乙女系上司
会社員×会社員
始業時間まで、あと一〇分。小鳥のさえずりのように楽しげに会話を交わす女子社員たちと混じって、ナチュラルにその中にいるのは。
「今日の占いでラッキーカラーはシルバーって云われたから、黒の時計は外してこっちにしてきたんだ」
「わあ、課長さすがですね!」
――確か私の上司は上背一八〇オーバーの四〇男だと思ったのだけど。
女子の輪の中にいてあれだけ違和感なく会話できるってすごいなと、己の女子力と比べそうになって慌ててやめた。
なんでも『めんどうだ』と思ってしまう自分では、まったくもって勝てる気がしない。
上司である鮫島課長は床屋のポスターのモデル的な――要するに昔の二枚目顔をしている。
なのにひとたび口を開くと、飛び出すのは日本に初上陸したNYのドーナツ屋だの、スウェーデンの雑貨屋だの、女子も顔負けの新しモノ好きなカワイイマニア。
自分に興味のある話を聞きつけるといつの間にか『そうそう、あそこのおいしいよねー!』なんて云って一回り以上年下の女の子たちと一緒に盛り上がってる。
ごくたまに、『あの張りぼてダンディーじゃなくいっこ上のフロアのホンモノのダンディーである上杉課長が直属だったらなあ』と思わないでもない。いつまでもきゃりぱみゅの衣装について熱く語ってないで席に戻って来て欲しい時とか。
とはいえ、普段はそんなだけど然るべき時には頼りになる人だ(そうでなければ本気で異動願いを出している)。まあ、ゆるふわスイーツ上司を担ぎ出さなくちゃいけないような『然るべき』事態は、早々起きて欲しくもないし、そもそも起きないし。
――なぁんて油断ぶっこいていると、起きない筈の『然るべき』が、起きてしまうという一例。
隣の席の後輩の松下君がお客様をひどく怒らせてしまった。お客様にランクを付けてはいないというのはタテマエで、くだんの方は超が五つも六つも付くほどの大事な、古くからの、そしておっかない顧客だ。松下君の前は私がその方の担当だったけど、いばりんぼだし気分屋だし頭は切れるし声はデカいし、当時はとにかく胃薬が手離せなかった。
そんな方を、怒らせた。しかも、松下ときたらそれを自分一人でリカバリするつもりで誰にも報告しなかった。故に、事態は悪化した。アホたれが。
課長は彼のしどろもどろの弁明を聞きながら、見慣れた柔和な表情をいっさいがっさい消していき、「吉岡」と私の名を呼ぶ。
「はい」
「今からアポとってお詫びに行くから付いてきて、前任だった吉岡がいた方が先様も話しやすいと思うから」とお詫び行脚への同行を命じられ、その数分後、先方と連絡が取れたらしい課長から「午後イチで出るから」と再び短く告げられた。
うわ、行きたくねえ。
それが正直な気持ちだけど、仕方ない。今日はボウタイのお澄ましブラウスにベージュのタイトスカートというコーデだったので着替えせずにそのまま出かけられそうだ。
オーダー通りに出発出来るよう、抱えていた仕事を区切りのいいところまで進めたところでちょうどお昼を告げるチャイムを聞いた。その時、ようやく隣の席が空のままだったということに気付く。けど次の瞬間には「社食の席が埋まる!」と大慌てでそこを立ったので、懸念はすぐに紛れてしまった。
そして一三時。きっかりに「じゃ、行こうか」と口にした上司とともに、早足でそこを出る。
