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世界で始めて日本という国家がお披露目されたのは大政奉還の1週間前、パリ万博においてだった――

 この1867年はとても重要な年だ。

 なぜなら、日本が日本として世界にお披露目された年だからである。

 それだけではないが、そちらは後述する。


 こう書くと皆様は「なんだ、大政奉還の話か」と思うだろう。


 その大政奉還の際に海外で何が起こったかということはあまり知られていないようだ。


 1867年、2つの日の丸がパリにて公開される。

 パリ万国博覧会にて出展した2つの組織によるものである。


 1つは江戸幕府。

 もう1つは薩摩藩を含めた後の明治新政府の前身である。


 まずは江戸幕府の話であるが、世間では開国に否定的だったといわれる江戸幕府は、大政奉還を行う年にまでなるとすでに開国の可能性を予見できており、世界にむけて使節団を送るようになっていた。


 これは幕府側に立つ仙台藩といった地方にいるそこまで大規模ではない組織でも同様であり、

 現在、幕府では表向きは鎖国継続の立場であるが、1867年という大政奉還の年においては筆者の憧れの人物である「高橋是清」などを含めた多数の人材を渡米させている。


 幕府存続の下、米国との関係を検討しようというのが1867年における状況だったのだ。


 その際、江戸幕府自体は米国から促され、パリ万国博覧会への参加を打診され、了承したのである。

 この時向かったのは最後の将軍の弟と他32名。

 弟は非常に聡明で海外文化にも馴染み深い男であったが、最後の将軍徳川慶喜の命により、パリに向かうこととなったのだ。



 そこで米国から指示されたことは「今、日本中に存在する、例えば常陸国などは国家ではなく地域であり、日ノ本の立場として参加せよ」とのことであり、江戸幕府としては日本の代表として参加することとなったのである。


 彼らはインド洋をひたすら東へと向かってエジプトに到着すると、そこから機関車を用いて様々な日本国から持ち寄られた美術工芸品などと共に一路フランスへと向かっていったのだった。 


 そして弟の徳川昭武が必死の思いでパリに辿り着くと、なんとそこにはすでに日本人が先回りして出展予定だったのである。


 


 これがモンブランやグラバー率いる薩摩藩とその連合体(佐賀藩など、九州の者たち)。

 つまりは後の新政府軍である。

 薩長同盟を結んだ直後であるため、現場に長州藩はいないというのが重要である。


 当時の薩摩藩は、貿易を主体として活動していたため、その資金力と影響力は絶大なものがあった。

 そのような中で万博に参加した理由は大きく分けて3つある。


 1つは万博にかこつけて江戸幕府を正当化しようとする徳川家を含めた使節団を否定すること。

 薩摩藩中心の連合体はこの時点で日ノ本は天皇家あっての存在という形で日本をアピールする予定であり、自らを国家元首として名乗り出る江戸幕府について否定をしたかったのである。


 2つ目、江戸幕府が後の戊辰戦争における資金調達と武器その他の輸入の動きがあり、これらを阻止すること。


 これはとても重要で、彼らにとっては勝敗と自らの商売関係に直結する自体であり、自分たちの持つ人脈を用いて江戸幕府を否定することで資金調達を阻止することは日本の命運を決めるといって過言ではなかった。


 3つ目、パリ万国博覧会は当時としては最先端の技術が披露される博覧会である。

 そもそもが江戸幕府と薩摩藩の双方はパリに向かうまでにエジプトから蒸気機関車を用いてたりするわけだが、こういった様々な当時最先端の技術はなんと販売している出展もあり、何か今後とても自分たちの組織にとって有用なものを買い付けにきていたという側面もあった。


 ここで疑問がある。

 いくら連合体といえど、薩長同盟を結んだばかりでまだ右往左往する状況で、薩摩藩はどうやってフランス政府を認めさせたのか?


 江戸幕府の裏には米国政府という後ろ盾があったが、薩摩藩には表向きそういうものはなかったのである。


 実はここにグラバー、そしてシャルル・ド・モンブランという2名が関わっていた。

 グラバーは長崎にグラバー邸などがある日本近代化において非常に有益な活動をしたといわれる死の商人である。

 こちらは後述する。


 まずはモンブランについて語りたい。

 ペリーが来航した後、日本についての情報は世界中に伝わったが、そんな中でフランスの貴族であった彼は、とあるパーティ会場にてその話を聞き、この日本という島国に非常に興味をもったのだった。

 様々な話に非常に感銘を受けた彼は、あの手この手を利用してついに日本に辿り着く。

 実は最初は江戸幕府と何度も面会しようとしたが、幕府や幕府側の各藩は彼とは見向きもしなかった。


 一方で交易によって高い収益を得て活動中であった薩摩藩と偶然にもロンドンにて接触することに成功し、以降、薩摩藩においてグラバーと並び、非常に重要なポジションで活動していく。


 薩摩藩はすでにこの時点で世界を見据えており、多数の人材を英国へ向かわせていた。

 実はこれは正式な手続きを結んでいない不法入国であったのだが、モンブランは彼らの世話役を買って出て、入国手続きを含め全て彼の立場を利用して活動し、薩摩藩を援助したのである。


 米国とも関わりがあった彼は、米国からの情報をいち早く察知することが可能だったのだが、そこで彼は江戸幕府が日ノ本の国としての立場でパリ万国博覧会に参加し、日本を江戸幕府による単一国家として世界にお披露目するという情報をつかむ。


