マシュマロ(後)(☆)
事件が起きたのは、その翌日。
例の、勇気を出して告白したガールが、お店にやってきた。
「いらっしゃいませ」
「……あの、今日、予約とかしてないんですけど……」
「かしこまりました。少しお待ちいただくようですけど、よろしいですか?」
「……はい」
まいちゃんが問いかけても、聞こえてくる反応がなんだか鈍くて、そのことが少し気にかかりながら、私は担当していた他のお客様のカラーを入れていた。
「おまたせしましたー、こちらへどうぞー」
スタイリングチェアまでご案内しても、ガールはまだ暗い顔をしている。そして、意を決したように「あの、今日、店長さんは」と聞いてきた。
「あー、研修行っちゃってるんですよ、夜に一度顔出しに来るみたいですけどー」
「……そうですか……」
ああ、ひと目でも会いたかったんだね。お断りされて、駄目って分かっていても。もしかして、今日が最後のつもりだったのかもしれない。
艶やかな髪。うん、お手入れをおうちでもしっかりなさってる。髪質、すごくよくなりましたよ。もし他のお店に通われることになったとしても、キープされるといいなあ。このままこの店に通ってもらえたら、もちろんそれが一番嬉しいけど。
ガールは、前髪カットをして、言葉少なにお帰りになった。
閉店後、予定通り小早川店長が帰ってきた。
「お帰りなさーい。あのーてんちょー」
私がそそそっと近づいて、「この間告白されたって云ったじゃないですか、今日その方が……」と耳打ちしたところで、お店のドアについているウインドチャイムが、がしゃがしゃと派手に鳴った。
まるで壊れた心をさらに粉砕しているみたい、と穏やかではない音色に身体ごと振り向くと、そこには昼間のガールが、もっと表情を削げ落として立っていた。そして。
「……この人なんですか」と私を指さす。
「この人ですよね、小早川さんが好きなのって」
「それは、あなたには関係ない」
小早川店長が、怒りを抑えてなのか、聞きようによっては優しく聞こえるような淡々とした口調で返す。
「だって昨日、二人でご飯食べに行ってたじゃないですか」
怯まない彼女の追撃に、とうとう店長は笑顔の仮面を捨てて冷酷な顔になる。
「店のスタッフとならサシで食事をする事も飲みに行く事もあります。それをどうこう云われる筋合いはありませんし、あなたのしている事はストーカー行為ですよ、分かっていますか」
「どうして、私じゃ駄目なんですか、はっきり教えてください」
「こんな愚かな真似をする人間だからって云ったら、気が済むのか?」
「!」
なにごとも間違えない小早川店長が、相手につられてか強すぎる言葉をぶつけたから、みんなが息を飲んだ。そしてそれを聞いたガールは、舐めるように燃やしていた焔を、一息に爆発させた。
「――あんたなんか!」
バッグから何か出した、と思ったらそれは抜き身のナイフで、彼女はそれを小早川店長に向けて両手で振りかざした。ナイフは天井のダクトレールに並べられたペンダントライトに反射してギラリと不気味に光って、でも私は呆然と見ているだけで指一本も動かせられなくて、――
「ゴラァァァァッ!!!!!」
その時、背後から突然浴びせられたライオンの咆哮のような大声(本人的には多分『こら――――っ!!!!!』だったと思われる)が、ナイフを持った彼女の手を一瞬怯ませた。恋人を迎えに来た一号店の前島店長は、声に驚いたガールの手首に迷わず手刀を入れてナイフを叩き落とす。床に転がるやいなや蹴飛ばされたそれは、スタイリングチェアまで飛んでいってカキンと脚に当たると、くるくる回ってからようやく止まった。それを見た私が、魔法が解けたみたいに近付いて、まだ生きている虫に触る気持ちでこわごわと手を寄せる。掴む直前、前島店長に「素手で触んな」と鋭く制されて、慌ててビニール袋を取って来て、指紋を付けないように拾った。
それから一号店店長は大股で小早川店長の前までつかつかと歩き、苦々しい顔で「お前な、」と云ってから、形のいい頭を躊躇なくスパンとはたいた。
「プライベートに踏み込まれたからって、存分に傷つけていい訳じゃねーぞ小早川。――あなたも、こんな事してちゃいけない。警察呼ぶから頭冷やしなさい」
ヤンキー座りして優しく諭す一号店店長の言葉に、その場にへたり込んだまま終始無表情だったガールがみるみる顔を歪ませて、「うわ――ん!」と小さな女の子のように泣きじゃくった。
全部片が付いたのは、日付を跨いでからだった。まいちゃんは予定通り一号店店長に送られた(もしくは持ち帰られた)。
去り際に前島店長は、「いい機会だから、お前らちゃんと話ししろ。七年分のツケをいいかげんキッチリ清算するんだぞ、いいな」と念押しして、そのことをまるで知らないまいちゃんに「七年分の清算って何のことですか? 教えて!」とカミツキガメみたいに熱心に食いつかれながら「さあな」なんてへたくそにはぐらかしてた。
――やや気まずい気持ちで隣を見上げる。
店長は前を向いたまま「怪我はしてないか?」と極めてフラットな口調で聞いてきた。
「あ、はいー。小早川てんちょーは」
「俺も」
そう云うと、両手で顔を覆って、「はー……」と聞いたこともないような長い長いため息を吐きつつ、同じく長いおみ足をたたむようにしゃがみこんでしまう。
「びびった……」
「めちゃくちゃ普通に見えましたけどー?」
