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ハルショカ  作者: たむら
season2
36/59

若葉マークⅡ

焼き菓子職人×大学生

 この四月から大学生になった。小、中、高と地元でのんびりしていた今までとは違う。

 上京して驚いたのは、駅がめちゃくちゃダンジョンなこと、テレビのチャンネルの数、街の建物のぎっしり具合などなど、挙げていったらキリがない。

 自分を取り巻く世界があんまり違いすぎて、不安になってしまう。今までは進学しても知っている子が必ずいたから、こんな風にまっさらな環境に身を投じることなんてなかったし。 


 人生で二度目の『違う環境への第一歩』(一度目は保育園の入園だけど、さすがに覚えてない)。

 若葉マークをぺたりと貼り付けて、知らない街で知らない電車に乗る。知らない匂いに戸惑いながら、知らない場所へ恐る恐る漕ぎ出す。


 一人で生活したことがないし、お料理もまだぜんぜん道半ばだし。

 友達できるかな、とか。彼氏も出来るといいけど都会の人には気後れするし、とか。

 地元の子と気持ちが離れたらやだな。勉強ついてけなかったらどうしよう。

 上京する時は期待ではちきれそうだったけど、今はぐるぐるぐるぐる、不安だらけ。そのまま部屋にいたらどこまでもネガディブになってしまいそうだったので、荷解きがすんだばかりのまだどこかすまし顔な部屋を出て、探索がてら近所をお散歩することにした。

 こんもりと咲いた雪柳を見て、狭いくねくねした路地に入って、野良猫さんの後をつけて、地元じゃ見たこともないような階段道に誘われて、――気が付いたらこれっぽっちも見覚えのないとこまで歩いてきちゃったっぽい。しかも日が暮れて、家々に灯りがともり始めている。

 慌ててスマホでアパートの住所を地図検索しようとした、その矢先。


 ぷうんと、おいしそうなご飯の匂いが漂ってきた。それだけのこと。なのに、どうして足が止まって、こんなに泣きたい気持ちになってるんだろう。

 今にもこぼれそうな涙を、こぼしてしまったら負けなような気がして、知らないおうちのお庭に植わっている桜を塀越しに見て必死に堪えた。

 ゆっくり、深呼吸を三回。――よし。

 なんとか泣かずに済んで、今度こそ帰ろうと歩き出した、その時。

 桜が植わっているおうちの横開きの扉がガラッと開いて、漂ってきたのはさっきのいい匂い。それに、ぐう、とお腹が正直に反応した。すると、中から出てきた男の人(こう云っちゃなんだけど、髭面でちょっとおっかない!)は、まだ馴染まないこの街でのこの出来事に固まってしまった私の前で動じずに、「麻婆豆腐だけど、あんたも食う?」と尋ねてきた。その言葉を理解するのに、数秒。

「えっいやいやいや、お構いなく!」

 慌ててそう返した瞬間、お腹が不平を申し立てるようにさらに鳴った。ばか! 正直すぎる!

 男の人は、くつくつ笑いながら、「まあ、急に知らない男に飯食うかって云われてハイとは云えないわな」と云いつつ、何か平べったくて大きいものを持ちながら私の前を横切って、そしてお庭の真ん中に咲き誇っている桜の木の前で手に持っていたそれをぱたぱたと広げた。

 あっという間にテーブルになる。よく、キャンプ場とかで見る奴。

 へえ、と眺めていたら、プールサイドに並んでいそうなプラスチックの白い椅子を簡易テーブルへと添える。

「今日、まだこの時間は外でもあったかいし、夜桜見ながら飯食おうと思ってたんだよ」と云いつつ台拭きでササッとテーブルと椅子の座面を拭いて、おうちとお庭とを往復してビールやら麻婆豆腐やらご飯やらを次々とテーブルへと並べるので、ますます食欲を増進させられてしまった。

