魔法使いと使いっぱ(☆)
「クリスマスファイター!」内の「魔法使いの使いっぱ」の二人の話です。
恋人がお勤めのお店にはたくさん綺麗なお花が飾ってあるし、たまに『お客様からいただいちゃった』と豪華なアレンジメントを持って帰る事もある。砂羽さんは、そういう生花と同じくらい、道ばたに咲く花も大好き。
それを教えてくれた時、『貧乏くさいかな、こういうの』なんて困った風に笑うから、思わず抱きしめてしまった。そのまま、『俺も好きだよ』って云ったら嬉しそうにしてくれた。それ以来、二人で過ごせる日は夜だったり朝だったりにお散歩しては、季節折々の花を家に招いてる。
二人で眺めてたら『一枝どうぞ』って分けてもらえた、お散歩ルートの途中にあるおうちのユキヤナギや、川沿いの遊歩道で見つけたシロツメクサや、雑草が伸び放題な空き地のすみっこに咲いてたカラスノエンドウ。
大事そうに包んで、『きれいだね』って手の中に話し掛けて、家ではお店でもらったお花と一緒に並べてる。
なんてかわいい人なんだろう。
恋人になってもう四ヶ月と三日にもなるっていうのに、俺は今日もまだ夢心地。
――なんだけど。
『ねえねえ砂羽さん、こんどお休みが合う日に旅行しようよ』って、ちょっと贅沢な露天風呂付きの個室を備えた旅館をお誘いしても、テーマパークへ遊びに行くついでに、隣接するオフィシャルホテルでのジュニアスイートをお誘いしても、いつも『ありがとう、でも贅沢すぎて気が引けちゃう』とグレードダウンした、俺の懐にちょうどいいところを提示されてしまう。もしくは、『どっちかのおうちでゆっくりしたいな』ってほほえまれちゃう。
彼女はしっかり者だから。でもきっとそれだけじゃない。
お金を必要以上にかける遊びやレジャーを、彼女は良しとしていない。俺のしっかりとしていなさをすごく心配してくれているっていうのも分かる。それと、まだ一〇〇パーは信頼されてないなって、思う。
未来の話を、してもらえないから。
来週だとか来月だとかの約束はするよ。でも、『来年もここ、いっしょに来ようね』なんてちょっと先の話をすると、困った顔で笑うだけでお返事はもらえない。
も少しツッコんで話をしたいけど、いつもその手前でぱっと話を変えられて(さすが話術に長けててかっこいいぜ俺の彼女)、まあいっかってなってる。
仕事は至って順調。アシスタントとして板についてきて、みんなの愛され……いじられ役として日々楽しくやってる。
でも店内でのスタイリスト試験に受からないと現時点の俺に出来る事は限られてるから、まあいずれ時が来たらねーなんて夢を見ながら(そもそも受けさせてもらえるかも分かんないけど)。ほら、下っ端は下っ端でやる事満載だし、仕事なんてやろうと思ったらいくらでもあるもんだし。
楽しいよ。でも、あっちもこっちもなんか見えない壁でつっかえてる感じで、ちょっともどかしい。
そんな時、お泊りに来てくれてた砂羽さんから「あの、ね」と遠慮がちにある事を切り出された。
この日も、俺の出勤に合わせてお散歩がてら帰宅する(もっとゆっくりしなよって云っても頑なにゆずらないんだな)ため、眠そうな顔で起きてきた砂羽さんだけど、一言を発しただけでなんだか云いにくそうに口ごもってる。
「ん?」
並んで座ったソファで横からのぞき込むように見ると、何やら困った様子。そんな時でも睫毛はつやつやしてるし、目はキラキラだし、唇はおいしそうだし……。
「……要君」
「なーに?」
カタチとしては問い掛けてるけど、俺は始めたキスを止める気なんて髪の毛一本分もなくて、ぷっくりした唇めがけて自分の薄い唇を重ねる。
「ま、って」
「やだー」
息継ぎの隙間で告げられる言葉は、また塞ぐ。ああ、ほっぺもおいしそー。首筋も、鎖骨も……。
出勤する事はちょっとだけ忘れたふりして、この後唇のたどるルートをあれこれ考えながらキスを続けていたら「こら!」と、とうとう叱られた。
「ママが、一度店に遊びにいらっしゃいって」
「俺に?」
自分を指さしてそう問うと、こくりと頷かれた。
「たぶん、心配してくれているのだと思う」
「あー、”年下の美容院のアシスタント”なんて、いかにも頼りないし不釣り合いだもんねえ」
俺が笑うと、ますます困り顔になる。
「無理しないでいいから。品定めされるのなんていやでしょう?」
「別に大丈夫だよー。見てどんな奴か分かってもらう方が早いし、砂羽さんがお世話になってる人と会えるの、単純に嬉しいし」
そう云って笑う自分と対照的に、恋人は顔を曇らせたままだ。――これはガチで反対されてる感じかな。
「それなら、いいんだけど」って、ちっともそう思っていないのがバレバレ。
だからって、いまさら『あ、じゃあやっぱ行きません』て訳にもいかないじゃん?
