花の先触れ(☆)
「ハルショカ」内の「雨の檻」の二人の話です。
たとえば、電車の高架下でたまたま信号待ちになった時。電車が頭上を通過して起きた突然の轟音にびっくりした私の横、運転席でハンドルを握る小田さんはさほど動揺した風でもなく、「バッファローの群れが通ったみたいだなあ」なんてことをしれっと云う。
「――えと、海外で見たことある、とかですか? それかテレビとか」
「いや、ないけどなんとなく」
「はぁ」
なんとなくでバッファローは出てこないって。さすが開発室の人は一味違う、とあらためて思う瞬間。
付き合いはじめて約一年経つけど、小田さんにとまどうこともまだまだ多い。
こっちがボーナス時期になると早くから楽しみで『もうすぐですね!』って弾んだテンションで話しかけたって『あー……もうそんな時期か、すっかり忘れてた』なんて仙人みたいな発言をするし。バッファローだし。
そんな浮世離れしている彼氏も、幸い私には面白いばかりだ。――『好き』が私の目を覆ってて彼の全てがいい風に見えているだけかも、という自覚はある。ありますとも。
彼に専門的なことについて質問してみたところで、返ってくるのは容赦なく呪文。門外漢の私に噛み砕いて説明してあげよう、なんて人ではないので私からあえて聞いたりはしない。でも、本棚に収まりきらず床やらソファーの上やらを当たり前のように占有し、部屋を訪れるたび増殖している本の数々――専門誌に限らず、洋物のミステリーや新書、漫画と節操がない――を見れば、恋人がかなりの読書家で知識を溜めこんでいる人だとわかる。そのくせ、『八重桜』も『ハナミズキ』も知らなくって『なんか今時期になると学校のフェンス沿いにモチャッと咲いてるやつ』だの、『歌になってるあの花、見た事ない』だの散々な云われようだ。ちなみにハナミズキ、会社にもちゃーんと植わってます。小田さんが目に入れてないだけで。
何度そう云っても軽く眉を寄せ、『――ほんとに?』って納得いかないって顔するのが好き。
「ただいまー」
忙しさがひと段落したのでこれ幸いと定時で仕事を上がった。会社から駅、駅から家へのバスも待たずに乗れた上に明るいうちに帰宅出来て、なんだか嬉しくなる。
のんきな私とは対照的に、このところ小田さんはとっても忙しそう。開発の進捗状況なんて正式にアナウンス出来る段階になければ当然恋人にも教えられないだろうけど。
「三週間、か」
忙しくなる、会社に寝泊まりすることもある、連絡はつかないかもしれない、とバッファローの日に通達されてから、もうそれくらいになってた。その間にハナミズキも八重桜も終わっちゃって、今はバラが見ごろ。さすがにそれは知ってるよねって本人に確認してみたいけど一重のバラは別のお花だと思っていそうだ。
ちゃんとご飯食べてるのかなあ。エナジーバーだのゼリー飲料だのばっかりじゃないといいんだけど、まめに自炊する人じゃないって知ってるから余計に心配。
――ちゃんと私、寂しがってもらえてるかな。忙しい人にそんな望みは浅ましいとわかってるけど、放っとかれてる身としてはそう思っちゃうんだもん。
あの人がラブ全開で、惜しみなく気持ちを伝えてくれる人ならこんな風にいじけて不安になって、彼氏が忙しいのに八つ当たりみたいな考えしないで済むんだろうな。でもそんな小田さんはちょっと想像もつかない。
初めてのデートを思い出してみる。あの『豪雨で車に閉じ込め事件』から少しあと。待ち合わせ場所に現れた小田さんは、『じゃ、いこっか』ってこっちを見ずに歩き出すと、広げた左手を私の方へ差し出してきた。リレーのバトンをもらう人みたいに。
『?』
私が意図を汲めずにいるとすごく不思議そうに小首を傾げて『――繋がないの?』と来たもんだ。
繋いでいい? じゃないんだ。当たり前なんだ。
それが嬉しくて、でもなんか妙に悔しくて。
微妙にあいてた二人の距離を詰めて、声も掛けずにその手を引っ掴む。色気も何もあったもんじゃない。
『どこいくんですか』
あ、ぶっきらぼうになってしまった。内心慌てる私に小田さんはムッとすることもなく、繋いだ手をしゅるっと恋人繋ぎに直して『どこ行こうかねえ』とのんきなお返事。
『立木さんはどこ行きたいの』
『――そうですねぇ』
想定外の手繋ぎ攻撃(しかも! 恋人繋ぎ!)で脳みそが固まっちゃって、考えるどころじゃない。
