンと佇んでいた。


 五右衛門を歓迎してくれた両親は、唐辛子のたっぷり利いたビーフンの野菜炒めを作ってくれた。家鴨(あひる)の茹で卵を食べろと言って振舞ってくれた。兄は離江で獲れた川海老を油で揚げて出してくれた。

 五右衛門は湯浴みを済ませて食事を終えて、鞄に詰め込んできた香港ドルの札束を両親の前に差し出した。両親は然して驚く風も無く、優しく微笑んで顔を左右に振るだけだった。


「金は稼いだ者が使えば良い」

 と、父親は言って言葉を継いだ。

「百姓が過分な金を持てば贅沢を知る。贅沢に慣れた心は贅沢に溺れて二度と元の心に戻れなくなる。美味しいものを食せばもっと美味しいものを食べたくなる。大きい家を建てればもっと大きい家を欲しくなる。金は欲に火を付け、欲がまた金を求める。勤労の意欲が削がれた時に人は抜け殻となり廃人となる。私等には桂林の肥沃な土地がある。ここで百姓をするに過分な金は邪魔になる」


 そう言って父親は五右衛門の差し出した札束を頑として受け取ろうとしなかった。ならばせめて、と五右衛門は申し出た。

「農作業に必要な農機具や、街まで収穫を運搬するトラックだけでも新しいものを買い求めてはどうですか」


 父親は首を左右に振って言った。

「私等には私等の生活のリズムがありますのじゃ。どんな農機具もトラックも私等のリズムに合わせて生きている。いきなり新品になってしまったら互いの波長が狂ってしまう。私等田舎者は不器用だから時の流れにも川の流れにも逆らえず、簡単に頭を切り替えることができないのです」

 無益な金が勤労の意欲を奪い去り、平和で長閑な農村一家の幸せを破壊する。札束が両親にとって危険な汚物に等しい事を悟った五右衛門は、翌朝礼を述べて家を辞した。

 

 兄がハンドルを握り、香蘭が助手席に座って五右衛門を空港まで送ってくれた。豊潤に水を湛えた一面の水田からボコリボコリと隆起する不揃いなカルストの小山に朝靄が覆い被さり、幽明の界を思わせる静寂幽静の空間を使い古しの唸りを上げて(さび)だらけのトラックが走り抜ける。


 農道に転がる小石が車軸にはじかれゴチリと鳴って畦の蛙を驚かせる。水田に放された家鴨たちが稲の葉に隠れた田の虫をついばみ、白鷺の飛翔が白絹の羽衣のように霞みに透ける。この世の中にこれほど長閑な風景が他にあるだろうかと五右衛門は思い嘆息した。


 兄が小声で香蘭に何やら話しかけた。香蘭は険しい目付きで兄を見返した。早口で口論を始めた二人の広東語を五右衛門は聞き取ることが出来なかった。いたたまれなく五右衛門が仲裁に入ると、兄は照れ笑いに香蘭はふくれっ面だった。

 五右衛門が香蘭に兄の話の内容を聞きたいとしつこく説得したところ、不承不承に言葉を噛みしめながら語り始めた。


「父親は見栄を張ってあのような強がりを言ったけれども、いざという時の為には蓄えが無ければ生きていけない。私たちは貧乏な農民だ。老いた両親が病を患えば金が要る。人を雇えばまた金が要る。妹の香蘭は遠い都会に出てしまい、残された自分一人で広い田圃を耕し農作業に勤しみ両親の面倒を見なければならない。父親に内緒でその金を預からせてもらえないだろうか」


 五右衛門は兄の話に一瞬の疑念を抱いた。これまで香蘭は、広州で稼いだ給料の半分を貧しい両親の生活費として仕送りしていたと言っていた。バスに乗って兄が受け取りにやって来たと言った。ところがどうだ、五右衛門が鞄に詰めて持って来た大金を、両親は見向きもせずに拒絶した。

