石黒さんとゆとりの恋人(☆)
「夏時間、君と」内の「笹の葉大臣とゆとりの五秒」の二人の話です。
春の人事異動で、先輩がとうとうよその館に異動になってしまった。
『通勤時間が長くなっちゃう』とため息をつく先輩だけど、口ではそう云いながらもラテのフォームミルクみたいにふんわりと笑っている。
それはきっと、一年前に変わった名字と左の薬指にはめられた指環によるものなんだろうな。笑顔も、すっかり元通り。というか、以前見てたよりもっともっと柔らかくなってる気がする。それを見た、後輩であり私の恋人でもある小関君は、真顔で『主任ってあんな人でしたっけ? 中身こっそり宇宙人にすりかえられてません?』とかバカなことを云って、私にちょす、と手刀を落とされたくらいだ。
異動が告知されてから、先輩は通常業務に加えて引き継ぎやら各所へのご挨拶やらで毎日忙しそうにしていた。それでも、やっぱりずっと笑顔だった。
だから、私も送る時は笑顔で。
そう決めていたのに、ここでのおつとめの最後の日の勤務を終えた先輩に花束を渡す係に任命されてしまったので、笑顔キープはなかなか高度なミッションと云えよう。現に、渡される側の先輩と向い合せに立てば、笑顔は早くも湿気でふにゃふにゃになった紙みたいに頼りないものになる。
案外重量のある花束を手渡すと、泣けるバラードが頼んでもないのに勝手に脳内で流れ始めた。それをBGMに、はじめてここで先輩に会ったこと、厳しくも優しく叱られたこと、褒めてもらったこと、一緒に遊んだこと、――共有するメモリーがいっぺんにたくさんがーっと溢れて、堪える間もなくダムが決壊する勢いで号泣してしまい、笑顔は濁流に飲み込まれた。
「もう、石黒さんたらやめてよ、つられちゃうじゃないの」と笑う先輩の目尻にも、涙。
「大丈夫、家は市内のままだから、ちょこちょこ本を借りに来るわ。ここのラインナップ好きなの」
「好きで当然、自分で育てたんでしょー!」
私の渾身のツッコミで一瞬だけど二人とも笑った。でもすぐにまたしんみりムードになってしまう。せめて少しでもしんみりが薄くなるようにと思いつつ、少し先の約束を交わした。
「……落ち着いたら、そっちの館に行ってもいいですか」
「もちろん」
「……二人のおうちにも、また遊びに行かせてくださいね」
「うん、待ってる」
「今度YES/NO枕、持ってきます」
「それは本当に全然いらないから」
泣いてるモードの時ならほだされてくれると思いきや、柔らかい表情のまま、イヤガラセのような新婚さんグッズプレゼント案はばっさり断られてしまった。
勤務後の送別会でも、握手とハグをたくさんたくさん、した。先輩は内心『うへえ』と思ってたかもしれないけどいやな顔一つせず――嫌なことははっきりと笑顔でお断りする人(YES/NO枕参照)だから、きっと嫌がられていなかったのだと思いたい――私が腕を伸ばすと何度でも受け止めてくれた。
明日から先輩が館にいないという寂しさはコーヒーの苦みのようにまだ残ってるしきっとしばらく私の中に残るんだろう。どこかへ遊びに行った時のレシートが、バッグの底にいつまでもあるみたいに。だけど、先輩とハグを交わすたびにその寂しさを自分自身が少しずつ受け入れて、お開きになる頃にはもう泣くことなくきちんと挨拶だって出来た。えらいぞ私。
新しい環境でも、先輩が先輩らしく動けますように、とか、美味しいご飯屋さんとたくさん出会いますように(そして私を連れて行ってくれますように)、とか、要らない心配と願いごとを、七夕でもないのにたくさんした。