「それはそう見せてただけで、さっきまで手も足もガクガクしてたよ」と明かしながらもすぐに立ち上がって、「一人歩きには遅いから、送る」と、ガクガクしたっていうのがまったくの嘘みたいに普通に歩き出した。――でも、例によって動揺してる時の密かなクセで、曲がってもいない眼鏡のポジションを何度もしつこく直していたから、やっぱりちゃんと動揺していたらしい。
うっすらと覆う雲の間から、おぼろ月の優しいひかりが、夜空をぼんやりと照らしている。花冷えはとうに去って、でもまだ夏でも梅雨でもなくって、確かこれくらいの季節を余春と云うのですよって、元国語教師のお客様にこの間教わったっけ。風がそよそよしてて、どこかのおうちでは牡丹のお花がきれいに咲き誇っていて、あんなことがなければ、ただのいい夜だ。
二人で夜道を歩いているっていうのが、とても不思議で、ここちよい。
そんな風に思ってしまう自分にびっくりして、あわてて「もっと言い方とかなかったんですかー? 前島店長も注意してたけど『こんな愚かな真似をする人間だからって云ったら、気が済むのか?』はいくらなんでもないですよー」なんて話をまた掘り返してしまった。
「すまない、すっかり頭に血が上って」
「ははっ、小早川店長でもそんなことあるんだー」
「あるさ。――お前が傷つけられたらと思ったら、冷静ではいられなかった」
「傷ついてませんしー」
「俺は、お前の疫病神だな。いっそ離れていた方が、害が及ばない」
「こばやかわてんち……」
「でも、その選択はないんだ。悪いな」
並んで歩くその人は、下からのぞき込むようにしてこちらを向き、不敵に笑った。ほんと、強がりだな。
多分、大内君あたりが見たらやっぱり『こわっ!!!』って涙目になっちゃうような強気な顔。無敵で不遜で、でもそうじゃない。今、ちょっと弱ってる。さっきのことで。私に、迷惑かけたと思ったことで。
ばかだなあ。この人、選び放題のくせして、私なんかに一途で、ばかだなあ。
それが嬉しい私も、相当ばかだなあ。
今のこの気持ちが思い違いでもかまわない。なんでとか、好きじゃないとか、頑なだった自分をまぜこぜにしたらむずむずしてきて、「小早川てんちょー」って口から勝手に出てた。
「私って、結局てんちょーの何なんですかー?」
それを聞いて、小早川店長が足を止めたから、私も止まる。まっすぐに向けられた視線に、自分が丸ごと縫いとめられる。息も、影も。
考えたり迷ったりする様子がないまま開く唇を、ただ見つめた。
「頼りになる同僚。腕の立つスタイリスト。ひどいやりかたで傷つけた女。――好きな女」
それを聞いて、うっかり喜んじゃいそうな自分をどうどう、と戒めて、質問を続けた。
「思わせぶりな態度を取ったり取らなかったりしたのは、なんでなんですかー?」
「自分で云うのもなんだけど、前がひど過ぎたからな、とんでもなくマイナススタートだっていう自覚は重々あった。だから、最低限現状をキープしようと思ったら、お前に嫌われる事なんかそうそう出来やしないだろう。言葉も態度もタイミングを見計らってたらああなったんだよ。好きで出し惜しみしてたわけじゃないが、戸惑わせたのならすまない」
ふうん。じらしテクニックとかじゃなかったんだ。
「前も云ったかもだけど、私、もう恋人のことをなにもかも肯定するような人間じゃないですよー」
「だから、改めて好きになったんだ」
「やっぱり、心の底からは信じてあげられないと思いますよー」
「それでいい。一生疑ってくれて構わない」
さんざんいやなこと聞いて、きちんと答えてもらって、あ、七年分の清算出来た、と思った。だって、色んな気持ちがすとんと腑に落ちた。
うん。
いいじゃん。
それで、いいじゃん。
過去をまるっと『許すよ♡』なんて云える私じゃあ、もうなくって。
なおかつ一生懸命とがらせてたとげは、時間と一緒に少しずつぽろんぽろん抜けはじめちゃってて。
今までの続きのような、でもまた新しい気持ちが、胸の中にある。
それにしたって、同業すら避けてたのに、よりにもよって同じ系列の同じお店の元彼だなんてね。明日出勤したらまいちゃんにすーぐばれて、福原ちゃんに速攻で報告行きそう。あー怖い。
気がついたら、笑ってた。
それを見て、判決を下される被告人みたいな神妙な顔をしてた小早川さんが眉をひそめて「……おい柳井、どうした」と心配そうに声を掛けてきたから、私ったらよっぽど場違いなリアクションをとってしまっちゃっているんだね。そりゃ、そうか。
私、まただまされちゃうのかな。三回目の二股ふられ、来るかもね。
でも、来ないかもしれない。七年ぶりの二人は前とは違うから、前とおんなじ結末を迎えるとは限らない。やっと、そう思えるようになった。そう思う自分を許せるように、なった。
だから、あのエイプリルフールに嫌いで固めた好きを、そろそろ自由にしてあげよう。
ずっと小早川さんからもらうばっかりだった。言葉やフォロー。ここからは、してもらうばっかりじゃなく、私も動く番だ。
「てか、いつまで『柳井』呼びなんですかあ?」
いじわるっぽく云ってみたら、ご機嫌な時に出る黒い笑みを湛えた、ものすご――く悪ぅいお顔で「希実子」って呼ぶから。
――閉じ込めていたとても大切なものを、やっと箱の中の包みから取り出したみたいな声で、云うから。
「はい、恭二さん」
永久凍土が融けて、防火扉が開いて、ふたたびマシュマロ(でもまだとげ付き)になった私も、素直にそう呼べた。
20/08/13 一部修正しました。