のら台車顛末記
会社員×会社員
「恋愛・その他の短編集 short hopes」内の「素敵なダンディさん」にちょっとだけ関連していますが、未読でもお楽しみいただけると思います。
会社の前の歩道に、錆っさびの台車がうち捨てられていた。誰か、たとえば宅配業者さんが忘れて置いてっちゃったのかな? と思ったりもしたけど、一週間たっても二週間たっても持ち主は現れず、台車はいつまでもずうっと歩道にいた。通る人みんなに邪魔そうな顔をされながら。そんなの、この子のせいじゃないのにねえ。――いかんいかん、頼まれてもいないのに、また勝手に情が湧いてしまっている。
いい年をして私は、物に感情移入しがちだ。
どこかのおうちのベランダから飛んできて、道行く人に踏まれまくって汚れたタオル。
駅のベンチや電車のシートに置かれて、忘れられた文庫本。誰にも買われないまま陳列され続ける靴。
大人になったら平気になるかと思っていたけど、そんな物たちに遭遇するたびもれなく律儀に後ろ髪を引かれた。今回の台車も、気がつけば出勤時も退勤時もそこにまだいるのを通りすがりにチェックしたりして。今朝なんかとうとうシーズン到来で雨が降ったりしたもんだから、いつもより余計に気になってしまった。仕事中に一息ついたタイミングで『あの子、私が引き取ろうかな』なんて思いついちゃったり。
だめだよ、あんなぼろぼろの台車、どうするの。頭ではそう分かっていたけど、梅雨入りしちゃって一向に止む気配のない雨の中、引き取りに来る人もなくただ濡れそぼる台車を想像すればたまらなくなって、昼休みになると急いでお弁当をかっ込んで早々に席を立つ羽目になった。
こんな天気の昼休み、いつもなら外に出たりなんかしない。しとしとと降る細かい雨は少しの風で簡単に傘の中まで入ってきて、衣替えしたばかりの会社の制服をじっとりと湿めらすし、うざったくまとわりつく温度と湿気が、朝に時間をかけてセットした髪を台無しにもする。でもそれは台車を見に行かない理由にはならなかった。だって見ないとその方が余計に気になるし。
ストッキングの足が濡れて案の定気持ち悪いったら。あーあ。まあ、こればっかりはしょうがない。性分だからなあ。
近くで改めて見てみると、台車は想像以上にボロボロだった。右見て左見て、誰も通りかかっていないのをよくよく確認した上で、傘を差したまましゃがみ込み、台車にそっと話しかける。
「……おまえ、のらなの?」
問いかけた瞬間、真後ろで吹き出す音が聞こえた。慌てて振り向くけど、こっちはしゃがんでいるのでスーツの下半分しか見えない。誰だ貴様。
その答えは、吹き出した本人からすぐにもたらされた。
「のら台車って、あんま聞かないけどなあ」
――この、少し高い、掠れた声は。
傘をしょった形で振り向いたまま固まってる私の視界に、よいこらしょというかけ声付きで、清家さんが降りてきた。こちらとおんなじように傘を差して、ヤンキー座りして。しかも社内履きのサンダルのままで。足先の出るタイプだから、三色アイスみたいなかわいい配色の靴下が濡れちゃいますよ。
って思ってたら「この短時間で結構濡れるもんだね、足元チョイス失敗した!」と言って、私ににこーっと笑いかける。濡れてムッとするどころかチャーミングに笑うとか、ほんと清家さんらしいのんびり具合。そして三〇才のおじさんがただビニール傘を持ってしゃがんでるだけなのになんでこんなに素敵かねえ。内心にやにやしていたら、聞こえてたみたいな反撃を喰らった。
「それにしても千木良さんて面白いヒトだったんだねえ実は」
――――そういえば、台車に話しかけてるとこバレてましたね。
隣の部署の清家さんには、いつもかっこ悪いところばかり目撃されている気がする。会社の宴会のコースで余った料理(酒ばっかり飲む人が多いのでいつも残りがちだ)をおいしいのにもったいないと一人でもくもくと食べていたところとか、会社の廊下で拾ったので総務に届けてはみたものの、保管期限を過ぎて結局捨てられてしまうことになった落とし物――今月末で処分します! と但し書き付きでカウンターに並べられていた――に『持ち主さん見つけられなくてすまないねえ』って謝ってたところとか、――今回ののら台車とか。
恥ずかしいなあ。ドン引きされるかなあ。だとしても、優しい人だから、あからさまには態度に出したりしないだろうけど面白いヒト認定されちゃったしなあ。
まあ、そうだとしても、こうして一対一でお話しできるのはうれしい。
「で、なんでまた台車に話しかけてたのさ」とあらましを聞かれて、もう二週間もこの台車がここにいることを話すと「その間誰も取りに来ないってことは要らないんでしょ」ってあっさり言われた。
「そう、ですよねー……」
知らんふりしていたことをずばっと指摘されて、少しだけ悲しくなって、でも清家さんにそれを表明するのはおかしいと、声のトーンが下がった分はちゃんと持ち上げたつもり、だった。でも。
「千木良さんがしょげない」
「はは……」
バレてしまった。なんで。今までこういう時、親しい人以外には見破られずにスルーされてたんだけどな。
私のとまどいなんかどこ吹く風な清家さんは無邪気に小首を傾げ、人差し指をこめかみに当てて『んー』てあざとかわいいお顔をした。私の好きな、考え事をしているときの仕草。同じフロアだから、自席からたまに見えるやつ。こんな間近で見られるなんて、かっこ悪いとこを見られたのと差し引きにしてプラマイゼロどころかおつりがくるねえ……!
