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ハルショカ  作者: たむら
season2
37/59

寅も飛べるはず(☆)

「ハルショカ」内の「時を駆ける寅ちゃん」の二人の話です。

 小学生五年の冬、両親が離婚した。

 その時泣いたのは私じゃなくて寅ちゃん。

『なんで寅ちゃんが泣くの』

 心底ふしぎでそう聞いたら、寅ちゃんはおっきな目をうるうるさせて『じゅんじゅんが悲しいって思ってるから』としゃくり上げながら云ってくれた。

『……うん』

 悲しくて悲しくて、悲しかった。

 私がいい子じゃなかったせいなのかな、とかいろいろ考えた。

 どっちがいい? なんて聞かれたって、そんなの回転寿司のお皿じゃないんだしパッと選べるわけないじゃん。でも黙ってたらお母さんが今にも泣いてしまいそうな顔をしたから、お姉ちゃんと私は同時にお母さん、と云った。――お父さんの顔は、見られなかった。

 この時の選択は、高三になった今でもそれでよかったのかな、って思ってしまう。何度も。

   

 家が近かったから、熱が出たとかけがをしたとかしょっちゅうお休みする寅ちゃんにプリントを持っていくのは小学校の頃から私のお仕事だった。

 寅ちゃんのおうちは、冒険家だったお父さんが雪山で帰らぬ人になって以来、寅ちゃんとお母さんの二人きり。お母さんは看護師さんで、いつもとっても忙しそうだ(でも、いつもにこにこしてて、しかめっ面でため息ばかりのうちのお母さんとは大違い)。だからお休みする時でも、ほとんど寅ちゃんは一人だった。

『じゅんじゅん、ありがとー』

 プリントと連絡帳を届けると、熱で潤んだ瞳でふらふらしながら出てくる寅ちゃんが放っておけなくて、うっかり面倒を見るようになってた。おせっかいすぎるかなと思いながらお布団に押し込めて寝るまでそばにいたり、用意されていたおかゆがあんまり好きじゃないって聞けば、見よう見まねでお味噌汁と冷や飯に卵を落としておじやを作ったり。

 今では人並みに料理のできる私だけど、小学校の頃といったら初心者もいいとこで、なんどしょっぱすぎるおじやだの焦げこげの卵だのを食卓に出した事だろう。でも。

『おいしい!』

 いつだって、寅ちゃんは明らかに失敗作なそれをおいしそうに完食してくれた。


 ボタンが取れていたら、ひどい縫い目ながらつけた。朝、起きられない寅ちゃんをおにぎり持参で早めに迎えに行った。

 それは義務とか正義感じゃなくて、ただ楽しかったから。私も。

 余計なお世話って思われたら止めようと思ってた。でも寅ちゃんはいやな顔なんてしないし、それどころか面倒を見てたらすっかり懐かれてしまった。こちらも、寅ちゃんの隣は居心地がいいと、気付いてしまった。そうして、二人でいるのが当たり前になってた。