 もしかして、いや間違いない、香蘭の労働の対価の半分は家族の為ではなく、兄の遊興のしのぎの捨て銭だったのではないのか。そして今、その事実を香蘭も始めて気付いたのではないだろうか。香蘭の歯ぎしりに歪んだ表情が何より悔しさを物語っている。


 五右衛門は黙って鞄の中の札束を兄に渡した。香蘭は恨めしそうに兄を見詰めた。都会の手垢と魔性の染み付いた札束が、兄にとっては汚泥どころか猛毒だという事を妹の香蘭は知っていたのだ。

 


 結果はすぐに表れた。すでに香港で仕事を始めていた香蘭に、兄から薄っぺらい一通の手紙が届いた。手紙の趣旨は読むまでもなく、金の無心を求めた内容だった。


 誘蛾灯に吸い寄せられた蛾のように、(すき)(くわ)も放り投げて街の灯りに誘惑されてしまった兄は狂ったように遊興にはまり、札束の紙幣は一枚また一枚と消えていった。

 あっと言う間に札束は無くなり、金は底を突いても一旦蝕まれてしまった放蕩の欲に底は無かった。どん底まで窮地におちいり見境もなく、香港で生活を始めていた香蘭に金の無心を求めてきたのだ。


 五右衛門は兄からの手紙を破り捨て、香蘭に代わって手紙を書いた。

『お兄さん、金は天から降って来るものでもなければ水道の蛇口をひねって出て来るものでもありません。汗水たらして苦労して働いて、ようやく労働に見合った報酬を手にすることができるのです。お父上はおっしゃいました、勤労の意欲が削がれた時に、人は抜け殻となり廃人となると。清々しい桂林の肥沃な土地で、勤労の意欲も喜びも失い、生きる気力さえも失せたのならば、どうか死を覚悟してこれを煎じてお飲み下さい』

 その手紙に付してトリカブトの根っこに酷似したニリンソウの根を幾重にもビニールに包んで梱包し、桂林の兄あてに郵送した。

 


 ーアテナの審問ー


 霧が晴れるようにさらりと画像が消えると、天蓋の黄金鏡に琥珀のきらめきを受けて女神アテナの声が響き渡る。


「それでは審問を続行します」

 アテナの声を受けて、それまでじっと後方に座していた半裸の神が、黄金の酒杯を掲げて一歩前に進み出て来た。


「私は豊饒の神ディオニュソス。ぶどうの実からアルコールのエキスを絞り出して赤と白の美酒を生み出した酒祭儀の神にて、またの名をバッカスと呼ばれております」


「おう、ぶどう酒の神か。赤白ワインなら俺も飲んだぜ。シャトーオーブリオンの取って置きのヴィンテージは絶品だったねえ。あんたボルドーの生まれかね、バカのカス」

「バカでもカスでもない、バッカスです」

「春日部のバカ」


「いいかげんにしなさいよ。今から彼が審問しますゆえに、真摯(しんし)な態度で答えなさい」

 アテナにたしなめられて五右衛門は殊勝に頷いた。アテナに促されてディオニュソスがおもむろに審問を始める。

「コホン、汝に問う。礼を何と心得ておるか?」


「別に何とも心得ちゃいねえよ」

「…………」


「おしまいかい、審問は……?」

「おしまいではない。仁とは智徳をもって自他の隔たりを置かず、義の勇を持って眼前に於ける一切のものに接し、慈愛の情を持ち己を(にえ)にして思いやること。礼とは秩序の規範にして人倫の理念、克己復礼にして遜恭(そんきょう)の心象を露わにするものなり。はばかりなく境涯の礼の証しを示すがよい」


「お前、自分で何をしゃべってるか意味分かってんのか? 酔っぱらってるのか? 仁とか義とかの審判なら、さっきまでの裁判宮でさんざんいたぶられてケリはつけたぜ」

「…………」

 酒杯に満たされたワインを煽って沈黙を決め込んだバッカスに代わり、アテナが審問を引き継いだ。


「あのねえ、よく聞きなさいよ。あんた、仁の審判で諭されたと思うけど、仁は慈悲の心を持って愛する徳だけれど、それをねえ、はっきりと行動にして示さなければ礼にならないって言ってるのよ。少しでも私利私欲があったら礼に失して減点だよ」

