第一章 シボユの花
五右衛門が三途の川を渡り「仁」の裁判宮に至るまでの経緯です。物語のジャンルはローファンタジーだけど、テーマは錆びた笑いとブラックユーモアに満ちた爽快なヒューマンセンチメンタルバイオレンスです。訳の分からないコメントですが、第七章で完結しますので、五右衛門の最後を見届けてやって下さい。
〔プロローグ〕
一九八三年九月、香港
薄汚れた空がどんよりと漂う雲を食いちぎる。散り散りになって逃げまどう千切れ雲が太陽の陽射しを避けながら気流に呑まれる。
九龍城の赤茶けたトタン屋根のバラックを睥睨するいびつな高層アパートの屋上に、三人の男女が姿を現わした。
二人は後ろ手に縛られており、大柄の男は青い服を着せられ苦渋に顔を歪めている。右手に赤いバッグを持った女は赤い服を着せられ朦朧として、バッグの金具だけが陽光を弾かせて煌めいている。
キラキラと暁光を撥ねたジャンボジェット機の土手っ腹が、いきなり轟音を上げて三人の頭上にのしかかる。グングンと高度を落としたジャンボの機体がゆるゆると啓徳空港の滑走路へとランディングを始めるのが屋上の南側から眼下に見渡せる。
北側を見下ろすと九龍城の内側、赤茶けたトタンや黒ずんだコンクリ屋根の上に、高層の窓から放り投げられたありとあらゆる類のゴミが、異臭を帯びて模様となってこびり付く。
魚の空き缶や豚の骨や鳥の死骸や老酒の割れ壜や、時には産まれ立ての赤ん坊さえ投げ捨てられて、誰が死のうが捨てられようが、何の届けもお咎めもない。無法地帯の些細な出来事に、気を留める者などいる筈もない。
叫ぶ気力もあらがう闘志も失せた二人の若い男と女が、黒ずんだチャイナ服に身を包んだどす黒い眼の男に後ろ手にされたまま、無理やり屋上の北側まで引き摺られてへたり込んだ。
とがった靴先で背中をけ飛ばされて立ち上がり、屋上の縁から赤茶けたトタン屋根を見下ろして、男と女は蒼然として身震いをした。自分たちの運命を悟って、おののき必死で両脚を踏ん張りのけぞった。
チャイナ服の男が屈み込んで、若い男の腰を持ち上げて屋上の外に放り出した。同時に女の腰をつかんで思い切り放り出すと、首からぶら下がった十字のペンダントが二人をあざ笑うかのようにキラリと撥ねた。
男女の手足は空を掴むように宙を舞い、トタン屋根を目がけて落下した。男と女の絶叫と悲鳴が、屋上をかすめるジャンボジェット機の轟音に呑まれて消えた。天から吹きこぼれる高笑いも、轟音に溶けてけ散らされた。
第一章 シボユの花
不思議な香気と温もりに包まれて、芍薬と牡丹と百合の花を混合したような、七色の花弁を持つお花畑の丘で男は目覚めた。
玲瓏な精気を浴びながら、これ程すがすがしく爽やかな目覚めは生まれてかつて一度も無かったと男は思った。
芳醇な芳香が鼻腔をくすぐり、天女の扇のかなでる風が舞う。空を仰いで一服の深呼吸をすると金糸の花粉が器官を清めて飛び跳ねて行く。
次第に頭脳が明晰になり、ここは何処だろうかと思って起き上がると、一面に広がるお花畑のはるか彼方にとうとうと流れる大河が望めた。
紺碧に透き通る青水晶の天空には、雲ひとつ無いどころか太陽も無ければ月も無い。午前なのか午後なのか、時刻を確かめるために左の手首を見ると自慢の腕時計が無くなっている。
ロレックスのオイスターを盗まれてしまったかと舌打ちをして足元を見ると、イタリア製ボノーラの靴も盗まれていた。慌てて背広のポケットに手を突っ込むと、ダンヒルのライターもグッチの財布も無くなっている。
