アナザー・プラネット、アナザー・フライデー(☆)
レコード店員×ギャラリー勤務
「トレンチコートに、ファンデーション」にちらりと出てくる真山三兄妹の朋之(兄の勤めるファミレスで転んで水をブチまけた男)の話です。「トレンチ」未読でもお楽しみいただけると思います(happy endsシリーズ外ですが、「何かしらの話に関連している」という目印のために(☆)にしました)。
金曜日、あの人がこの店に来ると、ミラーボールがきらきら回るダンスフロアみたく気持ちがブチ上がる。
どこか別の星の別の金曜日みたく、いつもの日常がまるで違ったスペシャルな時間に、なる。
品揃えはこー言っちゃなんだけどピカイチで、なのにこの店はいつもビミョーにヒマだ。せっかく状態のいいレコードがざくざくゲット出来るっちゅーのに。別にマニア過ぎたり価格づけがエグかったりしてないと思う。でも『いいバンドなんだけどね』って言われちゃうバンドと立ち位置は同じかな。業界人とかプロからの評価は高いけど一般の人からの人気は今一つっていうあれね。
あの人は、自分の勤めているお店(ギャラリーって言ってた)で流すBGMを求めてここへやってきた。だから、うちのメイン層であるマニアックなレコードコレクターとはちょっと違う。
モノトーンでシックな装い+上品なジュエリーってのは、そんなわけでまあ目を引く。
「絵の鑑賞の妨げにならなくて、あんまりメジャーすぎなくて、でも音楽好きな方がニヤリとするような……むずかしいでしょうか?」
体温三六℃以下、夏も冬も薄手のシャツか薄手のVネックの服を着そうな――実際そうだった――上等な女の人が、一つ一つ言葉を丁寧により分けながら俺に問いかけてくれるって言うのは未知の体験で、BPM高めの曲みたいに心臓がドンドコした。
「ちょちょちょーっと待っててくださいねえ~!」
俺はいい匂いのするその人の前からレコードの並ぶ棚へと小走り。
そうしながらも頭はわざわざ検索アプリを立ち上げなくても「こんな感じでどうすか?」っていうのがぱっといくつか浮かんだし、お目当ての品がどの辺に並んでるかは指が覚えてる。だから、タスクはきちんとこなしつつ、心がレベルメーターの表示みたいに忙しく上がったり下がったりしてた。
背筋がピシッとした人だな、とか。
キレイで端正なお洋服を、皮膚みたいに当たり前にしっとり纏っているな、とか。
一歩間違えたら下品になりそうな大ぶりのジュエリーだって、まるでしつけ済みのペットのようにしずしずと従えているな、とか。
女性にしてはかなり低い声が、ジャズシンガーっぽくてかっこいいな、とか。
仕事なのに、思わずこの人の前から逃げ出しちゃったな、とか。
だって俺、着古したバンドTにくたくたのジーンズに、もじゃもじゃアフロだもの。
あんな綺麗な人にカウンター越し、目をのぞき込まれるとか、非モテの俺にはどちらかっちゅーと罰ゲームに思えちゃう。
まあでも向こうはそんな気〇だろうし、とにかく今は仕事中だしと、レコードをかえるみたいに気持ちのスイッチを切り替えて「おまたせしました~」と何枚かのアルバムを手にその人の前へ戻った。
俺の選んだレコードを、まずは試聴してもらう。ギャラリーっつうことだから、音のレベルを下げてるにしたって、お邪魔にならない系。
古いジャズのコンピレーション、最近のボサノヴァ、インドネシアのレーベルのエレクトロニカ、ホルンの三重奏曲、マリンバによる無伴奏チェロ組曲。春近い平日の大体午後二時半から四時くらいの、ぽかんとした空気感を連想させるものを。
俺の選んだのが違くないといいなと思いながら、聴き終わるのをどきどきしながら待つ。
視聴を終えたその人の肉感的な唇のはしが、きゅっと上がった。そして。
「ありがとうございます。じゃあ、いま選んでいただいたレコードのお会計を」と言った。
「あ、どれにします?」
「全部」
「……! あざっす!」
「それは私のセリフ」
そのとき、彼女のよそ行き笑顔が一瞬崩れて、少し意地悪っぽく笑った。その顔に、俺ときたらまんまとノックアウトされてしまったのでした。