 かわいい顔を涙と鼻水まみれにして、私の代わりに寅ちゃんが泣く。

 私は、泣けなかった。泣いたらいけないような気がしてた。だから、泣いてくれて、嬉しかった。言葉には表せないほど。

 この時だと思う。私の中で、寅ちゃんが飛び切りの特別になったのは。


 二人の関係は傍から見ると寅ちゃんが私に甘えてる一方みたいだけど、実際は違う。

 寅ちゃんは、いつだって私を助けてくれる。


 負けん気の強い私は、小学校高学年の頃、男子とよく揉めた。

「おまえ、女のくせに生意気なんだよ!」

 クラスで一番の乱暴者とその手下どもに中庭でつるし上げられてた時だって、寅ちゃんは単身で救いに来てくれた。

「とうっ!」

 学校の二階の窓から、男子に囲まれていた私のところへ飛び降りて、そして。

「いってええええ!」

  着地したとき、ジンジンしびれてしまったらしい足を抱えてごろごろ転がった。

  それを、いじめっ子たちも私も呆然としながら、ただ見ていた。

「……何してんの」

 あきれた私が云うと、てへ、と照れ笑い。

「うちのとーちゃんが星になってあんな高いとこにいるんだから、息子の俺だって空くらい飛べるはず! って思って……」

「落ちたのね」

「うん」

「ばか」

「知ってるよ」

「大ばかよ!」

「そうなんだよねえ」

 私が何を云っても、唄うように返す寅ちゃん。一人でカリカリしてるのがばからしくなっちゃう。

「けがしてない?」

「だいじょぶー」

「もっとよくあちこち動かしてから云って!」

 男子たちは、突然乱入してきた寅ちゃんを一瞬だけ鋭く警戒したけれど、攻撃性ゼロな様子に毒気を抜かれたのか、結局それ以上はなにもせず教室に戻っていった。

 その事にほっとして、その後に遅れて反省がやってきた。

 今回はたまたま寅ちゃんが間に入ってくれたから良かったけど、そんなのはたまたまだ。次は一人でも切り抜けられるようにしなくっちゃ。

 せっかくそう気を引き締めても、寅ちゃんを見れば私の中で尖っていた気持ちはぜんぶゆるいため息になって抜けていく。

 まったく。もっと助け方はほかにもある筈。先生を呼ぶとか友達を呼ぶとか。でもこの人は、真っ先に私のところに来てくれたんだよなあ。

「ありがとう」

 教室に戻る時、廊下でポツリとそう云うと、「え? 何が?」と助けた事なんかもう忘れている寅ちゃん。下手な演技の時は右手と左手がいっしょに出ちゃうくらい素直だから、本当に忘れてるんだろうな。

 とうとう吹き出してから寅ちゃんを見ると、向こうもこっちを見て、私よりキュートに笑っている。


 泣いてくれてありがと。傍にいてくれてありがと。助けてくれてありがと。笑わせてくれてありがと。理由ならたくさん。

「いろいろ全部だよ」

「じゃあじゅんじゅんもいろいろ全部ありがと!」

「ほんとだよね」

 私から手を繋いだら、えへへって身をよじって照れて、でも手だけは離さなかった。

 あったかい、優しい寅ちゃんが、私大好き。

 大人になって、背が伸びて私も寅ちゃんも変わったとしても、この気持ちだけは変わってほしくないと思った。


 それからも、男子から私へのいやがらせ、そして個性的な寅ちゃんへのいやがらせはなくならなくて、そのつど互いにかばいあった。

 押されて転んで擦り傷を作って帰っても、私は平気。だって、寅ちゃんがいるから。そう胸を張ってた。そんな風に強くなれる自分をどこか誇らしげに思ってさえ、いた。

 ――でも。


「あの子といるのはやめなさい」

 もともと寅ちゃんの事をよく思っていないお母さんが、悪く誇張された噂話を鵜呑みにして、私のけが(といっても擦り傷だ)を見るたびそんな風に云う。

 私も助けてもらったのに見てみぬふりなんてできないといくら訴えても、「あなたじゃなくても、ほかのお友達が助けてくれるでしょ」なんて、冷たい顔で冷たい返事しか返ってはこなかった。

 どうしたら寅ちゃんの事、わかってくれるだろう。考える私に、お母さんは冷たい言葉をさらに連ねた。

「ああいう子とはかかわらない方がいいわ。こっちまでいっしょくたにされるんだから」

  ――それを聞いて、私の中で何かが弾け跳んだ。

「お母さんのばか!」

  どうしてわかってくれないの。どうして、『ああいう子』なんていうの。『ああいう子』って、どんな子?

