エンドロールのその先で(☆)
チンピラ×情婦
役者×奥さん
「ハルショカ」内の「あなたと映画を。」#2の31、33、#3の42に関連していますが、未読でもお楽しみいただけると思います。
激しく咳こむと温い血が口から溢れて、スーツとシャツをひどく汚した。雑居ビルの裏、頭上の排気口から絶えず漂ってくる油の匂いが、血や生ごみの匂いと混ざり合う。
どんな香水よりも今の俺にはふさわしいな、と思いつつ、震える手でスーツの内ポケットから煙草を出した。箱のふたを開け、一本を取り出し咥える。その、数時間前までは簡単に出来ていた動作が、今死にかけている自分にはとても難しい。なんとか咥えたものの、昨今の使い捨てライターはガキが簡単に火を付けられないようレバーに強い力がかからないと着火しないようになっていて、けっきょく指を乗せるだけで使えずじまいだった。そのまま自作の血だまりの中へと投げ捨てる。――手から転げ落ちた、が正しいか。
腹を刺された時に内臓がやられたのだろう。夜だしブラックスーツなので目立たないが、腹がぐっしょりと血で湿っていた。ああ、もう腹だけじゃないな。血だまりの中に座ってんだから、ズボンのケツまで汚しちまった。
せっかくあいつが俺に、似合うって云ってくれたスーツなのにな。そう思うと、傷よりも胸がずくりと痛む。
悪い。やっぱ俺、駄目だった。クズは所詮クズだわ。夢なんか見ちゃいけなかったのよ。
泣くなよ。お前が泣くの、苦手なんだよ。俺はバカだから慰めの言葉なんて持ってねえし。
ほんとなら俺なんかと関わるはずもないカタギのお前を好きになって、悪かったな。俺の事は出来るだけ早いとこ忘れて、幸せになってくれよ。
クズの俺が最期にそんな風に思えるなんてほんと、お前のおかげだよ。お前が俺を人間にしてくれたんだ。なのに俺はなにも返せないまま、迷惑だけ掛けて、悲しみだけを与えて死んでく。
隣のビルとの僅かな隙間、上空にお月さんが見える。俺の住んでたぼろアパートの窓から、はだかの肩を寄せ合ってよく眺めてたそいつをひとりで見上げてるうちに、何だか涙が出てきた。
お前となら人生やり直せると思った。足抜けを叔父貴に懇願した。最後に運び屋をやって、それで終わりのはずだった。
足抜けしようって奴がそんな簡単に出来るお使いを頼まれるわけがないよな。
誰がウソついて誰が裏切ったかなんて、今更どうだっていい。ただ、嵌められただけだ。あれだな、一旦喜ばしといて絶望させるためだったんだな。
ここを何とか切り抜けたところで、それで一件落着にならないって事は、懇願しながら嬲り殺されてゆく諸先輩方を見てよーく知っていた。むしろ、むごい拷問が始まる前に致命傷を与えてくれてありがたいくらいだ。嬲り殺されなかったのはもしかしたら叔父貴の、俺への愛情なのかもしれねえな。
さっくりと深く刺された後、車で運ばれて、全然知らない街の路地裏に捨てられた。
血が抜けすぎて、もう月も見えねえよ。
お前の顔、も、
かすんで、
「はいカット―!」
その声に、俺は飛び起きる。すぐに手渡されたペット」ボトルの水を口に含み、バケツに向かってゆすいだ水を吐く。撮影で使う血のりはクソまずい。
それから監督のとこ行っていっしょにモニターを覗き込んだ。
小さな画面の中に映し出されるチンピラの最期は、ついさっき自分が演じたものとは思えず、なんだかひどく哀れだった。
「いいね」
無口な事で知られる監督がぼそりとそれだけ云ってくれた。
「ありがとうございます!」
深くお辞儀をすると、「いいから早く病院行きな」と手で追い払われた。
今日俺の撮影はここまでなので、お言葉に甘えてそうしようと走りかけたら衣装さんが慌てて「そのかっこで行く気? 怪我して救急に来たと思われるよ!」と止めてくれた。
汚れた衣装を脱いでシャワーを使い、傷のメイクもすっかり落とす。金色に染めてしまった髪は父親としてどうなのかと思うけど、まだ撮影もある事だしベースボールキャップを被って見逃してもらおう。
売れない役者なので公共機関の動いてる時間にタクシーなんて乗れない。飛び乗ったバスの中、じりじりとした気持ちで、病院へと運ばれた。
奥さんは今出産中だ。
売れない役者である俺を支える為に、ぎりぎりまで仕事してくれてた。
子供が生まれてくるのだから、いつまでやっても芽の出ない役者など辞めなくては、と決意した俺に、やめないで、と云ってくれたけれど。
