とげとマシュマロ(☆)
美容院シリーズ。「クリスマスファイター!」内の「とげとげマシュマロ」に関連しています。
古巣の店で再会した、かつて自分が傷つけた女は、「あ、どーもぉ、お久しぶりですー」と何でもないように笑顔で挨拶をしてはくれたが、醸し出す雰囲気は棘がびっしり生えたマシュマロのようだった。
触ると痛い。でもきっと、今でもとても甘い。
勤務している美容室のオーナーの妻との不倫関係――関係を持ったものの挿入行為はしておらず、恋愛感情もなく、ただ手っ取り早くスタイリストになるための踏み台としか見ていなかった――がばれた時、本当ならクビになってもおかしくはなかった。なのにそうはならず、自分はオーナーが一人で回しているサロン預かりの身となり、――その店でまず最初に命ぜられたのは、タオルたたみだった。
何で今更こんな事を。バイトや下っ端がするような雑用なのに。
そんな気持ちを隠さずにいると、不倫騒ぎがあったにも関わらず柔和に見えるオーナーが「仕事に上も下もないよ。どんな仕事も大事です。特にここは、君と僕だけだからね、『これはやりたい』『こっちは自分にふさわしくない』なんてえり好みするようなら子ならいりません」と笑顔で云った。――オーナー自身もタオルをたたみながら。俺がするよりも速く、奇麗に高く作られるタオルタワー。
やればいいんだろ。やってやるよ。
そんなふてくされた気持ちで、自分も続いた。同じ作業を同じクオリティで仕上げるのに、倍くらい時間がかかった。
そのサロンで自分は、オーナーからやることなすこと全てに駄目出しをされた。
床にモップをかければ「掃除が雑ですね」、カットの練習をしたマネキンヘッドの仕上がりを見てもらえば「へっっっったくそだねー」と、笑顔で。
「掃除も雑用もカットも下手で、君は何なら上手に出来るの? あの店で、なーんにも学ばなかったの?」
そう云われて、何も言い返せなかった。
少し前の自分なら迷わずにカットが得意です、と言い切れた。でもそれは『下手(正確にはへっっっったくそ)』の烙印を既に押されている。他の事も、人に任せっぱなしでいるうちに、すっかり腕が鈍っていた――そもそも自分のベストな状態でも、オーナーから見れば及第点に達していなかったのだろう。
「人に任せてもいいけどね、それで自分の仕事の質落としてちゃ意味ないよね」
俺が黙ったままモップの柄を握り直すと、オーナーはしずかに「辛いですか?」と問うてきた。
「柳井さんは、もっと辛いでしょうね。君のように他の場所ではなく、あの店で毎日働いていますから、毎日思い出さずにはいられないでしょう。けれど、彼女はあちらにいる事を選びました。強い人です。そして、小早川君より努力家です。どうやらあなたは鼻ばかり高くおなりのようだ。僕が、身の丈に合った高さにまで折ってさしあげますよ」
ああ、聞きたくない。
毎日こんな調子で強いパンチの効いた言葉を、にこやかなオーナーからいくつも喰らった。持ち合わせていたプライドは、もはや粉糖ほども粉々だ。
――粉糖というワードで、思い出してしまう存在。
スイーツの仕上げに粉糖がかかってるの、すっごいぜいたくで豪華な気がしちゃうんだー!
あたし単純だから、と照れたようにふにゃっと笑う希実が、好きだった。
あの甘くて柔らかい表情を凍り付かせたのは、他の誰でもない、自分だ。
忘れたふりをしたかった。けど、出来なかった。どうしても。
自分が描いていた何もかもが壊れて、後日、自宅謹慎を言い渡しに来た前島店長にぶん殴られて顔がひどく腫れた時も、謹慎が明けてオーナーのサロンへ行く事になった時も、俺はずっとあの子に対して憤っていた。
何で俺が。ふざけるなよ、実力で云ったら向こうがサロンに飛ばされるべきだろ。
そう必要以上に詰っていたのは、なんの落ち度もない恋人を、自分の身勝手で深くふかく傷つけたという後ろめたさがあるからだ。
サロンで働き始めてしばらくは、あの子に思いを馳せる余裕もなく、一日一日をこなすのに精一杯だった。――というのはきっと建前で、本当は知らんふりを決め込みたかっただけ。
季節がいくつか過ぎ、手が仕事を覚え直した頃、オーナーに「君はもうなんでも器用に出来ちゃうね、つまんないですねえ」と云われるようになった。
そして時間を掛けて頭がようやく冷えれば、じわじわと罪悪感にさいなまれる。
一体、俺は好きな女の子に何をした? カットやカラーリングやアレンジの練習台として、さんざん好きなだけいいように使って、その上野心の犠牲にして、不倫騒ぎに巻き込んで。
好きなのに、大事にしなかった。これくらいならバレないだろうと、心は希実にあるのだから、最後まではしてないから大丈夫だと、自分に都合のいい解釈をして。
結局は、希実の心に大きな傷を負わせて、店にも迷惑を掛けただけだ。
その上放り出さずに面倒を見てもらって、一から鍛え直してもらったのに、感謝するどころか内心逆ギレしてたなんて最悪だ。
今まで客観的に見てこなかった自分の本当の実力が、オーナーと並べて見せられる事で、とんでもない思い上がりだとようやく気付かされた。
確かに、専門学校では同期の中で自分が一番だった。学内のコンテストでもらった金メダルは、外でもそのまま同じ価値があると信じて疑わずにいた。自分は人より特別に優れているのだと。
だから少しぐらい外れた事をしても許されるだろうなどと思い上がって、ここまで来た訳だ。
オーナーから課された特訓をしぶしぶやっていたくせ、よく出来ましたと褒められれば飛び上がりそうに嬉しくて、ひとしきり喜んだあと、その熱が冷めればいっそう現状が『真実をきちんと見ろ』と迫ってきた。
あの子があの店で奮闘している間、自分はぬくぬくとサロンに居座り続けた。
