春色とロマンス
会社員×フリーター
春色の汽車の春色って、いったい何色なんだろうね。
懐かしいアイドルの歌がラジオで流れたのを聞いて何の気なしにつぶやいたら、『じゃあ、汽車じゃないけど電車、見に行こうか。で、歌の通りにそれに乗って海行こうよ』って、誘われた。
大人になってからの失恋は、けがと一緒で癒えるまで時間がかかる。
髪を切ったり断捨離したりの対費用効果が薄すぎる。それでも何かしないよりは一歩でも前に外に出た方がいい、よね。
――と、思ってはいるけど。
「こんなに遊んでばっかでいいのかな」
「まあそう言わず。どこへでも喜んでお供しますよ」
弟――というと決まって『違うし』ってつっこんでくる、弟の友達の井坂君が、すかさずナイスな返事をくれた。ちなみに、今月の週末は彼とのお出かけでほぼ予定が埋まっちゃってる。『こんなに遊んでばっかで』の中には、恋人のいないヒマな自分はいいけど、私服でいるとまだまだ大学生みたいな井坂君の時間をこんなに奪っちゃってていいのだろうか、も含まれてる。
「……なんかいっつも、尻尾振ってついてくるよね」
マメに誘ってくれるのはありがたいくせに、私ったらついそんな風に言ってしまう。
「ちょっと、人を犬みたく言わないでくれる?」
ほら、黙ってればそこそこかっこいい系なのに、簡単に拗ねた顔なんか見せてくれちゃって。そんな風に、弱いところをさらけ出して平気なのは、私を意識してないからに決まってんじゃん。
「犬みたいなもんでしょ。ポチー散歩いくよーっていったらリード咥えて玄関で先に待機してるみたいでさ」
「まあいいけどね、犬でも何でも」
まだ若干拗ねたまま、彼は話を強引に終わらせた。そう言わないで、もうちょっとお姉さんにつきあおうよ。
つっぱなされるのは寂しいから嫌いだよ。でも嘘つかれるのは、もっといや。いちばん、いや。
『いちばんいや』を思い出せば、あっという間に心がふさぐ。せっかく、きれいな花やかわいいイラストでカラフルに彩られた黒板が、一瞬でただの沈黙の板になる。
私がそうなってしまうと、井坂君はそっと手をつないでくれる。いつも。
「とにかく、行くよ」
「……うん」
「楽しみにしてたんでしょ、『春色』乗るの」
「うん」
「しかしほんと何色なんだろうな」
まじめな顔してつぶやくから、心がぎゅっと絞られて、なにかが一滴転がり落ちる。
でもそれ拾わないよ。だって私、まだ失恋モードなんだもん。
薄暗いホームに滑り込んできた特急列車は、こっくりしたブロンズ色。『春色』で想像してたものとはずいぶんかけ離れている。
「なんか、思ってたのと違ーう」
ぽろっと本音をこぼせば、くすりと笑われた。
「十和さんは何色がよかったの?」
当たり前につないだままの手。どうしてって、聞くタイミングも、やめてよって振りほどくタイミングも、もうとっくのとうにすぎてしまったから、私も知らんぷりしてつながれたままでいる。
「春って言ったらパステルカラーじゃない?」
「ああ、今日のかわいいスカートとお揃いだ。女の子だねえ、やっぱ」
「やっぱってなによ」
「再確認しただけ」
「確認すんな」
つないだままの手で、奴のわき腹に軽くグーパンいれた。そしたらまたこっそり笑うし。
「やっぱ女の子」
「はあ?」
「パンチ、力加減しすぎてくすぐってーし。手ーちっちぇえし」
「そんなの女の人ならみんな当てはまるって。手加減しなくていいならゴリラ握力って言われた私の本気の握手、受けてみる?」
「やー、それは遠慮します」
ここちよいじゃれあい。気安くて、安心できて、楽しくて。私がこれがいいって分かってて、あわせてくれてる。よくできた、優しい弟分なのだ。
「井坂君はいい子だ」
つぶやくと、しかめっつらをする。
「彼女できたらちゃんと教えてよね」
「……了解」