「ちくしょー」と、男は口走って花畑の花を茎ごと一輪、いや十輪余りをむしり取って地面に叩き付けた。その時、男は気が付いた。自分の顔から度入りの眼鏡が無くなっているにもかかわらず、はるか彼方の風景がくっきりと見えていることを。
見たこともなく、果てしもない、広大なお花畑の中に自分の他には誰もいない。時間も所在も分からない。不思議なことに不安も驚きも恐れも空腹も無い。優艶な花蜜の香気が無為な杞憂をぬぐい去る。現実とは思えないから夢の中でさまよっているのか。
たまに、夢を見ながら自分が夢の中にいるんだという感覚に捉われていることがある。それは映画を観ているような傍観者としてではなく、殺人鬼に追っかけられて本気で逃げていたり、顔も知らない男とののしり合っていたりとかで、記憶の回想とは明らかに違う夢の中の幻だ。
混沌とした思考も意識も定まらないまま、男は大河に向かって歩き始めた。トロトロと歩いた。なぜ歩いているかの判断もできず、一キロ歩いたのか十キロ歩いたのか時の過ぎる感覚も無く、随分と歩いたような気がすると男は思った。
その時だった、紺碧の天空に乳首ほどの穴がぽっかり開いて、しわがれた老齢らしき男の声が聞こえてきた。声は叫びとなって男の耳に明瞭に聞き取れた。
「しっかりしろ。おい、しっかりしろ」
と、呼び掛ける老人の叫び声が聞こえる。
「五右衛門さん」
と、泣き叫ぶ女の声が響き渡る。立ち止まって天空の穴に耳を澄ますと、叫びに変わって別の男の声が聞こえた。
「おお、何と言うことだ。心臓が止まったまま脳波の波動がピクピク跳ねているぞ。意識を回復するかもしれませんぞ。もう一度心臓マッサージを試みてみましょう」
「先生、お願いします。何とか生き返らせて下さい。今、この人に死なれてしまっては困るのですわ。五右衛門さん、しっかりして。五右衛門さん、死んじゃあ駄目」
「おい五右衛門、聞こえるか。五右衛門、目を覚ませ五右衛門」
男の脳味噌にうっすらと記憶が甦ってきた。どうやら自分の名は五右衛門だった。そうだ、俺は錦川五右衛門だ。
記憶が戻ったその刹那、千億の煩悩の限りが甦り、欲望、憎悪、羨望に羞恥、憂いや嫉妬や恐怖や怒りのない交ぜになった異臭がとぐろを巻いて、花畑のうるわしい香気を追い立てた。
思わず苦悶に頬をよじらせた男は、両手で頭を覆ってうずくまりながら呟いた。
「やめてくれ。頭が破裂しそうじゃねえか。もうたくさんだ、やめてくれ」
「おい、五右衛門の唇が動いたぞ。何か呟いたようだったぞ」
「五右衛門さん、聞こえるかしら私の声が。目を覚ましてちょうだいな、今、死なれたら困るのだから五右衛門さん」
天空の穴から闇のとばりが一陣の烈風となって紺碧の空を駆け回る。精気と霊気が雌雄の竜巻となって中空をえぐる。
突き落とされたのだ。そうだ、俺は突き落とされたのだ。五右衛門は、わずかに甦る記憶の要をたぐり寄せ、峻険な崖の縁からか、高層ビルの屋上からか、飛行機の窓からか分からないが、何者かに突き落とされてそのまま意識を失った残像をよみがえらせた。
烈風の嵐が去り、大気が澄んだ。穴から一本の糸がスイッと垂れ下がってきて五右衛門の鼻先でピタリと止まった。
何だこの糸は、と、五右衛門はいぶかった。奇妙に心をくすぐる懐かしい匂いのこもった糸だった。
これは釣り糸か。俺は東京湾のダボハゼじゃねえんだ。香ばしい匂いに騙されてたまるか。そうだ、立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花と誰かが言っていた。三つの花の頭文字を合わせればシボユだ。シボユの花があたり一面に咲いている。このシボユの花をこの糸に結わいてやろう。