「ママさんに、行きますって伝えておいて」って云ってアパートを一緒に出た。駅方面に向かう彼女と別れて、角を曲がって砂羽さんから見えなくなってから「ァァァァァ――!」って小声で呻きつつしゃがみこんで頭を抱えた。
やばい、ビビるってこんなん。人間観察のプロからの呼び出しって何、怖ええよ。夜のお店に慣れてない若輩者が一人で行って、おろおろワタワタしたら笑われちゃうかな。それだけならいいけど、なんか知らないうちにとんでもないマナー違反をして砂羽さんに迷惑をかけちゃわないだろか。そんなよくない事ばっか思いついちゃって、どうしたらいいかなんていっこも浮かびやしない。
――そうだ!
俺は、出勤するやいなや某未来のネコ型ロボットに頼るダメっこのように、「てええんちょおおお! ご相談が!!」と前島店長の目前で素早く土下座をキメた(そして福原さんに『うわっ』て顔をされた上に「うわっ」とはっきりと云われた)。
「いーよ、行ってやる」
店長は俺の泣き言を一通り聞いた後、あっさりとそう請け負ってくれた。『ええ?』とか『何で俺が』とか、一切なしでだ。いい男過ぎる。
「ヤダ……頼もしくてキュンときちゃう……」
思わず両手のグーを口元に揃えて口走ると、店長と福原さんから揃ってブリザードのまなざしを喰らったけどね!
「そうだ、先方に俺も行く事ちゃんと伝えとけよ」
「うス」
「あと、それなりにきちんとしたカッコしろよ」
そう助言されて思い浮かんだのは、シャツに蝶ネクタイ、唯一と云っていいきちんとしたファッションアイテムであるところの細身のスーツ(目の覚めるようなスカイブルー&くるぶし丈のパンツ)だったけど、「あのふざけたスーツ着ていったらマイナス一〇〇点だから」と、心を読んだようなタイミングで福原さんに云われてしまった。
「ヒッ!」
「あと、蝶ネクタイなんかしたらさらにマイナスだから。あれはおしゃれ上級者のアイテムであって、けっして大内アイテムじゃないから」
「ヒイッ!!」
ジャアドンナカッコデイッタライイデスカ……と半泣き(嘘。ほぼ全泣きだった)で聞くと、「大内君なんかどう頑張ったって大内君なんだから、よく見せようとか、好感度上げようとか欲かいてみたって無駄なの。そんなの経験豊富なクラブのママに〇.〇〇〇〇一秒で見抜かれるんだから、せいぜいこざっぱりした服装で行けば?」
要所要所でいつものように突っ放しながらも、福原さんは親切にそう教えてくれた。
そして迎えた当日、仕事終わりに着替えたのはアドバイス通りのこざっぱりコーデ――アイロンを当てた綿麻のシャツにカーキのチノパン、履き慣れたウイングチップ(←ぴかぴかに磨いた)、といった感じ。福原さんによるチェックでは無言で頷かれたから、とりあえず合格っぽい。
ちなみに髪型は、店長から『頼むから髪、ポマードでガッチリ七・三にしようとか思うなよ。お前がやったらコントだからな』と真顔で釘を刺されていたのでフツーです。――ちょーっとだけ、七・三にしようかなーなんて思ってましたサーセン!!