ほんとは教えてほしいなんて思ってない。そうなったら私、絶対あとでめそめそ泣く。それでも、井坂君が好きな人とちゃんと幸せになれるかどうか、姉的な立場で見極めたいと、そう思ってもいる。
幸せになってほしい。傷つかないでほしい。そう思う心の成分なんか知らないし、知りたくない。今は。
「何号車だっけ」
「も一つ先っぽい」
チケットと列車の側面に記された数字とを見て、井坂君が私の手を引く。
中に入って席について、離された手。そりゃ、そうよ。飲み物飲んだりお菓子開いたり、旅の車中は手が忙しいもの。
ゆっくりと滑り出す車体。気づかずに始まった恋のように。極めてスムーズに。
「向こう、晴れてるかな」と、ガラスの向こうを見るふりをして、うっすら映る横顔を眺めた。造りのいい横顔は「晴れてなくても楽しいよきっと」と笑って、難なく開いたクッキーの袋をはい、とこちらへ向けてくれた。
井坂君の、そういうところが、私。
ぎゅっとなる。絞られて、またひとつ滴るなにか。私はそれに、なんて名前をつけようか。
少し前に、恋と職場をなくした。それに伴って、心と健康もやや失った。恋は向こうの二股が発覚したのち強制終了、職場は業績悪化で倒産。それぞれのあんまりな幕引きに、心身ともに疲れ果ててしまったらしい。
別にね、『私が傷付いた分そっちもダメージ受けろ』とか、『今までしてきたことを金品に換算して返してよ』とかそんなおっかないことばっかり考えてた訳じゃないよ。でもおしまいですねはい分かりました、って素直に受け入れられるものでもない。どっちもそれなりに長かったし、大事だったし。
それからしばらくのことって、あんまり覚えていない。駄目だなあ私、ってばっかり考えてたのは覚えてるけど、落丁のひどい本みたいにぼろぼろ記憶が欠けてて、気がついたら月日がガンガン流れてて、気がついたら、井坂君が傍にいてくれてた。
弟と彼は中学から大学までずーっと一緒で、私も何回か一緒に飲んだことがある、くらいにはもともと馴染みだったけど、こんな風にしてもらう関係ではなかったはずなんだけど。
『ここの好きでしょ』って、午前中に行かないと売り切れてしまうケーキを持ってきてくれたり。
『うちの庭に咲いてたから』って、紫陽花やホトトギスといった、季節のお花を切ってきてくれたり。今日も、お迎えに来てくれた彼の手の中でユキヤナギがふわふわと揺れていたな。
最初は『ありがとう』って反射で返すだけでさほど心が動いていなかった私も、井坂君が訪れてくれるたび、そのささやかな贈り物にちょっとずつ目が引き寄せられて。
うっすら残る肌寒さ、午後二時ぐらいの外の匂いともったりした空気感、春に向かってゆく日差しの眩しさ、コップに活けられた花のうつくしさ、テーブルに映るコップの水のきらめき。
そんな一つひとつを、もどかしいくらいにゆっくり、取り戻していった。
するとそれを察した井坂君は、『あの公園に今の時間はお散歩の犬がたくさん集まってるよ』『十和さんの好きなアーティストの個展、今日までだから行こう!』って私の手を引いて、どんどん私を外の世界へ連れて出してくれた。
感謝してる。ううん、それじゃ足りない。いい人なんて言葉、百人分あったって足りないし、それだけじゃない。
ぽたり。
言えない言葉が、また一つ。
弟の友人の井坂君は恩人。優しくて私を甘やかす天才。
楽しくて、つい忘れそうになるけど、自分はいま弱ってて、優しくされると必要以上に沁みるから。そして彼は年下だから。とってもいい子だから。きっと、私よりうんと素敵な人とつきあうだろうから。
たくさんたくさん、危なっかしく並べたドミノ。大きさも幅もまちまち。それがいっこ倒れちゃったら、もう止まらないと思う。だから恋にはしたくない。
恋は、どっちかが手を引いたらあっけなく終わっちゃう。元彼に、そう教わったばかりだ。でも友情だったり非恋愛対象なら、比べたら少しは長持ちするでしょう?
