気の強い小動物と俺(☆)
「ゆるり秋宵」内の「小動物と俺」の二人の話です。
「花とコーヒー」に関連していますが、未読でもお楽しみいただけると思います。
原田さんと付き合い始めて、そろそろ六ヶ月。
女々しいかもしんないけど、見てくれに反して俺はアニバーサリー男だ。だから毎月『今月で何ヶ月』ってカウントしてる。
でも原田さん――お付き合い始めてからは唯子さんて呼ばせてもらえてる――は、見た目に反してさばさばしてるので、あんまりそういうのを気にしないみたい。俺が、ホワイトデーのお返しをどうしてもその当日に渡せず謝っても、怒ったりすねたりしなくて、『あ、そう云えば今日ホワイトデーだったね』といったあっさり具合。
俺より小っちゃいし、一見か弱く見えるけど一人暮らししているせいかなんだって一人で出来ちゃう。スーパーで色々お買いものして荷物になってよしここは俺の出番だと思っても『カートで車まで運ぶから』と断られるし、雨の日に相合傘をときめきつつ持ちかけても『いいよ、私も傘持ってるし。二人で一つの傘に入ったら濡れちゃうでしょ?』ととっても現実的だ。
しっかりしている人なのは知ってたし、そこに魅かれもした。でも、俺はね。
もう少し、あなたに近付きたい。
多分今の自分は、いつもよりセンチメンタル成分が多い。春だからかな。必要以上に、感情が動いてる気がする。
彼女と二人きりの時に、『好きよ』って云われると、泣きたくなるほど嬉しい。
彼女と別れる時間は、泣きたくなるほどさびしい。
これが春先の情緒不安定マジックなら、早く冷めて欲しいと思う。まやかしの気持ちならいらない。ほんとの気持ちだけで、彼女に向かいたいから。でないと、あの人にいつまでたっても釣り合う気がしない。
仕事でもプライベートでも、俺からお願いする事って多々ある。見積もりで分かんないとこあるから教えてくださいだとか、今日、俺泊まっちゃ駄目ですかとか。
でも、彼女の方から何かを請われる事ってない。――俺が頼ってるのと同じ分だけを頼られてない気がする。いや、同じとかこだわるのは馬鹿らしいと思うけど。
付き合いたての高揚感が落ち着き始めた頃から、だんだん自信がなくなってきてる。ほんとに俺、彼氏ポジションに居座ってていいのかなとか。
同じ会社で年下だから懐具合はシースルーで、奢らせてもらう機会は今のところあまりないし。付き合い始めて○ヶ月アニバーサリーをお祝いしようと思ってもそもそも向こうは『あ、そうだっけ?』ってくらい、意識してないし。
そんな泣き言を北条相手に漏らすと、奴は遠い目をして「お前からそんなリア充トークを聞く羽目になるとは……」と感慨深げに云った。
「どこがだよ、充実なんて夢のまた夢だよ」
「恋に盲目な男はいやだね、お前原田さんと付き合う前『嫌われてるかも』ってめそめそしてたくせに」
「……それはそれ、だよ」
「ダブルスタンダードは女子に嫌われるぞ」
「唯子さんに嫌われなければ別にいい」
「ああそうかい」
俺の言葉に、北条はケッと云う顔をした(そんな顔も、同性ながらにドキッとするほど絵になる)。
残念ながら唯子さんには頼られていない俺だけど、唯一胸を張って彼氏らしいと自負しているお仕事が、ある。
朝、俺たちは会社の駐車場で待ち合わせしてる。俺が早く着く事もあるし、むこうが早い時もあるけどせいぜい誤差はプラスマイナス五分程度のもの。
車を所定のスペースに入れると、俺はすぐ隣に停まっている唯子さんの車に向かう。そして、コンコン、と軽くノックしてから、運転席の扉を恭しく開ける。静電気で一年中パチパチに悩まされてる彼女に代わってドアを開け閉めするのが、彼氏になってから任せてもらえている俺の役目だ。
彼女はいつも小さく「ありがと」ってお礼を云ってくれる。それが、嬉しい。毎朝こうして俺をいい気にさせてから彼女は車を降りる。
「おはよう、亮太君」
「唯子さん、おはよう」
