第三章 三・七日【義の審問】
アステカの神々によって不義不善の邪念について審問されます。債務者にまとわりつく不良仲間の悪行と制裁が主題となります。
微塵の感情も緊張もなく、脳味噌の隅々までが真空純白だとはこのことだろうか。無為夢想の魂が、虚無の道をひたすら進む。百万歩、いや一千万歩を超えただろうか。
一口に一千万歩といって途方もないが、その道のりに何らの異変も見当たらないし不安も無いからそのように表現するしかないのだ。
不安が無いというのが不思議であり、感情が無いと感じる意識が不可解だ。果てしなく果てもなく歩き続けなければならないと急き立てられるのは、息をしなければ死ぬという切迫した概念ではなくて、ひたすら駅前のパチンコ店で玉を打ち続けているような、とめどがない微妙な焦燥と安らぎの中だ。
苦痛も疲労もないから、振り向きたいと試みる足掻きさえも無意味で、眠りから覚めた夢遊病者になり切って歩き続ける。
やがて闇の彼方に光が見えた。青玉色に透けた天空に無限の大気が炸裂し、光芒の閃光に閉じ込められたかと思うと暗黒星雲の黒煙に包まれ完全に視界が失われた。
どぶの中を這いずり回る子鼠のように、煙のうねりに任せて身をくねらせていると、絹糸がほつれて消えるほのかなグレーゾーンの水平線に三角錐の雲霧が湧き上がった。
やがて水平線は緑の地平線へと色彩を変え、大平原に浮かぶ三角錐は巨大なピラミッドとなって陰影の輪郭を現した。
おおあれは、かつて中南米不動産鑑定ツアーで訪れたメキシコの遺跡、ティオテワカンの太陽のピラミッドではないか。
黄金の宮殿をいただいた巨大なピラミッドの石段に向かって、赤土色の死者の道が緑の絨毯を切り裂くように長く延びる。サファイアカラーの空に太陽は無い。深緑の大地に草木は無い。天を突くようにピラミッドだけがそびえ立つ。
吸い寄せられるように死者の道をゆっくりと進む。ピラミッドに近付くにつれて黄金の宮殿が視界から消え、積み上げられた巨石の壁と、頂上へと続く石の階段が眼前に迫り来る。
ふと見ると、石段の両側に鬼がいる。青玉色の肌をした鬼が二匹、いや二人、五右衛門をにらみつけて立哨している。
右側に立っている鬼が五右衛門に向けて手招きをした。愛想が良さそうだからと油断したトパーズの鬼の仕打ちに懲りていた。とにかく鬼とヤクザには関わりたくないと嫌悪した五右衛門は、素知らぬ振りを装って顔を背け、遠回りに鬼の横手を回り込んで行き過ぎようとした。
いきなり五右衛門の横っ面を目がけてサボテンの塊が投げつけられた。点滴用注射針より太い巨大な棘が顔面をプスプスと突き刺した。喉元に刺さった棘は喉仏を潰し、頭骨を貫いた棘は二つの眼球を串刺しにした。
「ゲッ、イテテテテッ。何てことしやがるんだクソ鬼。痛えじゃねえか」
「こっちへ来い」
悲鳴を上げる五右衛門に鬼が手招きをした。
「いやだ! 誰が行くか」
叫んで五右衛門は駆け出した。関わりになんかなるものかと、必死に五右衛門はピラミッドの左手に向かって疾駆した。
裏側にも階段はあるかもしれない。なければよじ登ってでも頂上の宮殿まで行き着いてやる。そう考えてピラミッドの周囲を駆けた。
駆けたけれどもなかなかピラミッドの端にたどり着かない。赤土色の道をいつまでも、いつまでも走り続ける。ようやく着いたと思って角を曲がると石段が見えた。石段の両側に青玉色の鬼がいた。
鬼がこっちを向いて手招きをしている。良く見ると、先ほどの鬼と同じではないか。違うのは、先ほどよりも間違いなく剣呑に目が釣りあがっていることだった。
五右衛門は逃げることを諦めた。逆らえば逆らうだけ鬼を怒らせ、何をされるか分からないと考えて覚悟を決めた。
五右衛門は、媚びた笑顔に揉み手を擦って二人の鬼に近付いた。
「よっ、お兄さん方。頭のてっぺんから足の先まで、なかなか見事な色をしているねえ。天然サファイアも顔負けの青色だ。今時の高級車の塗装でも、なかなかそこまでの色は出せませんよ」
むっつりと表情を変えずに鬼が問う。
「何しに来た?」
「別に用事があって来たわけじゃねえよ。歩いて来たらピラミッドがあり、上を見たら宮殿がある。素通りするのも何だから、宮殿の見学がてら、主に挨拶でもしていこうと思っているんだ。どいてくれよ邪魔だから」
鬼の右手の鉄棒が振り下ろされて、鈍い音がバコッと鳴った。
「ウ、グググ。く、首の骨が折れちまったじゃねえか」
星と火花が交互に散って、目から血と涙が飛び出してうずくまった五右衛門は、目の前にはだかる鬼の脛を前歯と奥歯で思い切り噛みついた。
「イ、イテテ」
思いも寄らない反撃に慌てた鬼は、体を半回転させて五右衛門の向こう脛を天に向けて蹴り上げた。その勢いで五右衛門の身体は鬼の頭上を飛び越えて、ピラミッドの石段の角に落下した。
「やや、まずいぞ。記帳をさせずに入れてしまったぞ」
もう一方の鬼が振り向いて仲間の鬼をとがめたが、門番だけが役割の彼らには、ピラミッドの石段を上ることができずに臍を噛みながら五右衛門を見詰めた。
頭骨と歯茎と尾てい骨を打ち砕かれて血の膿を流し、向うずねを引きずりながらも石段を登る五右衛門を、追うことも連れ戻すことも出来ない鬼は鋭い眼光でにらみつけ、戻って来いと大声で叫ぶだけだった。
五右衛門は無視して、割れた頭骨に唾を塗りつけ、尾てい骨をさすりながらピラミッドの階段を登り続けた。
石段は上に登るほど狭く急勾配になっている。石段を背にして見下ろすと、空中の微塵がサファイア色に透過して、天空の光陰に吸い寄せられるようでクラクラと目が眩む。
ーコロンブスー
ようやく頂上にたどり着いて前方を見ると、氷のように冷たい水晶の広場に黄金宮が厳かに佇んでいた。大寺院の大尖塔に金粉をまぶし、外壁には幾重にも金箔を貼り付けられて輝く豪壮華麗な神殿だった。
金無垢の鈍い輝きに誘われて近付いて行くと、黒いマントを身にはおり、古式単眼の望遠鏡を首からぶら下げて腕組みをしている金髪の男が神殿の入口に立っていた。
五右衛門が足を引きずりながら入口までたどり着くと、男は両の腕を大仰に広げて大きく頷いた。
「ようこそいらっしゃいました、黄金の神殿へ。ここは『義』の審問が行われる裁判宮でありますぞ。世のため人のため、いかに正義正道をつらぬいて生きて来たか、よこしまな欲に溺れて義を見失うことは無かったか、貴殿の義の所業が審判されるのです。さあ、心を寧静に導き、邪の暗愚を沈吟し、雑念を拭浄して祈るのです。ささ、ここにひざまずいて共に祈りを捧げましょう」
「あんた誰だい?」
異様な風体の男に眉をひそめて五右衛門が問うた。
「我輩はイスパニアの大探検家、大航海のすえアメリカ大陸を発見した英雄、クリストファー・コロンブスでありますよ」
「クリトリスのドブスがここで何してるんだ?」
「クリストファーのコロンブスです」
「コロンブタ?」
「コロンブス」
「宮殿の扉を開けろ」
「なりませぬ。お呼びがあるまで待つのです。それまで此処にひざまずいて、お祈りを捧げるのが決まりなのですから」
「どけ、ブタ!」
「ブスです。貴殿のような粗野で乱暴な輩は、古代ローマ帝国の暴君ネロ以来ですな」
「お前、アメリカ大陸を発見したって言うけど、ありゃあただの偶然だって言うじゃねえか。港を出航して船をフラフラ走らせてたら、たまたま突き当たった陸地をインドと勘違いして、有頂天になって原住民をインディアンと呼んで喜んでたって、社会科の真知子先生があざ笑ってたぞ、お前のことを」
「何と無礼千万な。偶然であろうがなかろうが、私が偉大な探検家であり勇敢な航海士である事に変わりはないでしょう。かの航海がいかに危険と不安と孤独に満ちたものであったか知っていますか。今から遡ること数百数十年、すねに傷持つ命知らずの荒くれ者を集めて船に乗せ、西欧の大国イスパニアのバロス港を勇躍出航し、アトランティスの大洋を西へ向けて遥かなる未来を託し希望を抱きて船出した。大海原の中での凄まじい暴風雨を幾度も乗り越え、反乱や病魔から身を守り食料不足を恐れつつ、幻の新大陸を発見したあの時の感動を理解できますか、ねえあなた。ガキを相手にせせこましい教室で、他人が作った教科書を頼りに、いっぱしな物知り顔で教鞭を執る先公にあざ笑われてたまりましょうか。文句があるなら勇気を出して、世界の歴史を変えるような大冒険に挑戦してみなさいよって、社会科の真知子先生に伝えてもらいましょうか」
「やかましい。お前の浪花節を聞いてる暇はねえんだ。どけ」
慌てて立ちふさがるコロンブスを押しのけて、宮殿の扉を開こうとしてもみ合った。
五右衛門が上手ひねりに、けた繰りをかけて浴びせ倒し、コロンブスの背中を宮殿の扉に打ち付けた。コロンブスがヘッドロックで五右衛門の脳天を宮殿の扉に打ちつけた。五右衛門が背負い投げで扉にコロンブスを投げつけた。コロンブスが飛びけり飛行機投げで五右衛門を扉にめがけて放り投げた。
余りにも異常な物音を不審に思った警備の鬼が、扉を開いて外を覗いた。
バックドロップを食らった五右衛門の後頭部がいきなり鬼の顔面を直撃し、青玉色の諸肌をプルプルと震わせた鬼は赤鬼と化して鉄棒を振りかざした。
まさに鬼の形相となって怒る鬼の様を見たコロンブスは一目散に広場の方へ逃走し、あわれ五右衛門の頭蓋骨と肋骨は鉄棒に打ち砕かれて意識を失ってしまった。
ーアステカの神ー
夢うつつのうちに意識を取り戻した五右衛門の表情を、怪訝そうに二神が覗き込むように見つめておられた。
「ようやく目を覚ましおったか」
「被告を席へと導きましょう」
睡眠剤の薬効を頭の芯に残したような気だるさで目覚めた五右衛門は、自分がどこにいるのかを探るかのように周囲をうかがった。
霞の中に衣を隠した二つの顔が宙を舞うと、五右衛門の身体が真空に舞う小鳩の羽毛のように浮遊して水晶の椅子へと運ばれた。
ゆらりと霞が切れて焦点が定まると、黄金の壇上の黄金の椅子に座す二神の姿がさらされた。
右方に座すは、蜂鳥の飾りを冠し、火の玉の蛇をかざして威圧するは勇猛な戦士であろうか。
左方の神は、赤や緑で彩られた腕飾りや足飾りに鮮やかな極彩色の胴着をまとい、いずれも裁判宮には似つかわしくない派手に過ぎる衣装であった。
ところが、神より発せられた御声の響きは、けばけばしい軍神の衣装に似合わず、遥かインディオの哀愁を漂わせるケーナの笛の音色のごとく涼やかであった。
「目覚めよ、被告。これより義の審判を行いまする。汝の汝たるやを確認するために、汝の生前の名を名乗るがよい」
いつの間にか水晶の椅子に座らされていた五右衛門は、原色を重ね合わせて身体中に飾りを纏った神々の、奔放な衣装にあっけに取られながら言葉を返した。
「俺は五右衛門だけど、あんた誰だよ?」
「私の名はケツァルコアトル」
「なにっ?」
「ケツァルコアトル」
「はっ?」
「ケツァルコアトル」
「へっ?」
「なめとんのか」
ケツァルコアトル神の怒りにひるんで五右衛門が小声で問いかけた。
「何者だい?」
「アステカの文明文化をつかさどり、人類に火炎と豊穣をもたらす創造の神だ。こちらにおわすは暗黒の天地に暁光をもたらす太陽の軍神、ウィツィロポチトリさまなるぞ」
「うちのポチとニワトリ?」
「家のポチでも二羽の鳥でもない。アステカの太陽神だと言ったであろうが。夜の悪神と戦って永遠の闇から世界に光をもたらされたのだ。いつから夜が朝になったかだと、アステカの神をなめとんのか。毎朝日の出を迎えて、おはようございますと挨拶できるのはウィツィロポチトリさまのお陰だアホウ」
堪忍袋が破れかかったケツァルコアトルの怒りを制して、右方に座するウィツィロポチトリ神が、オカリナの土笛に似て軽やかな御声で仰せになった。
「それでは審問を始めるゆえに、神に誓いて真実を語るがよいぞ。まず義を問う前に、義と裏腹にあるよこしまな欲について問いただす。人は生きて怒り、悲しみ、疑い、迷い、妬み、嘲り、あらゆる艱苦に執着する妄念があり、三毒、百八、八万四千の煩悩あるも、すべからく我執の欲につきるものなり。未来に描いた夢が一瞬にして過去になる時、叶えられた儚さが虚しさとなり、残された不安から逃れるために新たな夢のうわぬりをする。夢と欲との分別も無く、希望を糧に畏れを忘れ、欺瞞と羞恥に身をかくし、徳も倫理も置き去りにする。呻吟の努力を横目に追いやり、自我をあざむき自尊におぼれる。欲を糧に死を忘れ、正義を踏み台にして生きていく。さて被告、人間界において汝はいかほどの欲を義といつわって生きてきたのか。妬み、騙し、出し抜き、蹴落として、偽善をつらぬいた業の醜さ、深さ、愚かしさを推し量るゆえ、包み隠さずありていに申してみよ」
アステカの教義も歴史もまるで知らないが、理不尽な裁判の基準に疑問を抱いて五右衛門は異議を唱えた。
「あんたらアステカの神々なんだろ。三毒だの百八の煩悩などと、何で仏教伝来の世迷い説法を持ち出しやがるんだ。欺瞞だの偽善だのって、あんたらの事じゃないのかい?」
「質問をきちんと聞いておるのか愚か者。アステカだろうが仏教だろうがどうでも良い。あんたらとか言うな。神に誓いて真実を語れと言うたはずだぞ。ありていに申せよと言っておるが」
「ねえよ」
「ねえ訳はねえだろう。何年人の世で飯を食らってきたか。欲も希望も無くしていかに人間世界で生き抜けるのか。人間は欲があるから気力を生じて、欲を糧にして勉学に励み労働にいそしむのだ。目的が無くとも義務が生じ、強いられた環境のなかで理想や希望の姿を描いたはずだ。オリンピックの選手を見よ。金銀メダルを欲するがゆえに、名誉を求め屈辱を恐れて過酷な修練に耐えて呻吟難苦を乗り越える。欲がエネルギーに昇華されて確執を超えるのだ」
何が確執だと嘲りたくなる。神のくせにきれいごとばかり並べて尤もらしく決め付けられるのがマジむかつく。
理想がなんだ、希望がどうした、そんなものは絵に描いた餅と同じで、いつの間にか風化して、絶望と書かれたゴミ箱に捨てられるんだ。そうやって神は人間を弄んでいやがるんじゃねえかと五右衛門は反駁する。
「じゃあ、メダルを取れなかった選手はどうなるんだ。チャンピオンになれなかったボクサーはどうなんだ。血の出るような練習を積み上げて、恥をさらして後ろ指を差されて鼻血をたらして表舞台から消え去る奴等はどうなるんだい」
「欲は必ずしも悪とはいえぬが、己の才をわきまえずに徒労の辛苦や妬みを生じると道をはずす結果ともなる。正の欲の理念の源泉といえる。得心できたら何とか言え」
「夢だの理想だのと、乙女の祈りみたいな寝言をほざいて女々しい生き方なんぞしてねえよ俺は。人生なんてのはなあ、運を天に任せた、出たとこ勝負の一本道だ。欲がどうした、希望がどうした、そんなものがあったらションベンぶっかけて神棚にでも捧げてやらあ。欲があるから労働にいそしむだと。じゃあ訊くが、色欲とか情欲とか貪欲とか強欲とか私利私欲とか、欲の世の中、欲深守銭奴のツラの皮なんてのは一体何なんでい」
「減らず口ばかりたたいて本音を語らぬうつけ者。コンクリで固めて血の池の地獄に突き落としてやりましょうかのう」
「あ、まあまあ、ウィツィロポチトリさま。ここの所はひとつ私に」
ケツァルコアトルがウィツィロポチトリをなだめて五右衛門を正視した。
「思い出すが良い五右衛門、汝の高校時代に軟式草野球大会中国地区代表に選ばれて出場した時のことを。一点差で追いかける九回の裏ツーアウト、一塁走者を置いて打席に立った時、ホームランでもかっ飛ばしたいと汝は願った。これは願望だ。対するピッチャーも必死だったが昂る緊張に指を滑らせ、ストライクゾーンに入った球を真芯に合わせてセンター越えの長打を飛ばした。汝は一塁ベースを余裕で蹴って二塁に向かった。そこで踏み止まれば二塁打となり同点になって逆転さえあり得たものを、一気に三塁まで走ってタッチアウトになった。それが欲だ。汝はチームの為に走ったと勘違いしておるがそうではない。確かに試合に勝ちたいと汝は願いあせった。それはチームの為ではなく自分の栄誉を得たいが為だ。我欲の為の失策が、チームを裏切り大道を誤り義を失ったことになる」
五右衛門としては、たかが少年野球の失策でそこまで切って捨てられるのは無性にやりきれない。必死で走ったことだけは間違いない。確かに欲だと言われれば否定もできないが、裏切りとまで断言されれば合点がいかない。青春をぶち壊されてしまったようで腹立たしい。
「下らねえ陳腐な過去の些細な出来事を持ち出しやがって。野球のことを何て言うか知ってるか、ベースボールゲームって言うんだよ。欲があるからゲームが成立するんじゃねえか。観てる奴らも手に汗握って興奮できる。その清らかな少年たちの欲深さのどこが悪いって言えるんだよ。きれいごと並べて茶化すんじゃねえよ」
「願望とは夢を見ること。欲望とは現実の得を求めてむさぼる気概のこと。希望をかなえるには目標という上限があるが、欲を求めるには永遠に果ても限りもない。本質をたがえるな。行為が罪で罰が結果だ。義を見失ってゲームを壊し、いつわりの涙で心の罪さえあざむいた。分かりましたか五右衛門とやら」
「心に罪なんかねえよ。涙も流さねえし。三塁手を蹴飛ばしてやったが文句あるかい」
「脳波が乱れて思考が崩壊しているようだな。それでは被告への審問は後にして、欲の一遍を霊媒映写幕にて再現し、画像で確認することに致しましょう」
ケツァルコアトルがケーナの奏でる高らかな御声で吐息を吹きかけられると、蜃気楼が陽炎に追い立てられるように、超立体マルチディメンジョナル幻像が心象風景として浮かび上がった。
ー麻布十番ー
場所は東京都港区麻布十番の一角に立つ洋風な外観のビルの一室。『ニシキ・リアルエステート』の表札を掲げた事務所のソファーに深々と腰をおろして、五右衛門はなにやら思案していた。
柏原弘毅の事務所から盗み取った借用証書を元手に、不動産会社を起業して事務所を開いた。さらに東京中の闇金融の事務所に忍び込み、高額の借用証書を片っぱしから盗み取って資金を増やした。
叩けばたっぷりと埃が出る悪徳暴利の闇金融業者が、証書を盗まれましたと訴えて警察に届け出ることはないであろうが、闇の世界に警戒の網が張られて捕らえられれば、袋叩きにされたあげくに東京湾の藻屑にされてしまうだろう。