なんか素敵な人が店にやって来て、俺のセレクト全部お買い上げして、素の顔をチラ見せしてった。
そんな、文字に起こしたら一行程度の出来事に、がっちり囚われまくった。
どこの人とか連絡先とか、まるで知らないのにねえ。
――多分、この気持ちは少しずつ薄れる。だって、補充されるあてもないし。
そう思っていた自分の前に、あの人は一月後また現れた。
「アップルパイあるんだけど、いっしょに食べない?」と、なぜだか『ですます』なしで、親しい人みたいに。
「あ、はい」
それで俺もフッツーに返事しちゃった。
その人――椿さんは、「よろしい」ってご満悦な顔になる。
「ここのおいしいんだけど微妙にデカくて誰かとシェアしたいサイズで。ちょうど君の顔を思い出したから買ってきちゃった」
「……光栄っす」
「ああ、あと食べ終わってからでいいから、またこの間みたいにレコードを選んでもらえる? 今回は三枚くらい」
「はい! 喜んで~!」
「居酒屋さんみたいだね」
くすりとやっぱりどこか意地悪く笑われて、それでまた俺は恋の沼のもっと深いところまで改めてドボンと突き落とされた。
「お店で切ってもらったから」と差し出された、紙ナプキンに乗った半円。
「あざっす。いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
二人で、レジカウンターを挟んでしょぼい丸椅子にそれぞれ腰掛けて、まだほのかに暖かいアップルパイをあぐっと貪る。パイ生地に包まってたシナモンの香りと、とろっと甘酸っぱいりんご。
「……うんま!」
「おいしいねえ」
「わーこれこのままでもすんげーうまいけど、アツアツにバニラアイス添えて食いてえ~!」
「お、いいね賛成、今度そうしてみよう」
いいなと思ってる上等っぽい人に賛同してもらえて、心がぴょんと跳ねた。
おいしすぎてがつがつ食べてしまったので、自分のアップルパイはあっという間になくなってしまった。
まだ優雅に召し上がっているその人に自分のがっつきっぷりを見られて恥ずかしかったので、慌てて手を拭いて「ちょちょちょーっとアルバム見てきますね!」ってやっぱり逃げる。
四月だし、今度はTHE・春爛漫! て感じのラインナップにしてみた。艶やかなメロディで女王様みたいなヴァイオリンが主役のと、ひなたぼっこしてるみたいにまったりしたピアノバンドのと、夜桜を鑑賞するのにいいお供になりそうな女性ボーカル(カントリーとジャズの間を行ったり来たりな)。
これも試聴してもらって、ダメ出しや異論なしにお買い上げいただいた。
それから、月イチかニくらいの金曜日、遅い午前かおやつ前あたりの時間に、椿さんはやってきた。だいたい、いつも何かしらのおやつを携えて。レコード――『君のセレクト信用してるから、もう視聴なしで』って言ってもらえて超嬉しかった――をリクエスト&お買い上げする時もあるし、おやつだけで来る時もある。
「別に俺なんかに気ーつかわんでくださいよ」と何度念押ししてみても、「使ってないよ。トモくんと食べたいなーって思っただけ」って返されて、そのたびにやっぱり心がぴょんと跳ねる。
ボロ丸椅子に腰掛けて、レジカウンターの上で指を組んでふふ、と笑うその人は、勝手に一人でBPM高めのこっちの心臓事情なんて知らずに「召し上がれ。ホワイトチョコ好きでしょ」と白くコーティングされたドーナツを差し出してきた。
皿や紙ナプキンの上に置かれず、椿さんの指につままれたドーナツ。飼い慣らされたペットみたいに手で与えても噛まれたりしないって思ってて、それをちょっとも疑ってない。でも俺はさ、と躊躇してたら「ん」と催促するようにドーナツが揺らされた。
――なんか悔しーな、と思いながら、あぐ、と大きい歯形を付ける。
「……んま」
「でしょう?」
俺のリアクションを見届けてから、椿さんは嬉しそうに歯形のところを食べた。
「ちょちょちょ」
「何?」
「汚いっしょ、俺食ったとこっすよそれ」
「別に汚くはないでしょ。もう一口いかが?」
「……いたーきやーす」
対抗するように、俺も椿さんの小さな歯形のところに噛みついてやった。