五右衛門は十輪ほどのシボユの花をちぎり取って花輪にすると、しっかりと糸に結わいてグイと引っ張った。すると糸はスルスルと天に向かって駆け上がり、乳首のような穴の中に吸い込まれた。
糸を飲み込んだ天空の穴はピタリと閉じて、輝銀の閃光を残して消えてしまった。
「おい、見ろ。五右衛門の目から一粒の涙がこぼれ落ちたぞ」
「気が付いたのだわ。私たちの声が聞こえたのだわ。五右衛門さん、しっかりしてちょうだい五右衛門さん」
「おい、ヤブ医者、何とかしろ。もう一回心臓マッサージをやってみろ、おい」
「はい。しかしねえ、そう何度もやりますと命に関わりますものでねえ」
「アホウ、生きるか死ぬかの冥途の土間口でうろついてる奴の、どこがどうやって命に関わるんだバカヤロー。何とかしろってんだ、ヤブ」
「五右衛門さん、五右衛門さん」
「お坊ちゃま、お坊ちゃま」
「婆やはいいんだ。あっちへ行ってろ、ややこしいから。おい、ヤブ」
「はいはい、心臓マッサージを致しましょう、はい」
五右衛門は再び大河に向かって歩き始めた。喧騒な叫び声もプッツリ消えて、たおやかな揺らぎの霞に包まれながら、シボユの花畑の中を果てしなく、果てしなく、いつまでも、いつまでも歩き続けた。
気だるさも不快さも無く、疲労感も空腹感も無く、さすらうでもなく焦るでもなく、歩いているのか浮いているのか、天涯の力に導かれるが如く、遠いのか近いのか彼方に見える大河に向かって歩を進める。
五右衛門は、一歩進むたびに背負っている荷物のかさが一つづつ軽くなっていくような錯覚を覚えた。麻酔に白濁の意識がもうろうと闇の底へ吸い取られていくように、心魂臓腑のわだかまりから全ての情がはぎ取られていく。翻弄される醜悪な魂の具現が煩悩の泉から舞い上がる。
時の無い時を経て、次元のあいまいな空間を歩む。やがてからくりの宙六天が転回し、緋色に染まるオーロラのかたびらが天地に割れる。久遠の水を湛えてとうとうと流れる大河が、見よ、眼前にその姿を現した。
ー大河ー
五右衛門にはまだ感嘆の情が残されていた。何と広大で壮麗な大河であろうか。五右衛門はかつて中国四千年の歴史を巡るパッケージ旅行に参加したことがある。悠久の大地を裂いて流れる大黄河の雄大な景観に接して感嘆の叫びをあげたことがある。
だが違う。雄大さに於いては双方共に引けは取らないが、蒼茫たる優美さに於いて比較にならない。決定的な違いは湖水のように澄み切った羊水の如き流れの清さとたおやかさ、その流れに逆らって回遊する七色の甲冑のウロコをまとった雷魚の群れ。
大河の畔に小さな釣り舟が一艘もやっている。近付いてみるとどうやら渡河の船着場のようで、船頭らしき初老の男が一人、枯れ柳の木の下でうずくまるように眠っている。
ふと見ると、柳の木陰に『三途の川の渡し舟』と書かれた立て札が所在も無げに立っている。先程からどうも妙だと感じていたが、どうやら俺は死への土壇場をさまよっているらしい。らしいどころではない、間違いなく死後の世界だ。その証拠に手足はあるようだが感触が無い。感覚はあるが実感が無い。いや、手足があるかどうかも錯覚みたいで確信が持てない。
それにしても、意外すぎる程に死というものをあっけらかんと受け入れられるものなのだ。それは花畑で目覚めた瞬間から、生に執着する魂を半分抜かれていたからかもしれない。
すでに死んでしまっているという観念が優先して、不安や精神的な畏れが消滅しているのか。しかし待てよ、さまよっているらしいと感じることは、生き返る可能性もあるのかもしれない。