エレベーターに乗ると、休憩が終わったばかりのせいか他に誰も乗っていないし乗ってもこない。ゆるふわ乙女モードから完全に戦闘態勢のおっさんモードに切り替わってる課長と二人で会話もなくいるのが気づまりになって「そう云えば松下君は」と、やっぱり姿が見えずじまいな彼のことを持ち出すと、「午前で売り切れる豆大福のお店に並ばせてる。先様は確かそこのをお好きだと云う話だったし、松下に聞いたらお変わりないということだったから。そろそろ買って戻ってくるでしょ」と返ってきた。店の名前を聞くと、ここから五駅のところにある小さな名店。――何かのついでにそこの豆大福が好物であることを話したのは私が担当だった時の話だから、もう二年は前の筈だ。課長は本来、お客様とはこんなことでもない限り直接関わらないというのによく覚えてるなあ。これはさすがに女子力ではなく鮫島力と云ったところか。
気づまりな貸切エレベーターがようやく一階についてやっぱり早足でエントランスを突っ切っていると、ちょうど帰ってきた松下君と行き会った。手には確かに例のお店の紙袋を下げている。
「すみません、自分のせいで」と何度目かの謝罪とともに紙袋を手渡された上司は、彼の肩を一つ叩くと「まかせとけ」と小さく笑った。
その顔を見て、知らずに張りつめていたのがふっと楽になる。変に整った顔の人が笑っていないとひどく鋭利に冷たく見えて、だからあんなにも気詰まりだったのかとようやく理解が及んだ。
「お疲れさま。ああ、緊張したねえ」
「お疲れさまでした」
なんとかぎりぎり最悪の事態、すなわち大口の契約解除は回避して、その方のお宅を出ることが出来た。怒り心頭といったお客様を相手に、鮫島課長は会話のテクニックでこちらのいいように誘導することはなく、ただただ真摯に受け止めていた。
小細工が通用するような相手ではない。下手な取り繕いはきっとすぐに見破られて、さらなるお怒りを買っていただろう。
自分なら鮫島課長のように出来ただろうかと考えてみる。少しでもマシに見えるように、そのことばかりに腐心して、お客様がなぜ怒ったのか、その気持ちに寄り添う努力を怠りはしなかっただろうか。――想像するだけで、肝が冷えた。
まだまだだ。自分では一人前になったつもりでいたけれど、とんでもない。
それを嫌と云うほど思い知らされた。でも。
角を曲がって大通りに出たところで、そんなそぶりをついぞ見せなかった上司がネクタイを緩め、長く長く息を吐いたことで、彼も張り詰めていたのだということを知る。
「あ、桜」
だいぶ緑の占める割合が多くなった桜の木から、ひらりと名残の一枚が私の肩に舞い降りてきたのを見て、上司が弾んだ声で教えてくれた。
「よかったね」
「何がですか」
「吉岡は、確かおとめ座だったでしょう? 今日のラッキーカラーはピンクだったから」
「……もしかして課の全員の星座をご存じだったりしますか……?」
ちょっと引きつつそう聞くと、「そんな訳ないじゃなーい!」とやっと乙女モード解禁で憤慨された。
「吉岡は占いとか興味ないって云ってたから、僕が自分のついでにチェックしておいて吉岡がラッキーカラーを身につけてない日はさりげなくフォローする為に知ってるだけ!」
「あの、仰る意味がよく分からないのですが、もしかしてたまに書類に貼られてた目に痛い蛍光色の付箋て、そういうことだったりします?」
恐る恐るそう切り出すと、「もう、これだもんね! ほんと手がかかる!」とますます憤慨された。ピンクに黄緑に黄色。時折課長から渡される書類に登板する真四角の付箋は南国の鳥のようにけばけばしい色で、『確かに目は引くから見落としはしないけど、なんて趣味の悪い……』とつねづね思っていたのだ。普段のイメージならラブリーなモチーフ入りを使いそうな人なので、余計に。
思えば課長から回って来る書類に通常付箋は付いておらず、なにか不備やミスがあれば直接書類に書き込んであったし、長い言伝はメモを書類にクリップ、だった。だからと云ってアレがまさか気遣いのカタマリだったなんて誰が分かるっていうんだ誰も分からないよ!