椿さんはやっぱ、嬉しそうだった。
そうやって二人で二つのドーナツを平らげた。つっても大きくかぶりつく俺が七割、ちいさく上品に食べる椿さんが三割。
気持ちは、もっと割合が変わるかな。俺が九割、椿さんが一割……いやもっとか。俺が九.九九九割、椿さんが〇.〇〇一割。
それがえらい切なくて、今ならどんな陳腐なラブソングでも泣けちゃう気がした。
買い付け直後のレコードの在庫とおんなじくらい気持ちがうず高く積まれちゃって、あの上等な人が俺の手の届く人じゃないのも焼き肉の焼ける音くらいじゅうじゅう、重々承知で。
でも心は、終わったレコードみたいに、針が外れた後もターンテーブルの上でどうしようもなくくるくる回り続けてる。
そんな俺の異変を、兄妹イチ敏感な妹が気付かないわけもない。
「お兄、何があったのか吐きな」とすごまれて「実はね……」って話した。
「お兄それ弄ばれてるよ絶対」
「やっぱおぬしもそう思う?」
「思うに決まってんじゃん! こんなさー、得体のしれないもじゃもじゃアフロの中古レコード店アルバイト男性・二二才、ルックスやや残念な音楽オタクなんてさ、レベルの高い女の人が恋するわけないじゃん」
「――いやいーけどほんとのことだけど、グッサリ的確に刺してくるよねヒナ……?」
自身も『かわいくて美人』と認めちゃってる上、客観的にもそう評価されている妹は、実に残酷で現実的な意見をくれた。
「ギャラリーの人って、お兄それ高い絵とか売りつけられるんじゃないの?」
「……そんな人じゃないよ」
「ほんとに?」
「たぶん。分かんないけど。絶対」
「言ってることがめちゃくちゃなんだけど」
妹は『ハッ』と鼻で笑って、「まあ好きにすれば?」と言って自分の部屋に行ってしまった。
今ぺしゃんこな心は、それでも椿さんのくる金曜日には、空気入れすぎのチャリンコのタイヤみたくぱんぱんになる。
笑顔を見て、声を聞いて、自分の選んだレコードを満足してもらって。
それでいいじゃないの。
恋にならなくても。
ラブソングの主役じゃなくても、それを聞いて誰かを想うことは出来るよ。
と、聞き分けの悪い自分を必死でなだめる。
――とはいえ。
「椿さんは俺を餌付けしたいんすか?」
三時のおやつ――今日はあつあつのたこ焼き――をはふはふ頬張りながら(さすがに今日は『あーん』じゃない)聞く。
「そうねえ」
椿さんはクレオパトラみたいなイヤリングをいじって、ふふ、と笑う。
「そうかもね」
「……じゅうぶん懐いてますけども」
「もっとだよ」
もっとって? そう聞きたいけど、口ん中にはあつあつがいて、それをなんとかするのに精一杯。必死にもぐもぐしてたら。
「ついてるよ」
キレーな指が、唇の横に柔くランディングして、今度はそのまま椿さんの口元に運ばれていく。
「?!」
「青のりごちそうさま」
「?!?!?!」
「トモくん、顔と顔色がだいぶ愉快なことになってるけど大丈夫?」
「あ、だいじょぶ、――や、やっぱだいじょばない、」
「どっち?」
可笑しそうに笑う。あーもー、キスされたわけでもないのに、こんなんで挙動不審になってる自分がもーヤバイっしょ。
でも、今なら聞けるかも。
もっと、って何すか。
懐かせて、どうするんすか。
ペットみたいにしたいんすか。
それとも……。それとも?
口を開く。
その時、ドアを勢いよく開けて(古いビルなんだからやめてよ)、ヒナがやってきた。
入り口のとこから俺、椿さんの順にじろ、じろ、と見て、「ふ――ん」とフラットな声で放つ。そして、ずんずんと一軍の女子しか出来ない無敵感を纏った歩き方でレジカウンターまでやってくると、椿さんの前で腕組みをした。
「ちょちょちょ、ヒナちゃん、ご挨拶して」
俺の小声はガン無視で、「おねえさん、朋之のこと弄ばないでくれる?」と初球から剛速球の暴投をかました。
ヒナ――――! ききかた――――! あと呼び捨て――――! 普段しないくせに何で今それすんの――!
いい子よ? いい子なんだけどね?
『コンニチハ! いつも兄がお世話になってます♡妹のヒナです♡♡』くらい言ってくれない? おぬし今チョー失礼よ?!