そんなこちらの内なる感激には気づく様子もなく、清家さんはしゃがんだまま台車をあれこれ検分している。
「警察持ってっても正直これじゃゴミ押しつけるみたいだしなあ、千木良さんがそんなに気になってんならうちの会社でしばらく預かればいいんじゃない?」
「……え」
「よし、そうしよ」
清家さんはさっさと決めると立ち上がり、びしょびしょに濡れた台車のバーをためらうことなく両手でつかんだ。差してたビニール傘は首と肩で挟んでいたけど、ちょっとでも風が来ると簡単にゆらゆらして落っこちそうになってしまう。私も慌てて立ち上がって、不安定な傘に手を添えた。
「こうしててもいいですか」
「おお、助かる。じゃ、いこっか」
「はい」
会社の前の歩道は、もうずいぶん長いこと直されていないというのもあって、でこぼこがひどい。そのせいなのか台車本体のせいなのか、車輪の立てる音はごろぉん! がだぁん! といちいちおおげさだ。音だけでなく振動もすごいのだろう、清家さんがくすぐったそうに「手ー震えるー!」と裏声で笑った。私も、笑っちゃいけないと思いつつ笑っちゃった。
なんとか社屋に入ると、部署に引き返して取ってきた古新聞を廊下に敷いてその上に台車を置いてもらった。部署の頂き物の未使用タオルストックから二枚ばかりひっつかんできた、ぺらぺらの社名入りタオルを清家さんに「どうぞ」と手渡すと「ああ、ありがとう。助かる」と、とびきりにこーってしてもらえて、簡単に思考停止になる。
もう。もう。もう。そんなに誰にでもほいほい『清家スペシャル』(※清家さんの、にこーってする笑顔の意。キュートなことで社内、特に私の中では有名である)を見せたらいけないんですよ。
にこーっのせいで挙動まで不審になる前に、同じくひっつかんできていた比較的古めのぞうきんで、のら台車を清家さんと一緒にガシガシ拭いた。そしたら、ぞうきんの表面があっという間に赤茶になった。新品のタオルを使わなくてよかった……。
でも、水と汚れを多少拭いても、台車はちっとも見栄えがよくならない。もっとちゃんとメンテナンスしないとこれ以上の改善は難しいんだろう。とはいえ、勝手に拾ってきた台車を勤務時間中にお世話する訳にもいかないし、と思っていると、「今日ちょうど金曜だし、家に持って帰っていじってみるよ」と清家さんが何でもないように言ってくれた。
「え、そんな、」
「まあまあ、遠慮しない。俺と千木良さんの仲じゃん」
どんな仲ですか! とツッコみたい気持ちは山々だけど、少なくとも嫌われてはいないことは分かった。ああ、こんなことさえうれしいんだもんな。片思いなんて相手がにこーっとすればすぐ思考停止するし挙動は不審になるし、まったくやっかいだ。――でも、胸の中でちょうちょが羽ばたいてるみたいに、なんだかくすぐったい。
めんどうごと、かもしれないのにスルーしないで関わってくれた。今だって『清家スペシャル』を乱発しながら私の返事を待っている。あざとかわいく小首を傾げながら。
なんだかなあ。かっこいいなあ、だけじゃなく、いい人だなあ、だけでもなく、やっぱりすき、なんて思っちゃうじゃん。
いつもなら『イイエ! 大丈夫です!』なんて頑なに断るところ。でも、ちょうちょたちにそそのかされた私は、自分も羽ばたくみたいにふわっと笑った。そしたら、清家さんも、もっとにこーってしてくれた。
「……お願いしても、いいですか」
「もちろん! どうしても千木良さんが自分で面倒みたいっていうなら反対しないけど、でも確かバスと電車だろ。それ雨の中持って帰るの超大変だと思うし、すっごいじろじろ見られると思うよ。俺は車だからいいけど」
言ってることはいちいちごもっともで、しかも私の通勤事情までご存じだわ! という驚き由来の思考停止も誘発される始末。もっときちんとお願いしたいのに、もごもごと「……この子がお世話になります」と頭を下げるのが精いっぱいだった。
それを聞いた清家さんは「もうすっかり飼い主モードじゃん」と少し高い、掠れた声で笑った。
「千木良さん、これ」
休み明けの月曜日、お昼休みに同期と飲み会のことで立ち話をしていたら、清家さんがぴかぴかの台車を押して私のところまでやってきた。同期は「じゃ、また後で連絡くれ」といって自分のフロアへ戻ったので気兼ねなく「どうしたんですかそれ」と話しかける。すると、清家さんは誇らしげな顔で「めっちゃ世話したらこうなった!」と教えてくれた。――ということはつまりこれって。