とまどって思案していると、眠っていたはずの船頭が五右衛門に向かって声をかけてきた。
「へい、らっしゃい」
声をかけられてドキリとした。三途の川の渡し船に乗ってしまえば、生きて戻れる可能性は絶たれるではないか。うかつに返事はできないぞ。
「おい船頭、気安く呼ぶな。俺はまだ乗るって決めた訳じゃねえんだぞ。それとも何かい、あんたは俺が来るのを待っていたのかい?」
「別に待っていた訳じゃないけど、気が向いたら乗って行きなよ」
「気が向いたらって、随分軽く言うけどお前、そこの立て札に三途の川の渡し舟って書いてあるじゃねえか。向こう岸はあの世なんだろ?」
「お前さん、まだ娑婆にみれんがあるのかよ」
みれんは大いにある。あるが、こんな船頭などに本心を見透かされたくはない。それだけじゃあない、川の向こうの世界は未知だ。俺はいったいどうなってしまうのか、せめてもの情報を得たうえで往生したいものだ。
「みれんがある訳じゃねえが、見も知らない所へ行くってえのも妙に怖気づくじゃねえか。あんた知ってんのかい、あっちの世界を?」
死者の本音をまるで見すかした船頭はそっけなく応じる。
「知ってるけど言えないよ。そういう決まりになっているからな」
船頭のくせに見くだした態度がしゃくに触る。ならば焦らしの手口で翻弄してやれ。娑婆ではいつもそうだった、物欲しそうな眼差しで物色するから値を吊り上げやがる。納豆が糸を引くように焦らしてやれば、いましめの扉もぱらりと開いて口を割る。どう見たって老いぼれの船頭ではないか。
「つれない事を言うじゃねえか。あんたがそういう態度なら、俺は舟には乗らねえよ。地獄の鬼が待っているかもしれねえあの世とやらへ行くよりも、こっちの花畑でいつまでもくつろいでいた方が幸せだからな。あんたもそれじゃあメンツが立たないんじゃないのかい?」
「旦那、そうはいかないよ。その花畑はねえ、そのうち枯れて一面黒こげになり、うるわしい香気が臭気に変わる。そして永遠の暗黒に閉ざされるのさ。解脱もできず成仏もせず、さまよい狂った魂は、娑婆と冥土の狭間を駆けずり回って悶え苦しむことになるのさ」
「そいつあ割に合わねえなあ。ならばもう一度娑婆に戻る手立ては無いのかよ?」
「無い」
「素っ気なく言うなよ、おっさん。そうあっさり決め付けられちゃあ身も蓋も無いじゃねえか、あん」
「娑婆から吊り下ろされた天空の糸を、あんたは先程捨てたじゃないか。水洗トイレの紐でも引っ張るように、グイッと引いた瞬間に娑婆との縁が切れたのさ。今頃あんたをみとった人たちが、あんたの臨終に接して泣いているのか笑っているのか、どっちだろうねえ」
「しまった」と、五右衛門は地団太を踏んだ。あれは釣り糸なんかじゃあない、娑婆に戻れる蜘蛛の糸だったのか。そういえば臨死体験という話を聞いたことがあるが、あの糸を掴んだ奴がシボユの花畑だけを記憶に残して生き返ったのだ。自分は蘇生の術を捨ててしまったのだ。
「それじゃあ何かい、娑婆にみれんを残して死にそこなった奴は、この花畑の光景を強く瞼に焼き付けて、あの天からの糸をたぐってもう一度娑婆に戻ったと言う訳か。おい船頭、すると何かい、娑婆にみれんを残した奴は、その気になりゃあ皆娑婆に戻れるってえ話かい?」
「そうではない。人が不本意に死んだ時、自分が霊魂になった事に気付いていない。人は生まれた時から生きる為の寿命をさずかっている。その寿命がつきる前に誤って天から落ちて来るアホがいる。その者だけに天空から一本の糸が吊るされる。お前さんはその糸を捨てたから寿命がつきた。気が向いたら舟に乗れ」