それでもやっぱり、私はおろかで、恋にしたら駄目だよって思う度に、咎める心を笑う足が、勝手に一歩前に進んでしまう。
こんな、二股されて選ばれなかった上にフリーターなしょぼい年上の自分を、好いてもらえるはずはないのに。
都内を抜けると特急はスピードをぐんと上げて走る。平日だけどそこそこ席がうまっていたから、他の人のご迷惑にならないよう、いつもより肩を近くに寄せ合って、ひっそりとおしゃべりを楽しんだ。
「十和さん、仕事はどう?」
顔を合わせるたびに聞かれるその言葉は、もう何十回目になるかな。
『また同じこと聞かれてる』なんて思わないよ。心配してくれてるってことだから、問われるたび実は嬉しい。
まだフルタイムで働けない私に、今のバイト先を紹介してくれたのは井坂君だ。
「おかげさまで、よくしていただいてるよ」
「向こうもいい人に来てもらって助かったって」
「ほんとにー? そう言えって言われてんじゃないの」
照れ隠しに冗談でそう口にすると、彼は静かに「俺は嘘はつかないよ。知ってるでしょ」と返してきた。
「……うん」
嘘に嘘を重ねられて、結局捨てられた。別れ際のやりとりでつけられた傷は私の中に深く残って、訪れてくれた井坂君の前で『どうして男の人は嘘つくの』とみっともなく泣いたこともあった。
『つかない』
その時、井坂君は今と同じように、きっぱりと静かに言い切った。
『俺は、十和さんの前で嘘はつかないから』
そう告げたあと、私を守るように、そっと包んでくれた。
思い出すたびにくるしいばかりだったそれは、いつしか優しくてほんのり甘い記憶に変化している。
でもこれ以上甘くならなくていいよ。だってあれは恋する男女のハグじゃなかったんだから。
ああいう風に包まれたのも、手をつながれるのも、きっと私の心の傷に対する手当て、みたいなものなんだろう。
傷が癒えて手当てが終われば、もうされることもない。あらかじめ失われるって分かってるなら、いっそ欲しがらずに済んで助かる。
そう思うのに、どうしてこんなに心細くなるの。春だからか。
頼りない自分を支えたくなって二の腕に反対側の手をやると、すぐに気づいた井坂君が「空調寒くない?」と囁く。
「大丈夫」
「でも腕、寒そうだから」
目の前でパーカーを脱ぐと、井坂君はばさりとそれを私に着せかけた。
「……大丈夫って言ったのに」
「十和さんの大丈夫は信用ならない」
そんな憎らしいこと言う人にはゴリラ握力プレゼンツの本気握手の一つもお見舞いしたいけど、彼の体温で温まったパーカーは暖かくって心地よいからおとなしくそのままくるまれてることにした。――非恋愛ハグで包まれたあの時と、同じ匂い。
目的地について電車を降りる時にパーカーを返そうとしたら「今日は日差しはあっても風が冷たいからそのまま着ておきなよ」と唆されて、あっさり脱ぐのをやめた。寒くはないんだけど、私も、もうちょっと着ていたかったから。
ぶかぶかのパーカーの袖から指先だけがちょんと出ている状態を見て、井坂君は「萌え袖」とお世辞で笑って、それから袖の中にするりと手を入れて、つなぐ。――まあ、混んでるしね。はぐれたくないし。
なのにうっかり弾む心に、困った。
雑踏を歩きながら、井坂君が「そういや十和さん、誕プレ考えておいてくれた?」と聞いてくるけど。
「んー」
ふた月も先の自分の誕生日なんて、なにをプレゼントしてもらったらいいのやらさっぱりだ。ほしいものは自分で買ってるから特にいらないって何度言ってみても『まあそう言わず』なんて返してくるし。だから、冗談と本気、半々くらいの気持ちで『ほしいもの』を口にしてみた。
「しいて言うなら私を甘やかしてくれる彼氏かなー」
「なにそれ、てか甘やかすってどんな風に?」
「誕生日に手料理を振る舞ってくれたり、さりげなくコーディネートをほめてくれたり、暇さえあればキスしてくる、みたいな」
ちなみに、元彼は一つも当てはまらない。我ながらドリーミーすぎて恥ずかしくて、言えなかったな。『こうしてほしい』って。言ったからって叶ったかはどうかは別だけど。
「まあ、まずは出会いだよねえー」
私が大げさに嘆くと、井坂君も困ったように笑った。
今日のメインはあくまで『春色の電車に乗ること』だったので、それ以外の詳しいプランは立てていない。水族館行ったり、海見たりかな。ベタだけど。
