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ハルショカ  作者: たむら
season1
3/59

ハングオーバー・ダンディーズ(☆)

「クリスマスファイター!」内の「カウントダウン・ベイビー」及び「如月・弥生」内の「ノーカウントベイビー/掌」の二人の話です。


ハングオーバー:二日酔いのこと。

 四月、洋介(ようすけ)さんがトレードマークだった長い前髪を、急に短くした。

 ツーブロックできちんとしつつどこか『らしさ』があって、あたしはこっちの洋介さんも好きだなあ、なんて思う。

 あたしと麻友(まゆ)ちゃんよりずーっと長年通い詰めてる常連さん達も、ここまで短か髪の洋介さんは見たことないらしく、いきなり変わった髪型に一気に色めき立ち、「失恋?! 失恋なの???」とかしましい。恋人(あたし)がいる前で。

「な訳ないでしょーが」

 呆れ顔の洋介さんが咥え煙草のまま、短くなった髪をかきあげる。そんな何気ないしぐさがいちいち色っぽくて、見てる方が赤面しそう。

 まだまだ追究し足りなさそうな常連さん達に、「バカなこと云ってると店から追い出すよ」と相変わらず雑な扱いをすればとたんに飛んでくるブーイング。ただし、追い出されないように声は出さずにジェスチャーだけなのが何だか微笑ましい。あれで、要職についていらっしゃる方々なのだと云うから、世の中分からない。


 髪の毛切った理由は、もしかして後で、――洋介さんちで二人の時に教えてもらえるかな。それともあたしにも秘密なのかな。

 なんて考えつつ、洋介さんに存分に見惚れつつ、いつもと同じように麻友ちゃんと楽しくお酒を楽しんでた。


 カロンカロンと、入口のカウベルを派手に鳴らして、その人がお店に入ってくるまでは。


 ずん、ずん、と歩いてくる足音は、迷わずカウンターのこっち側へと向かってきた。

 だれだろ。常連さんなら奥のすみーっこにいくんだけどな。と、隣に座ったその人を見ると。

「!」

 奇麗に年を重ねたミュージシャンみたいな風貌。見覚えのあり過ぎるその顔にびっくりしていると「よ」と一言こちらに投げてから、洋介さんに向き直った。

「あんたが若菜(わかな)を誑かしてるって男か」

「!!」

 挑発的な言葉に激高して何も云えないでいる間、洋介さんはどこ吹く風な顔で、「正確には、『誑かされてる男』ですよ」なんて返してた。

「そんな、ほっといても女が寄ってきそうなツラした兄ちゃんが? 信じられないねぇ」

「信じる信じないはご自由に」

「おい若菜、お前ほんとなのかよ」

「――知らない!」

 あたしが云える訳ないじゃんそんなの。

 ちらりと洋介さんを見ても、平然としたまま――あたしのことを洋介さん以外の男が名前を呼び捨てにしたって、親しげにして見せたって平気って顔。少しは慌ててくれたっていいじゃない。そしたらあたし、自信を持って胸張って『誑かしてます!』って云えるのに。

 面白くないあたしが顰め面してたって右横に座る麻友ちゃんは面白がって笑ってるばっかりで、ナイスなフォローは期待するだけ無駄っぽい。

 常連さんは「ちょっとなになに、三角関係なの???」「いま『若菜』って云ってたよね」「てかあの人年上過ぎない? 若菜ちゃんて年上じゃないと駄目なの?」だの、やっぱりかしましい。無言でカウンターをバシッと叩いたら、途端に小声になるのがまたむかつくったら。

「色男、あんた若菜には過ぎる男だよ、こいつが泣かされるのが目に見えるわ」

「ちょっと、いいかげんにしてよ!」

 ずけずけと遠慮ない言葉に、とうとうあたしはぶっちぎれてスツールから立ち上がった。そのとたん、ここが自分の家じゃなく洋介さんのお店だということ、なのに一人騒いでしまったことに気付く。