俺は自分の寿命を半ばにして捨てたのか。それにしても生と死がこんなに安易に振り分けられるとは承服できないが、ここに至って生死の概念や死の恐怖はすでに無い。というよりも消されてしまった。
「何で俺がアホなんだこの野郎。船頭のくせにいっぱしの口をききやがる。気が向くも何も、乗るしかねえじゃねえか。おい親父、お前何年船頭やってんだよ?」
「ここには時間の流れというものが無い。だから分からん」
「退屈じゃないのかい? 舟ばっかり漕いでてよう」
「お前は馬鹿か。ここには退屈とか倦怠とか、娑婆にあるような下らない感情など無い。うだうだ抜かしてないで早く乗れ。ワシは忙しいんじゃ」
「忙しいったって、客は俺しかいねえじゃねえか」
「シボユの花畑の揺らぎの中にたくさんの魂がさまよっている。お前さんには見えないだけだ」
「何でシボユの花だって知っているんだ? お前、俺のひとり言を聞いていやがったな」
「この花畑の花は見る者によって色も形も香りも皆違って感じるのだ。お前さんにはシボユの花に見えたのさ」
「チッ、花は花じゃねえか。同じ花を見てどうやって違って見えるんだ。こっちが素人だからって出任せを言うんじゃねえぞ」
「お前は女を見たことが無いのか。花の艶やかさは女と同じじゃ。もしもお前が美しいと思って惚れた女でも、他の男が見ればアバタと出っ歯と顎の突き出たぶさいくな醜女と思うかもしれん。汗臭いわきが女のため息吐息も、惚れてしまえばシャネル五番のオーデコロンの香りに感じるだろうよ。白衣の看護婦さんのコスチュームよりも、清楚なミニのウェイトレスさんが好みという奴もいるだろうが、あーん」
「恐ろしく俗っぽい例えをするじゃねえか。若い頃は遊んだねえおっさん。あの世にもキャバクラとかピンサロなんかがあるのかい?」
「やかましい! 乗るのか乗らないのかはっきりしろい。いつまでもゴタゴタごたくを抜かしてると大河に突き落とすぞ」
「分かった、乗るよ。怒るなよおっさん。乗るしかねえじゃねえか。もしも誤ってこの川に落っこちてしまったらどうなるんだよ?」
「雷魚に食われて魂が消える」
「消えるって…………、どういう事だよ?」
「お前、ブラックホールを知っているか?」
「また難しい事を言い出すじゃねえか船頭のくせに。どうも俗っぽいんだよな、おっさんの話は。船頭になる前には何をやっていたんだよ?」
「知ってるのか、知らねえのかって訊いているんだ、ブラックホールを」
船頭に怒鳴られて首をすくめる。
「知ってるよ」
「雷魚の胃袋がブラックホールに通じているのさ」
得心が行かないまま不本意に頷き、五右衛門がおもむろに渡しの小舟に乗り込むと、船頭はすっくと舳先に立って右の人差し指を向こう岸に向けて指差した。
小舟は大河の緩やかな流れの上を滑るように一直線に進み始めた。小波も立てず揺れも無く、まっしぐらに突き進む。
時間の無い時を経て、やがて小舟が大河の真ん中あたりに達すると、両岸の景色は遥かに視界から遠ざかり、突如水面が盛り上がり天空が歪んで川面に迫る。
「流れが急に、うねってきたぞ。おい船頭、あっちの流れは馬鹿に早いじゃないか。鳴門のような渦を巻いているぜ。おう見ろよ、あの激流のうねりの中で渡しの舟が一艘呑まれそうだぜ」
「精神の汚れた救いの無い魂は、腐臭毒気の花畑で目覚め、毒腺の虫の闇回廊を抜けて激流の船着場にたどり着く。宿命じゃ」
「何だと、三途の川の渡し場が別にもあったのか?」
「ここの流れの水面は穏かそうに思えるが底流は早い。だが、そちらを見てみろ。風も無ければ流れも無い。湖面のように穏かだ。ジャンボジェット機のファーストクラスに乗っているようなものだ」