 すっかりとお支度が整って、その人が椅子に腰かける。そして、未だ門の横で立ち尽くしていた私を手まねきして「早く座んなさいよ」って当たり前のように声を掛けてきた。

 知らない人(それも男の人!)といきなりご飯を一緒に、なんてとんでもない! って分かってる。でも。

 お腹が、『もう耐えきれません隊長!!』って三度訴えて来たから、いよいよ私も降伏せざるを得なかった……。


「いただきます!」

 パン! と手を合わせて威勢よくそう挨拶したその人につられて、私も「いただきます」と復唱。そして、まだ湯気の出ている麻婆豆腐をお皿によそってご飯と一緒に口に運ぶと。

「――おいしいっ!」

「そりゃあよかった」

 ビールを飲みながらその人はニッと笑った。あ、笑うとかわいいやこの人。さっきはおっかない顔だと思ったのに。

 そんな風に簡単にその人へ抱いていた印象を変えるだなんて現金な自分が恥ずかしい。そんな気持ちと、お腹が空いていたこともあって、普段よりも勢いよく食べていた時、突然それはやってきた。

「――かっ、からいっ!」

「ああ、豆板醤も鷹の爪も入ってるからな」とその人は何でもなさそうに云って、手にしたビールをこちらに向けた。

「飲む?」

「いえ、未成年なんで」とコップのお水を飲み干す。

「真面目だねー」と呆れているのか感心されているのか、そう話しながらその人はピッチャーからお水を注ぎ足してくれた。ごくごくと飲み干して、ようやく人心地がつく。

「口の中が火事になったかと思った……」

 ようやくひりひりしなくなって放心しながら呟くと、盛大に笑われた。

「あんた、子供みたい」

「コドモのようなもんですよ、一八ですもん」

「へえ、ぱっと見二一くらいに見えたけど」

「……それをどう受け止めたらいいんでしょう」

「フツーに、『かわいい大人の女って思われた』って思っときゃいいんじゃない?」

 そんな言葉を、さらっと吐く人なんて私の周りにはいなかった。さすが都会の男恐るべし。当然、その賛辞はリップサービスと受け取りましたよ。

「実際大人じゃないし田舎者ですし」

 苦笑交じりに云うと、「上京組か」と水を向けられた。

「はい」

「俺もだよ」

「うそ!」

「なんでうそよ」

「だって、『俺は東京生まれ六本木育ち』って顔してるのに!」

 そう返したら、とうとうビールを噴いた。

「お嬢ちゃんちょっと面白すぎ」

「……田舎者なんで、感覚ずれてるかも」

「そんな卑下することないだろ? いいじゃない、帰る場所があるっていうのは」

 優しい言葉をもらって、じんわりと心が緩んだ。


 結局、その人のさりげないゆるゆるトークで、私がこの近隣の大学に通うことや、色々不安でネガティブになってることも引き出されてしまった。――今日会ったばかりの人にご馳走になったばかりかグチまで吐きだして、私何してるんだろ。

 不甲斐ない自分に凹んでいたら、「いいんだよ」と、また優しい声が降る。

「初めてで分かんないのは当たり前。失敗したからって、どうってことないことだ」

「……でも」

「大丈夫。道とか乗り換えとかが分かんなかったら、知らない人でも聞いてごらん。きっとみんな親切に教えてくれるから。最初っからうまく出来る人なんかいないし、嘘なんてつかれないんだから。それでね、来年困ってる子をみたら、お嬢ちゃんが優しくしてあげればいいんだよ」

「……はい」

 私がその言葉を噛み締めてしみじみ呟いたら、その人は「よし」って満足げに笑った。


「ごちそうさまでした、それと、ありがとうございました」

 あんなにへこんでたのに、お腹も心もパンパンだ。そしたら、さ迷い歩きしていた時とご飯をいただいている時には目に映ってはいても気付けなかった、お庭の桜の美しさがようやく心に染み入った。

