花とコーヒー(☆)
花屋×会社員
「ゆるり秋宵」内の「小動物と俺」に関連していますが、未読でもお楽しみいただけると思います。
「いらっしゃい」
自分ちに親しい人を招いたかのように、彼は店先で私にそう声を掛ける。
「ドーモ」
だから私も、あたかも親しい人間のようなふりをする。本当は、ただの花屋の店員とただの客なんだけど。
「桂さん今日は何にします? チョコレートコスモス入ってますよ、いい匂いの」
「これ? わあ、ほんとにチョコ色―! でもって、チョコの匂い?」
「ですね」
「かわいい!! うん、これにする。これください」
「ありがとうございます」
彼が、笑いながらチョコレートコスモスを吟味する。たった一本を買う私の為に、バケツに身を寄せ合っている中から一つだけを選ぶ。
すすすっと花のその長い首を持ち上げて、彼は適度な長さで茎を切る。ティッシュを濡らして切り口に当てて、その上に結構な速さで編み上げブーツの紐みたいにぐるぐるに輪ゴムを巻きつけて、さらにその上に銀ホイルをきゅっきゅっとあてる。
たった一本のその花にいちばん合う色の包装紙を引き出して鋏を滑らせ、切ったそれを作業台にふわりと載せる。その褥に花を横たえると、くるくる巻いていく。最後にお金とレシートをやり取りすれば、普通はそれでおしまい、の筈なのに。
ことん、と音がして、カウンターにマグが置かれる。その中身はインスタントコーヒー。
「どうぞ」と当たり前に勧められて、「ありがとう、いただきます」と当たり前のようにスツールに腰掛け、コーヒーを戴く。
こんな風に週に一度二度、私はこのお店でお花を買って、その後コーヒー一杯分、店主とおしゃべりをしている。
いつ何が入ってもすぐに潰れちゃうその小さなテナントに、お花屋さんが入ったって気が付いたのは去年の春の夜だった。
いつもの帰り道の坂道の途中。
これまでの冴えない、古臭く野暮ったい感じの建物が、ある時を境にすっきりと洗練された場所に生まれ変わっていたことは知っていた。ぱっと見、こじゃれたカフェか雑貨屋さんかと思うような一階の外装。だけど二階は今までと同じだったから、そのちぐはぐさにどこかからおしゃれ空間を持ってきて一階だけに貼り付けたみたい、なんて通りかかるたびに思ってた。
その日はほろ酔いだったので、いつもは気になってもそのまま通り過ぎてたところをスルー出来なかった。外に出ていた黒板の看板の前でしゃがみこんで、英語で書かれたお店の名前らしいそれを、声を出さずに読んでみる。
ふろーりすと・と、く、まる?
あんまり聞きつけない名前なので、もう一度今度は口に出して読んでみた。
「ふろーりすと・とくまる」
「正解」
ふいに、しゃがみこんだ私の頭の上あたりから、少し高めの、でも私よりはうんと低い声が聞こえてきた。
思わず振り仰ぐと、してやったりと云いたげな、目を細くした笑顔が飛び込んできた。
某アイドル事務所男子的な顔、しかも笑顔を間近で見ることなんて私の日常にはなくて、頭の中にハテナが飛び回ってしまう。
「あの……?」
「あー、すいませんね、看板、もうしまおうと思ってて」
「お邪魔しちゃいましたね、すいません!」
慌てて立ち上がろうとしたら、声を掛けられたのがよっぽどのサプライズだったのか、
……腰を抜かして、アスファルトにへちゃっと座り込んでしまった。頑張っても立ち上がれないでいると。
「ちょっと失礼しますよ」
小さい子にするみたいに、脇の下に手を入れられひょいと持ち上げられた。四月だけどまだ寒くて私なんかライナーを取らないままのトレンチコートだって云うのに、その彼は半袖のTシャツ姿で、さらに。
腕、ふっと!
顔かわいいのに、腕、ふっと!
