第二十六話 抗え
来栖銀次との関係を端的に言えば、友人の友人、といったところだった。蓮と銀次の間にはいつも小牧がいて、彼が二人を繋ぎ止めていただけにすぎない。決して他人というわけではなかったが、友人と呼ぶにはやや距離があった。
理由は大体分かる。蓮も銀次も、人との距離を自ら進んで縮めようとする類いの人間ではなかったからだろう。
だから今もこうして、二人の間には距離がある。
「どこにいるかと思えば、こんな雨のなか……」
銀次は怪訝そうな、そしてどこか軽蔑の色を含んだような表情をしながら、扉の向こうにいる。
対する蓮はそんな銀次を虚ろに眺めながら、今なお降りしきる雨に身を委ねている。
二人は、互いの存在に気づいていながらも動こうとしなかったのだ。蓮は人に見られても雨を浴びながらでもこの場を離れようとせず、銀次もまたそんな蓮をただ眺めているだけで屋内に呼び込もうとはしない。居心地の悪い空気が二人の間を流れ、無言のまま時間が過ぎた。
「なあ、六神」
そんななか口を開いたのは、銀次の方だった。
「……」
「──についてだ」
しかし銀次の言葉は激しい雨音に掻き消され、ききとりづらい。彼が今何と言ったか分からず、蓮は首を傾げた。
そしてそのことに気づいた銀次は、少し苛立った様子を見せながら声量を上げる。
「文化祭について、だ!」
そのおかげで、銀次の言葉はしっかりと蓮の耳にまで届いた。ただ──。
──文化祭、か……。
それは蓮が今、最も考えたくない内容だった。文化祭をするということはこの死に支配された世界に抗おうとすることであり、つまりはそれだけ苦しまなければならないということだ。もう苦しみたくはない、楽になりたい。ならば全てを諦め、余計なことは考えてはならない。
「……もう、いいんだ」
「は……?」
「文化祭なんてやらなくていいんだ、どうせ死ぬんだから」
蓮は雨の降り注ぐ空を仰ぎながら、呟いた。それは銀次に対して言っているというよりは、自分に言い聞かせているような感覚だった。
「どうせ頑張っても──」
辛い思いをするだけだ。蓮のしようとしたその発言は次の瞬間、左の頬に来た重い衝撃によって遮られた。
「うぐっ……」
突如として襲ってきた強烈な痛みに、思わず蓮は唸る。
そして雨の出所である暗雲広がる空があったはずの蓮の視界は、いつの間にかその雨の終着点──跳ね上がる水で満たされたコンクリートを映している。
そのとき自分の身に何が起こったのか、蓮には全く理解できなかった。ただ把握できるのは、左の頬が痛いということと、自分が今びしょ濡れの地面にうつ伏せに倒れているということだけだ。
訳の分からぬまま、蓮は気だるいその身体の上半身をのそりと起こして振り返り、言葉に詰まった。
「なっ……」
先程まで扉の向こう側にいたはずの銀次は、見上げたすぐ先で拳を振るったあとだった。そして親の仇でも目にしたかのような怒りに満ちた表情で、こちらを睨んでいる。
今まさに殴られた。銀次が殴りかかってきた。蓮はようやくそのことに気がつき、困惑した。唐突に怒りの感情をぶつけられ殴られたことに対して。そして何より、距離をとっていたはずの銀次が、この雨の降り荒れる屋上に出てきてまでその行為に及んだことに対してだ。
「ふざけるのも大概にしろよ」
「は……」
「さっきあの女が文化祭のこと話してたときもよぉ、お前ずっと黙ってたよな?」
「それは……」
たしかに銀次の言った通りだった。藤咲がいくら訴えかけようとも、蓮は何も言おうとはしなかった。希望などとうに消え去り、先に待つ未来が絶対の死であるならば、それは無意味なものだと嫌でもわかってしまうからだ。
だがそれは最早仕方のないことだと、蓮は割り切っていた。この状況に陥れば誰だって恐怖と絶望に心が折れるはずであって、そうでない方が不自然だ。だと言うのに、そんな当たり前であるはずの感情を抱いた蓮を、銀次は侮蔑の眼差しで見下ろしている。
「あのとき俺はずっと、お前が何を言うのかを見てたんだよ。俺は文化祭をやるべきだと思ってるし、お前もそうだと思ってた。だが結局お前は何も言わなかった。そしてしまいには、この様だ」
銀次もまた、あっという間に大雨に晒され、その姿は蓮と何ら変わらずびしょ濡れの状態だった。しかしその心理状態は蓮とは全く別のベクトルを向いており、蓮にはそんな彼のことが理解できなかった。