どうしよ、と焦っていたらひたすらのんびりした小田さんが『ま、いいよ。とりあえずぶらぶらしよう。それだって立派なデートだ』と云ってくれた。
『デート』
『ちがうの?』
『小田さんに、そう云う概念があるとは思いませんでした』
『立木さんに開発室の人間がどう思われてるか、ちょっと分かった気がするよ』
失礼な態度に、失礼な言葉。でも小田さんはぜーんぶ笑ってくれた。それを見て、ますます高鳴る心音。
歩くリズムにまぎれるようなタイミングで、繋がれた手にきゅっと力を込める。
『デートですね、確かに』
『でしょう?』
心なしか、嬉しそうな返事が来た。
その日、小田さんはお兄ちゃんのお店にも一緒に行って挨拶してくれた。ぶあいそで感じの悪いことに定評のある兄VS穏やかだけど独特なマイペースの小田さんというまったく展開が読めない二人の初顔合わせに内心冷や冷やしてたけど、蓋を開けてみれば思っていたよりうんと和やかな会合になった。
兄が兄なりに精一杯にこやかに応対してくれて『はねっかえりですが、こいつを宜しくお願いします』なんて毒舌成分ゼロで云えば、小田さんも『好きな人のお兄さんが好きなお店の菓子職人さんで、本当に嬉しいです』とにこにこしながらお店に並ぶ品々をあれがおいしかったこれもおいしかったと列挙して、兄を大いに喜ばせた。それが社交辞令じゃないとわかったんだろう。兄は、帰りしな頼んでないゼリーや焼き菓子を小田さんに持たせて『奇跡だ……』と感激させてた。
奇跡だ……はこっちの台詞。一年経ってもまだどこか、小田さんとのお付き合いをそんな風に思ってる。私は小田さんを好きだけど、あんまりそういうことを軽々しく言葉にはしないし元々何考えてるかを読みにくい人でもあるから、どうにも気持ちの在りようを疑いがちだ。
丸ごと疑ってる訳じゃないよ。ちゃんと好意らしきも感じる。でもそれが『書き文字の数字の3とほっぺと働きっぷりが好き』っていうだけなのか、情熱を孕んでいるものなのか、判別が難しいと思う時もある。キスとかしてる最中はもちろん分かるけど、でも。
そんなことばっかりぐるぐるひとりで考えちゃう、この頃。
家着に着替えて階段を降りると、リビングにはひっっっさし振りに実家、すなわちうちに顔を見せに来た兄が相変わらずの仏頂面でソファに座っていた。
「お兄ちゃん来てたんだ」
「来てたら悪いか」
「だからさぁ、どーしていつもそうやっていきなり喧嘩腰なの……」
ため息を吐いて大げさに呆れると、さすがに大人気ないと思ったのか「――すまん」と珍しく殊勝なお返事が来る。おお、きっとこれは彼女さんの影響ね! と、いるかどうかも怪しい恋人さんのおかげだと思うことにした。
「お店は?」
「定休日だ」
「あ、そか。ビールでも飲む?」
「いや、いい。もう帰る」と久しぶりに顔を見たばかりでもう立ち上がる兄。
「ゆっくりしてけばいいのに」
「お前と違って暇じゃない」
まーかわいくない。むかっ腹が立ったから、「カッワイイ彼女さんが待ってるの?」と 冗談めかして聞いてみる。そしたら、なんとかわいげのない筈の兄は困ったような顔をしたあとそっぽを向いて「――うるさい」と小さく唸った。
「え―――――――っ! やだ、お兄ちゃんほんとに?!」
「知るか!」
「ねえねえ、ひょっとしてお相手って、あの長くバイトしてくれてる店員さん?」
いつも笑顔がかわいくってはきはきしてて、毒舌もさらっとスルー出来る大変貴重なバイトさん。あの人が彼女さんになってくれてたらいいなあというかねてからの個人的願望でそう聞いてみたけど兄が口を割ることはなく「俺はもう帰るからな!」と云うが早く、さっさとリビングを出た。
あんまりからかっちゃかわいそうかと「お兄ちゃん、良かったね」と素直に祝福の言葉を口にする。玄関で兄は向こうを向いたまま、とびきり優しい声で「――おう」と返してきた。そして、ドアを開けながら振り向いた時にはもういつもの顔をして「冷蔵庫に新作入れといたからお前の彼氏にも渡してやれ」と帰って行った。
パタンと小さく音を立てて閉まったドアを夢の名残みたいに眺めて、それからキッチンに向かう。冷蔵庫の中には、兄の言葉通り、お店のケーキボックス大小二つが並んでいた。大きい方を取り出して中をのぞいてみたら、マンゴーのパルフェ、桃のジュレ、チェリータルトと季節のフルーツを使ったゼリーやタルトが家族の人数分ぎっしり。小さい方もきっと同じ中身だろう。