男として、生れてくる子の父として、もうこれ以上は彼女に負担ばかりかけられない。だから、これが俳優として最初で最後の主演映画だ。
今までミュージシャンのPVを数多く手掛けてきた監督が初めて手掛けたこの映画は、ひっそりと単館で上映される予定になっている。
あくまで自分のやりたいものを創りたい監督につく大手の配給会社は皆無で、スポンサーも小さい会社さんばかり。当然の事ながら超低予算で、だからこそ自分に白羽の矢が立った。
予算が潤沢ではないにもかかわらず、監督は自身と親しい脚本家やカメラマンを巻き込み、シンプルで骨太の脚本やハッと目を引く宣伝用のポスターや役者の演技をより増幅してくれるBGMを味方に、物語を作り出していく。脚本家は「監督のアイデアを、俺は形にしただけだから」と小声で申告し、口の悪い事で有名なカメラマンは「次はこンなサービスはしねエ。ぼったくるから覚悟しとけよ」と、禁煙パイポを咥えながら笑った。彼らは提示されたギャラがプロとして最低限の額にもかかわらず、『面白そうだから』と快諾したそうだ。カメラマンから引っ張ってこられたと苦笑する気の弱そうな男前のピアニストもしかり。
結局、主演男優である自分以外はスペシャルな布陣となり、映画は上映前から随分と注目されている。
最後と決めた作品が、とても良いものになりそうで嬉しい。売れない役者で終わるとしても、好い作品に巡り合い、善いスタッフに揉まれ、良い演技が出来たのなら、それ以上なんて望まなくていい。
何もかもを捨て、ただ役者の感性だけを研ぎ澄ませて生きる事は、出来なかった。俺には日常も大事だった。それを表現者として半端だと罵られもした。けど、いいじゃないか。
まやかしの世界だけ愛しても仕方ない。俺は、俺の生きるこの世界もまやかしと同じくらい愛している。
どちらかを選べと云われたら、とても迷う。迷って、散々迷って、それでも君を選んだよ。
君とお母さんの生活を、俺の夢の犠牲になんかしたくはない。
泣かず飛ばずの役者人生だったけれど、最後に飛び切りいい夢を見られたのは、頑張ってた事へのご褒美なのかもしれない。でもそれは自分だけの手柄ではなく、周りの役者さんやスタッフさんがいたからこそ起きた化学反応だ。そんな風に思えるのも、寄り添って励まし続けてくれた彼女のおかげ。
『竜二』――俺の演じた、チンピラの名前――の死にざまを、俺はどこかで自分と同一視していた。彼女がいなかったら俺は、と思うと背筋が寒くなる。
自分の中に埋まっているかどうかも分からない『才能』やら『チャンス』やらを掘り出し磨く事なく原石のまま抱え続けて、根拠のない自信から人を見下していた俺を、彼女は諭し、発破をかけ、愛してくれた。経済的に頼りにならないと分かっていて、結婚してくれた。
子供を作ろうか、と持ちかけた時にとまどったのは彼女の方だった。俺は役者としてはまだまだで、彼女は子供を作って育てながら仕事をするにはもうすぐリミットが来る。そんな二人が子供を作らないのは、これまで暗黙の了解だったから。
でも俺は、愛情深い彼女が俺だけじゃなく、子供を欲している事を知ってた。そっちを手にするなら、自分が諦めるものは何なのかも。
うん、とちいさく返事をした時の彼女の目は濡れていた。
『でも役者のお仕事、やめないでね』
『わかってるって』
そんな風に、軽口を叩いて、笑って。
我ながら今までで一番うまい演技だったと思う。
あの時、俺は役者としての自分を手放すともう決めていた。
仕方なく出来た子じゃない。望んでた。役者として次にあるかもしれないチャンスより大事だと思ったんだ。
だから、どうか無事に生まれておいで。――奥さんも君も、二人とも、どうか無事で。
祈る車窓から、ふと夜空を見上げる。月が、六月の湿った街に優しいひかりを惜しみなく降り注いでいた。
「あ、パパ!」
夕方、仕事を終え帰宅しリビングのドアを開けると、息子が振り向いて「おかえりなさい」と元気よく手を振った。ちょっと気温が高くなると、この坊主はすぐ海賊王を目指している某アニメの主人公のようにタンクトップと半ズボンになってしまう。そのまだ日に焼けてない肩越し、テレビの中にいる今より若い俺は女優の背中を掻き抱いていた。慌てて画面を子供番組に切り替える。笑えるくらい牧歌的で底抜けに明るい色調のアニメーション。とりあえず、今さっきまでとのギャップがものすごい。
「パパうつってたのに」
「いいの、パパはこっちが観たいの」
「おれはさっきのがみたいの」
