第三話 ただ一人
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神根市の代名詞として有名な神根スクランブル交差点は、一回の青信号時の通過人数が一千人を超えると言われている。
そして今、その約一千人の通行人が一瞬にして魂の抜けた人形へと変貌した。それも大量の血飛沫とともに、見るも無惨な姿の人形へと、だ。
しかしその場でただ一人、六神蓮の身にだけは何も起こらなかった。なぜかはわからない。彼はただ、訳もわからぬまま赤く染まった世界を眺めていることしかできないでいた。
──は?何これ……。
人が身体から血を噴き出しながら死んでいく様子など見てしまえば、ふつうならまず恐怖に支配されてしまうだろう。しかしそれはあくまでもふつうなら、に限った話だ。
このふつうとは到底言えないあり得ない状況に、蓮の思考は完全に停止していた。恐怖を感じるわけでもなく、理不尽な死に怒りを覚えるわけでもない。誰のものかもわからぬ血を大量に浴びながらも、ただ蓮はその場に突っ立っているだけだった。
どれくらいそうしていただろうか。十分か、二十分か、三十分か。あるいはもっとかもわからない。それは時間を確認すればわかることではあるが、たったそれだけのことをする気すら起こらなかった。
風も、鳥も、太陽も、いつもと何ら変わらない。人間にだけ、異変が起こった。しかしそのたった一つの異変はあまりにも大きすぎた。やっとのことで現状を把握した蓮には、人の死を目撃したときの本来の反応──恐怖に身を震え上がらせることしかできないでいた。しかし、
──まさか、俺以外の人類は皆、死んでしまったのか……?
その可能性を考えたとき、蓮は走り出さずにはいられなかった。死体に埋めつくされたアスファルトに足場を探しながら、元来た道を全速力で、引き返す。身体中に他人の血を纏いながらも、転がる死体に何度も躓きながらも、それでも引き返す。
考えたくもない、可能性だった。もし自分を除く人類が皆死んだというのであれば、父と母の身にも同じことが起こっていると言える。そんなことはあってほしくない。いや、断じてあってはならない。
しかし、現実は残酷だった。元来た道を引き返していけばいくほどその可能性は現実味を帯びていく。
──ああ……。
路地裏に入っても、そこにあるのは死体、死体、死体。男も女も、子供も老人も、皆一様に血肉の塊に成り果てていた。
何もあのスクランブル交差点だけで起こったことではなかった。国中で、いやきっと世界中でだ。そして、父と母も──。
そんな最悪の想像が頭から離れないまま、蓮は自宅にたどり着いた。
呼吸が荒くなる。ドク、ドクンと心臓の鼓動が速まる。震える手で鍵を鍵穴に挿し込み、ガチャリと回す。不安に押し潰されそうになりながら、血のこべりついた手でドアノブを引く。そして自宅の中へと、大きく一歩足を踏み入れた。
──母さん……。
そこからあとのことはところどころしか覚えていない。血肉の塊と化した母の姿を見たあと、気がつけば近くにある父の勤務先にいた。そこでも全く同じものを目撃したはずだが、そこから先はまた記憶が飛んでいる。
──もう、無理だ……。
気がついたときには、蓮は死体の山の上に寝転がりながら、自分も死なないかなと、そんなことばかり考えていた。こんな世界にたった一人だけ生きていても、意味などない。
そしてついに自殺という最も愚かで、しかし今この状況においては最も心安らぐ選択肢をとろうとしたそのときだった。
ピピッ。
沈黙の世界で、携帯電話が、鳴った。