 夜空をバックに、仄明るいその花はほんとうにぼんぼりみたい。

「きれい……」

「夏は毛虫がすごいけどな」

「うわ、なんかヤなこと云った!」

 田舎育ちだからと云って、虫全般が得意な訳じゃない。ぞわっとしてしまった腕をさすっていると、「満開の桜もいいけど、散るのも綺麗だし、葉桜も美しいよ。またいつでも見においで」とその人はお片付けしながら何でもなさそうに云ってくれた。

「……はい」

 大丈夫です、なんて、本音を晒した人には強がれなかった。

 差し出された手が、泣きたくなるほど嬉しかった。まだまだ知らない街だけど、私を知ってる人が一人いる。それだけで明日も頑張ろうと思えた。


 すっかり片付いてしまったテーブルを拭いたらもうここに居る理由もなくて、でも『じゃあ』って帰るのもなんだか失礼なようで何となくテーブルの横に立ってたら、いったんおうちに入ってからまた戻ってきたその人に「これ、残りもんだけどよかったら」とおかずが入ったタッパーをいくつか持たされた。

「お母さんみたい」

 照れ隠しにそう云うと、「ちゃんと食べて、ちゃんと勉強しなさいよ」とほんとに母みたいなことを云われた。

 お土産までいただいちゃって、今度こそもうここに居る理由が何もない。遅くなる前に帰んなさい、と水を向けられて、腰が上がる。


 ふらりと振り返れば、その人はまだこっちを見ていて、手を振ってくれた。こちらからも元気に振りかえして、誰も待っていないけど私のおうちになったその部屋を目指して歩き出す。

 そうだよ。出迎えの灯りはついてなくても、おうちの中はこだわって選び抜いた雑貨がたくさん待っているじゃない。雑誌みたいに、ううん、雑誌に紹介されてるお部屋よりかわいいんじゃない? って自慢したいくらい。

 抱えて歩く紙袋はじんわりと暖かい。あのおいしかった麻婆豆腐、明日も食べられるの嬉しいなあ。――ちょっと、辛いけど。


 行きはたくさんたくさん歩いた気がしたのに、道案内アプリに云われるまま歩いたら、帰りは一〇分少しで着いてしまった。でも、私には大冒険だった。



 あの人の言葉をお守りみたいにして、都バスも地下鉄も恐る恐る乗った。乗り換えアプリを駆使していてもやっぱり向かう先とか出口が分からなくて、そのたびに思い切って周りの人に声を掛けてみた。みんな忙しそうに歩いていて声を掛けるのは少し躊躇したけど、でも私の声に立ちどまってくれた人たちは、あの人の云った通り、優しく分かりやすく教えてくれた。『頑張ってね』って云ってくれた人もいて、若葉マークがついてるの、そんなにバレバレかなあって苦笑してしまう。

 そんな風にして、私の中の東京白地図は少しずつだけど、書き込みを増やしている。


 いつでもと云われた言葉はもしかしたら社交辞令だったかもしれないけど、渡されたタッパーもお返ししなくちゃいけないしと、私は一週間後、再びそこへ足を向けた。まだ午後の時間。もし不在だったら、また夜に来ようと決めていた。空のタッパーとお礼のメモを玄関先に置いて帰るんじゃなく、直接会ってお礼したいから。

 あの日満開だった桜は、春の光の中でひらひらと散り始めている。かわいくてきれいだなんてずるいなあ。でも、桜フレーバーはちょっと癖があるみたいで、苦手だなあ。

 インターホンを押して応答してもらうのを待ちながらそう思ってたらあの日のようにガラッと扉が開いて、直接「よう、来たか」とその人が出てきた。都会の人なのに、警戒心薄くないか。ふつうインターホン越しに確認してからじゃないの。