二回もそうつっこむくらい顔に似合わない彼の腕で、一五〇センチちょいの私が、持ち上げられてぷらーんと浮いてしまっている。
「かっるーい」
「……いや全然。小さいだけでフツーですフツー」
かっるーいと云った言葉が嘘でないみたいに、彼はらくらくそのポジションをキープしたまま歩き始めた。
「えっ、や、何?!」
慌てて足をバタバタさせれば、その人の脛にヒールが当たってアイタと呟かれる。
「あ、ごめんなさい!」
「腰ぬかしちゃったんでしょう? 俺が急に話しかけたから。あそこに座り込んだままだと体冷やしちゃうんで、歩けるようになるまで店で休んでください」と云って、こちらの『はい/いいえ』を聞かずにそのままお店の中へと運ばれ、すとんとレジカウンター前のスツールに座らされた。インスタントだけどコーヒーまで出されてなんだか恐縮してしまう。
「暖かいうちにどうぞ」と勧められたそれに口を付けながら、彼の働きっぷりを見る。
看板をしまう。表に出していたお花の苗や、鉢を飾るグッズも。丁寧に歩道を掃いて、それから中も掃いて、レジカウンターと作業台を拭いて。――お花が咲ききってしまわぬようにだろう、うそ寒いこの日も店内は暖房なんか入ってなくて、それなのにずっと半袖で。
思わず「寒くないですか」と聞いたら、「動いてますからねー」と暢気なお返事が返ってきた。
「あ、でもアパート帰る時にはさすがにシャツ羽織りますよ。さすがにこの季節、朝晩半袖で歩いてるとぎょっとされるんで」
「ああ、私も道端で目撃したら二度見する自信があります」
「ですよねえ」
作業を終えて、彼もカウンターの向こう側に座り、コーヒーを飲む。
「お疲れ様です」
「ありがとうございます、なんかいいですね、誰かにそう云ってもらえるのって」
彼曰く、このお店はバイトを入れずにたった一人で回しているそうだ。開店したのは二月ほど前で、それまでは都内の有名店にいたとか、この間はこの店で迎える初めてのお彼岸でてんてこ舞いになったとか、コーヒーを飲みつつ笑いながら話す彼。
もっともっと聞いていたかったけど、私のカップも向こうのカップも空になってしまって、閉店時間も若干過ぎた頃には私も何とか歩けるようになっていたので、名残惜しく感じつつお礼を云ってお店を出た。
「気を付けて帰ってくださいね」と云う言葉が社交辞令なのは分かっていても、やけに暖かく感じながら、明日再びここへ来ようと決意した。
そして翌日、また夜にそこを訪れると、彼――徳丸君は、「あ、昨日の」と親しい人に向けるような顔を見せてくれた。
「こんばんは、昨日はお世話になりました」
「こんばんは。腰はあれから大丈夫でした?」
「あ、はい」
「よかった。今日は、どうされました? 忘れ物か何かですか?」
「あ、いえ。お花詳しくないんですけど、おうちで飾る用に一本欲しいと思って」
「ありがとうございます」
花束の注文じゃなく一本だけなのに、彼はとても嬉しそうに笑った。そしてまたコーヒーを振る舞われた。
以来、お財布に若干の余裕がある時、つまり月末の週を除いて大体週に二回くらいのペースでお店へお花を買いに行っては、なぜかコーヒーをご馳走になっている。どうしても訪れるのは閉店間際になってしまうことが多くて、それなのにゆっくりするなんて悪いなと思っていたら「俺のコーヒータイムに付き合ってくれない気ですか」といたずらっぽく云われてしまって、罪悪感は簡単に帳消しにされた。
一杯分だけおしゃべりをするたびに、徳丸君とお店のことを知る。
仕事帰りにフローリスト徳丸へ立ち寄るようになって半年がたつ頃、ようやく徳丸君には彼女がいないことを聞いた。そしてかわいいからと勝手に年下だと思っていたけど実は私より三つほど年上で、三〇代前半なのだということも。呼び方変えなくちゃかな、と慌てたら、「別に、今までどおりで構いませんけど」と笑ってもらえたので、それ以降も変わらず『徳丸君』と呼ばせてもらっている。そして、自分の名前が名字なのかファーストネームなのか微妙なのをいいことに、『桂さん』と下の名前で呼んでもらっちゃってる。
