第二章 二・七日【仁の審問】
三途の川の爺に追い立てられて五右衛門は、冥土への道をトボトボと歩き始めた。日食も月食も流れ星も無い、空気も水も塵も無い、蒼い空間の道を歩き続けた。
暑いような気もするが、一縷の汗もにじみはしない。疲れたような気もするが、一糸の吸気も乱れはしない。にじむ水気も乱れる空気も存在しない。
すでに死者の道を、確実に歩み始めているのだと認識はできるが感情が無い。自分はいったい何者なのだと自問しても、答えなど出るはずもない。未知なのだから。
奪衣婆に衣服をはぎ取られた際に、皺も指紋も皆消えた。胃腸も臓腑も無いから食欲もない。視力が無いのに景色が見えて、唇が無いのに言葉をしゃべる。物体が無いのに風景があり、時間が無いのに時が流れる。
ただ幻と化した存命の化身が、宿命のならいに従って歩き続ける。かつて胎児となって、生まれる際に通った記憶があるような、不思議な蒼い間道を、いつまでも、いつまでも歩み続ける。
ここは既に地獄の道程かと勘ぐりながら先へ進むと水晶の森にたどり着き、冷々と透き通る水晶の藪をかき分け迷路のような枝道を進む。
突然、前方の大水晶が黄丹の光輝を屈折させて、天空に向かい雷光を放った。稲妻とともに水晶のかけらが舞い上がると硫黄の臭気が充満し、黒い岩肌が平原にバラリと散らばった。
賽の河原のような霊気のみなぎる荒地に小さな噴煙が立ち昇る。
おお、ここは、本州最北端の下北半島の霊場恐山ではないか。生前に格安バスツアーで訪れたことがある。
黄玉色に輝く壮麗な門造りは、まさに恐山の山門に違いない。よく見ると、その両脇に立って手招きをしている者がいる。僧侶でも神官でも、むろん観光客でもない。それは一対の仁王像のような大鬼だった。
赤でも青でもなく、トパーズの皮膚でおおわれた鬼の眼光は鋭いが、どことなく愛嬌がありそうだ。それでも逆らえば何をされるか分からないと警戒した五右衛門は、恐る恐る山門の鬼に近付いた。
「三途の川で雷魚に食われなかったのか?」
からかうように睥睨する鬼の声音は、意外なほどに穏かだった。
「食われなかったから此処にいるんだろうが」
五右衛門が鬼を見上げて挑むような素振りで答えたら、いきなり鬼は両手で金棒を振りかざし、脳天めがけて振り下ろした。
一トンはありそうな鉄塊の金棒の先端が、のけぞる五右衛門の肋骨と膝がしらをかすめてズズンと地面に打ち付けられた。
死ぬ思いの激痛に目玉と舌を飛び出し悲鳴を上げた五右衛門は、泣きっ面で鬼に怒鳴りつけた。
「な、な、何をしゃがんでいこの野郎。ウググググ」
骨が砕けたような激痛に、涙と唾とよだれを飛ばしながら抗議した。
「おうへいな口を利くからだ。この台帳に記帳してから山門をくぐれ」
何事も無かったかのように平然と五右衛門を見下ろす鬼は、冥府の台帳を開いて入門の手続きを命じた。
「ふん、恐山の参拝のために、何でいちいち記帳なんかしなくちゃならねえんだよ」
「ここは恐山などではない。冥府の入口の山門だ。グズグズ言わずにお前の名前をその台帳に指でなぞれ」
不満そうにプイッと顔をそむける五右衛門の膝がしらを、金棒の先でコンコンコツンと突付かれた。
「イテテッ、か、書くからやめろこの野郎」
五右衛門は泣く泣く記帳を済ませて脚を引きずりながら振り返り、鬼を睨みつつ、いざるようにして本堂へと進んだ。
-仁の裁判宮ー
黄玉色に光輝を放つ本堂の正面入口にたどり着くと、手鏡を下目に見ながら化粧をしている女がいた。
「どけ!」
五右衛門が邪険に言った。
「誰だい、あんた?」
女はおもむろに手鏡から顔を上げて言い返した。
「俺は三途の川を渡って来た者だ。お前こそ誰だ?」
「あたしゃ卑弥呼だよ」
五右衛門は驚いて目を見開いた。
「何で卑弥呼がこんな所で口紅なんか塗りたくっているんだよ。卑弥呼と言やあ邪馬台国の女王じゃねえのかい。九州か畿内の宮室に住んで、大和の国を束ねていたってえのが定説じゃあないのかよ。何で下北半島なんかでイタコの真似事やってんだ?」
「あたしゃ津軽の生まれだよ」
「な、なにい。お前、いいかげんなこと言って簡単に日本の歴史を変えるなよ。俺は小学校で教わったんだぞ、『漢委奴国王』の印が九州の志賀島で発見されたって。お前の持ち物じゃないのかい?」
「ああ、そう言えば昔旅行に行ったねえ。その時に落としたんだよ、きっと」
「どうやって旅行に行くんだよ、本州の最北端から西の果てまで。おい、ベタベタ口紅を塗りたくるのはもう止めろよ。そんなにド派手に塗りたくったんじゃあ、原宿の小娘にだって笑われちまうぜ。とにかくどけ。俺はそこに入るんだ」
「まあ、お待ちよ。ここはねえ、『仁』の裁判宮と言って、あんたの生前の情け深い思いやりの心が、どれ程あったか無かったかを審理される所なんだよ。事前に生涯を振り返り見て、記憶と感情の整理をしておいた方が得策というもんだよ。あたしがロープレの相手をしてあげるから、そこへお掛けよ。あんた、ここは初めてなんだろ?」
「当たり前だろ。こんな死霊の漂うような賽の河原の荒れ山に、二度も三度も足しげく訪問する常連客がいるとでも言うのかよ」
「まあお茶でも飲んでいきなさいよ。ダージリンと玉露があるけどどっちにするね」
「どっちでもいいけど、お前、卑弥呼だろ。なんでこんな所で門番なんかやっているんだ? そもそも女のお前が、何の理由で邪馬台国を束ねる女王なんかになれたんだ。太古の昔から男尊女卑のしきたりは根強かったんじゃあないのかい?」
「気になるかい、私のことが。そうかい、聞かせてあげるよ。はい、ダージリンと玉露のブレンドだよ。熱いよ」
「おう、気を使わせてすまねえなあ」
五右衛門は、大気の湯呑みに注がれたお茶の香りを鼻の先でクンッと嗅いだ。
「私がねえ、オギャーと泣いて母親の胎内から頭を突き出した時、真っ赤な羊水が母の子宮から流れ出たそうだよ。それはね、私の女の印しとして流れた初潮の血の色だったのさ。七歳の誕生日を迎えた時、私は神官に迎えられ預言者としてあがめられた。勘違いしちゃあいけないよ。死者の言葉を媒介するイタコなんかじゃないんだよ。人間はねえ、霊長類のリーダーとして生き物の世界を支配している。人間には他の生物よりも、様々な思考と感情を示せる能力を脳味噌の襞に刻まれているからさ。でもね、いくら能力が秀でていても、絶対に叶えられないことがある。ギリシャ神話にも出てくるじゃないか。パンドラの箱に残された最後のわざわいのもと、未来を予知する能力さ。だけどね、本当はみんな知っているのさ。己の脳味噌の奥の奥の奥底に、宿命という運命の記憶が脳細胞にくっきり刻まれていることをね。だけど神経が麻痺して、隠された記憶の襞を開くことができないだけなのさ。私はね、ほんの少しだけど、その神経を働かすことができたんだよ。ほんのわずかだけ、自分の未来をのぞき見ることができたのさ。ただそれだけのことで、私は神の子としてあがめられた」
「なんで未来の宿命が脳細胞に記憶されているんだよ。過ぎ去った過去の出来事だけが記憶になるんじゃあないのかい?」
「みんな思い違いをしているのさ。だから迷いも無しに生きられるのさ。母の胎内に命が生まれた時に魂が宿る。子宮の中で原始の記憶から今日までの進化の過程が魂に刻まれて脳細胞の襞に隠される。どんな下等な生物だって、本能としての記憶が刻まれるから種が絶えることはない。人間の進化の過程は長いから、脳の学習を終えるまでに十月と十日もかかるのさ。その時に、脳味噌に刻まれるのは過去に横たわる人間創造の歴史の過程だけじゃあないんだよ。宿命という未来の記憶も脳細胞の内側にきっちりと描き出されているんですよ。だってそうでしょう。時と次元の座標軸に未来があるから過去がある。磁場がゆがめば時間がねじれる。永遠の過去と永遠の未来の流れの中で、限られた過去と未来だけが小さな記憶となって脳細胞に隠されているのさ。じゃあ、どうして未来だけが見えないのかって言うのかい。未来を見た生物は、みんな破滅してしまったからさ。だから脳が進化を遂げたのさ。生存するために、未来を刻まれた細胞を脳の襞の奥底に深くひそめて、開かずの扉にしてしまったのさ。それが生きるための本能だからさ。あんたも思い出してごらんよ。結果を知らないから努力ができたし、未来を知らないから人を愛せたんじゃないのかい。過去を思い出として、未来を夢見る。生きるための知恵なのさ」
「じゃあ俺がこれから天国へ行くか地獄へ落ちるか、それもみんな宿命として決まっているということかい」
「そうじゃあないよ。ここには未来も過去も時限もない。あるのは無間の空間だけさ。生きているから未来と過去があるんだよ。あんたが天国へ行けるか地獄へ落とされるか、裁判宮で審理されるんだよ。だからさ、自分の過去を振り返り、審問にとどこおりなく返答できるように、記憶と感情を整理しておいたほうが得策だよってアドバイスしているのさ」
「そうかい。でもなあ、こんなところへ来てまで学習だの反省だのするつもりはねえよ。いまさら何の得をしようとも思わねえ。せっかくの親切だが、よけいなお世話だ。俺は行くぜ」
「お茶のお代わりはいいのかい?」
「ありがとうよ。ダージリンと玉露のブレンドで目が覚めたぜ」
「そうかい。それじゃあ係りの鬼を呼んであげるから、ちょっとお待ちよ」
卑弥呼が柱に据え付けられたボタンを押すと、本堂の大扉がゆっくりと開いて荘厳な鐘の音が堂内に鳴り響いた。
-如来ー
トパーズの肌をした鬼が横合いの控室から現われて、目配せをして奥の院まで五右衛門を導いた。
最奥の扉の前に直立すると、陽炎のように浮遊した五右衛門の身体はおぼろに溶けて扉の内に消えた。視覚はあるが視界が無いので白い闇に包まれてうろたえる。
やがて霞の上方に輪状の光が金色に輝き、銀白の衣をまとった如来様の気高き姿が浮かび上がった。
眠っているのか目覚めているのか、半眼のまなざしで五右衛門を見下ろし、真一文字に結ばれた美麗な口元から、珠瑠璃の転がるような涼やかな御声でのたまわれた。
「これより審問を始めまするぞ。汝は錦川の五右衛門に相違ありませぬか?」
五右衛門は一瞬うろたえた。裁判官と言えば仏頂面にしてあらゆる感情を抑えてなお、冷血にして固陋なる堅物と決めつけていた。ましてや冥府の裁判宮ともなれば、鍾馗のごとき鬼面相の巨漢か異様な化け物かもしれないと畏怖に腰が引けていた。ところが現れ出でたのは、極楽浄土より人々に救いの手を差し伸べられると寺の僧侶に教えられた仏様ではないか。
身構えていた五右衛門はあっけに取られ、たじろぎから落ち着きを取り戻して気を許し、神妙な口ぶりだが大胆にも半眼の如来に言い返した。
「俺は五右衛門だが、あんたは誰だい?」
銀白衣に半眼如来の左方からもう一尊、黄金環の火炎を背に帯びてあらたかなる御仏がお姿を現され、甲高いけれどもやはり涼やかな御声で、とがめるような口調で仰せになった。
「言葉遣いに気を配るのじゃ異生の凡夫。こちらにおわすは西方浄土の守護、極楽浄土の御本尊、阿弥陀如来さまでありまするぞ。威儀を正すがよかろうぞ。わたくしは金剛界曼荼羅をつかさどる大日如来でありまする。それでは仁の徳についての審問を始めるが、己が心の準備は整うているであろうのう?」
整うているはずもない。子供の頃に寺の住職から、南無阿弥陀仏と唱えて手を合わせれば幸せになれると諭されたが、仁の徳など聞いたこともない。
幸い裁判官は慈悲深そうな如来さまだし、無知をさらけ出したところで恥にはなるまい。聞くは一時の恥だが知らぬは一生の恥だと小学校の二宮金太郎先生が教えてくれた。
「何ですか、仁の徳ってのは? 誰かが得をするのかね? 仁義なら知ってるよ。おひかえなすってと中腰に構えて右手を前に差し出せって、道徳の時間に二宮先生から教わったけど」
「誰も得をしないし中腰にも構えない。裁判宮に入る前に、詳しく説明を受けて来なかったのか?」
「ああ、そう言えば津軽の生まれだとか言ってたよ」
「津軽だとかどうでも良い。己が煩悩具足の生命を終えて、慈悲と怨憎の善行悪行を深く心を静めて見極めてきたか? 仁の審議について答弁の準備万端を整えてこなかったのか?」
「だから、仁が何だか知らないよ。冥土に来てまで会議の資料を作って準備までして来なきゃいけないのかよ。善行だの悪行だのって、どうやって見極めるんだバカバカしい」
「審判官を愚弄しておると、地獄の底へ蹴落とされまするぞよ。被告よ、汝は生命を得て死を迎えるまでに、多数の人に憎しみを抱いたはず。憎しみの激しい順から有り体に申してみよ」
「無いよ」
「数え切れない程あるはずです」
「ねえよ」
「ありまする」
「ねえ」
「ねえ訳ないでしょうが。張り倒してやりましょうか。面倒だからいっそのこと審問をやめて、無間の地獄へ堕ちまするか」
「まあまあ大日はん、そう短気を起こさんと。異生に諭して聞かせましょう」
黄金の火炎を振りかざして怒る大日如来を振り向いて、阿弥陀如来が諫められた。
「しかと聴きたもれよ、錦川の五右衛門。宇宙に億万の魂が生まれ、生命に取りついて生体となる。微生物に宿った生命は、授けられた本能に沿ってひたすら種を遺す為だけに分離生殖を続ける。進化した生命は巨大なエネルギーを誘発させて多様な煩悩をはぐくみ苦悶する。人間として進化した生命は、生涯を通してすべからく煩悩と戦わねばならず、あまねく人倫をわきまえ、五常の徳を悟ることを強いられるのです」
「別に強いられた覚えはないけど」
「コホン、五常の徳とは、仁、義、礼、智、信の道なり。仁とは、慈悲の心を持って常に他人をいつくしみ、愛し、憐れみ、思いやる徳であって、裏腹に怨憎の会苦を併せ持つものなり。義とは、正義の心を持って不義不善を恥じて常に正道を見つめつらぬく志なりて、常に邪念の僻を裏に持つものなり。礼とは、謙譲謙虚の節度をわきまえて常に感謝の心を示すことなりて、驕気傲慢の思い上がりが逆しまな裏に潜むものなり。智とは、真理に基づく道理判断を見極める徳にして、常に盲目が裏にひそみて無知をさらそうとするものなり。信とは、己を信じて価値を高め、他人を信じて誠を奉ずるものなりて、懐疑蒙昧な心が裏腹な疑念をさらけ出そうと潜むものなり。分かりまするな?」
「初耳ですけど」
「人が死して魂となって立ち戻りし時、生涯の行為が五常の徳に照らし明かされて裁定されるのです。冥土には七つの扉が待ち受けている。極楽浄土へ導かれる扉から地獄の底へ落ちる扉まで。裁判の結果で汝の開かれる扉が決まる。こら、鼻クソほじくって指の先で飛ばすでないぞ。ここは神聖なる審判宮でありまするぞよ」
阿弥陀如来の説法を、寺の坊主の読経のように聞き流していた五右衛門だが、最後のくだりの裁判の結果で極楽か地獄かの扉が定められるという部分が納得できない。
「どうも腑に落ちないねえ。どこか不条理じゃないかい」
「徳に不条理はありませぬ。しかと真理を理解するがよかろう」
如来と議論したところで勝ち目はないと分かっているが、道理の通らない話に納得しないまま引き下がるのは性に合わない。
五常の徳とか人倫とかいえば、孔子や孟子が広めた儒教の教えではないか。何で仏の如来がそんな寝言を口にするのだ。極楽浄土に行けば蓮の花が咲いていて、あらゆる苦しみから救われると寺の住職から説教されたぞ。五右衛門は納得できない矛盾を阿弥陀如来に問いかけた。
「本堂の入口で俺は卑弥呼から聞いたんだ。宿命という運命の記憶が、未来も過去も脳細胞にくっきり刻まれているってなあ。自分の運命があらかじめ定められているのなら、どんな行為だってその人間の責任ではないじゃないか。人を憎んで殺したとしても、その行為が生まれた時から宿命として刻まれているのなら、人間はただ宿命に従って操り人形のように演じているだけじゃないか。その人間の魂をとらえて、押し付けられた行為を善行だの悪行だのと審問したって意味が無いだろうよ。一人一人の宿命を定めた奴を裁いてもらいたいもんだぜ」
「そうではありませぬぞよ。確かに生命を得た時に基軸となる運命が宿命として刻まれるが、次元は多岐多様に変化する。視界に見える現象だけが真実だという概念で思考するから物の見方が固定する。過去も未来も不変ではありませぬぞよ。定められた運命を要に煩悩が取り巻き、感情が生じて行為が生まれる。出会いは運命として定められている前提であるが、煩悩によって感情思考がどのように変化のうねりを生じるかは予測できぬ。魂の浄不浄の本性によって行為は異なる。そこに宿命の機微がありまするゆえに、審問の根拠はそこにある。五常の徳に照らし合わせてその煩悩と行為の正邪を量り、不浄な霊魂は地獄へ堕ちて浄化されねばなりませぬ」
「なら、訊くがねえ、なんで仏のあんたらが儒教の規定で人の行為を裁こうとするんだよ。仏さまなら仏教の教えが定番じゃねえのかよ」
「それはいずれ分かる事。何を比較して規範にしても意味は無い。要は魂の裁定なのです。仁愛の徳が分かりませぬか」
ああ言えばこう言い返されて埒が明かない。しょせん裁かれる側の被告が如来を相手に何を言い張ったところで論理と道理で言いくるめられる。
「どうでもいいが、俺は生前に悪い事などした覚えはねえぞ。さっさと審問とやらを済ましてくれよ」