そう思いながら駅を抜けたところで、私の視線は一点に縫いとめられてしまった。
すぐに外せればよかったのに、立ちどまってじっと見つめていたせいであちらにも簡単に気づかれた。わざわざ進もうとしていた流れから外れて、こちらに向かって来る元彼は、今日は一人なんだなぁ、と、もう心が浮足立って騒いだりせずに、ただそれだけを思った。そういえばこの辺、営業エリアだったっけね。覚えてたら回避してたんだけど、それくらい忘れてた。前世みたいに、遠い。なにもかも。
好きだったな。早足でまっすぐ来てくれるのも、スーツ姿も。
そう思う気持ちも、もう全部過去のもの。
つないでた手にきゅ、と力を込めると、井坂君は『がんばれ』と言いたげに、一瞬だけ力を込めて返してくれた。――うん。大丈夫。
久しぶりの外出で緊張してた時も、バイトの面接前に手が冷たくなっちゃった時も、いつもこうしてもらったら大丈夫だったから、私は目を反らしたり愛想笑いしたりしないで、凪いだまま元彼を待った。
「……久しぶり。元気?」
「今はね。そっちは?」
まったく興味はないけど、一応そう返すと「色々とバチが当たった」と、別れた直後なら食いつきそうな情報のかけらがもたらされた。さりげなく見せられた左手の薬指は、空っぽのまま。
「あっそう、いい気味」
思わせぶりな言葉を軽く流して歩き出すと「待ってくれ」と懇願された。仕方なく立ちどまって、振り向く。
「ずっと、謝りたかった。会いたかった――あんなことしといて今さらだけど」
「そうだね」
私は、つないでいた手を引き寄せると、その腕にぴたっと寄り添った。
「見て分かると思うけど、デート中なの。今の彼氏は嘘つかないし、優しいし、私のことすごく大事にしてくれてるから、私が終わった恋にわざわざ戻ることはないよ。――じゃ」
今度こそ歩き出したタイミングで、井坂君が「十和、大丈夫?」って、私の話に合わせてアドリブで恋人風に心配してくれた。その口調ときたらまあ、甘さがうんとマシマシだ。
「ありがと、大丈夫だよ」
そう答えると絡んでいた腕がするりと私の手を抜ける。でも、不安になる前に肩を抱いて引き寄せられた。見せつける気まんまんだ。それは分かるけど、密着し過ぎ。心臓に悪いんですが。
「歩きづらい」とそれらしい苦情を申し立てて距離を取ろうとしたけど「くっつきたいじゃん、分かってよ」と拗ねられたらやっぱり離れたくないなって思っちゃう。
とんがり唇しててもやっぱり造りのいい横顔に、軽ーく「ごめんごめん」と言ってみる。
「あーそれちっとも悪いと思ってないやつでしょ」
「だって、拗ね顔かわいいんだもん」
偽装ラブラブカップルモードに乗じて、本心を打ち明けた。そしたら「……ったく、そう言っとけば俺の機嫌がすぐに直ると思ってるんだから」と、すでに笑顔を取り戻した井坂君がふざけてくれたから、私も笑ってふざけ返した。
「なんでもお見通しだなあ」
「そうだよ、俺は十和のことなら何でもお見通し」
そう言われて、ウォッカを一息に煽ったように、お腹の中がカッと熱くなる。
なのに続けられたのは「だから、十和がシーフードカレー食べたいのも分かってるよ」という色気のない言葉で、なあんだ、なんて思ったあと、猛烈に恥ずかしくなった。思わず、「バカ」と八つ当たりしてしまう。
「それはお互いさま」
しれっと受け止めて、流さないでよ。ゴリラ握力で手の骨砕くぞ。
だいぶ歩いたところで、もう元彼も見聞きしてないだろうし、この心臓に悪い密着をやめて今度こそ離れようとしたら、「そのまま」って言われた。――あ、もういつもの井坂君だ。だから私も小芝居をやめて謝罪の言葉を口にした。
「ごめんね、嘘つかないって言ってたのに、あんなどうでもいい嘘つかせちゃった」
「どうでもよくないし、役に立てたなら嬉しいよ」とそう言いながら、井坂君は苦虫を潰したような顔をしている。
「テメーの勝手で振ったくせにあんな風に声掛けてくるってどういう神経してるんだ。信じらんねえ」
その、苛立ちを一切隠さない様子に驚いて、思わず足を止めてしまった。いつも私の前では機嫌のいい人だったから、余計に。
「まあ、善人とは口が裂けてもいえないけど、根っからの悪人でもなかったし」
取り成すつもりでそう口にすると、「あいつのこと庇うの」と強い口調のまま問いかけられた。
「そんなんじゃないよ。でも一応、好きだった人、だからね」