はじめはお礼を云いに行きがてら、何も求めないのは失礼な気がして義理のように買った一本だったけれど、彼のお店のお花はどんな魔法を使っているのやら、持ちがいいので長く楽しめた。それがきっかけで通い続けたおかげでこの一年、いつも部屋には何種類かの花が飾ってあって、買って来るのは自分なのに何だかうっとりしてしまう。
花そのものが美しいのは云うまでもなく、つぼみからどんどん花が開き、やがて散って行くまでの短い生の輝きに、日々ハッとさせられていた。
スイートピー。
スズラン。
ガーベラ。
カラー。
デルフィニウム。
ネリネ。
ブルースター。
ワックスフラワー。
チョコレートコスモスのような存在感のあるものを買い求めることもあるけど、小さくて普通なら脇役なお花も、徳丸君におすすめされたり、自分でこれがいい、って選んでみたり。時には、カスミソウも。
これまでお花はちっとも詳しくなくて興味も持てなくて、花は花だとしか思ってなかった。ここで、初めて目が覚めたみたいに、一つ一つ名前と顔を覚えていった。
徳丸君はお店に売ってる切り花やハーブの小さな鉢植えじゃない、街路樹のことまで教えてくれた。だから私は今年、桜の前に咲く白い花がハクモクレンで、桜の後に咲く白もしくはピンクの花がハナミズキだって、去年の今頃に教えてもらったことをちゃんと思い出しながらじんわりと幸せになれた。
徳丸君のお店に通う理由は、お花の持ちだけいいから、だけではない。
そこのオーナーから許可を得て、野暮ったいテナントをシックに改装したのも徳丸君その人だった。センスの良さはもちろん彼が作るアレンジメントやブーケにも表れていて、他のお店とはちょっと違う。ちょっと、というのがミソで、私も何とは明確に云えないけれど、その『ちょっと』が他のお店には確実にない素敵さなんではないかと思う。母の日やお祝い事など、何かしら要り用の時には徳丸君にお花を頼んで、贈った相手に『素敵ね』と喜んでもらえば、私まで勝手に鼻が高い気分になった。――恋人でもないくせに。
恋人、じゃあない。だけど、大切な人。
一日の終わりに一緒にカップ一杯のコーヒーを飲んで他愛のないおしゃべりが出来る、それを楽しいし幸せだと思える相手は、なかなかいない。友人でも恋人でも。
もうちょっと今のままこの特別な時間を楽しみたい。そう思うのはずるいかな。
これ以上自分から近付こうとは思わない。だって向こうはこっちが気後れするくらいかわいい(あんまり、体がマッチョのくせにかわいい顔って好みじゃない筈なんだけど)。もともと私は恋愛に関して積極的にかかわるタイプでもないし。
とは云え、私が行くと嬉しそうな顔するのが親しみではなくただの営業だったらさすがに傷付く。それに、仮に告白したとして叶わない時には好きな人とお気に入りのお花屋さんの二つを駄目にしてしまう。
だから、ずるいけどやっぱりこのままで。
そう思ってのんびり通っていたのに、突然こちらの都合でお店に行けなくなってしまった。
今までちょこちょこ顔を出してたのがある日を境に急にパタンと足が途絶えたらさすがに心配するよね(私には嬉しいやりとりが向こうは単なる営業だったとしても)と思って、いつも訪れるくらいの時間にお店へ電話した。
るるるる、と呼び出し三回で、『ありがとうございます、フローリスト徳丸です』と、電話でもかわいい徳丸君の声を初めて聞いた。こんなんでドキドキするとか少女か、なんて思いつつ、何でもないふりで「どうも、桂です」と云った。
『どうしました? 珍しいですよね、お電話なんて』
気のせいだろうか少し嬉しそうに聞こえる声の徳丸君に、これから告げる内容を思うと口が重たくなってしまった。
『桂さん?』
「あ、うん、……実はね、しばらく行けなくなっちゃって、お店」
『……どうかしたんですか』
「ん-、ちょっと」
――――云えない。
気になってる男性に、『イヤー会社のお花見で飲み過ぎて、どんとぶつかられてよろめいた拍子に足首捻りました』とは。
「ごめんなさい。また、そのうち行くから」
そう告げても、徳丸君からいつものような返事は帰ってこなかった。
大体二週間くらいの通院になると云われて、二週なんてすぐじゃんって、侮ってた。
