嘘ガール
会社員×学生
「楽しかった。またね」
それを口にするのにいつもいつも後ろ髪を何本も引きちぎってるってこと、彼は知らない。
「もう帰っちゃうの?」なんて言わないで。真に受けたくなるじゃん。でもそんなのは彼に見せてる私じゃない。氷が溶けてすっかり薄くなってしまったウイスキー――ほんとは甘いお酒の方が好き――をくっと飲み干すことで勢いをつけ、立ち上がった。
「じゃあね」
ひらりと振った手が、鳴らすヒールの音が、未練がましくないといい。
私が好きになっちゃった人は、大層手練れな人だった。恋愛に不慣れかつ積極的ではないコドモには高すぎるハードル。というか壁。
それでもチャレンジ権は誰にも平等に与えられているから、無謀にもエントリーしてみた。背伸びに背伸びを重ねて、ようやく彼の目に留まったのは、半年くらい前のこと。
テンポの良さが身上の、大して中身のない会話を交わして、付け焼刃の女らしさがばれないうちにいつも退散した。
楽しいさなかで切り上げるのって実に骨が折れる。でも、私のそういう『女らしいのにさばけてる』ところに、多分興味を持ってくれたから。コーティングしてない私じゃ、きっと駄目だった、から。
家に帰ると、いつものようにまず最初に化粧を落とした。メイクの得意な友人に教えてもらってたくさんたくさん練習して、毎回すごーく時間を掛けて作りこむけど、落とす時は一瞬。
鏡に映る元通りの自分を見つめ返す。お世辞にも美人じゃない、良く言えば愛嬌のある顔。
ほんとはがさつだし、ヒールもつけまつげも苦手。
それでも近づいてみたかった。その先に、こんな苦しさが待ってるなんて想像出来なかった私はバカだ。
『近づいてみたい』っていう最初の願いは叶ったよ。顔だって覚えてもらえたし、会話を交わしてもらえた。私のトークで笑ってもらえた。
店を訪れると、隣のスツールの座面をパタパタと叩いてここに座れと示してくれた。
次にお店を訪れる日を聞かれた。
待ち合わせの約束を交わした。
そこへ足を運べば、親しげに笑いかけてくれた。なのに。
それだけじゃ、足りなくなってしまった。
下の名前を呼びたい。
私も、下の名前で呼ばれたい。
あのお店以外でも会いたい。
連絡先を知りたい。
会いたい。
好きになって欲しい。
恋人になりたい。
どんどん膨らみ続けるわがままな思いを、自分じゃ、もうどうしようもない。
そろそろチャレンジはおしまいにしないと。後ろ髪を追加で何十本も引きちぎるとしても、ここで撤退しなきゃまたずるずる会い続けちゃう。今なら突然消えたことで気にかけてもらえるかもっていう打算ももちろん働いているのが冷静でかわいくないなと思うけど。
ほんの少しの間でも、彼の唯一になりたかった。それが叶わないなら、心の壁にいつまでもこびりついて残ってて欲しい。
好きな歌なのに思い出せないタイトルが、頭の中で繰り返すメロディが、いつまでも気にかかるように、私のことも。
「……ばっかみたい」
きっと彼は忘れる。キープしているボトルが空になる頃には、次の話し相手が隣のスツールに腰かけているんだろう。
彼に会えていた頃の週末の習慣は、チャレンジをやめた今も抜けきらない。
夕方になれば今夜は何を着ようかと頭の中で勝手に検索が始まって、ああ、もういいんだったと気付いてやっと中断する。
夜が近付くと、どうしようもうすぐ彼に会っちゃうとどきどきして、ああ、もう違うんだったと気付いて苦笑する羽目になる。
深酒してない? ――そんな心配だってきっと必要ないのに、こうして休日の昼下がりのカフェにいてもうっかり考えてしまう。結局お茶を楽しみきれないままそこを出て、あてもなくぶらぶらと歩いた。
小さな雑貨屋さんやカフェが連なる小路は水路沿いに長く連なっているので暇つぶしにはもってこいだ。ウインドウを覗いたり、誘惑に負けてこまこましたものを買い求めたりして、疲れたら両岸に続くすっかり緑色な桜並木をぼーっと眺めた。葉桜越しの陽光がまぶしくて目を細める。満開よりもこっちが好きだと言った彼に見せてあげたいとうっかり思っちゃって、懲りない胸がまたしくしくと痛んだ。
好きなんだよなあ結局。
諦めにも似た気持ちで、とうとうそれを受け入れた。
背伸びも、撤退も、自分がそうしたくてした。だから後悔はしない。でもいつか、もう少し大人になった私で彼に会いに行きたい。それで、『好きだったんだ』って打ち明けられたらいいね。ほんとはまだ社会人じゃなく学生で、こんな風に、ぺたんこの靴とゆるっとしたチュニックにジーンズっていう格好が一番好きってことも。
ふと、彼に呼ばれたような気がした。そんな、どうしようもなく妄想逞しいバカな自分に呆れて、往来なのに思わず笑っちゃう。下の名前で呼ばれたことなんて一度もなかったのに図々しいなー私。
そのまま川べりにめぐらされた手すりにもたれてきらきら光る川面を眺めてたら、隣にかぎ慣れた香りがすっと並んだ。
頭の中が真っ白になっていると、今度こそ名前を呼ばれた。
「……なん、で」
今の私は、夜に会っていた時とは全然違う。服だって髪だって。なのに。
「なんでって言われても、分かるよ」