まだ五歳のくせにいっぱしの男気取りで一人称が『おれ』――ただし、小さな子供特有の、先にアクセントのついた発音で――の息子が、不満を全身で表明する。その頑固さはどちらかというと奥さん譲りだな、と苦笑した。
「なんでそんなに観たいんだよ」
「だってかっこいいんだもん、りゅうじ」
そのどうやら嘘がないキラキラした目に、胸がいっぱいになる。
きもちが溢れて零れてしまわないように、部屋の中では吸わない煙草を指先で弄ぶ。そして、あえて明るく軽く「チンピラじゃん」と返すと、息子は真っ赤な顔して反論してきた。
「でも、ヨーコのこと、てきのやくざからまもったよ!」
「惚れた女の一人くらい、俺だって守るっつうの」
やばいやばい。そうつっぱらかってないとニヤニヤ笑いながら涙を流してしまいそうだ。
「ママだってりゅうじすきっていってたもん!」
「――そうか」
愛しい奥さんの賛辞を否定する事は許されない。だから素直に受け入れた。
「そうだよ、だからおれ、りゅうじみたいになりたいの」
「それはおすすめしないなー」
男二人でソファで寝っころがりながらそんな話をしていたら、奥さんが「あれ、もう変えちゃったの」とすごく残念そうな顔で麦茶を運んでくれた。
「ありがと。――観てらんないよ自分の演技なんて」
「そーお? せっかくかっこいいのになあ」
「ね!」
「ね!」
愛する二人からの手放しの賛辞を、少々面映ゆい気持ちで受け取る。でもだからと云って、まだ濃厚に睦みあっているだろうシーンを映しだすわけにはいかない。
「続きは一五才になってから」と伝えると、「そんなにさきまでかかるの!?」と憤慨した息子だけど、彼が今一番ハマっているライダー俳優さんとのツーショット写真を見せると、「パパすっげー!!!」と『りゅうじ』の事は瞬時に頭からすっとんだようだった。――それはそれで、切ない。
息子が寝てから改めて奥さんに「ちょっとR15とか五歳児に見せるのやめてよ」と云うと、「だってBSでやってたんだもん」と責任転嫁された。
「かっこいいって云ってもらえて、そりゃ嬉しいけどさー……」
金髪でバリバリに刺青の入っているいきがったチンピラに心頭されても親としては複雑な気持ちだし、ましてや野垂れ死にするシーンなど見せられたもんじゃない。いくら俺の出世作だといっても。――そう。
役者人生の幕引きにするはずだったその映画は前評判以上の仕上がりになっていて単館での上映にもかかわらず異例のロングランを記録、そして全国のミニシアターでも相次いで上映され、その年の映画祭で賞を総なめにした。俺としても、おかげで役者として食っていけるようになった、ありがたいきっかけの作品でもある。優劣を付けちゃいけないかもしれないけど、やっぱり今でも竜二は俺にとって、特別な存在だ。
自尊心が強くて、ほんとはよわっちい生き物。スクリーンの中、ぼろきれのように死んでいった男。
今はもう、どこにもいない竜二にそっと声を掛ける。
元気でいるか。幸せにしているか。
お前はあのシーンで死んだように見えたけど、実はあの後密かに約束を守ってくれた叔父貴に助け出されて、洋子と二人で遠くの街で生きてるんだって、そう思いたい。エンドロールの先で何が起きるかは、観た人の自由だって監督云ってたし、だから。
今度こそ間違えるなよ。洋子泣かせんな。まっとうに働いてまっとうに生きて、出来れば子供も作れ。
過ごしてきた過去は消せないから、きっとプールや銭湯には行けないだろうけどな。それでも、お前もどこかで、俺と同じくらい幸せに暮らしてると俺一人が信じていたって、いいだろ。
そんな甘ちゃんで勝手な『エンドロールの先』を後日奥さんにこっそり教えたら「そういうとこ、意外とロマンチストだよね」って呆れられた。でもその後「私も嫌いじゃないけど」って云ってくれて、落ちた気分は瞬時に舞い上がった。その気持ちのまま熱烈にキスしようとしたら「幼稚園のお迎えの時間だ」と腰に回していた腕をすげなく外された事でまた落ちて、「帰ってきたらかまってあげるから」とおでこに落とされたキス一つで、簡単にまた舞い上がった。――奥さんに遊ばれてるのかな俺。
まあ、いいや。好きなだけ遊んで欲しい。売れるまで苦労かけた分がチャラになったとは全然まだ思えないし。
一生かけて、尽くさせて。望むもの、ぜんぶ叶えたいし手に入れたいんだ。
そのためにはまたいい仕事をしなくてはと、新作映画のめちゃくちゃ分厚い台本にげんなりしそうな気持ちを奮い立たせて、まだ折り目のないきれいなページをめくった。