引き際にけじめを付けないと命を失うことにもなりかねないと危惧しながら、残り数枚の証書に目を通していた。
高利な闇金の世話になる人たちの理由は様々だが、大まかに二つのタイプがあると五右衛門は結論付けていた。
市中の銀行にそっぽを向かれて手形は不渡り寸前になり、途方に暮れた町工場の経営者が一時しのぎのつもりで高利を承知の借金をする。雪だるまに膨らんだ利息をかたに家も土地も工場も失って底無しの地獄に落とされて行く。目黒の製菓会社や鶯谷の印刷会社がそのタイプだった。
荻窪のラーメン屋もそうだった。三百万円の借入金が三千万円の利息に膨らんでいた。五右衛門は、昼の繁忙な時間を避けて四時過ぎにその店を訪ねた。
暖簾の下から店内をのぞくと学生風の客が二人、レンゲを使って黙々とラーメンの汁をすすっていた。
おもむろにカウンターの一番隅のスツールに腰をかけると、店の先輩格らしい若い男がカウンター越しに声をかけた。
「いらっしゃい」
五右衛門は右手の人差し指を額に当てて小さな声で囁いた。
「債務の話だ。いや、取り立てに来たんじゃないよ。悪い話じゃない。相談があるんでね、だから責任者を呼んでくれないか」
「私が責任者です」
若い男は五右衛門の顔色をうかがい目をふせた。
「ああ、あなたが室井さんですか。これを見てくれませんか」
五右衛門は三百万円の借用証書をスーツケースから取り出してカウンターに広げた。
「室井さんにお貸しした三百万の借用証書ですよ。利息が積もり積もって三千万になりました。いやいや、今日はね、督促に押しかけたんじゃあないんですよ。利息を無しにしても良いですよという提案を持ってきたんですよ」
先代まで続いた大衆食堂は、やる気も新味もない定食メニューと、我が物顔で壁を這い回るゴキブリに食気がそがれて客足が遠のいた。採算も取れずに廃業を検討していたところ、渋谷で修行していた息子が発起して親父を説得し、内外装をモダンに改装してラーメン店を開業しようとした。
しかし、銀行の融資では資金が足りず、改装業者から紹介してもらった親切そうなローン会社の営業から融資を受けた。その営業マンは闇金融の恐いお兄さんだった。
思惑通りに店は繁盛したのだが、利息に利益が追い付かず、このままでは店も土地も失ってしまうと室井は悲嘆にくれていた。
室井はカウンター越しに手招きをして、店内の隅のテーブル席に五右衛門を誘導すると、上目遣いに睨みつけて挑みかかるように囁いた。
「創業以来の古臭い店舗を思い切って改装したおかげで商売は繁盛するようになった。だからお宅へは利息分を随分と払い込んできた。借入金の十倍も支払った。だけど悪辣非道な暴利のおかげで借金は無くなるどころか膨らむばかりだ。利息を無しにするなんてどんな提案か知らないが、この店を取り上げようという相談なら今すぐ帰ってくれ。どんなことがあってもこの店と土地は手放さないぞ。どうでも手荒い手段で脅しをかけるというなら警察へ行くぞ。あんたらだって訴えられりゃあ困るんじゃあないのかい。殺されたって店は渡さんぞ」
気色ばんで荒々しい息遣いの室井を制するように、五右衛門は人差し指を立てて左右に振った。
「めっそうもありませんよ、室井さん。そんな話ならここにこうして証書なんか持って来やしませんよ。私らはねえ、いつだって中小企業の皆様や商店主さんの味方なんですから。室井さんだって店をたたむかどうかを悩まれた結果の借金だったんじゃありませんか。銀行はリスクを恐れて金を貸してはくれませんが、私らは身体を張ってお貸しする。その報酬としてささやかな利息をいただく契約に納得されて借金された。そうじゃありませんか、室井さん。ところがねえ、ここへきて検察の眼が厳しくなってきたものだから、ここらが潮時だと社長が判断しましてねえ、一旦すべての負債を一掃した上で、運営の方針を改めることにしたんですよ。借入金の三割増しの金額を即刻現金で支払ってもらえるんだったら、利息をチャラにして証書を破棄しましょう。室井さんの借入は三百万円だから、即金で支払ってくれるなら四百万で帳消しにしてやろうって話ですよ。悪い話じゃないと思いますがねえ、どうですか」
室井はテーブルに広げられた証書をじっくりと見つめた。|偽物《にせもの》ではなかろうか。また騙されるのではないだろうか。昨日までは、ヤクザのような男たちが入れ替わりに現われて脅されていた。その闇金が夢のような提案を持ち込んできた。どのような風の吹き回しであくどい闇金の方針が変わったのか。
「ありがたい話だが、何でまた突然あんた方のあくどい方針が変わったんだい? また騙すんじゃあないだろうなあ?」
疑心暗鬼の目を血走らせている室井を正視して、五右衛門は借用証書を手に取った。
「証書のサインが自筆であるかどうかを、印鑑が室井さんのものであるかどうかをしっかりと確認して下さい。支払ってくれるなら、今、目の前でこの証書を破りましょう」
じっくりと証書を見つめて、室井は言った。
「分かった。だが、四百万は無理だ。二百万なら明日の午後まで待ってくれれば必ず現金を用意する」
五右衛門は、手にしていた借用証書を室井の目の前で引き裂いた。十字と左右に裂いて四片の紙切れとなった証書をテーブルに置いた。
「室井さんを信用しますよ。私が信用したのですから、決して約束をたがえないでいただきますよ。明日の午後、現金をいただきに参上します。それからねえ室井さん、この提案は高額の債務者だけの特別なはからいですから、下請けの取立て屋が勘違いして請求に来るかもしれませんが、その時にはすでに支払い済みだと言って下さい。借用証書はすでに無いはずだと言って下さい。二度と現われたら警察に連絡するぞと脅して下さい。いえね、私らとの連絡の行き違いはしょっちゅうでね、彼らの勇み足でご迷惑をおかけするといけませんのでねえ、念のため」
このようなタイプが、高額な債務者の半数だった。破産する前に五右衛門は債務者を訪問し、借用証書と引き換えに支払える限りの現金を用意させた。債務者は地獄の底から這い上がり、五右衛門はその見返りに銭を手にした。
ー山縣トメと孫の勇介ー
たちが悪いのはもう一つのタイプの債務者だった。悪性の腫瘍とマムシの糞をかき混ぜたような、どうにも手に負えない毒の膿みをはらんで逃げ回る奴らだった。
生まれた時から血が薄く、勉強にいそしむ気力も、労働に精を出す意欲もない風来坊で、生きることには執着するから食うために金を借りて遊ぶためにまた借りる。
はなから返せる当てもなく、闇金から闇金へと地獄の底を渡り歩いてあげくの果てに寿命を縮める。この手の債務者の借用証書は、一銭の価値もないゴミ同然の紙切れだった。
先ほどから五右衛門が思案していたのは、そのような債務者の一人だったが、妙に気になって証書を破り捨てることができずに事務所のソファーに身を沈めて考えていた。
債務者の名前は山縣トメ。闇金から闇金へと借金を積み重ね、二十枚の借用証書を合わせると一千万円を超える元金になっていた。
この手の債務者にいくら交渉を持ちかけたところで、びた一文の銭にもならないことを五右衛門は承知していた。それどころか不用意に接触を試みれば闇金の組織の罠におちいり、こちらの身に危険が及ぶことは明らかである。
だが五右衛門は、証書に署名されていた母と同じトメという名が脳裏に焼きついて消し去ることができないでいたのだ。しかも、記載されている住所は世田谷の一等地だ。何か特別な事情がありそうな気がして迷っていた。
そして、トメの家を訪れた。世田谷の三軒茶屋から玉電で二つ目の、若林駅から五分ほど歩いた閑静な住宅地の一角に重厚な門構えの木造住宅があり、門柱にトメの所在を示す表札が掛けられていた。
二百坪は優にあるだろうほどの敷地に建てられた平屋の家屋は、決してみすぼらしいものではなく、一千万円の借金と膨大な高利に苦しむ債務者の住む家とはとても思えない高貴な匂いさえ感じられた。
古びた冠木門の柱に取り付けられたインターホンのボタンを五度も押したが応答がない。訪問者を無視した債務者にありがちな対応だ。構わず五右衛門は門をくぐって家の玄関口へと向かった。
芝生が朽ちて土が露わになった小道に飛び石が続く。周りにシダや雑草が苔にまみれて、庭を取り巻く松やヒバの常緑に溶け込んで幽居の趣を漂わせている。どの庭木も長い間手入れをされている風はなく、不規則に重なる枝葉がうっそうとして、変形した石灯篭と対になる楕円の池には錦鯉の代わりにボウフラが住み着いていそうなドブ色だった。
ガラガラと玄関の引き戸を開けて声をかけると、奥から小柄な銀髪の老婆が現われた。顔も身体もやせ細っているが、風体に似合わず優雅な気品としなやかな気高さを漂わせている。これがトメの第一印象だった。
高額な借金を抱えているにもかかわらず、トメはうろたえることも臆することもなく、たじろぐことも怖気づくこともなく、五右衛門の来意を冷静に受け止めた。
五右衛門は、自分が闇金の取立て屋ではない事をまずことわって、トメから詳しい事情を時間かけて聞き出した。
トメには一人娘がいた。娘は年頃になりロシア人と良い仲になって赤ん坊を身籠った。トメの反対を押し切って同棲を続けた娘は、赤ん坊がまだ一歳の誕生日を迎える前にロシア人の裏切りを知った。日本での勤務を終えたロシア人は、男の情欲を凌ぐだけの現地妻を残して遠い祖国へ帰ってしまった。
トメは娘の将来を案じて、赤ん坊を養子として引き取った。その子、勇介は成長するにつれて父親に似たのか気性が荒く、近所中の子供たちに乱暴を働くやら、傷付けるやら、人の物を盗むやら、どうにも手を付けられなくなってトメを困らせた。
高齢なトメが母親でないことに勇介が気付くのは当然で、中学生になった時にトメは真実を告げた。母に会いたいとせがむ勇介を不憫に思ったトメは、結婚をして幸せに暮らしていた娘の住所を教えてしまった。
トメが悔やんだ時にはすでに遅かった。自分を捨てた母への恨みが繊細多感な十三歳の心をあおり、生まれ持つ獰猛な血が激しい憤りとなって殺傷の刃が舞った。
少年院を出てからの勇介は、不良仲間とつるみ無免許でオートバイを暴走させて盗みたかりを繰り返し、シンナーや覚醒剤に溺れて補導もされた。遊ぶ金が無くなれば、トメの家へ女や仲間を連れてやって来た。
「おいババア、こんなクソみたいにまずい飯が食えるかよ。俺に恥をかかせるなよ。ダチッコに笑われちまうじゃねえか。お前の臭い手で包丁なんか握るんじゃなくってさあ、何か美味い物でも買って来るか出前でも取れよ。聞こえねえのかよ、クソババア」と、勇介が怒鳴る。
「酒持って来いよ、ババア。何だよ、その反抗的な目付きは。ビールぐらいあるんだろう。無いのかよう。無かったらとっとと買って来やがれ、クソババア」と、仲間の男が叫ぶ。
「目障りだねえ。鬱陶しいんだよ、老いぼれの腐った肌の臭いがさあ。うろちょろしてないであっちへ行ってなよ」と言って、女がトメの腰を蹴飛ばした。
シンナーの臭いが充満し、金目の物が持ち出され、家中の物が壊された。それでもトメは勇介を不憫に思って金を与えた。夫の残した退職金も死亡保険金も全ての預金が底をついて、勇介が紹介する闇金を無理やり勧められて手を染めた。
雪だるまのように膨れ上がる借金を、わずかな年金で支払えるはずもないことをトメも闇金も承知していた。闇金から闇金へ自転車を操業するように綱渡りを繰り返す。そのうち、この家も土地も取られてしまう。その時はもう、生きていく事など出来はしないとトメは運命に身を委ねて往生を決めていた。
五右衛門はトメを気の毒だとは思わなかった。しかし、弱い者にたかってダニのように血を吸い尽くす勇介という孫の素行が気に入らなかった。己の不遇を言い訳にして、働くことを拒んで蛆虫となり毒虫となり、凶暴卑劣な仲間とつるむ孫の非道さが許せなかった。
五右衛門がトメの家を訪問するのは今回で三度目の事だった。玄関の引き戸を右に引いてガラガラと開けると、嬌態じみた女の声が男たちのあざ笑を交えて耳に入った。
五右衛門は靴を脱いで奥へ進んだ。八畳の間にうつ伏せに倒されたトメの尻に、女の右足が乗せられ着物の上からグリグリと捻られていた。
五右衛門は鞄の中から護身用の中国製ナイフを取り出すと、トメを足蹴にしているビロードの黒いタイトスカートを一閃にして切り裂いた。チャイナドレスのように腰から裾までの布がパラリと開き、足を乗せていた女の太股に血傷が走った。
血相を変えた仲間の男が、身構えるように拳を握って声を張り上げた。
「なんの真似だい。誰なんだ、おっさんは。ふざけた真似しやがって、ただじゃ済まさねえぞこの野郎」
五右衛門の俊敏なやり口を見て、闇金がヤクザな取立てのプロを寄越したのかもしれないと警戒した勇介は、黙って出方をうかがっていた。
鋭利に研ぎ澄まされた両刃の中国製ナイフをズンと畳に突き刺して、五右衛門は片膝立ちに唇を歪めて言い放った。
「どうも君たちの遊びは子供じみてていけないなあ。ガキを相手にかつあげしたり、冴えないバイクで暴走の真似事をしたり、ろくに効き目のないシンナーでラリッたり、挙句の果ては苛める相手に事欠いて、こんな婆さんを蹴飛ばして喜んでいるのだからウブだねえ君たちも」
「なんだとう。偉そうに利いた風な口を叩きやがって、何で俺たちの事を知っていやがるんだ。そのナイフで俺たちとやり合おうってのかい。上等じゃねえか、やってやろうじゃねえか。なめてんじゃねえぞ、クソオヤジ」
畏怖と度胸を半々にして、懐からナイフを取り出し威嚇する仲間の男を押しとどめ、勇介が凄むような口振りで切り出した。
「あんた一体何者なんだい? 闇金の取り立てでもなさそうだし。ババアの親戚にあんたみたいなおっさんは居ない筈なんだけどなあ。勝手に他人の家に上がり込んで来た以上、覚悟はできているんだろうねえ、おっさんよう」
「まあ、そう殺気立つなよ。君が孫の勇介くんだね。私はねえ、君たちに大人の仲間入りをしないかって提案しているんだよ。おじさんはねえ、そこいらのチンピラヤクザや蛆虫みたいな暴走族の寝小便垂れとは格が違うんだよ。銭もヤクも自由に出来る。君たちが望むならどんな贅沢だって提供できる。香港の裏の組織に通じているから本当の遊びを知っているのさ」
「帰れよ。今俺たちはここで楽しんでいるんだ。あんたが誰だか知らねえけど、遊びの邪魔をしたらぶっ殺すぜ」
「そう気色ばむなよ、勇介くん。私はねえ、昔トメさんに随分とお世話になった錦川という者だ。命の恩人なんだよ、トメさんは。だから、その御礼をさせて欲しいと申し出たら、勇介くん、君の面倒を見てくれと言われてねえ。先程も言った通り、私は香港を足場にビジネスを行い、何不自由もなく裕福な生活を営んでいるだけでなく、様々な危険な遊びにも暁通している。どうだい勇介くん、香港で最高級の宮廷料理を食いつくし、世界の情報が交錯する香港裏社会の遊興に接してみるのも面白いと思わないかね。女だってヘロインだって特上だよ。君の友人たちも一緒で構わないんだよ」
「気を許すなよ、勇介」
茶髪の男が大柄の体躯をはすにかまえて、勇介に警戒をうながすように囁いた。
「私は興味あるよ。そろそろこの婆さんからも、銭をかもれそうになくなったし、行って見たいじゃないか、香港へ。悪いおじさんでもなさそうだしさあ」
女が獲物を狙うような上目づかいに、首をすくめて五右衛門の方へすり寄って来た。
「君は魅力的な女だ。君のような女性はもっと美しくなる権利がある。エステも遊びも贅沢も香港に行けば手に入る。だが、勇介くんがその気にならなければこの話は無しだ。どうなんだね勇介くん」
「ふん、うさん臭い話だぜ。しばらく考えさせてもらおうか」
事務所の電話番号を記したメモを挟んだクリスチャンディオールの口紅を、女の胸もとに差し込んで五右衛門はトメの家から立ち去った。
翌日、事務所の電話がジリリと鳴った。受話器を取ると女の声が飛び込んだ。
「せっかく頂いた口紅だけど、私にはちょっと派手すぎるような気がするわ」
毒虫が一匹、網にかかった。
「その口紅に似合う宝石を君にプレゼントしたい。銀座すずらん通りのギャラリーで待っているよ。夕食を一緒にしようじゃないか」
女と落ち合い銀座通りの宝石店に入った五右衛門は、ショーウインドウの上にルビーやサファイアやエメラルドの指輪を並べさせて囁いた。
「君の口紅に似合う宝石を選びたまえ」
女はガラスケースの指輪をなめるように一瞥すると、駄々をこねるように呟いた。
「こんな石ころよりも金の延べ棒が欲しいわ」
「そうか、たしかに君にはケバケバしい色のガラス玉よりも、黄金の輝きのほうが似合うかもしれないね。よし、金の延べ棒をプレゼントしよう。ただし香港でね」
五右衛門は宝石店を出て、女を焼肉店に誘った。女は塩タンを二枚食べ終わると、特上のカルビだけを選んで口に運んだ。五右衛門はミノとハツとレバーをつまんでクチュクチュ、クチュクチュと奥歯でしごいた。
「君のご両親は何をされているのかね?」
ミノをごくりと飲み込んで女に問うた。
「そんなこと、どうでもいいじゃないのさ」
「美しい女性の素性が気にならない男なんていやしないだろう」
「あんた、キザなせりふが身についているねえ。まあいいさ。私の生まれは横須賀の港町だよ。親父がどんな男だか知らないね。生まれた時からいなかったからね。お袋は夜になると勤めに出て、朝になると帰ってきた。いつも不機嫌で笑った顔なんか見たこともない。私の存在なんか無関心でさ、グレようが苛められようが知らんふりで酒を飲んでた。私なんか邪魔だったのさ。外でいやな事があったり、むしゃくしゃしてくると必ず私をぶった。顔が腫れ上がるまでぶたれたよ。泣いたって恨んだっておかまいなしさ。逃げ場のない部屋の隅にうずくまってお袋の顔を見上げたら、飲みかけのコップの酒をぶっかけられた。いつか殺してやろうと私は思った。だからさ、中学校を卒業して私が家を出て行くときに、お酒の入ったボトルに殺虫剤をたっぷり入れて掻き混ぜてやったんだ」
「それでお袋さんはどうなったんだ?」