「こんにちは!」

「ドーモ」

「この間はごちそうさまでした。これ、お口に合うかどうか分かりませんけど、よかったら」

 差し出した包みの一つは、もちろんタッパーたち。

 それとは別に、大学の近くの小さな雑貨屋さんで買い求めたクッキーを渡した。これは、大学の説明会で隣り合った女の子(東京出身)と仲良くなって、教えてもらったものだ。

『すごくおいしいけど、いっつもすぐ売り切れちゃうんだよ』との言葉通り、三日通って空振りだった程の人気商品。四日目の昨日、ようやく手に入れて、これでやっとお礼に伺えるって、思った。

 ――自分は何か理由がないと動けないんだって、新発見。


 アヒルの形や、雲の形や、色々。それぞれにパステルカラーで繊細なアイシングを施してある。そんな女子っぽいものを、見るからに大人な男の人に喜ばれるのか自信がないけど、と思いつつおずおず差し出すと、「サンキュ」ってあっさり受け取ってくれた。

 リボンを解いて、密封されてるパックを手で開けて、迷わずに星の形のクッキーを口に放り込んだ。豪快。

 ぼりぼりぼり、と味わって、「ん、やっぱウマイな」と満足げに口にするその人。

「え、ご存知でしたか」

 とりあえず食べてもらってよかった、とほっとしてたらどうやら食べ慣れてるらしいと分かり、なんだか嬉しくなった。

「おうよ」とその人も嬉しそうだ。なんで?

 きょとんとしていたら吹きだされた。

「だってこれ、店に卸してんの、俺だもん」

「――――えええええーっ?!」

 コンタクトが落ちるかと思う程、驚いた。


 こないだと同じに出してもらったテーブルと椅子のセット。

 私の前に置かれたコーヒーにミルクだけを入れて口をつけていたら、同じように飲んでいたその人が桜を見上げながら「落ち着いたか」とそっと声を掛けてくれた。

「はい」

「驚かしてゴメンな」

「いえ! ……こっちこそ、なんか驚きすぎたと云うか、それに、作った本人に作ったもの持ってきちゃったなんて……」

「や、嬉しかったよ」

 ――この人は社交辞令を云わない人だって、会うのは二度目のくせにそんな風に思った。

「あんな風に云ったけど、実はちょっと心配だったから」

「心配?」

「乗り換え失敗したり、乗り過ごして町田とか大船とか中央林間とか柏とか行ってたらどうしようって」

 心配のされ方がまるっきり子供じゃない。

「で、あんたが困った時にまだ誰も頼れる奴がいないんじゃないかって心配するくらいなら自分が面倒見りゃいいじゃんって気が付いた」

「そこまで、ご迷惑掛けられませんよ……」

 物言いがもごもごになっちゃったのはやっぱり自分もその点を不安に思っていたからだ。

「いいからさっさと携帯なりスマホなり出す」と云われて、よく考えずにサッと出したら、あっという間に連絡先をやり取りされた。

「頑張れ。で、困った時にはさっさと頼れ」

「――はい」

 お礼をしに来たはずなのに、やっぱり今日も心をぱんぱんにしてもらっちゃった。


 それから(みや)さん――やり取りしてやっとお名前を知った――と私は、ちょくちょく連絡を取り合い、よく宮さんのおうちでご飯をご馳走になる仲に、なった。

 あたふたしていたのははじめのひと月だけで、前期の試験を終える頃には乗り換えにもすっかり慣れて、宮さんに「百花(ももか)が都会の女になっちまった」なんてふざけられる程。

「はいはい」

「百花がこなれた対応するようになっちまった……」

「そりゃ、毎週酔っぱらいの宮さんの相手してればね」

 とは云うものの、もちろんそれが嫌な訳じゃない。こうして宮さんの昼間酒にしらふでお付き合いするのも、週末のお楽しみとして定着してる。


 宮さんは、なんだろう。お父さん、って云ったら泣いちゃうかな。お兄さん的存在、かな。仲良くなってからようやく聞き出した年齢は私プラス一〇歳。もちろんこんな年上のお友達は初めてだ。年上の人なんだからと少々怪しい敬語でしゃべってたら『敬語いらん』って云われちゃって、それに甘えてすっかりタメ口。

