呟きと失態(☆)
「夏時間、君と」内の「安寧と変化」の二人の話です。
物事があらかじめ決まっていると安心する性質なので、ネクタイは曜日ごとに決まったものを締めている。となると、曜日を間違えるとそのままネクタイも間違えてしまうことになる。そう、まさに今日のように。
「木曜だったか……」
気が緩んでいたのか、うっかりと一日フライングをした。今、胸元にあるのは金曜日に登板すべきものだ。
そしてこの呟きは、ちょうど出勤してきた同じ課の彼女にまんまと拾われていた。
「此木さん、今日何曜だと思ったんですかぁ」
「……朝から金曜日気分でした」
「そういうことってありますよねぇ」
そう言いながら、彼女のくすくす笑いは止まらない。
「……何か」
どうにもきまりが悪くて、歪んでいない筈のネクタイや襟元を直してしまう。こちらの気も知らずに、己には分不相応な恋人――春の陽のように暖かく、かわいらしく、表情豊かな――はこちらの問いに素直に答える。
「ホッとしました。此木さんも間違えることあるんだなぁって」
「それは、ありますよ。人間ですから」
「でも、課の中ではミスしないことで有名ですし、それに」
思わせぶりに言葉を切って、微笑む。
「かわいいです」
三〇代男性で、かつ放たれた言葉の対極にあると誰もが思うであろう自分に向けられたその言葉を受け入れるのに、しばし時間を要した。
「……私は成人男性ですよ」
「知ってますぅ」
「かわいいなどと言われる要素はどこにもありません」
「それも知ってますけどぉ、そう思っちゃったんですもん」
くすりと笑うと、彼女の目は細い月のようになる。黒目――今日は明るい茶色――がきらきらと光った。
こちらの気を引く為の間違い探しならば、十分引いている今、もう不必要ではないかと思うのに、『此木さんにいつも関心を持ってもらえるように』と彼女は見当違いの心配からそれを続けている。
必要ないと言ったら少し悲しげに表情を曇らせたので慌てて『まだまだ気になっている最中です!』と言葉を選ぶ余裕もなく返すと、途端にとても嬉しそうな顔になりひどくホッとしたことは、まだ記憶に新しい。
手放せる訳がなかろうに。こんな偏屈な、若くもなければ美貌も魅力も財力もない男のどこが良いのか。聞いてみたいような気もするがさすがに恐ろしいし気恥ずかしい。彼女の性格上ありえないとは思うが、『ひまつぶしですよぅ』などと返されたら二度と恋愛など出来る気がしない。
彼女が、こちらの特性――間違い探しが得意であるということ――を逆手に取り、付けぼくろやカラーコンタクトを使い始めて約八ヶ月。気付いてそれを指摘してからは、幾度かデートらしき会合を重ねた。付き合っている、とは思う。けれど未だ決定的な言葉を発することはどちらもなく、未だ深い関係にも至ってはいない。
彼女が、世慣れていないこちらに合わせてくれているのだろうことは大いに察せられた。そろそろ、という気もするが何分不得手な領域な為、踏み込む機会がいつ訪れるのかは自分自身にも――むしろ自分自身がいちばん――分からない。
春先、新しい年度を迎える頃、窓口は『行列は出来ないものの固定客がいる店』のようになる。年度初めに利用者が提出するであろう、各種書類の申請に納税通知書が必要な為だ。この日も人が途切れることはなく、窓口を担当していた彼女も自席とプリンターと窓口とで作る三角のなかでくるくると立ち働いている。――かわいい。
隠す気のない上司のニヤニヤ笑いで意図せず上がっていた己の口角に気付き、急いで手で蓋をした。そして、なるべく上司の席方面を視界から除外して業務に励んだ。
「お先に失礼しますぅ」
「ああ、ちょっと」
付き合っているとはいえ公私を柔軟に切り替えられる性格でもない為、いつもなら挨拶を返すだけだが今日は肩を引き寄せて呼び止め、「私もすぐに上がるから、ロビーで待っていて」と耳打ちした。
彼女ははい、と答えたものの、妙に赤い顔をしてぽんこつロボットのようにぎくしゃくと動き、エレベーターに乗っていってしまった。そのイレギュラーな様子に首をひねっていると、背中にべたっと上司が張り付いてきた。
「ちょっとコノッキーったら何今のー! やだねー見せつけてくれちゃってー」
上司の表情は背後ゆえに目視出来ないものの、ニヤニヤ具合が一層ひどいことは言葉の端々からうかがえた。
「何をおっしゃっているのか分かりませんが、お先に失礼します」
「おー帰れ帰れ! 明日はちゃんと二人とも出勤しろよー! ラブに勤しみすぎんなよー!」
いいかげん、人事課あたりにハラスメントの相談に行った方がよいだろうか。
彼女は、利用者の引けたロビーの長椅子にちょこんと腰かけていた。
「お待たせしました」
「待ってませんよぅ」
くすくす笑う顔は、赤みが引けてもういつも通りだ。
「どうしたんですかぁ? 此木さん、この時間に上がるなんて珍しい。一緒に帰れるの嬉しいですけどぉ」
彼女がふふ、と座ったまま見上げて微笑む。その足元を見てやはり、と確信した。
「足が」