「知らないねえ。家を飛び出してから会っていないし、生きていたって会いたいとも思わない」
「君が死んでも悲しむ者はいないわけか」
「いないね」
「どうして金の延べ棒が欲しいんだい?」
「身体が求めるのさ。金が欲しいってね。私の全身に金の粉をふりかけられて、金の延べ棒で胸を、尻を、さすって欲しいって思うのさ」
「金に白い粉を混ぜれば、もっとすばらしい快感を得られることを知っているかい?」
「白い粉って、何なのさ?」
「幻の媚薬さ」
「ヘロインでしょ?」
「さあね」
「私におくれよ、その粉を。あんた、持ってるんでしょ?」
「日本では無理だが、金の延べ棒も白い粉も、香港に行けば手に入るさ。香港は何でも望みを叶えてくれる都市だからね」
「私は行くよ、香港へ。勇介と一緒だったら連れてってくれるんだよね、香港へ。私が説得すれば勇介は行くよ。きっと行かせるよ」
ー畑中守とスナック千鳥ー
JR中央線の吉祥寺駅から歩いて五分ほどのところに『スナック千鳥』はあった。
鉄筋三階建てビルの一階の四軒並びが飲食店になっており、左右の端がそれぞれ焼き鳥屋と居酒屋で、挟まれた二軒の入口脇にはスナックバーの行灯が置かれていた。
灰色の地味なセーターと古びたジーパンにサンダルを突っかけて、いかにも精彩に欠ける身なりの男、畑中守は『千鳥』と書かれたスナックバーの扉を押し開けた。
金曜日の夜八時過ぎだというのに閑散として、カウンターの右奥に女の客が一人いるだけだった。女はちらりと入口を一瞥しただけで、視線を正面にもどすと黙ってロックの酒を口に運んだ。
畑中守がいつものように左端のスツールに腰を下ろすと、初老のマスターはわきまえているかのように、焼酎のボトルとお湯の入ったポットをカウンターに差し出して声をかけた。
「今帰って来たのかね?」
「うん、九州の門司まで行ってきたよ」
「そうかい。事故に遭わなくてなによりだ」
マスターの声を聞き流しながら、四日前にもあの女はあの席に座っていたような気がすると守は思った。
品川の倉庫から大型トレーラーでコンテナを運んだ。首都高から東名高速へ入り、名神、山陽道をひた走って関門トンネルを抜けると門司だった。帰りには別のコンテナを載せて休むゆとりもなく同じ道をひた走る。
品川ナンバーの緑プレートを付けて、北海道の先端から九州の鹿児島まで長い距離をひた走る。コンテナを運ぶだけのとんぼ返りだから観光も温泉も縁はない。
高速道路の山裾に広がる新緑や紅葉を眺めて四季のうつろいを知るだけで、楽しみといえば付けっぱなしのカーラジオから流れてくる女性アナウンサーのつややかな声を聞きながら、どんな顔か姿かを思い巡らすだけである。
畑中守はカウンターの灰皿を手前に寄せて、セーターの裾から手を入れてシャツの胸ポケットから煙草を取り出した。
青地に白抜きの英文字でデザインされたハイライトの口をちぎり取り、指先でポンと叩いて飛び出した一本をつまんで唇に挟んだ。ジッポーの蓋をカチンと鳴らして、ポワンとオイルのにじむ匂いを嗅ぎながら着火する。
天井に向けて紫煙を吹きつけ、レモンを浮かせたお湯割りの焼酎をゴクンと飲み干す。
「ブリの照り焼きでも食べるかね?」
マスターがカウンター越しに声をかける。
「うん。おでんも食いたいなあ。眠くなるのが恐くてさあ、朝がた向こうを出る前に立ち食いそばと牛乳を一パック飲んだだけで、あとは缶コーヒーしか口に入れていないからさあ、煙草のヤニとカフェインで胃がむかついて気分が悪いよ」
「野菜を食べなきゃいけないねえ。ビタミン不足で健康をそこなう。身体をこわしたんじゃあ何もかもおしまいだよ」
そう言ってマスターはカウンター下の流しにまな板を乗せて、薄緑色の新鮮な野菜をギシギシと刻み始めた。
新たな客が訪れる気配はない。天井に据えられたスピーカーから流れる有線放送の歌謡曲が、ものうげそうに壁を伝って紫煙を揺すぶる。
ブリ照りを皮ごと食べて、おでんだしの滲みこんだ厚切りの大根とがんもどきを食べ終えて、焼酎のお湯割りをキュッとあおると尿意をもよおしトイレに立った。
包茎の皮でおおわれた陰茎を指で挟んで左右に振って、亀頭の先に残った尿のしずくを振り払う。手に付いた飛沫を水道で流して手ぬぐいで拭う。
ふと洗面の鏡を見つめて目をそむける。青春の時代にいやと言うほど膿の噴き出したニキビの跡が、凄まじいほどにアバタとなって醜く顔中に拡がっている。
それでなくとも不細工な顔立ちだから、ガキのころから女にもてるどころか仲良く会話をしたというような記憶もない。思わず鏡から目をそらせる。顔も心も歪んでしまう自分の惨めさが悲しく疎ましい。
扉を開けて席に戻ろうとしてハッとした。カウンターの右端に座っていたはずの女の後ろ姿が、自分の席の隣のスツールに移動しているではないか。
畑中守はおずおずと席に戻ると、素知らぬ顔で腰を下ろした。
「こんばんは。いいですか、隣に座っても?」
舌足らずな女のしゃべり口はちゃらちゃらした高校生のようにも思えたが、顔に似合わず低い声音は年増女のようにも感じられた。
「あ、は、はい。僕はかまいませんけど」
品川倉庫の配送事務所の庶務係りのおばさんにしか声をかけられたことのない守にとって、スナックバーの止まり木で見知らぬ女から声をかけられるなど、高速道路でパトカーと衝突するよりもよほど法外な出来事だった。
女がカウンターに肘をついてにじり寄り、守を正視して話しかけてきたので、心臓がびくつき戸惑っていた。
「畑中さん、いつもお母様の通院に付き添われて大変ですわね。かなり病気はお悪いのですか」
守は不意を突かれて上気してうわずった。
「えっ、ど、どうしてそんなことを?」
「うふふ、私は吉祥寺中央病院で看護婦をしていますのよ。外来の看護婦から畑中さんの噂を時折耳にしておりますわ」
「え、ぼ、僕の噂を? あの、お袋は心筋症を長く患っていまして、お医者さんから心臓の機能が低下しており心不全だと診断されました。血圧も高くて狭心症の疑いもあり、カテーテル検査も受けました。それに、先月親父を亡くしてから急に落ち込みが激しくて、ショックだったんでしょうねえ、すっかりふさぎ込んじゃいましたよ」
「まあ、それはお気の毒ですわ」
「頑健な親父だったから、今でも死んでしまったことが嘘みたいで信じられない。僕が長距離の仕事から帰ってきたら、具合が悪いと親父らしくもない弱音を吐いて、洗面に吐きすてた唾が真っ赤な鮮血でした。これは肺炎に違いないと思って嫌がる親父をタクシーに乗せて病院の救急窓口へ行きました。末期の胃ガンだと言われました。手術をしても無駄だと言われて、それから二週間もしないうちにあっけなく死んでしまいました。親父は自分の病状を知るのが恐くて、痛みや辛さを我慢していたのかもしれません。お袋に心配をかけたくないと気遣っていたのかもしれません。あ、いや、ごめんなさい。つまらない話をグタグタとしてしまった」
「いいえ。本当にお気の毒だわ。あの、長距離のお仕事と言われたけど、遠くへ出張とか多いんですか」
「長距離トレーラーの運ちゃんですよ。トラック野郎って言うのかなあ、はは。僕が帰ってくる日に合わせて診察の予約を入れてお袋を病院へ連れて行きます。妹がいるんだけどアパート住まいで昼間の勤務だから当てにならなくて、だから僕が面倒を見るしかない」
そもそも無口な守なのだが、話しかけられてきたという気安さと酒精の勢いが潤滑油となり、女を相手に饒舌になっていた。
「私の名は兵頭ミキ。看護婦寮に入っているんだけど女臭くて窮屈で、時には羽目をはずしたくなって一人でお酒を飲みたくなるんです。うふふ」
「へえ、看護婦さんか。あこがれちゃうなあ。ぶっとい針の注射をされて血を採られるのは嫌だけど、天使のような手で脈を取られて、やさしく介抱されてみたいなあ」
「私たちの仕事はそんなに奇麗事じゃあないんですよ。患者さんの命を預かっていますから、薬物投与だって注射だって細心の注意を払って作業をしなければなりませんし、看護と言ったって下の世話からシーツの取り替えまで、毎日病棟中を駆け回っているみたいで、ほんとに重労働なんですのよ」
ミキと名乗った女はロックのグラスをカウンターの上にコツンと置くと、スツールを守の向きに少し回して左の腿を大きく開脚すると、右腿の上にスラリと乗せて脚を組んだ。
黒いタイトスカートの裾からむき出しになった一瞬の太股の白肌を守の視線は見逃さなかった。電気を帯びたように心臓の鼓動がドキンと高鳴る。
「ミキさんですか。ミッキーというか、ミルキーというか、とても良い響きです」
「ふふふ、ありがとう」
兵頭ミキは、守の父親が死んだことを知っていた。父親の死亡保険金である一千万円が、契約者である守の母親に支払われたことを、仲間の保険外交員から聞いて知っていたのだ。
そして、母親にも同額の生命保険が掛けられており、その契約者が畑中守であることも知っていた。
翌日、守は東名高速道路をルンルン気分で快調にアクセルを踏み込んでいた。スナック千鳥で久々に深酒をしてしまった。いつもの量の三倍は飲んだ。独りぼっちのトラック野郎はカーラジオを聞きながらカラオケを歌い、幻の友人を相手におしゃべりをして憂さを晴らし時間を潰すのがいつもの習いなのだが、守は初めて生身の人間を相手に憂さを晴らした。
しかも、己の容貌をもってしては一生涯、口をきくことさえありえないと諦めていた若い女を相手に我を忘れて夢中になった。モデルのように細身の美形ではなかったが、全身にふくよかな色気をみなぎらせて、鼻筋の通った白い肌の女だった。
兵頭ミキと名乗り、看護婦だと言った。チラリとのぞいた太股が脳裏にこびりついた。細雪のように白い肌から淡い香華の温もりを感じる。腰のくびれや胸のふくらみを想像する。
朦朧とした瞼の前に突然大型トラックの後部が迫って思い切りブレーキを踏み込んだ。キュルキュルキュルと悲鳴を上げる急ブレーキの音に惚けた頭を覚醒させる。
頭を左右に振って邪念を振り払うようにハンドルを強く握りしめ、またしばらくするとアスファルトと地平のはざまに幻が現われ、急ブレーキを踏んでは邪気を払う。いくども繰り返すうちに名神も山陽道も抜けて関門トンネルを潜ってしまった。
なんだかいつもの半分の時間で、九州まで走り抜けてしまったような気がする。
途中、最後の小用を足すために下松サービスエリアへ立ち寄った。小便を済ませて洗面台の鏡に顔を向けて目をそらした。しっかり鏡を見つめるのだと、己を鼓舞して視線の先を鏡にもどした。
大きく口を開けば放射能の炎を吹き出すゴジラのような顔だった。顔を変えることは出来ないまでも、せめてなんとかならないものかと思案した。思案の結果、思いついたのが眼鏡だった。
どんな馬鹿でも眼鏡をかけるだけでインテリになったような気になれる。犬でも豚でも眼鏡をかければ愛嬌がある。ゴジラでも眼鏡をかければ変身できるだろうかと思い、人差し指と親指を丸めて目に当ててみた。
運転に支障があるわけではないが、若い頃と比べれば視力が落ちたように思う。眼鏡が無くとも映画の字幕は読めるが週刊誌の活字を追うのに疲労を感じる。
そういえば、雨の日の夜の運転は遠目が利かない。眼鏡をかければ薄暗いトンネルの照明も明るく安全に走れるはずだ。眼鏡をかける理由も権利もあるのだと自分に言い聞かせた。品川の倉庫に戻ったらすぐに駅前の眼鏡店に行って、トレンドなフレームの眼鏡を買おうと決意した。
吉祥寺の自宅へ戻るとすぐにスナック千鳥へ足を運んだ。二つしかないテーブル席は常連の客に占領されていた。カウンター席には三人の男たちが語らっているだけでミキの姿は見られなかった。
今夜、長距離から帰って来ることをミキは知っているはずだ。思わぬ事故渋滞のせいで、帰着が二時間も遅れてしまった。
ミキは来たのだろうか。もう帰ったのだろうか。カウンターの隅で剣先スルメを焼いているマスターに尋ねてみようかと思ったが、心の内を見透かされてしまうのが嫌で言い出せなかった。マスターも常連の客を相手に忙しそうで、守は一人で五部割りの焼酎をガブリとあおった。
翌朝、守は母に付き添って病院へ行った。診察券を出して外来の待合席に座っていると、ナースキャップをかぶった白衣のミキが、書類を胸に抱えていそいそと通り過ぎようとした。
ハッとして気が付いたのは、守が先かミキが先か分からぬが、互いに顔を見合わせてニッコリ笑った。
「あら、畑中さんじゃありませんか。先日はどうも失礼しました。今日はお母さまの診察ですか?」
「え、ええ。お、お袋です」
いきなり紹介された母親は、相手が白衣の看護婦ということで、恐縮してペコリ、ペコリとお辞儀をするばかりであった。
「始めまして。私は兵頭ミキと言います。どうぞお大事になさって下さいね。私は内科病棟勤務ですから、外来に来ることは滅多にないんですけど、お会いできて良かったわ。ところで畑中さん、今度はどちら方面へ出張ですか?」
「いや、出張だなんて、高速道路をひたすら突っ走るだけですから、ははは。今度もまた九州方面ですよ。来週の火曜日には帰ってくる予定です」
「そうですか。それじゃあ火曜日に寄らせていただきますわ、千鳥さんに。それではお母さま、お大事に。失礼いたします」
ニコリと笑って会釈すると白衣の裾をひるがえし、病棟へ上がるエレベーターの中へと消えてしまった。
「あんた、親しいのかい、今の看護婦さんと?」
女に縁のない息子に白衣の天使から親しそうに声をかけられた。キツネにつままれた思いで母親は守の顔をうかがった。
「ああ、ちょっとね」
守は額に浮かんだ汗を手の平でぬぐいながら、今度こそ駅前の眼鏡店に入ろうと改めて決意した。この前は、店のガラス越しに見える店員の姿に萎縮して、本当に眼鏡なんか必要なのだろうかと逡巡したあげくに店の前を素通りしてしまった。
何度も立ち止まり、振り返りながら立ち去った。自分に肝要なのは臆病な醜さと卑屈さを覆い隠してくれる幻の仮面なのだ。眼鏡こそが自分の人生を変えてくれる。そう考え直してズボンに入れた財布をギュイと握りしめた。
エレベーターに消えたミキは、三階の入院病棟で降りると階段横のトイレに駆け込んだ。あたふたとナースキャップと白衣を脱ぎ捨て、白いストッキングを黒模様のパンストに穿き替えると、ピンクのブラウスとジーパンにグレーのコートを羽織って見舞い客用の出入り口から外へ出た。
東名上りの浜名湖サービスエリアでカツカレーを食べて煙草を一本ふかし、缶コーヒーの蓋を開けておもむろにアクセルを踏み込みトレーラーを本線に向けて走らせた。
スナック千鳥で初めてミキと顔を合わせ、思わぬ成り行きで酒を酌み交わした。思いがけず病院でミキと顔を合わせたのが二度目の出会いだ。たったそれだけの接点なのに、随分親しくなったような気がする。
長距離トラックの運転席は、延々と連続する退屈な時間と、時折激しく襲いかかる眠気との戦いだ。ところがあの日以来、時間も睡魔も吹き飛んだ。
ハンドルを握りながら助手席のミキに語りかける。誰もいない助手席に向かって、はにかみながらミキの幻影と言葉をかわす。高速道路の無愛想な路面が、銀色に輝く白砂の海辺に変わる。高架から見下ろす街の風景が、高原のみずみずしい水芭蕉のせせらぎに変わる。コスモスの草原を抜け、ニッコウキスゲの谷を渡る。ポピーやキンギョソウの咲き乱れる誰もいないお花畑でミキの笑顔が恥ずかしそうに首をかしげる。
愛くるしいミキを抱きしめ、その笑顔に唇を重ねたいと願いながらも意識のうちで自制が働く。純情一筋で女に縁のなかった無垢な心が、幻影の舞台の上でも男の野生をひるませる。それでも二人は語らい続ける。
やがて願望が時間と連鎖して、倒錯した錯覚が現実に入り混じり、守の心の中に変化が生じる。スナックバーで一時の酒を酌み交わしただけの行きずりの女が、いつしか恋人を予感させる仲の良い友人という存在となっていた。
品川の眼鏡屋が店を閉める前に何とか帰り着かねばと、守は早朝から九州を発って休憩もそこそこにトレーラーを飛ばして走り抜いたのだ。
守はスナック千鳥の扉の前で立ち止まり、胸ポケットから新品の眼鏡ケースを取り出した。何度も何度もかけ直して選び抜いた、チタン素材のメタルフレームの眼鏡が収まっている。
ドクンドクンと胸をときめかせ、舌なめずりをしながら眼鏡を取り出して顔に当てた。そして大きく深呼吸をして、ゆっくりと扉のノブを押し開けた。
恋する男は群がる雑踏の中でさえ、愛しい女の姿を一瞬にして見つけ出せると誰かが言っていた。スナックの店内は込んでいるだろうかとの気遣いも無用に閑散として、すぐにミキの後姿が眼鏡のレンズを通して飛び込んだ。
守はホッと安堵して、眼鏡をあつらえてきて本当に良かったと、胸の内で拳を握りしめて頬を緩めた。
「おや、畑中ちゃん、どうしたんだい、眼鏡なんか掛けちゃってさあ。誰かと思ったよ」
マスターの声でミキが後ろを振り向いた。
「あら畑中さん、とってもお似合いですわ。白衣を着て聴診器を首に下げれば、内科のベテラン・ドクターですわ」
「いやあ、照れちゃうなあ。すっかり視力が落ちちゃってさあ、次の免許の更新で引っ掛かるんじゃないかと思ってさあ。思い切って買っちゃったんだ」
守は左の手で頭をかきながら、ためらいもなくミキの隣のスツールに腰をおろした。
「お疲れさま。長距離のドライブですから、目の疲れだって半端じゃあないんでしょうねえ。眠くなることだってあるんでしょう」
白いうなじに青いブラジャーの紐をわずかに覗かせて、ねぎらうようにミキが話しかけてくる。
「ええ、夕日が沈む間際になると、次第に周りの色彩が失われて、空も山も畑も家も、闇のとばりに呑み込まれてしまいそうになります。落日の残照とでも言うんでしょうか、遠くに街の灯りがポツリポツリと点き始めて、すっかり輪郭が消える前にはヘッドライトのスイッチを入れているんだけど、高速で走り抜ける乗用車の赤い尾灯が蛍みたいにゆらめいて、ふっと眠りに落ちてしまいそうになることがあるんですよ」
文学青年でさえも赤面して敬遠しそうな安っぽい語呂を繋ぎ合わせて、あたかも中学生の作文の一編でも朗読しているようなぎこちなさで語りかけた。