 見た目がごっついのに、かわいらしいお菓子を作る人としてマスコミにも定期的に取り上げられてて、本も何冊か出している。雑誌やテレビでみると「おおーっ!!」って思うけど当の本人はつまんなそうに「テレビ出ると売り上げが段違いだから出てるけど、ほんとは出たくなんかないよ」って、案外繊細な発言が来た。

「それは、目立つのはいや、とか?」

「別に目立たないからいいけど、出演料がやっすいからヤ」と実情を教えてくれた。あんまよそでベラベラ話すなよ、という前置き付きで聞いたそのお値段は、ファストフードで地道に働いた方がいいんじゃないの、って思っちゃうものだ。

「ひどいね」

 私が憤慨すると、宥めるように頭を撫でられた。

「でもそれで菓子作りが好きになったり、おいしいのが作れるようになって喜ぶ人が増えるんならまあいいよ」と、宮さんは照れたように缶ビールを煽った。中身を飲み干すとき、喉仏が上下に動くのを見て、あ、おとこのひとだ、と意識してしまった。――意識したら、もう。

 目を伏せるようにしてテーブルに視線を逃がせば、空き缶を置く宮さんの手が追いかけてきた。あちこちやけどの痕。この間もあつあつの天板触っちゃったって云ってたもんね。

「百花?」

 それ以上見ていられなくて、ふいと顔を背けたら当然気付かれた。

「なんでもない」

「でも」

「なんでもないよ。宮さん、おかわり持ってこようか?」

「……ああ、頼む」

 空き缶を持って、勝手知ったる宮さんのおうちにするりと入り込む。さっきまでただ親しいひとのおうちだったそこは、もうすっかり特別な場所に変わってしまっていた。

 玄関に無造作に置かれたキーホルダー。きちんと揃えて置かれたスニーカー。あの人が裸足で歩く廊下。当たり前だけど、そこかしこに、宮さんの気配がある。それを感じ取ると、嬉しいような楽しいようなきゅっと心を掴まれたようなふしぎな気持ちになった。

 その気持ちにつける名前には知らないふりをして、二つあるうちの手前のキッチン――奥の設備は製菓用――で缶を軽くゆすいでシンクに伏せる。冷蔵庫から、ビールを取り出して戻った。

「サンキュ」

 手渡すと、少々きつく見えてしまいがちな目元を和らげてくれた宮さん。

「どういたしまして」

 笑って、動悸をやり過ごしたいのに。

 どうして優しくしてくれるの。子供だから? 田舎者だから?

 そんな風に思ってしまうのは自分にも宮さんにも失礼だって、分かってても止められない。

 でも無理だもん、東京の人で、大人で、わざわざ保護者をしてくれてる人なんて――

「百花?」

 突然自覚してしまった自分の気持ちをうまくコントロールできずにいると、今度こそ訝しまれた。

「お前今日変だぞ、なんか悪いもんでも食ったか」

「……食ってないよ」

 ほら、やっぱり心配のベクトルは大人から子供へ向けたものだし。

 仕方ないよね。ほんとうに子供なんだもん、私。悲しいくらい。

「だいじょぶ。帰る」

 いつまで待ってても、たぶん宮さんのそばにいる限り平常心は戻ってこない。これ以上心配されるよりはもう家に帰ってしまおう。そう思って、立ち上がろうとテーブルに手をつく。

「待てって」

 握手の手をするりと抜いたみたいなかたちで、手首を緩く掴まれた。ああ、ほらもう泣きたい。掴まれた手をさりげなく外す術も、強引に剥がす意志も私にはなくて、きっと『宮さんのことが好き』って丸分かりな顔だって隠せないでいる。