いいおっさんが。だまってりゃそれなりに見えるのに、中身がカワイイモノ好きのゆるふわスイーツ乙女だとか頼んでないのにラッキーカラーの管理までされてるとか、おっかしくってしょうがない。――ほんの少しだけ、くすぐったい。
『プンプン』という擬音がぴったりな様子の上司に、「まあまあ、機嫌直してくださいよ」と照れ隠しにわざとかるーく声を掛けたら当然ますます怒られた。そのままほのぼのムードになっちゃう前に、もう一度気を引き締める。
「課長」
「何?」
軽い調子を引っ込めて声をかけると、すぐにあちらも気付いてくれた。道端で足を止めて、深々とお辞儀をする。
「今日は松下のフォロー、ありがとうございました」
「いいえ。上司ってそういうもんでしょ。高いお給料もらってんだから、たまにはこうして役に立たないとね」
その言葉でもう謝るのはおしまい、とお詫びのチャンネルはすぐさま閉ざされた。
いつもそうだ。何かあれば助けてくれるし雷をきっちり落とす上司は、事態が収束すればそれ以上の叱責をしない。
今だって何でもなさそうに云うけれど、私の中にはあの気難しいご老人から投げつけられた厳しい言葉も強すぎる目力もまだ消化できないまま残ってる。――それらのほとんどを上司は一人で引き受けてくれた。こっちがやつ当たりされたって仕方ないと思える位だったのに、お客様の家を出て最初に上司がしたのは、『お疲れさま』と私を労うことだった。
その穏やかな笑みに、この人は一体どれほどやりきれなさや怒りやかなしみをのみこんできたんだろうと気になってしまう。
なのに口から出てきた言葉は、「会社に戻る前に、甘いものでもいかがですか? 後輩の窮地を救っていただいたお礼に、駅前のカフェで私ごちそうします」、だった。まあ、甘いものでも食べて気分をリセットしたい気分でもあったし。
「うそお」
「ほんとですよ、なんで疑いますか」
「いいの?」
「もちろん」
「じゃ、お言葉に甘えて」
パトロンな気持ちで鷹揚に答えていたら、今まで見た中で一番嬉しそうな笑顔に遭遇した。笑った顔はやっぱり床屋のポスターだったけど、大事にずっと覚えておきたい、だなんて、乙女病が伝染したのか。
カフェでは、私が連れてきたのは年下の女子社員かと思うはしゃぎっぷりだった。
「やだもう、どれもおいしそうで決められない……!」
「決められないならモンブランにでもしておけばいいじゃないですか」
「そんなの駄目! ああ、限定の木苺のムースと苺ミルフィーユ、どっちにしよう」
私が不動のオーダーをさっさと決めたのにまだ悩むか。
「両方頼めばいいじゃないですか」
「太る!」
あーもうこのめんどうなおっさん何とかしてくれ誰か。
やっとこさ決まったと思ったら今度は紅茶の茶葉の種類で悩み始めたのを見て、また遠い目をする羽目になった。男は黙ってブレンドでも頼んどけや、と男女平等のヒトに怒られそうなことをつい思ってしまった私を責めないで欲しい。
そのあとも、店内の内装に目を奪われてたり、紅茶のカップに施された可憐なハンドペイントをまじまじと見たり、紅茶の香りにうっとりしたりと目の前の人はやたらと忙しい。
互いに頼んだスイーツがやってくると、上司は角度を変え何枚も写真を撮っていて、興味のない私が先に食べ始めると「なんで写真撮らないの!」と指導が入った。
「めんどくさくて」
「めんどくさいなんて云ってるとモテないんだから」
「別に……」
有名すぎるそのワードを口にして、過去にその言葉でバッシングされた女優さんはこんな気持ちだったんだろうなきっと。と同情した。
「せっかく吉岡かわいいのにもったいない」
「かわいいのは課長ですよ」
たかがケーキを奢るだけであんなに悩んでこんなに喜んでくれるなんて。
課長はまさか自分にその言葉を掛けられると思っていなかったのか、きょとんとしている。ほらかわいい。
「そんなの云われたことないよ」
「ああ、見てくれはかっこいいですもんね、ぱっと見」
「なにそれ、なんか素直に喜べないんだけど!」
面白いなあ。かわいくて、床屋のポスター風味な昔のイケメンで乙女だなんて最高だ。
職場の人に、しかも上司にそんな風に思っちゃうの、超イレギュラーだし恋愛とか別に興味ない筈なんだけどね。
こんなこと聞いちゃうのってデリカシーないかな、って思いながら、それでも知りたい気持ちもちゃんとあったから、「なんで課長は離婚されたんですか」ってストレートに訊ねてみる。以前、飲み会かなんかの時に『離婚してもう一〇年経つけどなかなか運命の相手が現れなくって』と上杉課長相手に愚痴ってたのをなんでかずっと覚えてた。
「聞きたい?」
それを聞いちゃったら確実に後戻り出来なくなる。――それはいいことなのか、悪いことなのか。
