そして日本人は特許と出会った~
パリの博覧会はロンドンの博覧会にナポレオン3世が対抗したものであったが、大成功したといわれるもので、ここで日本人は様々な当時としてはハイテク機器に出会ったといわれる。
万博の目玉たる機械系のハイテク機器としては、日本人なら1度は聞いたことがるかもしれないシーメンス社の発電機および電動機、水圧式のエレベーター、そして薩摩藩が大いに興味をもった後装式連発銃こと後のレバーアクション銃や後のボルトアクション銃となったスペンサー銃など、様々なものが展示されていた。
おそらくエレベーターに史上初めて日本人が乗ったのはこの時ではないかと思われるが、誰が一番先に乗ったのかについては記録情報が定かではない(幕府と薩摩藩両者合わせて50名以上もの日本人がおり、それらがこれらについて触れたのは間違いないのだが、一番乗りを確定できない)
これらは日本人からするともはや魔術の類に近いものもあったが、銃に関してはすでに国外からリボルバー銃などが輸入されてきていたため、貿易でそれらを扱うのでそれなりの理解があった薩摩藩においては大砲と銃器について大いに学んだとされている。
これが日本における戊辰戦争で生かされたのは事実で、薩摩藩は死の商人グラバーを通して多数の銃器を輸入するようになる。
そんな薩摩藩、この時様々な技術に触れたが、この万博会場で購入したのは意外にも武器だけではなかったりする。
1860年代中盤、すでに造船や電気、ガスといった技術に手を出していた薩摩藩は、日本において最も近代化した組織であった。
これらは日本史で全く語られないが、彼らの資金力は絶大なものがあるのは前述した通りで、そこに加えてモンブランやグラバーといった外国の支援者と手を組み、様々な行動を起こしていたわけである。
そんな薩摩藩がこの万博前後に購入したのは紡績機や繊維工場のための蒸気機関である。
明治政府になって貿易を行い、外貨を獲得するために用いられた生糸などの生産について、この時点で既に始めようとしているのだから恐ろしいものである。
薩摩藩がこの時の万博の出展で購入したのは、こういった軽工業系の機械であったが、それだけではなくメーカーとの商談も行っている。
万博出展のメーカーは商談を行った者たちの記録を残している者もいるが、薩摩藩はシーメンスの電動機、つまりタービン型発電機についても商談を持ちかけている。
それだけの資金力が十分にあったが、これも日本史では殆ど語られない事実で、同年に設立された鹿児島紡績所ではこういった場所にて商談を行い、メーカーの人材を7名も連れてきて工場を稼動させたりしているわけだが、機械関係のメーカーと世界的なライセンス契約などを日本で史上初めて国際的な場で行ったのは他でもない薩摩藩である。
正直な所、歴史では長州藩と同盟を結んだから倒幕できたというが、グラバーやモンブランが手記で示すとおり、近代化した薩摩藩は薩摩藩単独で倒幕は可能であったし、正直な所、薩長同盟というのは長州藩という憎い敵を無害化したいという意味合いが強かった。
ただ、面白いのは、グラバーとモンブランは双方共に薩長同盟とその立役者である坂本竜馬を気に入っていなかったことである。
坂本竜馬についてはモンブランは無知な男と評価し、グラバーは薩摩藩に有害な人材と判断している。
モンブランにおいては日本の歴史に詳しすぎるため、彼のやや浅はかな考えを見透かしていたといえるが、グラバーにおいては商売の邪魔になるという認識であった。
ただしグラバーは後に竜馬の評価を改めているが、それは坂本竜馬が「考えは違えど日ノ本の人間は志は同じぜよ」と最後までその主張を曲げずに生きていたからである。
この考えは違えど志は同じであるというのは、薩摩、江戸幕府の2つの組織が、万博会場で共に日の丸を掲げたという部分に直結していると言え、竜馬は根本的な部分では日本人は皆同じ考えをもっていると思っていたのだ。
グラバーは薩長同盟などの竜馬の行動に対しては批判的であったが、己を曲げない姿勢から、彼を麒麟と評して評価している。
後にグラバーはキリンビールの創業者の一人になるが、麒麟のロゴマークに竜馬を重ねているというのは有名な話。
余談だが、筆者の別の作品でも触れた通り、明治時代に創業し、今日でも大企業として名を連ねる日本国企業というのは、創業者が外国人であったとか、創業者の中に外国人がいたとか、出資者が外国の者達であったというのは珍しくない。
その関係は第二次大戦中ですら継続中で、大戦後に至っても継続していたというような所も多く、真の意味で日本独自の企業として成り上がっていった所というのは少なかったりする。