もう、逸らされない目と朝イチでの彼女の笑顔に、顔が緩んでしまう。するとさっそく「こら」と叱られる。
「デートじゃなくこれから仕事なんだからね」
「はい、ちゃんと公私分けます、でも」
「でも?」
「……エントランスくぐるまでは、彼氏でいさせてください」
「もうっ、公私分けられてないじゃない!」
そんな風に云うけれど、彼女は今日も俺のお願いをつっぱねたりしない。はい、と差し出した手に、俺より小さくて俺より体温の高い唯子さんの手が、頬ずりする猫のようにするりと忍び込んでくる。
会社なので、誰かが通りかかればその時点でカレシカノジョモードは強制終了だ。別に隠したりしてないからバレバレなんだけど、そこは社会人なので。
だから俺は『どうか誰も来ませんように』と毎朝お祈りしてる。祈りは通じる時もあるし、連敗になってしまう時もある。
今日はラッキー運勢なのかいかなる邪魔も入らず、エントランスをくぐってのち、名残惜しく思いつつ手を離した。
離す速度が同じくらいゆっくりに思えるのは、俺の頭が湧いてるせいじゃないといい。
「あーもー好きすぎて困る……」
金曜の夜、同僚の北条を誘って飲みに行った。唯子さんはお友達と食事に出掛けていて、この日は会えないと云われていたから。
以前は泣き言を吐かせてもらっていた金曜日の飲み会だけど、両思いになってからはデレデレトークや、この間のような北条曰くリア充トークばかり。今日もうっかりこぼした頭の中身を北条に呆れられてしまった。
「まあ、何にしてもよかったよ、幸せみたいで」
ずっと俺の片思いを見守ってくれてたこいつは、なんだかんだと口を出してくるけれど基本優しい。
「おう」ってビール飲みつつそこだけはちゃんと肯定しておくと、派手なつくりの顔でにっこりされた。細かいキラキラが奴の後ろで流れたように思えるほどのゴージャススマイルに今までは『おお』と驚嘆しただけだったのに、今の俺ときたら。
「……北条、唯子さんの前でその笑顔見せんなよ」
「わー、心せまっ」
北条が苦笑交じりに放った言葉は、俺の痛いところに的確に刺さった。
独占欲は、いっちょ前。
それに見合う心の広さも、欲しいところ。きっと、彼女に相応しい男なら、色んな事をおおらかに受け止めて流せるんだ。
こっちが後生大事に抱えてるアニバーサリーは心の片隅にでも置いといて、社内一の色男のとっておきの笑顔を彼女に向けられても余裕の態で流せるような。
――自分と、まるで反対だな、余裕があって。
僻みついでにジョッキの中へそう呟くと、「バーカ、そんなもんある訳ないだろ、水面下でめちゃくちゃもがいてるっつーの」との答えが返ってきた。そうか、そうだよな。
にしたって、水面下へ隠す余裕もない、そんな自分の必死さが恥ずかしい。
わが社もご多分に漏れず、桜の季節には近所の大きな公園でお花見をする。例年なら金曜に催されるけれど今年は週末まで待つと時期を逃してしまうという事で、桜と空模様に合わせて急遽月曜開催となった。
さすがに場所取りをするほどの下っ端ではないけれど、長く新卒の後輩が入らなかったうちの支社では、ビールやらお弁当やらを発注したり配ったりする程度にはまだまだ下だ。
酒宴が始まると、俺たちは酒が足りないとあっちに呼ばれ、空いた缶を下げろとこっちに呼ばれ、ブルーシートの上であたふたと動いてた。唯子さんは『イチ抜け』ポジションなので、同期の人らと笑っておしゃべりしながらお花見を楽しんでいる。
傍に座って声を聞いていられないのはさびしい。でもああやってゆったり楽しむ時間を自分が提供しているのだと思えば少しは疲れも紛れた。
参加社員にお弁当とアルコールが十分に行き渡れば、補給係の俺たちもやっと腰を据えられる。だいぶ出来上がっている先輩や上司の声をBGMに、北条や他の同期や後輩たちと飲み始めた。せめて最初くらいはきちんと見ようと提灯でライトアップされた桜を見上げていたら、後輩の女子に「村上さん、原田さんと付き合ってるんですよね?」って聞かれた。