いざ病院に通い出して徳丸君のお店へは行かなくなると、一日一日が過ぎるのはこんなにも遅いのか(ついでに三〇近くなると捻挫の治りも遅いのかと)ため息を吐きたくなるほどに焦れる速さでしか時は過ぎてくれない。通院しているんだから忙しくている筈なのに。
ちなみにどんてしてきた村上君(こちらもまた他の同僚に押された拍子によろめいて私にぶつかってきた。とんだ二次被害だ)から会社と病院の送迎の申し出をしてもらい、ありがたくそうさせてもらった次第だ。
ぱっと見こわもてな村上君だけど、『ごめん、ほんとごめん!』とぶつかった後には私よりおろおろしてた。
『捻挫の辛さはよく知ってるから』って、すごく親身にしてもらって、送迎の合間に『買い出しもついでにしておいたら』とスーパーに寄る気遣いまでしてくれて。――そういや、去年の会社の運動会で派手にこけて捻挫してたっけね。
送迎してもらってる身分でしかもスーパーにまで寄ってもらってて、その上お花屋さんにちょいちょい顔を出すなんて出来るわけもない。とっとと帰らないと自分の時間を削って車で送迎してくれてる村上君(夕方は私を送ってからまた仕事に戻っている)にも悪いし。
病院の受付時間に間に合うように仕事を上がって、しかも徳丸君のところを訪れておしゃべりも出来なくて、夜が長いったらない。
――パーカー羽織ってスニーカー履いて、暖かくなった夜の坂道を、今すぐ駆けてゆきたいよ。
もちろんこれはただの願望で、実際はまだそんなこと出来っこない。いつもなら一〇分あれば着いてしまうそこに辿り着くには、早歩きもままならない今の自分じゃその倍くらいかかりそう。
それでもまだ最後に買い求めたトルコキキョウが私の目と心を慰めてくれていた。
小さなテーブルにそれだけ活けた、優しいセピアなピンクを眺めながら、あのお店を思いつつコーヒーを飲む。同じインスタントのコーヒーなのにどうしても徳丸君に入れてもらった味にはならないのが残念。
会いたいな。素直に、そう思う。
こっちがお客だからとか、あっちはお店の人だからとか、そんなのをストッパーにしてたけど、そんなのしょっちゅう会える恵まれた環境にいたからストッパーになり得ただけだ。
お花たちと、徳丸君は元気にしてるかな。新しいお花情報はブログにアップされているけど、徳丸君が今どんな風にしているかなんて顔見なくちゃ分かんない。
お客さんの中から私一人いなくなるくらい何でもないのかも。私より熱烈に通い詰めて売り上げに貢献する人がいてもおかしくはない、けど。
一緒にコーヒーを飲むのは私だけだといい。――そんな独占欲が自分の中にあるなんて、知らなかった。
車って早い。
普段乗り慣れてないから、つい感心しちゃう。
お店に寄れないなら、せめて行き帰りにちらっと見るだけでもと思っていたけど、村上君の運転する車は、安全運転でもあっという間にそのお店の前を通り過ぎてしまう。
朝も夕方もその人はそこで、仕事をしていた。定休日の水曜日以外。
顔が見られたらその日はラッキーって云うルールを設けて、行きと帰り、そのお店を通る時はどきどきしてその一瞬を楽しんだ。
後半一週間の勝率はなかなかよかった。何故か水曜日までお店は開いてて、その姿を見かけてはじんわりと幸せになれた。
しかも。
車で通り過ぎるほんの数秒、目が合っている、気がする。うわ、自意識過剰だー。
私は後部座席に一人乗せてもらって、往路も復路もお店側の席をキープした。
車窓から見る徳丸君はやっぱり遠目でもかわいくて――でも少し、痩せただろうか。
そうこうしているうちに、やっと二週間が過ぎた。
今日の診察で先生からオッケーをもぎ取れば、晴れて病院通いから解放されて自由の身になる予定だ。
村上君にはアパートの前に九時に来て欲しいとメールでお願いした。
仕事のある日はともかく、お休みなんだし土曜日はいいよと先週云ったら、『彼女に、ちゃんと責任持って送って来いって云われたから』と告げられたので、今週もお願いしてしまった。足が治った暁には、村上君と、その彼女でこちらも同僚の原田さんには何かお詫びとお礼をしなくちゃだなあ。
メールには、これから家を出るから三〇分後ぐらいに、とあったので、そろそろ着替えなくちゃと動き始めたそのタイミングで、インターホンが鳴った。
え、まだ三〇分経ってないだろ! せいぜい三分だよ!