「……うるさくして、ごめんなさい」

 うっすら流されているUKロック。こだわりのグラス類。洋介さんのさりげない接客。面白おかしいけど大人な常連さん達。

 その真ん中で、居たたまれない気持ちでいっぱいになる。

「それから、父が来て早々、失礼なことばっかり云ってごめんなさい」

 ぺこりと下げた頭をゆっくり上げて、おそるおそる洋介さんを見ると、さすがに驚いたのか、口元に運びかけていた煙草が半端なところで止まっていた。ふん、いい気味。それでもムンクの『叫び』の群れみたいになっちゃってる常連さん達ほどは驚いてくれないところが、かわいくないね。

「ドーモ、娘が世話になってます」

 にっと笑う父は、中身こそ違うもののいろんな意味で洋介さんと同じ種類の人間だ。同じようにバーを持っている。そして、同じように、――もしかしたら洋介さんより――モテる。


「若菜パパ、お店はどうしたのよ」

 洋介さん以外でもう一人冷静な麻友ちゃんが、エレガントに煙草の灰を落としつつ父に聞く。そうだ、今日って金曜じゃない。

 父はしれっと「臨時休業にしてきた」と悪びれなく口にした。

「もう、そんなんだからお母さんに愛想尽かされるんだよ……」

 あたしがちくりと嫌味を言っても、応えた様子は全くない。軽く肩をすくめて「仕方ない、あいつは賢い女だし、俺はこんなだし」とあっさりいなされる。少しは気にしてよ、と小っちゃい時から父に振り回されて怒ったり泣いたり諦めたりしてきた母を間近で見ている身としては恨みがましく思う。

「飲み物、何にしますか」

 洋介さんがそう水を向けると、父はにやりと笑い、カウンターに瓶――酒瓶を、どんと乗せた。

「持込みが可なら、コレ一緒にやろうぜ」

 そのラベルは英語じゃないから読めないけど、洋介さんはちらっとみて、「ああ、ピンガですか」って分かったらしい。てかこれ、中に。

「……お父さん、この中なんか漬かってるんだけど……」

「蛇だよ、毒ヘビ」

「!!!」

「おい、割るなよ? これわざわざマリアちゃんがブラジルに里帰りした時、俺にって密輸してくれたんだからな!」

「密輸って何密輸って!」

「大体なあ、今日だってほんとはユリナちゃんがお店の後来るっつってたのに、わざわざコッチ優先で来てやったんだぞ」

「別にそんなの頼んでない!」

「若菜」

 心地よいその声とともに洋介さんはまたヒートアップしちゃったあたしの頭をぽんと一叩きしてそれからひとさし指の背ですーっと頬を撫で下した。それだけで、昂ぶってたあたしのいらいらはすっと凪いだ。

 単純だな、あたし。でもそれくらい、この人のことが好きなんだからしょうがない。


 洋介さんは片手であたしをまんまと落ち着かせると、父に向かって頭を下げた。

「こちらから、御挨拶に伺おうと思ってました。わざわざ来ていただいてしまってすみません。改めまして、津田(つだ)です」

「ああ、堅っ苦しいのはナシでいいよ」

 そう云って父はニッと笑うけど、その目は全く笑っていない。

「お前さんを断りにきたんだから」

「まだ何も云ってませんが」

「アレだろ、どうせ『お嬢さんとのお付き合いを認めてください』だろ? んなもん、厭きたらポイされんの分かって『おっけー☆』なんて云う親なんかいねえよ」

 カウンターに置かれた指には、ごついシルバーの指環がいくつもはまっている。耳にも、シルバーのピアス。白いシャツだけが辛うじて清潔感アリだけど、明るい金髪に染めた頭や首長族の女の子並みにじゃらじゃらしてるブレスレットや最後に洗ったのいつ? なジーンズで台無しだ。