ドライブ中にあれこれ思い付き、幾度も訂正して反芻して練り上げたセリフだった。見透かされているのかいないのか、ミキは作為を見せない優しい笑顔で言葉を返した。
「まあ危ない。次のパーキングまで眠気を堪えるなんて恐いわ」
「とんでもありません。時間が勿体なくて、パーキングなんかで休息なんてできませんよ。ほっぺたを力任せにひっぱたいて、太股に押しピンを突き刺すんですよ。だから、僕の太股はピンのアザで黒ずんでしまいましたよ。アハハハハ」
「まあ、なんて残酷なんでしょう。私が隣に乗っていれば、眠くならないようにお相手をして差し上げられますのに」
「そりゃあ、ミキさんが助手席に座っててくれれば、絶対に眠くなんかなるものですか。え、ええ、絶対に」
「ところで、お母さまの具合はよろしいのかしら。不整脈があると聞きましたけど」
「良くはないようですけど、仕方がありません。明日も病院へ付き添って行きます」
「看病される息子さんがおられるから、お母さまは幸せですわ。でも、それじゃあ畑中さんは、彼女とデートをされる暇もなくて大変ですこと」
「デートだなんて、彼女なんかいませんよ」
つっけんどんに守は言い捨ててミキの反応を横目でうかがった。
「あら、意外ですわ。トラック野郎は行く先々で女性を口説いて、日本中に愛人がいるって聞きましたけど、オホホホ」
「ははは、愛人だなんて。僕なんか、はは……」
運転席でいく度もこねくり回して繰り返した口説き文句を、いつ言い出そうかと、守はタイミングを狙って上気していた。フロントガラスを原稿用紙に、何度もセリフを書き綴って消してまた書いた。書いてつぶやいてまた書き直した。
ゴジラの容貌をしばし忘れてハンドルを握り、誘惑の言葉を捜し求めて窓外を見渡した。そうして練り上げたセリフを運転席の中で繰り返し声に出して確かめた。
今がチャンスだ、大丈夫だと、弱気な心を奮い立たせて考え抜いたセリフを吐いた。
「あ、あの、も、もしもだけど、ミキさんと井の頭公園の木陰の道を散策できたら、桜の花びらの舞う井の頭池のボートに乗って一緒におにぎりでも食べられたら最高だろうなあ。いや、あはは、はは」
うわずりながらも心の内を口にできた。運転席ではもっとかっこ良く言えたのだけど、それでも思いは伝わったはず。
熱血が全身を駆けめぐり、目尻がポッと熱くなる。真っ赤に染まった頬をごまかすように、焼酎のコップをキュイッとあおった。
「あら嬉しいわ。井の頭公園も素敵だけど、舞浜にオープンしたディズニーランドへはまだ行ったことがありませんのよ。ジャングルクルーズだとかカリブの海賊だとか、病棟の患者さんたちが話題にしても、知らないものだから受け答えができなくて。よろしかったら休日の合う日にご一緒しませんか?」
エンジェルの放った矢が守の心臓にブスリと刺さり、動脈と静脈が逆流を始めて激突し、守の胸にはっきりと、恋のはじける音がバチンと聞こえた。
ディズニーランドでもニュージーランドでも良い。ミキと一緒にデートができる幸せに、少年のように胸をときめかせた。
ミキは守の瞳を見つめた。そのあどけない仮面の裏で、どす黒く妬ましい鬼畜の微笑を浮かべていた。
第一のステップは守を恋に落とすこと。付かず離れずじらしながらうわべの逢瀬を繰り返し、誘惑しながら守を惹きつけるのだ。恋の足かせを嵌めて主導権を握るのだ。魚を釣っているのは守の方だと思い込ませて、決して魚の正体を見せてはならない。
ようやく守の心を捉えたようだと、あとはうまく運びそうだと腹の中で牙を剥いてほくそ笑む。
-手紙ー
守は休日になるのが待ち遠しくて堪らなくなっていた。休みになればミキに会える。そう思うだけでアクセルを踏み込む足に力みが入る。
九州の土産に博多人形を買い、東北道のサービスエリアでは仙台名物の牛タンを買う。土産と引き換えに優しい笑顔を享受する。
顔なんかではないのだと守は思った。男はやっぱり心なのだと。そう信じる胸の内で、ミキの存在はすでに恋人だった。相思相愛の恋人同士だと確信するようになっていた。そうして十度目の逢瀬の日、約束の時間にミキは来なかった。
どうしたのだろうか、事故にでも巻き込まれたのではないだろうかと、ミキの身を案じつつ一時間待っても来なかった。
連絡を入れたくとも看護婦寮の電話番号を知らなかった。男性から看護婦寮に電話が入って妙な噂がたつと困るからという理由で電話番号を教えられていなかったのだ。
二時間が過ぎて、足もとに煙草の吸殻が風に吹かれて飛んでいく。三時間待ってあきらめた。釈然としない、何ともやりきれない気持で帰途に着いた。
家の前に着くと、いつもの習慣で郵便受けをのぞく。すると一通の封書が投函されていた。絹目の封筒の裏に書かれた差出人の名を見て不吉な予感が頭をよぎった。封を切ると、まろやかな女性の文字で丁寧な文章が綴られていた。
畑中守様
約束を破って本当にごめんなさい。気持の整理がつかなくて、どうしてもお会いする事ができません。これ以上お会いすれば、守さんを裏切り、自分も傷ついてしまいそうなのです。
幼きころ、敵も味方もなく傷ついた兵隊さんを献身的に看護するナイチンゲールの博愛の精神に憧れました。人の命の大切さを知り、福祉や看護の思想に触れました。そのような思いで私は看護婦になりました。
私の勤務する病院には、様々な病に伏して苦しんでいるたくさんの患者さんたちがおります。そして、患者さんたちの為に病魔と闘っている医師がおります。私たち看護婦は医師の手助けをしながら共に患者の命を守ります。
私は悩んでいるのです。医療という環境の中で、同じ志と精神を持ったもの同士が互いに助け合って生きてゆく事こそが幸せなのではなかろうかと。たとえ過疎地でも大都会でも、医師一人で医療はできません。看護婦がそばにいればこそ患者の治療に専念できるのです。
私は二十五歳ですが、女の加齢は稲妻のごとしと申します。病院には、真の医療を目指して気高きこころざしを持つ若き医師がおります。医学福祉という同じ環境の中で、互いの目的をつらぬき通して患者のために尽くすことこそ看護婦としての定めではないかと思い悩んでいるのです。
しばらく一人で将来を見つめてみたいと考えております。守さんにも相談に乗っていただきたいと思っております。またお会いできることを楽しみにしております。どうかお母さまをお大事に、健康にお気をつけてお過ごし下さい。
ミキより
便箋を持つ手がプルプルと震えてめまいを覚えた。奈落の底へ突き落とされる己の姿が涙にうつる。
頭のてっぺんから血の気が引いて、心臓が止まり血管が引きちぎられそうになってよろめきながら玄関の扉に額をぶつけた。
心配そうに呼び止める母親の声も耳に入らず、部屋に閉じこもって布団にもぐる。
医療という特殊な環境の中で医師と看護婦がむつみあう。若き医師が適齢期を迎えたミキをさらっていこうとしている。トラック野郎がどんなに頑張ったところで、医療というとてつもなく高い鉄壁を乗り越えることなんてできはしない。手出しのできない塀の向こうにミキは消えてしまったのか。
涙にあふれる瞼を閉じて考える。スナック千鳥でミキと出会った。出会ったことが間違いなのか。夢を見たのが愚かしいのか。出会いが無ければ失意も無い。希望が無ければ失望も無い。
冗談じゃあない。そんな通り一遍の言葉でおさまりがつくものか。己の人生を半月刀でなで斬りにされたようなこの苦しみを、失恋ですから忘れなさいと言われて諦めなければならぬのか。
うら若きナイチンゲールの目の前で、愚かなピエロを演じて喜んでいた自分がうとましい。歯を食いしばって前歯が割れた。拳を握り締めて小指の骨がポキリと折れた。
しかし待てよと思い直した。手紙の末尾にさようならとは書かれていない。思い悩んでいると綴られているだけではないか。
守は手紙を何度も読み返した。ミキは若き医師に思いを寄せている。愛染かつらの夢を見ているのだ。夢はまぼろしにして叶えられぬのが夢。医師に純愛などありえはしない。なにが医学だ、なにが福祉だ。駆け出しの若き医師の気高きこころざしなど、虎に睨まれた飼い猫の睾丸と同じだ。裏金を積んでくれた親に逆らえず、病院という組織にひれ伏して、権威という欲得に溺れ、金にまみれて患者を踏み台にして人の心をもてあそぶ。
自分と医師とを比較しようとは思わないが、医療という結界に閉じ込められたミキに手出しはできない。ミキの夢が幻のままで終ってしまう日を待とう。
布団にくるまって目を閉じた。未練な心を励ましにして、一縷の望みを神に託した。神も仏も縁のない守が、日ごろの不信心を詫びて神と仏に祈りを捧げた。
眠れない日があった。食欲のない日々が続いた。ハンドルをもぎ取って高速の路面に叩きつけてやりたい衝動にも襲われた。アクセルを踏み込み、ブレーキを踏みつけ、後続のダンプが警笛を鳴らした。
自分が悪い訳ではない。ミキが悪い訳でもない。若き医師が悪い訳でもない。誰も悪い訳ではないから余計に悔しさと怒りの収まりどころがない。ドロドロとしたマグマのような苦悶が背骨を貫通して心臓を揺さぶり脳天を突く。
そうして半月が過ぎた頃、ミキから一通の手紙が届いた。絹目の封書の裏に兵頭ミキの名が記されていた。急いで守は封を切った。
感情の無いおざなりの挨拶と、近況の報告が手短に記されていた。とても簡素な内容で、若き医師のことも、将来の夢も、医療のかけらも綴られてはいなかった。
何度も同じ文面を読み返してみたが、ミキの感情を探ることはできない。それでも、絶望の底なし沼から顔だけ出して天を見上げる河童のように、ミキとの赤い糸が繋がっているのだと思うと胸が熱く高鳴った。
封書の裏にミキの住所は書かれていない。看護婦寮に男の手紙が届くのは差しさわりがあるという意味なのだと察して返事を出すのを遠慮した。
その半月後にも手紙が届いた。お元気ですかと書いてあった。私も元気で頑張っていますと書かれていた。前よりも少しばかり詳しく近況が綴られていた。守は手紙を運転席のボックスに保管して、サービスエリアで休息のたびに取り出してミキの笑顔を思い浮かべた。
さらに半月後、三通目に届いた手紙を読んで守は狂喜した。その手紙には、横浜の山下公園でお会いしたいと書かれていたのだ。逢瀬も叶わず手紙も出せずに焦らされていた。積もりに積もった鬱憤が歓喜の鼻血となって天井まで噴き上げ真っ赤に染めた。
京浜東北線で横浜駅まで行き、根岸線に乗り換えて関内駅で電車を降りた守は、横浜スタジアムのそばを通って海岸通りへ向かって歩いた。
海岸通りを右折して中央口から公園に入ると、空と海の青がいきなり眩くかぶさってくる。仲間はずれのカモメが氷川丸のマストをかすめて港の外へと旋回していく。革のリードを手にした赤いスカートの女の子がグレートピレニーズの思うままに引き摺られ、花壇の隅っこに落とした大振りのウンチをビニール袋に収めている。
守は腕時計を見た。約束の時間より一時間も早く着いてしまった。港を正面に見えるベンチに腰掛けて待つことにした。
海岸通りをワンブロック隔てたマリンタワー前の歩道脇に、前輪を前方に突き出してガソリンタンクに炎の塗装を施したイージーライダー風のバイクが停車した。フルフェイスのヘルメットで顔を覆った男は、後部座席にまたがっていた女を降ろすとスロットルバルブをブルルンと捻り、「うまくやれよ」と叫んで走り去った。
「分かってるわよ。うるさいねえ」と、女は舌打ちをして腕時計を見た。
「十五分過ぎか。ちょうど良い時間だわ」
守はベンチから立ち上がり、約束の時間を過ぎてもミキが現われないことに不安をつのらせながら公園の入口を見つめていた。
「遅れてしまってごめんなさーい」
白いコートをひるがえして駆けて来るミキの姿は、さわやかな高原のゲレンデを駆け抜ける白兎のようだと守は思った。
「ごめんなさいね、守さん。待ったでしょう?」
「そんなことないよ。平気だよ」
約束の時間を過ぎた十五分の間が長かった。不安といら立ちに煙草の吸殻が積み上げられた。それでもミキの華やいだ声がすべてを帳消しにしてくれた。
「よろしかったら中華街で食事をしませんか?」
「うん。そうだね」
山下公園から中華街までは、歩いても五分とかからないだろう。守には、七つも年下のミキが大人びて見えた。紫色のツーピースと胸元からのぞくシルクプリントのブラウスがそう思わせたのかもしれない。
中華街東門の周辺にはカジュアルな服装の人たちで賑わっていた。車道にまであふれた人ごみの中華街の大通りをしばらく歩いて左折すると関帝廟が見える。
すぐ近くの店の暖簾をくぐると二階のテーブル席へと案内された。
「ここのコース料理は格安でお勧めなんですよ。私におごらせていただきますわ。今日は守さんの誕生日ですものね」
守は不意をつかれて目をむいた。ミキは自分の誕生日をきっちりと憶えてくれていた。奇跡的な興奮のあまり守の前立腺はひっくり返り、尿道がゆるんでちびってしまった。
メイドに料理のコースをあれこれオーダーするミキを眺めながら、守の脳裏には医学という鉄壁の向こうに立ちはだかる若き白衣のドクターの姿がちらついていた。あれ以後の手紙の文面には、いっさいその事については触れていなかった。それが守にとって救いでもあった。
しかし、突然の呼び出しとは、まさか別れの宣告ではないだろうか。いや、それなら一通の手紙で済ませられることだ。わざわざ呼び出す必要がない。それにミキは、自分の誕生日を忘れるどころか食事を共にしようと言うではないか。ションベンどころかウンチまでちびってしまいそうだけど、有頂天になりながらも微かな不安が脳裏をよぎる。
「わたし、病院を辞めるかどうかを迷っていますのよ」
中華テーブルに置かれた中国茶の椀に手を触れると、しおらしくミキはつぶやいた。やっぱりこのままで済むはずがない。何か理由があって呼び出されたのだ。辞めるということが、まさかドクターとの結婚を意味しているのではないかと、不安が守の声を震わせる。
「えっ、あ、あのう、辞めるって、病院で何かあったの?」
顔も身体も硬直させて守は尋ねた。裁判官に宣告を受ける被告のように、オドオドしながらミキの言葉を待ち受けた。
「わたし、他人のことなら何でもずけずけと言えるのだけど、自分の事となるとどうしたら良いか分からなくなって悩んでしまいます。内科病棟にはね、外科と違って長く入院している患者さんがたくさんいますのよ。そのうちの一人からね、結婚を申し込まれましたのよ。その方は私よりもずっと年長だから、お断りした方が良いのかなとも思ったんだけど、ご両親が私のことを気に入ったみたいで、息子の嫁に来てくれってとても熱心なんですよ。家計の不安は無さそうだし、しかも両親に温かく迎えられることこそ嫁にとって幸せなことですし、私も適齢期を逃せばこれからどうなるか先の見通しはつかないし。それに、看護婦寮もなんだか鬱陶しくて、いっそのこと病院を辞めてしばらく気分転換でもしようかなって。それで、どうしたものかと守さんに相談をしたかったのよ」
とつとつと語るミキの話を一言一句もらさぬように耳を傾けて聞いていた守は、おやっと疑問を抱いて考えた。
気高きこころざしを持つ若き医師はどこへ行ってしまったのか。医療という聖域の中で互いの目的をつらぬき通すことが看護婦としての定めではなかったのか。ミキの身に何が起こったのかは知らないが、ミキの心の中で医学という鉄壁が崩壊し、白衣の医師がミキの前から姿を消してしまったのだ。そう確信した瞬間に光が見えた。
医学という踏み込むことのできない結界を解かれればトラック野郎だって出番がある。プロポーズされた患者に本気で惚れているいるようでもなし、いわんや両親と結婚するわけでもない。埒外に放り出されていた自分にもミキを奪えるチャンスが恵まれたのだ。
「ミキさん、病院なんか辞めちまいなよ。看護婦寮も出ちまいなよ。それで、僕の家へおいでよ」
大胆過ぎる提案だと守は躊躇したが、今言わなければ運命の糸が切れてしまいそうで、一気に思いを吐き出した。
「えっ、守さんの家へ?」
「うん。知っての通り僕のお袋は病弱だから、ミキさんが家に来て、お袋の面倒を見てくれれば有り難いなあ。束縛なんかするつもりはないんだよ。看護婦の資格があるんだからさあ、気が向けばいつだって病院に復帰すればいいじゃないか」
結婚して欲しいというせりふが、いわしの小骨のように喉の奥に引っ掛かって言い出せない。ちょっと踏ん張ればポンと吐き出せそうなのだが、守にとってその一言が地雷のように思えて口に出せなかった。全てを失いそうで恐かったのだ。
あせるな、はやるな、無理をするなと自分に言い聞かせた。強引に釣り上げようとすれば魚は逃げる。臓腑の奥まで針を飲み込ませるまで、自由に泳がせておくのが良策なのだと己をいさめた。
「私なんかが守さんの家へ居候しちゃって、迷惑じゃありませんの?」
「迷惑なもんか。お袋だって喜びますよ。そうだ、善は急げって言うじゃありませんか。僕がトラックを用立てるから、さっさと看護婦寮の荷物を僕の家へ運びましょう」
若き医師と一緒に将来を見つめるというミキの手紙を受け取るまでは、自分の中でミキの存在をそれほど大きなものだと認識してはいなかった。
手紙を読んで、初めての失恋に苦悶した。耐えて、待ち続けて、ようやく赤い糸が目の前にぶら下がっている。もう絶対に逃がさないぞと意を決した。今度逃がした時には悲しみだけでは済まされない。きっと絶望感に打ちひしがれて気が狂ってしまうかもしれない。病院から早くミキを遠ざけなければならないのだと守は考えた。
「ミキさんが家へ来ることを、早速お袋に話しておきますよ。広くはない部屋だけど、僕がきれいに掃除しておきますから。だから、ミキさん、明日にでも病院を辞めてしまいなよ」
「じゃあ、甘えさせてもらおうかしら」
北京ダックにネギを挟んでほおばりながら、ミキは大きく瞳を見開いて微笑んだ。
守の目から火が噴き出した。ミキが自分の家へ来る。そう思っただけで隅田川の百尺玉の花火のように、心が華やぎ憂慮の靄が吹き飛んだ。
「僕は来週の土曜日に長距離から帰ってきます。その日に看護婦寮から荷物を運び出しましょう、ねえミキさん」