「大事な話だからね、いいかげんな気持ちで聞かれて噂話で消費されるのは勘弁だけど、吉岡なら話してもいいよ」
そう話す課長は、乙女でも上司でもなくて。目にはなにやら見たこともない光を伴っていて、お昼前後のキレッキレとはまた違う、妙な迫力があった。
もしや挑まれている? 負けず嫌いだから、ちょっとビビってるのを押し隠して、ブレンドを飲み干す。そして、「聞いてあげてもいいですよ」ってボウタイブラウスの胸を反らして云ってやったら、「まー小生意気な小娘!」って云いつつ、優しく微笑まれた。そんな顔をするとマジで床屋のポスターモデルだからやめて。
欲しくなっちゃう。この人のことが。それはいいことなの、悪いことなの。
心の答えとメリットデメリットはもう出揃ってる。
職場恋愛なんてめんどくさそう。このゆるふわ乙女属性の人もそうとうめんどくさそう。
でも上司として人として間違いなく尊敬している。しかもどうやら、それだけじゃなくなってしまった。――うん。今日の一連のやり取りで自覚しちゃった、な。
そうなったら、こっちとしてはさっさと告白してとっとと白黒つけちゃいたいけど、どうやら向こうは過程やらシチュエーションやらを大事にしたいらしく、さっきから私がショートカット上等! とばかりに意気込むと「まあ待って」「おちついて」といなされるばかり。でもなんか、お断りの雰囲気じゃなさそう。――さっそくめんどくせえな。
そう思いつつブレンドのお替りをウェイトレスさんにお願いしたら、「朝の占いなんだけどさ」ともじもじしながら切り出してくる鮫島課長。また占いか。若干呆れつつ、それでも聞く姿勢を取っていると。
「今日の吉岡の恋愛運は星いつつで『身近に運命の人がいるのに気付く日』、僕は四つで『好きな人が振り向いてくれるかも』だったんだけど、それってけっこう当たってると思わない?」ときたもんだ。
課長、そういうのほんっと好きですよねえ。
呆れた顔して云ってやる予定だったのに、私ときたら真っ赤な顔で固まってしまった。これはあれだ、乙女病が悪化したせいだ。だからにこにこして見守んなチクショー!
そう罵ることもままならず、やってきた二杯目のブレンドを飲むふりで俯く。そうしてると視界に入ってくる、ぱさぱさな髪の毛先。
あーこういうのきっといちいち『ちゃんと手入れしなさいな』とか諭されて椿油でのケアのやり方とか指南されちゃうんだろうな。考えただけでめんどくさいから、そういうのは全部丸投げしたい。
「課長が私の面倒いっさいがっさい見てくれたらいいのに」と何の気なしにつぶやいてみたら、今度は何故か向こうが赤い顔で絶句した。
「? 鮫島課長?」
「――聞こえてる。大丈夫、吉岡はそういう重大発言をまったくそんな気なしでぽろっと云っちゃう子だっていうことも分かってる。勘違いしてない大丈夫」
「おーい課長―」
「大丈夫。ちょっとドキッとしたけど大丈夫」
何を聞いても大丈夫としか繰り返さない課長と正式にお付き合いをスタートさせたのはそれから約三ヶ月後。健全なデートを重ねたのち、七夕に告白されるという筋金入りの乙女っぷりだ。ちなみに、お付き合いしてからの私はお肌のコンディションも髪の毛のつやつや具合も服のコーデも評判が良い。丸投げしたこれらを嫌がることなく、あちらさんは嬉々として面倒を見てくれている。ちなみに、そういうとこが『いちいち管理されてるみたいでいやだ』と元妻さんに三行半を突き付けられた理由だそうだ。聞いた時には思わずハハハッて夢の国のネズミ君みたく笑ってしまったよ。
そしてあいかわらずラッキーカラーの付箋は目に痛い。最近ではそれに、『love you』とかキショイこと書いてくる(可愛らしいちんまい文字で)ので受け取る時『うわ』って顔しちゃう。するとその場では平気な振りするくせにあとで『ああいうの、ちょっと傷付く……』ってセンシティブ乙女なメッセージを寄越してくる。云えよその場で。
仕方ないから私は、小さな花束・彼の好きなケーキ・「ごめんよ。私もちゃんと好きだから」っていう乙女手懐け三点セットを携えて彼に家に行き、ご機嫌取りをする。
鮫島乙女は「……アリガト」って受け取るけど唇はまだとんがったままだ。
ったく面倒だな。サイコーだ。
そう思ってくつくつ笑ってたら、「怒ってるのになんで笑うの」ってまたぷんすかしだす恋人。彼を黙らせるために、「まあまあ」って宥めるふりで頭を引き寄せ、うんと濃厚なキスをかましてやった。そしてその直後、おでこを合わせたまま「love you」って囁いたら、ようやく乙女なおっさんは心からの笑みを浮かべてくれたのだった。
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