 そんな、見た目からしてフツーのお父さんじゃない父なのに、こんな常識的なこと云うなんて。

 あたしがうっかり感動していたら、洋介さんが「違います」と静かに訂正した。

「その先まで見据えてお付き合いしていますので」

「……人の話聞いてたか? どういう形であろうと、俺は娘をあんたにやる気はない。――でも、そうだな」

 その時父が、面白いこと――あたしや母からしてみたら、厄介事だったケースが多い――を見つけちゃったときの顔をした。

「飲みくらべして俺に勝ったら考えてやるよ。どうだ?」と云うが早く、洋介さんからの答えを待たずにピンガの蓋をひねって開けてしまう。すると、カウンターに二つのグラスが静かに置かれた。それが、洋介さんの答え。


 とくとくと中身を注がれるグラス。「お前も一口飲むか?」と勧められ、鼻を寄せると途端にむせた。何これ、アルコール臭半端ない。

 毒っぽい匂いはしてないけど、と飲まずに突っ返したら、父が「別に毒蛇が浸かってるからってピンガ自体は毒じゃねえよ」と苦笑した。

「じゃあ、なんでそんなの入ってるの」

「あ? 決まってんだろ滋養強壮だよ」

 ――何の為の、かを恥ずかしげなく口にされる前に睨んで止めた。そんなの買わせて密輸させた挙句に、マリアちゃんじゃなく洋介さんを相手に飲んじゃうとか本当に父は人として最低だ。

 ごめんマリアちゃん、と会ったこともないその人に向かって心の中で謝った。


 二人は大きな氷の入ったグラスをかちりと合わせて、そして飲み始めた。

 すいすいと収めていくそのペースに、匂いほどは強いお酒じゃないのかとも思ったけど、麻友ちゃんがスマホで検索してくれたところによると「テキーラとかジンとか、それくらい」、つまり普通に強いお酒なのだった。

 一緒に暮らしてた時、父はいつも馬鹿みたいな飲み方をしてて、でもいつもけろっとしてた。きっと一人暮らしを謳歌している今も。じゃあ、洋介さんは?

 いつも、ゆるゆるお酒を愉しんでいる姿を見てた。ハイピッチで飲んでるとこや、潰れるとこなんて一度もみたことない。バーではお酒を提供する側だから当たり前だけど、私生活でも飲み方はほぼ同じだった。

 どうしよう、洋介さん、断れないままヘンな飲み方して急性の中毒になったり、しないよね?

 あたしの意向とは関係なく勝手に始まってしまった勝負の行方なんかより、そっちが心配だ。


 不安な気持ちがぐるぐるしてて、こっちはもう飲むどころじゃない。

 ちびちびしか口をつけないうちにたくさん汗をかいてしまった黒ビールの入ったグラスの、外側にびっしりついた水滴を紙ナプキンで拭いてみたり、面白がりつつちゃんと心配もしてくれる常連さんに『こっち来る?』って手招きされて『大丈夫、ありがとうございます』って返したり時計を見たり二人を見たりと落ち着きなくしてたら、とうとう麻友ちゃんに吹き出された。

「もっとどーんとかまえてれば?」

「無理だよそんなの……」

「せっかく男二人が若菜を賭けて飲んでるっていうのに」

「男二人の内訳一人は父親だし! てか、麻友ちゃんでしょここ教えたの!」

「うん」

 麻友ちゃんがあっさりそれを認めると、勝負中の筈の父も横から、「そ、俺たちトモダチなんだよ」なんて口を挟んできた。

「友達じゃないけど、若菜のこと教えたら一杯御馳走してくれるって云うから」

「たかだか一杯のお酒で個人情報を売らないでよ……」

 おかげで、楽しい筈の週末はこの有様だ。


 高嶺の花(って男の人にも云うのかな?)の洋介さんとお付き合いするようになって、一年と少しが経つ。嘘みたいって思ってたこともあるけど、奇麗な女の人にもかわいい女の子にもこれっぽっちもなびくことなく、洋介さんはまっすぐあたしを好きでいてくれてる。『恋人としたいことリスト』に載っていることはあれもこれも叶えられてしまって、もはや二巡目。今年も年越しのカウントダウンのキスをしたし、スノボにも連れて行ってもらった。