――小田さん、渡したら喜んでくれるかな。疲れが少しは飛んだりするかな。
返信を期待せずにメールをしてみたら、「明日、昼にでも受け取らせて」と大歓迎のお返事が日付の変わる直前にやってきた。
翌日。
昼休みにほんの数分、受け渡しで会うだけだっていうのに朝からずーっとそわそわしてた。
お化粧を丁寧に施して、でもチークつけすぎかもって鏡を何度も見て。――単身赴任の旦那さんに久しぶりに会う奥さんって、こんな気分かな。なんだか、嬉しくて気恥ずかしい。
せっかくの兄の新作は、痛まないように家を出る直前まで冷蔵庫に入れておいた。出る時には作りがしっかりした保冷バッグに保冷剤を山ほど詰めて、ケーキボックスをイン。おかげでやたらと重かった。
会社に着くとすぐにお菓子たちは冷蔵庫へ、保冷材は再登板に備えて冷凍庫へ。じりじりする思いで仕事をして、お昼のベルが鳴ると小田さんに会えるかどうか確認のメールを入れた。ほどなく『一五分後、芝生で』ってお返事が。急いでお昼を食べ終えて、軽くお化粧を直して、保冷バッグに再び中身を詰めて出発だ。
『今日はお出かけの際、しっかりと紫外線対策を』と気象予報士が云っていたほど強烈な日差しが待ち受けているけど、重たい保冷バッグを持ちながら日傘を差してさっそうと歩くなんてちょっと出来そうにもなくて、スプレータイプの日焼け止めをしゅーっとしただけで日傘は諦めることにした。
社屋を出た途端、一瞬目がくらむ。目の上に手を翳して社屋前に広がる芝生を見ると、世界一会いたかった人はぐんぐん上がる気温なんて自分とは関係ない、と云わんばかりに涼しげな顔で日なたに立っていた。
「やあ」
「――どうも」
ドキドキしながら近づいたのに、小田さんときたら久しぶりでも平常モード。
私ばっかりばかみたい、と思いながら、保冷バッグを突き出した。そしたら途端にぱっと嬉しそうな顔になる。――兄スイーツに負けたか私。
「これ、兄が小田さんにどうぞって。新作だそうです」
「それは嬉しいなあ。お兄さんによろしくお伝えしておいて」
「はい」
面白くなーい。私じゃそんな風になってくれないくせに、何そのにこにこ顔。
だからってここで喧嘩なんかするのは最悪だって分かってるから『じゃ、小田さんも忙しそうですし、これで』と早々に立ち去ろうとしたら。
「待って」
手首を、緩く掴まれた。
「小田さん?」
「――ちょっとだけ」
そう云うと、私の体をくるりと返して腕の中に閉じ込めた。
さんさんと日が差す芝生で、外の喫煙スペースを使う人や宅配便のドライバーさんが絶えず社屋に出入りするのを遠目に見ながら(そして向こうからもきっとばっちり見られながら)、バッファローより暴れまくる心臓のくせに動けない私が、小田さんにハグされてる。
はあ、と頭の上で漏らされたため息は、これまでに聞いたこともない程疲れた色をしていた。
「今回は、なかなかキツい」
「――そうなんですか」
小田さんはそれしか云わなかったけど、営業部から開発室への風当たりがこの頃特に強いらしい、というのは総務にまで聞こえてきている話。
皆がみんなそうじゃないのは知ってる。でも、うちの会社の傾向として、稼いでくる自分たちの部署が一番エラいと思っている営業さんが一定数いるのも、事実。確かに総務は利益を上げないけど、だからっていばられるのは本当に勘弁だ。――でもきっと、開発室はもっと。
小田さんは、床屋さんに行く暇もないのか、前髪がだいぶ伸び伸びになっちゃっている。
疲れてるくせ、飄々としているのはこんな時にも変わらない。愚痴を云ったり甘えたりして欲しいよ。これが、今の彼の最大級の甘えだったりするのかもしれないけど。
いつもよりちょっと弱っちい小田さんにときめきつつ、私の大事な人を弱らせやがってと営業部全体に向けて邪悪な念が滲み出てしまう。私の心の中ではさっそく、荒ぶるバッファローの群れが営業のナントカさんとかナントカさんに向かって突進してる。その調子で契約書を蹴散らしてしまえ。
そんな妄想をしてみたところで、怒りは一向に収まらず。
「営業の言いなりになんかならなくていいのに」
私がついそう口にしてしまうと、小田さんは「開発は金食い虫だからね、食わせてもらってる分頑張る時は頑張らないと」とこちらを宥める態になる。開発室の人たちこそキレていいのに。でも小田さんだからな。キレないで、営業さんからの圧やイヤミをさらっと受け流して、かえって怒らせていそうだ。――それで余計、仕事増やされてたりして。