「何で、だよ……」
「ああ?」
「何でそんな風でいられるんだよ、お前も、藤咲も! 小牧が死んだんだぞ!? 俺たちだって、いつ死ぬか分からないんだぞ!?」
抑えていた感情が爆発し、思わず蓮は叫んだ。そして悴んだ両手で銀次の足を掴み、躍起になって揺さぶった。
見上げた先には、そんな蓮に表情ひとつ変えず冷たい視線を送り続ける銀次の姿がある。そしてそんな銀次には構わず、叫び続ける蓮の姿がある。
「死ぬのが怖くないのか? 死んだら何もかも、終わりなんだぞ!?」
「……」
「俺は怖いよ! だから少しでも楽になろうとしたのに、それのどこがいけないんだよ!! 教えてくれよ!!」
気がつけば、蓮の頬には涙が伝っていた。すぐ側にいるこの人物のおかげで、思い出したくもない理不尽な現実を意識してしまったからだろう。いくら雨に洗い流されても、溢れる涙はとどまることを知らない。
「頼むから全部、諦めさせてくれよ……」
今の素直な思いを全力で吐き出し、蓮はその場に崩れ落ちた。暴れ出した感情をのせた声も最後には弱々しいものへと戻り、全身からは力が抜けていく。
本当は、抗えるものならそうしたかった。希望を抱き続けることができるというのなら、そうしたかった。
しかしそれができないから、諦める以外に道は無かったのだ。皆が少しでも辛い思いから逃れられるようにするには、それが最善にして唯一の手段だったのだ。
だからせめて、楽になりたいという最後の願望だけは、誰にも憚られるわけにはいかなかったというのに……。
「だめだ」
銀次のその一言は、たった一つの願いすら、打ち砕こうとしていた。
「死ぬのが怖くないのかって? ああ怖いさ。怖いに決まってるだろうが」
「……」
「俺には妹がいたが、目の前で血を噴き出して死んでいったよ。そのときの絶望が、どれほどのものだったか。皆、この死の世界を経験してしまったんだ。だから俺も皆も、お前の気持ちは痛いほど分かっているはずだ」
「だ、だったら!」
「けどなあ、六神。そんなことは関係ねえ。いつまでも立ち止まってるわけにはいかないんだよ」
銀次は、淡々とした様子でそう言った。そして今度は、しゃがみこんだ銀次が蓮の身体を揺さぶる。
「いつまでもこうしていて、小牧に、他の死んでいった奴等に、お前は顔向けできるのか? 先の短い命であるとしても、あいつらの分まで生き抜こうとは思わないのか?」
目の前に迫る銀次の瞳は、蓮の心に、諦めたはずの生を訴えかけてきた。
その瞳にかかる圧に思わず目を背けそうになったが、そうしてはならないという声が、心のどこかからきこえてきた気がした。今こそ目の前の人物と真剣に向き合うべきときなのかもしれない。蓮は彼の言葉を反芻し、考えてみる。
生き抜くという目標。それはたしかに、蓮のなかにもあったはずだ。その上で、自分のすべきことをしたいという思いもあったはずだ。
文化祭を希望の象徴にしたかった。人々の心が安らぐようなものにしたかった。また和気あいあいとしていられる日々が欲しかった。自分もこの世界で、役に立ちたかった。それらの思いは全て、嘘偽りのないものだった。
しかし成す術なくやって来る死を前にしては、全て不可能なものなのではないかと思えてならないのだ。
「俺だって、できることなら──」
できることなら、前を向いていたかった。しかし全てを手放し何も背負わないでいる方が楽でいられる。それは間違いない。
蓮はここまで訴えかけられても、未だ諦めの境地を脱することができないでいた。
「だったら、抗え」
そんな蓮に銀次の放った最後の一言は、蓮に大きな衝撃を与えた。
──ああ、そうか……。
目の前にいる来栖銀次という男はやると決めたら最後まで貫き通す人物であることを、そのとき蓮は思い出していた。そして同時に理解した。彼は諦めることを、決して許してはくれないのだと。
恐怖と絶望に打ち克つのは容易なことではなく、蓮の心のなかにはまだ根強い負の感情が渦巻いている。逃げ出したい、というのが本音だ。
しかしそうはさせまいという銀次の眼差しが、こちらを向いていた。
──立ち上がるしか、ないのか。
蓮は震える身体を奮い立たせ、負の感情を抱き続ながらも、覚悟を決めた。
いつの間にか雨は上がり、雲の隙間からは柔らかい日の光が一筋、二筋と射し込んでいる。屋上には、びしょ濡れの状態のまま、それを浴びる二人の少年の姿があった。