『夜の私』の作りこみが甘かったか。自分では目いっぱいがんばったつもりだったんだけどな。すっぴんの爪が恥ずかしくて握りこむと、同じくほぼすっぴんの顔を見つめられた。
「……目が、同じだから」
そう言うと、手すりにもたれてぐっと顔を寄せてきた。やめて、って離れられればいいのに。
離れられやしない。だって、ずっとこんな風になりたかった。
「急に姿を見せなくなるなんて」
「……ごめんなさい」
仕事が忙しくなっちゃって、とか、恋人が出来て、とか、言い訳しようと思えばできた。でもそれは『夜の私』仕様で、今の自分でそれを演じ切れるとは思えない。
「来なくなった初日は『あれ? 来るって言ってたのに』って素直にがっかりして、次は『来ないかも』って身構えて、四回目で『ああ、俺切られた』ってようやく分かったよ」
「切ってない!」
切り捨てたのは、自分の気持ちだけのはずだ。
「しょうがないって思おうとしたんだ。でも、どこにいても君の姿を探すの止められなくて、まんまとこうして見つけて。ストーカーみたいだろ」
苦く笑う顔をさせているのはどうやら自分らしいと気付いて、胸の痛みと歓喜が同時に押し寄せてくる。私が口を開く前に、二人の間にそっと出された彼の掌で止められた。
「気持ち悪かったらごめん。迷惑だったらはっきりそう言って。大丈夫、俺はこう見えてもモテる方だから、だめならだめで切り替えて次にいくよ」
いつものようにゆったりと何でもなさそうにひどいことを言うくせに、掌はちいさく震えてた。思わず触れると、ぴっと張っていた手は途端に緩む。その指先に口を付けた。長く。
どこかで鋭く鳴ったクラクションに注意された気になって、そっと離れた。彼を見ると、当たり前のようにあちらも静かに私を見ている。
「もうどこへも行くな」
そんな甘えた言葉を初めて聞いた。
「……どうして?」
確かめさせてよ。夢じゃないって。言葉でもちゃんと。今、頭がろくに働かない自分でも分かるように。
「どうしてだと思う?」
にこっと、見慣れた笑顔。ついさっきはあんなにかわいかったくせに、もう本来のペースを取り戻してる。そうだ、初めて彼を見た日、これに私はやられたんだった。
「分かるよね」
「わかる、けど」
でも。
「……多分がっかりすると思う。見ての通り、私ほんとは全然違うもん」
今ならまだ傷はついても浅いもので済む。でも、付き合ってから失望されるのはきっとずっと辛い。想像するだけでこんなに泣きたくなるのに。
俯くと、彼が覗き込んできた。――どうして笑ってるんだろ。
「メイクしてない君をこうしてちゃんと見つけた俺が、女の子の付け焼刃も見抜けないと思う?」
「――え?」
「メイクは、そうだな、頑張ってるなってほほえましかったよ。帰る前に『えいっ!』って声が聞こえそうな切ない顔で立ち上がるの、すごいかわいかったな」
「ええ……?」
うわ。は、恥ずかしすぎる。
『わたしのかんがえるいいおんな』は、まるっきり通じてなかったってことか。でも、おかげで背伸びした甲斐はあったみたいだ。――どうも、思い描いた反応とは違うけど。
「おいで」
そう言われても、気付けば手練れの男の手に手すりの左右を、そして背後も手すりに阻まれて、身動きなんて取りようがない。しかたないから、ほんの一歩前に進んで、待ち構えていた彼のニットジャケットの胸元におでこを付ける。とたんに、ふーっと体から力を抜いたのが生地越しに伝わってきた。
「よく出来ました」
そんなこ憎たらしい言葉を言われても、今までのように焦れたりはしない。何でも出来て、怖いものも欠点も何もないと思ってた人が、私の前で弱さを見せてくれたから。
そして、きゅってなったりどきどきしたり、忙しかった心が少しだけ落ち着くと、やっぱり気になるのは。
「……ほんとに私のこと、すぐ分かっちゃったの?」
「もちろん。俺、目で化粧剥がせるんだ。アプリいらず」
「うわ、女の敵……」
心底嫌そうな声で呟くと、「そうそう、そのリアクション」ってなんだか嬉しそう。
「このふた月欠乏症だったなあ俺。辛かった」
「……ごめんなさい」
あれ、なんでまた謝る流れになってるかな。
「寂しいし、眠れなかったし、寝ても夢見るし、おかげで体重減って隈も出来ちゃった」
ほらほらと見せつけてくるけど、別にそれほどぼろぼろでもないように見えるんだけど。
このやり取りはつまり、手練れに誘導されてるってかろうじて理解した。でも、だとしてもいいや。
これから始まることにドキドキしながら、思いきり付けこまれるに違いない言葉をそうと分かりつつ舌にのせた。
「どうしたら許してくれる?」
それを聞いた彼は、上等なお酒を口に含んで、口中に広がる香りを愉しむ時のように、徐々に笑顔を滲ませた。
「用事がなければこれから俺に持ち帰られること、それとたった今から俺の恋人になること、その両方を叶えてくれるなら」
「……よくばり」
嬉しいけど恥ずかしい、恥ずかしいけど嬉しい。
気の利いた言葉の一つも思いつかずにかろうじて返した言葉で、手練れは見たこともない飛び切りの笑顔を披露した。私の言葉でそんなに笑うだなんてと憤慨したけど、付き合っているうちにそれは、『恋人にしか見せない、ご機嫌な時の笑顔』だったと知ることになる。
「ハルショカ」内45話に続きがあります。