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幕末時代、薩摩藩の持つ脅威の戦闘力とその背景

幕末の映画ではなぜか火縄銃ばかりだ。


だが、戊辰戦争の記録では恐ろしい数字が記録されている。

それは薩摩藩が所持していたレバーアクションライフルこと通称スペンサー銃の数である。

その数1万6015挺。(グラバーによる正確な数字)

連射式で50口径のライフル銃を彼らは戊辰戦争時、最も多くの数を保持していた集団である。


スペンサー銃自体の導入は佐賀藩が日本で始めて導入したものであったが、佐賀藩は当初こそ500ほど購入していたものの、最終的にはその4倍の2000に留まった。


これは当然「コストがかかるしそんなに大量に調達できなかったから」であるが、これには整備や簡単な修理などの意味合いを含めた物である。


そんな一方で薩摩藩は32口径リボルバー銃などと合わせて大量に仕入れていたのだ。

つまりそれだけの技術力があったのである。


その凄まじい火力は圧倒的であり、戊辰戦争の主戦力足りえる能力を保持していた。

この銃の導入理由は前回話題に出た薩英戦争の影響によるものであった。


今回はそんな薩英戦争に焦点を当てて話を展開する。


1858年、斉彬突然の死去。

その若くしての死去に薩摩藩は再び混乱状態に陥る。


(未だに死去の原因に暗殺説があるが、近年見つかった久光の資料などから少なくとも久光による暗殺は否定されている。反りが合わなかった西郷隆盛は久光が暗殺したと風潮していたために歴史の教科書ではそれが長い間有力説の1つとされてきたが、実際には久光と斉彬はお互いに密かに文通して組織が混乱しないように調整していた)


これによってすぐさま遺言により島津忠義が藩主となる。

しかし彼は集成館について理解を示さず、事業は大幅縮小、それどころか「集成館事業を畳む」ということすら画策した。


原因は彼が若年すぎることにより、他の藩の者らによる「集成館の浪費」問題に対し、何も考えずに「よしわかった」と行動してしまったのである。


しかしこの行動に大久保、西郷、そして実の父であり本来同じ立場と思われた島津久光らの反発を買う。


当人はこれについて何1つ理解できていなかったが、父である久光は「斉彬様の考え方は間違っていない」と主張し、斉彬が残したもう1つの遺言である「集成館事業計画の拡張」と「斉彬が託したその他の遺言」(蒸気船や海外の最新鋭機器などを購入し、戦力や工業力を整える事」などについてきちんと考えるよう伝えるが、


欧州への理解は斉彬並でありながらも儒学などを好んだ忠義は年齢が年齢であったことにより父に反発。

結果的に立場はそのまま久光などにより実権を握られる形で僅か1年で実質的に藩主の立場を失った。(久光は表向き後見役という立場であり、彼が表向きの藩主ではあったが、ただの案山子のような存在にされた)


一方久光。

元の名は島津忠教である彼は、実は斉彬とは表向き相反する立場にあった。

斉彬が藩主になるべきと勢力が二分した際、反対派のトップにいた者こそ彼であったのだ。


が、実は彼自身も欧州の事情には詳しく、立場上反対派として君臨し続けたものの、一方で個人的な仲は良く、互いに大量の秘密の手紙のやり取りがあり、そこではどうやって反対派を納得させるかといった事を双方で模索していた姿がある。(前述した彼による暗殺という話は恐らく反りが合わなかった西郷による風潮によるものであり、実際に彼が行った数々の功績はその殆どが斉彬が遺言として残して次の藩主に託したものであり、久光自体が一度たりとも斉彬を罵倒した記録が無い)


そんな彼は実は斉彬が思う以上に斉彬に尊敬の念を抱いており、斉彬が死去後、反対派などの活動によって萎縮する集成館の状況見てすぐさま掌を返したのだった。


この理由についてだが、久光自体は1851年当初こそ斉彬に対して懐疑的であったとされる。

しかしペリー来航と前後して薩摩藩が管轄する琉球において多数の外来船が現れてくる状況を見たことにより、斉彬の持つ危機感と彼が唱え、実行に移した行動が「日ノ本と薩摩、島津家のため」の行動であると確信をもったことによって考え方が変わり、1855年の頃には斉彬と同様の危機感を抱いており、その件について斉彬から様々な意見を伺っている。


この時点で斉彬が後継者として彼を選んでおけば良かったのだが、立場上それだと斉彬の側の勢力が混乱することを久光と斉彬の双方が憂慮していたために久光の息子に任せたという背景があったりする。


