lovely baby in my car(後)
学力レベルが小学四年生くらいだった伊吹君は、家庭教師をつけてこつこつと地道に勉強をし始めた。
『ここんちにカテキョ呼んでもいいか』っておずおずと聞かれて、やっと自分のためにお金を使ってくれるんだ! と喜んだ私は感激のあまり彼を押し倒しちゃったんだけど仕方ないよね。無自覚なかわいさは罪。
ひとしきりコトが済んでから『先生は男の人限定ね! 伊吹君が恋しなさそう系の!』と注文を付けると『はいはい』と軽く請け負おわれた。
元々頭の回転の速い伊吹君は、家庭教師の先生(私のオーダー通りの人だ)の導きでぐんぐんと学力を得ると通信制の高校に通い、三年後には高卒の資格を取った。そしたら今度はお仕事の合間にフランス語とウォーキングを習い、ジムにも通い始め、内面からにじみ出る自信と美しさ、そして磨きのかかった肉体美で、身びいきじゃなく、ますますいいモデルになってゆく。
上背のある彼はショーのデビューも果たし、まばゆいランウェイでその美しさをのびやかに発揮した。
その姿を客席から見て、私は嬉しいようなさびしいような――それはいつも感じるものだけれど、もっと強い――不思議な気持ちに襲われた。
私だけの、あの警戒心の強い、目をぎらぎらさせた痩せっぽちの男の子は、もうどこにもいない。
ランウェイを歩くのは、うつくしい獣のように研ぎ澄まされた身体を持った、誰も無視することを許されない、とびきり魅力的な男性だった。
着る服がスタンダードなスーツでも、チャレンジ精神溢れる謎なものでも、ひとたび纏えば伊吹君はそれを最上のものにしてしまう。それが気のせいじゃない証拠に、私みたいなシロウトじゃなくあからさまに業界人な人が何人も、食い入るように彼を見ている。
「え、あの人、かっこいい」と囁く声が客席のあちこちから聞こえてくる。
自分の感傷そっちのけで、耳がキャッチした賛辞の全てにそうでしょ! と心の中で同意しまくった。
伊吹君は押しも押されぬ人気モデルさんになった、といって間違いない。
なのに、うちに帰ってくれば彼は私の肩口にこてんと頭を預けて「どうだった?」って真っ先に必ず聞く。
観に行けるショーには足を運んで、雑誌にも全て目を通す私は、いつだって「今日も最高だったよ」って言う。実際、彼はいつだって最高だ。寝不足で顔がむくんでるとか、トレーニングをさぼって体のラインが緩んだりとか、一切ない。調子に乗って天狗になってもきっと誰も文句を言う人はいないのに、人気が出れば出るほど、彼はますますストイックさに磨きをかけていたから。
私の賛辞を聞いて、彼はようやくかすかにめぐらせていた緊張を解く。
「そうか」
その、嬉しそうなひとことったら。思わず押し倒したくなるほどだ。
でも明日も伊吹君はロケで朝早くからお仕事だから、と手をグーにして堪えてた。そしたら、彼が顔を覗き込んで「……押し倒さねえの?」って心底不思議そうに聞いてきたので、「では遠慮なく!」とそうさせていただいた。ジュースのしみみたいにじわーっと広がる不安は、見ないふりして。
このところ、モデルのお仕事でお休みもままならない中、伊吹君がなにやら荷物をまとめてるなあ、とは思った。
元々少ない物をさらに要らないものと要るものに分けて、ゴミの日に出したり、人に譲ったり。
私は、どっち? 要らない方?
すき、って、たまに言ってくれるけど、本当に? だって私は強引に好意を押し付けてここに住まわせたよ。あなたが行くところがないって知ってて、それに付けこむように。
むしろここまで一緒にいられたことが奇跡に思えて仕方がない。
捨てられたら死ぬよ、って、もう言えないかなあ。本気だったけど、本当に捨てられて本当に死んだら、彼を苦しめちゃうしスキャンダルにもなるもんなあ。
でも、だんだんに伊吹君の物と気配がなくなっていく部屋で一人で生きていくのはあまりにもつらい。
こうなったら引っ越してやる。出来るだけ早く。捨てられる前に逃げてやる。そうしてやる。絶対にだ。
そう決意して、泣きながら夜中に物の処分と荷造りをしていたら、いつの間にか帰っていた伊吹君が「……なにしてんの」って、おっかない顔と声で聞いてきた。
「おかえり、なさい」
「ただいま。――ってなにキスとハグでごまかそうとしてんだよっ」
いや、ごまかすとかじゃなくつい反射でね。
それでも、段ボールに詰めかけの服だとか、出しっぱなしのビニールひもだとかで伊吹君は「引越しか」と察してしまった。
こく、こくと頷く。すると、おっかない顔がいつも通りに戻った。
「いつ引っ越すんだ? 出来ればオフの日にしてもらえると俺も動けて助かるんだけど」
「――――――――――――――――え、」
「えって、まさかここに俺残して、一人になる気じゃねえだろうな」
伊吹君の声が、瞬時でまたブリザードになった。さらに。
「俺を捨てる気か」
いつもの逆だ、なんて思いながら「そんな訳ないじゃん!」と言い返す。
「じゃあなんだよこれ、どういうつもり?」
こんなにおっかない伊吹君はひさしぶり、というかもしかしたら初めてかもしれない。肩をぎりぎりと掴まれて痛い。そんなのさえどこか嬉しい。
