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日本人にて史上初めて蒸気機関を再現することに成功したのは島津家

とある漫画や時代劇の描写ををみていると、まるで島津家は戦闘民族のように描写され、幕末の頃の彼らの能力が科学技術にまで及んでいたという印象が薄れてしまう。


しかし前述した通り、薩摩藩は倒幕前において凄まじい近代化を果たした組織だ。

今回はその時の藩主「島津斉彬」という筆者から見て島津家の中では「天才の中の天才」とする人物と「集成館」と「集成館事業」という存在について触れてみたいと思う。


本来は第一回にこの話を該当させても良かったが、インパクトとしては前2回の方があったと思ったのでこちらを第三回とする。


まず薩摩藩の功績について列挙する。

・日本で始めて実用的な大型蒸気機関を独自に作ったのはどこか。

薩摩藩である。


・日本で始めて蒸気船を作ったのはどこか。

薩摩藩である。


・日本で始めて外洋航海可能な洋式の帆船を作ったのはどこか。

薩摩藩である。


上の形式を続けると多すぎてうざったいので下記に薩摩藩の功績を全て記していこう。

・日本で始めて洋式で英国が驚いたほどの軍艦を作った

・日本で始めて発電所のようなものを作った。

・日本で始めてガス灯を導入した。

・日本で始めて紡績機を用いて生糸や布などを工業機械によって生産した。

・日本で始めて洋式便所を導入した。

・日本で始めて反射炉と溶鉱炉を導入した。

・日本で始めて地雷を作った。

・日本で始めて水雷を作った。


これらは全て1850年代の話であるのだが、島津斉彬の指導の下、成功している。


ここで余談なのだが、トイレ関係の歴史を見ると「洋式便所は明治時代に至ってから」とかいうが、トイレ専門家は一度集成館に訪れてもらいたいものだ。


洋式便所はペリー来航の1852年から1867年の大政奉還までの間に日本に複数現物が存在している。

同じく近代化が激しかった佐賀藩も含めて所有しているのに、どうして明治時代だと勘違いしているのか全く理解できない。


恐らくこれは薩摩藩含めた留学組が「外来船に乗って初めて水洗便所に触れた」とかいう話をしているからだとは思うが、鹿児島の集成館関係の施設などといったものは外国人技術者を召還して機材の管理などをしていた関係上、彼らのためを目的に洋式便所が備えられていた。


ようは一連の近代化においてトップを走っていたのが薩摩藩なのである。


ではすこし時代を戻そう。


まず島津斉彬がどうして一連の事業を行おうとか、こういった欧州関連の技術に興味を持ったかについてである。


これは25代目当主にして8代目藩主、「島津重豪」が大きく関係している。

それまで戦闘民族であり、頭で考えるよりも剣で斬る方が速いと考えていた島津家。

しかし8代目藩主となった島津重豪は突然変異でも起こしたのか、とても聡明でかつ勉学に励んだ男であった。(一方で浪費家で大酒飲みで女色を好むという側面もあったが)


彼は当事の言葉を用いると蘭癖というオランダや欧州関係の技術に深く興味を持ち、さらに「勉学は重要」と藩校「造士館」を作る。


これによって薩摩藩は様々な学問を学ぶようになるが、老いた重豪はここで彼からすると曾孫にあたる斉彬を見出す。


一説には物心ついたかもわからない頃から造士館に通わせたらしいが、周囲の大人も驚くほどの才を見せ、また欧州関係の技術についても興味を持っていたらしく、重豪はとにかく斉彬を可愛がり、この世を去るまで終始日本中を連れまわしていた。


その頃の年齢は80歳近く。

しかし行動力は凄まじく、この時代の80歳でありながら江戸と薩摩藩との間を何度も行き来していたらしく、当事関係があったオランダ人などをして「80には見えない」と言わしめたほどであった。


重豪は斉彬に対して様々な知恵を与えたというが、斉彬の回想録を見る限り「二人でシーボルトと会った」ことがあり、ここで彼は欧州医学に興味を抱いたようだ。


それは重豪がこの世を去る5年前であるが、この時80を超えても尚体力は衰えていなかったそうで、斉彬をして「自分よりも頑丈である」と評価されてはいたが、彼が死去したのは1932年に88にして始めて大病を患って翌年の1933年のことであり、それまでは非常に活発に活動していた。