そして、俺と同じようにバックヤードで着替えて出てきた店長はというと。
「す……っげー……カッケー……! 惚れちゃうっ……!」
思わず両手のグーを口元に揃えて口走っちゃったくらいに男前! だった。
うねりのあるライオンヘアーは後ろで一つにくくり、光沢のあるグレーの細身スーツは三つ揃え、黒のシャツに細いワインレッドのネクタイ姿。
そんなこじゃれどころか大おしゃれを、さらっと着こなしちゃうんだもんなあ。
――――それに比べて、俺ときたら。
そう思えば、とたんに背中を丸めたくなる。で、そうしたらそうしたで、福原さんから即座に「今日くらいしゃんとしてなよ」と叱られた。
分かってるよー、わかってるけどさあ。
「……店長って、たぶん子供の頃からスタイリッシュな枠の人だったんでしょうねー」
俺と違って。と若干ひがみつつ呟くと、軽く眉をひそめた店長に「ばかな事云ってねーで、もう行くぞ」と背中を叩かれた。
「スタイリッシュじゃなくてもかっこ悪くても、紺野さんが選んだのはお前だろ、堂々としてろ」
「かっこ悪いとまでは云われてないっす……」
「そうだったか?」
なんて云い合いつつ、いざ出陣。
「ほんとに店長、なんでそんな慣れてんですか???」
都会の一等地の、アクセントが頭にくる方のクラブ。
こういうお店自体はじめてな俺は、きょろきょろと落ち着かない。そこここに飾られている花瓶も生けられたお花もシャンデリアも空気でさえも高そうで、俺はアウェー感で汗がひどいっていうのに、店長は落ち着いたものだ。これまたお高そうなソファでふんぞり返るでも縮こまるでもなく、まるで家でのんびりTVでも観て寛いでいるかのような自然体。
俺の言葉に、店長はつまらなそうに云う。
「業界の会合やら商工会の集まりやらで、さんざんこの手の店に連れて行かれたからな。もちろん、ここほどのグレードじゃなかったけど」
「それって普通はオーナーが立場的に行くものなのでは……?」
「『これも経験ですから』って云われて一回行ったら、後はもうずっと押しつけられっぱなしなんだよ」
「うわあ……」
「哀れんでんじゃねえ」
鼻をぎゅーっとつままれていたら、くすくすと笑い声が聞こえてきた。
「仲良しさんなんですねえ、美容院の店長さんとアシスタントさんだと伺ってましたけど」と、この店のマダムと名乗られてなくてもそうと一目で分かる女性がやってきて、ゆったりと俺らに笑んだ。
「お忙しいでしょうにお呼びだてしてすみません。改めまして、この店のママをしております葦名 樹里と申します。大内さんには『更紗』が大変お世話になって」
へえ、源氏名更紗っていうんだ、似合うなあ……とぽーっとしてたら、「ニヤニヤしてないできちんとご挨拶しろ」と頭を叩かれた。そして店長はスーツのボタンをしめながら立ち上がり「申し遅れました。前島と申します」
「大内です。……更紗さんと、おちゅ、お付き合いしてますっ」
ぎゅん! と緊張が高まって、うっかり口上と舌を噛むと、視界の端で店長が一つに結んだライオンヘアを前足でガリガリかいて『駄目だこりゃ』って顔してた。
ママさんはさすが高級クラブの長だけあって、俺のしくじりにもぴくりとも反応せず、何もないように笑った。
「大内さん、そんなに緊張しないでくださいな」
「イヤイヤイヤこーんな素敵過ぎる夢世界で緊張するなはムリですよ~!」
カミカミだしかっこ悪いとこさっそく見られてるし『大内君は(しょせん)大内君』て福原さんから云われてたし、もういーや! 好きなだけ俺を見て! とマッパで芝生の上で大の字になるように、半ばやけくその素の自分で答えた。
そしたらママさんはおや? と一瞬目を見開き、そしてふふっと笑った。
「ここでそんなに取り繕わない方も珍しいですよ。――どうぞ」
「あっありがとうございます! わ、グラスがキレー……、泡もCMみたい……」
次いでもらったビールに感動してたら、ママさんもうちの店長もビールの泡みたいに笑ってた。
「こういう奴です。スマートさからはかけ離れてますしまだまだ経験値なさすぎてど底辺ですが」
「ちょ、店長、ど底辺は云い過ぎイ!」
「でも、こいつの人柄は保証します。――もし万が一、大内が借金こさえたり更紗さんに迷惑を掛けるような事になれば、うちの店のグループ全員でボコボコに〆めますから」
「それは頼もしいですね、ぜひお願いします」
「どうして二人とも俺が何かやらかす前提でおはなしされているんでしょう?」
やらかさないかもしれないじゃない!