逃げ出したい。自分のした事全てをゼロには出来ないけれど、せめてここから去る事で希実の心の負担を少しでも軽くしたい。
「辞めさせてください」
俺のその申し出を、オーナーは冷静に受け止めた。
「なぜ今更?」
「――本来なら、はじめにそうするべきでした。思い上がって傲慢だった自分を、今の自分はどうしても許せないんです」
「……そう」
腕を組むオーナーの前で、深々と頭を下げた。
「オーナーに直接ご指導いただけて、感謝しかありません。慰謝料は分割になりますが、オーナーから提示されただけの額を、何年かかっても必ずお支払いしますので、」
「いりませんよ、前妻からもう貰っていますから」
「でも」
「辞めて、自分だけ楽になろうって云うのはずるいなあ」
その言葉にハッと顔を上げた。――そうだ、この人も当事者だ。
穏やかな口調が、かえって身に染みた。
「確かに、あの頃の小早川君は本っ当に最っ悪で、このまま辞めさせたら孵化しないスタイリストの卵が一つ腐るだけという感じでした。でも僕は、それではもったいないって思ったんです。君、小器用だし。まあ一年面倒を見て変わらなければ、残念だけど見込みなしでクビにするつもりだったけど」
「……そうなんですか」
「うん。けどまあ、頑張りましたよ。無駄に高かった鼻も、僕が叩き折ってあげたから程よい高さになりましたしね」
「はあ」
褒められているのかけなされているのか。
「あと一年、このサロンで鍛えます。僕の技術を盗めるだけ盗みなさい。それで、あの店に戻します」
「けどそれは、柳井にとっては酷なのでは」
「彼女なら乗り越えられます。僕はそう思います。もし駄目なら、今度は彼女にこちらへ来てもらえばいいだけですし」
「……」
「やりようはいくらでもあるし、未来は変えられます。君が今すべきなのは、後悔ではなくスタイリストになる事です。反省する点は真摯に反省して、ただしそれを辞めるための免罪符にはせず、正々堂々と会いに行ける立場になりなさい」
「……はい」
「まあ、柳井さんはもう君には一片の未練もなくて、スムーズに店を回せるという可能性も高いと思いますけれどね」
どうしてそう、ぐさぐさと的確に要所を刺してくるのか。
でも、これはチャンスだと俺の負けん気がそう云っている。スタイリストとして、今度こそ成長出来る。
店舗を任せてもらえるくらいの人材に、なる。
それしかない、希実に会うには。
そう思い至って、苦く笑う。会いたくないだろう、向こうは。
なんとか及第点をもらえて店に戻って二年、表面上は普通の同僚としてお互い接した。あからさまに避けられない事はありがたかったが、まるで何もなかったように振る舞う希実に、身勝手な寂しさを覚える。それに。
――ただふわふわと甘かった彼女は、心にたくさんの棘を飼っていた。
あの頃と変わらずに笑ってはいる。楽しそうにもしている。けれどそれは、かつての透明な水のようだった彼女に、一滴黒いインクを垂らしたような、そんな陰りが常にあった。
謝りたい。そうして彼女の前から姿を消したい。その思いが沸き起こるたび、今よりもっとましな人間になってからだと、自分に言い聞かせた。
抱いたのは罪悪感だけじゃない。改めて、好きになった。
ふわふわしたところを残しつつ、しなやかな接客を身につけた女に、惹きつけられずにはいられなかった。小さい子供からお年を召した方へ、耳を傾けどんな会話でも弾ませられるというのはとても得がたい才能だ。
柳井さんは強い、とあの時オーナーがそう云ったのは、けしてメンタルのみをさしていたのではないと思い知る。スキルと経験と自信に裏打ちされた希実は、確かに強い。
負けていられないな、と思う。
二号店を一緒に切り盛りするようになってからも、互いの間に大きな変化はなく――態度を硬化されなくて幸いだ――、慣れ親しんだ同僚として節度を保っていた。
「お前ってどSなんだかどMなんだか分かんねーな」
一号店店長に、酒の席でそう絡まれるほどに。
「このままでいいのかよ」
かつては俺をぶん殴った男の、明らかにこちらの肩を持ったその発言に苦笑する。情に厚い人だ。
「いいもなにも、キャスティングボートを握っているのは柳井ですから」
「ああ? それどういう意味?」
ガリガリと前髪に手を突っ込んで、もどかしそうにしている。
「二号店オープン前日に謝らせてもらえました。柳井が好きだという事もとりあえず伝えました」
「……あー、そう……」
今度は一転、気まずそうな一号店店長に笑った。
「気長に行きますよ。すぐにどうこう出来るとは思いませんから、じっくりとね」
「えーと、あんまりあいつを追い詰めんなよ……?」
それには是、と答えたくなかったので、盃の中身をクイと飲み干し笑みだけ返すと、「こわっ……」とおののかれた。
俺は、お前が観念して落ちてくるまで待てるから、いくつか寄り道をしておいで。
時間の長さで相殺出来るとは思わないけど、強引にこちらを向かせるつもりもない。
お前がまだびっしりと棘をはやしたマシュマロだとしても、甘さも硬さも苦さもやわらかさも毒も、すべてをおいしくいただくよ。
そんなの、俺にしか出来ない。そうだろ?
それを聞いた希実が、いつもの棘を忘れてキーキー騒ぐさまがありありと想像出来て、何とも云えずに愉快な気分になった。
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前島「おまえやっぱどM」
小早川「でもただ命令聞いたり奉仕するより、命令してあげる方がすきですけどね」
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