帰り道、まだ酔いの残るふわふわな足取りで大通りを歩く。隣には、本日放置しっぱなしだった小関君。まもなく日付が変わろうとしているけど、今日初めて彼に手を伸ばすと、すぐにがしっと捕獲された。そしてぽつりと一言。
「妬けますね」
「はぃぃぃぃ?」
ものすごーく普通のテンションで云ったから、耳がバグったのかと思ったじゃないか。
小関君は「ナイスリアクションです」と真顔で述べた後、「俺、別に独占欲とかない子のはずなのに、なんで主任に嫉妬なんかしてるんでしょう?」と不思議そうに首をかしげた。
「いや知らないよ、てか自分で自分のこと『子』とか云っちゃうのはなんなの?!」
「声、デカい」
大通りとはいえ静まり返った道でギャーギャーしてたら、うるさい口に蓋するみたいに唇で塞がれた。
最初は長く静かに。つぎにちゅ、と音を立てて、ゆっくりと何度も。
そのキスですっかりへろへろにさせられて、くたっと胸に寄りかかると、小関君は満足げに「よし、消毒完了」なんて云うから、だまって臑を蹴飛ばしてやった。
「いってえええ!」
「うるさいよ」
「なんで蹴るんですか」
「路上でいきなり本気のちゅーとかしてくるからでしょ! しかもなんなのよ消毒って」
「だって石黒さんの心が主任でいっぱいになってたから」
「しょうがないじゃん、長年お世話になってた先輩との最後の日だったんだから、今日」
「それでもやだもん」
「うわ、でたよ拗ねっ子モード」
そうからかうと、やや口をとんがらせ、おもむろに私を離すとそっぽを向いてしまう。その背中にびたっと勢いよくくっついて、それから胴にえいっと腕を回した。――ひょろい小関君にそうすると前はよくよろけてたけど、最近は予測出来るのかちっともブレない。
職場での三段の脚立の昇り降りも素早くなった。
私は私で、二年目の笹の葉大臣として、今から自主練を始めている。――やっぱり母には『あなたの持ち味の大胆さが、折り紙に活かせるといいのだけど』なんていう諦め混じりのコメントをいただくものの、駄目にしてしまう折り紙の数は、少しずつ減ってきている。
相変わらずな私たちだけど、らせん階段をちまちま昇るように、ちょっとずつアップデートしてるよね。
だから、お母ちゃんモードで『いつまでも膨れてるんじゃないの』と叱るんじゃなく、ちゃんと彼女さんモードで甘やかしちゃう。
「小関君、機嫌直して」
「うちに来てくれなきゃ直してあげません」
「行ってあげるから」
そういうと、私をくっつけたままゆっくりとこちらに向き返ってくる。
「……石黒さんからちゅーしてくれなきゃ直りません」
「はいはい」
追加のわがままにもそう安請け合いして、めちゃくちゃ背伸び。目を瞑ってスタンバイしている小関君の、そのよくばりな唇にがぶっと噛みついてから、撫でるように舐めてやった。
先輩がいなくなるのは覚悟してた。異動ありきの職場だし、私だってそろそろお声がかかっておかしくない。さすがに小関君は、一年ちょっとじゃ異動はまだだろうけど、県立図書館の司書という我々の仕事上、いつまでも一緒の職場ではいられないし。
そしたら、見納めなんだよなあ。この若干古びた館の建物も、行き帰りに眺める家々も、そのお庭に咲いてる花も。
日曜おはなし会の時だけ見られる、彼氏の、案外似合うパステルピンクのエプロン姿も。
配架のカートを押す時の、手のすじすじも。
そう思うと、やけに大事なものに見えてきた。
――って、ちょっぴりセンチメンタルな気分だったのに、小関君が帰り道に云ったのは。
「今日やたらと俺のこと視姦してましたけど、仕事中にああいうのやめてくださいよ」
「ひどっ!!」
し、視姦て! せっかく人が思いを込めて見つめてたってのに! そりゃ、勤務中だったけど!