 だから、不安なんてもう感じてないし、弄ばれるかもなんて余計な心配もしてない。

 あたしが一言そう告げれば、こんなバカげた勝負なんてしなくて済んだ。云えなかったのは、父の、ちゃんと父として娘を案じてた意外過ぎる言葉と、あっさり受けて立ってくれちゃった洋介さんと、洋介さんからの『その先まで見据えてお付き合いしていますので』という言葉で、胸も頭も心もいっぱいになってしまったせいだ。

 ナニソレ。聞いてないよ。でも、嬉しい。すっごい嬉しい。

 何度だって再生して、浸っていたいっていうのに。


「マスダ君とやらと付き合った時はちーっとばかしマトモなのを選んだと思ったけどよ、お前はほんとに男を見る目がないね」

 父の言葉とこの勝負が、それを邪魔しまくってくれてる。うるさいよ、もう。

「堅実な男を捕まえとけばいいのに」

「――堅実とか堅実じゃないとかどうでもいい」

「じゃあなんだよ」

 父が聞きながらグラスを空けると、洋介さんが自分と父のグラスの両方へピンガを注いだ。

 その手が、好き。腕も、肩も、鎖骨も。もちろんそれだけじゃなく。

 全部だよ。洋介さんを丸ごと好き。

 父親がすぐそばにいて、あたしのこと見てるって分かってるけど、それでも気持ちも視線も、隠そうだなんて思えない。

 たくさん、ずっと隠してたから。もう隠さないって決めたんだ。

 じーっと洋介さんを見てたら、「穴があきそうだ」って、笑われた。

「あいちゃえ」って返して、グラスを口に運ぶ洋介さんから目を離さずに、云う。

「洋介さんじゃないと、駄目。あたしが欲しいものは洋介さんしかくれないから、他のことは、もうどうでもいいよ」

 話しながらだんだん照れてしまって、ぬるくなった黒ビールを一息に飲んだらすごく苦かった。そしたら洋介さんは、ヤレヤレって顔しながらあたしにチェイサーをくれた。

「ありがと」

「どういたしまして」

 グラスを渡される時、少しだけ包まれた自分の指先が幸せでうらやましい。はやく洋介さんと二人になりたい。あたしのことも抱き締めて欲しい。


 勝負はピンガ一瓶ではつかなくて、洋介さんのウィスキーのボトルで第二戦が始まった。

 常連さん達は一人帰り二人帰り、麻友ちゃんも終電が出る前にお店を出ていってしまったから、とうとう残ったのは勝負してる二人とあたしだけ。

 父は飲みながら要所要所に『あたしの元彼はこうだった』ってエピソード(きっとこれも情報提供は麻友ちゃんの仕業だ!)をぶち込んで洋介さんを動揺させる作戦らしいけど、残念ながら洋介さんはあたしの恋愛履歴をよーく知っているから、「ああ、彼は優しかったみたいですね」「ちょっと束縛が強かったらしいですね」ってフラットに返しては、父を悔しがらせてた。自分の立てた作戦のせいで自分が悔しがってどうすんのまったく。

 そして洋介さんが急性アルコール中毒で運ばれちゃったら、なんて失礼な心配はどうやら無用だったみたい。飲みはじめと変わらない、全然乱れない姿に安心して気が緩んだのか、あたしは知らない間にカウンターで眠ってしまった。



「若菜」

 囁かれる声は、いつもよりちょっと疲れてる気がした。しかもなんかものすごーく、お酒臭いんだけど。そう思いながら目を覚ますと、そこは洋介さんのお部屋じゃなくてお店で、そうだ、勝負の途中だったと思い出した。――どっちが?

