二人の微妙な距離
「にひゃくはち……にひゃくきゅう……にひゃくじゅ……う」
朝五時半。学園から少し離れた砂浜。朝早いせいか辺りは静まり返っていて、腕立て伏せをしている秋久の声が聞こえてきた。顔からは汗が噴き出していて彼の周りの砂はかなり湿っている。
「にひゃ……く……にじゅう……さ」
そこまで言いかけて秋久の腕に限界がきた。それに驚いたのか上に乗っていた凛が慌てて降りる。大の字になって息を整えている秋久に凛は「大丈夫?」と声をかける。
「大丈夫。うん、だいじょーぶ」
「そう? それにしてもアキくんすごいよ。今の回数ジェンティーレの平均普通に超えてるよ。しかも私を背中に乗せて」
凛はまるで自分のことのようにうれしそうだ。
「それにしても最近は毎日こんなことしてるの? 急にどうしたのよ?」
「なんて言うかスクルータでも強い人がいることを知ったからあきらめるのは早いかなって」
「ふーん。それで腕立て伏せとか筋トレをしてるの?」
「僕には……その……明確な戦い方っていうのかな? そういうのがまだないからそれが決まった時のために鍛えておこうと思って。なにをするにしても体が資本だからね」
凛はその言葉が気に入らないようで頬を膨らました。それを見た秋久に「どうかしたの?」と聞かれたがいつもの笑みを浮かべ対応する。
「ううん、なんでもない」
とはいっても今のは作り笑いだ。スクルータだったことを知らされてすごく落ち込んだ秋久が立ち直ったことはいいことだとは理解しているし凛自身もうれしい。しかし秋久が努力する気になったのは蓮華のおかげなのだ。
それが凛は気に食わない。秋久に手を差し伸べたのが自分じゃないことが何よりも悔しかった。
◆
ピピピピピッ――という時計の音で今日もフィルミネスは目を覚ます。もう少し眠っていたそうに細くなっている目をこすりながらベッドから起き上がる。カーテンを開けるといつもの晴れ晴れとした光が部屋を照らした。
「シャワー……浴びよ」
そう言ってシャワー室へと向かい一枚一枚服を脱いでいく。女の子ならだれでも憧れるような白い肌、年相応に隆起した胸元――そんなフィルミネス・シオンという女性としてのパーツがあらわになったところでシャワー室の扉を開けた。
頭のてっぺんからつま先まで、睡眠中に掻いた汗を洗い流す。自慢の赤い髪の毛は特に入念に洗っていく。
シャワーを浴びているといろいろなことを考えてしまう。考えなくてもいいことまで。例えば……
「私、あいつに胸さわられたんだよね……」
◆
フィルミネスは凛とカルミラと一緒に食堂で昼食をとっていると、いつも通り秋久が三人に声をかけてくる。
「やあ。一緒にいいかな?」
「アキくん、ここ座っていいよ」
凛はどうぞと言わんばかりに自分の隣を勧めている。まあ、いつものことだからもう誰も何か言うつもりはない。
「あれ、蓮華は? 今日、一緒じゃないの?」
「ああ。レンなら授業中に寝てたからって先生から呼び出しを食らってるよ」
「まったくもう、あいつは。全然変わんないわね」
そう言ってフィルミネスはため息をする。それを横目で見ていたカルミラが口をはさむ。
「蓮華を探してキョロキョロしてたんだ」
「べ……別に蓮華なんてさ……探してないし!」
「てっきり、いまだに王女様はこういう大衆食堂みたいなものがなれないのかと思ってた」
「まあ、最初は驚いたりもしたけど何回も通ってれば慣れるわよ」
秋久はフィルミネスの身分のことを知らなかったのか口をぽかんと開けている。
「アキくんは知らなかったんだっけ? フィーちゃんってこう見えて王女様なんだよ」
「へー。す、すごいね。知らなかったよ」