「何で俺はファーストクラスじゃねえんだ。JALだってANAだっていつも俺はファーストクラスと決めていたぜ」
「お前さんも危うく激流の船着場に迷い込むところだった。娑婆の縁者が初七日の法要をきっちり営んでくれたので、すんでの所で道を迷わずに済んだのだ。三途の川の激流アドベンチャーを楽しめなくて残念だったな」
「そうじゃねえ。何でファーストクラスじゃないのかと訊いているんだ?」
「お前さんの性癖と、娑婆でやって来た事柄の数々を胸に手を当てて良く考えてみろ。どうだ、反省したか。納得できたか」
「ふざけやがって、三途の渡しにも松竹梅の値踏みの沙汰があるって言うのか。らちも無い仕組みをどこの馬鹿が考えたんだ。あの激流に漂う小舟は向こう岸にたどり着けるのか?」
「分からん」
「無責任なことを言うじゃねえか。舟が沈めば船頭もろとも大河の雷魚に食われちまうのか?」
「舟は沈まん。だから船頭も沈まん。揺れて振り落とされた死者の魂だけが激流に飲まれて消えて行く。こちらの流れだって油断はできんぞ。この前なんぞ、隣りを併走する小舟に乗った若い娘にちょっかいを出そうとした色男が、身を乗り出した途端によろけて大河に落ちてしもうた」
「なんで助けなかったんだ?」
「一度沈んだ魂を救うことなど、ワシにもできん」
突如盛り上がった水面と、歪んだ天空が交差した間合いに閃光が霞をつらぬき目がくらむ。
「身を伏せて眼を閉じろ」と、船頭が叫ぶ。
脳天に激痛が走り、脊髄が悲鳴を上げる。虹が弾けて七色に散る。漆黒の闇が生命の記憶を蘇生する。
母の胎内に生を受けてから十月十日の生命追憶の後、娑婆に出てから煩悩に従い又あらがい、命果つるまでの生業の軌跡を一遍にして魂のひだに焼き付けられる。脳髄だけが観覧車の小箱に放り込まれてグルグルと回る。無限の回転軸の奥底から、森羅万象の雄叫びがこだまする。ブンブンとブンブンと意識が逆巻く錯覚におちいる。俺は死ぬのか、と、死んだはずの魂が刹那の不安におちいる。
やがて激痛の嵐が収まり、暁紅が闇を閉ざし、紺碧の輝きが中天から広がる。おもむろに眼を見開くと、光背まばゆい御仏の立ち姿が白い輪郭を帯びて気高く恐れ多い。
おお、あれが噂のお釈迦様か、ここは天国の極楽か。蓮の花こそ無いけれど、清らかな水面に雷魚が躍る。何で雷魚だ、鯉ではないのか。瞼をこすって良く見れば、三途の川の小舟の舳先に立つ船頭の逆光を浴びた後ろ姿ではないか。
バカバカしいと思ったが、激痛のさなかに真実を見たことは確かだ。真実とは何かを定義してはくれなかったが確かに真実を見た。真実に善悪は無く現実はすべからくまやかしだった。朦朧としているようで精気はみなぎる。死人だと思えぬほどの覇気を覚える。いったい今の嵐は何だったんだ。
「おい、船頭」と声をかけるが振り向きもしない。
-奪衣婆ー
大河の流れは湖面の静けさを取り戻し、遥か向こう岸の様子がうかがえる。小舟が向こう岸に近付くと殺風景な岸壁に一本の巨木が見える。
たぐり寄せられるように渡しの舳先は、果実も花も葉っぱも無いむき出しの枝の巨木に向かう。船頭はたじろぎもせず前方を見つめる。
ようやく速度をゆるめた小舟がゆるゆると川岸のもやいに着くと、ひょいと船頭が飛び降りた。
続いて五右衛門も下船して川岸の段を上がって巨木のそばに近付くと、赤い木組みの鳥居に『脱衣場』と書かれた垂れ幕がぶら下がり、そばに爺と婆の二人が突っ立っていた。
船頭は婆を指差して言った。
「奪衣婆だ」