 いろんな思いが心の中に渦巻く。でも、何一つうまく出てこなくて、代わりに涙がにじんできた。

 お父さんとお母さんが離婚しても、男の子にいじめられても、泣いたりしなかったのに。

(じゅん)!」

 お母さんが止めるのも無視して、家から飛び出した。


 夜一人で外に出るのも、お母さんに口答えするのも初めて。

 当てもなく走り出した足は、遠くへ彷徨う前に寅ちゃんちの前で止まった。――すごく、すごく会いたかった。

 カーテンの隙間から明かりが漏れてる。その事に少しだけホッとして、インターホンを鳴らした。

 とたとたとた、と軽やかに掛けてくる足音がして、チェーンも掛けずにいきなりがばっとドアが開いて。

「はーい……あれ、じゅんじゅん!?」

「なんでいきなり出るの! 最初にモニターで相手を確認して、それから出るんじゃないと危ないでしょ!」

「ごめん、気をつける……どうしたの」

 神妙に私のお説教を聞いた後、寅ちゃんは私が泣いている事に気付いて、パーカーの袖口でそっと目元と頬を拭って玄関に入れてくれた。その優しさに、もっと泣けてしまった。

 泣いたまま、お腹に抱きつく。

「もう、あんな家いたくない! ここのおうちの子にして!」

 そしたら、朝から晩まで寅ちゃんといられる。面倒を見られる。いい事だらけじゃないか。やけくそながらにそう思って懇願した。でも。

「だめだよ」

「……なんでよ」

 寅ちゃんが私のお願いを退ける事なんてこれまでなかった。まあ、アイス一口ちょうだいとか、お皿出してとか、他愛のないものばっかりだったからだけど。それでも、ひどく過敏になっている心はそんな事に気付きもしないで、勝手に傷ついて勝手にまた泣いた。

 いつもと違う私を前に、それでも寅ちゃんは簡単に流されてはくれなかった。

「じゅんじゅんは、こんなのがあるたびにこんなに傷つくの?」

「!」

 優しい口調の寅ちゃんは、ひどい事をいっているようには見えない。

「たぶんね、これからもイヤなこといっぱい云われる。お父さんがいないこととか、俺といることとか。でも」

 私の両手をぎゅっと包んだ。

「強くならなくちゃ。俺、ずっとじゅんじゅんのそばにいるから」

 涙の成分が次々に変わっていく。母へのやりきれない怒りと悲しみから、寅ちゃんに拒絶された悲しみへ。それから、傍にいてくれるって約束してくれた事へ。

「絶対絶対、私のそばにいてくれる?」

「うん」

「辛い時は、泣きつきに来てもいい?」

「もちろん」

「……じゃあ、がんばってみる、ちょっとだけ」

「うん」

 じゅんじゅんなら大丈夫、と寅ちゃんが笑う。根拠なんて何もないのに、私はそれを頭から信じる事にした。そんなの、他の人は誰にも出来ない。

 寅ちゃんだから信じる。信じられるの。


 帰り道、「女の子が一人で歩くのは危ないよ」って、家まで徒歩一分の距離をわざわざ送ってくれた。手を繋いで、住宅街を二人で歩く。じゃりじゃりと、スニーカーの底がアスファルトの上の小石を踏む音が聞こえる。

 あんなに荒ぶってたのに、嘘みたいに心は落ち着いてた。宥めてくれたのは、隣を歩く男の子。

「寅ちゃんはすごいな」

「ほんと?」

「ほんとだよ。……ありがとね」

 家に着く。背の高さはいっしょだから、背伸びしないでほっぺにキス出来た。

「じゅっじゅじゅじゅじゅじゅんじゅん!」

 真っ赤になってどもりまくりの寅ちゃんに、強がりじゃなくちゃんと笑顔で「おやすみ! 気をつけてね」って声を掛けて、家に入った。


「ただいま……」

 さんざん聞き慣れたお母さんの怒声を覚悟して静かに入った玄関。でも、鍵を閉めても、リビングのドアを開けても、それは浴びせられなかった。

 代わりに、いつもより小さく見えるお母さんが、一人でダイニングテーブルの席に座っていた。

「……おかえり」

 無理にほほえんでるってわかる。目が、少し赤い。手元にはクラスの連絡網や、子供会の連絡網の紙、それから携帯電話。不在にしていた時間は短かったけれど、その間ほうぼうに連絡を取っていた様子が一目で見て取れた。