 この時点ですでに天皇の成り立ちなどにも非常に詳しい立場であったモンブランは、たかが代理統治を行っているだけの徳川家が、あたかも日ノ本の代表として江戸幕府を既成事実化することに激怒した。


 そこで彼は、日ノ本は天皇を中心とした多数の小国から成り立つ連合国家であるということを世界に宣伝するため、活動を開始する。


 信じられないことに彼はナポレオン3世とも接触し、なんとパリ万国博覧会に薩摩藩含めた後の新政府軍の出展を認めさせてしまったのだ。


 これはアジアで唯一の快挙であったが、モンブランの熱意に他の貴族たちは驚きを隠せなかったという。


 何しろアジア周辺は植民地だらけ。

 米国政府を除いては日本に対しては劣等種しかいない地域という認識であったが、モンブランはフランス政府すら説得するだけの知識と説得力のある話を展開したのだった。


 これは本当に奇跡とも呼ぶべきもので、たかがアジアの小国に対し、感銘を受けた貴族が起こした奇跡としかいいようがない。


 米国はこのパリ万博博覧会への江戸幕府の出展にどれほど苦労を重ねたかを考えれば、たかが1組織でしかなく、討幕運動を起こせるだけの連合体とはまだ成長していない薩摩藩を日本の代表として出展させるというのは、彼なくしてありえなかったのである。


 彼は地元新聞などを利用し、ペリー来航時代には知られていなかった天皇の存在などをパリ中に流布した。


 そこには徳川家が戦国時代の三大将軍の中で最終的に生き残っただけの代理人であり、本来の日ノ本はそういった存在ではないという話など、本当に何者だコイツってぐらい日本に関する事情が詳しく記載されていた。(パリの図書館などでは当事モンブランがばら撒いた日本に関する記事があるが、彼は秀吉、信長についても理解しているばかりが朝廷と幕府の関係についても非常に詳しく記載しており、単なる日本好きの枠を超えたフランス人貴族にして日本人研究者とも言うべき存在であった)


 この時出展に参加した薩摩藩の者たちは全てロンドン留学組であったが、ロンドン組の彼らでさえ、モンブランの日本に対する正確無比な知識には脱帽ものであったと言われる。

 ただし、ここからが問題であった。


 米国政府と手を組んでいた江戸幕府は、連合体について抗議声明を行った。

 日本の文化を伝えるために60日かけて辿り着いた江戸幕府の使節団は総勢33名。

 彼らにとって薩摩藩の行動は屈辱以外なにものでもない。


 しかしすでに世論やナポレオン3世まで味方につけていた薩摩藩はこの時点で圧倒的優位であり、彼らの出展取り消しは不可能であった。


 そこで江戸幕府はモンブランを仲介人に薩摩藩と交渉し、いくつかの出展について取り下げるよう要請した。


 1つが薩摩藩の家紋を描いた旗印の撤回と、もう1つは琉球王国という名称の削除である。

 当時薩摩藩は琉球王国を実質的に支配していたが、出展時はモンブランの計らいにより、琉球王国の文字が入っていた。


 江戸幕府としては琉球王国を認めない姿勢であったため、その取下をさせたかったわけである。

 そして、結果的に双方は同じ日本として出展を行うことになったわけだが、この時の万国博覧会は1国につき1出展であったから、日本は例外的な許可とはいえ、1国でありながら2つの出展を行ったことになる。


 実はモンブランはこの時、江戸幕府の出展に大いに関心したという。

 それは、最初にこの噂を聞いた時、彼らは徳川家の家紋をもってこちらに来るであろうと予測したからだ。

 だが、江戸幕府が日ノ本として持ってきた旗印は、1854年に外来船用として制定した日の丸であったのだ。


 これは単純にモンブランが知らないだけのことであったが、1850年代当時の徳川幕府はすでに日本国という認識があったのだ。


 他の藩の者たちは日の丸を採用する際に反対姿勢の者も多かった中、徳川幕府は「日本」という意識でもって活動する旗印はこれであろうと日本の外来船においては日の丸を採用することにしたのである。


 薩摩藩には予め、わかりやすいようにとこの日の丸を掲げさせ、その上で藩の旗印と琉球王国の国旗を掲げたわけだが、かくして世界各国に対する日本国のお披露目では、今日の日本人が良く知るアレが掲げられ、その証拠となる写真も現存しているのである。


 どちらも「日本国」としての出展であり、モンブランの手記においてもこの件で徳川家については幕府という代理的な立場にそれなりの理解がある者たちであったと考えを改めるに至っていることを記述している。


 かくしてこの時初めて、日本という国家が認知されたわけであるが、会場では和風喫茶店などを展開する日本に対しては大いに関心が寄せられ、日本人女性が接客する写真が残ってたりするから驚きである。


 実は幕府は日本文化を伝えるため、伝統工芸品だけでなく女性も使節団に参加させており、所謂「おもてなし」というのを世界で始めて行ったのが1867年なのである。


 ただし、幕府の使節団はこの万博の間に大政奉還してしまうことをこの時は知らなかったのであるが……


 そしてこの時、彼らは様々なモノに触れることとなったが、日本が近代化する上でこの万博に参加したことは非常に意味があることであったのを当時の彼らは認知していただろうか――

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