「そうだけど」と云うと、やっぱり女子はそう云うネタが好きなのかわらわらと集まり唯子さんとの事を俺たちは芸能人かと思う程細かく聞いてきた。一つ一つこれは教えていいか、ノーコメントにするかをじっくり吟味しつつ答えれば、そのつど「リア充め!」「滅びろ!」と男女問わず飛んでくる罵声を浴びせられる。またそれを北条はニヤニヤ笑って聞いているだけだし。役に立たないホスト系イケメンだなお前。
散々いじられ、居たたまれなさや恥ずかしさをごまかすために杯を重ねていたら、解散する頃には当然ながら酔いが足腰に来た。ふらふらしながら立ち上がると世界が緩やかに回っている。――唯子さんは、彼女も相当飲んでいたのにいつも通りしゃんとしてて、その姿はオコジョの立ち姿みたいにかわいい。ああこの人俺の彼女なんだよなあ、なんてしみじみしながら見つめてたら、よくない飲み方をした同期の男に突然「なんでお前に彼女がいて俺は独り身なんだよー!」と八つ当たりの言葉とともに体当たりされた。酔いもあって簡単によろめいたその先には唯子さんと同じくらい体が小さい同期がいて、避ける余裕もなくぶつかってしまった。すると彼女も俺と同じようにバランスを崩し、それだけでなく足首までひねってしまったらしい。
「ごめん、ほんとごめん!」
「ううん、私も道の真ん中でぼーっとしてたからごめん」
そう笑ってくれたけれど、酒もそれなりに飲んでいたし、おそらく相当痛いと思う。これは秋にひどい捻挫をした自分には分かり過ぎるほど分かる。
「夜間救急やってる病院行くか?」
「いいよそこまでしないで」
救急病院を検索しようとしたら慌てて止められて、でもそのままではおけなかったので、缶ビールを冷やしていたクーラーボックスから保冷剤を出して濡らしたハンカチに包んで渡しながら、「タクシーでうちまで送るから」と告げた。
「え、いいよいいよ原田さんに悪いもん」
「じゃあ、唯子さんも一緒にタクシー乗ってもらう。それならいいか?」
「うー、なんかごめんね」
「いや、こっちこそ」
怪我させた挙句に気まで遣われてしまった。『気ぃ遣いの桂ちゃん』と同期内で呼ばれてるだけある。
少し離れたところにいた唯子さんを呼んで事情を話すと、「分かった」と快諾してくれた。それどころか、痛みで片足がまともに着けない彼女を俺と同じように横から支えてタクシーに乗せてくれた。デカい俺が助手席で、女性二人が後部座席。
「亮太君、明日の朝必ず桂ちゃんを病院まで連れて行って、帰りはおうちまで送ってね。明日だけじゃなく毎日ね」
唯子さんのその言葉に「え、いやいやいやいいですって」と同期は固辞するけれど、俺の唯子さんはそれで引くような人ではない。
「だって桂ちゃん、今歩けてないじゃない」
「そうそう、明日お医者さん行ってテーピングしてもらえば、少しは歩くとき楽だから」
俺も便乗して自身の体験から云うと、「何かもうほんとごめんなさい……」と同期はしょぼくれてしまう。
「桂ちゃんが謝る事じゃないでしょ、この人がでっかくて筋肉で重いのが悪いの。北条君みたいに細身なら、ぶつかられても足捻らなかったかもしれないのに」
「……唯子さん、それもどうかと思う」
「あはは、原田さんけっこうひどい!」
ようやく同期を笑わす事が出来て、二人してホッとした。
同期をタクシーから下ろして部屋まで送る。次に向かうのは唯子さんのおうち。
再び走り出す前に後部座席に乗り込み、「唯子さん、ありがとう」と俺よりちっこい、えくぼのある手を繋ぐ。当たり前のようにきゅ、と繋ぎ返されるのがひどく嬉しい。
「何がありがとう?」
「さっき、毎日送るように云ってくれたから」
車を持っていないあの同期では、通勤も通院もきっと大変だ。でも俺から申し出たらまた彼女は気を遣うし、唯子さんもいい気はしないかと、そんな風に思ってた。
「去年の秋に亮太君が大変だったの、見て知ってるから。ちゃんと責任持って送って来てね」
「うん」