 しばし首をひねって思考して、言い訳でもするように五右衛門が答える。


「俺は香蘭を愛おしく思い、香港での生活の為に何から何まで面倒を見た。香蘭の兄貴にも施しをしてやった。これは劉孔明へ尽くした立派な礼だと思うがどうなんだい」


「そんなものは礼とは言えないね。日本に憧れ日本語を習得し、桂林の片田舎から広州の都会に出て来たうら若き女の弱みに付け込んで、(よこし)まな心が働いた。あんたの欲の見返りとして、女の兄に金を与えただけじゃないか。そのお金の為に一人の若者の心まで狂わせてしまった。金権とまやかしの義侠心を建前にして履き違え、愛しい女を我が物にしようとたぶらかした。そうじゃないのかい、ゴンちゃん。欲得抜きで相手に接する心がけ、これが真の礼というものだよ」


「ゴンちゃんておめえ、そう言い切っちゃあ、身も蓋も無えじゃねえか。そりゃあ邪まな気持ちも少しはあるさ、でも、たぶらかしたは言い過ぎじゃねえか。香蘭の件についちゃあ、もっと続きがあるぜ。もう一度ビデオを回してよく見てくれよ」


「さして審問に値するような出来事だとは思えませぬが、被告が求めるなら見てみることにいたしましょう」


 

 ー再び桂林へー


 改めて霧が広がり、画面には喧噪な香港の街並みが映し出された。セントラル地区の一角に立つビルの事務室の中で佇む一人の女性の姿がズーミングされる。


 青ざめた表情の香蘭が一通の手紙を見詰め、身体をわなわなと震わせながら何度も文面を読み直している。手紙の差出人は桂林に住む兄からだった。


『錦川五右衛門から貰った木の根っ子を、薬草と信じて両親に煎じて飲ませたところ、三日三晩も苦しんだ挙句に死んでしまった。金が無いから葬式も出せない。途方に暮れて悲しんでいる。慰謝料も含めて前回の倍の金を寄越すようにと彼に伝えてくれ。兄より』

 

港区麻布十番の電話番号を、香蘭は国際電話の交換手に伝えた。やがて繋がった電話口に、嗚咽(おえつ)しながらなじるように香蘭は怒鳴った。

「五右衛門さん、あなたは兄にどんな木の根っ子を贈ったのですか。煎じて飲んだ両親が死んでしまいました。私は今からすぐに桂林に行きます」


「待て香蘭、どういう事なんだ?」

「兄から手紙が届きました。慰謝料と葬式代を寄越せって。前回の倍額寄越せと言っています」


「分かった。私もすぐに香港に行く。それまで桂林に行くのは待ってくれ」

「待てません。両親が死んだのですよ。事務所にあるだけの現金を持ってすぐに行きます」


 そう言って、香蘭からの電話は一方的に切れてしまった。五右衛門は首を傾げた。兄貴が煎じて飲むはずのものをなぜ両親に飲ませたのか。いな、煎じるまでもなくその根っ子が、どのような趣旨であったかを兄が分からぬはずはない。


 五右衛門は香港の劉孔明に電話した。これまでの経緯を全て話した後に身支度を整えて香港に行き、劉孔明に挨拶をして桂林に飛んだ。


 空港に到着すると、劉孔明が手配してくれた一人の男が待ち受けており、チェンと呼んでくれと名乗って車に案内してくれた。


 市街を抜けて漓江沿いの街道をひたすら走って二時間余り、運転手が路上に車を停めると、田圃の向こうに香蘭の住んでいた農家が見えた。五右衛門とチェンは後部座席から降りて一緒にあぜ道を歩いた。