これには久光を持ち上げていた反対派もとにかく驚いたのだが、久光は斉彬と並ぶ能力者だったのだ。


これだから島津家というのは怖い。

戦国時代からそうだが、誰かが死去しても代わりとなる者がその前の代のものと同等かそれ以上の能力を保持しているというのは織田家や豊臣家にはなく、


ましてや徳川将軍なども実質的には初代と三代目が生み出したシステムと徳川家という血縁だけで実質的に幕府が保っているだけなのを考えたら、後世にも組織を牽引できうる化け物が複数いて、その者によって歩みが止まらないというのは物凄いことである。


久光がまず開始したのは、斉彬の「遺志継承」というのを藩内に掲げ、「真の薩摩藩士は1つの志をもって行動すべし」と藩を1つに纏め上げることであった。


反対派と呼ばれる集団は当初「一体何が起こったのか!」と混乱したものの、久光によるカリスマ性によってすぐさま状況は収束する。


混乱を収束させた要因は貿易の成功にあった。

斉彬によって埋められた種から芽が出たのである。


その芽が出ることを理解していた久光は貿易事業によってソレまで苦慮していた財政状況について上向きに導くことに成功、これによって久光は斉彬の遺言の1つであった「外国製の蒸気船の購入」に成功する。

この蒸気船はなんと3隻も購入され、これ以外にも「軍艦」なども所有する状態となった。


全て武装が施されており、この時点で恐らく「島津家は日ノ本にて最強」といっても過言でない戦力を得る。


湾岸には大砲なども設置され、外来船が攻撃しようものなら反撃できる体制が整っていた。


久光自身は一連の成果について「斉彬の功績によるもの」と主張していたが、反対派は久光による功績であると信じ、これによって藩内は一旦1つにまとまりかける。


しかし血気盛んな戦闘集団たる薩摩藩においては西郷を含めて過激派が存在しており、これらに対しては秩序を重んじる彼の性格によって厳しく処され、後に寺田屋事件などを起こすことになる。


血気盛んな過激派をまとめる事について久光は大変苦労をしたが、その原因の根本が「幕府にあるのではないか」と考え始めた久光は、その時点では討幕は考えておらず行列を率いて幕府に改革を迫ったのだった。


そしてその帰りに起こった事件、それこそが生麦事件であった。

生麦事件についての詳細はwikipediaなどを参照してもらえばわかるが、wikipediaにも書かれている通り、この事件においてのそもそも発生原因には幕府と幕府の抱える矛盾が存在している。


斉彬と並び聡明であった久光はこの矛盾についてすぐさま気づくと、倒幕の必要性について考え始めるようになっていく。


そのような状況の中、米国政府は薩摩藩を支持した一方でイギリス政府は幕府に賠償金を迫る。

幕府は朝廷からの口ぞえもあり、薩摩藩に金銭を求めない一方で賠償金を払った。


だが、イギリス政府は簡単にいえば「頭に乗る」行為を起こして戦闘行為を仕掛けたことこそ薩英戦争だったのだ。


薩英戦争においての詳細もwikipediaに書かれているのでそのあたりで見てもらいたいが、ここで久光は斉彬の遺言の1つであった蒸気船3隻を一度に失うというだけでなく、斉彬が築いた集成館の大半を消失してしまう。


しかしこの戦闘により、斉彬の考えと集成館などの一連の存在は藩内で「必要不可欠」と肯定化され、日本人らしい脅威のインフラ再生能力によって第二次集成館としてさらに大規模な工業地帯もとい工業都市のようなものを形成する。


これこそ鹿児島湾周辺の工業地帯の前身である。


久光はこの戦争にて大規模な損害を受けた一方、いくつかの存在の必要性を感じた。


1つは「狙撃」が可能なライフル銃の存在である。

当事のイギリスが所持していたのは先込め式が基本とはいえ、それまでの火縄銃と比較して威力も精度も射程も勝る存在で、これには大変苦慮した(にも拘らず人的被害が殆ど確認されていないのは何故なのか)


2つ目は銃剣という存在であった。

これは特段興味を抱いており、刀に勝るとも劣らない代物と評価した。

従来、火縄銃と刀は別個で扱うという存在を1つにまとめるという姿に「これは真似せねば!」と積極的に導入しようと考え始める。


3つ目は工業機械である。

造船技術において圧倒的に勝っていたイギリス艦隊であったが、それらは「機械化工業生産」によって生産されたものによって生まれたと聞き、多数の人材を海外に向かわせ、工業機械を入手することを画策する(第1回、第2回にて工業機械を調達していたのはこのため)