「ごめんなさい」

 云わなくちゃ、と思うより先に素直にその言葉が転がり出た。

「勝手に夜出て行って、心配させてごめんなさい。でも、寅ちゃんを悪く云われた事は私納得してないから」

 多分この場では余計なひと言を口にすると、ようやくいつものお母さんらしくキリキリした顔で「まったくもう、あんたって子は!」ってみっちり怒られた。



 それからも寅ちゃんの云う通り――それ以上に、まあ、色々あった。

 人に云われる事はスルーする術を身に着けたのでいちいち律儀に傷つかなくなったけど、やっぱり今でもお母さんの言葉だけは真正面から受け止めてしまう。

 ちょっと関係が良くなったかな、と思うタイミングで、いつもいつも傷つけられる。そのたび寅ちゃん家に逃げ込んで、少しだけ回復して、の繰り返し。


 窓の外に目をやれば、朝からしとしと降り続く雨。寅ちゃん、今日は撮影だって云ってたけど雨は大丈夫だったかな。

 インタビューをお断りするようになって、それでマスコミへの露出は終わり、にはならなかった。どうしても断れないものもあったし(それはしぶしぶ受けてる)、以前に撮影でご一緒したカメラマンさんから撮影の依頼があったりで、ぼちぼち活動の場を広げている。いつもよりかわいくカッコよく仕立て上げられた姿は地元のタウン誌だけでなくネットでも見られるようになって、街を歩けば『あの人』って指をさされたりもするけれど、当の本人はいたって暢気だ。

 スマホが寅ちゃんからのメッセージを受け取った音がした。撮影の合間に撮ったらしいカタツムリやかわいい自撮り写真に、落ち気味の気持ちが少しだけ浮上するけど。

 この季節は苦手。

 いつもだる眠いし、じとじとしてるし、食べ物にはすぐカビが生えるし。――それでイライラするお母さんと、よくケンカするし。

 食べ物や部屋の片づけ方から始まるお母さんの口撃は、結局進路や彼氏についてまで及んでしまう。そうなるとこっちも引くに引けず、口論になる。自分の事ならまだしも、寅ちゃんを悪く云われるのはどうしても駄目だ。いつものスルースキル、どこ行った。


 寅ちゃんがなんとかグランプリを取った事で、ころっと掌返しした人たちの現金さに怒りつつも、実は密かに期待してた。お母さんが、寅ちゃんを見直すきっかけになってくれるんじゃないかって。

 例の雑誌の寅ちゃんのページを、お姉ちゃんは広げたままダイニングのテーブルに置きっぱなしてた。それは『早くサイン貰ってこい』っていう合図なのでいつもならさっさと片付ける。でも今日はわざとそのままにしておいた。いいきっかけになりますようにって、柄にもなくそう思いながら。


「なあにこれ」

 仕事から帰ってきたお母さんが、案の定雑誌に目をやる。

「寅ちゃんがファッション誌のスナップで、おしゃれグランプリ、だって」

 ドキドキしながらそっけなく云うと、「ふうん」と興味なさそうに返して、そのままリビングの方へと歩いて行った。仕事着のジャケットを脱いで、ハンガーに掛けながら口にしたのは。

「あの子もねえ、せっかくこういう雑誌で賞をもらえるんだし、もっと普通ならよかったのにね」

 ――え?