 周囲は一面の水田だが、カルストの巨大な岩峰があちこちに突き出している。幾重にも連なる石柱に、入り組む水田の遠方の視界が遮られる。岩山の麓に農家が点在しているが人影はない。蛙の鳴き声とトンボの羽音が聞こえるだけだ。


 家の戸口に立ってチェンが声を掛けた。しばらくして顔を覗かせたのは香蘭の母親だった。やっぱりそうかと五右衛門は頷いた。両親は健在だったのだ。

 話を聞くと、香蘭が慌ただしく家に戻って来たのだが、すぐに兄に連れられてどこかに出かけて三日経っても二人とも戻って来ないのだと言う。

 

 五右衛門は市内に戻り、チェンが案内するホテルに入って思案した。思案する間もなく情報が入った。狭い桂林の裏の動きは比較的素朴で単純だった。


 翌日、香蘭の兄が、エラの張った目付きの悪い下駄顔の男と一緒に、五右衛門の宿泊するホテルにやって来た。五右衛門は二人を部屋に招き入れ、チェンと一緒に対応して兄に言った。


「お兄さん、ご両親は健在なのに、葬式代だの慰謝料だとか、いったいどういう了見なんでしょうねえ」

「お前が悪いんだ。あんな根っ子なんか寄越すから。無理やり口に放り込まれて殺されるとこだった。手紙を書いたのは俺じゃない。書かされたんだ」


 いきなり兄の頬に下駄顔の男の鉄拳が飛び、五右衛門を守ろうと身構えたチェンまでも、下腹を蹴飛ばされて蹲った。

「おい日本人。こいつはなあ、博打に明け暮れた挙句に多額の借金をして、一銭も返せずに俺たちに迷惑をかけているんだ。聞くところによると、お前はこいつの妹をたらし込んで、香港か日本でいいように弄んでいるそうじゃねえか。慰謝料とはそういうことだ」


 五右衛門は、男の視線を無視して兄に問いかけた。

「お兄さん、香蘭が香港からかなりの金額を持って来たはずだけど、それで借金は返せなかったのですか」


「借金は利子で百倍に膨れ上がった。香蘭が借金のかたに取られて監禁されてしまった。ほっといたらタイかどこかに売り飛ばされてしまう。俺はイカサマ博打に騙されたんだ」

 兄のボディーに鋭いブローが打ち込まれ、俯いた顔面に再び鉄拳が飛んで鼻血が噴き出し床に崩れて伏してしまった。


「やめろ!」

 思わず叫んだチェンの顔に唾を吐き飛ばした下駄顔の男は、五右衛門を威嚇するように目を見開いて睨み付けた。その目を見据えて五右衛門は言った。


「香蘭を返してもらいたい。そのための金は惜しまない」

「よく言った。返してやるから金を出せ」


「ダメだ。この目で香蘭の顔を見るまで金は渡さない」

「いいだろう。場所と金額はあとで連絡する。そこに金を持って来い」


 兄を残して男は引き上げた。五右衛門は些少の金額を兄に渡し、諭して両親の家に帰るように促した。

 一時間もしないうちに車を運転していた男が部屋に入って来て、ぼそぼそとチェンになにやら報告をしている。頷きながらチェンは聞き終えて、香蘭の居場所が分かったと五右衛門に告げた。


 運転手は先程の男の車を追跡尾行して、奴らのアジトに忍び込んで組織の様子と人数を探り、香蘭の監禁場所を突き止めたのだという。

 賭場を張って農民から金を巻き上げ、町の警官に僅かな賄賂を渡して裏町を牛耳る質の悪い無宿者の集まりだという。

 そのすぐ後に部屋の電話が鳴って受話器を取ると、先程の男の声で取引の場所を指定して来た。そこは町から少し離れた漓江の(ほとり)の竹やぶの傍だった。

 