だが一方で一連の行動によって薩摩藩では「彼もきっと浪費家だ」ということで内部抗争が起こり、完全に勢力が二分してしまう。


斉彬が40を過ぎるまで藩主となれなかった原因もまた重豪によるものだった。


だが重豪自体は薩摩藩におかれた財政状況自体はよく理解しており、斉彬に対しては「何らかの方法を用いて改善せにゃならんが、その才がおいにはなか」といって斉彬に全てを託すのであった。


斉彬は元々江戸出身であったが、重豪死去後、藩主となるまでの間は殆ど江戸で過ごす。(重豪が80を過ぎても江戸と行き来をしていた理由はこのため)

この江戸で過ごした間に考えたのが「鹿児島を近代化させて貿易で稼ごう」というものであった。

しかもこれは10年以上暖めた大規模な構想かつ本格的なものであった。


欧州関係の状況を見る中、斉彬が考えた最初の手は「まずは貿易に船が必要」そして「その船は快速船でなければならず、蒸気機関が必要不可欠」ということであった。


大政奉還前、そしてペリー来航前、日本人の大半が蒸気機関などを知らぬ時代、現物すら見たことが無い中で彼は「蒸気機関という外燃機関に未来がある」と考えた人物である。


この時代、薩摩藩以外も近代化については積極的であったが、蒸気機関について一番最初に見出したのは間違いなく斉彬であり彼は1848年、津山藩の箕作阮甫に命じてオランダの蒸気機関に関する技術書の翻訳を依頼した。


そして1848年から蒸気機関の試作品を家臣とともに作り始める。

この時、斉彬がどういった手伝いをしたかはわかっていないが蒸気機関などの一連の外燃機関についての知識は十分にあり、手先も器用であったということで積極的に自らもそういった周囲からすると「呪術か呪いの儀式か何か」と思われるような作業を行っていたようだ。


そして3年後、ついに薩摩藩の内部対立も収まり、彼は藩主となる。

ペリー来航2年前の出来事であった。


島津本家に戻った彼はまず「造士館」を改革させることにした。

それまで西洋関係についてはシーボルトの影響によって始まった医学のみであったが、彼が持ち帰った様々な書籍により西洋工学などについても追加される。


彼は後に明治政府のスローガンとなる「富国強兵」を掲げ、「間違いなく海外は攻めてくるぞ!」と藩内に注意喚起した。


彼は積極的に教壇にもたったが、この時に学んだのが西郷隆盛や大久保利通であった。

特に西郷隆盛については後に重用するようになるが、これには重豪の教えにより、「危機的状況においては身分など関係なか!」という柔らかい頭脳と発想を持っていた曽祖父の教えによるもので、能力があるとみなした人物は積極的に藩内において重要なポジションを与えていく。


そしてもう一方で作ったのが「貿易などを行うため」ということで作った「集成館」である。


私が前2回において「日本で最も早く近代化した近代都市のようなもの」と証したのはこの「集成館」であり、西洋科学研究所などを含めて様々な施設を彼が死去する1858年までの間に生み出した。


ここでは大砲製造や造船など、様々なものが作られていったが、藩内からは「ただの浪費」と思われていた。


ただし彼は1858年に死去するまでに彼が考えた壮大な計画の殆どを実行しており、死去する直前にも「いつか自分の考えが理解されるような事態が起こる」と後の薩英戦争を予見していた。


特に大砲の製造のために反射炉と溶鉱炉を日本で先駆けて実用化したことは高く評価出来、これによって「蒸気機関」や「大砲」、「ライフル銃」といった、薩摩藩に必要な武具を自前で製造できるようになる。


また造船も此方で営んでいたが、幕府に献上するほどの外洋航海可能な帆船を提供することも可能となった。


これは余談だが、この九州の近代化には様々な影響を与えた。

その中には後の東芝の母体となる田中久重もおり、彼は後にこの手の近代化された実験都市ともいうべき場所にて発電機などを間近に触れたことが田中製作所の設立のきっかけとなっている。


日本国において最も早く近代化を果たしたのは九州地方といえるが、その背景にはこういった先をを読む力に長けた者達による導きというものが存在したのだ。


そして薩摩藩においては数年後に薩英戦争が起こる際、蒸気船だけでもかなりの数を保持しているが、薩摩藩自体は彼の言いつけを守ったことで薩英戦争を乗り切れたのである――



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