「あんな子がいると、片親だとちゃんとした子が育たないって云われてるみたいでこっちまで肩身が狭いわよ」

「なに、それ……」

 ぐらぐらと煮える怒りをそのままぶつけないようにするのに苦労した。なるべく静かにリビングを出て、振り向く。

「最低」って、それだけぶつけた。名を呼ばれたのは無視して、スニーカーを履いた。


 雨夜の町を走る。小五の時とおんなじだ。私も、お母さんも。

 何にも変わっちゃいない。分かりあえる日なんて、永遠に来ない。きっと。

 ――どうして、こうなんだろう。好きになりたいのに。尊敬してるし、育ててもらって感謝もしてる。

 でも、いくらこっちが頑張っても、どうしようもない事も、ある。それが、悔しいし悲しい。


 寅ちゃんちのインターホンを鳴らすと、出てきた寅ちゃんにひどく驚かれた。ケンカしてここに逃げ込むのなんてよくある事なのに、今更なんでそんなリアクション?

「――じゅんじゅん」

 名前だけを呼ばれて、そっと伸ばされた指先が目元に触れる。それで、自分が泣いてるって事に初めて気づいた。そんなのにも気付かないなんてどうかしてる、とぼんやりとした頭のまま、手を引かれておうちの中へ入れてもらう。

 また迷惑かけちゃったなあ。おうちが近すぎるのがいけない、徒歩一分なんて泣きつきに来いと云ってるようなもんじゃん。寅ちゃんも全然拒否しないし。

 ダイニングの椅子――いつも私が座るところ――に陣取って、こんな時なのにのんきな事ばかり考えてた。でも、私の横に座って、心配そうにこちらを見つめる寅ちゃんを見たら、それ以上はのんきなふり出来なかった。

「もう、無理、かも」

 しゃくり上げた私の涙と鼻水を、当たり前のように寅ちゃんがティッシュでぬぐう。優しく。

「無理じゃないよ」

「駄目かも」

「駄目でもない」

 そう云って、ぎゅっと抱き締めてくれた。

「じゅんじゅんは大丈夫」

 またそんな根拠のない『大丈夫』を云う。

 でもそれは、今私が一番欲しかったものだ。もう一歩も前を歩けないと思ってしまう私に、力をくれる言葉。

 涙が溢れる。そのたびに、寅ちゃんは優しく目じりにキスしてくれた。

「じゅんじゅんが泣いたら、その分俺はキス出来てラッキーだよ」

「なに、それ……」

 お母さんに向けて云ったのとは全然違う、同じ言葉。思わず笑ってしまう。

 その瞬間、インターホンが鋭く鳴った。私の教育の成果が実り、もうダイレクトにドアを開かない寅ちゃんが、モニター越しに「はい」と応えると。

『潤、ここに来てるんでしょう!』

 今まで聞いた事がない程、取り乱した母の声が聞こえてきて、思わずびくりと大きく身を竦めてしまう。

「じゅんじゅんはここにいて」

 優しい手が、立ち上がりかけた私の肩をそっと抑えた。大人しく従って、また座り直すと、寅ちゃんは優しい笑みを私に見せてから玄関に向かった。がちゃりと開錠する音がして、続いて聞こえてきたのは玄関の中に入ってきた足音、ドアがばたんと閉まる音。それから。