「言葉を慎むがよい。それでは審問を始めまするが、まずは霊媒スクリーンにて被告の生前の諸行為を検証することに致しましょう」
鈴の振れるような御声で阿弥陀如来がのたまわれると、蜃気楼が覆いかぶさるように白濁となり、心象風景が実写として浮かび上がった。
ー生前の心象風景ー
本州の西の端、中国地方の山間の村にひっそりとたたずむ小さなあばら家の土間で、梁から吊り下げられた一本の荒縄に、今しも一人の老婆が首を括ろうとして木箱の上に身を乗り上げているところであった。
余りにもリアルな情景に、思わず五右衛門は絶句したまま身を震わせた。己の母親が自殺する姿を目の当たりにして、臓腑が裂けない人間がいるとすれば認知症の老人か狂人であろう。鬼畜と呼ばれて後ろ指を指される極道でさえも、一滴の鼻水くらいは流すのが産んでくれた母への情であろう。
五右衛門はその光景に目をそらすことも手を合わせることもなく、瞳孔を見開いたまま最後まで母の苦悶の姿を見届けた。人間の好奇心とは肉親の愛情さえもかくも容易に奪って操るのか。いや、そうではなかった。死して魂となった身でありながらも、恨み連なる柏原弘毅への憎しみを蘇らせていたのだ。
映像は巻き戻されて村の風景が映し出される。山林が切り開かれて田んぼが広がる。山を背にしてポツンポツンと瓦葺きの農家がまばらに点在して集落をなしている。
葉をすべて落とした柿の木が路傍に一本、朱色に色づいた鈴なりの果実が真昼の光を弾いて田園の風景から抜け出している。手前の砂利道に吹きさらしのベンチがポツンと置かれ、バスの停留所の終点となっている。
四角い鞄を持った背広姿の男が一人バスから降りた。運転手から教えられた通りに畦道を抜けて藪をかき分け農道の脇道の小さな平屋の家に男は向かった。
その家には門も無く表札も無かったが、男は構わず土間から内を覗き込んで声をかけた。
「錦川さんのお宅でしょうか」
おずおずと出て来た夫婦は、とうに六十を過ぎているであろうと思われた。男は柏原弘毅と名乗り、五右衛門の上司であると自己紹介をした。
同時に夫婦は胸騒ぎを覚えて顔を見合わせた。思い当たる節があるからだ。
戦後の農地改革によって手にした肥沃な土地を、無学な自分たちでは十分に活用できないことに忸怩たる思いを秘めていた。そこで、一人息子の五右衛門に夢を託して、近代農業の基礎を学ばせるために都会の大学へ進学させた。そのために、ささやかだった衣食さえも切り詰めて身を粉にして働いた。
ところが五右衛門は郷里へは帰らず、東京の不動産会社に就職を決めた。過疎な農地の土にまみれて一度しかない青春時代を犠牲にできるものかと考えたのだ。
両親は五右衛門をとがめはしなかったし、悲嘆もしなかった。土地さえあれば必ずいつかは戻って来るという期待があった。その時に、大学で学んだ学問がきっと役に立つに違いないと信じていたからである。
その五右衛門が一か月ほど前に、休暇を取ったと言って久しぶりに帰省してきた。背広をさらりと着こなした姿はすっかり都会のサラリーマンだった。
不動産業だといっても駅前の不動産屋とはスケールが違う。都会のオフィスビルも売買するし、海外の都市計画にも参画しているのだといっぱしの口ぶりで説明してくれた。しかし、唐突に帰省したからには何か理由があると父親は察していた。
「会社で何か困ったことでもできたんか。お前にはここに農地があるけえ、いつ帰って来てもええんじゃぞ」と、父が切り出した。
「その農地のことなんだけど、担保にして銀行から融資を受けたいんだ」
どうせそんなことだろうと予期していたのか口を一文字に結んだだけで、腕組みをして黙り込む父に不安を感じた母が、土間から駆け寄り身を乗り出すようにして微妙な空気を引き裂いた。
「お父さん、絶対に駄目ですよ。何を言い出すのですか五右衛門。あんたは騙されているんですよ。あんたは昔からお人好しじゃったから、うまい話でも持ちかけられてきっと騙されているんですよ。この土地を失ったら私たちは生きてはいけんのですよ」
「違うんだよお母さん。人から持ちかけられた儲け話じゃないんだ。自分の力で直接政治家から得た情報なんだ。国家が決める重要な計画を、政治家の口から極秘に得られることなんて、一生に一度あるかどうかも分からない、その情報を僕はつかんだ。お父さんはこの土地を利用して農業を改革したいと言ったじゃないか。金が無ければどんな改革だってできる筈がない。僕の信用では金を借りることなんかできない。どうしても担保が必要なんだ」
すかさず母親が口を挟んだ。都会の風に吹かれてのぼせ上がった五右衛門の一時の狂気を諫めるように、血眼の形相で説き伏せた。
「どうして若造のあんたなんかにそれほど重要な秘密を明かしてくれるものかね。政治家にとっちゃあ、あんたなんか田んぼのミミズくらいにしか考えちゃあいないよ。目を覚ましなさい五右衛門。この土地は私たちの命と同じなんよ。あんたはお父さんとお母さんの命を金貸しの担保にするつもりかね」
五右衛門は父の目を見つめた。開け放たれた土間口から飛び込むアブラゼミの鳴き声がジイジイと、途切れないけたたましさで鼓膜を奪って麻痺させる。裏山から風が流れて竹やぶのこすれ合う音がサワサワと揺らめく。都会の喧騒を忘れて今どこにいるのかを惑わせる。瞑目していた父が口を開いた。
「お前の好きなようにするがよい。お前が一生で一度の勝負をかけるというのなら、この農地もワシらの命もお前に預けるしかなかろう。お前が他人に騙されたとしても、お前がワシらを騙すことはないと信じておる。一蓮托生だ。好きにするがよい」
母は父に説得されて、五右衛門は権利書を東京に持ち帰った。
やっぱり五右衛門は騙されたのだと、いや、わざわざ会社の上司がこんな辺鄙な田舎まで訪ねて来るとは、よほどの事件ではなかろうかと、両親の胸は激しく震えながら上司の言葉を待った。
「実はねえお父さん、ご子息の五右衛門くんが銀行をだまくらかして、会社に大損害を負わせてしまいましてね。いやいや会社にはまだ内密にしていますから、何とか助けてやれないものかと案じて私が相談に来た次第です」
「大損害といいますと……」
「一千万の横領です」
「なんということを……、だが、とても私どもの手に負える金額では…………」
「ああそうでしょうとも、しかし会社に露見してしまえば重い罪に問われてしまうでしょうから、一刻の猶予もなりません。とにかく手持ちの現金だけでも。私も彼の為に友人縁者から金を集めて、ほれこの通り二百万ほど集めることができました」
そう言って柏原は四角い鞄を開いて見せた。そこには一万円札が無造作に束ねられて放り込まれていた。
五右衛門の為に上司がこれほどまでに尽くしてくれるのならば、自分たちも何とかしなければと思って貯金を下ろし、村の人たちにも頭を下げて回った。
「お父さん、私にいい考えがありますよ」と、柏原は言って、村人たちを公民館に集めさせた。
娯楽の少ない農民たちにとって、東京から来た人間が、なにやら良さそうな話を聞かせてくれるとなればこぞって集まる純朴さを柏原は計算していた。
「皆さま、毎日の農作業ご苦労さまであります。私は、ここにおられます錦川さんのご子息である五右衛門くんの上司であります。彼は東京で大変な事件を起こしてしまいまして、皆様にもいろいろとご迷惑をおかけしております。そこで今日はお詫びのしるしに、皆さまのお役に立ちたいと考えてここにお集まり頂きました」
大仰なセリフと身振りで柏原は集会の趣旨の説明を始めた。
「私の見ましたところ、この地区では農作業の効率を高めるために、農機具の改善が必要であると確信しました。たまたま私の会社は農協を通さずに直接メーカーから農機具を調達できますので、トラクターでも軽トラックでも利益抜きの半額で販売します。中古車両も買い取ります。明日、現金を頂ければ三日後に商品をお届けします」
会場はドッとざわめき、その場で買い注文が殺到した。ある者は貯金をはたき、また別の家では土地家屋を担保に村の信用金庫に行って大金を用立てた。
翌日の夕刻までに、柏原の四角い鞄の中は一万円札であふれ返った。公民館に宿泊していた柏原弘毅は、その日の夜中に村からスイッと姿を消した。
三日たっても一週間過ぎても商品が届かない村人たちは詐欺だと知って、五右衛門の実家に押しかけて金を返せと責め立てた。うろたえる両親は石をぶつけられ、罵られ、村八分にされて、肥料も何もかも取り上げられて農作業もできずに食べる物も無くなった。
衰えていく母の姿を見かねて父は夜中にこっそりと畑に忍び込み、野菜を盗むところを見つけられて袋叩きにあってしまった。血だらけになりながらも踏みつけにされた野菜を両手に持って、家に持ち帰って母に食べさせた。
そのうち体力がつきたのか病気を患ったのか、病院にも行けずに父は突然倒れて死んでしまった。嘆く気力も悲しむ涙も失せて、生きていくすべを失った母もまた、自らの手で死を選ぶしか道は無かった。
ー如来の審問ー
阿弥陀如来に代わって大日如来が涼やかな声で、厳かに愛と憐憫の心のありようについて問うてこられた。
「汝の両親は被告の犯した重大な過ちを因にして非業の死をとげた。村八分に苦悶する両親に救いの手を差し伸べる手立ては無かったのか?」
「無いよ」
「無いよでは済まぬであろう。己の過ちに反省も無く、両親に救いの手を差し伸べるどころか、不義不善の安楽に憂き身をやつしておったのであろうか。憐憫も慈悲もない凡欲の所業に間違いはありませぬな?」
「そいつは誤解だよ」
「親の命を誤解の一言で片付けるなよ。親から受けた恩をないがしろにして、愛の努力と慈悲を失念した汝の心魂が、無情にも両親を死に追いやってしまったのではないか。手負いの夕鶴でさえも身体を張って機織りをして助けてもらった恩返しをすると申すに、親から受けた情愛に、己が身を犠牲にしてまでも尊厳の徳を守り尽くそうとする気概は無かったのか。汝の心は北極の氷か?」
半眼を見開いて大日如来が五右衛門を諌められた。しかし五右衛門は、たとえ如来といえども誤解を鵜呑みにされるのは我慢ができないし納得できなかった。
それよりも、如来でありながらどうして真実が見えないのかが癪だった。
「俺は重大な過ちなんか犯してないよ。悪いのは上司の柏原弘毅だ」
大日如来は無知な子供を諭すように言葉丁寧に諭された。
「天網恢恢疎にして漏らさずという故事を知っておろうか」
「知らねえよ。脳天が痒いってことか。ネズミがおしっこでも漏らすのか」
大日如来は言葉を失われてしばしの沈黙の後、気を取り直して仰せになった。
「親の期待を背負って最高学府まで行って何を学んできたのやら。お天道様に背を向けて嘘八百を並べても、全てお見通しということじゃ。言葉を繕わず真実を語れよ」
「柏原がねえ、俺を悪者にして親父を騙しただけじゃなく、あこぎなやり方で村人から銭を騙し取ったという話を聞いたのは、両親が死んだ後のことだった。俺はねえ、やるだけのことはやったが、誤解を解くのは面倒だったと言っているんだ」
「面倒で済ませて両親の死は報われるのか。親の天命を疎んじるなよ。而して問うが、親の命と己が命を計較すればどちらが重いか答えてみよ」
「馬鹿な質問するんじゃないよ。ゴキブリだって子を守るために毒蜘蛛と戦うぜ。子を守り育てるのが親の責務だ。老い先短い親の寿命よりも、将来のある子の命が重いに決まってるじゃないか。常識だろ」
「ならば問います。汝の命と、汝の子の命を天秤にかけて、いずれの命が重いか答えてみよ」
「…………」
「なぜ黙っておるのですか。愛も慈悲も見失って煩悩にまみれて葛藤しておるのでありまするか。村民に対する驕りと見栄が両親への情を剥奪し、最善の方策を歪めてしまったのではありませぬかや。仁の意義が深遠にして無限に広闊である事を知らず生きて来た憐れな者よ。愛おしみ、思いやり、ねぎらい、己が身を犠牲にしてまでも尽くせる心の情は、狡猾貪欲な守銭奴的合理主義とは腑のありようが違うのですぞ」
「うるせえ。何言ってんだか良くわからねえが、一方的に決めつけるなよ」
五右衛門はやけくそに開き直って大日如来をにらみ付けて息を継ぐ。
「騙された村人だって間抜けじゃねえか。だけど俺は彼らを自業自得だなんて野暮は言わずに、十数年後、村に戻ってみんなを集めて真実を告げた。悪徳上司の悪事とはいえ、多少の責任を感じたから村のために公民館を立て替えてやったし、寺に寄付もしてやった。そしたらどうだ、その建設費用の一部を村長が着服して妾を囲ったって噂だぜ。寺の住職は浮かれてハワイに行って、真冬に黒光りの肌をさらして喜んでいたって話じゃねえか。そんな奴等に愛だの慈悲だの振りまいたって、サハラの砂丘にションベンぶっかけるのと同じように消えちまうんだ。それが分からねえのか如来のくせに」
「おのれ、言葉を慎めと言うたはずじゃが。人は皆、各々の宿命を背負って生きておりまする。その過程における仁のありようについて審問しておりまするのじゃ。分かりまするか、狭量蒙昧の単細胞」
「何だとこの野郎、断片的な部分だけとらえて判断しやがって。もっと画像を巻き戻して事の次第を認識しやがれ」
ペッと唾を吐き飛ばした五右衛門の脳天に激痛が走った。いつの間に近付いたのかトパーズの鬼が鉄棒を頭上に振り上げている。
「やめろ、何しやがんでい。暴力で俺の発言をくつがえそうって気か」
阿弥陀如来が半眼の瞳をさらに細めて大日如来に問いかけられた。
「話の成り行きを考えまするに、どうやら不動産会社に勤務する柏原弘毅という上司との経緯が重要なポイントであるように思われまするが、具体的に検証するために霊媒映写幕にて、再現画像を確認することに致しませぬか」
大日如来が鬼を牽制して退けたのち、瞑目してうなずかれると、超立体の心象画面に映し出された光景は、東京日本橋にある十文字不動産株式会社日本橋支店の表札が掲げられた赤茶けたレンガビルの一室であった。
ー柏原弘毅の企みー
「昨日までに作れと言っておいた書類が何で今ごろ出てくるんだ馬鹿野郎。明日までに本社に提出しなけりゃならねえことはお前も知ってるだろうが。それとも俺がチェックを入れなくとも完璧に仕上がってるとでも言うのかこの唐変木が。黙って突っ立てるんじゃねえよ。何とか言えよ」
また始まったかクソ野郎と、五右衛門は腹の内で舌打ちをした。それでも最近は慣れてきた。鼓膜をふさいで黙って聞き流すしかない。
こんな上司からはずして欲しいと願っていたが、誰だってこんな無責任上司の部下になりたい奴なんかいやしない。車に激突されるか肝臓癌で死んでくれないかと昨日も今日も願っているが、憎まれっ子ほどしぶとく生き残りやがる。
「昨日は例の契約の大詰めで、司法書士や弁護士と打ち合わせのために一日中飛び回っていましたので、とてもそんな書類に手を付けられませんでしたから」
「そんな書類とは何て言い草だ。まあいい。チェックなんか入れてる暇なんかねえよ。今すぐ社内便で回しちまえ。今日の報告を聞こう。そこへ座れ」
昼の間には総務と経理しかいない殺風景な不動産会社の事務所にも、夕刻になると得意先回りを終えた営業部員が姿を見せ始めて活気が戻る。
五右衛門の上司、柏原弘毅は女房に内緒で浮気を常習していた。五反田のアパートに住むその女は、別に柏原に囲われていた訳でもなく、銀座七丁目のバーで自分の生活費は自分で稼いでいるという気負いもあってか、かなり勝気な風であった。
柏原は毎朝出社すると、五右衛門にその日の得意先回りの指示を細かく命じた。そして自分は女のアパートに入り浸り、夕刻事務所に戻って報告を聞く。
少しでも気に入らない報告や営業不足があると、事務所内に響き渡るようなヤクザな口調で罵倒した。時にはいびりを楽しんでいるかの如くねちねちと、執拗に長い時間をかけて陰湿な説教をしてくれた。そんな時は、きっと女の機嫌を損ね、欲求不満のままいじけて帰社してきたに違いないと五右衛門は観念を決めていた。
一年も二年もそんな状態が続くと、上司の柏原と顧客の連絡も疎遠になり、ひんぱんに顔を見せて真面目に仕事をこなす五右衛門に顧客の信頼が増してくる。緊急な決済や重要な情報も、次第に五右衛門に流され託される。
その日、五右衛門は目覚ましの音で飛び起きた。満天に星の時刻にアパートを出て、ゴルフバッグを肩に背負って電車を乗り継ぎ、埼玉県の飯能方面に向かった。
大手町のホテルに宿泊している東北から出張中の代議士にはハイヤーを手配していた。そのハイヤーがゴルフ場の表玄関に到着するや否や、五右衛門はロビーから飛び出しうやうやしく一礼をして出迎える。
青木功やジャンボ尾崎が活躍していた頃のことで、都内の練習場は夕刻になるとサラリーマン・ゴルファーで一時間待ちの状態だったから、平日といえどもどこのゴルフ場も繁盛していた。
とりわけ飯能方面といえば都心からも近い名門コースが多く、宮仕えの安月給取りがメンバーの紹介も無しにふらふらと立ち寄れるところではなかった。
五右衛門は支配人に小遣い銭を握らせた。他のメンバーと一緒にならないように二人だけでプレイをさせて欲しいと頼み込んだ。
そして、ハーフラウンドを終えた昼休み、天気もスコアも絶好調の代議士は生ビールの勢いと絶妙な五右衛門のおだてに乗って饒舌になり、出張の目的や成果について自慢げに語り始めた。