車の運転は出来たし自宅棲みだからそこまで大変じゃなかったけど、でもやっぱり足首の捻挫と腕の打撲では通常の生活は難しく、唯子さんは毎朝会社の駐車場から俺の机まで荷物を持ってくれたり――おかげでお付き合いを始めた事は即座に周知された――、夜は『まだお酒飲んじゃだめだからね』とメールで釘を刺してくれたり、たくさんたくさんお世話してくれた。
あれがなければ、俺たちは始まらなかった。だから、痛くて大変だったけど、それだけじゃなくてとても大切な出来事だった。
思い出してたら「何ニヤニヤしてるの」って、唯子さんが緩んだ俺の顔を覗き込む。
「唯子さんとの始まりを思い出してた」と答えたら、顔を赤くしてそっぽ向いてしまった。座面に置いた手は、繋いだまま。
ああ、今日が月曜じゃなければ、思うままキスもハグもそれ以上もして、腕の中に小さな彼女を閉じ込めて次の朝を迎えられるのに。それで、朝になったらいつの間にか抜け出した彼女に鼻をつままれて『もう起きなよ、朝ごはん出来てるよ』って叱られながらキスしてもらえるのに。
「早く週末にならないかな」と我ながら浮かれた声で漏らしたら、正しく意図を読んだ唯子さんが、「なりません」って小さい声ながら鋭くびしっと俺につっこんだ。そのくせ、「土曜日に、お邪魔してもいいですか?」と念押しするように聞いてみれば、「桂ちゃんを病院に連れて行ってからね」なんて云ってくれるから、俺の頬はやっぱり緩んでしまう。
翌朝から、さっそく送り迎えを始めた。まともに歩けないくせに「大丈夫なのに」と不満げな同期だったけど、病院で全治二週間との診断を下されたあとは「お世話になります」と素直に送迎されてくれる事になった。その微妙に長い期間、買い出しに行かないで生活するのは不可能だ。なので、定時で仕事を上がった同期を病院へ送ったあと、時折自宅であるアパートには直行せずに「買い出しもついでにしておいたら」とスーパーへ車を走らせると、「ちょっと、村上君気の利き方が尋常じゃないんだけど!」なんて大げさに喜ばれた。
「捻挫の辛さはよく知ってるから」
「ああ、あの運動会の」と、すぐに思い出されてしまうそれ。きっと、この会社にいる限りずっと云われるんだろうな。
気ぃ遣いな同期は、二人きりで唯子さんが気を悪くするんじゃないかと思っているらしく、「ほんとに大丈夫?」と何度も聞いてくる。だからその都度「大丈夫だよ」と云うのだけれど俺の云う事にはどうも説得力がないらしく「ならいいんだけど」といつも言葉とは裏腹な顔をされた。
――大丈夫な筈だ。だって、送迎するように勧めたのは彼女だ。それに、さっぱりした人だし。
そう思っていた俺だけど、だんだんに自信は薄れていく。
背中を押してくれた彼女と、接点が少なくなっている事に気付いたからだ。距離を置かれている、と思う。
最初は、気のせいかと思った。でも、五時でいったん同期を送るために会社を出て病院経由でアパートへ送り届けてから帰社して、やりかけだった仕事を再開するといつもは残業中にチョコレートをくれたり、『お疲れさま』って声を掛けてくれる唯子さんが、気が付けば先に上がっていた。朝は同期を会社へ連れてくるので、当然いつものようにきっかり同じ時間での出社は出来ない。今週は平日の夜どこかへ出かける予定もなく、つまり唯子さんとは事務所内でただの同僚としてしか会えてない状態だった。
それでもこの時は仕事に関する事では普通に会話出来ていたせいもあってまだそんなに深刻には受け止めず、俺から出したメールにいつもならすぐくれる返信が『ごめんね、寝てて気が付かなかった』と翌朝に持ち越しても、そうか、お疲れなのかな、なんてのんきに考えてた。
そうじゃない、とはっきり分かったのは、楽しみにしていた週末が『今週はちょっと忙しいから、またにしてもらえるかな』とメールでキャンセルされたから。今までならこういう時、直接話すか電話をもらうかだったので、ただ事ではないぞとようやく分かった。
俺、なんかやらかした?