 聞けなかったけど、変わらない洋介さんと、「ちくしょう……」と金髪頭をカウンターに突っ伏した父を見て、分かった。

 洋介さん、勝ったんだ……。それにしても、「終わったよ」と煙草に火をつける、あたしの好きなその仕草も、なんだか今は少し緩慢だ。

 あたしがどうしたの? って目で聞いたら、「さすがにあれだけ飲むとね」と、洋介さん自身もかなり酔っていることを教えられた。時計を見れば午前三時を回っている。それでも一見普通っぽい(酒臭いけど)洋介さんと対照的に、父は地を這う蛸みたいにぐでんぐでんだ。

「麻友ちゃんの話じゃ、そんなに飲まないっつってたから楽勝だと思ったのに……」

「ああすいません、昔無茶な飲み方してたら肝臓に穴が開いたんで、それ以来控えてただけで、飲めないわけじゃないんです」

「ずりい……」

「でも、勝負は勝負なので」

 洋介さんは、カウンターの向こうから身を乗り出すと、父に向かって「若菜はもらいます」とはっきり宣言した。

「……くっそ、おいタクシー呼んでくれ」

 父はあたしにそう云うと、どこかへ電話し始めた。

「ああ、マリアちゃん?……うん、うん、悪かった。悪かったって、ごめんな。……ああ、これから行くから」

 娘にタクシーを呼ばせておいて、マリアちゃんちにこれから転がり込む(もう三時過ぎてるのに!)なんて、つくづくひどい父だ。呆れながらもタクシーを呼んで待っている間、父はトイレによろよろと立ち、よろよろと戻ってくると「あー、しんど」とスツールには座らず、カウンターに凭れた。

「こんなんなったの何十年振りかだよ。ったく、少しは手加減したらどうだ」

「この勝負は絶対負けたくなかったんで、すいません」

「……ほんとむかつくな……」

 負けたくないってそれはつまり、……そう云うことだよね。

 あたしがぽーっとしていると、お店の前で短いクラクションが聞こえて、タクシーの到着を知らせた。父はまたよろよろと立ち上がりドアを肩で押すと「お前らの披露宴で俺は絶対『お嫁サンバ』を歌ってやるからな!」と捨て台詞を吐いて、そして出ていった。


 カロンカロンと、入って来た時と同じくらい大きな音で鳴るカウベル。それが鳴りやむと、洋介さんはあたしの隣に腰かけて、肩に凭れてきた。

「ちょっとだけこうさせて」

「……別に、ずっとでもいいよ」

「駄目、片付けしないと」

 こんな時にも冷静だなあ。まだ慣れない、短くなった髪の感触を楽しんでいたら、「若菜」と名前を呼ばれた。

「何?」

「これでやっと、俺のだ」

 そう云うと、酒臭い息が近付いてきたから、背けてやった。

「勝手に勝負して勝手なこと云って……」

「……」

「大体、あたしはもうとっくに洋介さんの、でしょ?」

 顔を洋介さんの反対側に向けて話してたら、キスに失敗した唇が、今度は躱す間もなく首筋に吸い付いてきた。

「ちょっと、」

「今ので酔いが回った」なんて白々しい。

 逃げようにもいつのまにやら腰に回されていた両手がそれを許さない。結局、洋介さんのいいだけ首筋や耳にキスを浴びた。

 もー、春だからハイネックとかあんまり着たくないのに、これじゃ当分しまえないじゃない。しかもきっと麻友ちゃんにはバレバレで、大学でもここでもにやにやされちゃうんだ。で、酸いも甘いも噛み分けてる常連さん達は、こんな時だけ空気を読んで気付かないふりとかしてくれちゃうんだ。

 まあ、そう思いながらも、あたしだって洋介さんのキスを止める気なんてないんだけど。


 そのキスの後、ようやく気が済んだ洋介さんはグラスや道具を洗って、あたしもその間ただ待ってるんじゃなくカウンターを拭いてた。それから洋介さんのお部屋へと帰ったけど、さすがにその日は二人とも相手に手を伸ばすことなく、泥のように眠った。



 ふ、と自然に目が開いた。

 時計を見れば、もう九時を回っていた。洋介さんはまだ寝ている。

 すっかり短くなってしまった髪は、寝起きでぼーっとした頭のあたしにはまだ見慣れない。またいつか伸ばしてくれるかな。そう思いながら、弄ぶ。耳に触れて、それから無精髭でざらざらしてる頬を撫でる。それでもまだ起きる気配はなく、髪に唇を寄せて、「……どうして髪の毛切ったの?」って何の気なしに呟いたら。