言い終わると船頭は、ヒラリと身をひるがえして渡し舟に飛び乗った。左の拳を上げると音も無く揺れも無く、大河の向こう岸めざして進み始めた。
五右衛門は覚悟を決めたというか、改めて死を悟り、ぼうぜんと船頭を見送った後、気を取り直して奪衣婆に声をかけた。
「おい婆さん、こんな所で何やってんだ。古着の商いでもやってるのかい?」
五右衛門は赤い鳥居に背を寄りかけて、ぶしつけに婆を見下すように問いかけた。
「あんた私を知らないのかい?」
「知らねえから聞いてるんだろ、バカ」
「三途の川の脱衣番だよ」
「だから、何をやってるんだと聞いているんだよ」
「うるさいねえ。四の五の言ってないで着ている物を全部脱ぎな」
「何だよババア、追い剥ぎでもやろうってのかい?」
「ここから先はねえ、娑婆の衣服は無用なんだよ。三途の川を渡る間に、羞恥や虚栄の心根はすっかり消えて無くなった筈だよ。さっさと脱ぎな」
「いやだよ」
「何だって?」
「他人に脱げと言いながら、お前等が衣服を着けているのはどういう了見なんだ。間尺に合わねえじゃねえか。この服はなあ、英国製のバーバリってんだ。オーダーメイドだ。そんな簡単に脱いでたまるか」
「オーダーメイドだかカフェのメイドだか知らないがねえ、ここは冥途の入口なんだよ。何でもいいから早く脱ぎな」
「ふん、あばよ」
「こら、服を着たまま何処へ行く気だい。ここは黄泉の国だよ。そんな恰好でうろつかれちゃあ困るんだよ」
「やかましい。俺に命令なんかするんじゃねえぞ。ババアのくせに押し付けがましく生意気な」
立ち去ろうとする五右衛門の首根っこに、奪衣婆の右腕がニョッキと伸びた。むんずと襟首をつかんだ手首がグイッと持ち上げられた途端に、五右衛門の着ていた背広も下着も一気にはぎ取られて宙を舞った。
待ち構えていた爺が、宙を舞う衣服をたぐるように吸い寄せた。
「おいジジイ。何だテメエは。返せ、俺の服を」
取り戻そうと食らい付く五右衛門を振り切り、爺はヒョイと身軽に跳躍すると、たぐり寄せた全ての衣服を巨木の枝の一本に掛けて言った。
「見よ、お前の衣服の掛かったあの枝を」
「ジジイのくせに身軽に跳ねやがって。あの枝がどうしたってんだ。返せ、俺のバーバリを」
「バーバリだろうがババアの入れ歯だろうがどうでも良い。良く見るのじゃ、あの枝のしなり具合を。娑婆で犯した罪の度合いが重いほど枝のしなりが大きいのじゃ。なかなか見事にしなっておるのう。先日、三蔵法師とか名乗る男が訪れたが、その男の衣服を枝に掛けたが一片の絹糸に触れるが如く、ほんの少しも枝はしならなかった。それにひきかえ、見よ、お前の枝のしなりの大きさを」
「先日だとこの野郎、いつの時代のことを言っていやがる。おいジジイ、その右の枝がポッキリ折れ曲がっているが、何故だ?」
「つい先日のこと、ヒトラーと名乗る男の衣服を掛けたらいきなり枝がへし折れた。冥府史上初のことじゃな」
「冥府にも歴史があるのか、初めて聞いたぞ。おいジジイ、俺はヒトラーみたいに悪事なんか働いた覚えはないぞ。メダカが釣り針に食い付いた程度に枝がしなったくらいで、言いがかりを付けて大仰にガタガタほざくんじゃねえぞ。いつからこんな下らねえイカサマ手品師みたいな真似事をやっているんだ。ガキの頃から仕込まれたのか。まさか生まれた時からジジイだった訳じゃあねえんだろ、おい。一体誰に頼まれてやってんだ?」
「たわけたことを言っている場合ではないぞ。お前の犯した罪の重さが枝のしなりで計量されて、インプットされた分析データが光陰のファイバーに乗って閻魔大王の事務局へ送られるのじゃ。そのデータを根拠に六つの裁判宮で審問が行われ、最後に本裁判で判決が下る。お前が天に昇るのか地に堕ちるのか、全てはそこで決まるのじゃ」