ぷんすかしてずんずん一人で早歩きしてたら。
「……潤んだ目でいくら見つめられたって、利用者さんも他の職員さんもいたらいちゃいちゃ出来ないんですから。俺が何回あなたをハグしたいと思ったと思うんですかまったく。ほんっと、参りましたよ……」
めずらしく、ぐらぐら揺れた声でそんな風にボヤいてたのが背後から聞こえてきた。
ぐるん、と勢いよく振り返る。数歩後ろにいた猫背の小関君のところまでタタタッと小走りで駆け寄って腕を絡ませた。
「ねえねえ」
「何です?」
「小関君ってさ、もしかしてけっこう私のことスキだったりする?」
「けっこうディープに好きですよ」
「うわ、うそくさ!!」
「――何でですか」
「そんなのテレずにさらっと云っちゃう男なんて、ワタシシンジラレナイヨ!」
「シンジテクダサイヨ」
照れをカタコトにごまかしたら、向こうもノリノリのアクセントで応じてきた。
君のそういうとこ、私もディープに好きだよ、と思いながら、同じくらいディープなキスを受けて立った。
先輩がいない館内と新しい年度を書くことに、少しずつ慣れてきたある日の夕方。
児童書コーナーで配架作業をしていたら、カウンターの方から「おいっ!」という怒鳴り声が聞こえてきた。――げっ。『公僕おじさん』じゃん。
飲食店なんかでもおなじみのクレーマーは図書館にもいて、おじさんはそのメンバーの一人だったりする。彼の口癖の『お前ら公僕はこれだからダメなんだ!』から、職員の間では密かに『公僕おじさん』と呼ばれている次第。他の館には出没していないという話なので、どうやらピンポイントでこの館が狙われてるらしい。
今までは、先輩が冷静に(そして適切に)対処してくれていたけど、もういないし。
カウンターに入っている新人男子は、おじさんにめためたにやられて涙目だし。
ほんとはああいう人って役付きの男性職員だと早めに引いてくれるんだけどなあ、と思うけど、こういう時に限って適任な人たちはお休みだったり他の階に行ってたりで見える範囲には誰もいない(ちなみに、適任じゃない小関君は休憩中)。仕方ない、と思いつつ、『いつもよりにこやか』を意識して「どうなさいましたか?」と近づく。
「ここは一体どういうつもりなんだ!!」
から始まったなが――――――――い&ループしまくりな罵倒を要約すると。
一 図書館の利用カードは五年に一度の更新がある。
二 更新には身分証の提示が必要である。
三 にもかかわらずお知らせの類いは事前に一切なく、来館して突然それを告げられるのは不親切としか云いようがない。
4 怠慢極まりない対応だ。民間じゃないからこういう甘えがある。柔軟に対処(この場合、身分証なしのため更新出来なかった公僕おじさんに『今回は特別なのですが……』としてあげることらしい。しないけど)すべきだ。
ということになる。
それにしても、まだ終わんないかなあ。この人こんなに怒りっぽくて、病気になったりしないかなあ。
とか思いつつ神妙なふりで拝聴しつづけ、罵倒タイムが一息吐いた頃合いで「申し訳ありませんが、次回身分証をお持ちになっていらしてください」と頭を下げた。
特別扱いはしない。私が女で、見るからに役職じゃなくて、強く云ったら折れるんじゃないか、なんて思われてるのもシャクだし、もしルールを曲げたら普通に利用してる方たちに失礼だ。
私が深々と頭を下げていたら、隣でおろおろしてた新人君も、慌ててそれに倣った。
女とぺーぺーとはいえ、職員二人がカウンターで頭を下げ続けていれば、皆さんの注目を集めてしまう。てか、もともとおじさんの声で集めまくってたしね。
そのうち、「やあねえ、モンスタークレーマーっていうんでしょああいうの」「図書館の人かわいそー」など、聞こえるように利用者さんたちが云ってくださって、おじさんの罵倒の続きを止めてくれた。さらに人の良さそうなおじいさんが、引っ込みのつかない公僕おじさんにとことこ近づいて「あんた、その辺でもう止めときなさい」と声を掛けてくれた。それをきっかけにか、おじさんは「ったくお前ら公僕は頭が固くて嫌だよ!!」と大声で捨て台詞を吐いた後、足早に館から出て行った。
ふう。疲れた。
そんな思いを隠せないまま細くため息を吐くと、やりとりを見ていた方から拍手をいただいてしまった。お騒がせしてすいません。
午前中の出来事なら帰る前までには忘れてるけど、夕方だったせいで、さすがに帰りの足取りはやや重かった。今日は小関君早番、私遅番のシフトで、彼はとっくに帰ってるから一人でとぼとぼ歩きだ。
例のやりとりの少し後、退勤する彼がカウンターの前を通り過ぎる時に、こちらから胸の前で小さくバイバイ、って合図したら、表情を変えないまま同じようにバイバイ、と手を振り返してくれた。