ミキはフカヒレのスープを口に運びながらさりげなく、妖艶な笑いを浮かべてうつむいた。第二のステップもうまく運びそうだと、仮面の裏側で牙をむいてほくそ笑んだ。
守の母親である時枝は、看護婦のミキが同居してくれるという話を聞いて喜んだ。これまでにも何度もミキの話を聞かされていた。守の素振りからしていずれはミキを嫁として迎えるつもりで付き合っているのではないかと察していた。病弱な我が身にとっても世間体にも、嫁が看護婦であれば申し分がないと時枝は考えた。
守の家へ引っ越してきたミキは、気配りをもってかいがいしく時枝の世話をしてくれた。ところが同居を始めて二ヵ月くらい経ったころ、時枝はミキに針の穴ほどの不審を抱くようになっていた。
守の休日以外に家にいる時間が少なくなった。無断で外泊することさえあるのだった。料理も不得手だし掃除も積極的にする風もない。
何よりも不審の原因は、病気に関する専門的な知識の不足であった。
時枝は病院の主治医から診断を受ける際に、心筋症や心不全などの説明を受けて治療の方法を諭される。通院のたびに耳学問によって、病気や検査の知識を深める。
ミキは看護婦といえども医者ではないのだから、専門の知識に詳しくはないのは当然かもしれないと納得しようと思っても、やはり何かが物足りないと感じていたのだ。
守にそのことを告げると一笑に付された。せっかく親切に世話をしてくれているミキに何ということを言うのかと。まだ若いのだから友人の家へ泊まることもあるだろう。看護婦の資格を取るための学問に精励すれば料理のレシピなど覚える暇などありえはしない。病気の看護は経験だから、若いミキが医者のように全ての治療法を知り尽くしている方がおかしいではないか。
あれこれと理由をつけて、守に長々と説き伏せられた。挙句の果てには、意地悪な姑になってはいけないとまで言われる始末であった。
そんな折、ジリジリジリンと電話が鳴るので受話器を取ると、吉祥寺中央病院の理事長ですと名乗られてミキに取り次いだ。
ミキは受話器を相手に丁寧な言葉遣いで恐縮そうに応対していた。時枝は聞くともなしに聞き耳を立てて聞いていた。
どうやら病院も看護婦の不足に困っている様子で、ミキに復職して欲しいと熱心に説得しているようである。それにしても理事長からじきじきの電話を受けるとは、よほど看護の技量を見込まれたものだと時枝はミキを見直した。
-芝居ー
その翌日、寝具のセールスマンがカタログを持って現われた。インターフォンから男の声で、紹介されて来ましたという言葉を聞いた時枝は、守の知り合いかもしれないからとうっかり気を許して男を玄関の中へ入れてしまった。
誰の紹介ですか、守の知り合いですかと尋ねても男は答えず、いきなりカタログを広げて羽毛ふとんのセールスを始めた。
「見たところお顔の色が良くありませんねえ。どこかお悪いんじゃありませんかあ?」
「あ、はあ。病院に通っていますけど」
図星を指されてうろたえた時枝は思わず男に反応してしまった。
「それはいけませんねえ。睡眠不足は万病のもとですから。血色の悪さからして、内臓の病気じゃありませんかあ? 不整脈があるとか、坂道を歩くと動悸がするとかあ?」
さらに図星を突かれて動転した時枝は言葉を詰まらせてたじろいだ。
「僕は健康寝具のベテランセールスですから、病気を患っている人の顔を見れば一目で症状がわかりますよ。そういう方々にこそ健康を取り戻していただきたくて、羽毛ふとんを販売しているのですから」
「羽毛ふとんなら家にもありますから、せっかくですけどいりませんよ」
時枝は丁寧に断ったが、男の口調は嵩にかかって責め立ててきた。
「何をおっしゃいますか、お母さん。当社のふとんはそこいらにある羽毛とは品質が違いますよう。ふとん、毛布、それに枕まで特別に開発された磁気が入っておりますのでね、長く使えば使うほど効果はてきめんで、どんな難病も治癒しますからあ。ほら、こちらのパンフレットを見て下さい。これまでに購入して頂いた人たちの喜びの手記が掲載されていますよ。この方なんかは磁気の効果で充分な睡眠を取れるようになり、高血圧も心不全もすっかり良くなり健康な毎日を送れるようになりましたと、感謝のお手紙を頂戴しておりますよ。お母さんも是非、当社の健康羽毛ふとん一式をお試し下さい。お支払の方はね、ふとんが届いてからでも結構ですからあ」
「せっかくですけどね、いりません。そんなお金もありませんし」
「値段を言う前からお金も無いはないでしょう。僕だってねえ、一生懸命セールスしてるんですからあ。よろしくありませんねえ、そんな対応はあ。そんなに目をむかないで下さいよ、お母さん。僕だって押し売りはしたくありませんからねえ。まず商品を信用してやって下さいよう。ほら、こっちのパンフレットにも書いてあるでしょう、有名な大病院の先生が、効果満点だと保証付きの太鼓判を押している。今回は特別のセールス期間中だから、一式で百二十万円のところを八十万円でいいんですよう。今回限りの特価ですよう。お母さんの健康がわずかの八十万円で買えると思えば安いもんじゃありませんかあ、ねえ」
「すみませんけど……」
「あのねえ、僕だって忙しい時間をさいて、お母さんのために付き合っているんですよ。これだけ詳しく説明をさせておいて、そっけない返事はまさかないですよねえ。そうそう、こっちのカタログの製品はさらに高級なやつでねえ、枕も付けて二百万だ。なかなか手に入る代物じゃありませんよう」
時枝はセールスマンを玄関の内まで招き入れた自分のうかつさを悔いた。簡単に追い返せる相手ではなさそうだ。警察に助けを求める電話をしたいが、男に悟られたら何をされるか分からないと思うと足が震える。
男の険悪な表情と言葉つきが次第に露骨になっていく。額に浮き出す脂汗を泣きたい気持を押し隠すように手の甲で拭ったその時、玄関先に足音が近付いてきた。
ああ、誰かが訪ねて来たのか。誰でも良い、この状況から抜け出せるなら、誰でも良いから訪ねて来て欲しいと時枝は願った。
チャイムもノックも無しに玄関の扉が開いた。入って来たのはミキだった。怪訝な表情でミキはセールスの男を見下ろしている。
「あらお母さま。お客様ですか」
「ミキさん、調度良かったわ。一緒に聞いて下さいな。こちらの方がね、羽毛ふとんを売りに来られたんだけど、いらないと言うのに強引でね」
「強引はないでしょうよ、お母さん。これだけ懇切丁寧に説明して差し上げているのにい。すべてはお母さんの病気の快復と健康を願っての事なんですからねえ。いいでしょうお母さん、今回は僕の独断で毛布を一枚サービスさせてもらいましょう。それで七十万なら買い得だ。いいですね、お母さん」
セールスの男はさっと鞄を開いて契約書を取り出すと、猛禽のような眼光で上目遣いに時枝を一瞥して床に広げた。
「ちょっと待ちなさいよ。誰も買うなんて言っちゃいませんよ」
靴を脱いで土間から上がったミキは、時枝を後ろに下がらせて男の正面に立ちはだかった。
「あんた、誰だい?」
ぶっきらぼうに男は言った。
「娘ですよ。私は吉祥寺中央病院で看護婦をしていますから、どうすれば病気を治療できるかを知っていますよ。他人さまにお母さんの健康を願って頂かなくとも結構ですわ。私がきちんと看護をしてるんですから。これ以上しつこくセールスを続けるなら近所の人を呼びますよ。帰って下さい」
「そうですかあ。娘さんが看護婦さんですかあ。それじゃあしょうがないなあ」
ミキの毅然とした態度にひるんだ男は、あっさりと諦めて書類を鞄にしまい玄関から出て行った。
時枝はドキドキと高鳴る胸をなでおろしてミキに礼を言った。ミキはやはり立派な看護婦なのだ。病院でも難癖をつけて困らせる患者がいるだろう。そんなヤクザのような男にも毅然とした態度で看護の規律を貫いているに違いない。少しでもミキに疑念を抱いた自分が馬鹿だったと、時枝は己の不実を恥じていた。
時枝が抱いた針の穴ほどの不信感をミキは感づいていたのだ。たまに、しつこいと思えるほど時枝の患っている病気の専門知識について尋ねられた。
うやむやに対応して済まそうとすると、さら執拗に追い詰めてくる。どこで覚えてきたのか看護の知識も振りかざす。意地悪をしているのではなく真剣に事実を突き詰めようとしているのだ。
看護婦を装っていることがバレるのを懸念してミキの外出が多くなる。外出すればどこへ出かけてきたのかと詮索される。そこで仲間と相談をして、一計を案じて芝居をうった。
どうやらこれで、針の穴をふさぐことができた。いよいよ最終のステップに移る準備は整った。
守が勤務を終えて帰宅すると、三人で食卓を囲んで長距離の疲れをねぎらった。守が土産に買ってきた地方の食材や特産品を広げて食卓を賑わした。
はたから見れば、いかにも仲の睦まじい新婚夫婦と姑の食事風景であった。
ミキが同居を始めて以来、守の表情がいじらしいほどに溌剌として明るい。これほどまでに朗らかでいられる守の幸せを祈るなら、嫁として多少の不満はあるがミキと縁を結んで欲しいと時枝は願った。
いつになったら婚姻の届けを出すのかと気をもんで守に問えば、無垢な乙女はセンチメンタルで傷つきやすい、機が熟すまで待たなければ、まとまるものも壊れてしまうのだと言われてたしなめられる。
時枝は仏壇の前で手を合わせ、なかなか守の晴れ姿を見せてあげられなくて残念ですと亡き夫に語りかける。
梅雨入りしたばかりの激しい雨の朝だった。ジリジリジリリンと鳴り響く電話の受話器を、たまたま傍にいたミキが取り上げた。
「えっ、守さん。大変って、何が? 轢き殺した?」
ミキの目が驚愕したように吊り上がり、大変な事故を思わせるような言葉を耳にした時枝は思わず緊張して身構えた。
「ああっ、何てことを。は、はい。えっ、それはそうですけど、でも、そんな大金をすぐにだなんて。え、はい。ではお母さまと代わりましょうか。えっ、何度も説明している暇はないって。はい、はい、ではどうぞ。はい、書きました。そうですか。分かりました。では」
受話器を置いて溜め息をつくミキに、時枝は生唾を飲み込んで問いかけた。
「守が轢き殺したんですか? 誰かを守が轢き殺したんですか? 何があったんですか、ミキさん。大金だなんて言ってたようだけど、どういうことなんですか?」
「はい、轢き殺したのは人ではなくて小犬なんです」
「まあ、なんてかわいそうなことを」
「守さんが高速道路のパーキングへ入った際に、いきなり小犬が飛び出してきて、慌てて車から出てきた飼い主の目の前でトレーラーの前輪が小犬を押し潰してしまったんだそうです。飼い主は半狂乱になって、訴えてやるとか、警察を呼ぶとか泣き叫んで大騒ぎになったそうです。だけど、警察なんか呼ばれてしまったら運送の仕事が遅れてしまうと心配した守さんは必死に謝罪して、何とか二十万円の見舞金を支払うということで折り合いがついたそうです。でも、そんな現金を守さんが持っているはずないでしょう。そうしたら相手は、今日中に銀行に振り込め、そうしないと信用できないって言うんだそうです。それで、お母さんに頼んでくれって」
「分かりました。よく分かりましたよ。それで、ミキさん。その二十万円をどこに振り込めばいいんですか」
轢き殺した相手が人間でなくて本当に良かったと時枝は安堵した。二十万円なら安いものだ。守の為に早くけりを付けてやりたい一心で、電話の指示の内容をミキに確かめた。
「お母さま、私も銀行へ一緒に行きますわ。相手の名前と口座番号をメモしましたから」
「悪いわねえ、ミキさんにまで面倒をかけさせちゃって。ちょっと待ってちょうだいね」
時枝は脂肪太りの身体をねじるようにして腰を持ち上げ、座っていた座布団を引きずり出すと、座布団カバーのチャックを開けて、さらにその中のジッパーをジリリと開いた。
座布団の奥にモゾモゾと手を突っ込むと、預金通帳とキャッシュカードを取り出した。
『そんなところに隠していやがったのか。道理でいつも同じ座布団にしか座らなかったのか』獲物を見つけた狼のように、ミキはキャッシュカードを一瞥して視線をそらした。
通院の際に利用しているタクシーを呼んで、吉祥寺駅前の銀行へ二人で出かけた。振込先の氏名は野呂茂とメモに書かれている。ミキがATMを操作して時枝が金額を確認した。
轢かれた小犬はかわいそうだが、これで守の犯した罪からは解放される。タクシーで自宅に戻った時枝は、大仕事でもやり終えた後のような興奮と疲労に見舞われて、ふとんの上に横になって目をつむった。
「お母さま、突然の知らせにびっくりなさったでしょう。それでも人身事故ではありませんし、守さんの身に大事がなくて良かったですわね。お茶を入れましたから、どうぞ召し上がれ」
「まあ、すまないわねえ。いただくわ」
ミキがこの家へ来て以来、お茶を入れてくれたのは初めてではないだろうか。こんな時に気遣ってくれるミキの心根の優しさに感謝して、ぬるめのお茶を一息に飲み干した。気持が安らいだのか、お茶の香りが昂ぶりを抑えたのか、時枝は深い眠りに落ち込んだ。
「睡眠薬が効いたようだわ」
呼んでも叩いても眠りから覚めないことを確かめて、ミキは時枝専用の座布団のジッパーを開いてキャッシュカードを取り出した。
小走りで近くの公園に行くと、大柄な茶髪の男が待ち構えていた。男はキャッシュカードを受け取ると、入口の脇に止めてあった派手なバイクに飛び乗り、イージーライダー風に胸をそらせてすごい勢いで発進した。
時枝が目を覚ましたのは夕刻の五時を過ぎていた。曇天のせいか窓から差し込む日差しはなく、部屋の中は靄がかかったように薄暗かった。
寝覚めの悪いどんよりと重い頭の芯を小突くように拳で叩き、随分と長い時間眠り込んでしまったものだと、壁掛けの時計を見ながら背骨を伸ばし深呼吸をした。
気のせいか、洗面所の方で人の話し声のような気配を感じる。守が帰って来て、ミキと話しているのだろうか。いや、そんなはずはない。守は青森へ向けて大型トレーラーを走らせているのだから、帰宅するのは明日になる。
時枝はゆっくりと膝を伸ばして起き上がると、部屋の電灯の紐を引っ張って明かりをつけた。その音に気づいたのかミキがふすまを開いて顔をのぞかせた。
「あら、お母さま、お目覚めですか。とってもお疲れだったようですわね。よくお休みになりましたわ」
「ええ、こんな時間まで眠りこけてしまったわ。すぐに食事の支度をしなくちゃいけないわね」
「いいんですよ。出前の寿司を注文しましたから。居候しながら何もできなくて面倒ばかりかけていますから、今日は私のおごりにさせて下さいな。それよりもお風呂を沸かしておきましたから、お母さまから入って下さいな。もうすぐ出前も届くと思いますから」
「まあ、嬉しいわ。それじゃあ先に入らせていただくわ」
梅雨に入って湿気が多く、皮膚からにじみ出た寝汗が粘りつくように下着にからむ。冷え切った汗が体温を奪って身震いがする。熱い風呂のお湯にゆっくり浸かって着替えをしたいと時枝は思った。
洗面所の籠に下着を脱ぎ捨て、バスルームの扉を開けると湯船のふたは取り払われていた。湯船に何かが浮いているのか、ライトの明かりに反射してキラキラキラリと湯面が揺れている。
覗き込むようにして指先を湯面に触れようとしたその刹那、時枝の臀部が持ち上げられて頭から湯船に突き落とされた。
振り向くいとまも悲鳴をあげる余裕もなく、氷片で満たされた冷水の中に放り込まれて、時枝の病んだ心臓は不整脈どころか一瞬の痙攣の後、時計の歯車がピタリと止まるように動かなくなってしまった。
「茂、うまくいったかい?」
「ああ、あっけないもんだぜ、いちころさ。こんな簡単に人間って死ぬのかよ。ピクリとも動かねえよ」
「余計な事に感心してんじゃないよ。安楽死みたいなもんさ」
「ああ、もう救急車を呼んでも大丈夫だぜ」
「ダメだよ。氷を取り出して風呂を温めておかなくちゃ。茂、ボケッとしてないで早くババアを湯船から引き上げるのよ」
「うん。あっ、そうだ。銀行のキャッシュカードを返しておくよ。十ヶ所以上も回って八十万円づつ下ろしてきたよ。一千万円もあれば、一年くらいは遊べるぜ、ヘッヘヘ」
「ふふふ。私ねえ、欲しいものがあるんだよ。純金のネックレス。十四金とかさあ、二十四金なんかじゃなくてさあ、かっこいい純金のネックレスが欲しいんだ」
「ミキ、最後の仕事が終るまで気を抜かずにうまくやれって勇介が言ってたぜ」
「分かってるよ、うるさいねえ。私がドジなんか踏むわけないだろう。救急車が来る前にとっとと消えちまいな」
「はいよ」
魂の抜けた時枝の死体を風呂場から洗面所への上がりかまちへうつ伏せに転がすと、茂と呼ばれた茶髪の男は裏口から表にまわってこっそりと出て行った。
-母の死ー
青森での配送を終えて、東京へ向かう途中の東北道のサービスエリアで、ポケベルの鳴る音を守は聞いた。
品川の配送事務所に電話を入れて、母の急死を知らされた守は呆然として受話器を戻した。病弱なお袋のことだから、もしもの覚悟はできていた。それにしても元気な声で送り出してくれたお袋が、心不全とはいえこんなに突然死んでしまうとはショックだった。
守は玄関を上がると、迎えに出てきたミキに、救急介護や葬式などの思わぬ面倒をかけてしまったことをねぎらい詫びた。
居間に敷かれたふとんの上に、白装束で寝かされた母のそばに座って手を合わせた。顔に被せられた白布をそっとはだけて、永遠に表情を変えることのできなくなった母の額の上に涙をこぼした。
喪主である守の帰宅の時間を見はからって葬儀社の者が訪れた。葬儀進行の段取りを、遠慮がちな表情だが手馴れた言葉でずけずけと説明を受け、献花、棺桶から骨壷の値段までを含めた葬儀一式の見積りを示され一つ一つの確認を求められた。そして最後に、参考までにと言われて一枚の用紙を渡された。
その用紙には、葬儀が終り次第忘れずに行わなければならない手続きなどが数項目にして印刷されていた。その中に、死亡者名義の銀行預金が死亡届の提出と同時に凍結されると書かれていた。時枝名義の土地家屋や銀行預金などの相続手続きをしなければならないことを守は知った。そして、印刷された各項目の下の空欄に 『保険会社への死亡保険の申請』と、手書きで付け加えられていた。