二杯目の生ビールに警戒のたがが一瞬ゆるみ、とてつもない極秘情報のかけらをポロリと口走りそうになって慌てて口をふさいで誤魔化した。
五右衛門の耳と感性がその一片の言葉を聞き逃すはずはなかった。ハイエナが肉の臭いを嗅ぐように、五右衛門の嗅覚が銭の臭いを嗅ぎつけたのだ。五右衛門はトイレを装って席をはずし、電話室から銀座のバーに電話を入れた。店には夜の準備のためにバーテンが早出していた。
十八ホールを終えてクラブハウスに戻り、風呂を浴びて汗を流した。レストランでビールと軽めの夕食を取りながら銀座のバーに代議士を誘った。洗練された一流のホステスが控えておりますからと言えば、鼻の下を長く伸ばした好き者の代議士が断るはずもなく、五右衛門はハイヤーに同乗して銀座六丁目に向かった。
貸切りのバーに他の客は無く、選りすぐりのホステスが二人、代議士の両サイドに寄り添った。
決してカラオケなどに気を逸らさせず、巧みな会話で酒精を勧めた。切れ目の無いハイセンスな話題と艶っぽい洒落で会話をつなぎ、心地の良い酔いのまどろみに誘い込んだ。どんな男でも酔いが深まれば気がゆるむ。女がからめば気を許す。
五右衛門は待った。あせってはいけない。警戒心を抱かせてはいけない。いったん貝のようにつぐんでしまった口を二度と開かせることなどできはしない。酩酊させてもいけない。眠らせてもならない。極秘の情報が閉ざされてしまう。機を失すれば情報は色褪せて価値を無くしてしまうのだ。
代議士のろれつが乱れ始めた。五右衛門はホステスに目配せをしてウイスキーの濃さを倍にさせた。喉仏がコロコロ動いて琥珀色の水が脳天を潤おす。深々と肺を巡った紫煙がアルコールの呼気をたぐり寄せて酔いを加速させる。
頃合いを見ておもむろに五右衛門は切り込んだ。その話題にホステスがそれとなく割り込んだ。甘い言葉でママさんが煽った。大物の代議士でなければ知らされないレベルの情報を、本当に知っているのかしらと代議士のプライドを思い切り揺さぶった。代議士の尊厳に火がついた。風船のように膨らんだプライドが針で突かれてバチンとはじけた。代議士は天下を取ったように肩をいからせ、尊大な口ぶりで一線を越えた。
「我が県内における東北自動車道路建設用地買収計画の大枠がほぼ決定したんじゃ。おい、錦川、それだけじゃあねえぞ。東北新幹線の敷設ルートが決まった。おい、ママさん、秘密だぞ。誰にも知られずに用地の買収を急がねばならん」
代議士の口から飛び出した一攫千金の情報に、五右衛門の心臓はビビリとしびれて肛門筋が痙攣した。話の詳細を知るために、五右衛門はママさんに目配せをした。
「あら、決まったって事だけなの? 私の郷里は仙台だから、どこをどう走るのか興味あるわねえ。でも、そこまでは、いくら代議士さんでも知らないんでしょう?」
「馬鹿を言うな、ママさん。俺はなあ、県知事の了解を得て、この案件の采配を任されることになっておるのじゃ。その俺が、ルートの詳細を知らんはずがあるまいよ、あん。おい、錦川、ウイッ、知りたいだろうが、新幹線と高速道路の交わる地点を、ウイイッ、そこには県道も交差してインターチェンジができるのだ」
五右衛門の身体が身震いをした。五臓六腑が強風にあおられた風鈴のようにチリチリチリリンと悲鳴を上げて鳴り続けていた。
二人のホステスが、五右衛門の鋭い眼光に応じて琥珀の水を口に含み代議士の口へそっと移した。琥珀の魅惑と紫煙の毒にあおられて、東京湾に浮かぶクラゲのように酩酊した代議士の口からついに漏れた。交差ポイントの詳しい場所を代議士が吐いたのだ。
五右衛門はホステスに頷いた。琥珀の量が三倍になった水割りが差し出され、とことん代議士を酩酊させた。吐いたという記憶を失わせる為に。
建設計画が発表される前に、交差ポイントの土地を購入すればどれだけの利ざやを得ることが出来るだろうか。五右衛門はほくそ笑んだ。昇給昇格が期待できる。報奨金で車が買えるかもしれない。マンションさえも夢ではないと思って天を見上げた。腹の底から笑いが込み上げた。
翌朝さっそく上司の柏原に報告した。柏原は真偽を確かめるかのように、五右衛門の顔を見据えてにらみ付けた。
「間違いないんだろうなあ」
「銀座のママさんに電話して確かめますか」
「馬鹿野郎」
柏原は貧乏ゆすりをピタリとやめて目を閉じた。瞑目して動かなかった。しばらくしてつぶやいた。小さな声でささやいた。
「お前の名義で銀行から三千万円でも四千万円でも借りられるだけ借りて来い」
「え、経理ではなくて、僕個人がですか?」
「そうだ。お前個人で融資を受けろ」
「いったい何をするつもりですか? 会社に内緒で勝手なことをしたら、後で不味いことになるんじゃないですか?」
「頭を冷やしてよく考えろ。錦川、お前はいつまでこんなところで安月給でこき使われているつもりだ。俺が何を考えているか分かるよなあ。黙ってさえいりゃあ会社の誰にも知られはしねえ。いいか良く聞け、会社は組織だ。どんなに大きい利ざやを稼いで組織につくしても、会社というでっかい金庫に入ってしまえば全ておしまいだ。お前なんか猫のウンチほどにしか評価されねえんだ。せっかく俺たちが苦労してつかんだ情報だぜ。二人で山分けすりゃあ会社を辞めたって左団扇で何年も暮らせる銭が手に入るんだ。会社だって起こせるんだぜ。それになあ、こんな情報は会社の上まで上げて時間を浪費するほど余裕はねえんだ。すぐに動かなけりゃ情報はどこからでも漏れちまうもんなんだ。俺は今すぐにでもその土地の所有者に会って契約したい。そのくらい性急な情報だってことくらいお前でも分かるだろう。お前にもそろそろ良い思いをさせてやろうじゃねえか。俺は何とか三千万を用立てる。だからお前も早くしろ」
「僕の信用では銀行から三千万も融資なんて受けられませんよ。住宅ローンなら借りられるかもしれませんが」
「馬鹿野郎、家も買わずにどうやって住宅ローンを借りるんだ。お前確か、中国山地の郷里に広い農地があると言ってたなあ。それを担保にすれば何とかなるぜ。なあに、売るわけじゃあねえんだ、担保にするだけだ。絶対に会社には内緒だぞ。悪いようにはしねえから俺の言うことを聞け」
五右衛門はすぐさま郷里に帰り、父を説得して持参した農地の権利書を銀行に預け、審査を通して二千万円の融資が認められた。すぐさま現金にした札束を柏原に渡した。
柏原は自分の借入金と合わせて五千万円の現金をバッグに詰めて、三日間の休暇届を出して東北へ飛んだ。
柏原は自分の目で現地の様子を確かめた。県道が一本走っているだけで周辺に住宅は無い。事前に見当を付けていた地元の不動産屋を数軒回った。交差ポイント周辺の土地はどこも売りに出されてはいなかった。
当該土地の所有者と親しい不動産屋を聞きつけて、柏原は名刺を渡して話を持ち込んだ。
「実はねえ、東京の大手のスーパーがこちらの県内に一箇所、大規模な出店を計画しておりましてねえ、私共は依頼を受けて極秘で調査を進めているんですよ。三箇所に絞られた候補地の中で、まあここが一番有力でしてね。ただし、大手の流通業界は競争も激しいものでね、秘密も漏れやすい。土地の買収計画が長引けばすぐに次の候補地を検討する。どうでしょうねえ、即契約に結び付けてもらえれば、評価額の二割を上乗せできるんだけどねえ。何しろ即決極秘の商売だから、私の名義で買い取ることになるので、この通り、バッグに現金を用意している」
不動産屋の眼がバッグの現金に釘付けになった。流通業界であろうが極秘であろうが現金がすぐに得られるのであれば、誰が相手でも構いはしないと思って直ぐに土地の所有者の家へ柏原を案内した。
売却の予定も無かった所有者は、こんなチャンスは二度と無いぞと、親しい不動産屋に囁かれて、あんな荒地に二割も上乗せするというのに逡巡していたら、次の候補地にさらわれてしまうぞと煽られて、さらにバッグの現金を見せられ、その場で契約書に印を押してしまった。
三日間の休暇を終えた柏原は出社して、土地の権利書を五右衛門に見せて言った。
「いずれ計画が公表される。そうすればお前から預かった二千万の金を二倍三倍にして返してやれる。それまで黙って待っていろ」
そう言われて一か月間、柏原は休暇を取って会社を休んだ。そしてさらに一か月後、突如柏原から会社宛に住所不明の一通の退職願が郵送されて、柏原は姿を消した。
五右衛門は顔面を蒼白にして柏原のアパートに行ったが、予想通りも抜けの殻だった。五反田の女のアパートへ行ってみた。呼び鈴を三度鳴らすと、眠そうなけだるい声が返されてドアが開いた。
「なんだ、あんたかい。何ですか?」
「柏原さんはいませんか?」
殺気のこもった剣呑な表情で、部屋の奥を覗き込む五右衛門に圧倒された女は一瞬ひるんで後ずさりした。
「いませんよ。もう一か月以上もここへは来ていませんよ。どっかで若い女でも見つけたんでしょうよ」
「心当たりはありませんか? 行く先を知りたいんです。何でもいいから教えて下さい。お願いします。大金を持ち逃げされて会社を辞めてしまったんです」
「へーえ、あの人が横領をねえ。じゃあ、二度とここへは現われないよ。私はねえ、あの人の事は何にも知りませんよ。気が向けばここへ来る。男と女の行きずりの付き合いですよ。やっかいな上司に仕えてあんたも苦労だねえ」
仲間うちの騙し合いなど警察が相手にしてくれるはずもない。それどころか会社に知れたら間違いなくクビになる。柏原は雀の涙ほどの退職金を当てにする必要など無かったのだ。交差ポイントの土地の売却益が何千万、いや何億円だったのか見当もつかないが、騙された挙句の果てに大きなローンだけが確実に残されたという現実を五右衛門ははっきりと知らされた。
それだけではない、郷里の駐在所からの連絡で、父と母の死を知らされたのだ。
両親を弔うために実家へ戻ると、狂ったような村人たちの眼光が五右衛門を射る。事情を聞いて驚いた。なぜ柏原がわざわざ中国地方の辺鄙な村に、自分の上司と名乗って現れて詐欺を働いたのか。
しばらく考えて察しがついた。柏原は膨大な利権を手にして会社を辞めた。しかし、東北の土地の買収が始まるまでの当座の資金が必要だったのだ。
五右衛門には会社に事実を打ち明けられない弱みがある。情報を得た代議士の立場を慮れば、警察にも言えないし取り合ってさえもくれないだろう。だから、自分の村が狙われたのだ。父や母や村人たちが騙されたのだ。
ー柏原弘毅との再会ー
さらに、霊媒スクリーンの画像は続いた。それから三年後、五右衛門は不動産会社の営業として部下を従えるまでに成長していた。
どんな商売でもそうだが、営業は情報を得るためにアンテナを張り人脈を広げる。銀行員や保険の外交員が街を歩けば全ての人がお客様に見えるように、不動産屋が空き地を見つければ頭の中でそろばんを弾いて食指を動かす。
五右衛門は目黒の下町にある製菓会社の工場の敷地に目を付けていた。経営が厳しいようだという情報を地元の金融機関から入手していたのだ。
銀行の紹介を受けて、社長に面会を求めたがなかなか応じてくれなかった。それでも五右衛門は訪問した。そして今日は三度目の訪問で、ようやく社長に面会できた。
「どうですか社長さん。電話で何度も申し上げましたが、みじめな倒産をして巨額の債務を負って自宅も土地も失うよりも、今のうちに工場の敷地を売って会社を清算した方が得策ではないですかねえ」
面談した社長の顔は、放心したように蒼白だった。五右衛門の再三の申し入れにもかかわらず、頑として社長が提案を受け入れられない理由が分かった。
経営はとっくに破綻していたのである。真っ当な融資ではない膨大な利息の債務によって、工場を売却しても足らない程に火の車となっていた。
「私の決断が遅すぎたんだ。敷地を売って精算できるほどの借入額ではない。自己破産をすれば私も家族も殺される。もう、どうにもならんのですよ」
「殺されるって、いったい誰にですか?」
「銀行はねえ、経営が軌道に乗って順調に利益を出している会社には群がって来るが、生産が行き詰まって、新規に機械を導入してまで巻き返しを図ろうとするリスクの高い町工場には、じっと眺めて様子をうかがうだけで満足な融資などしてはくれない。やむを得ず闇金から金を借りて、新しい設備を整えて新しい商品を考え出した。もくろみ通りに売れ行きは上がった。これなら行けると喜んだ。だが、闇の金融業者から借りた資金の利息は商品の利益の数倍だった。奴らは鬼だ。工場の敷地を寄越せと脅されました。それだけじゃない。家も土地もみんな寄越せと脅されました。それなら自己破産したほうがまだましです。だが、そうなれば全ての財産は差し押さえられて、闇金融の取り分は限られてしまう。だから破産をすれば殺される」
その時、社長室の扉がバンッと開いて目付きの悪い二人の男が現われた。来客の五右衛門には眼もくれずに、社長のデスクに近付くと片尻を乗せて与太って見せた。
「今日は俺たちも覚悟を決めてやって来たんだ。きっちり満額を返済してくれるか、それとも工場の敷地と家の権利書を寄越すか、もしも手ぶらで帰って来る時は、自分の小指をつめて来いってこのドスをうちの社長から渡されたんだ。なあ社長さんよ。俺たちは小指をつめるくらい恐かねえよ。だけど、なんでお前のために俺たちが痛い思いをしなきゃならねえんだよ。もう後へは引けねえんだよ」
たちの悪い闇金の中でも、典型的に悪辣なやり口だと思いながらも五右衛門は成り行きを見守った。
「どうして家の権利書まで渡さなければならんのだ。そもそも法外な利ざやではないか。脅迫されて権利書を渡すくらいなら、自己破産を申請したほうが、社員の為にも後腐れもなく決着が付く」
「社長さんよう、金を借りたら約束どおりの利息を払って、謝礼の一つくらいは言うのが礼儀じゃあねえのかい。自己破産をすれば社長さん一家がどうなるか、分かっているはずだよなあ。俺たちは御用聞きに来てんじゃねえんだ。あんたがいやだと言うなら嫁と息子の小指を一本づつもらい受けるぜ。いいんだなあ」
ドスが鞘から引き抜かれ、木製のデスクにズンッと突き立てられてキラリと光った。これまでの経験で、二人の男は組織的なヤクザではなさそうだと五右衛門はふんだ。
「あのう、すいませんがお兄さん方。私が口出しするのも何ですが、事の次第ではお役に立てるかもしれません」
そう言って十文字不動産株式会社の名刺を差し出した。
二人の男はけげんな表情で五右衛門を見た。
「不動産屋のお兄さんが一体どんなお役に立ってくれるんだい?」
「お宅でねえ、工場の敷地を召し上げても売却の手間ひまが面倒でしょう。しかも、売却の費用だけでは足りそうもない借金だ。どうですかねえ、私は土地を転がして利益を生む商売だから、工場の敷地さえもらえれば直ぐに現金を支払える。万が一にも破産ということになれば、お宅の取り分は優先順位からして雀の涙くらいにしかなりませんよ。社長さんもお困りのようですし、私を間に入れてもらって、腹を割って話し合いをしませんか」
二人の男は顔を見合わせ頷いて、進展の目処が得られたことに満足して引き揚げた。
その翌日、五右衛門が営業回りから戻るとデスクの上に、話し合いたいので事務所に来られたしという電話の伝言と、闇金融の住所を記されたメモが置かれていた。
その事務所は五反田駅から歩いて五分ほどの通りに面した二階にあった。雨が降りそうで重苦しい曇天の隙間からひ弱に陽光が漏れていた。不穏な予感のする空模様だった。
駅を降りてゆっくりと歩いてきたつもりだが、人気の少ない通りに面した古い鉄筋のビルの前に着いた時には、額に脂汗がにじんでいた。
コンクリの外壁には幾筋もの亀裂が入り、百年前に建築されたような老朽ビルだった。
内階段を二階に上がると、二つあるドアの手前に表札があり、『中小企業の味方・幸福ファイナンス』と書かれていた。
「ふんっ」と鼻を鳴らして、首を一周させて肩を落ち着けた。ドアを開くと小さなカウンターがあり、痘痕顔の若い女に用件を伝えると、社長は衝立の向こうだと案内された。
デスクの上に両脚を乗せてふんぞり返って待ち構えていたのは何と、柏原弘毅だった。五右衛門は驚いたが、柏原は断じてたじろぎはしなかった。あの時のように眼を閉じて、瞑目した後にゆっくりと口を開いた。
「久しぶりだったなあ錦川くん。元気そうで何よりだ。君もいっぱしの営業マンになったようだねえ。名刺にはりっぱな肩書きが付いているし、背広がピシッと決まっているぜ。それにひきかえ俺の方はみじめだよ。こんな所でしがない商いを始めて、その日の暮らしを賄っている有様だよ」
思いがけない状況に、五右衛門はとっさに反応できる言葉を持ち合わせてはいなかった。それをのっけから見越したように柏原は言葉を続けた。
「ところで今日は何かい、製菓会社の工場敷地を買い取って、その金でこっちの支払いに当ててくれるって話じゃないか。いやあ、きっちり頭を揃えて決着を付けてもらおうと思っていたが、錦川くんが出て来たんじゃあ、俺も渋い顔はできないよ。昔のよしみだ、君の顔を立てて、思い切り利息を軽減してやろうじゃないか、あん」
五右衛門は一呼吸おいて、ようやく平静を取り戻すとともに怒りを再燃し、胸に仕舞い込んでいた痛恨の思いを口にした。
「柏原さん、その話はあと回しだ。俺が渡した二千万に利息を付けて返してもらいたい」