 背中に手が回ってぎゅっと胸元に抱き寄せられつつ、「云ったろ、若菜のお父さんとこに挨拶行こうと思ってたって。髭剃り忘れてたし、こっちから行く前に奇襲されたけどね」と眠そうな声で答えてくれた。

 なんか、あたしが思うよりずっとちゃんとしてくれるんだなあと大人なこの人に感謝しつつ、そんな用意なんて知るかと自分のルールだけで動いてしまう、駄目な方の大人を思い出した。

「……お父さんが、ほんとにごめんなさい……」

「それはいいよ、目的は果たせたから」

 洋介さんがいいなら、あたしもいいんだけどね。

「二日酔いは? 頭痛くない?」

「ん、ちょっとだけだから大丈夫」

「よかった」

 ホッとしてたら、おはようのキスが与えられた。朝だから、煙草の味はしないそれ。指で顎を辿りながらこちらからも短く返して、を何度か繰り返して二人とも満足してから「おはよう」ってあいさつした。

『おやすみなさい』を一日の最後に、『おはよう』を一日のはじまりに一番好きな人と交わせるなんて、とびきり幸せ。

 今はまだ学生ってこともあってその幸せにありつけるのは週に一、二度くらいだけど、いつか一緒に暮らしたら、毎日になるんだ。考えただけで幸福感に酔ってしまいそう。

 ああでも、披露宴で『お嫁サンバ』とやらを歌われたりするんだっけ。多分まだ納得してないだろう父が結婚まで大人しくしてるとは思えないし、泣き落としとか妨害工作とかしてきそうで今から頭が痛い。

 でもきっと、怒るだけのあたしと違って洋介さんはちゃんと父を黙らせてくれそうだから、安心していればいいや。


 もう少し先の厄介事だと思っていたそれは、『昨日のアレな、俺よく覚えてないから無効な』と往生際の悪い父から朝イチで舞い込んできたメールという形で早速もたらされた。

 もう! と勢いのまま父に怒りの電話をしようとしていたあたしをやっぱりキス一つで宥めて、洋介さんは『常連さんの一人が、たまたま持っていたICレコーダーを貸してくれまして、やりとりは最初から最後まで録音してあります。ご所望ならデータをコピーしますが』と返信して、予想通りきっちり父を黙らせてくれた。さすがだ。

 今まで一方的にやられっぱなしだったのでこんなのは初めてで、何とも痛快な気分。

「そう云えば洋介さん、お父さんをはじめからお父さんって分かってた? やけに冷静だったんだけど」

 もしかして麻友ちゃんがこっちにも情報リークしてたかなと思いつつ投げ掛けると、「いや」と短いお返事。

「じゃあ、あたしの元彼とかって思った……?」

 おっさんだけど金髪だし、チャラチャラしてて実年齢の五〇より若く見えなくもないから、そう思われても仕方ないって思ってたけど。

 洋介さんは、それも「いや」って否定した。

「若菜と親しい人だとは思ったよ、でも」

 そこで言葉を切ると、人の悪い笑みを浮かべた。

「以前ならともかく、今の若菜が俺を熱烈に見つめながら俺以外を好きになるなんてありえない」

 うん、まあ、そうなんだけどっ!

 他にも『信じてるから』とか色々云いようはあるだろうに何で一番恥ずかしい風に云うかな。

 恥ずかしいからもうベッドから出ちゃおうと起こした体は、洋介さんの手でまたシーツの上に戻された。それから、いつもの夜のように掌と指へたくさんたくさんキスされて、朝なのに始まってしまうこと。

 ――そう云えば、洋介さんもたくさん飲んだんだっけ、『滋養強壮』。

 思い出して、赤面した。


麻友ちゃんはこちら→ https://ncode.syosetu.com/n5962bw/37/

マスターちょこっと登場→ https://ncode.syosetu.com/n4804ce/47

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