守は何気なくミキに用紙を見せながらつぶやいた。
「本人の銀行預金から葬式代を引き出すこともできないんだね」
「お母さまの遺産はみんな守さんの物になるのだし、銀行の預金が凍結されれば誰も引き出すことができないのだから良いじゃありませんか。それよりも、保険会社に死亡保険金の請求を早くしないと貰えなくなってしまいますよ」
世話女房の口調を真似るようなそぶりでミキが言った。
「ああ、そうだね。ミキさんの言うとおりだ。すぐに証書を確認して連絡しよう。ミキさんがそばにいてくれて本当に心強いよ」
突然に母を亡くした守にとって、ミキの存在だけが心の支えになっていた。ミキの面影が心臓の壁と脳の裂け目に貼り付いてしまったようで、無理に剥がせば命まで引き剥がされるのではないかと感じるほどにその存在は重かった。
母を亡くしたことは悲しいが、その見返りとしてミキが手に入るのならば、悲しみよりも喜びのほうが大きいとさえ思えるのだった。母への慕情がミキへの愛しさで帳消しになり、盲目となった守の思考が後戻りのできない一本道を走り始めた。
母のいない食卓は侘しかったが、初七日の法要を終える頃には悲嘆にくれる守の気持にもけじめがついた。
法要を終えて守が勤めに出る朝のこと、ミキの心にも何か揺らぎでも生じたのか、トーストをかじりつく守をじっと見つめて溜め息をついた。
「私、また病院の仕事に復帰しようかなあ」
守の心臓がドキンと高鳴り、喉を通った牛乳が気管支に流れ込んでブフォブフォフォと咳き込んだ。
「もうお母さまを看護してあげる必要がなくなったんだわ。いつまでも守さんに甘えて迷惑をかけっぱなしじゃいけませんものね。ご近所の目もありますし」
ミキとの同居に油断しきっていた守の脳裏に、若きドクターの亡霊が甦った。ミキが病院に戻れば再び医療の壁が立ちふさがる。いまさら彼女のいない生活が考えられるのか。一人ぼっちの絶望と寂寞感を引きずりながら、生きていくことができるのか。
せっかく籠に閉じ込めたカナリアを外に逃してなるものか。女の心は晩秋の空をさすらうはぐれ雲のように気まぐれで移ろいやすい。ミキの心臓に絶対に逃げ出すことのできないクサビを打ち込んでおかなくてはならないのだ。忘れかけていた失恋の苦悶が、守の心に怒涛の勇気を湧き上がらせた。
「ミキさん。僕はミキさんにずっとここにいて欲しいんだ」
かじりかけのトーストを皿に投げ出した守の真剣な眼差しがミキの瞳に食い込んだ。
「ぼ、僕と結婚して下さい。ぼ、僕なんかに、ミキさんを幸せにできるなんて言える資格は無いかもしれないけど、ミキさんの為なら何でもできる。どんな事でもしてあげられる。だから、ずっと一緒にいて欲しいんだ」
これまでに何度か口に含んで復唱したかわからない。禁断の切り札を丁半の大博打を張るような覚悟で守は切り出した。
勝てる博打ならいつまでも胸にしまっておく必要はない。負けるかもしれないと危惧するから口に出して言えなかったのだ。だが、今の機会を失えば、永遠に口にすることができなくなってしまうかもしれない。その恐怖が守の口を開かせた。
「本気なの、守さん?」
「もちろん本気さ。本気に決まってるじゃないか。そうだ、ちょっと待ってよ」
出勤の時間を気にしながら、守は自分の部屋から預金通帳を取り出してミキの前に差し出した。
「この通帳に僕の給料や母の保険金も振り込まれる。これをミキさんにあずけたい」
「そんな大切なものを、私、あずかれないわ」
「何を言っているんだミキさん。結婚すれば僕のすべてを妻にあずけるのが当然のことじゃあないか。ミキさんに僕たちの生計を任せたい。だから、すぐに病院に戻らなくたって、しばらくゆっくりすれば良いじゃあないか」
「ありがとう。守さんの気持は良くわかりましたわ。でも、少し考える時間を下さいな」
「もちろんだよミキさん。お袋が亡くなったばかりの時に、押し付けがましく言ってごめんよ。でも、ずっと考えていたことだから」
喉に引っ掛かっていたサバの小骨が取れたように、守の虚脱した全身からりきみが抜けた。
守のプロポーズにミキは考える時間を欲しいと言ったが、きっぱりと拒絶はしなかった。爽やかなミキの笑顔を見ていれば、運命の女神が自分に微笑みかけてくれる自信があった。
これほどすがすがしく豊饒な気持になれたのは何年ぶりのことであろうか。生まれて初めて母に映画館に連れて行ってもらった帰りに、初めて食べたオムライスが美味かった時。府中の運転免許試験場で大型トレーラーの技能試験に合格した時。そんな時でもこれほどの幸福感を得られはしなかった。
守の預金口座に時枝の死亡保険金が振り込まれた。それを確認したミキは、ドラマを締めくくるために用意しておいた最後のせりふを口にした。
「心の整理がつきました。守さんに付いて行きます」
ミキの言葉を聞いて守の心はアドバルーンのように舞い上がった。一生分の幸せが一度に飛び込んできたような気持で有頂天に舞い上がり、心の底に張り付いていた一抹の不安が消し飛んだ。
「これ、見て下さい」
ミキは自分名義の預金通帳を守の前に広げて見せた。
「二十万円しかないけれど、病院に勤めていたときに少しずつ貯めたものですわ。結婚式の費用にして下さい」
「結婚式の費用なんか心配しなくとも大丈夫だよ。僕の預金通帳をミキさんにあずけるから、その中から生活の費用を使ってくれればいいんだよ。今日は日曜日で区役所は休みだから、来週長距離の仕事を終えて帰ってきたら、二人で婚姻届の手続きをしに行こう」
その日から、守の視界に映る風景が一変した。街を歩く人たちの姿が野良猫かどぶ鼠のように過小に見える。青空の彼方から燦々と照りつける太陽の光が自分の上にだけ輝いて見える。いつもは気になる追い越し車線のダンプカーや暴走トラックが、異なる次元の有り様のように音もなく流れて消え去る。
博多の市場でミキの好物の明太子を買って、養老サービスエリアで伊勢名物の赤福餅と赤ワインを買った。品川の事務所に戻ると、何を買い込んできたのだと事務員たちから冷やかされ、急ぎ足で吉祥寺の自宅に帰り、錠の掛かっていない玄関の扉を開けた。
ミキは外出しているのか、「ただいま」という声に返事がない。守は少しがっかりしながらも、テーブルの上に土産を置いてミキの帰りを待つことにした。沈みかけの夕日が落ちて、玄関灯をつけて帰りを待った。
夜が更けた。まんじりともしないで朝まで待った。とうとうミキは帰ってこなかった。ミキの身に良くない事でも起きたのか。もしも、不慮の事故にでも巻き込まれて治療を受けていたり、意識を失っていたら誰に緊急の知らせが届くのか。結婚もしていない自分の存在を、誰が気付いてくれるだろうか。
携帯ラジオのスイッチを入れた。テレビをつけてニュース番組にチャンネルを合わせた。電車の事故も交通事故の報道もない。
腹がすき過ぎたのか食欲がない。待つことしかすべのない空虚な時間がつらく長い。檻の中の熊のように、テーブルの周囲をイライラと歩きまわる。冷蔵庫から牛乳パックを取り出してコップにそそぐ。一口飲んでテーブルに置いた。
ミキの部屋を覗き込んだ。ミキの持ち物は何もない。そもそも何も持っては来なかったのだ。ふとんもシーツもレンタルだから、スーツケース一つしか運ぶ物はないのだと言われ、看護婦寮からトラックで運ぼうという提案を断られた。
ふっと陰影が去来して、母の居室であった六畳の和室に入り、床の間の端に置かれた仏壇の位牌の下に手を伸ばした。預金通帳とキャッシュカードが残されている。お金も持たずにミキはどこへ出かけたのだろうか。何も食べる気のないまま日が暮れて、うとうとしているうちに夜が明けた。
不穏な気持を鉛の足かせのように引きずりながら、充血した目をして品川の事務所へ出勤した。ゆうべは一睡もしなかったのかと同僚たちに冷やかされ、苦笑いを浮かべてトレーラーの運転席に乗り込んだ。
首都高速3号線用賀から東名高速に入り、二車線から四車線になってフロントガラスの視界が広がる。東京から遠ざかるに従ってミキのことが気にかかる。
海老名のサービスエリアから自宅の電話番号を回したけれども、受話器からは呼び出し音がむなしく鳴るだけだった。日本平のパーキングからも、浜名湖のサービスエリアからも掛けたが誰も電話に出る者はいなかった。
長距離を終えて帰った時にミキが家にいてくれることを祈ったが、もしもいなかったらどうしよう。思考を重ねれば重ねるほど、守はミキについて知らない事が多過ぎることに気付かされた。
実家が横浜にあるとミキから聞かされていた。しかし、父親の職業や兄弟のことや家族の暮らしぶりについては何も知らない。実家の場所を詳しく詮索すれば、眉をしかめてはぐらかされた。
初めてミキと出会ったのはスナックバーの千鳥だった。千鳥の主人はミキのことをどれだけ知っているのか。いつか訊ねてみたことがあるけれど、あのおやじは何も知らなかった。
知っているのは看護学校を卒業して吉祥寺中央病院に勤務していたということだけだ。そうだ、病院の内科病棟を訪ねてみよう。何か糸口でも見つかるかもしれない。
そうだ、ミキは中華街の店を詳しく知っていた。横浜へも行ってみよう。中華街の店を訪ねてみよう。そうなる必要のないことを祈りながら、「お帰りなさい」というミキの元気な笑顔に再会できることを願いながら、流れうごめく高速の路面を守はじっと見つめていた。
長距離の輸送から帰った翌日、守は吉祥寺中央病院の内科病棟を訪れた。ナースセンターでミキのことを訊ねたら婦長が出てきて、兵頭ミキという名前の看護婦が勤務したことはありませんと言われてしまった。内科病棟ではなかったのだろうかと思って看護婦寮の守衛室で尋ねてみたが、やはり答えは同じだった。
守は自宅に戻ってアルバムを取り出した。ミキは写真を撮られるのをなぜか嫌った。それでもアルバムにはミキの写真が貼り付けてある。アルバムを開いて愕然とした。
ミキの写っていたはずの写真が一枚残らず引きはがされているではないか。これは何を意味するのか。守の脳細胞は目まぐるしく混沌としながらも必死に思考の回路を制御した。
そうだ、運転免許証の裏側にミキの写真を貼り付けていた。免許証をいつも胸のポケットに入れて温めていた。守は免許証を握りしめて横浜へ向かった。
守の誕生日にミキがご馳走してくれた中華街の店は関帝廟のすぐ近くだった。レジにいるウエイトレスに写真を見せた。時々男性と一緒に食事に来るから顔は覚えているが名前は知らないと首を振る。
他の中華店や商店を回って写真を見せた。八件目の店で主人が出てきて警察かと尋ねられた。警察ではないが、行方を捜索しているので知っていることがあれば教えて欲しいと頼んだら、ペッと唾を床に吐き捨てて眉をしかめて語ってくれた。
「その女はアバズレだよ。いつも二人の男を連れてやって来た。チンピラヤクザか暴走族にしか見えなかったね。紹興酒を五、六本空けてテーブルをたたいて大声で騒ぐ。他の客が迷惑そうな顔をすれば因縁をつけて困らせる。店の者が止めにかかれば暴力を振るう。餃子を顔にぶつけられた客が怒ってねえ、テーブルをひっくり返されて大乱闘になったことがある。その客に怪我を負わせて警察沙汰になってからは来なくなったんでせいせいしているよ。男たちは女のことをミキと呼んでいた。男たちかい? たしか勇介と呼んでいたなあ。もう一人は茂だ。茶髪の大きい男だった」
その女がミキだとは守には思えなかった。同じ名前の顔のよく似た女なんてどこにでもいる。そう信じて店を回って関帝廟の前まで戻ってきた。
その翌日も、またその翌日も、ミキの写真を見せながら中華街の店を回った。込み上げてくる虚しさを懸命に抑えて、せつない思いで店を回った。
関帝廟に戻って石段の前にたたずんでいると、後ろからポンと肩を叩かれた。
「ミキのことを捜してるってのはおじさんかい?」
ふり返ると大柄な茶髪の男が守の顔を見下ろしていた。
「ああ、そうだが。あんたは」
「俺、友だちだよ。ミキ、病気で来られない。だから頼まれて俺が来たんだ。会いたいんだろ、ミキに?」
「どこにいるんだ、ミキさんは?」
頼まれたという言葉に安堵を感じ、挑みかかるように見上げて言った。
「案内するからついて来なよ」
守がついて来ることが当然だというふうに、茶髪の男はくるりと背中を向けると振り向きもせず、食事客で賑わう中華街の道をスタスタと歩き始めた。
市場通りから高速の高架をくぐり、元町公園から本牧通りへ向かう途中まで十五分あまり歩くと住宅街のはずれの人気のない路地に突き当たる。
鉄屑や古タイヤの積み上げられた空き地の隣に三階建ての茶色いビルが一棟、その一階がガレージになっており鉄製のシャッターが下ろされていた。
脇の扉を男は開けて、先に入るように促されて守は中をのぞき込んだ。薄暗がりに目を慣らして見回すと、ガレージの奥行きは意外と広く、壁際にエレキギターやドラムのセットなどの楽器がいつでも演奏できるかのように整然と置かれていた。
「ミキ、呼んでくる。ここで待ってくれ」
男はそばにあったディレクターチェアーを守に差し出すと、ガレージの外に出て行った。しばらくすると茶髪の男は、サングラスにメッシュのキャップを目深にかぶった細身の男を伴って戻ってきた。
二人の男の後ろに、真紅のスカートをはいたミキの姿がチラリと見えた。
「ミキさん! 僕だよ。僕だよ、ミキさん!」
叫んで駆け寄ろうとした守の下腹部に、ズズンと鋭い激痛が走った。
「気安く近寄るんじゃねえよ、おっさん」
「グッククク。い、いきなり何をする」
「中華街でミキの写真を見せ付けられて迷惑してるんだよ、俺たちはよう」
「誰なんだ、お前たちは。ミキさんをどうするつもりだ」
下腹部を押さえてしゃがみこんだ守は、サングラスの男を見上げて睨み付けた。
「どうするも、こうするもねえよ。俺たちはミキととっても親しいダチッ子なんだからさ」
「嘘だ。そんな筈があるものか。ミキさんは僕と結婚の約束をしているんだ」
「おっさんよう、いつまで二枚目を気取っていやがるんだよう。野良犬のウンチみたいな顔しやがって、テメエのツラをじっくり鏡でながめたことがあるのかよう。いいかげんに本牧埠頭の海水で顔でも洗ってしっかり目を覚ませよおっさん。馬鹿犬みたいにチンチン振り回して女の尻を追っかけてんじゃあねえよボケ。ミキはなあ、オンドレみたいな薄汚いツラのおっさんなんか見たこともねえって言ってるよう。ゴリラのケツみたいな面相しやがって睨んでんじゃねえよ」
「ミキさん、こんな奴等と一緒にいてはいけない。僕と一緒に帰ろうミキさん」
守の顔面に鉄拳があびせられて星が飛んだ。横っ腹にエナメルの靴先がめり込んで身をよじらせた。腕をねじ上げられ、首をつかまれ、拳の連打をあびて鮮血がピュピューと鼻の穴から噴き上げた。
血の飛沫にかすむ眼に、ミキの顔をはっきりと捉えた。ニヤリと薄笑いを浮かべた嘲りの表情をきっちりと捉えた。
ドラムの撥がみぞおちにグサリと食い込んだ。タンバリンを思い切り脳天にぶつけられてシンバルの暴れる音がジャランと鳴る。バイクのチェーンがビュインと唸って顔面に襲いかかる。前歯がビシリと折れて血反吐と一緒に飲み込んで咳き込む。揺れ動くサンドバッグのように蹴られ殴られ突き上げられる。
そんな筈はない。天使のように優しいミキが、自分を裏切るなんてある筈がないと、暗鬼の心を振り払いながら守の意識は遠のいていった。
ブルルッと身体を震わせて守は目を覚ました。空に氷のような星が冷ややかに輝いている。ここはどこだろうかと首をひねるとキリリッと筋が切れるような痛みが走る。
熱を帯びた鈍痛をこらえて身体をよじり、周囲を見回すと港が見える。氷川丸の輪郭が芝生の先にかすんで見える。吹き渡る潮風が夜露をはらんで首筋をなめる。
身体中でズキズキと痛むうずきが、絶対に信じたくない現実と屈辱をよみがえらせる。断じて信じたくはないけれど、男たちの後ろで守を見つめて笑っていたのはミキだった。絶対に受け入れたくはないけれど、ミキは守に別れを告げた。耐えがたき苦痛のために意識が朦朧として遠ざかる守の耳に、アバヨと囁くミキの声が遠くに聞こえた。
守は芝生に脚を踏ん張って立ち上がり、腫れ上がった顔をかくして駅まで歩いた。ミキのことを考えると胸がうずいて締めつけられる。胸のうずきをごまかすためには、内出血で腫れ上がった痛みの激しさが幸いだった。
翌日、出勤する気になどなれずに守は休みを取った。現実と真実との見分けがつかず、守の思考は逆巻く渦潮のように荒立ち混沌としていた。
ミキの心がなぜ急変したのかを考えた。病院に戻ることを押し止めたことが悪かったのかと悔やんでみた。だけど、吉祥寺中央病院にミキは勤めていないと婦長は言った。その時、ミキの薄笑いを思い出して守はハッとして立ち上がった。
預金通帳を取り出して銀行へ走った。ATMで記帳された通帳を見て守はすべてを知らされた。数十回にわけて八十万円ずつの金額が引き出されていた。
金を失ったのか愛を失ったのか、それとも全てが幻だったのか。裏切られたのではなく、最初から騙されていたのか。
豚が空を飛びたくてジャンプして、崖から転がり落ちて身の程を知る。芋虫が餌を求めてさまよい蟻地獄に足を踏み外して呑み込まれて餌となる。見てはいけない夢を追いかけて地獄へ堕ちた。
愛も金も母の命まで失って、このまま朽ち果ててしまうのか。愛を失くしただけの苦しみならば時の流れが癒してくれる。だが守は、顔の醜悪さまでなじられた。
身の程知らずにも美しい花に近付き棘に刺され、甘い果実の毒を食んで罠にはまった。醜いゴジラに愛する権利は無いのだと指を指され、絶望と侮蔑の往復ビンタを食らわされて希望も誇りも失った。
時の流れもドブの流れも何の役にも立ちはしない。諦めるしかない。忘れるしかない。これまでずっとそうして生きてきた。夢や幻は遠くにあるから美しい。だから今日まで生きてこられたのではないか。