「おう、そうだそうだ。そういえばお前も災難だったなあ。俺はなあ、お前から預かった金と俺の金を鞄に入れて、現地の不動産屋を回ったのさ。そしたら、現地の事情に詳しいブローカーが現われてなあ。いやあ、さすがの俺もそいつの尤もらしい口車にすっかり乗せられちまってよう、その時は気付かなかったんだ、奴の悪知恵のからくりに。お前にも見せたよなあ、あの土地の権利書を。偽の権利書だと分かった時には手遅れだ。騙されたと知って俺は会社を辞めて奴を探したが無駄だった。お前も災難だったが俺は三千万もやられたんだぜ。いい勉強になったと思って忘れようや、なあ錦川」
「柏原さん。いい加減な出任せは止めて下さいよ。国鉄と道路公団の建設計画が同時に公表されて建設用地の買収が始まった頃、地元の不動産屋から激怒の電話が掛かってきましたよ。あんたは既に退職したと言っても信用せずに、会社にまで乗り込んで来て怒りをぶちまけて帰って行きましたよ。一体いくら懐に入れたんですか。その金を資本にこんな商売を始めたんでしょう。十倍にして返して下さいよ、俺の金を」
「おい、妙な言いがかりを付けるじゃねえか。何の証拠があってそんな寝ぼけた事を言いやがる。いくら昔のよしみだってなあ、理不尽な言いがかりを付けて俺を怒らせたんじゃあ、うちの若い奴等が黙っちゃいねえぞ。何しに来たんだ、今日は一体。商売をする気があるのかどうなんだ。頭を冷やして考えやがれ」
コブラのように冷徹獰猛な柏原のまなざしに、これ以上の談判は無駄である事を承知した五右衛門は一言を告げて出て行った。
「分かりましたよ柏原さん。もう二度とあんたの顔なんか見たくはないが、決してこのままでは済ませませんよ」
柏原は、新幹線と高速道路の交差する土地の利権を手中にして数億円もの現金を得たはずだ。それどころじゃない、こともあろうに五右衛門がその為に銀行に担保に入れた中国山地の農地まで騙し取ったのだ。そのうえ村人たちを騙して両親までを死に追いやった毒蛇のような憎悪の根源だ。偶然にしても、ようやく奴を見つけることができたのは、復讐を念じ続けて苦悶した五右衛門への、まさに神の目こぼしだろう。
両親の死にざまを知らされた日、臍を噛むどころか食いちぎり、目から血が出て脳髄が割れた。いくども夢に現れ錯乱し、脳裏に刻み込んだ憎っくき柏原の顔が目の前にある。
五右衛門は憎き仇を目の前にして、言いたい事は腐るほどあったが突然の出現に思考が戸惑い、歯切れ良い啖呵のセリフを一語として思いつけなかった。
緊縛して平伏させて拷問のうえで死の恐怖を味合わせてやりたい。反芻していた嘲りが言葉に浮かばない。かゆい背中に手が届かなくて癇にさわって灰皿をガラス戸に叩き付けてやりたい。
ムカつくけれども思い付けない言葉の替わりに敵意を抑えて冷静を装い、ふつふつと昂る闘志を五臓六腑に燃えたぎらせた。
ー香港の不動産王ー
心魂にひそみ淀んだ血潮がとぐろを巻いてうねるがごとく、条件反射のような動揺が理性を超えて噴きあがるのを感じた。それは、時を越えて受け継がれた五右衛門の天性の咆哮だったのである。
それにしても大金を手にしたはずの柏原が、何故こんな廃墟のような古ビルに事務所を構えてひっそりと商売をしているのか。
ずっと後になって謎が解けたが、その時の五右衛門にはそこまで詮索できるゆとりは無かった。それよりも、復讐の術を磨くための手立てを求めて目先は香港に飛んでいた。
劉孔明は、年に四、五回日本を訪れた。香港を基点に東アジア地域の不動産情報をあやつる劉不動産開発公司の会長である劉孔明は、十文字不動産にとって重要な顧客であった。
劉は、若くて機敏で何かと気の回る五右衛門を大変気に入り、訪日の際には必ず日本橋支店を訪れて店長に頼み込み、秘書がわりに五右衛門を付き添わせた。
生真面目に日本の情報を提供する五右衛門を、劉は息子のように可愛がり、横浜の中華街や赤坂の高級店で北京ダックや極上の中華料理をご馳走してくれたのだ。
五右衛門もまた劉を慕うのだが、すべては通訳を通しての会話に意思の疎通を欠いている。劉の些細ないら立ちを機敏に察した五右衛門は、通訳に付きっきりで広東語を学んだ。
驚くなかれ、劉は帰国の際に通訳を日本に残して五右衛門にあてがった。それはつまり、中国語を自由に話せるようになるだけが目的ではなく、華僑の習わしにも通暁させて世界に視野を広げ国際的なセンスを身に着けさせようとの思惑に違いなかった。
五右衛門は海外の不動産鑑定の研修の為に、一度だけ香港に出張したことがある。研修は十文字不動産と提携関係にある劉不動産開発公司の研修センターで行われた。
会長の劉孔明は大いに五右衛門を歓待して、ベテラン社員を張り付けにしてくれた。
研修の合間にはビクトリアピークやレパルスベイなどを案内してもらい、夜はアバディーンの水上レストランで茅台酒の乾杯をしてくれた。その席で、劉孔明は貝柱の燻製を象牙の箸でつまみながら眼を細めて言った。
「いかがですかな香港は? 五右衛門さんのご希望があれば、何処へでも案内させますよ。香港島や九龍の繁華街だけが香港ではありません。奥へ行けば広大な畑地もマングローブの湿地帯もあります。中国本土へは入れませんが国境の町までは観光できますよ」
それならばと、劉の甘えに乗じて冗談半分に五右衛門は言ってみた。いや、半分は本気だった。
「九龍城の中を見学してみたいです」
劉は顔色も変えずに即答した。
「お安い御用です。明日、さっそく案内させましょう。ただし、ご存知の通り地区内は治外法権です。香港の警察権の及ばぬ無法地帯でありますから、勝手な言動は慎んで貰わねばなりませんが、黙って案内人に従っておれば危険はありませんのでご安心下さい」
一八九八年、英国は清朝から香港の統治権を奪って租借地とした。ところがなぜか九龍城だけは租借地からはずされ、香港警察も手を出すことのできない不法地帯となって犯罪者たちの駆け込み寺となった。
一九九四年に取り壊されるまでは魔のスラム街として、よそ者が紛れ込んだら生きては出られないと噂されていた。
劉の名刺の裏側には、様々な団体、組織の肩書きでびっしりと埋め尽くされている。単に不動産会社を経営しているだけではないことは薄々承知していたが、眉一つ動かさず顔色も変えずに客人を九龍城の奥まで案内できる自信の程は、香港の闇社会にもう一つの顔を持っているとしか思えない。
それとも、闇のルートと繋がらなければアジアの国々でビッグなビジネスを円滑に取り計らう事ができないのか。
柏原の事務所を辞した五右衛門は、香港の劉孔明に宛てて手紙を書いた。十文字不動産を退職し、独立して不動産業を始めたいと考えているのだが、個人的に協力してもらえるだろうかと劉の意向を確認する文面を記した。
東南アジアでのリゾート開発を将来の目標にしているけれど、まず香港にて修行を積みたいから、無給で一年間ほど劉の事務所で働かせて欲しいと綴った。さらに逡巡した後、上司であった柏原との一連の経緯と復讐の念について追記して航空便で投函した。
間髪を入れずに返事が届いた。協力を惜しまない、すぐに香港へ来たれ。確信していたが返事が届くまでの数日間はやきもきしていた。届いた書状はまぎれもなく劉孔明の自筆だった。
もう何も考えることはない。用意しておいた退職願を上司に提出して香港へ飛んだ。
劉孔明には自分の運命を委ねられる肉親を超えた寛容な度量と慈悲深さを感じる。それは万人がみなそう考えるとは思わない。鋭敏な先見性と厳格な采配は、他の人たちにとっては峻厳な近寄りがたさを感じるかもしれない。
自分は劉孔明に甘えているのだ。いや、甘えられる存在なのだ。山水の仙境に描かれる仙人が、画から抜け出し都会で暮らせばこのような大人の風情かもしれないと、ふと思う。
グイッと機首を落としたキャセイ航空のジャンボジェット機は、海面からいきなり九龍の高層アパート群をかすめるように機首をねじり、小糠雨にけむる啓徳空港の滑走路にズズズズンとランディングして停止した。
入国手続きを済ませてロビーに出た五右衛門は、タクシーに乗ると運転手にセントラル地区にある建物の名と所在地を告げた。
タクシーは九龍半島の繁華街へ向かう。海岸へ出る前に香港島へ抜ける海底トンネルへ入る。トンネルが建設される前は、ジャンクの浮かぶ海峡をスターフェリーに乗ってのんびり揺られて渡ったという。
ワンチャイを過ぎてセントラルに入るとビジネスマンの姿が目立つ。ネイザンロードのようなけばけばしさは無く、英国風に重厚な建築と新しいビルとが並び交差する。
閉じられた車窓の外が暑いのか寒いのか分からない。上着を脱いで肘までワイシャツの袖をたくしあげている男がいると思えば、毛皮のコートを軽く羽織って歩く女もいる。
五右衛門を乗せたタクシーは、カービン銃を肩からぶら下げた警備員が立哨する赤レンガ色の建物の前で停車した。入口の大きな表札に劉不動産開発公司と書かれている。
ドーム天井のロビーの周囲に五機のエレベーターが並び、いずれも最上階が十二階であることを示している。五右衛門は最初に扉が開いた正面のエレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押した。
やがて扉が開き一歩を踏み出すと極厚な絨毯に革靴が埋まった。広い空間の先に大理石のカウンターが見える。脇の壁に嵌め込まれた青水の水槽にはシーラカンスにも似た大ナマズが、海底に潜航する潜水艦のようにゆっくりと尾びれを震わせている。
五右衛門は受付嬢の魅惑的な瞳に魅せられた。白目がまばゆいからこそ黒い瞳が輝きを増すことの証を見せつけられた。
来意を告げると受付嬢は、接客の笑みをわずかに浮かべて立ち上がり、役員通路のドアを開けて後ろも振り返らずにモデルのような見事な姿勢でフロアの奥へと歩を進めた。左右に振れるお尻を眺めながら五右衛門が従う。
最奥の部屋の扉には黒漆に龍の彫りが施され、白い細腕の拳でノックがされると室内からは悠揚として落ち着きのある声が返された。
扉が開かれ五右衛門が顔を覗かせると、よほど待ちかねていたというほどの大声が室内にこだました。
「おうおう五右衛門さん、よく来てくれました」
布袋のような大人の風格を中華服に包み込み、とうに七十歳を過ぎているとは思えないほどに色艶の良い顔をほころばせた劉孔明は、窓際のデスクからおもむろに腰を上げ、大仰な身振りで五右衛門を出迎えた。
五右衛門が案内されてソファーに腰を下ろすと受付嬢は引き上げて、入れ替わりに会長秘書によって挽き立てのトラジャコーヒーが運ばれて紫檀のテーブルにそっと置かれた。
クリームを注ぐかどうかを窺う仕草に腰がくびれて、純白のチャイナドレスの切れ目から艶肌の長脚が剥き出しになる。横目に頷きながらよだれがみなぎり頬が赤らむ。
ーパオとパイソンー
五右衛門はあらためて姿勢を正すと挨拶もそこそこに、懇願すべき旨をおおまかに説明して劉孔明にせっついた。
「劉会長、私は明日からでも早朝出勤をして、事務所の清掃をしてお茶汲みもします。ですから早々にご教示下さい。アジア地域における不動産ビジネスのルールとマナーについて。資金の管理や売買のノウハウやマネジメントについて。そして、香港闇社会に連綿として伝えられる究極の盗みの技法を」
劉孔明は分厚いソファーに体重を預けて沈み込み、すべてを承知しているというそぶりの笑みを返してよこした。
「心配には及びませんよ五右衛門さん。香港にいる間、あなたは私の客人です。すべてを私に任せなさい」
劉が振り向き早口の広東語で指示を与えると、会長秘書は純白のチャイナドレスをひるがえし、すみやかに退室すると間もなく二人の男が現われた。
アルマーニのスーツに銀龍の刺繍の入った幅広ベージュのネクタイをさり気なくフィットさせた初老の男。もう一人は黒ずんだチャイナ服に身を包み、十字のペンダントを首から下げたどす黒い眼の男。
「パオです。彼をそう呼んで下さい」
アルマーニの初老を指さして劉孔明は紹介してくれた。
「彼はアジア地域の政情と不動産事業の実務に詳しい。昼間のビジネスの指導者として、あらゆることを五右衛門さんに教えてくれるでしょう。そちらのチャイナ服の男はパイソンです。彼は闇の世界に生きる裏稼業のプロフェッショナルです。きっと五右衛門さんの必要としている技術のすべてを会得させてくれることでしょう」
五右衛門は身震いした。二人の男は容貌も服装も対照的だが、物静かなたたずまいと裏腹に、あらがうことの許されない絶対的な雰囲気をかもしている。
白と黒、光と闇、いや、冷徹なサソリと劇毒のマムシか、いずれも敵に回せば命さえ危ういが、その懐に入れば無比無類のスキルに守護される予感がする。
翌日からパオは、五右衛門が期待していた知識の数倍もの情報を付きっ切りで与えてくれた。香港の裏社会と東アジア諸国の華僑人脈、直近の政情と対応、大陸への資金の流入と海外からの投機、香港を取り巻く不動産事業の詳細なルールと多様な実務などを丁寧だが厳しく徹底的に指導してくれた。
夜になると入れ替わりに、パイソンが現れて闇の仕事の技法を授けてくれた。彼にとって人間の息の根を止めることなどいともたやすく造作もないらしい。
敏捷な動作に舌を巻き、窃盗の手法が斬新で大胆だ。少林寺拳法とプロレスを合体して伊賀忍法を掛け合わせたごとく、豪胆にして繊細な荒業に度肝を抜かれる。
また彼は、五右衛門が最も渇望していた金庫破りの非凡な技法に熟達しており、盗みの修練と共にひたすら堅牢な金庫と向き合い解錠の修行にいそしむことができた。柏原への復讐の一念が、眠りほうけていた血流を今更に蘇らせた。
そうして五右衛門は、マルチロックだろうがテンキーだろうがあらゆる錠前を一瞬の指技で解錠できるだけでなく、鉄壁堅牢な金庫に鼓膜をピタリと押し当てて、聴診器よりも緻密な聴力と感度でダイヤルを回して安易にこじ開けることができるまでになっていた。
技術の習得の速さは尋常ではなく、天賦の才をはぐくむ盗賊の血統を受け継いでいるのではないのだろうかとパイソンが勘ぐるほどだった。
先天的な良血はそれにとどまらず、無駄のない柔軟な身のこなしで音もたてずに塀から屋根へ、屋根から窓へ、窓から室内へと身軽な動きで飛び移る。
パイソンによる修練によって特異な才能に磨きがかかり、いよいよ最後の仕上げの夜がやってきた。
-実習ー
ビクトリアピークから海峡を見下ろす夜の眺望は、百万ドルの夜景と称されてまばゆく美しい。なぜ美しいかというと、香港島が単に平坦な地ではないからだ。
海峡からビクトリアピークまでが小高い傾斜の丘陵になって、そこにびっしりと家屋が建てられているのだが、決して貧民弱者が居住するスラムの集落ではない。高級住宅やマンションやホテルなどが密集し、そこから放たれる上品な光の集積と海峡に浮かぶジャンクやフェリーの光の軌跡が夜景となってきらめいているのだ。
丘陵の中腹にハッピーバレー競馬場があり、そこだけ緑が際立っている。道路わきには火炎樹の赤い花弁が血にまみれた花火のように住宅の塀からはみ出している。
夜の丘陵を車で走らせると、曲がりくねるヘッドライトの灯りが闇を割いて夜景に馴染む。
午後八時、パイソンの運転する銀光りのロールスロイスが高級マンションの玄関に横付けされた。
後部座席のドアが開き、タキシードと黒の蝶ネクタイに身を包んだ五右衛門が降車すると、カービン銃を肩から提げた警備員は三歩あとずさって敬意をあらわにした。
ロールスロイスが優雅に排気臭を残して立ち去ると、おもむろに五右衛門はロビーに足を踏み入れクリスタル製のエレベーターへと向かった。
大理石の壁面のくぼみに胡蝶蘭が飾られていたので一輪をもぎ取り、無人のエレベーターに乗り込むと十二階行きのボタンを押した。
最上階の十二階でクリスタルの扉が開くと、薄緑色の分厚い絨毯がフロア全体に敷き詰められて、草いきれの香りが満ち溢れるセレブな世界に呑み込まれた。
さながら新雪を踏みしめるごとく絨毯の厚みに足音を消されながら、人影のない廊下を突き当たりの非常扉まで進む。非常用のロックを解いて扉を開くと、いきなり百万ドルの夜景が視界に広がる。
五右衛門は、先程もぎ取った胡蝶蘭の一輪を非常階段の上から放った。クルクルと、ヒラヒラと風に揉まれながら落下してゆく一輪は、ロールスロイスの銀光りのルーフに舞い落ちる。それを合図にパイソンの黒い影が壁を這うヤモリのように素早く非常階段を駆け上る。
一二〇一と金数字で表記された扉の前にひざまずいて、五右衛門は鍵穴にピンを差し込んだ。エレベーターの乗降者から五右衛門の姿をさえぎるようにとパイソンが背を向けて立ちすくんだが、カチンと響いて鍵の開く音を聞くまでに一秒と要しなかった。
身体をすべらせるようにして中に入った瞬間、五右衛門だけでなくパイソンでさえも驚嘆の声を上げた。
「さすがは香港一の大富豪の妾の住む部屋だ」
シネラマのスクリーンに百万ドルの夜景を配したような、部屋いっぱいのガラス窓から差し込む月明りに映える絢爛豪華な装飾の派手さに圧倒されて目がくらむ。イスファハンの絨毯や翡翠で象嵌された黒檀のテーブルやエメラルドのゴミ箱などに目がくらむ。