 翌日の夕刻、小さなスーツケースを持って五右衛門は、チェンと二人で奴らに指定された場所に赴いた。

 小さな船着き場から竹編みの筏に乗ると、船頭が長い竹竿で黒墨の川面にズイッと漕ぎ出す。十分ほど川面を走らせると、筏は竹やぶの傍の水内際に近付いた。


 竹やぶを背に、一人の男が椅子に座ってタバコの紫煙を燻らせていた。その隣に、目付きの鋭い下駄顔の男が不動に構え、二人の後ろに三人の男がカービン銃を肩からぶら下げて立っていた。


 筏を寄せて川岸に上がると、船頭は川岸から離れて闇に消えた。ゆっくりと五右衛門は男たちに近付いて、手に持っていたスーツケースを放り投げた。


「金は持って来た。香蘭を返してもらいたい」

 目付きの鋭い下駄顔が近付いて、スーツケースを手にしようと背をかがめた時、後ろに立っていた男の一人が声も上げずに倒れ込むのが見えた。そしてその隣の男も倒れ込んで、椅子の男にもたれかかった。


 驚いて椅子の男が振り向いた時、さらに隣の男も倒れ込んで椅子の男が叫び声をあげた。それを見て異変を悟った下駄顔の男が、上着の内から拳銃を取り出した刹那、チェンのサイレンサーが火を噴いた。


 椅子の男は立ち上がり、一瞬にして立場が入れ替わったことを知って脚をブルブルと震わせ慄いていた。竹やぶの中から先程の船頭が現れて、三人の男の首筋に刺さったトリカブトの毒矢を引き抜いた。

 男を椅子に座らせた五右衛門は、ゆっくりとドスを効かせた声音で男の耳元に囁いた。


「私は趙智林の命令でお前を殺しに来た。彼は戦時中に諜報活動の(かなめ)として働いていた。その組織は今も密かに存在している。お前が賭博で騙した男と、香蘭の父親が趙智林だ。香蘭はすでにお前たちのアジトから救い出している。お前をいつでも漓江の藻屑にすることなど造作もないことだ。殺されたくなければ約束を守れ。彼の息子に二度と近付かない事と、趙智林の秘密を忘れる事。できるか?」

「できます。絶対に守ります。お許しください」

 


 かくしてスクリーンは再び霧消して審判官の姿が現れた。

「アンちゃん、見たかい。俺は悪事のボスを懲らしめてまで香蘭の兄貴に礼を尽くしたんだぜ。しかもボスだけは殺さなかった。殺してしまえばまた新しい組織とボスが生まれて悪事を繰り返すことになる。とっさの理知を偉いと思わねえかい」


「どこが偉いのよ、四人も殺して嘘ついて。ここは礼の審問宮だから殺人罪まで問わないけれど、娑婆の裁判所だったら無期懲役か死刑囚だよあんた」


「俺は殺しちゃいねえよ。あの場面じゃあ、誰が見たって俺たちの正当防衛が成立するんじゃないのかねえ」


「そんな言い訳は通用しないよ。元はといえば、あんたが罪を作り出して、他人の手を借りて復讐という蛮行に走っただけじゃないのさ。悪因悪果のことわりにして、傲慢な思い上がりが完璧に礼の真意を失してしまった。ゼウス様、そろそろ判定を下さねばなりませぬが、天中命殺三十獄点ということでいかがでございましょう」


「異議無いぞ。アテナに任せる」

「それではこれで審問を終わります」


「おい待てよアンちゃん。俺の話はまだ終わっちゃいねえよ」

「持ち時間超過だから、また今度ね、ゴンちゃん」


「また今度ねってお前、いつ会えるんだよ。鶯谷のソープ嬢みたいなこと言って突き放すなよ」


 鏡面の床がぐらりと揺れて、天井が裂けて微塵の霞が燦々と煌めく中で、ゼウスとディオニュソスが立ち去る背中が見える。その後ろから、アテナがウインクをして消え去った。


 アテナが消えて、なにやらやるせない感情を残したような、寂しげな、感情の無い感性に無情寂寞の風を感じる。全てが消えて闇となった空間に、たぐり寄せられるように魂が浮遊する。



次の章では、インドネシアの孤島とヨットレースが舞台となります。

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