ぷんすかしている俺を店長もママもまた笑って――それがおさまると、店長は表情をきゅっと引き締めた、感じがした。まるで、狩りをしているライオンみたい。
くっとビールを飲み干すと、ママからまたグラスについでもらって「ありがとうございます」とお礼を云う。一口それを飲んだ後「大内」とこちらを見ずに声を掛けてきた。
「はえ」
その一連のかっこよさに見とれてて完全に気を抜いてるところに話し掛けて、思わず『はい』と『ええ』が混ざっちゃった。ダサ、と思いながら続きを待つと。
「お前、スタイリストのテスト受けろよ」
「……はい?」
あ、いや。いずれはスタイリストになりたいと思ってるし、もっといずれはこのグループで店長になれたらとも思ってるけど、それはどっちも『いずれ』の話だ。
唐突すぎるし、今ここで? なんで?? と思っていたら。
「それくらいそろそろしとかないと、結婚なんて話にも上らないぞ」
「けっ!?!?!?」
思わず両手のグーを口元に揃えたまま、たぶん一〇センチくらいはふかふかソファの座面から跳び上がっちゃったと思う。
「何だ、お前したくないのか」
「したいですよしたいにきまってるでしょ?!」
誰でもいい訳じゃない。砂羽さんとしたい。おこがましすぎて、それこそ『いずれ』の例え話にも出来てないけど。
あの人と、付き合って五ヶ月と一三日。今でも信じらんない時があるよ。
仕事に行く時のキリッとした顔も、仕事帰りのお疲れだけどゴージャスに彩られた顔も、メイクをしてない日の顔も、いらいらしてる時の顔も、怒ってる顔も、みんなみんな好きだ。
砂羽さんの近くにいさせてもらって、美しさって、外見だけじゃないって改めて分かった。俺たちは、その外見を磨くお仕事に携わってるとは思うけど、表情ひとつ、姿勢の良さ、選ぶ仕草で上乗せ出来るし、こういう事云うと照れちゃうけど(そして福原さんには『非童貞になっても相変わらずキモい』と云われてしまうけど)いくら外だけ繕っても、中から輝いていないのって、だめなんだ。
そして砂羽さんは、外見に負けないくらい、中身もとってもとっても綺麗でかわいい。
そんな人とずっと一緒にいたいっていう気持ちは当然ある。
でも、今の自分じゃ、彼女とは不釣り合いだってのも、よ――――く分かってる。
こうして、心配したママに呼び出されるくらい、まだまだ経験値もスキルも足りてない。
分かってる。
店長は、ミックスナッツをひょいとつまんで、それを口に運んだ。
「立ち入った事を聞くが、更紗さんはお前よりいくつ年上だ?」
「……よっつです」
「だったら、人生プランがお前より四年分先をいってるって事だろ。結婚したいなら、彼女のプランに自分から合わせにいけ。『このままがいいや』なんて悠長にしてたら、例えば彼女がそろそろ結婚して子どもも産みたいって考えたとしても、この人はいつまでも収入が上がらないし、そういう話も出ないから無理ね、って見切りつけられてもおかしくないんだぞ」
その言葉で、なんかスイッチ入った。
しゃっきりと目が覚めて、視界がクリアになった。今なら、何キロ先でも見通せそうな。そんな感じ。
もちろん、砂羽さんの意思やこの先どう生きていきたいかを確認した事はないし、相手のヤなとこや自分のヤなとこは、多分これからもポロポロ出てくる。そうなった時に、砂羽さんと俺がどうモメてどうおさめるのか、おさまんないかはまだまだ未知数。でも。
頬杖ついて、店長がにやりと俺に笑う。
「どうする?」
「受けます。お願いします」
ほんとはね、ずっと悔しかった。俺にはまだ出来ないスタイリストの仕事。それと、俺が信用されてないから出来ない仕事。あなたじゃなく店長や福原さんで、ってお客様に云われて『はーい!』って笑顔で返すたび、悔しくて、情けなかった。でも俺アシスタントですししょーがないじゃんって自分に言い訳して、悔しくないふりしてた。砂羽さんとの事だってそうだ。