冗談にしてはちょっと笑えない想像を無理やり追い払った。
呼吸でゆるやかに上下する小田さんの胸にほほを付けて、目を閉じる。こうすれば視線はシャットアウトされて、恥ずかしさもとりあえずは感じないで済む。――あとのことは、あとで考える。
小田さんはひときわ大きく息を吸って、ゆっくりと息を吐いた。
「俺、好きな分野の仕事をしてさえいればよくて、他はずっと適当で。適当って、わかる?」
「わかります」
花の名前を知らない人。ボーナス時期に関心がない人。興味のない事は全てスルーして来たにちがいない。
「でも、適当じゃないものも出来たみたいだ」
なに、それ。超あやふや。そのくせ、私を囲う腕は包囲網をぎゅうっと狭めている。それはつまり? ――それは、つまり。
あの、雨の日。小田さんは車載カメラ(内向き)を理由に、エンジンを切るまで何も云ってくれなかった。あの時みたい。
何も云わずに、私が大事だってハグでそう伝えられた。それで嬉しくなっちゃうのは、なんかちょっと悔しい。
「小田さんてずるいですよね」
「そう?」
そんなことない、って否定しないでやっぱり軽く受け止められたから顰め面して見せて、ハグから無理やり抜け出した。いいかげん、暑いし。
そしたら小田さんは少し不満げな顔をしていたので、ざまーみろって思いつつも悪いことしたような気持ちになってしまった。
手を、伸ばす。リレーのバトンをもらう人みたいに。いつかの私と同じくきょとんとした小田さんに「繋がないんですか」って云ったら、やっぱりしゅるりと恋人繋ぎ。
そのまま社屋に戻る道すがら、咲いているお花を見つけては小田さんに教えた。次に会った時には忘れられちゃうとしても一緒にいる時は二人で同じ景色を見たいから。
定家蔓はジャスミンの匂いがするだとか、箱根空木は色が変わっていくんだとか、今日もぴーちくぱーちく一人でしゃべり倒す私に、小田さんはいやな顔一つ見せずにうんうんと相槌を打ってくれるけど、うるさくないかな私。そう思っていたら「ありがとう」と何故かお礼を云われてしまった。
「なにがですか?」
兄スイーツのお礼はもういただいて、他に思い当たるふしもないからストレートに聞き返すと、小田さんは小さく笑った。
「俺にとって何でもないものや、どうでもいいと思ってたこと、ほんとはそうじゃないって君が教えてくれるから」
「――わたし、が?」
きょとんと見上げたら、うん、と頷く恋人。
「なかなか覚えないって知ってて、それでもこうやって花の事を話してもらえて、目が向くようになった。一緒にいると君が季節を連れて来てくれるよ」
ほら、と示された先には、誰もが知っているであろう赤ピンクの花が咲き誇っている。
「でも小田さん、名前知らないんですもんね」
くすくすと笑いながら指摘すると、肯定の沈黙。
「ツツジですよ、この時期植え込みによく咲いてるでしょう?」
「ツツジね、覚えた」
「ハナミズキは?」
また沈黙。この調子なら、来年の春も『ハナミズキなんて見た事ない』って言い張るんだろうな。きっとツツジもそう長くは覚えていまい。兄のお店のスイーツは忘れないのに、面白い人だな。
「小田さんといると退屈しませんね」
「そう? むしろ退屈だ、っていつも云われてたけど」
「そういう発言は、デリカシーがないですよ……」
「え、そうなの?」
そうなの! もう過去の人でも、女の人のことなんて出さないで欲しいっていうのに、この人は。
まあ、開発室の人だし小田さんだしな。そんな風に納得して、絆される準備がすっかり整っちゃってる私。
「デリカシーがなくてごめんね」
「――いいですよ」
ほら絆された。私ってほんとチョロい。でも、いつも悠然としている小田さんが、私の笑顔一つでホッとした顔になったのを目撃しちゃったのも、チョロさの一端だと弁明したいところ。
だとしても、短い逢瀬で不機嫌になっちゃうよりずっといい。二人でこうして笑ってる方が私はずっと好き。
暑かった外とは一転、社屋の中はひんやりと快適な温度が保たれているけれど、予想通り遠慮なく注がれる『うわ、バカップル来た』って視線が色々と痛い。でもそんなのはこっちばっかりで、やっぱり小田さんは手を離さずに涼しげな顔。羞恥心がシェア出来たらいいのにね!