村上君だと決めつけていた私は、パジャマ代わりの部屋着にカーディガンを羽織ったすっぴんで、ドアガードもせずにいきなり開けた。
「ちょっと村上君早すぎっ、病院まだ受付も開いてな……」
話途中で、絶句。
そこに立っていたのは、徳丸君だった。
四月下旬でも朝はひんやりするって云うのに、半袖の腕。――上着、どうしちゃったの。この季節はまだ着てるって話だったじゃない。
「――おはよう、桂さん」
その言葉の本来持つ清々しさはみじんも感じられず、何故か悲壮感だけが漂う。
「徳丸、君」
びっくりして、思わず見つめ返してしまった。そして次の瞬間、はっと現状を認識する。
ちょお! すっぴん! ドすっぴん!
髪、ぼっさぼさ! しかも、髪は下ろして前髪だけ上げて、頭頂でちょんちょりんにしているという間抜けっぷり!
Tシャツ、てろてろに首が伸びてるし! しかもノーブラ!
今更見たものは取り消せないけど、これよりはましだからとりあえず着替えをさせてもらうことにする、よって今から一〇分間の猶予を要求する!
そう思って息を吸いこんだら、被せるように徳丸君が話し出す。
「お願い、締め出さないで。顔、見させて……」
そう云って、右手を私の頬にそっと滑らせた。
……お花屋さんの手だ。始終、葉っぱや棘やお水と戯れているから、あちこち皮がむけてがさついてる、鋏が当たる中指にはタコがある、働き者の手だ。
大好きな、手。
その手が嬉しくて、思わず上から包み込んだ。
ふっと笑う目は変わらない、けど。やっぱり、痩せたね。なんか元気ないし。
「どうしたの? お店は?」
「……開店準備だけしてきた」
「何でうち、分かったの」
「前に話してくれたから。大体の住所とか、『赤い屋根のアパートで目立つからタクシー呼びやすい』って」
――コーヒー飲んでた時のことだ。あんなささいな話を覚えてくれてたんだ。
私も覚えてる、徳丸君のアパートは真っ白な四階建てでエレベーターがなくて、すぐ近くにコンビニがあるって。特定しようと思えばなんなくそう出来る情報を、私たちはこの一年でたくさん相手に手渡していたのだ。
「どうしてここまで、来たの?」
「桂さんに、会いたかったから」
はじめて、『お客だから』『お店の人だから』じゃごまかせない、直接的な言葉が来た。
小さな戸口の向こうは朝の光でまぶしくて、そこを塞ぐように佇む長身の姿は薄暗い玄関と同じ、薄暗い顔をしている。
「会えなくなってしばらくして、毎日同じ時間に店の前を通る車があるって気が付いた。あの車俺も前に乗ってたから、目につきやすくて。懐かしいなあって見てたら、桂さんが、乗ってたよ。――ねえ、嘘をつかないで」
「ついてないよ」
ただあまりに間抜けなケガをしたと云えなかっただけだ。
「じゃあ、何で、病院なんかに行くの? 本当は、病気か何か、なの?」
「ちが、病気なんかじゃなくって」
「じゃ、何」
「……云いたくない」
そう云ってドアを閉めようとしたら、徳丸君はよく悪徳商法の人がするって云う噂の、閉まりかけたドアの隙間に足をガッ! と入れるアレをして、呆然としている間に扉をガバッ! と開いて。
「云ってくれるまで、帰りません」と言い切った。
「なん、で」
わけ分かんなくてそう口走ったら、「……桂さんが、好きだから」と泣きそうな顔で云う。
「好きだから、急に来ないなんて云われたら俺なんかして嫌われたのかとか、病院だなんて病気してるのかとか気になるし、村上君が彼氏なのかどうかも聞きたい。なんでこの頃朝晩ヤローの車乗ってんのかも、それが村上君なのかも。桂さんからしたらただの花屋の男にこんなこと聞かれて来られてドンビキだろうけど、ほんとのこと聞かせてください、お願いだから」