目がくらんだが欲しいとは思わない。それを贅だと悦に浸れる奴には飽くなき驕奢の満足を得られるのかもしれないし、またその価値観があえて無粋だとも考えない。だが、五右衛門にとっては無益な贅沢品よりも、百円ショップの耳かきの方がよほど有益だと思う。そもそも驕りの道義が違うのだ。
パイソンはと見ると、あっけに取られて感嘆の声を漏らしたのは一瞬で、腰をかがめ絨毯を這うようにして部屋の隅々をまさぐっていた。
すでにパイソンの視野は闇と一体化しており、青白い月光に映える室内はあたかもサーチライトに照らされたテニスコートに等しかった。彼もまた、豪華な装飾品や宝石類などにこだわり目をくれることはない。
パイソンの首にはクロスのペンダントがぶら下がっていて、動作のたびに十字架が光をはねてきらりと躍る。どす黒い眼光の精悍さと、驕りのないクロスの静けさが男のバランスを創作している。たとえそれが百円ショップの古物だとしても、黒真珠の首飾りよりはずっと似合うだろう。
首から下がった十字架が裏になり表になって、ふさふさの絨毯の毛足をなぞっている。寝室に移動し、厨房も調べて全ての部屋の様子を確認した後に、パイソンはリビングの絨毯に座り込んだ。
五右衛門もまたすべての部屋を一瞥して回ったが、高価な化粧品や高級ブランドの装飾品がちらばっているだけで、金庫らしきものは見当たらなかった。
このマンションの住人である大富豪の妾は、九龍地区の旺角にある高級クラブの支配人を任されていると調べがついている。
数週間の下見の結果、大富豪がこの部屋を訪れるのは金曜日の夜だけで、その日は妾もクラブを休んで待ち受けているが、その日以外の妾が帰宅する時間はいつも午前零時を過ぎてからだということを確認できている。
今夜も妾が帰宅するのは午前零時を回るであろうと計算済みだ。それにしても、他人の住居に無断で長居するのは落ち着かない。どんな事態が起きるかもしれないと案じてしまう。
大富豪に妾は数人いるが、なぜこのマンションをターゲットにしたかには無論理由がある。
なにしろいくつもの企業を経営して束ねるコンツェルンの親分だから、経理を操作して監査や役所をたぶらかせばいくらでも現金を隠匿できる。そうしてたぶらかして個人口座に収めた資金の一部を銀行でドル紙幣に換金し、サムソナイトの鞄に入れてこのマンションにやって来るのだ。
そして時折、黒い背広の男が出入りしている。闇から闇へ、不浄の現金が動いているらしいのだが、多額の現金がこの部屋のどこかに隠されていることに間違いはない。
五右衛門はパイソンの調査と直感を確信していた。しかし全ての部屋を三巡して探してみてもそれらしきものはどこにも無い。さすがのパイソンも勘が狂ったか。疑念交じりの溜息をついてパイソンを見た。
五右衛門の腹の内を察してか、パイソンが親指を立てて囁いた。
「慌てるな五右衛門、時間は十分にある。この部屋のどこかに札束が隠されている。どこかに必ず隠されている。落ち着いて考えるんだ。身体を触覚にして探るんだ」
おもむろに絨毯から体を起こしたパイソンは、五右衛門を捨て置いて再び動き始めた。獲物を狙って長い舌を剥き出しにしたカメレオンのように、薄手袋の指先がタンスの木目や壁面をまさぐる。
五右衛門はもう一度、すべての部屋の中心に立ってじっくり周囲を見渡した。寝室のクローゼットの向こう側に隠れ部屋は無いか、サイドボードに仕掛けは無いか、天井の梁は動かないか、絨毯を剥がして床も執拗に撫でまわしたが、十二階のマンションに屋根裏や地下室があるはずもない。
三十分以上もかけて調べ尽くした。待ち人にとって三十分は長過ぎるだけだが、盗人にとっては危険と鉢合わせの時間の経過だ。
五右衛門にとっては初めて試みる家宅侵入による実習だったから、にわかに心臓がじくじくと震えてきた。もしや誰かに見張られてはいないだろうか、監視カメラで捉えた警備員がカービン銃を構えて乗り込んでは来ないだろうか、警報が鳴らされたら果たして逃げおおせるのか、一秒一刻の経過が波動の刻みだ。
二人は渋い顔をこわばらせて、リビングのソファーに深く身体を沈めて溜息をついた。五右衛門は初体験の緊張に尿意を催してトイレに立った。
トイレから戻ってしばらくしてパイソンがつぶやいた。
「おかしい……おかしい……どうしても不自然だ」
リビングから通路へ抜ける広い空間に、一メートル四方の巨大な柱が床から天井を貫いている。柱のそばには籐のハンギングチェアが一脚据えられているだけだ。その四角い柱を見つめてパイソンはつぶやいた。
「ビルを支える支柱が、なぜこんな空間のど真ん中にあるんだ。事務所専用のビルならともかく、ここは香港一流の高級マンションだ。こんな設計はどう考えても不自然だな」
パイソンは素早く立ち上がり、柱に拳を当てて感触を確かめたが、コンクリートの硬さに負けて拳の骨を撫でている。板張りならば仕掛けの作り様があるかもしれないとの期待が裏切られて、悔しそうに歪めた唇がいつもの冷徹さをあからさまに損なっている。
五右衛門はパイソンが抱いた疑問の勘を信じた。柱のそばにさりげなく置かれているハンギングチェアを脇にずらした。
思いのほか籐の椅子は軽かった。柱の底に密着している毛足の長い絨毯の隙間に、七つ道具の細針を突き当てた。床にはね返されて反応がない。
四方の床に針を突き当てている内に、五右衛門の背筋が血走った。椅子が置かれていた面の絨毯だけが、わずかに針先に絡みつく。五右衛門の天性が見破った。この面に接する絨毯だけが、床に接着されていないのだ。
ナイフを取り出して床と柱を傷つけないように、絨毯の接合面を這わせて角までなぞった。
絨毯の毛足を丁寧に選り分けると、角からリビングに向かって一直線に絨毯が切れていたのだ。片側の角からも同じように絨毯が切れている。
一メートル辺の柱の床面から太針を絡ませて絨毯を剥がすうちに、さすがのパイソンもぱっくりと口を開いて驚愕の表情を露わにしていた。
はがした絨毯の下には床面に合わせて二本の細いレールが敷かれていたのだ。
「滑車だ」と、叫んで、五右衛門は裏側に回って力任せに柱を押した。
「動かない」
五右衛門の額に汗がにじむ。
パイソンは柱の上から下まで目を走らせて、同じ模様の壁紙の切れ目をじっくり探した。椅子が置かれていた面を中心に三面が、背丈よりもやや上の方に0.一ミリほどのずれを見つけた。
パイソンは柱を両腕に抱きしめて手前に引いた。動かない。
五右衛門はしゃがみ込んで、レールに仕組まれたストッパーを見つけて横にずらすと、いとも簡単に柱は動いてレールの上を転がった。いや、動いたのは柱ではない、柱を囲む三面のコンクリートの壁面がコの字形になって動いたのだ。
むき出しになった固定の壁面を背に、高さ二メートルもありそうな巨大な金庫が張りぼての柱の中に隠されていた。
パイソンはホッとしてニヤリと笑い、肩に背負っていたナップサックを五右衛門に渡してストップウォッチのスイッチを押した。
「制限時間は十分だぞ」
渡されたナップサックを開いて五右衛門は武者震いをした。大富豪にふさわしく堅牢な金庫だが、時間さえ気にしなければ確実に開けられる自信はあった。
でもそんなことは問題ではない、修練の結果を確かめるのは時間と焦りとの戦いなのだ。そして後始末だ。
金庫の中身に手を付けてはならない。盗みに入った痕跡を残してはならない。指紋は言うまでもなく足跡の一つも残してはならない。できなければ劉孔明に合わせる顔がない。柏原弘毅の薄ら笑いが脳裏をかすめる。
五右衛門は金庫に聴診器を当てると、蚤の囁きさえも聴き洩らさぬ慎重な指さばきでゆっくりとダイヤルを回した。
微細な金属音がカチンと鼓膜を捉えて指を止め、じっと見下ろしていたパイソンと目を合わせて頷くと、ぴったり五分後に針が停止しているストップウォッチをかざして、彼はにやりと笑みを見せてくれた。
五右衛門は七つ道具を急いでナップサックに収め、柱と絨毯を元に戻して立ち上がると、窓辺に広がる香港の夜景の輝きがようやく自分のものだと気づいて胸を張れた。
ーフィリピンのリゾートー
研修の締めくくりにフィリピンの無人島へ案内しましょうと、パオに誘われたのは翌日のことだった。
「五右衛門さん、胡文虎という人物を知っていますか? 彼は萬金油で稼いだ巨万の富で、アジア各地で多角的な事業を拡げ、香港とシンガポールにタイガーバームガーデンというユニークな虚像世界を建設して多くの人たちを楽しませております。彼に触発された訳ではないでしょうが、アジアの不動産王として君臨しております劉先生は、南の島にエデンの楽園を築き上げるパラダイスの開発に夢を馳せたのです。王家や皇族はもちろん、世界中のセレブな金満家や芸術家たちが密かな社交場として自由で奔放に時を過ごせるパラダイスリゾートの開発です。劉先生だからこそ描けたミラクルな構想、外界から隔絶された絶対的な安全地帯、それがフィリピンの孤島にあるのです」
パオは少しの気負いもなく淡々と語ってくれるのだが、五右衛門にはその光景を描き切れない。
育ったのは中国山地の林野だから、蔦の絡まるジャングルなら多少なりともイメージできる。東京都の式根島や神津島には漁師さんが住んでいたけど、その延長線にミラクルなパラダイスなど想像もできない。
パオの話によると、フィリピンには七千を超える島嶼があり、そのうち百以上が無人島であるらしい。
ミンダナオ島の南方約二百キロメートルのセレベス海上に、マングローブの密林に覆われた孤島があって、その島の名は劉孔明によってゴールデンアイランドと名付けられたという。
フィリピンのリゾートなどに興味は無いが、劉孔明が構想したというパラダイスの存在に心が動いた。他人の土地や建物をころころ転がして、利ザヤを得ながら商いをする不動産業には限界がある。柏原への復讐だけで自分の人生は終わらない。情報や知識や人脈がきっかけとなり支えとなって運命を変える。
劉孔明が開発した島を見聞したい。復讐の怨念とは無縁な血が騒ぐ。天性の遺伝子とは異なる血脈が行けと命じる。
啓徳空港で出国手続きを済ませたパオと五右衛門は、ゴールデンアイランド行き専用の小型ジェット機に乗り込んだ。三十人ほどの座席は様々な顔色と服装の人たちでほぼ満席だった。
小型ジェットは南シナ海に連なる島嶼を舐めるように低空飛行で飛翔する。
やがて密林を切り開いた常緑の滑走路にズズンと着陸すると小さなタラップが下ろされて、機外に出るといきなり南国の熱風が全身を包み込み、あたかも衣服を身にまとってサウナに入ったような錯覚を押し付ける。それでも海からの風のせいで湿気が掃われて爽やかだ。
簡素な空港ビルで入島チェックを済ませる。
外に出ると棕櫚に囲まれたターミナル広場には一台の車両もタクシーも見当たらず、よくありがちな客引きらしき姿もない。あるのは一本の鉄路と二両連結の路面電車で、五分おきくらいに通過して行く。
パオに促されて扉のない路面電車に乗り込む。動き始めるとすぐに、ガラスの無い車窓の外はジャングルだ。ヤシやバナナや熱帯の緑風が頬を撫でる。
これほど癒される風に今まで触れたことがない。この風景は自分が生まれる前に出会った故郷のような気がするのはなぜだろうか。この密林こそが人間の本当の故郷なのかもしれない。都会のネオンに騙されて、俺たちはみんな幻覚を見ているのかもしれない。
ジャングルが切れると灼熱の太陽に目をくらまされ、高台の頂点から路面のレールは露わになって駆け落ちる。赤瓦と白壁の市街地が、トリミングされた写真のようにエキゾチックな慕情を眼窩に焼き付ける。
ジャングルを抜けるといきなり市街地が広がった。プルメリアの並木にアマランダやハイビスカスの黄や薄紅が艶やかで、その隙間からウツボカズラがいくつもの顔を覗かせている。
街の中心部だと告げられて下車すると、他の乗客を乗せたまま再び電車はゆるりと動き始めた。
「この島にホテルはありません。この島でビジネスをする者は一人もいませんからね、必要ないのですよ。ここを訪れる人たちは海岸沿いのコテージか、ジャングルに囲まれた閑静な別荘で過ごします。ここには車もバイクもありません。移動の手段は路面の上を走る電車と自転車だけです。数台の電車が島をグルグルと回り続けていますから、いつでもどこからでも自由に乗って移動できます。誰も急ぐ用事はないのですから、ゆっくり時間をかけて移動すれば良いのですよ。市街地を少し歩いてビーチの方へ行ってみましょう」
赤道に間近な熱帯の気候でありながら、セレベスを吹き渡る海風のおかげでまとわりつく汗の不快さを感じない。
横断歩道も信号も無いから、数ヶ国語で記された道標が目印になっている。手を伸ばせばランブータンの真っ赤な果実をもぎ取って甘い果肉を頬張れる。
「夕刻になると屋台が並んで賑わいます。キャバレーやカジノでは若い踊り子や美しいホステスたちがお相手をします。遊びも恋愛も自由ですから、誰が誰と遊ぼうがマスコミざたになることも、売春で捕まることもありません。島内はフィリピンの法律も世間のモラルも及ばない完全なる治外法権が確立しておりますから、年齢も風紀も気にすることはないのです。ただし、盗みと殺人と麻薬だけはご法度です。たとえどのようなゲストでも、この戒律を犯せば二度と島を出ることはできません」
五右衛門は首をひねった。治外法権だなどと勝手なことを言ったって、世界でも最も治安の悪いフィリピンで、法律もモラルもなければ秩序が乱れて無法地帯になってしまう。世界中のミリオネアが集まる無法の島を、プロの誘拐犯や窃盗団が黙って見過ごすはずがないではないか。
五右衛門の心の内を見透かしたようにパオは続ける。
「ごらんなさい五右衛門さん。島をとりまく海岸は、訪問客のすべての人たちにプライベートビーチとして開放されています。ところがこの海域には鮫がいるので危険なのです。この島に滞在されるゲストを安全にガードするために、色んな工夫がなされています。凶暴な鮫が近付かないように、飼いならされたイルカの群れが常に島の周囲を遊泳しています。サーファーが波にさらわれて沖に流されたときには、小型の快速艇が救助します。それだけではありません。ごらんの通りこの島にはトーチカも要塞もありませんが、一個師団の軍隊が上陸しようとしても容易に撃退できるくらいの戦闘能力を備えているのです。それは密かに島に入ろうとする犯罪者の防止にもなっているのです。この島の安全はね、法律と言うよりも統制と言いましょうか、警察ではなくプロの集団によって守られているのです。セーフティボックスやルームキーさえも不要なほどに、完璧な安全と奔放な自由が保障されているのですよ」
そう言われれば、拳銃を持った警官やカービン銃をぶら下げた警備員の姿をどこにも見かけることはない。それならば、私服の刑事がアロハシャツの下に拳銃を隠してビーチや市街をうろついているってことなのか。
ありふれた疑問がいかに愚問であったかを、パオの説明によって赤面せずにはいられなかった。
「そんな無粋な者はおりません。島中に百万台の赤外線併用カメラが設置されており、二十四時間監視しております。どんな犯罪者も島から逃亡することはできません。訪問客を装って島に入ることができたとしても、罪を犯して島を出ることはできないのです。この島の治安体制は、特殊訓練を受けた者たちによって組織されているのです。彼等のほとんどは無宿者か犯罪者です。この島を出ては生きていける場所がない。だから過酷な訓練に必死で耐える。耐えられずに怠けたり犯罪を犯せば容赦なく処刑されます。彼等の指揮官は世界の戦場で実戦を積んだ外人部隊や軍人たちです。その他にも香港の特殊施設で養成された武闘家や殺しのプロたちが随時派遣されて組織に加わるのです。フィリピン政府や軍部がこの島の治安に介入することはありません。アジア圏における劉孔明の影響力を彼らは充分に理解しておりますし、彼らへの金的支援も決して怠っておりませんから。島に出入りできるのは専用の小型ジェット機と食料運搬用の大型フェリーだけです。海底には密入船を監視する特殊レーダーが敷設され、魚雷を搭載した潜水艦も配備されております。ここはハワイやバリ島のような観光リゾートではありません。際限もなく倒錯した禁断の世界にまどろむ、ときめきの時間と安らぎを享受することができるプライベート・アイランドなのです。それだけに、完璧な自由と安全が保障されなければならないのです。ヨーロッパの王家や皇室、アラブの石油成金、インドのマハラジャ、インテリジェントな青年実業家、高級閣僚や政治家、世界中のセレブな金満家や芸術家たちが密かな社交場として自由で奔放な時を過ごせるパラダイス・リゾートの開発。劉孔明はこの島で利益を上げようとは考えておりません。世界のトップ人脈と交流を持ち、あらたまの情報を入手するために島を利用しているのです。土地を売買したり、都市開発に従事して高層ビルを建てることだけが不動産業ではないのです。明日は島の管理システムと治安の現場を紹介することに致しましょう。必ずや五右衛門さんの将来のためにお役に立つと思いますよ」
こうして二年間の滞在の後、劉孔明は五右衛門の前途を祝し、ペニンシュラホテルのレストランの一室を借り切って送別会を催してくれた。極上の鮑と北京ダックを堪能し、注がれた茅台酒を一気に呷って劉孔明に謝意を表した。