ここで秋久は何かに気付いたように目を大きく開いた。
「ということは、レンがフィールと結婚したらもっと怠惰になっちゃうね」
「なんであいつが出てくるのよ」
「なんでって……フィール、レンのこと好きなんじゃないの?」
「え? なんでそういうことになってるの?」
フィルミネスは冷めた表情をする。彼女以外の三人はあまりにも予想外の反応に思わず疑問符が頭の上を飛び交った。
最初に凛がその疑問を口にする。
「なんで? よく霧ヶ谷の前で赤くなってるじゃん。ほら、この前あいつに褒めてもらってたときとか」
「あ……あれは、素直にうれしかっただけで!」
次に、カルミラ。
「今だって食堂の入り口をジロジロ見てる」
「それは……ただ、あいつが来たときみんな食べ終わってたらかわいそうだなーって」
最後に秋久。
「胸、もまれてたし」
「あ…………あれは! もう不可抗力ってことで話はついてるし」
凛、カルミラ、秋久と続いている証拠の提示に恥ずかしくなったのか机に突っ伏してしまった。少しして顔をあげると、フィルミネスはもうあきらめたような顔をしている。
「まあ確かに、胸を触られたせいか変に意識してる感じはあるけど……さっきも言ったようにそういう好きではないと思う。なんていうかすごい人だなぁとかって思うし。しいて言うなら私は蓮華のことが好きなんじゃなくて尊敬してるって言った方が正しいかも」
ほか三人はだまっている。一言も発さずに聞き入っていた。
だまられると私、すごい恥ずかしいんだけど――と心の中で突っ込んでいると、
「僕、感心したよ。フィールも乙女チックなところがあるんだね」
「なんかよくわかんなかったけど、そういうところから恋が始まるんだと、あたしは思うよ」
「師弟関係。愛の形は人それぞれ」
三人は自分なりに納得はできたようで何回もうなずいている。
しかしフィルミネスは一人涙目になっていた。
「違う! 別に好きじゃないって言ってるでしょ! そんなとこから恋なんか始まりません。愛が人それぞれなのは認めるけど私とあいつは師弟関係なんかじゃないから!」
「「「なんか? ってこ・と・は……」」」
「違うって言ってんでしょ!!」
食堂中に響き渡るほどの大声でフィルミネスは否定する。と、そんな時、
「お前らなに騒いでんだ?」
フィルミネスは声が聞こえた方向を見た。そこには先生からのお叱りを終えたらしい蓮華が昼食のお盆を立っていた。
蓮華はフィルミネスの真っ赤な顔を見る。
「おまえ顔赤いぞ。どうした?」
「別になんでもない」
「……あ! わかった。お前、好きな人ができたんだろ。それでアキたちにガンガン聞かれて恥ずかしくなってんだろ。うんうん。そうだよなー、お前も女子高生だもんな」
「…………だから……違うって……言ってんでしょぉぉぉ!!」
フィルミネスは反射的に炎を出してしまう。それを見て蓮華は首をぶんぶんふりやめろとジェスチャーする。しかし、時すでに遅し。
蓮華の昼食に被害が及んだ。
「あぁぁぁぁぁぁ! 俺の昼飯がぁぁぁぁ…………ってご飯におこげできてる」
◆
この日の帰り道、秋久は思い切って蓮華に聞いてみた。
「は? フィールことをどう思ってるか? いきなりどうしたアキ」
「いや、ただの興味本位だよ」
蓮華は疑いの目を向ける。じっと見つめられ秋久は思わず目をそらしてしまった。
「まあ、いいか」
その言葉を聞き秋久は安堵する。
「友達だと思ってる」
「え? 友達?」
秋久は聞き返してしまう。蓮華もたびたびフィルミネスの前で恥ずかしがっていることがあったためもう少しおもしろい答えを期待していただけに秋久は少し残念に思う。