そうは言ったものの、うまく笑えなくて顔が微妙にこわばる。すると、「まったく」とため息一つで見慣れた顔に戻った井坂君が、肩を抱いてた手をほどいてこちらに向き直ると、両手で私の頬をぐりぐりと捏ね始めた。
「いひゃいよー」
「どうしようもない人だな」
頬を捏ねる手が止まって、そのまま包むかたちになる。わーやめて。
心が鷲掴みにされる。ぎゅっと絞られて、ぼたぼたと雫が滴り続けてしまう。
どうしようもない、と呆れられているのに、頬に触れる手が嬉しくて、私って本当にどうしようもない。
井坂君は私の頬を包んだまま続けた。
「底なしに人がいいんだから、今日だって一人の時にあいつに声掛けられてたら絆されてたんじゃない?」
「それはないよ」
「どうして?」
「だって、」
そう言いかけたところで、冷静になった。待て待て待て。私はまだそのモードじゃないはず。
ぐっと口を結んだら、井坂君は聞こえるように「ちっ」って言った。
「ガラ悪っ!」
「まだ言わないか」
「……なにを」
「そうやってすぐすっとぼける」
呆れたような顔。――きっとこれで、追及は終わり。いつもどおり彼は『じゃーほんとにメシでも行きますかね』って話題を変えてくれる。
そんな風に勝手に算段していたけど。
「ま、いっか。そういうこわがりなとこ、めちゃくちゃかわいいしね」
「は?」
待て待て待て。何で君、いま深追いしてくる? いつもと違うでしょそれじゃ。
私が動揺しててもどこ吹く風といった風情で、井坂君は「俺は十和さんに嘘つかないって約束したから嘘つけません」なんて言う。
「知ってるよ」
「だから、『あなたのこと何とも思ってません』て嘘はつけません」
「はあああ?」
思いっきり怪訝な顔をして見せても、井坂君は表情一つ変えなかった。
――まっすぐ、私を見る。穏やかな目。そして。
「好きです」
あ。両耳を塞ぐはずだった手が耳に到達するのに間に合わなかったから、マトモに聞いてしまった。
「俺を十和さんの彼氏に選んでください」
「ムリムリムリムリ」
「どうして?」
「だって、ほら、年の差が、」
「いまどき三つ四つ違うくらいどってことないですよ、俺が小さい時から行ってる町医者のじいさんなんか、自分より三〇も年下と付き合ってるし」
「それはだって、男の人が年上だからでしょ、逆はないでしょ」
そう言い募ると「パニクってるくせにそういうとこは冷静なんだよな……」とまた『ちっ』て顔をした。
「ま、いーや。そういう訳だから年のことは却下ね」
「そういうことってどういうことよ!」
「はい次、」
「次って」
「俺と恋できない言い訳、ほかにもいっぱいストックあんでしょ。いっこいっこちゃんとキッチリ潰してあげるから白状してください」
「……なんかその言い方がもうむかつく」
「これ以上いい子モードにしてても、十和さんからは近寄ってくんないみたいだからね……ほらほら」
「そもそも私、失恋モードでまだ立ち直ってないから!」
「そうかあ? さっきの元彼とのタイマン、かっこよかったよ」
「……それは、井坂君がいてくれたからだよ」
「光栄です。じゃあもっと俺の傍に居て、さらにかっこいい十和さんになろう。次」
「若干むかつくけど、井坂君は基本的にはすごいいい子だから、年上のフリーターなんてもったいないでしょ」
「だからいい子なだけじゃないって。お望みなら暗黒面も見せてくから期待しててください。あと自分のことフリーターって言うけど、仕事に慣れて十和さんが安定したらいずれ社員にって話での採用だったよね。次」
「……きっと私なんかよりもっとかわいくて美人でいい子とつきあうよ」
頬を包んでいた手から逃れるように俯いてそう言うと、井坂君の手がぎゅっと強く拳を握ったのが見えた。それだけで悲しくなる。
「勝手に決めないで。……勝手に悲しくなって、一人で泣かないで」
「むり」
借りてるパーカーの袖を濡らさないように指で目元をぬぐってたら抱き締められた。
「井坂く、」
「俺のことどう思ってる?」
その声が、まるで小さな子どもみたいに頼りなくて、思わず顔を上げてしまう。
目が合う。年下で、とか、いい子で、とか、自分が勝手にべたべたつけたタグを外して、初めて素直に井坂君を見る。
ちょっと不安げな顔してる。そんな風にさせたかったんじゃないよ、どうしたらいい?