ストレートにそう返信しても、唯子さんからの返事は『そんなことないよ』だけ。
『大丈夫だから』とさらに念押しされてしまえば、こちらからそれ以上は踏み込めない。
会えないと思えば余計に会いたくなる。会社の中ではお互い普通に接していたから、俺たちがプライベートではまったく会えていない事を知っている人はきっといない。
今度の日曜で丸六ヶ月。あなたに『よく覚えてるね』ってまた呆れられながら二人でお祝いしたいけど、二週続けて避けられるのが怖くて、こちらからはメール出来ないでいた。むこうからも来ないまま、週末がまた来る。
理由もわからぬじまいで会えない現状に、苛立つよりも唯子さんはどうしているかが気になって仕方がない。
このところ雨が降らずに空気は乾燥しているから、車の開け閉めではいつもよりもパチパチに悩まされてはいないだろうか。
彼女の云う大丈夫の裏には、本当はどんな感情が隠れているんだろうか。
平気な顔して背を伸ばして凛と立っているけど、見えないところで一人で泣いてはいないだろうか。
微妙に重たい足で土曜の朝に同期のアパートへ向かえば、やけにかわいい顔をした長身の男(四月なのになぜか半袖)にがっしり手を繋がれて、不本意な顔をした同期がいた。
「おはようございます! 桂さんとお付き合いをしています、徳丸です」
「――はあ。同期の村上です」
「本当は俺が彼女を病院まで連れて行けたらいいんですが店を留守に出来ないので、すみませんがよろしくお願いします」
「分かりました」
あからさまな牽制に苦笑する。俺なんかにも牙を隠さない余裕のなさに、同じ男として共感を抱いてしまう。俺だって、唯子さんに男は近づけたくないと思うから。彼女持ちの北条にだって。
後部座席に乗り込んだ同期が「ごめんね、なんか感じ悪くて」と頭を下げたけど「いやいや、いい彼氏じゃないの」と素直に返す。
俺の言葉に同期はぱっと顔を明るくして「でしょう!」と声を弾ませると、そこから病院までは彼氏トーク一色だった。まったく、恋人に会えてないこっちの気も知らないで、車に乗る直前にハグまでかましてくれちゃって。おかげで、唯子さんに会いたくてたまらない。
混みあう待合室で診察中の同期を待っている間も、その気持ちは一向に収まらなかった。
当初の見立て通り今日を持って通院は終わりとなり、俺は同期を彼女のリクエスト通り彼氏さんのお店まで連れて行く。そのあと向かう先は、当然。
モニターのついていないインターホンを鳴らすと、唯子さんは『はーい』と部屋の中から返事をして、ドアガードをしながら扉を開けた。俺の顔を見て、びっくりしてる。メールも電話もせずに来たから。
「こんにちは」
「亮太君、」
「急に来てごめん。ケーキ買ってきたんだけど、一緒に食べてくれませんか?」
掲げて見せたボックスは、唯子さんの好きなお店のロゴ入り。同期を彼氏さんの花屋で下ろしてから、開店したてのこのお店に立ち寄って買ってきたのはベリーをふんだんに使ったタルトと、ベリーのソースがかかったチーズケーキ。今日もその二大好物のどちらにするか悩んでくれるだろうか。それとも『用事があるから』って云われてしまうだろうか。
唯子さんは少し悩む素振りを見せつつ一旦ドアを閉めると、ドアガードを外して大きく扉を開けて、「どうぞ」って招き入れてくれた。
ケーキのボックスを手渡すと、唯子さんは「ありがとう。お茶入れるね」ってキッチンに立ってしまう。
数分後、湯気がふわふわ生まれてくるティーカップとお皿に乗せたケーキをローテーブルへ置くと、俺と向かい合せに座る。
「久しぶり」
「……うん」
ほんとは、会社で顔を合わせてるんだから久しぶりもへったくれもない。いつもならそう冷静につっこまれる筈なのに、今日はそれもなかった。
テーブルの上で、ケーキにのばされないままの小さな手を、俺が包むとびくっとされた。
「唯子さん」
声を掛けても、恋が始まる前のように顔は逸らされたままだった。