「言えよ」
怒りを堪えた吐息混じりの声。耳元で囁かれて、「今のもう一回……」って夢見心地でリクエストしたら「あんたはこの局面でもそれかよ……」と心底がっくりとされた。
「なんだそれでか」
私が悲痛な決意に至った背景を語ると、あっさりそんな風に返された。
「ひどい!」
「ひどいのはあんたの想像力だよ。いいか、俺がしてたのは別れる準備じゃねえ」
「じゃあ、なによ」
「しばらく、活動拠点をパリに移す。――途中でポシャるかもしんねえから、今まで言えなかった。悪い」
「ほら! やっぱり私の前からいなくなるんじゃん!」
「そうじゃねえよ!」
伊吹君は私をぎゅっと胸に抱え込む。
「俺はな! あんたみてえなおっきい人間になるための勝負に出るんだよ!」
「あー! あー! キコエナイ!」
こんな、聞きたくない言葉――別れのことばを拒否する女のどこがおっきい人間なの、信じないよ。
「ちあき」
……かたく両手で耳を閉ざしていたのに、初めて呼ばれた自分の名前は、魔法のようにするりと指の間から忍び込んできた。
「ちあき」
ほろっと涙がこぼれて、それにつられたように手が下に落ちる。その両方とも、さっと伊吹君に掬い上げられた。すっかり冷えた私の指に唇をつけたまま彼は言う。
「ほんとはこっから一ミリだって離れたくなんかねえ。いつだって、いつまでも頭のおかしいちあきと一緒にいてえよ。でもそれじゃ、駄目だ。あんたに釣り合う男になれねえ。だから、行ってくる」
「……いつまで、」
「仕事の足がかりができるまで」
それってでも結局はお別れのための第一歩なんでは、と思っていたら「いっとくけど、ここに戻ってきてちあきに『嫁になれ!』って言うためだからな! 別れたいなんて俺はこれっぽっちも思ってねえからな!」と念押しされた。
でもいつもなら「うん分かった信じてる♡」って秒で返して、笑って了承できるスーパーポジティブな自分が、今はどこにもいない。
いじけ虫は猫背でぼそぼそと反論した。
「……でもきっと伊吹君は気が付くよ。別に私が『おっきい』人間じゃなくって、毛虫みたいな存在だって」
そう言うと、伊吹君は「あ――!!」ってもどかしそうに声を上げて頭をもっしゃもっしゃと掻いた。
「あんたさては気が付いてねえだろ!」
「……なにを」
「俺はな! どさくさに紛れてプロポーズまがいのこと言ったんだよ今!」
「……え?」
「気付けよバカ」
「……えええっ!」
「なんか勘違いしてるけどな、ちあきみてえなモノズキ、宇宙に二つも存在してねえよ」
「なに、それ」
泣き笑い。それ見て、伊吹君がすっごく嬉しそうに笑ってる。
「笑わないでよ」
「だってよ、いつだってちあきは余裕ぶちかまして、俺のことなんかコロコロコロコロ掌で散々転がしやがって、……やっと、見せたよな」
「……なにを」
「笑顔以外の顔だよ。もっと見せろ、我儘も言え」
やだよブスになるからと言いたいけど、彼の我儘なら私は何だって叶えるつもりなのだ。
だから、素直に今の気持ちを伝えた。
「私だけのものだった伊吹君がみんなに愛でられるの、すっごい悔しい」
「うん」
「でも伊吹君に皆が夢中になるのは、めっちゃ鼻が高い」
「うん」
「でも離れるのはやっぱりさびしいし不安なんだよ」
「なにが」
「私よりうんと綺麗な人も、うんと才能ある人も今の伊吹君の周りにいるじゃん」
「まあな」
「だったら、私はいつ捨てられてもおかしくない……」
おかしいくらい大粒の涙がボロッボロ出た。
そんな私に、伊吹君はティッシュの箱と、四つ折りにしてある薄い紙きれを差し出した。
「それ、」
「持ってろよ」
薄紙を開くと、伊吹君の欄がすでに埋められていた。保証人の欄も。
「俺は一年でパリコレに出てやるからな、そしたらすぐハンコ押せよな」
「……ハンコ」
ちっとも頭が回らない私が鼻水と涙をぬぐいつつ素直にリピートすると、彼は眉毛を八の字にして、「ほんとにあんたは察して欲しい時に察しねえよな……」と言った。そしてにやりと笑う。
「そんなとこもまあ、ちあきらしいけどな」
そんな風に言われたから思わず彼を押し倒しちゃったんだけど仕方ないよね。無自覚なかわいさは罪。
笑ってる。伊吹君も私も。うん、だからきっと大丈夫。
不安はある。でも、伊吹君が素敵な薄紙を預けてくれたから、雨が降っても、風が吹いても、よくないことが続いても、私はずぶ濡れにはならない。
「ねえ」
「なんだよ」
「もし一年でパリコレ出られなくてもさ、結婚しよ」
「しっかり理解してんじゃねーかよ!」
それから、満を持しての一年後。
伊吹君と、私の人生とをぎゅうぎゅうに結びつける素敵な薄紙の契約書を、初めて出会った思い出深い初夏の日を待って、二人でお役所に提出した。その後、「わざわざ特注で作ってやったんだから感謝しろよ」という言葉つきで手渡されたステッカーには、『lovely baby in my car』とシンプルにそう書かれてあった。
「いっとくけど、これ、俺のことじゃねえからな」と、パリコレデビューを果たした伊吹君は、かわいい恋人が私だと、『lovely baby』を指差して教えてくれた。