ー復讐の始まりー
日本に帰った五右衛門は、柏原弘毅の所在を確かめるために五反田へと向かった。事務所を移転していないことを祈りながら、駅前から続く歩道を歩いた。
歩きながら、おぞましい記憶の剣に臍を噛みしめ唇を歪めた。俺は奴を許さない。悪い事をした人間は法の定めによって裁かれる。そんな理屈は誰もが知っているさ。だけど、女房子供や肉親が殺されれば誰だって、自らの手で仇を打ちたいと願うに決まっているだろう。鎖でつないで爪を剥いで、拷問のあげく苦痛にのけぞる仇のまなざしを、あざ笑いながら撲殺したいと思うだろう。
ところが現実はどうだ、この程度の刑罰が前例にならって順当だからと諫められ、生ぬるい法の裁きの前に屈して勇気を失い泣き寝入りが正義だと押し付けられる。そんな他人事のエセ正義がまかり通って許せるのか。報復という言葉こそが排他的な裏切りを覆すためにあるのではないのか。真の正義を貫くために、誠の悪が成立するのではないのか。
俺は奴を決して許さない。しかし慌てることはない。奴の身に付けている衣を一枚づつ剥ぎ取れば、生きている事の惰性と愚かさに悶え苦しみ、腐り果てたどす黒い血反吐を嘔吐することになるだろう。とどめの楔を死の鉄槌に打ち砕くまでは、両親の供養に俺の究極の愉悦として溜めおいてやる。
老朽ビルの二階に『幸福ファイナンス』の表札を確認して、喉まで込み上げる復讐の念を冷静に堪忍袋に収めて封印をした。
五右衛門は近くの書店で週刊誌を数冊買い求め、老朽なビルの向かいの喫茶店に入り、窓際の席に座ってビルに出入りする人の動きを観察することにした。
エレベーターの無い四階建ての細長いビルには、幸福ファイナンスのほかに七つの会社が間借りしていた。営業をしているのかいないのか、狭い階段入口からの人の動きはほとんど見られない。たまに出入りする男も女もうらぶれた表情で、みすぼらしいビルのたたずまいに相応しかった。
五右衛門は横目でビルの様子をうかがいながら週刊誌の表紙をペラリとめくった。東京にディズニーランドがオープンしてミッキーマウスとシンデレラ城がグラビアを埋めつくす。本誌をめくると奇病エイズ、コインロッカーに赤ん坊、校内暴力と積み木崩し、経済大国ニッポンと、昭和元禄の象徴的な姿が錦絵をあぶり出すように集約して報道されている。
およそ自分とは関係のない次元の世界の出来事のように思えるが、誌面の狭間に現実の自分が底なし沼から顔だけ出しているように思えてならない。時代の流れと一体化して、復讐という運命を背負わされてしまった。
週刊誌をめくりながら考える。最も簡単な報復の方法は殺人かもしれないが、それでは自分も罪に問われて割に合わない。最も納得できる復讐の手口は、奴の犯した罪の重さを自覚させて、苦痛を伴わせて時間をかけていたぶる方法ではなかろうか。
その為に、戦う術を香港で身に付けてきたのだ。先の事は分からないが、ともかく今は七杯目のコーヒーをブラックで飲み干している。
五右衛門は午後九時の閉店まで喫茶店で粘ったが、ビルからの人の出入りの中に柏原の姿を確認することはできなかった。
それから近場の居酒屋で十一時までを過ごしてビルに戻った。外壁が月明かりに照らされて、古びた亀裂が獲物を狙う海蛇のように黒くうごめいているようだった。
昼間と同様に守衛の姿は見当たらない。入口から階段の奥をさぐってみたが、防犯装置も警報装置も見当たらない。
柏原が姿を現したのは翌日の午前十時過ぎだった。老朽ビルに不相応な縦じまのオーダースーツをさりげなく着こなして、狭い階段を肩を揺らしてゆっくり上がる。
入れ替わりに四人の男たちが出て行った。いかにも暴力団と思わせぶりな黒い背広に、定番のサングラスを胸ポケットに片フレームを突っ込んで、先のとがった革靴という出で立ちだった。恐らく闇金の法外な利息の取り立てに泣く債権者たちを恐喝にでも行くのだろう。
五右衛門は喫茶店を出た。柏原の姿を見届けたからにはもう見張る必要はない。
以前に事務所を訪れた時、衝立の向こうの大きなデスクに柏原は両足を乗せてふんぞり返っていた。その背中の壁際に堅牢そうな金庫があった。そのとき俺は誓った、必ずその金庫を開いてやると。あくどい商売のネタが収められている、その金庫を必ず開いてやると。
そして二日後の日曜日、夕刻から借りていたレンタカーを五反田に向けて走らせた。午前零時を回って人通りも絶えたころ、老朽ビルは生きることを忘れて眠っているようだった。
苦も無く忍び込んだ事務所のカウンター越しの奥を見やると、ひときわ大きな両袖のデスクが置かれ、椅子の背中の壁際に堅牢そうな金庫がドンと据えられていた。
高利で高額となった借用証書は間違いなくこの中にある。他人の血反吐で溜めこんで弱者をいたぶる証書だ。それを根こそぎ奪い取り、柏原の憤怒の表情を思い浮かべることが報復の序章だ。
ダイヤルに手を触れようとしたその時に、入口の扉の鍵がカチリと解錠される音を耳にした五右衛門は、素早く机の陰に身をひそめた。
扉をそっと開けて入ってきた黒装束の動きは敏捷で、暗闇の中でライトも点けずに金庫を見つけ、ピタリと耳を当ててダイヤルを回し始めた。その手際の良さに五右衛門は舌を巻いた。
五分もかけずに扉を開けて、中の書類をつかみだした。その瞬間に五右衛門は飛び出して、黒装束の首根っこを絞めて片腕を逆手に捩じった。
黒装束はしばらく暴れたが無駄だと観念して力を抜いた。そして、黒装束の口から囁かれたのは、何と女の声だった。
「お願いがあります。あなたが事務所の人だとは思えません。きっと私と同じように証書を盗みに来たのでしょう。証書は全てあなたに差し上げます。でも、その中の一枚だけ、一枚だけを私に頂きたいのです」
腕の力をゆるめて黒装束のマスクをはぎ取った。窓から入り込む月の明かりに照らして女の顔を見定めると、若く優し気な顔立ちにエキゾチックな気品もある。とても裏家業を生業とする盗人には見えないと思って、五右衛門は緊張を解いて女に問うた。
「一枚だけと言うからには、なにか喫緊の理由があるのだろう。どれでも好きな証書を持って行ってくれ。その代り、教えてくれないか。あんたは女のくせに並外れたプロの技量を身に付けている。しかも根っからの悪人には見えない。何故だ?」
女から詳しく事情を聴いて納得した五右衛門は、一枚の借用証書を女に渡した。そして、女が盗みに入らなければならなかった事由に共鳴して、それを解決するための妙案を授けた。
そのあと五右衛門は、残り百枚余りの中から目黒の製菓会社の証書を探したが見つからなかった。
自己破産をすれば殺されると言って悲嘆にくれていた社長のことが気になって、翌朝さっそく工場のあった場所を訪れてみたが、すでに更地にされてロープが張られ、ネズミの死骸のそばにぺんぺん草が生えていた。
ヤクザのような取り立てに逃げ道を失った社長さんは死ぬしかないと苦悶していた。はたして柏原は、人の命と引き換えにどれだけの利益を上げたのか。
翌日から五右衛門は盗んだ証書を一枚づつ取り出して、そこに記されている電話番号にコールした。
「はい、鶯谷美術印刷です」
しわがれた女の声だった。電話の声で会社の活気が予測できる。
「ああ、幸福ファイナンスの者だけど、社長さんをお願いします」
「お待ち下さい」
しばらくの間をおいて、受話器から聞こえる男の声は剣呑だった。
「坂田です」
男は名を名乗っただけで構えるように、じっとこちらの言葉を待ち受けていた。
「坂田さん。今日は良い話をしようと思って電話を差し上げたんですよ。だから、しっかり聞いて下さいよ。うちが貸した坂田さんへの融資金額は二百万円だったよねえ。ところが坂田さんが約束通りの利息を返済してくれないもんだから、負債額がいつの間にか三千万円を越す金額に膨れ上がってしまった。そりゃあ確かに月々の支払いはいただきましたよ。だけど雀の涙ほどの返済で膨れ上がった雪だるまを溶かすことなんてできませんやね。そこでね、うちの社長が決断したんですよ。借入金の五割増しの金額を即刻現金で支払ってもらえるんだったら、全てをチャラにして証書を破棄しましょうってね。坂田さんの借入は二百万だから、即金で支払ってくれるなら三百万で帳消しにしてやろうって話ですよ。どうですか。夢みたいな話じゃありませんか、坂田社長」
「それは有り難い話だが、何でまた突然あんた方のあくどい方針が変わったんだい。また騙すんじゃないだろうなあ」
四十名の社員をかかえて下請けの印刷会社を経営する坂田は、当座の資金の融資を銀行に断られ、工場を維持する為に万事を窮して高利を承知で闇金融の幸福ファイナンスに助けを求めた。
その利子が二年も経たないうちに途方も無い高額に膨れ上がって、家屋も土地も工場も全てを失うかと思案に暮れていたところへ、信じられないような提案が持ち込まれたのだ。
すぐにでも取り付きたい話だが、相手が闇金融となると、どういう風の吹き回しなのか真偽のほどが分からない。
「そう言いますが坂田さん。うちが融資していなけりゃあ工場はとっくに閉鎖されていたんじゃありませんか。町の銀行なんて、少しでも経営が傾けば冷たく突き放されてそっぽを向かれる。坂田さんが良くご存知のはずじゃありませんか。私等はねえ、中小企業の皆様の味方なんですよ。ところが、ここへきて検察の眼が随分と厳しくなってきたものだから、私等もここらが潮時だと社長が判断しましてねえ、一旦全ての負債を一掃した上で、運営の方針を改めることになったんですよ」
「分かった。必ず証書を持ってきてくれるなら用意する」
翌日の午後、五右衛門は幸福ファイナンスと印刷された偽の名刺と、二百万円の借入証書を持って鶯谷美術印刷の工場を訪れた。
古びた木造二階建ての一階が工場になっており、数台の枚葉印刷機械が景気の悪そうな音を無神経にうならせていた。五右衛門は二階の薄暗い通路を抜けて、狭苦しい応接室に案内された。
社長の坂田が硬い表情で現われた。五右衛門は慇懃に一礼をしてテーブルの上に証書を広げた。証書に間違いないことを確認した坂田は、社員に命じて三百万円の現金を運ばせた。
「社長さん、この金はどのようにして工面されたのですか。私が詮索する筋合いではありませんがね」
「今月分の社員の給料ですよ。たとえ遅配になっても三千万円の借金を抱えて彼らを失業させるよりはましだ」
五右衛門はこのようにして、柏原の事務所から盗み出した借用証書に記されている電話番号に片っぱしから連絡を入れた。
幸福ファイナンスの営業を騙り、借入金の五割り増しを即刻現金で支払えば、十倍、二十倍に膨れ上がった利息を全て帳消しにしてやると言えば断る者などいなかったが、中には当座の現金が無いと言ってゴネる奴もいた。そんな奴等には脅しを入れた。
「私等にはねえ、時間が無いんですよ。明日、若い者をお宅へ行かせて借金のかたに女房子供をあずかるよ。ヤクザが仕切る飯場があるから、息子さんにはそこで働いてもらう。娘と女房にも銭を稼いでもらうことになる。うるせえなあ。電話口で叫ぶんじゃあねえよ。私等はねえ、無慈悲な仕打ちをしようなんて考えてはいませんよ。中小企業の皆様の味方ですからねえ。たとえ五十万でも二十万でもいい。近所のサラ金で借りて来い。それで数千万の借金がチャラになるんだ」
そう言って、もらえるだけの現金を受け取り、目の前で高額の借用証書を破いてやった。
悪徳金利で暴利を貪る柏原から借用証書を横取りして恨みを晴らす。証書を元手に荒稼ぎした資金で不動産会社を設立する。柏原を他人の褌に見立てた一挙両得の勘定になる。ざまあ見やがれと溜飲が下がる。
しかし柏原への報復がこんな事くらいで済まされるはずもない。奴は俺の掴んだ情報と現金を持ち逃げにして両親を死に至らしめた。騙して稼いだ数憶の金をどこかに隠匿しているはずだ。
臥薪嘗胆とまでは言わないが、胸の裂けそうな虚しい日々をぬぐい去れない。必ず奴を捕縛して罪の深さ卑劣さを思い知らせてやる。
腐りきった性根の奴が反省などするはずもない、だから後悔させてやる。極上の払い戻しをさせてやる。生きているだけで苦悶にあえぎ、廃人として生きねばならない腐敗の羞恥を骨の髄まで知らしめてやる。あせる必要はない。じっくり計画を練って、完璧な仕打ちを考えるのだ。
ところがある日こつぜんとして、五反田の事務所は空室となり柏原弘毅は消えてしまった。探偵事務所に依頼してまで奴の行方を追ったのだが、きっぱりと消息は絶えてしまった。
柏原が証書の盗難に気付いたのは二日後だった。取り立てに回らせた部下の報告を聞いて、疑問を抱いて金庫を開いて殺気走った。
金庫は堅牢なダイヤル式二重扉の二重ロックだ。怒りよりも、背中を蛆虫が這いずるような怖気を覚えた。
賊の手際の見事さに、首を絞められるような危険を察したのだがそれだけではない。喉元に拳銃を突き付けられる事件が起きたのだが、それは後日談として、早々に事務所を閉じたのだ。
柏原に怨念を抱える一方で五右衛門は、香港で修行を続けているうちに、途轍もない野望を抱き膨らませていた。こじんまりと下町の不動産業を営みながら、柏原への復讐を果たすだけに人生を費やすつもりなどさらさら無い。
闇の組織を手の平に乗せて君臨する劉孔明には及ばないまでも、せめてアジア地域の土地や金を動かして国際的なディベロッパーとして活動したいと考えた。そのためには柏原から盗んだ証書だけでは余りにも資金が足りなすぎる。ターゲットを拡大しよう。
五右衛門は、東京中の闇金融業者の事務所を荒し回り、高額の借用証書を片っぱしから盗み出した。闇金融の社員をかたって債務者の自宅や会社に電話を入れた。
借入金の五割増しの即金で返済を要求し、泣いて喜ぶ負債者から膨大な現金が五右衛門の懐に転がり込んだ。盗まれた闇金融は、臍を噛みながらも余計な埃を叩かれるのを恐れて警察に届け出る事ができなかった。
五右衛門は事務所を開設するにあたって、港区麻布十番の洋風な外観のビルの一室を借りた。
今でこそ都営大江戸線が開通して賑わいを増したが、当時の麻布十番といえば、交通の利便が悪い理由で陸の孤島と揶揄されていた。
だけども事務所の家賃は割安で、何よりも麻布という地名が気に入った。信用を重んじる不動産業を新規に開業するには、いささか見栄を張れる居心地の良さは抜群であった。
景気に陰りが見えてきたとはいえ昭和のバブルは絶頂期にあり、地価は永遠に上がり続けるものだという絶対的な担保物件だった。
五右衛門は『ニシキ・リアルエステート』と社名を登記して関東一円の不動産を転がした。転がして転がしまくった利益で東南アジアの不動産にも投資した。
新参の不動産会社が外地の不動産を売買するには絶大な人脈と手練を要する。一言にリスクと言って済まされるほど甘くはないことを五右衛門は香港で学んでいた。劉孔明の信頼と後ろ盾が心強かった。当座の資金以外はスイスと香港の銀行口座に振り込んだ。
ー五右衛門のルーツー
虹が消えるように心象画面が霧散して香の匂いがみなぎると、五右衛門の意識が我に返りてまばたきすれば、半眼の阿弥陀如来さまがさらに目を細めて首をかしげて呟きになられた。
「己の無知を棚に上げ、父を裏切り、母を見殺しにしたあげく、上司を憎み恨んで盗みを働き、悪銭を積み上げた被告の愚かな生きざまは良く分かりましたが、唯一つ、腑に落ちない事がござりまするのじゃ」
「どこが落ちないのでありまするかや、阿弥陀はん」
阿弥陀如来の払拭しきれないわだかまりのお言葉に応じて、大日如来が問い返された。
「いかに香港で修行を積んだとはいえ、わずかな期間にあらゆる錠前を解く技を会得でき、東京中の悪徳闇金事務所を荒してまわる程の大胆不敵な泥棒行為を行えるには、なにやら生前の血筋にいわくがありそうに思えてなりませぬ。そうは思われませぬかな、大日はん」
「まことに御意にござりまするなあ。さて、それでは被告のルーツをたどり見ることにして、仁の審問はそれからということに致しましょう」
大日如来が胸元で結ばれていた印相を解かれて大輪を描かれると、五右衛門の網膜は分厚い雲粒に蔽われ、ザワザワ、ザワザワという人波の喧噪から明らかにガヤガヤという人声に変わり、大きな叫び声が聞こえてきた。
時は文禄三年、所は京の三条河原。今にも利休鼠の雨がそぼ降りそうな乱雲が垂れ込める朝靄の中、柵越しに幾重にも群がる物見の衆を不屈な笑みで睥睨し、煮沸した油の大鉄釜の中で我が幼子を両の手で頭上にかざし、「グワッハハハ、石川や、浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の、アッチチチ、種は尽きまじ……アチチチチ」と絶叫するは、釜茹での刑に処される天下の大盗賊、石川五右衛門の末期の姿であった。
「おや、もしやあの頭上の幼子がここに居ります被告かな」
阿弥陀如来が訊ねられた。
「まさか。アホなこと言われたらあきませんで阿弥陀はん。今は平成の時代でっせ。しかも父五右衛門の力は尽きて、憐れかなあの幼子は煮沸の油の中に沈んでしまいまする」
霊媒映写幕の再現画像がいくえにも回転し、石川五右衛門の一族郎党親類縁者の一人残らずが処刑されるという、近年まれなる凄まじい規模の刑場の模様が映し出された。