「あし?」
「あなたの足が、つらそうで」
「あっ、ばれちゃった恥ずかしー……」
慌てて踵に添えられる手。見れば、ストッキングのその下は、絆創膏で覆われている。
「足指にも絆創膏ですか」
「はい。新しい靴が、まだ馴染んでなくって」
失敗しましたぁ、と眉毛を下げて笑う顔。責める意図はなかった。足を痛めるほどの今日の働きぶりは、自分が一番見ていて分かっていたのだから。
その言葉は、するりと口から出た。
「春色の、綺麗な靴です」
「え、ありがとうございます!」
「あなたによく似合っています」
「……!」
「ですが、今日はもうあまり歩かない方がいいでしょうから、私の車で送ります」
「……!!」
彼女が何故かまた、ぽんこつ化してしまった。
車に乗っても無口で、こちらから何かを聞いてもとんちんかんな答えか、「エエ」「ハイ」とカタコトの返事。そして、頭から湯気が出そうな赤い頬。足が痛すぎて熱まで出たのだろうか。どのみち、この様子では彼女の家までの道案内も期待出来そうにない。やむなく自分の家へ連れて行くことにした。
「到着しました」と下車を促すと、彼女はようやくそこが自宅ではないということに気付いたらしい。
「コッ、コノキサンッ」
「私の借りているマンションにひとまず連れてきました。もしお嫌でしたら」
今度こそ送ります、という言葉は、「オイヤデハアリマセン!」というカタコトに遮られた。
エレベーター内でも彼女の異変はなかなか解けない。部屋に通すとようやくふわっとした表情が戻って「……ここが、此木さんのおうちなんですねぇ」と笑った。
「よかった」
「なにがですかぁ?」
「さっきまでは、なんだかポンコツだったから」
「ひーどーい! 緊張してたんですー! ずっと!」
「……なぜ?」
今更緊張される理由なぞこちらには思いつかない。彼女は、すすめた緑茶にちびり、ちびりと小鳥のように口を付け、「……好きな人にうんと接近されて、いつも言わないような言葉を聞かされて、一緒に帰って、その上おうちに上げてもらったら緊張くらいしますぅ……」と打ち明けた。
「なるほど、それでポンコツ化されていましたか」
「もー、わたしばっかり恥ずかしいー……」
彼女は顔を隠すと、そのままラグの上でころんと横になる。その柔らかい髪に、指を遊ばせた。
「むしろそれは私の事かと」
「うそだぁ」
「今日、課長にニヤニヤされるほど、業務中にあなたを見てしまいました」
「……!」
「だから、素敵な靴にも足の様子にも気付けたんです」
「……!!!」
「お嫌でなければ、今日はゆっくりうちで寛いでください」
こく、こくと縦に振られた頭。手の下でくぐもる声は「オイヤデハアリマセン……」と小さく耳に届いた。
その晩、簡単な手料理を振る舞い、もらい物のワインを一緒に開けた。
溜まっていた録画を、並んで座って鑑賞した。
お風呂から出た彼女の脚を、念入りにマッサージした。
スタンプのようなキスをいくつも交わした後、足指や踵にも唇を落とした。
お嫌でしたら、と確認する前に、「ちっともお嫌じゃないので!」と抱きつかれて、上司の言うところのラブに勤しんだ。
一つの寝具を分け合い、手を繋いで眠った。
自分一人の生活に満足していた。もし気になる存在が出来たとしても、それは安寧を乱すものだと排除するかと思っていた。誰かと過ごす夜が、こんなにも満ち足りたものだとは。
翌朝、メイクも付けぼくろもカラーコンタクトもない彼女が起き抜けに「おはよーございますぅ……」とおいしい食パンのように柔らかく笑ったのを見て、つられてこちらも笑んだ。そして、自然に「結婚しますか」と口にしていた。素のままの彼女の目が、まんまるに見開かれているのを見て、我に返る。
「……すみません、意思確認もろくにせずに勝手な事を。忘れてください」
「忘れません! お嫌でもありません!」
高速で返事をいただいた。目が合うと、どこか泣きそうな顔で「やっと言ってもらえたぁ」と呟く。
「お待たせしていたのなら申し訳ありません」
「いえいえいえ、わたしが勝手に待ってただけですからぁ!」
あわあわとしている彼女を、もっとじっくり眺めていたいところではあるけれど。
「急いで支度をして、いったん家まで送りましょう。昨日と同じ服のまま出勤は出来ないでしょうし」
「あ、そうですねぇ」
「そのあと、どこかで朝ごはんを摂りましょう」
「はぁい」
昨日とは入れ違いに木曜日用のネクタイを締めて、彼女と家を出た。
――彼女の服装が昨日とは違っていても、今日の上司のニヤニヤはひどいだろうなと言う事と、ちかぢか結婚について報告しないといけないだろうけれど、ニヤニヤがますますひどいだろうなと事が容易に想像出来た。そんな、こちらの憂うつなどつゆ知らず、「此木さぁん、朝ごはん何にしますぅ?」と助手席で笑う彼女の、今日の付けぼくろの位置とカラーコンタクトの色を予想しながら車を走らせた。
「おはよぉぉコノッキ~、ねえねえ昨日はあれからどうだったの~? ウフフ♡」
「仕事してください」
とかなんとか。