「いや、ドンビキはしてないし、むしろされるの私だと思うんだけど……」
口ごもっても目線を逸らしても、許されはしなかった。あーもぉぉぉぉ。
私は、キッと徳丸君を見据えて、いよいよ恥を晒す。
「会社のお花見で飲み過ぎて、村上君にどんと押されたらよろめいて足首捻りました! 村上君は彼氏じゃないし捻挫したことで責任感じて病院まで送ってくれてただけ! それから私も徳丸君のことが好きだから!」と、一息に告白すると、徳丸君はドアを押さえていた手をずるずると下ろして、ずるずるとしゃがんで、閉じようとするドアが背中に当たってた。そして、ドアに挟まれながら、満開に咲いたひまわりのように、笑った。
「よかったぁ……!」
「よくないよ! もう、今日さえ乗り切れればまたお店にも何事もなかったかのように行けたのに!」
「うん、でもそれじゃ俺、桂さんの気持ち聞けなかったし、多分、自分の気持ちも云えなかったと思うし」
そう云うと立ち上がり、ドアの中に入ってきた。バタンと閉まる扉と、暗くなる玄関内。気が付けば徳丸君に抱き締められてる。
ちょうど彼の胸に耳が当たってて、私と同じにトクトクと早いリズムを刻んでいるのが分かる。
「とくまるく、」
話し掛けようと顔を上げれば、そのまま顎を掬われて啄むキスから始まった。そして。
キス、うっま!
かわいい顔して、キスうっま!
……思考が溶ける前に、とりあえずそう思っといた。
長いキスが済んで、正気に戻って身支度を済ませたすぐ後にやって来た村上君に、なりたて彼氏の徳丸君が挨拶をした。牽制なんてすることないのに、むこうだって彼女いるんだし。そう云っても、視野が超狭くなってて聞きやしない。ほんとに私より年上なのかこの人は。
「終わったら後で店、来てください」って、車乗る直前にハグされて、それを村上君にも目撃されて――てか、あれわざとだな――発車してからも、ずーっとそこに立って見送ってた。ご主人様行っちゃったーって見送ってる飼い犬みたいに。
だんだん小さくなっていく姿をバックミラーで追いつつ、「ごめんね、なんか感じ悪くて」って謝ったら、村上君は「いやいや、いい彼氏じゃないの」なんて云ってくれた。それが嬉しくて、思わず病院に着くまでずーっと徳丸君とのことを聞かれてもいないのにあれこれのろけてしまった。村上君に「こっちまで彼女に会いたくなった」なんて切ない顔で云われるほど。
その言葉通り、いつもならアパートまで送られる筈のところを徳丸君のお店まで、と告げてそうしてもらうと、私を下ろした車は原田さんの住んでいる方面へと軽やかに走り出した。
ちなみに後日、村上君と原田さんにはお酒と、お花のアレンジメントを用意した。お酒が村上君で、お花は原田さんに。もちろん、お花は徳丸君が作ってくれた。私が頼む前から色やデザインも決まっててその用意周到さにびっくりだ。そしてお花のお代は、いくら云っても受け取ってくれなかった。曰く、「だって、自分の彼女がお世話になったんだから俺がお礼するのは当然でしょう?」って。
そんな言葉の一つ一つや思いを全く隠さなくなった目が、実は甘々だったその人に毎回『徳丸君、あっま! かわいい顔が、溶けまくりであっま!』と心の中でつっこんでる。
夜にコーヒーを飲むのは変わらずに、ただその回数は増えた。お店だったり、私のアパートだったり向こうのアパートだったり。
やっぱり徳丸君のコーヒーの方がおいしくて、そこだけは納得いかないから、いつかおいしさの秘訣を教えてもらおうと思う。
「桂さんに喜んでもらえるように、おいしくなーれ、って毎回唱えているだけだよ?」
そう笑った彼氏に『あっま!』と私がつっこまなくなるのは、いつになることやら。
15/05/25 一部修正しました。
15/12/08 一部修正しました。