つきまとう焦燥感をふりはらい、気を取り直して品川の事務所へ向かった。いつものように肉太のハンドルを握りしめてアクセルを踏み込み高速に乗る。渋滞する都心を抜けて三号渋谷線から東名に入って車線が広がると右の脚をグイッと伸ばして速度を上げる。
グリグリグリッと大型のディーゼルエンジンが重い唸りを上げたその時、ふいっと考えた。このまま終って良いのだろうかと。これが自分の人生なのかと。
今の自分に守るべき何があるというのか。金も無いし、母もいないし、愛する希望も失った。すでに失うものは何も無いのだ。愛が憎しみに変わる己の姿がフロントグラスに投影された。目は血走りはらわたは千切れていた。
守はアクセルをいっぱいに踏み込んで横浜町田インターの出口を目指した。高速を降りると横浜市街へ向けて一直線にトレーラーを走らせた。
三階建ての茶色いビルのガレージに向けて真正面から突っ込んだ。鉄製のシャッターがバリバリと引き裂かれ、トレーラーのフロントガラスが守の身体に飛び散った。頭を打ち付けて失神する直前に守は母の叫び声を聞いたような気がした。
守は病院に運ばれ、満身創痍の手術を終えるとそのまま拘置所へと送られた。
ー香港へー
「錦川さん、これは奴等の悪事のほんの一例ですよ」
トレンチコートの前をはだけて男は短い脚を組み替えると、煙草の煙をプファーと天井に吹き上げた。
「さすがにプロだねえ。よく調べたもんだ」
数枚の写真と報告書を手にとって、錦川五右衛門は感心するように頷いた。
「勇介とミキの二人はねえ錦川さん、役者くずれの落ちこぼれなんですよ。同じ中学校を卒業してね、東京の劇団に所属したんだが、しょせんヤル気も才能もない狡猾な怠け者だから、早々に劇団を追い出されて横浜の暴走族に拾われた。盗んだバイクを無免許で暴走させて何度も警察に補導されていたんだが、二十歳を過ぎてからやり口が悪辣になって、遊ぶ金欲しさに人を殺すことだって平気になった。勇介がシナリオを書いてミキが演じる。茶髪で大柄な茂という男はちょっとばかし頭が弱いんですよ。二人にうまく使われていた。頭の弱い馬鹿はねえ、おだてには乗りやすいし拷問には弱い。茂から詳しく話を聞き出したんですよ」
「ほう。どんな方法で聞き出したんだい」
「そいつあ探偵事務所の企業秘密ですよ、ハハハ。それからねえ、拘置所に差し入れを持って畑中守に会いに行きました。すべて話してくれましたよ」
「母親が奴等に殺されたことを畑中守に話したのかね」
「教えてやるべきかどうか迷ったんですがねえ、話しましたよ。出所したら間違いなく三人を殺しに行くでしょうよ。だけどねえ、直情果敢に一人で立ち向かったところで返り討ちにあうのがオチでしょうねえ。かわいそうだが殺されるかもしれない。畑中守にとってはそれで本望かもしれませんがねえ」
「寝しょんべん垂れのチンピラかと思っていたが、相当な悪党のようだな」
「聞き込みをしているうちに色んな噂を耳にしましたけどね、半端じゃなさそうですよ。奴等を訴えようとした人間が、いつの間にかどこかへ消えてしまったとかね。他の件も詳しく調べて報告しましょうか」
「いや、それだけ聞けば充分だ。ご苦労さん。請求の金額は明日にでも振り込んでおくよ」
「錦川さん、奴等をどうするつもりですか。いや、余計なことかもしれませんがね」
「人間は法で裁くことができるけど、ダニやゴキブリにそんなものなんか通用しやしないのさ。ブチッと踏み潰して真っ黒い血反吐を地面にさらしてやらなきゃいけないのさ。そうは思わないかい」
善があるから悪があるというバランスは無い。人はみな生きる権利を保障されていると日本の平和憲法は規定しているらしいが、蛆虫まで保障するなんて合点がいかない。
蛆虫に更生の手続きなど不要だろう。制裁という規律こそが望ましい。善人と悪人の線引きなど誰もできはしないし、する必要もない。
反吐が出そうな我慢のできない腐臭がするのが蛆虫だ、柏原弘毅のように。背徳の煮汁をすすって爛れた膿が身体中に流れている、お前らの腐りはてた血肉を飢えたハゲタカについばませてやる。それが似合いの葬送だろう。
トレンチコートの男は立ち上がり、背を向けて立ち去ろうとしたが思い直して振り返った。噛み過ぎたガムを喉仏に引っかけてもどかしいような、気になる何かを言い残したような顔つきで振り向いた。
「錦川さん、どうでもいい情報かもしれませんがね、勇介みたいなワルを裏で操ってるらしい人物がいるんですよ。折に触れて柏原という名前が浮かんでちらつくんですがね、どうにも正体が掴めないんですよ。まあ、どうでもいいんですがね」
五右衛門の全身が身震いをした。あれ以来、柏原弘毅は五反田の事務所を閉じて姿を消した。思いもかけない探偵の口から柏原の名前が飛び出し憎悪の炎に油が弾けた。
あまりの反応の激しさに、男は新たな商売のネタになるのかと察して五右衛門の言葉を待った。
「そいつはたちの悪い闇金を営んでいる、柏原弘毅という男じゃないのかね」
「いえいえ、金融業は表の稼業でしてね、どこからか湧いて出てくる資金を動かして、何かを企んでいるようなんだけど実態が不明なんですよ。勇介なんかは末端の手駒だから、裏の事情なんか知らされていませんよ。確かに名前は柏原弘毅だったと思います」
再び柏原弘毅の名が浮上した。この機を逃さず姿を捉えて、必ずとどめを刺さねばならない。
「そいつの居場所を突き止めてくれないか」
「分かりました」
数か月後、その探偵は忽然と消息を絶ったと噂に聞いた。貸しビルの家主が家賃滞納と不在を不審に警察に届け出たのだが、誘拐でもなく死体も無く、親戚縁者もいないのでそのまま行方不明者のリストに加えられて何事も無く処理は終わったそうだ。
香港啓徳空港の到着ターミナルは、各国からの旅客で混雑していた。
五右衛門は勇介と茂とミキの三人を先導してターミナルを出るとタクシーに乗り込み、予約しておいた油麻地にあるホテルの名を運転手に告げた。
空港から市街へ向かう途中のビルの屋上に、日本のカメラメーカーや家電ブランドの看板が英語や中国文字で掲げられている。初めて眺めるエキゾチックな異国の風景に、勇介と二人の仲間は目を輝かせてはしゃいでいた。
九広鉄道の高架をくぐって旺角に入り、九龍半島の中央を南北に走るネイザンロードを左折すると風景は一変して、不夜城香港の情緒をみなぎらせる。
壁面にけばけばしく彩色された看板やネオン管が遠慮会釈もなしに通りにはみ出し、両替、宝石、衣服、酒、薬などの店がびっしりと軒を連ね、道行く人や車で独特の賑わいを見せていた。色鮮やかな看板の代わりに窓から物干し竿が突き出され、すえた食物の異臭が生活臭として鼻を突く。
さらに路地を二つ折れて、うらぶれた旅荘の前でタクシーは停車した。
木賃宿のような旅荘の入口のガラスのドアに、ダイヤモンド・ホテルと英文字で刻まれていた。ドアを開けると狭い土間のようなロビーの右手に、手垢で黒ずんだ小カウンターが据えられていた。
卓上に置かれた呼び鈴を振るとチリリンリンと音を立てる。奥から茶褐色に日焼けした若者が出てきて、軽く会釈するとカウンターの下からチェックインの書類を取り出した。
五右衛門が四人分のチェックインを済ませて筆を置くと、若者は一台しかないロビーのエレベーターを顎で示す。
ギシギシと音を立ててエレベーターが動き始める。五階に到着しても開かない扉を無理にこじ開けて廊下に出る。剥き出しのベニヤ板が貼り付けられただけの殺風景な壁面に、窓から差し込む陽光だけが不安を和らげる。
「俺はホテルなんて泊まったことがないから分かんねえけどさあ、こんなに薄暗くてひと気の無いものなのかよう」
茶髪の男が誰に言うともなく呟いた。
「冗談じゃないわよ。あたしゃ四ツ谷のニューオータニってホテルのロビーに入ったことがあるけど、そりゃあ豪華だったよ。天井だってあたしの背丈の十倍はあったし、ピシッと制服を着たボーイが何人もいて、金髪の外人や派手に着飾った客ばかりで、何だかあたしなんか居心地が悪いくらいに眩しかったよ。もっとも香港のホテルがどうだかあたしゃ知らないけどさあ」
「おい、おっさんよう、何でこんな薄汚いホテルに泊めさせるんだよ。俺たちをガキだと思ってなめてんじゃねえだろうなあ。おっさんが香港の大金持ちで、料理も遊びも極上のものを用意するって言うから来たんだぜ。どういう事なんだよ、このベニヤ貼りの落書きまじりの廊下はよう。これが一流のホテルだって言うのかよう」
威嚇するように頬を歪めて、唾をペット吐き捨てながら勇介が凄んだ。
「香港ではよくある事なんだ。今日まで国際会議が開かれていて、高級ホテルはどこも満室で予約が取れなかったのさ。明日になれば飛び切りの高級ホテルに移動できる。どうせ今夜は寝るだけだから我慢してくれ。夕食までに香港島を案内しよう」
五右衛門は部屋に鞄を置くと三人を連れ出してタクシーを借し切り、ビクトリアピークやレパルスベイなどお決まりの観光名所を案内して回った。そして夕刻、九龍サイドの尖沙咀まで戻るとネイザンロードの南の端でタクシーを降りて、極彩色のネオンが灯り始めた大通りを北に向かってそぞろ歩いた。
七、八分歩いたところで左手の路地に入ると、装飾品や衣類や鞄などを吊るした屋台の露店が、薄暗い照明の下で狭い道幅を眼一杯に占領して連なっている。
「おい茂、お前の欲しがってるオメガのシーマスターがあるじゃねえか。香港ドルの五十だぜ。安いじゃねえか」
「それは偽物だよ勇介。デザインがどことなくニセっぽいだろ。イミテーションだよ」
「偽物だってそっくり似てりゃあ上等じゃねえか。腕に嵌めりゃあ分かりゃしねえよ。おいミキ、こっちを見ろよ。ヴィトンやグッチが転がってるぜ」
「茂と一緒にしないでほしいね。私はニセブランドなんて興味はないよ」
「この赤いバッグはミキさんに似合いそうだけどなあ」
「ちょっとこっちへ寄越してみなよ、茂。うん、まあまあいかしてるかなあ。エルメスだよ、偽物のね。でも気に入ったよ」
嬌声を上げながら露店を冷やかす三人を、うさん臭そうに見つめる売り子の剣呑な目付きが突き刺さる。さらに左方の路地へ曲がると露店の照明が消えて、狭い道を月明かりだけが照らし出す。
五右衛門が立ち止まったその店の入口には、ネオンも看板もドアも無かった。コンクリの床に四角いテーブルが四脚あって、奥のテーブル席に四人が座ると、壁の隅から痩せた主人が出て来てメニューも見せずに注文を訊ねた。
五右衛門は広東語で青島ビールといくつかの料理を注文すると、胸ポケットからマルボロを取り出し、ダンヒルのライターを擦って火を付けた。
「どういう事だよ、おっさん。豪華な宮廷料理が食い放題だと言ってやがったくせに、何だってこんな薄汚い店に連れて来るんだよ」
茶髪の茂が不満そうに口をとがらせて怒鳴った。
「香港ではね、高級そうなレストランよりもこういう店の料理が意外と旨いんだよ」
お前らゴミクズにはこんな所がお似合いなんだよと、腹の中で呟きながら五右衛門は紫煙をプカリとくゆらした。
「何を食わせる積もりか知らねえが、トカゲだのゲジゲジだの訳の分からねえゲテモノが出て来やがったら只じゃおかねえからな」
勇介が凄んで睨んだ。
「どうもあたしは騙されてる気がするよ。あのホテルだって酷過ぎるしさあ。どうも気に入らないよ、おっさんの態度が」
女が五右衛門を上目づかいの眼を細めて言った。その女に五右衛門が言った。
「そんな事より、その赤いバッグはどうしたんだい。ホテルを出る時には何も持っていなかった筈だが」
「フン。さっきの露店で拝借してやったのさ。なんだい、文句あるのかい。あたしにいちゃもん付ける気かい」
「返して来なよ」
「なんだって? 私に生意気に口出しするんじゃないよ。あんたもスーパーの店員や警備員と同じ目付きをしていやがる。いつも決まって言いやがるんだ。万引きしたくせに開き直ったその薄笑いは何だって。悪いと思っていないのか、親に申し訳ないと思わないのかってね、フン。ふざけんじゃないよ。悪いと思ってりゃあ万引きなんてしやしないよ。何もかも悟り切った顔して説教なんかするんじゃないよ。万引きのどこが悪いんだよバカヤロー。盗まれる方が間抜けなんだよ」
「ミキの言う通りだよ。俺たちがここで何をしようが俺たちの勝手だ。俺たちは勇介の護衛として付いて来てやったんだぜ。あんたは俺たちに旨い物を食わせ、面白い遊びを教えてくれりゃあそれでいいんだ。余計な説教なんか聞いてると、俺たちの頭は狂い始めるんだよ。分かったか、おっさんよう」
茂と呼ばれた男が大柄の背筋を怒らせて威嚇する。五右衛門が軽く受け流す。
「そうかい、良く分かったよ。明日の朝、ホテルを移動することにしよう」
「へえ、そうかい。何てホテルだい?」
「ヒルトンだ」
「おう、聞いたことあるぜ。そいつあ舶来の有名なホテルだぜ、なあ勇介」
「ああ、俺も知ってるよ。明日そこへ中国女を連れ込んで、思い切り騒ごうじゃねえか。おい、おっさん、女も金も極上のヘロインも自由自在だって豪語してたよなあ。観光なんかもう沢山だ。明日から充分楽しませてもらうぜ」
「まあ待ちたまえ。今夜の楽しみはこれから始まるんだよ。香港の夜は長く濃密なんだ。食事のあとに君たちをティールームへ案内しよう」
「お茶なんか飲みたくて香港まで来たんじゃねえぞ俺たちは。本気でなめてたら承知しねえぞ」
勇介が顔を赤らめて睨みつけた。
「ティールームといっても日本にあるような喫茶店ではないよ。極上の茅台酒と、よりすぐりの美女が君たちを歓待してくれるだろう。君たちにたっぷりと精力をつけてもらうためにこの店に連れてきたのさ。私がオーダーしたのは毒蛇の肝とスッポンの卵をとかせた一品料理さ」
「あたしゃそんな所へは行かないよ。なんで私が香港女の相手をしなきゃいけないのさ。そんな料理なんか食べたら欲求不満で一晩中もだえちまうよ」
「そこはね、紳士も淑女もモラルを忘れて楽しむことのできる、限られたメンバーだけの夜会場なのさ。金の延べ棒や白い秘薬で恍惚となってみたくはないかい?」
「グッヒヒヒ、そいつはいいや」
下卑た茂の笑い声が、その場の緊迫した雰囲気をやわらげた。
食事を終えて、四人を乗せたタクシーは北へ向かった。ネイザンロードを抜けると不夜城の灯りがとたんに遠のき、ヘッドライトがボウとした闇の道行きを照らし出す。
住宅地に入り、レンガ塀が連なる切れ目を右折して百メートル程走った所でキュキュッと止まった。ヘッドライトが消されると、暗闇に慣れない瞳孔が光を失いうろたえる。
真っ暗な路地の扉がパタンと開いて、橙色の光のなかに女の姿が影絵のように浮き上がる。四人が扉の中へ消えたのを確かめて、どす黒い眼をした運転手は運転席のシートを後ろに倒して待機した。
薄暗い白熱灯の下にささやかな酒宴の支度ができていた。テーブルの上には白磁のボトルに赤いラベルの茅台酒が三本と、黄色い液体の老酒や紹興酒が数本並べられていた。
照明の行き届かない壁際の長椅子を見ると、数名の若い女の子たちが静かに四人の様子をうかがっている。
「さあ、思う存分に飲み、楽しんでくれたまえ。君たちをエスコートしてくれる女性を思い思いに選んでくれたまえ。彼女たちが夢の世界へ招待してくれるはずだ。その扉の奥にはプライベートルームが設けられている。ミキさん、君にはスペシャルメニューが用意されている。心ゆくまでゴールドを堪能し、死ぬほどの恍惚を味わってくれたまえ」
翌朝、五右衛門はルームコールで勇介をロビーに呼び出した。寝覚めの悪い目付きで勇介がエレベーターからヨタヨタと姿を現した。
「まだ昼前じゃねえか。昨夜の中国酒がやけに効きすぎて、頭の後ろがズキズキ疼いてるんだ。眠いよ」
「勇介くん。君に見せたい物があるんだ」
五右衛門の服装はいつもの小粋な背広姿ではなく、白いシャツによれて色褪せた黒ズボンという出で立ちだった。清潔そうではあるがどこか薄汚れてみすぼらしく見える。訝しくも思うが茅台酒の酒精の残りが勇介の猜疑の思考を奪い去る。
「なんだい、見せたい物ってのは。ミキと茂はどうしたんだい?」
「二人には先にヒルトン・ホテルへ移動してもらった。彼らにそれを見せる訳にはいかないからね」
「だから何だと訊いてるんだよ、見せたい物ってのは。もったいぶるなよ。俺を苛つかせるなよ」
「君はトメさんが財産家であることを良いことに、随分と金をせびっているようだね」
「それがどうしたんだよ。俺のババアなんだから構やしねえ。あんたに関わりはないぜ。だけど、もう無えよ。俺たちがすっかり使っちまったよ。しかも、銭が底をついただけじゃねえ。膨らんだ借金が土地の価格をとっくに超えちまったから、どこの闇金からも金を貸してもらえねえんだよ」
「そうらしいな。土地家屋を取り上げられたら、老いたトメさんは生きて行けないんじゃないのかい。君にとっては育ての親代わりであり、実の祖母であるトメさんがどうなっても平気なのかい?」
「うるせえなあ。あんなババアなんて、くたばろうが野垂れ死のうが俺の知った事じゃねえよ。そんなに心配ならあんたが助けてやればいいじゃねえか」
「だから私が現われたんだよ。トメさんは私の命の恩人だから、孫である君を特別の場所へ案内するのだ」
「だから見せたい物ってのは何だって言ってるんだよ。どこにあるんだよそれは? 何度も言わせるんじゃねえよ、苛つくなあ。ああ苛々するぜ朝っぱらからよう」
寝癖のついた長髪を掻きむしりながら、充血した両眼を血走らせて勇介は叫んだ。
「君はトメさんから出生の秘密を明かされた筈だ。君の父親であるロシア人は軍需品を扱う商人だった。中近東やアジア諸国の抜け道が日本であり香港だった。彼は個人的に莫大な財産を秘匿したんだ。ところが突然の帰国の際に本国に持ち帰ることができなくて、香港に立ち寄り隠匿した。誰も手を出すことの出来ない確実な場所に、それは秘密裏に保管されている」
「なんであんたがそんな事を知っているんだ? あんなババアが、なんであんたの命の恩人なんだ?」
