第二十二話 暗礁
◆
小鳥のさえずりがきこえてくる。いつもと何ら変わらぬそのさえずりは、蓮にとっては目覚まし時計のようなものだ。もう少し眠っていたいという誘惑と闘いながらも、蓮はゆっくりと瞼を開き、視界は穏やかな朝の光に包まれた。しかし──。
「いたたっ……」
背中にはコンクリートの感触があり、わずかに痛みが走った。さらに言えば、真上に広がる光景は、白い天井ではなく青く澄み渡った空だ。自室のベッドならば起こり得ないこの状況に蓮は違和感を覚え、そして思い出す。
──ああ、そうだった……。
蓮は気だるく重い身体を起こしながら、昨日の出来事を頭に浮かべていた。
当たり前の日常が崩壊した一日。血の赤に染まった世界。父も母も死に、名前も知らない大勢の人たちも、目の前で死に絶えていった。そんなあまりにも残酷な現実に、蓮は恐怖し絶望した。
しかし生きることを諦めてはならないと、蓮は教えられた。生き残った仲間たちは皆、こんな世界に抗おうとしていたのだ。ならば自分も抗い続けるべきで、その覚悟と決意は今もきちんと残っている。
──というか、もう朝……?
昨夜はたしか、この屋上で小牧と話していたはずだ。そして小牧が去ったあと、一人夜の屋上に残った蓮は、飛び交う流れ星の数を数えていた。おそらく五、あたりまでは数えたはずだが、以降の記憶が蓮には全くない。あのときは眠気を感じていたから、つまりそのまま寝てしまったということなのだろう。
そうは言っても、まさか朝まで眠ってしまうとは思ってもみなかった。蓮はポケットから携帯電話を取り出して時刻を確認し、そして驚愕する。
「七時半!?」
たしかに蓮は、ふだんから七時半に目が覚めるのが習慣になっていた。小鳥のさえずりも、いつもこの時間にきこえてくる。
しかし蓮がこの屋上にいたのは、夜の八時半頃だ。つまり蓮はこんなところで十一時間ものあいだ眠っていたことになり、それはふだんより四、五時間ほど多い睡眠量だ。
それだけ、疲れがたまっていたということか。今なお完全に取れたとは言い難いその疲労を感じながら、蓮は屋上をあとにした。
「それにしても皆、早起きだなー」
そして体育館へと向かう途中、何人もの生徒たちがすでに目を覚まして文化祭の準備をしている様子を目にして、蓮は呟いた。
体育館へと向かっていたのは、そこが皆の寝ているはずの場所だったからだが、この様子だともう皆、とっくに起きているということだろう。
しかし一先ず、目的地は変わらない。早速文化祭の準備を始めるとしても、展示グループとしては体育館裏の倉庫に置いておいた空き缶を取りに行くか、あるいはすでに他のメンバーがそれをやってくれている場合、皆と合流しなければ、事は始まらない。
そして蓮が体育館へと向かう途中、廊下を歩いていたところ、
「もう蓮くん、遅いよ!」
目の前に、雪乃が立ちはだかった。雪乃はいかにもぷんぷんという音がきこえてきそうな様子をしており、その頬は大きく膨れている。
「お、おはよう……」
「おはよう、じゃないよー。健くんが寝かせといてやれって言うから待ってたけど、皆一時間前には起きてたんだからね!」
対応を間違えたらしい蓮に、雪乃はますますご機嫌斜めな様子でそう言った。七時半に起きて遅いと言われることなど我が家ではなかったから、正直に言うとこの雪乃の反応は予想外だ。
「一時間前って、六時半じゃないか」
「そうだよー。こんな時間まで寝てたのは蓮くんだけなんだからっ」
疲れているはずなのに、なぜ皆、そんなに早くから起きていたのか。蓮は少し疑問に思ったが、すぐに納得がいった。
それはおそらく、習慣だ。蓮がいつも七時半に起きていたように、他の皆はいつも蓮より早い時間帯に起床しているのだ。