「されば石川五右衛門の血縁は、これにて途絶えたことになりまするのう。しかるに何故、被告のルーツにこのような記録が残されておりますのやら」
「さにあらず。歴史の裏側に見逃された事実がありまするのじゃ」
大日如来が画像を追うようにして、報道番組のニュースキャスターのごとき口調で簡明に解説をお加えあそばされた。
「石川五右衛門は、古墳、飛鳥の時代の大豪族蘇我一族の末裔なのでありまする。そも、蘇我氏とは河内土着の豪族でありまするが、中でも蘇我馬子は敏達天皇から推古天皇に至る四代に渡り大臣として権勢を振るい、蘇我氏の全盛期を築き上げました。推古天皇の皇太子として摂政に任じられた聖徳太子に娘を嫁がせ、仏教を政治文化の基調として国家建設に尽力し、また牛耳ったのでありまする。ところが、蘇我氏の専横強権を快く思わない皇族豪族によるクーデターが画策されて、中大兄皇子の凶刃に掛かり蘇我入鹿が宮中に於いて暗殺されました。以後、藤原一族の台頭により蘇我氏の地位権勢は徐々に衰退し、都を離れ河内、丹後、伊賀等の諸国へと分散する運命となります。天武天皇から石川の姓氏を賜った蘇我安麻呂もまた追われるが如く、伊賀の国へと居所を移したのでありまする。さて、伊賀の山村、石川村にて生を受けた蘇我五右衛門、いな、石川五右衛門は、幼きみぎりから伊賀流の忍術武術の技を仕込まれ、自らも鍛錬修行に励み人並み外れた運動神経を身に付けて、天下にまれなる大泥棒の下地が養成されたのでありまする。京の都の賑わいを耳にするようになった五右衛門は、成長するにつれて野望がふくらみ血が騒ぎ、天下を取るべく大志を抱きまして、元服と同時に村の幼馴染みと祝言を挙げ、凛々しく身を整えて村を出たのでありまする。京の都で五右衛門が目にしたのは、公家の贅沢三昧に乱れし品行と武家大名の横暴だった。虐げられた貧富の格差に喘ぐ農民卑賤の赤貧の生活でありました。仕官の途もままならず義憤の炎が燃えさかった五右衛門は、都を跋扈していた盗賊の頭目を片っぱしから捕らえて手下に仕立て、徒党を組んで公家、大名、豪商の倉屋敷を荒し回って盗みの限りを働いたのです。人相書きが風に乗り、遠く江戸の町にも舞い降りて、石川五右衛門の名は全国津々浦々に知れ渡ったのでありまする」
大日如来の解説が途切れると、霞の彼方から梅花の甘酸っぱい香りが漂ってきた。春の温もりを誘う満開の紅梅の花蜜に鶯が舞い飛ぶ京の御所の内庭の西の離れの一室にて、宮廷に仕える女官フクと仲睦まじく手に手を取って密かな不義の逢瀬を重ねる一人の巨漢の男がいた。その男こそ石川五右衛門。
そも、半年をさかのぼる文禄二年の紅葉の節、時の将軍豊臣秀吉侯が朝廷に献上した金無垢の壺を盗みに御所内に忍び入った折、西の離れの厠の前にたたずむフクの切れ長の黒い瞳が、足早に行き過ぎようとする五右衛門の心の腑をグサリと突いた。
目と目が合って弾けた火花が、互いの思慕を交し合うすべに今昔の違いのあるはずもない。
野猿と共に山谷を駈けて忍武の修行に励んだ五右衛門も、元をただせば栄華を極めた名門蘇我一族の血がたぎる。煌びやかな御所に侍らす女官の中でも、ひときわ眩い黒き瞳に射竦められて、五右衛門の血が雅な純血を求めて逆巻いた。
五右衛門は盗み去ろうとして小脇に抱えていた金無垢の壺を、すぐさま元の在り場所に戻して御所を立ち去った。高価な壺が盗まれたと分かれば御所の警備は一層の厳しさを増す。それでは再び忍び入ってフクに会う事が叶わなくなる。
その夜、五右衛門は再び御所に忍び入り、淡くも激しく燃える心の内をしたためた染色の和紙文を、小さく折り畳んで西の離れの障子の隙間に挟み込み、厠の柄杓をコンと打ち鳴らして前庭の松の木陰に身を潜めて様子をうかがった。
夜陰の物音を不審に思い、障子を開いたフクの足元にポトリと落ちた染色の文が仲秋の月光に薄白く照らされた。辺りに人の気配の無いことを確かめて、フクは再び障子を閉めて文を開いた。その様を見届けた五右衛門は音も無く、月明かりを避けるように暗闇から暗闇に身を紛らせて御所の外へと姿を消した。
五右衛門には女房がいた。かつて伊賀の山里で、共に忍武の修行に励んだ幼馴染の気丈な女で、十数人の手下を束ねる盗賊の頭領を支えるに相応しく賢才剛毅な女房であった。五右衛門の深情もこよなく厚く、一子を授かった後も相互の愛に乱れはなかった。
しかし、出会いというものは宿命であり、人の思惑の埒外にある。五右衛門とフクとの出会いは血と血が求める縁をもって異なる次元に仕組まれた紅い糸の絡まる定めであった。
フクは文を開いて頬を染めた。昼間、前庭をかすめるように行き過ぎる巨漢の男と目と目が合った。熊野の那智大滝を思わせる豪胆な挙動の中に、けがれの無い水の飛沫の清さに触れて、やり過ごす事の出来ない切ない思慕が炎となって心を焼いた。
不承不承、女官として宮廷に召し出されたフクにとって、公卿衆の高慢な話し振りや傲慢な所作にはほとほと愛想も嫌気も尽きていた。
そもフクは、かつて西国の名将であった大内一族の末裔である。朝鮮半島の百済を先祖とする大内氏は、現在の山口県である周防長門に本拠を置いて、中国地方の豪族を掌中に納め強大な権勢を誇っていた。
中国山地の中央に位置する広大な銀の産出地である石見銀山の発掘権と、多国との貿易によって莫大な富を築き上げた大内氏は、朝廷に多大な金品貢物を献上しつつ、官職を嘆願し京の公卿と深く親交を図っていた。
ところが天文二十年、隆盛を誇っていた大内氏も、周防の守護代陶晴賢と長門の守護代内藤興盛の謀反によって大内義隆が長門の大寧寺に於いて自刃を遂げた。
さらに、安芸の小国から伸し上がった毛利元就によって陶晴賢が撃退された後、弘治三年四月、元就の長州侵攻によって大内義長が長福寺にて自害するに至り、名門守護大名大内一族は完全なる滅亡となった。
これより数年を遡る天文の年、恭しく京の御所への朝見の際、朝廷の女官と秘めて契りを結んだ大内一族の若者がいた。
秘め事ゆえに公卿の縁として出生が届けられた娘の名はむらさき。大内氏滅亡の後、血縁の秘事は固く隠蔽されたのであるが、母むらさきから娘へ、娘からその娘フクへと秘して口伝されていたのである。
フクには公卿の気高き純血の裏側に、荒けき豪族の濁流が密やかに脈打っていたのである。眠っていた濁流の血が、苦み走った五右衛門の眼光によって覚醒の刺激となってしまったのか。
ほとばしる恋慕が茨の棘の如く、激情を込めてしたためられた五右衛門の文を、行灯の明かりに照らしてフクは何度も何度も読み返した。文末に、五右衛門の固い決意がフクの覚悟を問うていた。
『我が想いを汲みて受け入れるならば、明晩亥の初刻、菊の花弁の一片を湯飲みに浮かべて月の明かりに照らされるよう、障子の外に置かれたし』
フクは熱き胸中を焦がしつつも、深く逡巡の苦渋にうちふるえていた。一目で見初めたとはいえ、相手の男はこれまでに御所内で見掛けたことのない巨漢のよそ者。朝廷に仕える公卿の娘が、何者であるかも分からぬ男から投じられた一折の恋文に涎をたらしていそいそと待ち受ける訳にもいかぬ。
どうしたものかと、良き答えを見つけられぬままに亥の初刻を迎えたフクは、開き直って庭の菊花を一輪つみ取り口にくわえると、障子の内からおぼろにかすむ上弦の月を見上げていた。
障子の前を一陣の風が吹き抜けたかと思うと、御所の屋根からふわりと影が舞い降りた。小さな影がムクムクと伸び上がり、巨漢の姿が月の明かりに照らされた。
「おぬしは何者じゃ」
思いもよらない忍びのごとき出現を目の当たりにして、公卿の者でも尋常の武士でもないと察したフクは、頬を上気させながらも気丈に問うた。
「石川の五右衛門と申す。大盗賊の棟梁にてござりまする」
野太い声がひそめるように返された。
「なにゆえに大泥棒が、かようなところをチョロチョロとうろついておりまするのじゃ」
「将軍豊臣秀吉侯より朝廷に献上された、金無垢の壺を盗みに忍び入り申した」
「ならば早々に立ち去られよ。ここにはさような壺などありはせぬゆえ」
「壺はいともたやすく盗み申した。だが、誰にも気づかれる前に元の場所に戻し申した。今宵は菊の花弁を盗みに参上したのじゃ」
「それは、なにゆえにじゃ」
「そなたを一目見掛けた折に、盗みし金無垢の壺が、あたかも汚泥を練りまわして焼き上げた不毛の壺に見えてしもうた。そなたの口にくわえし菊の一輪を、わしの唇にて奪いたい」
五右衛門は三日に一夜、御所へ忍んでフクとの逢瀬に現を抜かした。酒を飲み、情を交わして愉悦の一時に溺れて過ごした。
天の宿命と心得る五右衛門に、後ろめたい気持は微塵もなかった。だから、不審を抱いて問い詰められた女房には、天下一の大仕事をもくろんで、夜毎偵察に出掛けているのだと言い訳をつくろった。
しかし、いく夜も重ねる逢引に、いつまでも偵察ではさすがの女房も納得がいかぬので、本当に五右衛門は大仕事をもくろみ実行に及んだ。
文禄三年、桜吹雪の舞い仕切る夜のしじまの満月の下、事もあろうに五右衛門は、大阪城の天守閣から淀の流れを見下ろしていた。
「絶景かな、絶景かな。春の眺めは値千金とは、小せえ、小せえ」と大見栄を切ったかどうか分からぬが、急勾配の天守の甍の上を守宮の如く音も立てずに腹這いで、獲物の在りし場所へと身体を這わせた。
五右衛門は京の大名公家屋敷から大阪の豪商社寺に至るまで、片っぱしから徒党を組んで荒らし回っても決して捕縛されるへまはしなかった。それは家財や財貨の在り場所や防犯警備の緻密な情報を事前に収集して綿密な計画を立てていたからである。ところが今度ばかりは僅かな情報すら得る事も叶わぬウルトラC超ド級難易度の忍びであった。
豊臣秀吉は二度の朝鮮征伐の際に、彼の国から様々な財宝をかっ払って来た。中でも全国盗賊連合会垂涎の的、幻の秘宝として噂されていたのは大阪城天守閣の秀吉の寝所に奉られているという、エメラルドの仏像とその納められた玉虫の金厨子。
その夜、一人の侍と三人の配下の者が大阪城内に宿泊していた。侍とは真田雪村。配下の者は三好清海入道、霧隠才蔵、それに甲賀の若武者猿飛佐助。
草木も狸も眠る丑三つの刻、研ぎ澄まされた猿飛佐助の超高感度音声知覚神経が、蟻が芋虫を引きずるような異様な音を夜気の震えで感知した。
寝床を抜け出した佐助は内庭に出て、五葉松の梢の合間から天守閣を仰ぎ見ると、甍の上を月光を浴びて僅かにうごめく黒装束の賊を見付けた。
五右衛門は、瓦を一枚づつ手繰るようにして、音を立てないように屋根の先端に向けて身体を這わせる。ようやく瓦の端から下を見ると回廊の欄干が眼に入った。
呼吸を整えて眼を閉じて、両脚と足先の十指に凄気と力を集中させて頭から欄干目掛けてずり落ちた。五右衛門の身体は十本の足指に支えられ、瓦の端から蝙蝠のように逆様にぶら下がった。ゆっくりと眼を開くと、天守の格子越しに内の様子を月の差し込む白い光で窺えた。
腕組みを解いて両手を伸ばし、腕の反動の勢いを利用して空中でクルリと反転すると、狭い回廊の中央にストンと両足をついて体勢を整えた。
その刹那、五右衛門の首筋に鋭い痛みが走った。屋根裏の梁にトトンと音を立てて十字の手裏剣が突き刺さり、月光を浴びてキラリと鋭い光を放っている。思わず首筋に指をあてると血が滴っている。
五右衛門は体をひるがえして東の回廊の角を曲がった。なんと、そこに野猿のような人影が、満月を背に両手を広げて立ちふさがった。
とっさに欄干から外へ飛び降り、下層の手摺りをむんずと掴んだ五右衛門の両足を目掛け、ビュンとうなりをあげて飛んできた鉄の鎖が、蛇がとぐろを巻くようにグルグルとからまりついた。
敵は一人ではない。しかも、かなりな手練れの者だと判断した五右衛門は、地面を駆けて逃走するしかないと考え、鎖がからまったまま下層の欄干から石垣に向けて仰向けに飛んだ。
並みの者であれば全身打撲で命を失うところだが、山谷で鍛え抜かれた忍びの本能が覚醒し、身体を丸めて石垣の衝撃を和らげながらも鎖をほどき、転がり落ちる寸前に体躯をバネにして叢に飛んだ。しかし、五右衛門の運命もそれまでだった。
石垣の下で待ち構えていた三好清海入道が持つ鉄塊の金棒で、脳天に一撃を食らわされると流石の五右衛門も敢え無く失神してしまったのである。
五右衛門の胤を胎内に身ごもっていたフクは、五右衛門捕縛の報と、一族郎党一人残らず死刑に処されるという噂を聞いて、生まれる我が子に累が及ぶことを懼れ、大内家の菩提が弔われている長門の国へと逃れて行った。
五連アーチの木組みの名橋、錦帯橋の架かる錦川の遥か上流、中国山地の奥深くの山村に身を潜めたのである。
やがてフクは出産し、娘が生まれた。娘は年頃になり村の若者と結ばれた。そして娘が生まれて、やがて若者と結ばれた。どうした因縁か子種は常に一人の娘だけで、男児を賜ることが無かった。
ところが、五右衛門が京の三条河原にて処刑をされて満二百五十年の弘化元年、ついに待望の男児が出生した。その子は一右衛門と名付けられた。
働き者の一右衛門は荒れ果てた山野を切り開いて畑地にして耕した。そして村の若い娘を娶り一人の男児を賜って、その子に二右衛門と名付けた。
明治維新の後、平民に苗字を義務付けられて二右衛門の息子三右衛門は、錦川を姓として名乗ることに決めた。
その孫として生を受けた錦川五右衛門の出生は、まさに石川五右衛門がこの世に生を受けた満四百年後の昭和の年の同月同日の事であった。
ー仁の裁判ー
「さすれば、被告は石川五右衛門の転生した魂でありまするのか」
阿弥陀如来が定印に組まれた御手をお解きになってお尋ねになった。
「さにあらず。奴は先日も閻魔庁の血の池地獄の風呂釜で、蛸ゆでに上気しながらカラオケに興じておりましたゆえ。被告は奴の屈曲した遺伝子の突然変異であると考えられまする」
「コホン、それではこれより仁の裁判を行いまする。被告、錦川五右衛門は、仏に誓って嘘いつわりを申さぬように。それでは大日はん、よろしゅうお願い致します」
「それでは審問を始めまする。あらためて被告に訊く。仁を何と心得ておるか?」
「別に何とも心得ちゃいないよ」
「…………」
「それだけかい、審問は……?」
「心して聴け、ボンクラ。仁は慈悲にして慈悲の心は弱き者へ愛をほどこし、愛の裏側には強き者への妬みがあり憎が妬みの影となる。被告よ。汝の生涯における慈悲と憎の評価に基づき、天に在るべきか地を這うべきかの裁定を受けるものと心得よ。汝は上司であった柏原弘毅に騙され大金を奪われた。その事実を知らされた時に奴を恨んだ。たまさか再会した折りに恨みが憎しみとなり復讐を決意して、香港で修行を積んだ心情に相違はないか?」
「違うよ」
半眼の目を真似て五右衛門が答えた。
「どこが違う」
「柏原は偏執で粗暴でいやな奴だったけど、上司として仕事を教えてくれた。だから、柏原と再会した時にもことさら奴を憎いとは思わなかったよ。ただ、仕返しをしてやろうと思っただけだ。香港へ行けば必ず技術を習得できるような気がした。血が騒いだんだよ。だけどその血が、まさか石川五右衛門から受け継いだ大泥棒の染色体だなんて、今の今まで知らなかったよ」
憎のありようをはぐらかそうとする五右衛門に立腹された大日如来がお諫めになった。
「仁の罪状を軽減しようと浅はかに考えて、見えすいた嘘を申すでないぞ。いやな上司に怒りも憎しみもことさら無かったと言うのかや。たわけた言い逃れをするでないぞよ。日々、間抜けだ、馬鹿だと面罵され、屈辱にねじ曲げられた憤怒の炎がほんの少しも無かったと言い張るのか。汝の努力でつかんだ情報を横取りされた上に、親の土地をかたに大金を騙し取られた。騙されて憎まない聖人君子が人間界におりましょうや。騙し取られた金額の高が憎悪の大きさに比例する。どうだ被告、二千万円分の恨みが二千万倍にはじけたのであろう。ありていに申せよ。それだけではない。両親の非業な死に至る遠因も、柏原の所業によるものなれば、怨念義憤の恨みも並大抵ではなかったはずだ。いかに|白《しら》を切り通そうとしても、仏の目をごまかすことなどできはせぬぞ」
五右衛門は目を見開いて、恐れ多くも大日如来を睨み付けて言い放った。
「おい、大日はん」
「気安く呼ぶな、大日如来さまと呼びなさい。鼻クソをほじくって指で飛ばすな。その指で私の顔を指差すな。ここは汝の天地の運命を裁定する神聖な裁判宮でありまするぞ。ことの重大性を理解しておりまするのやら」
死して初めて裁判に臨む五右衛門の思考は混乱していた。本音を語るべきか真意を欺いて裁判官の心情を謀るか。
たとえ相手が如来でも、卑屈になって怯えることはないだろう。とりあえず言いたい事だけは主張して、あとは成り行きにまかせれば良いだろう。そう思って五右衛門は果敢に立ち向かった。
「柏原という男はなあ、獣のように感情むき出しで、蛇蝎に狼の皮を着せたような卑劣な奴なんだ。そんな奴を恨んだって憎んだって仕方ないじゃねえか。俺は上司を憎むよりも、そんな状況に置かれた自分の運命を呪ったんだ。だけど、そんな男の部下になった俺の運命を呪っていじけるほど俺は腰抜けじゃあねえよ」
「ならば、何ゆえに復讐を決意したのか。復讐こそは憎の発露。地中にマグマが溜まって火山が爆発するように、恨みが怒りとなって復讐に走る。己が心をごまかすな。運命と感情をない交ぜにして犯した事実を歪曲するでないぞよ」