「あのぼろぼろのら台車?」
「正解」
「え、すごい、新品みたい!」
「よくよく見ると実はやっぱりぼろいんだけどね、錆と汚れ落として磨いて潤滑油差したらまあ変身してくれたって訳」
「ありがとうございます!」
生まれ変わったようにつやつやなフレームを撫でさすって「よかったねえ!」と小さく喜んだ。私を面白いヒト認定済みな清家さんはそれを聞いてドン引くこともなく「そう言うと思った」と笑う。そして、バーをポンポン叩きながら、「千木良さんこれ使いなよ」と言ってくれた。
「いいんですか?」
「いいもなにも飼い主は君だし、うちの部署もそっちもけっこう台車使うのにいちいち別フロアの総務課に借りに行くのも効率悪いしいいんじゃない?」
「……ありがとうございます」
総務課の台車の『ダンディさん』には性能面で負けるかもしれないけど、それでもすぐに使える台車が部内にあるのは正直助かる。
「名前どうしようかな……」
「あ、付けるんだ……」
そこは想定外だったらしい。ちょっといっぱい笑われた。いいんだけどさ……、と若干やさぐれてたらすぐに謝られた。
「や、ごめんね、ちょっとツボっちゃって。……ちなみに、今までどんなものにどんな名前付けたか教えてもらってもいい?」
てか聞く前にもうまた笑っとるやないかーい! でもまあ教えますけどね。
「……知人からひき取ったハムスターは頭の上のとこにぽつんと丸い模様があったから『ぽつまる』、拾った子犬は丸まって寝てたのが毛玉みたいだったから『毛玉ちゃん』、会社のパソコンはけっこう古くて動作が遅いので『おじいちゃん』、」
「分かった、千木良さんのネーミングセンスが高度なのがよく分かった」
「バカにしてますよね?!」
「バカにはしてない、面白くはある」
「ひどい!」
「ごめんごめん」
そんな風に楽しく交流してたのに、壁掛け時計がもうすぐ午後の始業時間だと示している。清家さんも自分の腕時計を見ながら「あー久々に超たのしかった」と目じりに浮かんだ涙を拭いて、もうこれを終らそうとしている。慌てて、言わなくちゃいけないことを口にした。
「清家さんの申し出にすっかり甘えちゃいましたけど、今からでもお礼させてもらえませんか」
お茶だの食事だのは私の側にしてみたら楽しいイベント間違いなしだけど、清家さん的にはそうじゃないかも。だから、お礼するならギフトカードの類いで。
そう思っていたら「じゃあ、お茶でもごちそうになろうかな」と想定外の言葉を清家さんが発した。
「へっ?」
「ところでさっきのって誰?」
「さっきの?」
「俺が台車持って来た時にいたやつ」
「ああ、同期ですけど」
「仲よさそうだね」
「そうですね、同期で何人か集まって、定期的に飲みますから仲いい方だと思いますよ、うちの代」
「……そういうことじゃないんだよなあ」
清家さんは困ったような顔をして頭を無造作にバリバリかくと、「ま、いいや気づいてないなら」と一人で結論づけた。
「何をです?」
「寝た子を起こすような真似はしたくないからノーコメで」
「逆に気になりますよ」
「……じゃあ、問題」
クイズ番組の司会みたく人差し指をピッと立てて、清家さんが言う。
「俺はなんで、この台車の面倒を見たんでしょう」
「……え?」
「いち、ボランティア、に、暇だったから、さん、」
「さん」
促すように追随すると、いたずらっぽい顔になって「続きは今日上がった後、お茶するときに」と一方的に約束をして、清家さんが自席に戻っていく。立ちどまって振り向いて、「あ、都合悪かったら言ってね」と『清家スペシャル』付きでのフォローも忘れずに。
まってまってまって、この事態に頭がついていかない。ここにきて最大級の思考停止。もうすぐ仕事再開しなくちゃなのに。考えろそして動け私の脳みそ。
それはもしかして……、いやいやそんな馬鹿な。
自分の都合のいい未来予想ばっかり引き寄せたくなるのは、物に情が湧くのと同じくらい私の悪い癖だ。
でもまさかという弱気は、ぴかぴかになって帰ってきた台車を見れば、とたんに希望的観測と入れ替わる。
まさか。でももしかしたら。――ないよね。
でもって、本当のところはどうなんでしょう?
続きは、午後の仕事の後で。
次話に続きがあります
21/06/11 誤字訂正しました。