第二十七話 雪乃の苦悩
◇
柊雪乃の心は、罪悪感でいっぱいだった。
何に対する罪悪感なのかは、決して誰にも──たとえ大好きな蓮にであっても言えない。言ってしまえばきっと、自分は皆から責められることになるからだ。
──もう、嫌だよ……。
雪乃は何度も、罪の意識から逃れようとした。しかしそれが頭から離れることはなく、時が経てば経つほどその感情は大きくなり、ますます雪乃を苦しめる。
もう、心は限界だった。自分も早く死んでしまいたいとさえ思った。
だから雪乃は今なお屍のように一切身動きを取らず、ただ死の訪れるそのときを待っているのだ。
──ん。
つい先程まではどしゃ降りの雨の音が体育館内にまで響いていたはずなのだが、いつの間にかその音はなくなっていた。きこえてくるのは、時々ぴしゃりと水滴が落ちる音だけだ。
ようやく雨が止んだらしい。音でそのことを把握した雪乃は今、うずくまった状態で両膝の間に顔を埋めている。目は閉じており、罪の感情から逃れるべく、意識を手放そうと努力しているところだ。
もしそのまま眠りにつき、二度と目覚めることがないのならば、どれほど楽で幸せだろうか。しかしそんな雪乃の思いとは裏腹に、眠りにつくことすら叶わない。
──やっぱり、そうだよね……。
自分は死ぬまでずっと、罪の十字架を背負い続けなければならないのだ。改めて雪乃はそのことを思い知らされ、そしてその不安に押し潰されそうになっていたときだった。
「皆さん、文化祭をするのかどうか、答えを聞きに来ました……」
近づいてくる足音とともに、今最も耳にしたくない声がきこえてきた。雪乃は咄嗟に目頭に力を込めてみたが、眠りに落ちることはない。意識とは、自分の判断でどうにかできるものではなかったのだ。
「幸い……と言うべきなのかは分かりませんが、まだインターネットでの宣伝等は行っていない状態です。引き下がるなら今しかありませんし、そうすべきだというのが皆さんの考え抜いた結論であり総意であるというのなら、私も諦めます」
黙る皆に向かってそう話すのは、藤咲葵だ。彼女が戻ってきたということは、もう昼になっていたということのようだ。
藤咲葵。今すぐそこにいるその人物は、とにかくあらゆる方面において、雪乃とは対照的な存在だった。
例えば外見ひとつとっても、清楚で美しい彼女のそれはどこか子供っぽいなどと言われがちな雪乃とは対照的であり、やや堅苦しい彼女の雰囲気も明るく楽しくをモットーとしてきた雪乃とは全く異なる。また学業においては、いまいち成績の振るわなかった雪乃に対して、藤咲は学校一の天才と言われていたほどの優秀ぶりである。
しかしそういった点を差し置いて決定的だった違いは、現状において取った行動だった。
この終末の世界で雪乃が何もできないでいたのに対して、藤咲は懸命に立ち向かおうとしていた。得体の知れない恐怖と絶望を感じているはずであるにも関わらず、だ。
自分なら文化祭を成功させることができるなどと大見栄を切ってしまった手前、引き下がるわけにもいかないのだろうが、それでも相当な覚悟と決意がなければできないことだと思う。自身のモットーすら忘れ去り震えることしかできなかった雪乃とは大違いであり、そんな藤咲の行動は称賛されるべきものなのかもしれない。
ただ、雪乃には素直に手を叩くことはできなかった。
もちろん、前を向こうとする藤咲のことは、すごいと思った。それは雪乃にはできなかったことであり、自分も彼女のようであれたらとも思った。
しかし恐怖と絶望の支配下においては、そんな感嘆や尊敬の念は全て、嫌悪感と嫉妬へと塗り変えられた。彼女が自分にはできなかったことをやってみせたからこそ、自分の存在価値を否定されたような気がした。
──もう、死にたい。死にたいよ。
雪乃はただひたすら嘆いた。藤咲には申し訳ないが、彼女の言葉に返事をする意欲すら湧く気配はない。心のなかにはもう、死の願望以外、残ってはいないのだ。
「別に何を言おうとも責める気はありませんし……、で、ですから皆さん、遠慮せずに意見を言ってください」
未だに続く沈黙に戸惑っている様子の藤咲の声が耳に入る。皆がその様子を察しているはずであるにも関わらず、それでも気まずい時間は続いた。
ただ、それも当然のことだ。この状況で口を開こうとする者などいるはずもない。皆、黙り込む以外にないのだ。雪乃はそう、思っていたのだが……。
「俺は賛成だ」
皆瀬純が一言、そう答えた。しかも口を開くどころか、藤咲の意見に同意してしまっているではないか。全く予想外の出来事に、雪乃は驚きを隠せない。
「文化祭をするメリットは十分にある。人さえ集められれば今後は生存者たちで上手く連携していくことが可能だし、またよその情報も自然と入ってくるはずだ」
信じられないという思いで皆瀬の言葉を耳にしていた雪乃だったが、彼は藤咲の言葉どおり、遠慮を知らぬ様子で話を続ける。
「それにここで引き下がるということは、すなわち恐怖と絶望に屈することを意味する。そんなことは断じてあってはならない。そうだろう? 会長」
「え、ええ。そのとおりです」
「このままでは敵の思う壺、だからな」
雪乃は、何としてでも皆瀬の言葉を聞き流そうとしていた。しかしその瞬間ばかりは、どうしても彼の言葉に耳を傾けてしまった。いや、というよりもむしろ、傾けざるを得なかったのだ。
「敵、ですか……?」
「ああ。会長も言っていたことだろう? 悪意のある何者かがいると」
「たしかに、言いましたが……」
声の様子から察するに、藤咲は困惑しているようだった。また、他の皆も同様であることは目を開けずとも、一変した場の空気から容易に把握できた。
きっと皆、目の前にある死にばかり気を取られ、その背後にいる者に対する認識がいつの間にか抜け落ちかけていたのだろう。皆瀬の言う『敵』の存在する可能性を再認識し、無言を貫いていた一同にもわずかにどよめきが走った。ただ一人、雪乃を除いては。
「悪意のある何者か。つまり敵だ」
──やめてよ……。
「その敵は、間違いなく存在する。そしてそいつは──」
──お願いだから、もうやめて……。
「俺たちのなかにいる」
そして背筋の凍るような感覚に耐えきれなくなった雪乃は、思わず顔を上げてしまったのだった。