「俺はなあ、騙し取られた銭の恨みを晴らすためだけで復讐を考えた訳じゃねえ。俺の夢を実現させるために、奴の事務所から借用証書をかっぱらった。それだけじゃあ不足だから、東京中の闇金融を荒しまわって証書を盗んだ。まあ、ゲームのような感覚だなあ」
「憎ではなくて欲だと申すのか。憎を裁かれるのが恐くて欲だとうそぶいて仏の目をあざむき虚仮にする気か。阿弥陀はん。この馬鹿は憎を欲だとすり替えてしらばっくれて開き直っておりまする。いっぺん針の地獄へ蹴落としてやりましょうかのう」
「まあまあ、大日はん。被告の行為には随所に慈悲の心も見られまする。被告は泥棒を働くことによって仕返しを試み、思惑通りに私腹を増やす結果となりました。しかし、卑劣なる悪徳闇金融業者の罠に陥った債務者を、その苦境から救済してやろうと考え行動したところに被告の弱者へのいたわりと言うべき慈悲があったものと思われまする。さらに被告は、汚職にまみれた悪徳代議士の事務所や、賄賂天下り血税の無駄遣いを旨と心得る省庁官舎にも忍び込み、疑獄に及ぶ確証書類を盗み出し、表沙汰にしない代償として恵まれない養護施設や老人介護施設への多額の寄付を強要した。弱者への慈悲と申せましょう」
「ほんに、これを慈悲と捉えもできまするが、さかしまな義侠心とも解釈できましょう。はたしていかがなものでござりましょうか」
大日如来が続けて被告に問い質された。
「汝は香港から帰国した折に目黒の製菓会社を訪れた。すでに工場の建屋は無く、新しいビルの建設用地となっておった。何ゆえにそこを訪れたのか。債務者を哀れと思う慈悲の心が芽生えて、工場の様子をうかがう目的で訪れたのか。もしも工場が稼動していたならば、経営者を支援してやろうと一縷の情でも差し伸べる決意でおもむいたのか。言葉をかざらずに申し立てよ」
「確かめに行っただけさ。製菓会社がぶっ潰れたかどうかをさ。まあ、野次馬の下見みたいなもんだな。俺は債務者が苦しんでいるのを見て、かわいそうだなんて思ったことなんか一度もねえよ。だってそうだろう、自業自得でそうなったんだから。身から出た奴等のさびを、いちいち慈悲の情をもってぬぐってやろうなんて考えるほどお人好しじゃあないよ。俺は自分の幸せや贅沢を夢見て彼等を利用しただけさ。身体障害者が重度だろうが、介護老人がアルツハイマーだろうが、そんなものを見て哀れむほど俺は善人じゃねえ。ただ、他人の生き血を吸っていい気になって、のさばっている奴等が俺の癇にさわっただけさ。だからけじめを付けてやったのさ。慈悲も無けりゃあ情も無い。恨みも無けりゃあ憎しみもねえ。ゲームに興じる感覚だよ、フン」
「正直なのか馬鹿なのか、嘘つきなのか狡猾なのか、慈悲も憐憫も、憎悪も怨念も無かったとうそぶき粋がっておる。そんなたわけた返答で審問を逃げ切れると思うでないぞよ。今一度、被告に問いまするぞ。他人のことではありませぬ。汝の両親について問いまするゆえ、心を静めて率直に答えよ。親子のちぎりは縁に結ばれ、血の温もりによって愛の情がはぐくまれる。父が苦境におちいり殺害されて、母が苦悶のすえ自らの命を絶った。もとをただせば汝の不徳に起因する。さて、汝にとって親とは何ぞや。いかように父母を愛し、どのように慈悲の心を持っていたわり接したかをありていに述べよ」
「俺は小学校で教わったぜ。子供は親をうやまえってなあ。親は愛するものでも慈しむものでもなく、尊敬するものと決まってるんだよ。母の愛は東京湾よりも深く、父の愛は高尾山よりも六甲山よりも高いって順子先生が教えてくれたぜ。だから俺は親に愛されても愛したことなんてないよ」
「その身勝手な解釈とひねくれた根性が仁の行方をくらましたのだ。八百屋の店頭に並ぶ売れ残りのカボチャのごとく、親も他人も十把ひとからげにして愛も命も粗末に扱う。仁とは徳をもって自他の隔たりを置かずと諭すが、血縁を結界と定めて愛憎を隔てる。勇を持って目に見える一切のことに接すべしと諭すが、己の保身のためには平気で目をつむる。慈愛の情を持って己を贄にして思いやるべしと諭すが、憎の情にすり替えて他人をほふる。情の裏にひそむ欲にさまたげられて仁の心を見出せずに苦悶する人間界において、いかに親を愛し、子をいつくしみ、他人を思いやり、自分を養ってきたかの裁定を下すのが仁の裁判宮でありまするぞよ。慈愛のほころびを繕うためにいっぺん地獄へ、あっ、そんなところで立ちションするな。こ、ここは神聖な……。あ、阿弥陀はん、こいつを針の山で串刺しにして百万プルトニウムの放射能を浴びせてブラックホールの噴火口へ放り込んでやりましょうぞ」
ー浅草橋の大崎幸恵ー
「ま、まあまあ、大日はん。落ち着きなはれや。はて、ここに一葉のカルテがござりまするぞ。これ被告。汝が東京中の闇金融業者の事務所を荒らし回って盗んだ借用証書の中に、大崎幸恵と名を記されたものがありましたはず。ことの経緯を話してみなさい」
「幸恵ならよく憶えているよ。彼女の借用証書の金額を合計すると一千万円を超えていた。それだけじゃない。後で分かった事だが、大手のサラ金からも一千万円以上の借金をこさえていた。俺は電話を掛けてみたんだが、つながらねえから住所を頼りに訪ねて行った。総武線の浅草橋駅を降りて、隅田川に向かって五分ほど歩いた辺りにみすぼらしいアパートがあった。どの部屋にも表札が無いし生活の匂いを感じないから、誰も住んでいないのかと思ったんだがねえ、証書に記された住所の部屋にかすかな人の気配を感じたんだ。俺は幸恵の名前を呼んでみたが何の応答もない。俺を闇金の取り立て屋だと思い込んで、毛布に包まり息を潜めてうずくまっていたんだよ。だけどな、千里先の蚤の喘ぎ声さえ聞き分けられる俺の鼓膜の細胞が、苦しそうに咳き込む彼女の呻き声を聞き取ったんだ。だから俺は穏かな声で、あんたを闇金から救いに来たんだとドア越しに言って聞かせた。だけど、どうしても信用できずに息を潜めたまま動かない。俺は近くのコンビニでおにぎりとおでんを買って戻って来た。それからピンを使って鍵を開けて中に入ったら驚いて怯えていたから、もう一度穏かに闇金ではないと言っておにぎりとおでんを差し出したんだ。よほど腹がへっていたんだなあ。怯えながらも温かいおでんとおにぎりを美味しそうに頬張った。事情を話してやったらようやく安心したのか、幸恵の身の上を聞かせてくれたよ。よくある話だが、哀れな女だった」
女から聞いた話を、五右衛門は隠すことなく滔々と述べた。
短大を卒業した幸恵は、池袋の小さな税理事務所に就職してひたすらまじめに勤め、とりたてて変化の無い毎日を送っていた。
事務所の男たちは冴えないおっさんばかりだし、居酒屋へ出かけて飲んだり遊んだりの機会も少ない。男運にも恵まれないまま、三十路の峠を越えた晩夏の候だった。
事務所に八つ年下の生真面目そうな男性が入社してきた。野暮ったい丸ぶち眼鏡をかけて勤勉そうだが、黒い瞳の奥には野生的な輝きが秘められていたのか、幸恵の心の琴線がピロロンピロンと高鳴って胸がふるえた。
男性もまた、なにかと優しく接してくれる幸恵の色香にあふれた眼差しと、豊満な乳房に母性を感じて慕情が恋へ、恋が愛へと変わり始めた。プロポーズをしたのは男の方だったけど、酔ったふりして連れ込ませて、奪わせて口説かせたのは幸恵の方だったのさ。
男性の両親には激しく反対されつつも、とどこおりなく宴の式を挙げて郊外のアパートで幸せな新婚の日々を送ったそうだ。
だがな、三十路を過ぎれば誰だって、男が一つ年を取る度に女は二つ老けるのさ。八つも年上の嫁を娶った男がどうなるか、誰が考えたって分かる事だぜ。待ってくれって叫んだって、女の肌はたちまち衰える。えくぼがシミに変わり、白魚の肌が鮫肌となる。白髪のポニーテールを鏡に映せば幽霊屋敷のお岩に見える。
そこまでたどり着くまでに男は新たな夢を追いかけて、女は突き放された地獄の淵に足を取られて忍び泣く。事の成り行きは火を見るよりも明らかだぜ。
亭主が四十になった頃、同じ職場の若い女と良い仲になってしまったそうだ。きっと一時の遊びに違いないと、いずれ熱も醒めるだろうと幸恵は願い、気付かぬ振りで家庭を守ろうと考えた。そして幸恵が五十歳の誕生日を迎えた朝のこと、嘔吐を覚えてトイレにしゃがみ、どす黒い血の塊を吐き出した。
病院に行って診察を受けたら胃ガンだと診断されて、直ぐに手術が必要だと迫られ、そのまま外科病棟に入れられた。亭主に医者から説明があり、胃の筋層まで浸潤している状態だと告げられた。胃の全摘手術が行われたが、すでに転移が確認されて腹は閉じられた。
亭主は手術を終えた女房をいたわるどころか、看病にも見舞にも現われなかった。それどころか若い女に翻弄されて、そそのかされて、医者も本人に宣告しなかった癌の転移を軽い気持で幸恵に告げて、離婚届を差し出して署名を求めた。
男も愛も生きる望みも失った幸恵は退院と同時にアパートを出た。どうせ短い命なら、少しでも都会に近い方が賑やかで良いと思って隅田川の畔の家賃の安い貧寒なアパートの一室を借りた。小さな箪笥とテーブルを置き、一人ぼっちの涙が零れて薄汚れた畳を濡らす。
自暴自棄となった幸恵は初めて興じたパチンコに嵌り、いつしかサラ金の梯子で借金地獄に転がり落ちた。
それから先は闇金の取り立て屋に殺されるのが先か、癌に侵された自分の寿命が尽きるのが先か、運命の戯れに晒されながら儚き命の崖っぷちで死神が来るのを息をひそめて待っていた。
俺はいやがる幸恵をアパートから連れ出して美容院に連れて行ったよ。抗癌剤のせいで薄くなっていた黒髪を綺麗に整え、ほんのり化粧を施せば、死神に取り憑かれた六十過ぎのババアにしか見えなかった幸恵の顔に血の気が戻り、若やいだ色気と艶をよみがえらせたぜ。
そもそも美形の顔立ちだったと俺は思うぜ。それが冷淡さに感じられて、何となく同じ世代の男達に敬遠されているうちに婚期を逃し、八つも年下のマザコン崩れに姉のように慕われたんだよ。
美容院を出た幸恵が手鏡に自分の顔を映して、ありがとうと俺に一言つぶやいた。幸恵のいじらしい健気さが無性に愛おしくなって、俺は思わずその場で抱き締めてしまった。
俺たち真っ当な人間は、いつまでも命があると思っているから夢を見るし金を欲しがる。希望という字も躊躇なく書けるし、死を語ることさえ平気でできる。ブスだって愛を論じる勇気があるし、ババアだって身の程も知らずに、ヤブ医者の悪言を吐きながら酒をたしなみ人生をなじる。
だけど幸恵の瞳の中には何も無かったんだよ。希望とか欲とか、そんなもんじゃねえ、命の炎さえ見えなかったんだよ。
俺は幸恵に言ってやったぜ。どうせ儚い命なら、飛び切り空気の綺麗なリビエラか、青い海の見えるサンタモニカの丘の上で療養をさせてやろうかってさ。そしたら幸恵は言った。日本間の青い畳の匂いのする部屋で、桜の花と一緒に散りたいと。
俺は上野の森の桜並木が見渡せる池之端の高層マンションを幸恵に買い与え、い草の香りの匂う畳を二十畳のリビングいっぱいに敷いてやったよ。
それだけじゃねえ。幸恵は俺の赤子を身籠ったんだ。だけどなあ、赤子が命を授かる前に、幸恵の寿命が尽きるのが先だった。俺は今でも冥福を祈っているぜ。
五右衛門は話を終えて溜め息をついた。
「これ被告、汝には女房がいたにもかかわりませず、何ゆえにその憐れな女を妾として囲いましたのかや? 憐憫の愛ともとれるし、慈悲を隠れ蓑にして女の弱みに付け込んだ邪淫な欲望ともとれまする」
阿弥陀如来が、鈴を転がすような声で真偽を質され、五右衛門は首をひねった。
「難しいところを突いてくるねえ。そうさなあ、最初は慈悲だったかもしれねえが、化粧をした後の器量の良さと、情の細やかさに惚れちまったのも事実だぜ。それを愛というのか欲望というのか、俺には分からねえよ」
大日如来がしかめっ面で印相を解き、木魚を転がすような声を挟まれた。
「愛と欲望では評価が異なる。優柔不断は減点の対象なるぞよ。煩悩のかたまりが弾けて頭に血が上り、つい、手ごめにしてしまいましたと本音を語るがよかろうぞ」
「そう言ったっておめえ、慈悲から愛が生まれることだってあるじゃねえか。欲望なんてものは、愛にくるまった肉まんの具みたいなもんだぜ。女に惚れることを純愛だと言うなら、自分のものにしたいと願う気持が欲望じゃねえか。親は他人のガキよりも自分の子供をいつくしむ。愛は世界を平和に導き慈悲は人類を平等にすると訴えながら、自国の領土や宗教は頑として譲らねえ。愛と欲望とどこがどう違うって言うんだい」
「本質が違うのだ、愚か者。犬がメェーと鳴き、金魚がコケッコと鳴けば、珍しい犬だ、貴重な金魚だと言われるかもしれないが、決してヤギだとかニワトリだとか呼ばれないであろう。汝が口から火を吹けば、奇人変人と思われるかもしれないが、ゴジラとかガメラとか呼ばれて迫害を受けることはないであろう。言葉が違えば意味が違う。状況が似ておっても本質は違うのだ。分かったか、ボンクラ」
「如来のくせに、たとえが凄いね。余計に混乱してきたぜ」
そもそも五右衛門は、自分の人生を仏教や儒教の狭義な物差しで測られることが承服できなかった。愛だの憎だの仁だの慈悲だのと、いちいち深刻に考慮しながら日々を送っている人間がどこにいるか。今更そんなことを問い詰められたって、誰だって生きているうちは背負わされた宿命にあえぎながら、あらがいながら、必死に希望を求めて悩み苦しみ耐えているのだから、まっとうな答えを見つけ出せるはずなんかないだろう。
それどころか、苦しみに悶える弱き人間たちに優しく愛の手を差し伸べてくれるのが慈悲深い如来さまの役割じゃあないのかよ。その如来さまが何で冥土の裁判官なんぞと気取って善人の霊魂を屁理屈並べていびっていやがるんだ。
何人をも極楽浄土へと導いてくれるはずの仏さまが、人を裁くという仕組みが許せなかったから、返す言葉もとげとげしくなり反発してしまう。さりとて閻魔の掟は憚りもなく、裁かれる霊魂の思惑には露ほどの頓着もなしに粛々と裁判は進められていく。
「さて、被告、錦川五右衛門の、人間界に於いて過ごした仁の生きざまにつきまして判決を下さねばなりませぬ」
大日如来と五右衛門の剣呑な問答をさえぎるように、阿弥陀如来が審判の根拠について語り始められた。
「一つ、親の恩恵を受けて愛されながらも親を愛せぬ薄情な心は、憎ではなきものの仁に背反して許しがたき非業と申せましょう。親を死に追いやる子の無慈悲は、いかなる理由をもってしても万死墜獄に値するでありましょう。また一つ、香港の地におもむいてまで厳しい修練を積みましたのは、上司でありました柏原弘毅への復讐という憎の証左であることに疑いの余地はありませぬ。遺恨も怨念も無いとあらがってみても、恩讐の執念が所業となって示されておりまする。また一方で、恨みの対象が柏原弘毅だけであるにもかかわらず、東京中の闇金融業者の事務所を荒らして高額の借用証書を盗みしは、己の目的を叶えるがための欲望であったが、その結果、債務に苦しむ人たちへ救済の手を差しのべる施しとなりました。盗みの善悪、欲望の深浅をここでは問われませぬゆえ、歪曲ながら弱者の救済を微塵の慈悲として加味しましょうぞ。さらに、大崎幸恵の一件におきましては、慈悲と愛欲とが混沌として相まみれておりまするが、欲についてはここでは問われませぬゆえ慈悲の心を認めましょうぞ。さように判断いたしまするが、いかがで御座りまするかのう、大日はん」
「誠にしかり。異議ありませぬ。それでは被告、錦川五右衛門に、天中命殺六十獄点と審判を下しましょう。これ被告、しかと覚えておくがよい。六七日にあたる四十二日目の裁判を終えて、天中命殺二百獄点を一でも超えると、天に昇れるすべは閉ざされまする。心して以後の審問に臨むがよかろうぞ」
大日如来の忠告を無視するように、五右衛門は唾を飛ばして声を荒げた。
「勝手に決め付けるのも大概にしやがれ。俺は自分の生きたいように生きてきたんだ。あてがわれた命をひたすら生き抜くだけで、仁だの憎だの考えたことなんか一度もねえよ。それを今さら審判されたってどうにもならねえじゃねえか。ルールがあるならゲームが始まる前に教えとけってんだ。俺は天に昇らなくてもいいよ。地へ落ちたくもねえ。中庸のはざまでテルテル坊主みたいにぶら下がっているのが似合いだぜ」
「天か地か、死して四十九日目にあたる最後の裁判、閻魔庁にて汝の行く先が裁定されると申したはずだ。ここは仁の審判宮にて、これにて審問を終えることにする。天の安らぎを求めて魂の浄化に努められよ」
大日如来が審判の終了を宣言されると同時に、尊い如来の御姿は虹色の霞の闇に消え去った。
廷内の明かりが消えて取り残された五右衛門は、裁判宮の出口の扉を開いて再び冥土の闇へと歩みを始めた。そこには恐山のごとき賽の河原は跡形もなく、霊の行く手を指し示すような深海の燐光に似た、淡いきらめきの闇空間がどこまでも果てしなく続いていた。
ただ先刻と違うのは、仁の審判を終えて科せられた天中命殺の六十獄点とやらが何やら肩にのしかかり、乳飲み子でも背負わされたかのような微量の重みを己が心に誰何する。
次の章では、悪者を制裁する象徴的な舞台として香港の九龍城が登場します。