私の心の声が聞こえたみたいなタイミングで、井坂君は少しだけ笑う。
「もうほんとのこと、言ってみて。大丈夫だから」
なにが?
てか、このハグは、ちゃんとしたハグなの? 手当てだとか、非恋愛とかじゃなく。
怖いから、まだ確かめてしまうよ。
「井坂君は……」
「ん?」
その一言は、いつか持ってきてくれた苺みたいに隠しようもなく甘い香りがして、ずるして答えを手に入れたみたいな気になった。……と言うか、すでにもう告白されてもいるんだけど。でも聞いちゃう。聞かないと、動けないから。
「……私のこと、かまってくれたのって、ボランティアとか人助けとかじゃ、ないんだよね?」
「もちろん」
それなら言える。やっと、手の間から滴るだけだったものたちに、ちゃんと名前をつけてあげられる。
「すき」
ようやく答えを口にすると、井坂君はハグしたまま私に凭れかかって、そのまま「は――……」と長い長いため息をついて、そのままひとりごとみたいに続けた。
「俺、友達のお姉さんにずっと憧れててさあ、でも俺には手が届かないなーって諦めてた。でも、ちっとも諦めきれなくって、たまに一緒に飲めるとめちゃめちゃ嬉しくって、弟枠からどうしたら出られるかって考えたりもして、――十和さんが弱ってくれたからこうしてつけこんで、おかげでようやく釣り上げられたよ」
「……ずいぶん、気の長い話」
「釣りは待つ時間も楽しいもんだから。でもちょっと、長かったな」
「なら、もっと早く言ってくれればよかったのに」
「それじゃあ駄目。俺だけ押しまくるんじゃなく、十和さんからも言ってもらわないと。でないと、また発作みたいに不安になるでしょう? 俺は、さびしいから誰でもいいとか、そういうんじゃなく、ちゃんとあなたに選ばれたかったから」
「ちゃんと選んだよ」
『好き』にしないために、あれこれリスクばっかり揃えておいたのに、不安と一緒に帳消しにされちゃったら、選ぶしかないじゃない。
大丈夫。あなたの周りに年下のかわいい人がいても、美人のライバルが現れても。
井坂君の手を選んだのは私で、私の手を選んだのは井坂君だから。
「……そう言えば、これで誕生日プレゼント、もう手に入っちゃった」
「甘やかす彼氏?」
「そう」
「じゃあ、手料理振る舞うから、何食いたいか考えといてね」
「うん」
「コーディネートについては……けっこう前から言ってたか」
「言ってくれてたよねえ」
今日もスカート、ちゃんと気づいて褒めてもらえたし。――あ。
『私を甘やかしてくれる彼氏』についてつらつら述べてしまったうちの、残りひとつ。恥ずかしいからどうか思い出さないでほしいと思っている私の耳に、井坂君は。
「多分俺、帰りの電車で二人掛けなのをいいことに、背もたれに隠れていっぱいちゅーするけど、いいよね」
いいよの返事のかわりに、つないでた手にゴリラ握力で本気の握りをお見舞いした。