「潤、なにしてるの! 帰るわよ、早く来なさい!」

 反射で立ち上がりそうになってしまう。でも、帰りたい訳じゃない。

『ここにいて』

 寅ちゃんの言葉が、私の意志だ。


 いつまでたっても私が玄関に姿を現さないと分かると、お母さんは言葉の矛先を寅ちゃんに向けた。

「あの子を返して!」

「やです」

「――何を云っているの、あなた自分が何云ってるか分かってるの!」

「おばさんは、あんなに弱ったじゅんじゅんを知らないからそんなこと云うんだ」

「潤が? うちの子がそんなの、見た事ないわ。変な事云わないで」

「おばさんが、見ようとしてないだけでしょ?」

 淡々と紡がれる寅ちゃんの言葉、とんがったお母さんの言葉。聞き耳を立てなくても、充分聞こえてしまう。

「明日にはちゃんと帰します。当たり前だけど、おばさんが疑ってるようなことは俺、なんもしませんから」

「そんな事云って、お母さんは?」

「病院で今日は夜勤です」

「なら信じられる訳ないじゃない!」

 母の悲鳴のような声に、直接聞いていない筈の私は身を竦めた。でも、寅ちゃんはといえばふうとため息を漏らしただけ。

「おばさんは、じゅんじゅんを信じないの? どうして? あんなにいい子なのにね」

 寅ちゃんの言葉の後、母が息を飲んだ。


 しばらくして、玄関から聞こえてきた母の声は、思いのほか穏やかなものだった。

「――明日ちゃんと学校に行くように、あなたから云っておいて」

「はい」

 パタン、と静かに閉められたドア。それに鍵とチェーンを施した音がして、それから寅ちゃんが駆けてきた。

「じゅんじゅん、おまたせ! お泊りいいって!」

 どっちかっていうと、寅ちゃんが押し切ってもぎ取った感があるけどね。苦笑しながら向い合せに立ってその胸におでこを付ける。寅ちゃんから寅ちゃんちのおうちの匂いがする(当たり前だけど)。


「……信じてくれたのかな」

「どうだろね。でも」

 寅ちゃんを見ると、ふわりと笑う。

「信じたいから、じゅんじゅんを無理に連れ帰らなかったんだと思うよ」

「うん」

 そうだといい。

 一ミリでいい、分かって欲しいし、私も分かりたい。いつか。


 一階の和室に、お布団を二つ並べた。一人で寝たくないっていうわがままを、寅ちゃんが受け入れてくれた結果だ。

 お風呂上りの寅ちゃんは、ほんのり桃色の頬に濡れた髪。美少年具合がぐっと増している。それでも、だいぶ男らしくなったような気もする。首から肩のラインとか。二の腕のあたりだとか。

 そんな事思いながらツツーッと触ると、とたんに寅ちゃんはメッて怖い顔のふりをした。

「駄目だからね。おばさんと約束したんだからね」

「ほんとに何もしない気?」

「うん。頑張って何もしない」

「……じゃあ、いつになったらするの」

 焦れた私がそう聞くと、寅ちゃんはうーんと考え込んだ。

「……俺の進路が決まったら?」

「いつ決まんの! とっとと潜り込めそうなとこ探しなさいよ!」

「はーい」

 消すよ、って寅ちゃんが宣言してからぽちっと電気のコードを引く。部屋の中が常夜灯の薄茶色に染まる。

「ねえ寅ちゃん」

「ん? なにじゅんじゅん」

「まだ、空飛べるって思ってる?」

 この春の事、小五の事を思い出して何となく訪ねてみたんだけど、その瞬間こっちを向いていた寅ちゃんの目がぎゅーんと泳いだ。

「思ってんのか……」

「べべべべべつにっ」

 まったくもう、笑っちゃうじゃないの。

 悲しくて、悔しくて、今日はもうこれっぽっちも笑えないと思ってたのに。

 びっくり箱みたいな寅ちゃんが、そうじゃないよって教えてくれた。

『はい』ってお花を差し出すみたいに、私を笑わせてくれた。


 お布団の中でいつまでもくつくつ笑ってたら、「そっか……そうだよね飛べないよね……」としゅんとしちゃうのがもうかわいくてたまんない。

 柔らかい髪の毛に手を伸ばす。好きなように手で散らす。やめろなんて云わずに、くすぐったそうに首を竦めながら笑ってる、私だけの男の子。

「寅ちゃんは、ずっと飛べるって思ってて」

 隣のお布団の中に手をさし入れて、そっと繋いだらぎゅっと握り返された。

「じゃあ、じゅんじゅんもいっしょに飛」

「私は、薬箱用意して地上で待機してるから」

 弾んだ声の寅ちゃんのお誘いは、バッサリ切らせてもらうけどね。まあでも、現実じゃない世界でならお付き合いしてあげるよ。


 手を繋いで、目を閉じて。

 今夜は、寅ちゃんと空を飛ぶ夢を見る。


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