第十一話 二人の距離③
──それにしても……。
シャワーを浴び、身体についた血を丁寧に落としながら、蓮は今日経験したことを思い出していた。時間にすれば今でおそらく三時間経つか経たないか、といったところだろうが、もっと長く感じた気がする。自棄、恐怖、絶望。きっと色々ありすぎたからだろう。
こんなことがなければもっとふつうの一日を過ごせたのにと思いつつも、それは考えても仕方のないことだと自分を納得させながら、蓮はシャワーを止めた。
「六神くん、もう終わりましたか?」
洗い終えたちょうどそのタイミングで、シャワールームのドアの開く音とともに、個室の薄い壁一枚を隔てて藤咲の声がきこえてきた。
「うん、ちょうど今」
「そ、その、制服の替えと下着をこの近所に住むクラスの男子に頼んでいるところなので、少し待っててください」
「わかった……。ところでさ、後で話があるんだけど」
思い出したように、蓮は約束をつけておこうとした。しかし藤咲からは返事がなかった。そしてその空間には水の滴る音のみが響き渡り、その静寂に蓮は、ただ水滴の落ちる回数を数えながら返事を待つことしかできない。
やがて蓮が、彼女がきき逃した、あるいはシャワールームから出ていってしまった可能性を考えもう一度問いかけてみようとしたところ、
「あなたも、やりたいんですか……?文化祭」
おそるおそる話す藤咲の声が、きこえてきた。そしてそんな彼女の言ったことは蓮の言いたかった話題であり、おそらく彼女もそれに気づいていたのだろうと蓮は思う。きき逃したわけでもここから出ていってしまったわけでもなく、口にすべきか迷っての沈黙だったのだろう。
「私も本当はですね、やること自体はいいと思っています」
「……えっ?」
蓮は思わず耳を疑った。藤咲の発言は、銀次と口論していた者のそれとはとても思えないものだったからだ。しかし壁の向こうの彼女には困惑する蓮の様子は伝わらなかったようで、彼女はお構い無しに話を展開していく。
「文化祭に限らず、一丸となって何かに取り組むことは皆が前を向くきっかけにもなります。インターネットで呼びかけて他の生存者を集められる、というのも同意です」
「だったら──」
いいじゃないか、そう言おうとした蓮の言葉はその寸前、
「ですが」
という藤咲の一言によって遮られる。
「私は今のあなたたちが文化祭を行うことには反対です。やっても失敗するだけです。無駄、それどころかむしろ逆効果にすらなりかねません」
「何でそんなこと……」
「何で? そんなの決まってるじゃないですか! 今のあなたたちには現実が見えていないからですよ!」
藤咲の声は狭いシャワールームのなかを響き渡り、そしてその反動として一瞬、部屋は静まり返る。
「そんなことは……」
ない。そう言おうとしたがなぜか、蓮は言葉に詰まった。
「いいえ見えていません。理想を抱くことと現実を見ないことは違うのですよ?もし仮にあなたたちが現実を見ているというのであれば、山積みの問題に対する解決案でも出してみてくださいよ!」
「それは……」
「あちこちに転がる死体の処理はどうしますか?費用は?人員は?そもそも今の状況で、何ができると思いますか?」
「……」
藤咲の発言はもっともで、蓮は自分の甘さを実感した。自分たちは現実からも目を背けていないつもりだったが、それでも理想を求めるあまり、現実を軽視してしまっていたことは否めない。たしかにこのままでは、たとえ文化祭を開催することができたとしても、失敗してしまう可能性の方が高いのだろう。しかし──。
──なら、やらないという選択肢はあるのか。
「ない」
ぼそりとそう呟いた蓮に今度は藤咲が黙った。
「たしかに俺たちは甘かったのかもしれない。現状、文化祭って言ったってできることはほとんどないし、思い描いてたよりもずっと現実的なプランを考え直さなければならない。けれど……」
「そんなに、やりたいのですか」
藤咲の挟んだその言葉に、少し違うと蓮は思った。たしかに、やりたいという思いがあるのは明白だが、今ではこんな思いの方が強い。
「やらなきゃ、いけないんだ。どんなに些細なことになるとしても」
それが蓮の本音で、それ以上のことは何も言えない。最初は藤咲を説得しようと考えていたが、今ではただ、自分の思いを述べているだけだった。具体的に、何か実行可能な計画を明示できたわけでもなく、彼女を説得する材料は皆無だった。
「はあ……」
やがて壁越しに藤咲のため息がきこえてきた。呆れたという様子のそのため息に蓮は一度、説得を諦めるしかなかった。
──文化祭はやるしかない、だから皆と話し合って現実的なプランを練り直して、それからもう一度彼女を説得しよう。
しかしそう考えていた蓮にとって、そのあとの藤咲の言葉は思っても見ないことだった。
「どうしてもやるというのですね……。止めてもきかないでしょうし……、でしたらせめて、私が指揮を執りましょう」
そしてその直後のこの狭い空間のなかでは、
「へ?」
という情けない蓮の声だけが、響いていた。