「ロシア人が香港を立ち去る時、財産の一部を妻である君の母親あてに届けようとした。つまり、トメさんの家だ。その情報を私は香港の仲間を通じて耳にして、東京の税関で待ち受けて手に入れた。そして税関を出た途端に捕らえられた。私はね、香港の貧民窟で生み捨てられた残留孤児なのさ。少年だった私は仲間にそそのかされて、その財産がトメさんの家に届く寸前に奪う計画をたてたのさ。しかし、ロシア人と契約を交わした香港の闇の組織を私は見くびっていた。私は半殺しの目にあい、処刑されるところをトメさんが助けてくれた。財産の一部を組織に渡すことと引き換えに、トメさんは見ず知らずの私の命を救ってくれた。トメさんとはそういう人なのだ。トメさんはね、ロシア人からの財産を、君の母親には内緒にして渡さなかった。勇介くん、君が立派に成長するまで、その財産を管理して欲しいと私は頼まれた。私の命はトメさんから与えられたものだから、命がけで守る約束をした。そのトメさんから連絡を受けて、私は君たちの前に現われたのさ。積み重なった借金の窮地に陥ったトメさんはね、孫である君にその財産を委ねたいと言われるのだよ」
五右衛門は、でっちあげの作り話を、もっともらしく聞かせてやった。
「何処にあんだよ、それは?」
「九龍城だ」
「香港にそんな城があるのかよう」
「城塞はすでに壊されて無いが、域内は官権の及ばぬ貧民窟だ。だからこそ確実に秘密が守られている」
「あのババアにそんな財産があったのなら、闇金で借金なんかする必要なんか無かったじゃねえか。一度だって聞いた事はねえぞ、そんな話は。でたらめ言ってるんじゃねえだろうなあ?」
「私は一年余り上海にいた。香港に戻ってトメさんからの手紙を読んで、慌てて日本に飛んできた。だが、そんな事はどうでもいい。信用するかどうかは君の勝手だ。私は依頼された通り君を香港まで連れて来た。その場所に行くかどうかは君が決めれば良いことだ。私だって、君のような薄情で放蕩な人間に渡したくはない。できることならトメさんの為に使って欲しい。しかし私は君の父上の財産を守る為に、トメさんから依頼された保管人に過ぎない。権利は君にある。君が拒めば私は喜んで君をヒルトン・ホテルに案内するよ。そこで豪華な料理を堪能し、酒池肉林に浸ればいいさ。そして一週間後には日本へ帰るんだ。私はもう、二度と君の前に現われる事はない」
「じゃあ、その財産はどうなるんだ?」
「権利を放棄した君が知る必要はない」
きっぱりと五右衛門に言い切られ、固執した欲望とツッパリが勇介の不安を押し流した。日本に帰ったところでトメからこれ以上搾り取れる銭は無い。他に金の入る当ても無い。
疑わしい話だが、はなから嘘と決めつけるには勿体ない。無視して日本に帰れば悔いを残すことになる。そう考えた勇介は、五右衛門の後に従ってタクシーの後部座席に乗り込んだ。
ー九龍城ー
ネイザンロードへ出てウォータールーロードをしばらく走ったタクシーは、啓徳空港方面に向けて右折した。
二階建ての赤いバスが、横っ腹に派手な宣伝文句を描いて擦れ違う。どこを走っても日本企業の大きな看板が眼に入る。
郊外に出るほど歩行者の服装から色気が抜けて、走り去るトラックの埃にまみれて心なしか貧相に見える。
やがて、けたたましい警笛や騒音が消える。雑然とした街並みが広がり、彩りが抜けてモノクロの世界に入り込んだような、隠微な香りと陰鬱な臭気の綯い交ぜとなった風がただよう。
緑の街路樹が灰褐色の枯木となり、極彩色の看板が無彩色の墨色に変わる。
五右衛門は前方を指差して、広東語で運転手に一言命じた。黙ってうなずいた運転手は、歩道よりにタクシーを停車させた。
古ぼけた建屋の商店が隙間もなく軒を連ねる。こんな街中のどこにどんな財産が隠されているのかと、勇介はいぶかり首をかしげた。
商店に沿って少し歩くと奥へと通じる細い通路があって、角口に光明街と書かれた大きな表札がコンクリートの壁に打ち付けられていた。
有楽町のガード下の飲み屋街に似ているなと勇介は思ったが、二歩三歩と足を踏み入れるごとに、殺伐としたスケールの深さと重みの違いを知らされた。
斜めにかしいだ壁面の天井は布で覆われ、暗闇に閉ざされた奥がトンネルなのか洞窟なのか見さかいがつかない。異様な臭気が嗅覚を襲い、粘つくような湿気の中をドブ鼠が足元を駆け抜ける。
壁が途切れて間口の向こうから機械の回る音が聞こえる。その先はどうやら商店のようで、衣類や食品などの棚がある。椅子に腰かけた老婆が、よそ者をとがめるような眼差しで勇介を見つめる。
陽光を閉ざされた通路が迷路になって奥へ続く。林檎が黒ずんですえたような、髪の毛が焼けて縮れるような、生の魚が腐ったような、化繊がいぶされて焦げつくような、様々な異臭が鼻腔を舐める。
表情は無く、色艶も無く、感情の押しつぶされた仮面の顔が、通路の暗闇の間口から鋭い眼光で勇介を見詰める。
死んでいるのか、生きているのか、干からびた黒い屍のように老人がうずくまる。ブルルと身体を震わせて勇介が怒鳴る。
「何なんだここは。山谷の夜のドヤ街だって、マンホールの下水道だって顔負けの汚さじゃねえか。この不気味な腐臭は何なんだ?」
周囲をはばかるような小声で、五右衛門が勇介に耳打ちをする。
「大きい声を出しちゃあいけないよ。俺たちがよそ者の日本人だと悟られたら、生きてここから出られないかもしれないからね。ここは香港警察も立ち入ることのできない治外法権の中国領だから、犯罪者たちにとっては格好の駆け込み寺なのさ。こんな物騒な場所だからこそ、貴重な財産を隠して保管できるのだ」
阿片戦争の後、中英の利権の狭間に飛び地となって取り残された不法地帯に、犯罪人が逃げ込んでたむろしてスラムと化した九龍城。警官だろうが誰だろうが、空気をかき乱すよそ者は微塵の容赦もなく処分される。それでもこの地で人は生きている。
押し潰されそうな怖気と不快感を覚えながらも、勇介は黙って五右衛門の背中について歩き続けるしかなかった。
天井から電線のパイプが数本たれ下がる。つぎはぎだらけの黄色い服を着た幼い女の子が飛び出して来た。バケツに足をすくわれて前にのめって水浸しの汚い地面に転がった。あどけない表情の小さな瞳が、よそ者の助けを冷ややかに拒絶していた。
どこからともなく線香の匂いが腐臭に混じって漂ってくる。何を祈って香を焚くのか。心がすさみ、生きる希望を失い、それでも死人を弔い、神仏を敬う心があるのだろうか。いやこれは、阿片が溶けて燃える臭いか。勇介にはすでに考える意欲が萎えていた。
ようやく通路の先に明かりが見えて、急ぎ足で暗闇を抜け出すと、陽光にさらされた勇介の網膜はまばゆさに白濁として、すぐには外の景色をとらえることができなかった。
視野が開けたその先に、巨大な大鷲が両翼を広げたように不気味な高層のアパートが、トタン屋根のバラック住居を睥睨するように立ちはだかっていた。
十階建てなのか十五階建てなのか、一部屋づつがプレハブのユニットを重ねたようにまちまちで、縦の柱も、横の梁も、窓の並びも、各々が不規則で不揃いだった。
壁面の色は褪せて黒ずみ異様な雰囲気で周囲の空気を威圧している。それはあたかも貧民窟の人々の魂から発揚された、いびつに歪められたバベルの塔のようでもあった。
五右衛門は周囲の様子には目もくれず、トタン屋根のバラック住居を迂回して高層のアパートへと向かった。
入口の階段下には鉄屑や中国文字の雑誌が散らばり、蜘蛛やトカゲの死骸が転がっていた。
「おっさんよう、どこまで行く気だよう?」
勇介が不安げに問いかける。
「屋上だ」
素っ気なく五右衛門が言い放つ。
「まさか、階段で上がるつもりじゃねえだろうなあ?」
「エレベーターがあるかどうか、建物を見れば分かるだろう。最下層から一戸づつ積み上げられてこのアパートは出来上がっているんだ。だから屋上の高さも廊下の長さも柱の高さも、みんな不揃いなんだ。階段があるだけ有り難いと思え」
勇介はふてくされて、一段一段と階段を踏みしめながら上がるしかなかった。階段は所々にいびつで入り組んでいた。あえぐ呼吸と心臓の動悸をなだめながら、何とか最上階にたどり着く。
ようやく着いたかと息を切らして屋上へ飛び出すと、いきなりジャンボジェット機の土手っ腹が頭上にのしかかってきた。
轟音を残して機体の消えた屋上の南側へ走り寄ると、一気に高度を落としたジャンボの機体が、まさに滑走路へとランディングを始めるところであった。
「すげえ。空港じゃねえか」
「そうだ。啓徳空港の滑走路だよ、勇介くん」
ジャンボジェット機の滑空を眺めながら呼吸を整えると勇介は、五右衛門の正面を見据えて大声でせっついた。
「おい、おっさん。空港なんてどうだっていいんだ。こんなうす汚いアパートの屋上の、どこに財産が隠されているんだよう?」
「そこだよ」
五右衛門は、屋上の北側の欄干を指差した。
「そこから下を覗いてごらん。見えるはずだよ」
言われて勇介が覗いてみると、下には赤茶けたトタン屋根のバラックが広がっているだけだった。
「何だよ。汚ねえゴミ溜めみたいなバラックしか見えねえよ。どういう事なんだよ?」
「良く見てごらん、屋根の上を」
赤茶けた屋根の上に朝の陽光を反射して、一片の金属片がキラリときらめいた。勇介は目を凝らしてじっと見つめた。
屋根の上に奇妙な恰好をして横たわる二体の人形を眼に留めた。各々の人形には赤い服と青い服とが着せられて、赤い服の人形の右手に握られている赤いバッグの金具がキラリキラリと光っていたのだ。
勇介はハッとして目を見開いた。赤いバッグは、昨夜露店でミキが万引きをしたエルメスの偽物に違いない。あれは人形ではない、ミキと茂だ。
「そうだよ、勇介くん。あそこで君の悪友たちが、君の来るのを待っているんだよ。ここは生きる価値のない、君たちゴキブリの墓場なんだよ」
アッと叫んで振り向く勇介の襟首を掴んだ五右衛門は、パイソンから譲り受けた五寸長さの仕込み針を鞘から引き抜きブスリと喉笛を突き刺した。
勇介は声も出せずに仰け反ったが、その瞬間にはっきりと死を予感した。針は喉を串刺しにしている。たとえ引き抜いたとしても、喉元に噴き出す血潮が呼吸を奪う。この男が救急車など呼ぶはずもない。この男はトメが放った刺客だったのだ。しかし、どうして……、トメなんかがどうしてこんな男と……。
五右衛門もまた、見返す勇介の眼を見て疑問を受け止めて、観念して呆然としながらも今の現実を受け入れることのできない不肖の若者に最後の説教をしてやった。
「私はトメさんとは縁もゆかりもない赤の他人だが、一枚の借用証書が俺を引き寄せたんだ。お前たちのむさぼり屠る放蕩が、底無しの闇の借金を膨らませて運命の引き金になったんだよ。罪を犯せば罰せられるのが浮世の習いだが、お前たちの罪は余りにも深く重すぎる。毒虫にも悪魔にもまさる外道の所業、地獄の血の池で顔を洗って出直して来るがいい」
仕込み針を引き抜くと同時に五右衛門は、勇介の腰を持ち上げて欄干の外にずり落とした。放心してあらがう身体は九龍城の空を泳ぎ、啓徳空港を飛び立つジャンボジェットの轟音が断末魔の絶叫を掻き消した。
ー義の審問ー
「さて、被告。汝は人に情をかけたことも施しを為したこともないと申したが、トメの為にかけた情は立派な慈悲の施しではないのか? 若者が憎くて殺意を抱いた訳ではないはずだし、偽善の正義感でもない。汝の憐憫の情が義憤となり、義勇となって老婆の生活を、いや、老婆の命を救ったことに相違あるまい」
心象映像のスクリーンが消えて、ケツァルコアトルがのたまわれた。
「違うよ」
五右衛門が平然として否定した。
「どこが違うと言うのか?」
「トメさんは勇介を殺して欲しいなんて願っていなかった。不良の仲間にどんなに銭をたかられても、虚仮にされ苛められ度突かれても、たとえ家も土地も失い飢えて凍えて命を失くしたとしても、トメさんは孫の勇介を愛していたんだよ。俺はトメさんを哀れみやしないし、義侠心も慈悲も同情も無い。ただの通りすがりのババアに過ぎねえ。俺が奴らを制裁したのは、俺自身の気晴らしのためにやった行為だ。隣りの茶碗にたかっていたハエが、こっちへ飛んで来れば、あんただって叩いて潰してやりたくなるだろうよ。別にハエが憎い訳じゃねえ。ただ目ざわりだから叩くのさ。それのどこが義勇なんだ?」
ケツァルコアトルが顔をしかめてたしなめられた。
「お前は何ゆえにここへ来て、いかなる立場に置かれているのか、しかと分別が出来ておるのか? 美徳を褒められて照れくさいとか思うなよ。否定することが格好良いとか考えて粋がるでないぞ。ここが己の運命の天地を分ける裁判宮であることを忘れたもうな。人間の偽善を見すかすことは容易だが、心の底まで透視することまではなかなかできぬ。よって被告の生前の業の根拠を求め、その行為が正義であるか背徳であるかの審問を行うのじゃ」
ケツァルコアトルのいましめの言葉に五右衛門は口の先をとがらせた。
「正義だの背徳だのって、形の見えねえ言葉をいちいち考えて生きてられるか。人の世は狂気殺伐、喜怒哀楽に信賞必罰、偽善に賄賂に殺生与奪が基本だろ」
「どこの基本だ、それは」
「怒っている奴がいれば、それを見て喜んでいる奴がいる。悲しんでいる奴がいれば、その姿を見て腹の中で笑い転げて楽しんでいる奴がいる。俺は怒るのも悲しむのもいやだったから、思うがままの自然体で生きてきたんだ。それが何だい、文句があるとでも言うのかよ」
「人の世がどうであったかなど問うてはおらぬ。義の行為について審問を行うのじゃ。義を見てせざるは勇無きなりという諺を知っておろうが、コホン。まずその行為を義と認識するかどうかに評価判断の基準が置かれる。次に義勇の価値が問われるのじゃ。勇気には多様なリスクがつきまとうもの。義理と道理に人情と欺瞞が入り混じる。被告の安逸なる義侠心に、愚かなる損得の詭弁はなかったか。嬉し恥ずかし心の底をかっ開き、嘘と誠の衣を脱ぎ去り心理の過程をありていに申し述べるが良い」
「十五の小娘の初夜じゃあるめえし、なにが嬉し恥ずかしだバカヤロー。サンマの開きじゃあるめえし、簡単に心が開けるかってんだ。第一、心なんてどこにあるんだ言ってみろ。そんな目に見えないものを、どうやって開くんだドアホウ」
「法廷侮辱罪で火あぶりにしてやろうか」
ウィツィロポチトリ神が、唇をゆがめて口を挟まれた。
「ケツァルコアトルさまはな、己の抱いた慈悲の心を評価されるも、裏腹な義勇に欲は無かったかと問うておられるのじゃ。その論理が分からぬか?」
「義勇だか牛丼だか知らねえが、借金地獄のババアを助けたところで一銭の得にもなりゃあしねえよ」
「欲といえば金銭を連想する愚か者よ。物欲のことではないぞ」
「おう、性欲かい。たしかにミキという女の尻はふくよかだったぜ。もぎたての桃みたいにプリプリとはじけていたぜ」
ウィツィロポチトリ神がブチ切れて、冠に着けていた極彩色の蜂鳥の飾りを床に叩きつけておっしゃった。
「バカ者、嗜虐の欲じゃ。たとえ極悪非道の悪者といえども、自らの手によって生を奪う所業に快感を覚えはしなかったのか。弱者を利用し正義をかたり、悪に鉄槌を下すとうそぶいて、己の煩悩を満足させる不義の心は無かったかと問うておるのだ」
五右衛門は急所を突かれたようでむずがゆかったが、己の信念に揺るぎはなかった。娑婆の世界では憚れるけど、神を相手ならば言いたいことを吐き出してやる。
「人の心を持たない極悪人を、人が裁かなくて誰が裁くんだ。人間の不始末は人間が決着をつけるのが道理じゃねえか。神や仏が制裁を下してくれると言うのかい。笑わせるなよ。学ぶことを拒み、働くことをあざけり、ひたすら甘美を求めて遊びに興じる。遊ぶ金を欲しさに獣となって人を騙して殺して生き血をすする。そんな奴らに十年の生きる時間を与えれば、十年分の人が死ぬ。法に照らして規律だ、倫理だ、更生の機会を与えるべきだなどと御託をならべてすましていたって決着なんかつくものか。獰猛な猫には首に鈴をつけるだけじゃあ駄目なんだ。きっちり示しをつけるには、毒キノコとフグの肝に青酸カリとスズメバチの毒針をまぶして食らわせなくちゃあ駄目なんだ。袖振り合うも多生の縁というじゃねえか。あいつらは、縁があって俺に出会っただけなのさ。俺には欲も気負いも微塵もないよ」
「人を粛正するのに、死をもって制裁することもあるまいに。人間は神によって生をさずかり、仏によって死をとむらう。人それぞれの運命というものを背負うて生きておる。恐れ多くも蒙昧な一人の人間のたくらみによって、人の生死をもてあそぶことは許されまいぞ」
「神ってのはそんなに恐れ多いのかい? 天皇陛下よりも偉いのかい? その神が俺たち人間に何をしてくれるってんだ。聖書を手にしてアーメンとかハレルヤとか唱えて、右の頬っぺたを殴られたら左の頬を出せと言われたって出せるかよ。パワハラじゃねえか。座禅を組んで断食をすりゃあ宝くじが当たるのかよ。仏によって死をとむらうだと、アステカの世界に仏がいるのか。お前らなんか信用できねえんだよ」
もはや五右衛門は、神を相手にやけくそだった。
「ケツァルコアトルさま、こいつの脳味噌をチーズの代わりにフォンデュに溶かして、地獄の鬼たちの食卓にのせてやりましょうか」
「まあまあ、ウィツィロポチトリさま。義をもってたてまつり被告の制裁の方法に非はあれど、ここは義の審問宮でありまするゆえに、それは裁かぬことと致しませぬか」
「さようですな。それでは更なる事例を超立体マルチディメンジョンに呼び起こすと致しましょうかのう」
「いやいやウィツィロポチトリさま、これ以上の検証の要はありますまい。被告の義勇を加味して、判定は天中命殺三十五獄点ということでいかがでしょうな」
「異議ありませぬぞ。それではこれにて被告、錦川五右衛門に関する義の審問を終えることと致しまする」
「ちょっと待てよ、なんで三十五獄点なんだ」
五右衛門の叫びは無視され、オカリナに似て軽やかなウィツィロポチトリ神の御声が黄金の宮廷にこだますると、法廷の明かりが消えて出口の扉がホタルの光を浴びたようにボウッとゆらめき浮き上がる。
導かれるように取っ手を引いて裁判宮の扉を開くと、ピラミッドを下る長い石段が、霞たなびくはるか麓まで富士の裾野のように延々と続いている。周囲には見渡す限りの大平原が広がる。
次の章では、中国の広州と桂林が舞台になります。