開発室は五階で総務は二階。私は階段で歩くから、エレベーターがくればお別れだ。
いつもなら待たされるのに、小田さんを連れ去ってしまう箱が今日に限ってさっさと到着するのが憎らしい。
繋いだ手をゆっくり抜いていくと、何故か途中で止められた。
「小田さん、エレベーター来ましたから」
手を離すよう促す。すると、恋人は他の人のように乗りこまずに、私の手を繋ぎ直して階段へ向かった。
「俺もこっちで行くよ」
「――五階まで?」
「運動不足だからね、少しでも動かないと」
声が響く場所だから、内緒の話でもないのに二人でひそひそ。そうして階段を上りながら、なにかを確かめるように、繋いだままの指を親指の腹で撫でられた。
そんな風に大事に大事に触れられたら、わがまま云わないようにしてたのが無駄になるじゃないか。案の定、我慢してた筈の言葉が転がり落ちてしまった。
「会えたけどこれだけじゃさみしい」
子供みたいな物言いになってしまった。恋人が大変な時だというのに幼稚な自分が恥ずかしくて勢いよく階段を昇ると、踊り場で後ろからきゅっと抱き止められた。
「俺も」
シンプルで、でも熱っぽい言葉。今どんな顔してるの。見てみたいけど、さっきよりも強く腕で閉じ込められたから、多分これは『見ないで』っていうこと。
「週末、うちにきてくれる?」
頷くと、「頑張って片付けしておくよ」と云われたので慌てて振り仰いだ。
「二人で一緒にすればいいんだから頑張らなくていいですよ!」
「ありがとう」
「――私こそ、わがまま云ってごめんなさい」
疲れてる人の週末を奪ってどうする。反省して『やっぱりナシで』と云うはずが、「わがままのうちにも入んないよ、こんなの」と小田さんにあっさりその機会を奪われた。――そうか、いいのか。
二人でまた、ゆっくり歩き出す。踊り場からほんの十数段で、あっという間に二階に着いてしまった。週末会えることになっていても、ここで別れるのがやっぱり名残惜しいと思う自分はほんと欲深だし、好き対決をしたら確実に負ける。それでもいい。いいんだけど、「困ったなあ、君を手放したくない」なんて、まるで困ってないみたいな口ぶりで云われるとまた心の中でバッファローが大暴れ。
「――好きなパティスリーの新作が食べ放題だからですか」
ああもう、我ながらかわいくないー。こんな自分に落ち込みかけると。
「それは否定出来ないけど、主目的じゃないな」
でもやっぱり季節と同じに、君が連れてきてくれるものだねと恋人がほほ笑んで、チョロい私をまんまといい気にさせた。
「週末、楽しみにしてる」
それだけ云って、小田さんが階段を上っていく。その背中が少しだけ元気になったように見えるのは、保冷バッグの中のケーキボックスの中 (ぎっしり)だけでなく、週末の約束があるからだって思いたい。
いつかは兄スイーツに勝ってみせるんだから。私は、小田さん専属の季節案内人、なんだからね。タルトやジュレよりうんと彼を幸せにしてやるんだ。
変な対抗心を燃やせば寂しさはバッファローに蹴飛ばされたのかどこかへ行って、私は上機嫌で午後の仕事を始めた。