「通院、終わったよ」
「そう、お疲れさま」
「ケーキ食べないの?」
「食べるけど、お腹すいてないから後で」
「俺と別れたい?」
「! そんな訳ない!」
それまで歯切れ悪く返って来ていた返事は、俺のその言葉に激しく反応した。
やっと目を合わせてくれた唯子さんは、少し赤い目をしている。
「じゃあなんで俺、ずっと避けられてたの」
「だって……!」
震えはじめた彼女を丸ごと包みたくて、近づいて手を引くと簡単に胸に飛び込んできた。シャツに縋る手に、ようやく彼女が俺に踏み込んでくれたと分かる。
「……怖かったの」
「何が?」
「桂ちゃん、いい子だから一緒にいたら取られちゃうかもって。でも私は亮太君より年上だし、素直じゃないから『ちゃんと責任持って送って来て』とか云っちゃうし」
小さい声で繰り出してくる言葉は、予想もしていなかったもの。
「会ったら、『ごめん、別れよう』って云われるかもって思ったら会えなかった」
「云わないって! てか、向こう彼氏いるし!」
「え?!」
唯子さんはびっくりした拍子に顔を上げ、目だけでなく顔も赤く染めると再び胸に飛び込んできた。
「唯子さん、こっち向いて」
「無理、恥ずかしすぎる」
「じゃあ、そのままでいいから聞いて」
髪を撫でて、耳元に唇を寄せる。
「いつものかわいいのに何でも一人で出来ちゃうかっこいい唯子さんも、今の唯子さんも好きだよ。俺から嫌いになるとか絶対ない」
「……絶対なんてコドモみたい」
胸におでこを付けたままだから、くぐもった声とふふふ、って笑う息がシャツ越しに伝わってくる。
小さくて、でもしっかりしてる人。今までは、そんな面しか見せてくれなかった。初めて彼女の弱さに触れて、やっとそうすることを許されたのだと分かる。嬉しさのあまり上ずってしまいそうな声は、はしゃぐことでごまかした。
「さて、ここで唯子さんに問題です。明日は何の日でしょう?」
それには『知らない、ただの日曜でしょ?』と返されるとばかり、思ってた。
「付き合って丸六ヶ月記念日。でしょ」
怒ったように早口で、小さく囁く声。
「え、」
「毎月毎月聞かされてたら、こっちだってさすがに覚えるよ」
唯子さんの顔の赤さがこっちに移ったみたいに、今度が自分が赤面する羽目になった。
顔を上げそうになった気配を感じて、緩くその頭を手でおさえる。
「あのね、」
「何?」
「俺がも少し頑張ってお給料が上がったら、」
「うん」
「結婚の申し込みを、させてください」
どう早くても来年の春。頑張りが足りなければさらに遠のいて、約束は履行されないままだ。でも唯子さんは、俺の手の下でためらいなく、「はい」と頷いてくれた。
ちょっと待って、とか、急に何、とか、冗談なの、とか、何か云われるかもと思ってた。
自分だってこんな急に告げる気はなかった。付き合って割と早い段階で結婚を意識していたものの、ちゃんと準備万端整えて自分に自信を付けてから、と思ってた筈なのに。こんなタイミングになったのは、特別な日を唯子さんも覚えてくれていたのが嬉しかったから。この人を、もう一人で強がらせたくなかったから。
理由はいろいろあるけどでも、一番はやっぱりあなたの傍にいたいって事だ。
それから、俺達は少しだけ変わった。唯子さんの部屋の電球替えは俺がするし、雨の日は相合傘をするようになった。相変わらず傘を持ってるからいいと遠慮する唯子さんだけど、無視。
あの日、同期と彼氏さんのいちゃいちゃ具合を見せつけられてから、いいなあいいなあって気持ちがセンチメンタルと弱気を駆逐した。近付いて欲しいと思うばかりじゃなく、来ない相手には自分から行けばいい。そして、今のところそれで拒まれたことはない。
「濡れてもいいから、一緒に入ろ」
ね? と唯子さんの側に傘を傾けると、もう、と甘いお小言付きで、傘を持つ俺の手にするんと寄り添ってくれた。
15/05/26 一部修正しました。
15/12/08 一部修正しました。