俺がどうフォローしたもんかと頭を悩ませていた一方、椿さんはちっとも気分を悪くした様子を見せず、のんきに小首をかしげていた。その動きに合わせて、イヤリングが揺れる。
「弄ぶ?」
「そうでしょ、じゃなきゃかまう理由なんかないじゃん」
「私が弄ぶなら、むしろ彼よりあなただけど」
「は?!」
「は?!」
俺とヒナが同じように交互にリアクションすると、椿さんは「コントみたい」と声を上げて笑った。
「理由ならそうだな、一つだけあるけど、あなたには教えない」
「……なんで」
「まだちゃんと言ってあげてないから」
そう口にしながら、ちら、と俺の方を見る。その目は今日身につけてるネックレスよりキラキラしてて、吸い込まれそう。ぼーっと眺めている間に、埃みたくワーッと慌てふためいてた気持ちがだんだんにおとなしくなった。
「ヒナ、俺はだいじょぶだから帰んな」
「でも」
「いいよ、わざとヤな役してくれてあんがと」
心配したんだよな。頼りない兄が騙されて遊ばれるかお金巻き上げられるかって。
でもそうじゃないって、ヒナも分かったっぽい。
「――お礼は紀兄んとこのマッターホルンパルフェのレギュラーサイズでいいから」と、来た時よりだいぶ棘のとれた口調でそう言った。
「ちょちょちょ、あんなでかいの食ったら腹冷やすからミニの方にしなさい」
「しーらない」
じゃーねーとちょうちょのように手をひらり、としてヒナが出て行く(帰りは静かに閉めよった)と、店内はまた俺と椿さんの二人きりになる。
「ところで綺麗なあの子は何者?」って聞かれて、意味深にとぼけたり駆け引きとか出来なくて、フッツーに答えた。
「妹っす。容姿もアタマの出来も全部あいつが独り占めしたんで、リアクション以外似てないけど」
「そう? 似てると思ったけど」
「え??? どこらへんが????」
似てると言われたことなんかない――ヒナが聞いたら発狂しそう――言葉に思わずそう聞き返すと。
「人のことに一生懸命なとこかな。ぐっときちゃった」
それは俺に? ヒナに? 聞けないまま、「……あのー」って言う。
「ん?」
「ヒナのこと、俺の恋人かも、とか思いませんでした?」
「ぜんぜん」
あっさり具合に、俺やっぱあんま男として認識されていなさすぎでは疑惑が再燃したんだけど。
「だってトモくん、人のことあんなに好き!! 好き!! っていう目をするくせに二股とか出来るタイプじゃないでしょ」
そう言われて、心臓はパンクロックみたいに暴走とも言えるアップテンポで躍り始めた。
椿さんは、まだたこ焼きの青のりが付いてるみたいに俺の頬を撫でる。
「かわいいし、音楽のセレクトが抜群だし、わりと最初っからトモ君のこといいなって思ってたよ」
「……かっ?!」
ふたたびのあり得ないワードにどもると「ほらかわいい」と微笑まれる。
「正直言うとね、私はどちらかというと女の子の方が好きだし、造形の好みで言うと妹さんの方がタイプ」
「えっ」
「いわゆるバイってやつなんだけど、それでも私と付き合ってくれる?」
「――ええっ!」
「そのええっ、はイエスとノーのどっちなのかな」
「えっと、あの、あのですね、」
「うん」
「おれ、頭もじゃもじゃだし」
「そこもかわいいよね」
「背、ちびっこいし」
「チャームポイントだ」
「しがないアルバイト店員だし」
「今後に期待してる」
「……だから、ぜんぜん駄目だろうなって思ってて」
「いつまでも目えつぶってないで、いいかげんこっち見てよ」
「いま目あけたら泣いちゃうもん」
そんなキモいこと俺が言っても、椿さんは。
「じゃあキスしよっと」
そう言って、涙のにじんだ目尻と唇に、そっと口づけをくれた。
「トモ君、一生懸命レコード探してくれたでしょ、あれがけなげでかわいいとか思っちゃったんだよね」
初めてのキスの後、あまりにも信じられなくて、どうして、と聞いたら椿さんはそんな風に答えてくれた。まじですか、すげえ、ってかみしめてたら「あんまりにも信じてもらえないのは気分悪いな」と低い声で意地悪げに笑われて、「信じます!!!」って答える俺。
「信じるけど……」
「ん?」
「もっかい、い?」
厚かましくもねだったら、「いいよ」と『もっかい』をくれた。
椿さんが『バイ』と言った意味が分からずふわふわした気持ちで「イイっすよ!」なんて言ってお付き合いを始めちゃったもんで、意味が分かってからひとりで勝手にやきもきしたこともあったけど、思いが通じちゃった今でも、あの人がこの店に来れば。
ミラーボールがきらきら回るダンスフロアみたく気持ちがブチ上がる。
どこか別の星の別の金曜日みたく、いつもの日常がまるで違ったスペシャルな時間に、なるよ。