第十話 二人の距離②
顔も見ずに一言だけ発したあとの藤咲は、じつに静かなものだった。藤咲はあたかも蓮の存在に気づいていないかのように、黙々と調べものを続けていた。そして話しかけるなとでも言わんばかりのその様子に、蓮は声をかけられないでいた。しかし、
「何も言わないのですね」
一分ほど続いた沈黙のあと、藤咲が本を閉じながら言った。
「えっと」
「あなたはいつもそうです。自分から近づいてくるくせに、必ず一定の距離を保とうとする。それはあのときもそうでした。」
そう言われて蓮は、藤咲の言う『あのとき』を思い出し、答えにつまる。彼女に対して苦手意識、というより引け目を感じたその出来事は、お互いに水に流したはずだったのだ。
なぜ今そんな過去の話を持ち出してきたのか。それがわからず蓮が何も言えずにいると、
「まあ、いいですそれは。で、何の用ですか?」
藤咲はゆっくり席を立ち、蓮のいる方に振り返った。彼女の長く艶のある黒髪はわずかに揺れ、トレードマークの白いカチューシャがこちらを向く。そしてそんな彼女の美しく整った顔は、
──ん?
「きゃあああああーっ!!」
一瞬にして、恐怖の色に染まった。そしてほぼ同時に彼女があげた甲高い悲鳴に、蓮も思わず身を竦める。
「ど、どうしたのさ……」
「そ、それはこっちのセリフです! 何で血だらけなんですか!?」
震えながらこちらを見る藤咲の様子に蓮は、またこの展開かと思いつつも説明を始める。
「えっと、これは俺の血じゃなくて、人の血がかかっただけというか……」
「人の血が、かかった……?」
「うん」
「それはつまり……、あなたが怪我をしているわけ、ではないということですね……?」
「うん」
彼女も一応身は案じてくれるらしく、説明を終えると藤咲はほっと胸を撫で下ろし、その表情にもわずかに安堵の色が伺えた。
そして蓮はそのタイミングを見計らって本題を切り出そうとしたが、
「って、安心してる場合ではありませんでした! 早く行きますよ!」
藤咲は急に表情を変え、蓮の腕をぐいと掴む。そしてその腕を強引に引っ張りながら、彼女は歩き出す。
「ど、どこ行くのさ」
「シャワーを浴びに行くに決まってるでしょう! 身体中に、それも頭や顔にまで血がついているんですよ? いつまでも汚れたままでいるつもりですか?」
「え、いや、そうだけどさ。調べものはもういいの?」
「調べても無駄だと分かったのでもういいです! さっさと行きますよ!」
藤咲が向かっているのは、おそらくシャワールームだ。
校舎の二階に位置するここ図書室の真下には職員室があり、その隣にはシャワールームがある。この学校は部活動にも力を入れていたこともあり、朝練習を終えた生徒たちが汗を流す目的で作られたものだ。
──それをまさか、血を洗い流すために使うだなんて。
せっせと歩く藤咲に連れられて図書室を出た蓮は、階を下り、職員室の前まで来た。シャワールームを利用する際、ふだんならば教員の許可を得なければならなかったが、今は非常時。藤咲は職員室には目もやらず、シャワールームのドアを開けた。
「さあ、洗い流してきてください。そのあいだに制服の方は洗濯しておきますから」
いつまでも汚れたままでいるわけにもいかないし、身体についた血をきちんと洗い流すことは必要だ。それは理解した。しかし蓮の頭には一つ疑問が残る。
「えっ?」
「ああ、シャワーなら問題なく使えますよ。現時点では幸いにも、水や電気、ガスなどのライフラインに異常はないみたいですし」
「いや、そうじゃなくて!」
「……。み、見ませんよ!? ぬ、脱いでるところなんて!!」
「そうでもなくて!」
じゃあ何だと言いたげな顔の藤咲に、蓮はたずねる。
「洗濯するの?」
「当たり前じゃないですか、汚れてるんですよ」
「そうだけどさ。でもそれじゃあ乾くまで、俺は何を着ておけばいいんだ?」
言われて初めて、はっと気がついたような顔をする藤咲に、蓮は思わず、ふっと吹き出した。堅苦しい雰囲気の彼女ではあるが、その中身は実はそうでもないということを、思い出したからだ。
「な、何ですか、そんなに可笑しいですか。シャワー浴びてるあいだに用意しときますから、早く洗い流してきてください」
そう言うなり、藤咲はシャワールームを出ていった。蓮は説得を後回しにして、大人しく彼女の言うとおりにすることにし、
「服、ここに置いておくから」
とだけ言って服を脱ぎ、設置された個室の一つへと入っていった。