恋人としていっとき側にいる事は許されても、人生の伴侶として彼女の隣で伴走する権利を、まだ与えられてもらってないんだなって思うたび、まぁ結婚なんて双方が望まなけりゃ成立しないもんだし、イマドキ結婚が幸せの最高峰って訳でもないしって自分に云い聞かせて。
でも、もうそんなふりしなくていい。ちゃんと悔しがって、前に進む糧にしよう。だって俺の先には砂羽さんがいる。いつまでも誰かの使いっぱじゃ、いつまでも彼女の横に並べやしない。
もし、別に私そういうの考えてないし結婚なんて興味もないよ、って云われたら、それはそれでいい。
人生の選択肢を増やしておくのは、きっと悪い事じゃない。
「じゃ、明日から特訓な。最終チェックはオーナーだから厳しいぞ~」
「や、ちょっ、脅かさないで!」
あわあわしてたら、とうとう樹里ママにふふふ、と笑われた。
「大内さん、頑張ってくださいな」
それって、つまり。
「――はいっ!!」
「バカ、お前、授業で当てられた子どもじゃねーんだからクラブの中で大声で立ち上がって挙手すんな!」
店長にはそう小声で怒られ、樹里ママには『やれやれ……』って生ぬるいお顔で眺められたけど、気にしない。だって、百戦錬磨なママが、砂羽さんと俺のこれからを認めてくれたって事だ。それだけで、勇気百倍。
「おい、まだなんにも始まってねえぞ」って店長に突っ込まれるくらい、ニコニコしちゃったよ。
「今日はあざっした!!!」
「お疲れ。また明日な」
「はい!」
結局店長は、クラブでのお代を全部持ってくれた。でもこっちの都合で時間を割いてもらったのにその上ごちそうになる訳には、と思っていた俺に、会計を済ませた店長は『結婚に向けて貯金しとけ』と耳元で囁いた。
『ヤダもうかっこよすぎ……!』って思わず両手のグーを口元に揃えて口走ったら、お店の黒服さんに吹き出されたけど仕方ないよね!
そんなに飲んでないけど、なんかすごくいい気分だった。
このままどこまでも歩いて行けそうな。でも行かない。
部屋で、砂羽さんが待ってるから。
今日、砂羽さんは欠勤だった。というか、お休みをママから云い渡されてたらしい。いわく、『恋人がお店に来てたら、更紗がいつも通りの仕事を出来ないかもしれないので』って。
そんなに遅い時間じゃなかったけど、静かに鍵とドアを開けて「ただいまー……」って小声で云ったら、「おかえり」って、玄関まで来てくれた。
「どう、だった?」
自分のせいで俺が罰を下されたみたいな顔をしている恋人に、「スタイリスト試験を受ける事になった」って返したらぽかんとしてた。そんなレア顔もかわいくて、手洗いうがいの後におもわずほっぺにキスしちゃった。
連続の奇襲攻撃で目を白黒させている砂羽さんの手を引いて、鼻歌しながら部屋に戻った。一緒にソファに座る。テレビでも見ようかなーとリモコンに手を伸ばすと、固まっていた砂羽さんがようやく解凍して「え、今日のはなしは?」と続きを聞いてきた。
「んーと、スタイリスト試験を受けるから、俺明日から特訓なんだってさ。コワ――!」
「ママとはどうだったの」
「認めてもらったと思うよ」
そう云うと、泣きそうな顔になった。
「ママさん美魔女だね、てか美女だね」
「うん」
「素敵なお店だね」
「……うん」
「俺頑張るから。砂羽さんがず――っとず――っとそばにいてくれるように」
その未来の約束に、困った顔で笑うんじゃなく、初めてこくりと頷いてくれた。
も少し頼れる男になって、も少し魔法遣いに近づけたら。
その時、あなたと俺の未来の話をたくさんしよう。今まで避けられてきてた、俺も踏み込めずにいた具体的な将来のビジョン、過去にどんな事があってどんな風に思ったのか。お金の話や結婚の事、全部乗せで。
今はあなたが泣きやむまで、赤ちゃんをあやすようにハグをする。泣きやんだら夜のお散歩に出ようよ。ナガミヒナゲシが盛りだし、ハルジオンもかわいいよ。
まあ、いちばん綺麗でかわいいのはこの人なんだけどね。