蓮が七時半に起きているのは、三十分ほどかかるとはいえ学校が徒歩で通える距離にあり、それでも十分に間に合うからだ。しかし皆がそうというわけではない。近所に住んでいる小牧や雪乃は単に早起きなだけだと思うが、通学にバスや電車を利用しなければならない生徒が大半で、そういう人たちは自然と起床時間も早まる。染み付いた習慣はなかなか崩れないということだ。
そしてうんうんと頷く蓮に雪乃はというと、
「もう、おねんねさんなんだから……」
とため息をついていた。その表情は出来の悪い弟でも見るかのようで、蓮は少々居心地の悪さを感じた。
「ごめんごめん。それで皆はどうしてる?」
そう言い終えてはじめて、蓮は自分が話を逸らそうとしていることに気がつく。そして昨夜の小牧の心情もこんなものか、と理解した。
雪乃はそんな蓮に対してまだ不満を残しているようではあったが、一応は蓮の問いかけに答えてくれるようだ。
「えっと……。会長が調理室で皆の朝ごはん作ってて、あと副会長が追加の食糧集めに行ってるらしいよ」
「へえ」
「来栖くんは死んじゃった皆を探し回ってて、皆瀬くんはちょっとよくわからないや」
「そっか」
「私はグループの皆で文化祭の練習をしようってなったから、図書委員長を呼んでくるところ」
雪乃の話をきいていて、朝から慌ただしいなと蓮は思った。しかしこれからはこの光景が日常になっていくのかもしれない。変化を嫌がる蓮にとってこの絶望の巣食う世界は地獄でしかなかったが、皆が希望を抱き立ち直ろうとするこの毎日に、いつか慣れていければいいと思う。
「ところで蓮くん、健くんは見てないよね?」
「小牧? 見てないけど何で?」
「用事ができたとか言ってさっき急にどっか行っちゃって……。もし会ったら早く体育館に戻ってくるよう言っといてほしいんだー。じゃないと皆で練習始められないから」
「わかった。会ったら言っとくよ」
「うん、ありがとー」
蓮が頷くと、雪乃は軽く礼を述べ走り去っていった。その後ろ姿に蓮は、忙しそうだな、などと他人事のような感想を抱いた。
しかし、それは蓮も同じことなのだ。
空き缶アートをするうえで、これからやることは多い。まずは全ての空き缶のプルタブを剥がさねばならない。そしてそれらを洗い、乾かすというのが次の作業だ。ここまででも十分な作業量だが、ここまでしてやっと準備が整うといったところで、やることはまだまだある。その後は穴を開けて針金に通し、空き缶を繋げていき──。
──結構、大変だな。
自分で言い出した企画ではあるが、蓮はそのハードなスケジュールに、思わずため息をついた。
もちろん期間は二週間もあるため、時間的には問題ないと思われる。しかしやることが多く、ステージイベントに使う衣装のペイントもしなければならない。いかにして皆の意欲を保てるかが問題となってくるだろう。
「それに空き缶アートっていっても、どんな形を作るかすらまだ決まってないわけだからなー。んんー、どうするか……」
そんな風に思案をしているうちに、蓮は体育館に着いた。しかしそこには展示グループの面々はいなかった。
体育館には睡眠を取るために敷いたと見られる段ボールが所々にあり、ステージ上ではステージイベントグループのメンバー数人が話し合いをしている様子で、他には誰もいない。
それならばと、今度は集めた空き缶を取りに行くべく体育館裏の倉庫に向かった蓮だったが……。
「おい、六神……」
倉庫の前まで来ると、展示グループのメンバー数人が入り口を囲んでいた。しかし彼らは異様な雰囲気を漂わせており、そしてその一人である皆瀬は、蓮が来たことに気づくなり、深刻な表情をこちらに向けた。
「え、どうしたのさ……」
蓮はたずねたが、彼らはただお互いに顔を見合わせるだけで、返事はない。そんな彼らの顔色は明らかにおかしく、絶望に満ちた様子だった。
中には腰を抜かしている者までおり、訳もわからぬままそんな彼らの側へと駆け寄った蓮は、次の瞬間、言葉を失った。
「……は?」
半分ほど開いたスライド式のドアの向こうには、暗闇のなか、鮮血にまみれて項垂れる小牧の姿があった。