そして最後は「幕府」に代わる新たな組織による日ノ本の管理である。

一連の事件は幕府の不手際の側面が強く、それらによって英国が調子に乗ったために起きたことであった。


よって戦争の終結後すぐさま「幕府はもうだめだ」と考え始めるようになったのだ。


しかし一方で実際に戦闘を行った英国との仲はというと、今回の事件においては英国の本国においては薩摩藩に同情的な意見が強く、英国政府としては横浜まで向かってきてさらに追撃するような真似などもせずに和解を行おうと姿勢などを評価し、英国政府と関係を持つことに成功する。


これらによって久光は「とりあえずこの流れに便乗して英国に薩摩藩の中でも賢い者を送り出すか」と留学などをさせようと画策するが、これらの一連の処理がきちんとなされておらず、実質的に不法入国という形で留学組みが右往左往していた所で縁が生まれた者がモンブランであった。


グラバーとの縁についてもこの戦争の後に久光が「戦争できるだけの武器が欲しい」と様々な商売人と商談を行っていた最中に生まれたものだが、グラバーはスコットランドの商人でありながらなぜかアメリカ製の武器を調達してくる男で、「ええ武器あるで」といって英国製すら凌駕するスペンサー銃+銃剣などを仕入れてくれたのだった。


それだけでは飽き足らず、久光は藩士に命じて「ガトリング」などの一連の武器の調達も行う。

このガトリングはどうやらパリ万博などにて展示されていた事で日本へ情報が伝わって購入が決定された代物であるが、当事日本には3台しかなかった。


その3台のうち1台を長岡藩が保持しており、実は長岡藩は後に新政府軍とは敵対する立場にてガトリングを用いていたりする。


これは余談だが、その戦いの中、ガトリングの射撃に関わった者に新津続宗という存在がある。

戊辰戦争の中で最も激しい戦いだったとされる長岡城の戦いにで凶弾に倒れてしまうが、この新津家の末裔こそ2016年に250億円もの興行収入をたたき出した監督の先祖である。


戦国時代にて上杉二十五将という形で上杉家と関わりがあり、武勇に優れた新津勝資は実はつい最近放映されていた大河作品の主役を勤めた真田家も認知していたりする凄い人物であり、「新津には本家金津家を上回る者がいて、上杉景勝は大層気に入っている」といった話が残っているが、関が原の後も新津家は上杉家と関わっており、その後も関係を保ち幕末に至った際、新政府軍の行動に疑問をもち、最新鋭の兵器を携えて上杉家が戦う意思を示すと、共に長岡城に向かったわけである。


元を辿ると源義光から続く夕所正しき旧家であるのだが、長岡城の戦いにおいて長岡藩が調達したガトリング機銃を運んだないし射撃を試みた記述が残っている。


これが恐らく「日本史上初」の実戦におけるガトリング斉射であるはずだが、そんなことをやってた者が先祖にいたかもしれないとか凄すぎて何ともいいようがない。


話がズレてしまったが、私が言いたいことは「刀」による戦いというのは「新撰組初期」の頃の近藤死去のあたりまでにいくつかある出来事の話で使われた程度であって、それを誇張して幕末時代を演出するのは簡便して欲しいということである。


函館戦争などで調べてみてもらえばわかるが、近藤死去後の新撰組は新政府軍による銃、ガトリング、大砲という存在によって一方的に敗走することになる一方、銃の重要性を理解して見事に運用しはじめるのである。(土方歳三の死去直前の姿を見てもらうとわかるが、洋服に身を包んでおり、銃を携えている。某ジャンプ漫画の新撰組は基本この時の姿だったりするがギャグで洋服を身に着けてると思ってる読者も多いようだ)


当初の新撰組は「室内戦闘」と「インファイト」が多い状況であったために刀を用いたが、これらについても銃剣などの登場によって殆ど無意味と化し、最終的に滅びの道を辿る。


実は幕末においては「刀による戦闘」というのは全く持って記録がないのだ


あるのは「銃」「大砲」「銃剣」「拳銃」などといった近代的な武装である。


一部では「新刀の最初にして最後の実戦の場」という話があるのだが、筆者から言わせると「そんな時期1年も無い」


島津久光はそれらについて真っ先に気づいたわけで、刀振り回す男じゃないから幕末関係のゲームでそういう風に演出するのは勘弁してほしいものだ。

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