 ――この人を、困らせたくなんかないのに。


 宮さんは座ったまま(そして手首も離さないまま)俯いた私の顔をじーっと覗き込んで、「ん」と何か一人で納得している。

「悪いもん食ったんじゃなく、悪い男にひっかかったな」

「……わるい、おとこなの?」

 それはべつに『宮さんが』と問うた訳じゃなく、あくまで『宮さんの見立ては私が悪い男に引っかかったというもの?』という疑問だったんだけど。

「悪いだろう、こうして懐かせて自覚させるなんて」とあっさり言い放った。

「……懐かせて?」

「そう」

「自覚、させた?」

「ああ」

「ごめんなさい、云ってることが全然分からない」

 心臓の音がやけにうるさいし、頭がふわふわしてるし、手を触れられているのが嬉しいし、もういっぱいいっぱいだ。

「分からなくっていいよ」

 いつの間にか立ち上がった宮さんに、すっぽり包まれた。

「百花はただずっと俺のそばにいればいい」

「いいの?」

「大歓迎だ」

「……ん」

 それは、少し怖いけど願ってもないこと。

「ほんとは百花が混乱している隙に乗じて全部ちゃっちゃと固めたいとこだけど、それでお前が後で泣くのは嫌だから」と云われて、やっぱり頭は理解できない。でも。

 気持ちを迷惑がられてないことは、分かった。あまえていいことも。

 ガチガチになってた体から力を抜いて、胸に凭れかかってみる。ふ、と小さく笑った宮さんの息が、私のつむじを一撫でしていく。もっとあまえたくなって頭をぐりぐりと押し付けたら「それ以上は百花が危ないから」とやんわり止められた。

 宮さんの肩越しに、緑の色が濃くなってきた桜の葉が見える。

 きっと、秋になったら葉を落として冬は寒そうな丸裸になって、また春が来たら嘘みたいに咲き誇る。それを私、宮さんの隣で見てみたいな。

 宮さんのキスを受け止めながら、そんな風に思った。


 分からなかった言葉は、落ち着いてから咀嚼して、しっかり理解しちゃって、改めてうろたえた。

「え、な、じゃ、みやさん、私のこと好きなの?!」

「あったりめーよ、涙こらえてた百花と目が合った瞬間にこっちは一目ぼれしてんだよ。でなかったら初対面の子引き止めてメシ食わす訳ないだろ」

「……そうなの?」

「そうなの」

 麻婆豆腐をタッパーに詰めて渡してくれたのも、返しに来ることを期待してだった、とか。

 保護者のポジションでそばにいる権利を獲得した、とか。

 宮さんの口から語られる光景は、私が見たものとちっとも同じじゃなくって、くらくらする。でも。

「……呆れたか?」と恐る恐る聞いてくるその人に対する気持ちが、目減りすることなんかない。

 ふるふると首を横に振ったら、うんと優しく見つめてくれた。



 七月に入ると、桜の木の下には日よけ兼毛虫よけとして大きなパラソルが設置された。その生地越しの光が、アルミのテーブルとプラスチックの椅子と、椅子に座っている二人を黄と緑に染め上げる。

 宮さんの手がガラス製のジャーの蓋を開け、割れちゃってお店に出せなくなったクッキーをひとかけらつまむ。「百花」と私の名を呼ぶ。

 宮さんの指で口元まで運ばれたそれを当り前な顔して食べる私は、もう恋人の若葉マークは取れたかな。

 でもきっと、これからも私は何回も初心者の証しを付けるんだろう。社会に出る時、結婚する時、等々。付けたり剥がしたり、意外と人生は忙しいものだね。

 だとしても、横に宮さんがいて、一緒に同じ桜を見上げてくれるなら、何度だって力強く漕ぎ出して行ける。ほんとうよ。


 口の中で柔らかく崩れるクッキーをゆっくり味わったのちに次の一枚を催促すれば、私にとびきり甘い恋人はいやな顔一つせずにまたガラスのジャーに手を伸ばす。そして、一口サイズに割れたクッキーをやっぱり当たり前に口元まで運んでくれるから、私も当たり前の顔してそれをかじった。



続きはこちら→ https://ncode.syosetu.com/n4804ce/40/

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