第二話 終わる世界
八時三分。蓮は路地裏を歩きながらもう一度鞄の中を確認し始めた。幸か不幸か、母の心配性な性格を譲り受けてしまったらしい蓮にとっては、これもいつも通りの行動だ。
──特に忘れ物はなし、と。
確認を終えて安心した蓮は、鞄を閉じて視点を前に戻した。
──今日も相変わらず多いな……。
大通りに出たところで、人の数はどっと増える。視界の先に写るその人の多さに、今日も蓮は嘆いた。
蓮の住む街──ここ神根市は国内でも有数の規模を誇る都会で、その人口は二百万人にものぼると言われている。
そんな都会の朝はいつもながらせわしないもので、蓮と同じように通学途中の学生や通勤途中のサラリーマン、OL、観光客、散歩中の老人など多くの人で溢れ返っている。毎日のように経験するその光景には次第に慣れてくるはずだったのだが、元々人混みが得意ではない蓮にとっては、そう簡単に順応できるものでもなかった。
──おっと。
どうやら信号が赤になったらしい。人々は皆進めていた足を止め、それに気づいた蓮もまた、周りの人々と全く同じように自然と足を止めた。
──八時六分、か……。ん?
鞄から携帯電話を取り出して時間を確認した蓮は、一件のメッセージが来ていることに気づいた。
『今どこ?もう家は出たか?』
小牧健からのメッセージだ。彼は蓮のクラスメイトであり、一番の友人でもある。
『スクランブル交差点の前だけど。どうした?』
『今日提出の数学の課題って持ってきてるか?』
八時七分。蓮が返信すると、すかさず小牧からの返事が送られてきた。そしてその内容はおおかた蓮の予想通りのもので、思わずため息をついた。
『持ってるけど……。まさか、またか?』
『いつも悪い、できれば後で写さしてほしいんだけど』
『仕方ないな、頼むよほんとに』
『悪いな、恩に着るぜ親友よ』
反省の色が伺えない小牧の言葉に、今度からはもう少し厳しくしなければなと思いつつ、蓮は携帯電話を閉じた。
そしてちょうど小牧とのやり取りが終わったそのタイミングで、信号は青へと変わったらしい。足を止めていた人々はふたたび歩き始め、人の流れに従って蓮もまた歩き出した。
──さて、学校に着いたらまずは明後日提出の化学の課題でもするか。てか、今日は物理もあるんだよな。ったく、もうすぐ文化祭だってのに勉強ばっかりだなー、ほんと。
スクランブル交差点の人混みの中を歩く蓮が考えていたのは、そんなことだった。
それは何の変哲もない、当たり前の日常を生きているからこそ考えていられることであり、それが一瞬にして壊れることなどないと信じて疑わない。いや、というよりもむしろ、そんなことが起こるなどとはそもそも思いもよらない。
だからこそ、そのとき突如として起こった目の前の出来事に、理解が及ぶはずなどなかった。
風はいつもと変わらず、ビルに擦れるようにひゅるりと吹いている。空ではいつもと変わらず、鳥が自由気ままに飛んでいる。太陽はいつもと変わらず、思わず目を細めてしまうほどの眩い光でこの世界を照らしている。
なのに、なのに──。
血が噴き荒れる、噴き荒れる。
八時八分。血まみれの死体の十字架と化したスクランブル交差点のど真ん中で、六神蓮は一人、ただ茫然と立ち尽くしていた。