だからこそ筆者は出光興産などの、一時期の援助は海外から受けたことがあっても資本や人材において日本以外の息がかからなかった企業というのは高く評価し、なんとしてでもその姿勢を貫きたい創業者の一族の考え方には高く賛同できる。
出光興産においては戦後の復活劇においてGHQや米国の資本家、投資家などへの手助けは受けても、あくまで資金の借り入れのみに留まっているわけだから、戦後、自社以外全ての石油関係企業が米国の企業などに乗っ取られる形で傀儡となる中、周囲の協力を得て戦い、安いガソリンを提供しようとした姿勢というのは今後も貫いて欲しいし、そもそも日本国において「ガソリンが高い」原因を作ったのはこういった今でも裏で関係がある実質的に戦後乗っ取られてしまった石油企業によるものである。
それはさておき、話を万博に戻すと、実はこの万博、とある会議もかねていたものだったのだ。
なんと工業所有権、つまり特許や商標関係に関する世界的な条約を作ろうと提起するもので、米国が1867年の万博にどうしても日本を参加させたかったのにはこのことが関係している。
後にアジアで史上初めてそういった条約の加盟国になる日本だが、米国にとってこういった所に参加してもらわねばならない理由があったのだ。
これはハッキリ言えば、モンブランの件とは別の意味での偶発的な状況から生まれた奇跡である。
実は、ペリー来航の際、当初米国は日本を植民地化することを考えていた。
太平洋での活動拠点が欲しかった米国は、インドなどを含めて東へ東へと勢力を伸ばす英国の港を使う際、高い関税などを取られて苦しんでいた。
貿易の上で重要な中継拠点が欲しかったのである。
そこで日本という存在に目を付けたわけだが、別段植民地化するだけでよかったのだ。
オランダなどがどうこう言おうと力で踏み潰せば良いことで、それだけの戦力も十分に保持していた。
しかし、当時のブリテンは列強の中の列強であり、そう簡単に英国を無視してそういった行動をすると英国と火花を散らすことになりかねない。
そこで、日本は即時近代化できる国家であると世界各国に宣伝し、開国を迫りつつも英国などの間の手を防ごうとしたわけである。
一方で拠点として自由に使えるように不平等条約を結ぼうなどと裏で考えていたわけだが、この宣伝を聞きつけてペリー来航の後にモンブランが訪れるわけで、そう考えるとフランスの貴族すら日本の存在を知るほど、米国の宣伝力は強かったことになる。
この日本に対しての肯定的な宣伝は日本自体が知らぬ間に展開されていたので、モンブランなどを含めて多数の人間が日本に訪れても幕府はまともな対応ができなかった。
米国政府は1860年中期からイライラを募らせていたが、実はこの万博の際にモンブランや薩摩藩と接触することに成功し、以降は新政府軍に傾倒することになる。
理由の1つとして、工業所有権に関する会議での日本の2つの組織の反応の違いであった。
薩摩藩はすでにグローバル化した組織であり、ロンドン留学組はギルド、つまり商標などについての理解があった。
一方、おもてなしで評価された江戸幕府はこういったことには無知であり、会議の内容についてさっぱり理解できなかった。
国旗や国家については外来が盛んに行われるようになったのである程度理解できたものの、発明や芸術、学問の保護の必要性というのは江戸幕府自体は否定的立場であり、徳川18代将軍の弟といえど、前向きな検討ができなかったのである。(芸術に関しては人の単位で保護をしていたため、作品単位で保護をするという事が理解できなかった)
そして何よりも、万博のすぐ後、大政奉還により、江戸幕府は消滅。
使節団33名は元より留学としてパリに訪れていたので、その後も欧州での留学を継続予定であったが、今から5年後に呼び戻され、その当時の使節団だった者たちの大半がそのとき得た知識や知恵を生かすことなくその後の人生を歩むことになる。
一方で薩摩藩率いる連合体は、工業所有権の必要性について理解し、その情報を明治新政府に伝え、明治新政府はそういった方法をどうやって処理するかの模索を行うことになるが、その方向性を位置づけたのがこの時点では米国にいた高橋是清である。
この高橋是清に関しては波乱万丈な人生を歩みつつも本当に運が良い男で、この時点での彼は実際には幕府側であり、彼が奴隷に近い生活を続けずにそのまま戻ってきていたら使節団の者達のように日本国の公務員のような形で働くことは適わなかったであろう。
だが、彼が留学中に仙台藩が消滅し、さらに彼が素性を隠して自身の能力だけで評価されていったことで、この時薩摩藩が得た情報をバトンタッチする形で生かしてゆくことになる。