「だって別に何かしたわけでもないし。友達以上の関係になるようなことは起こってないだろ」
「じゃあ、僕や凛との関係と同じってこと?」
「まあ、そうなるな」
少しは意識していてもおかしくはないだろうと考え秋久はもう少し踏み込んだ質問をしてみた。
「じゃあ、もしフィールがレンじゃない男の人と仲良く話してるのを見たらどう思う? 少しは嫌な感じがするんじゃない?」
「なんで? そいつが誰と付き合おうがそいつの勝手だろう。俺にどうこうできるものでもないし、友達ならむしろ祝福してやるべきなんじゃないのか? 知らんけど」
フィルミネス、凛、カルミラの三人は二人の会話を秋久の携帯端末越しに聞いている。けっこう真剣に。
「って言ってるけど、フィーちゃん」
「まさにその通りね。私たちは友達以上の関係になんかならないわ」
そう言ってフィルミネスはそっぽを向く。そんなことはわかりきっていたことだとでも言いたげに……
「でもフィール、今少し悲しそうな顔した。本当はもっと蓮華にかまってほしいんじゃないの?」
「別に、そんなことは……」
カルミラの意表を突いた言葉にフィルミネスは口ごもる。そんなフィルミネスを見て凛は一人ニヤニヤしている。
「あ、二人とも、話はまだ続くみたい。ちゃんと聞こ」
「そんなことは置いといてさ俺、お前らといるときすっげー楽しいんだよなぁ。本当に新鮮でなんかおもしろい」
「新鮮? どうして?」
蓮華は立ち止まり夕日を見つめる。自分たちの関係について聞かれたせいか、黄昏時の雰囲気のせいかはわからないが蓮華は少しだけ自分ことを話そうと思った。
「俺さ、ちょっと家の事情……みたいなもので中学行ってないんだよねー。だからここ数年、同世代のやつらと話すこと自体なかったんだ。だから今は毎日が刺激的だ」
蓮華はオレンジ色に染まった空を見つめたまま相好を崩して語る。まるで小さな赤ん坊を抱く母親のような優し気な顔で。
「お前らのおかげでくだらねーことだべったり、一緒に飯食ったりすんのが楽しいってわかった。お前らのおかげで俺今、青春してるって感じになれた。お前らのおかげで明日学校に行くのが楽しみになった。お前ら……俺の友達になってくれてありがとな」
二人は沈黙する。
アキ、なんか言ってくれよ! と蓮華は少しだけ今言ったことを後悔した。
「えっとじゃあアキ俺こっちだから。じゃーなー」
そう言って蓮華は逃げるように十字路の陰に消えていった。
「え? あ、うんじゃーねー」
別れのあいさつを済ませると二人は各々の寮に向かって歩いて行った。
「まさかあの霧ヶ谷があんなこと言うとはねー。ちょっと感動してしまった自分がくやしい」
「うん。意外」
凛とカルミラが自分たちの感想を述べるている中フィルミネスは何も言わない。しかし、フィルミネスの考えていることは二人にはよく伝わった。
「フィール、なんかうれしそう」
「なに言ってんの、カル。そんなにうれしくないわよ」
次は凛がフィルミネスの揚げ足をとっていく。
「そんなにってことは少しは嬉しかったんでしょ」
フィルミネスは途端に恥ずかしくなり二人に背を向けて一度だけこくり、とうなずいてみせた。
そんな、フィルミネスは置いておいてカルミラがあることに気付く。
「蓮華、『お前ら』って言ってた」
「「……まさか!」」
「いやーあいつら盗聴してんのばれてないと思ってんのかね」
案の定ばれていたようで、蓮華はしてやったりという風に笑っている。
「それにしてもいきなりあんなことを聞くなんて……なんかあったのか? フィールのことをどう思ってるか、か」
蓮華は自分の右手の手の平を眺める。
「まあ、あいつの胸の感触はそう簡単には忘れないわな」