そのやりとりだけで、ちょっと楽になったし、思い出してくすっと笑えるくらいには今だって楽しい気持ちになれた。一瞬。
ちょっとずつでも、アップデートしてるって、そう思ってたんだけどな。
とんでもないね。まるで、進歩してなかった。
先輩にいつも丸投げしてたから、ああいう時どういう対処がいいか分かんないまんまだったんだよね。
自分はメンタル強い方だと思ってたけど、実際にあんな風に罵倒され続けると、怖いし傷付くもんだね。やりとりの間、ずっと手、震えてた。駄目だなあ。
もっとうまい対応もあったんじゃないかな。先輩に聞いてみようかな。
……こんなことで、泣きたくなんかないのに。
見上げた空に浮かんでるほっそりとしたお月様が、みるみるうちに滲む。
あーもうやだ、と思いながら目をごしごし擦ってたら。
「そんなんしたら、駄目ですよ」
後ろから手を止められて、そのままふわっと包むように抱き込まれた。
「……ストーカー?」
「あなたの恋人です」
「いつから尾行してたの」
「人聞きの悪いこと云わないでください。館の外で待ってのに俺に気付かないで行っちゃうからでしょ。どのタイミングで声かけようかと思いながら歩いてたらさっきだったんですよ」
「ナンデマッテタンダヨ」
涙声をごまかしたら、カタコトになった。
「カノジョヲヒトリデナカセタクナイカラデスヨ、ナカセチャッタケド」
「長いよ」
「そんなわけで、泣くんならここでお願いします」という言葉と同時にくるりと身体を向き直されて、私の頭は彼の胸元に柔く寄せられた。
そんな風にされたら、もうそれ以上我慢出来なくて、道端なのに子供みたいに泣きじゃくってしまった。
そんな私を、小関君はひたすら受け止め続けてくれた。
蛇口をきゅっと閉めるようにやっと涙がおさまって、そうしたら今度は自己嫌悪の高波に襲われた。
「……情けないねわたし」
「ぜんぜん」
「打たれ弱いし」
「メンタル強めの石黒さんだからこれくらいで済んでんですよ、強靱なハートを誇りましょう」
「ばか! 『頑張ってる君は素敵だよ』くらい云え!」
「ガンバッテルキミハ……」
「そこは普通に云おう?!」
ふ、と笑うと、小関君もほっとしたように笑った。ああ、心配してくれてたんだな。平気な顔の下で。
せっかく早上がりだったのに、館の外で私を待ち伏せして、なのにさっきまで声を掛けられないくらいに。
それはディープに好かれている証のようで、じわじわと私をいい気にさせた。
いい気が、へこんだ気分をゆっくりと駆逐してくれた。胸元に抱いている私の顔を見て、小関君は「ん」と一言満足げに漏らす。そしてバームクーヘンを丁寧に剥がすみたいに私をそーっと離して手を繋ぐと、「帰りましょっか」と再び歩き出す。
「ありがとね」
「どういたしまして」
「大好き」
「……いつもいきなりぶっ込んでくるのやめてくれません?」
帰せなくなる。
困ったように、呟く。
だから、私から指を絡めた。
「帰さないでよ」
「そうやってすぐ人をいい気にさせる……」
「それはこっちの台詞!」
だってもう、メンタル結構回復しつつある。彼氏のハグってすごい。
駅前に向かっていた足を小関君ちのアパート方面に進路変更すると、彼は「ほんとにもう帰せませんからね」と念押ししてきたので「望むところだ!」と答えてやった。
嬉しいと照れをミックスさせた顔で「勘弁してくださいよ」ってぼやくのが、またかわいい。
コンビニでこまこまお買い物しながら、彼が「そういえば」と何かを思い出した風に切り出した。
「俺の友だちで、警察官のやつがいるんですけどそいつは『国家の犬』って罵倒されたことあるらしいですよ」
「うわ、そういうこと云う人ほかにもいたんだ……」
「それ聞いて、俺も例のおじさんに『公僕』って罵られてみたくて。でも残念ながら石黒さんに先超されちゃいました」
「なんでそんなの云われたいのよ!」
「警察官の友だちに自慢出来るでしょ?」
「……ゆとりの子の考えることって分かんない……」
そう口にしつつ、ゆとりの子、ってあんまりもうメディアなんかで云われなくなったなあと気付く。
揶揄される機会は減って、『わけの分かんない子たち』から『きちんと自分の考えを持った人たち』に、『マイペースなゆとり世代』は、『ゆとりのある大人』になったのかも。
彼も、ゆとりのある男、になるかな。なんかこのまま飄々と生きていきそうな気もするけど。
どうかそれを傍で長く見られますように、なんて思った。
数ヶ月後、またやってきた公僕おじさんの相手をカウンターでしてたのは、満を持しての小関君。
例の怒鳴り声に心配して、他館へ本を送る作業をしながら思わずチラチラ見ちゃったけど、頭を下げた奴の口元は、確かににやっと笑ってた。
まったく、ゆとり、恐るべし。