「やいジジイ、いい加減なハッタリを飛ばすんじゃねえぞ。善人の俺が褒賞されるならともかく、なんで裁判にかけられなきゃならねえんだ。俺を怖気づかせようとしたって、そうはいかねえぞ。こんな木の枝なんか俺が全部へし折ってやる」
「待て、この野蛮人! いいか良く聞け愚か者! これからお前は冥府の道を抜けて閻魔の庁へと向かうのだ。最初にお前は第一の審問を受けねばならぬ。娑婆でいうところの二七日、息を引き取って十四日目だ。更に三七日、四七、五七日、六七日の審問を経て最後に七七日、つまり四十九日目の日に閻魔大王の審判が下されるのだ」
「あのなあジジイ、三途の川を渡る時、初七日の法要を娑婆の親戚縁者が営んでくれたと船頭が言ってたけども、ここには太陽も月も星も無い。昨日と今日の見境が付かねえ。それなのに何で二七日、三七日と日が過ぎるんだ。俺はそろばんも算数も苦手だったが、そのくらいの知恵は回る。理屈に合わねえ話だけはやめてもらおうじゃねえか。テメエ等グルになって、俺の魂を地獄に落として閻魔庁のノルマを稼ごうって魂胆だな。言ってみろい、そうやって人魂を地獄に落として、お前らに一体何の得があるのかを、あん?」
「娑婆の時間は月日が目安だ。過去から未来へと時は流れる。ここでは時の空間が次元を刻む。分かるか猿。娑婆の時間が次元の刻みに包含されて、永遠の流れに託されるのだ。お前が地獄に落とされようがどうなろうが、ワシの知った事ではないし、わずかの関わりもない。冥土には七つの扉が待ち受けている。極楽浄土へ導かれる扉から地獄の底へ落ちる扉まで。裁判の結果でお前の開かれる扉が決まる。拒む事も逃げる事もできはせん。覚悟を決めて往生しろ」
「…………」
「何だ、急に黙り込みやがって。まだ文句があるのか、眼が血走っているけど」
「六度審問が繰り返されると言ったな。一体何を審問されるんだ? そいつ等に、俺のやってきた事の何が分かるんだ? 俺が嘘を付いたらどうなるんだ?」
「お前の行状は全て閻魔庁の鏡に収録済みだ。悪行善行業績による評価もすでに閻魔事務局の台帳に記されている。審問による裁判はそんな事ではない。お前の心だ。仁・義・礼・智・信における徳の情、そして煩悩の総合評価が最後に行われる。何も畏れることはない。無の境地で真実を語れば済むことだ」
「気が進まねえなあ。やいジジイ、地獄には何があるんだ? 聞きたかねえが言ってみろ」
「行ったことはないが、聞いたことはある。幻があるとな」
「幻だと?」
「己の姿を映す泡沫の幻だ。その幻が血の池となり、針の山となって魂がついばまれ苦悶にあえぐ。他人に聞くより自分で行って確かめて来い」
「…………」
「何を考えておるのじゃ。分かったのか」
「閻魔の目をくらます術は何か無いのか?」
「無い」
「地獄の沙汰も金次第って言うじゃねえか。娑婆の世界じゃあ幼稚園のガキだってわきまえてる常道だぜ。何かあるんだろう、閻魔をたぶらかす、取って置きの隠し技が、あん? 銭ならあるぜ、スイス銀行の俺の隠し口座にたっぷりと。ジジイの立場も分かるけどよ、俺だけに教えろよ、悪いようにはしねえからよ」
「お前、よほど悪辣な人生を送ってきたんだなあ。一回地獄に落ちて、千枚通しの滝の洗礼でも受けて、根性を入れ替えて来るんだなあ。行け、早く」
次の章から裁判宮での審問が始まります。憎悪と復讐の始まりです。五右衛門の出生のルーツも明らかになります。