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ハルショカ  作者: たむら
season1
26/59

ふたりの作り方(☆)

「ゆるり秋宵」内の「星の描き方」の二人の話です。

「クリスマスファイター!」内の「ナツコ的通訳」及び「如月・弥生」内の「ダイアローグ・モノローグ」に関連していますが、未読でもお楽しみいただけると思います。


 何も変わらないと思ってた。



 週末、いつものバーで飲む、私と谷原(たにはら)君。

 煙草の銘柄も一杯目にビールを頼むのも無駄に色気のあるマスターも、確かに何も変わりはないけれど。

「あの、谷原君、」

「ん、なーに(はるか)ちゃん」

「……なんか近いんですけど」

 ずっとスツールを一個飛ばしで座っていた二人の距離は、私が彼に迫った日からゼロになった。――自分から攻めておいて、まだこんなうぶい反応をしてしまう自分が嫌だ。攻めるのは慣れていても攻められるのは未だ慣れない、情けない私。

 こっちに余裕がないって分かっていて、それでも谷原君は見て見ぬふりなんてしてくれない。ほら、今だってそ知らぬ顔して、ぬけぬけと「フツーでしょ」、なんて。

 彼はジーンズを履いた長いおみ足を、私がお行儀よくちぢこめているスキニーに遠慮なく摺り寄せ、密着させている。本当にこれが、普通なの? 今までの恋愛では尽くすばかりで、『愛情を返されるのは余禄』状態だった私には判断材料がなさ過ぎて普通かどうかなんてジャッジのしようもない。

「せめてこれ、何とかしない?」と何をするにも片手になってしまう要因である恋人繋ぎ――スツールに手を置いた瞬間捕えられた――を持ち上げて云い募ったところで離されることはなく、「しない」とバッサリ斬り捨てられた。その上、「いい大人の俺らが手ぇ繋いでちゃいけないですか?」なんてわざとらしく真面目に聞かれてしまう。

「いけなくはないけど……」

「でしょ?」

 うう、形勢不利!

 谷原君の視線から逃げ出した目を泳がせれば、こちらをガン見していた常連の殿方連中とばっちり合った。乙女のように、両頬に手を添えて『キャー!』ってするなおっさんども。


 ――このお店で、私と谷原君は出会い、親交を深め、そして恋人になった。その全歴史を閲覧している人たちの前でこんな風にべたべたな恋人モードなのは恥ずかしい以外の何ものでもないのに。

『だって、遥ちゃんも誘惑してくれたじゃん』って事ある毎に谷原君は云うけど、あの日が特別なんだという反論に耳を傾けてくれたことはない。私の未来予想図では、あの後『いい大人な二人』は人前でべたべたなんかするはずじゃなかったんだってば。

 どうしてくれようと考えあぐねていると、二人の間に谷原君のボトルがとん、と置かれた。

「それくらいにしな。恥ずかしがる遥さんがかわいいからって苛めすぎないの」

「ええー? 谷子別に苛めてないしい~?」

 マスターの指摘に谷原君はすかさず持ちキャラであるおネエの谷子ちゃんで応戦するけど「このやり取りで谷子になる辺り、図星ですって云ってるようなもんだけど?」とマスターに指摘されて逆切れしてた。

「いいじゃないの! 自分の恋人がかわいいからかわいがって何が悪いのよ!」

 ――――そういうことを本人の前で云うな。

「悪かないけど、嫌われない程度にね」と笑ってカウンターに座る他のお客さんのところへ行ってしまったマスターに、谷原君は「余計なお世話よ!」としばらくぷりぷりしていた。

 そんな谷原君を宥めつつ、たまにちょっかい出してきてはまた怒らせちゃうマスターに顰め面しつつ二時間ほどそこで過ごし、日を跨ぐ頃二人でバーを出た。私に合わせたペースで半歩先を行く、少し長めの黒髪を見上げる。


 変わらないと思ってたのに。今までの恋と同じに、尽くす私がせっせと谷原君にご飯を作ったり、彼が落ち込んでる時は谷原君なら大丈夫だよと励ましたりするのだと。そういったことが全くないとは云わないけれど、バーでのふるまいのように、皆の前であけすけに迫られたり大事に扱われたりだなんて想定外もいいとこだ。

 見返りを求めない愛情は楽ちんだった。自給自足のような恋愛で、ずっと満足してた。

 でも今、そうじゃないものを差し出される喜びを知ってしまった。それが当たり前になるのは、与えられなくなった時のことを考えると、ちょっとだけ怖い。


 埒もないことを考えていたせいでバーを出てから口を噤んだままでいたら、こちらを見ぬまま「――呆れてるんでしょー?」と谷原君だか谷子だか分からない口調で話しかけられた。

「何を?」

「云―わない」

 ちょっと拗ねた返事に気を取られていたら、歩道の段差にブーツの先が引っかかって転びそうになった。直後、腕を引かれて谷原君に抱きとめられる。ふわりと漂う、私とは違う煙草の匂い。

 ありがと、とお礼を云う前に、強く抱きすくめられた。モッズコートの硬い生地が頬に当たる。心臓がにわかにどくどくと強く鼓動を打ち始めているけど、その宥め方を自分は知らない。

 体全体が心臓になっちゃったみたいな私の頭の上で、谷原君が囁く。

「今、自分がすげー余裕なくてすげーカッコ悪いの分かってる。でも、遥ちゃんがどう思ってても、離さないから俺」

 そう告げて腕を解くと再び私の手を取って歩き出す。それでようやく心臓もいつもどおりに戻ってくれた。

 ずっと他人と距離を取っていた人は、そのテリトリーに入ることを許されたらえらく懐いてくれた。こちらが驚くくらい。でも、人前で必要以上にわざわざ愛情を誇示して見せたり、こうして云うだけ云って頑なに背中を見せたりする、弱い部分もまだ持っている。

 それを、恥じることなんかないよ。だってこんなに愛おしい。

「呆れてないからね」

「――うん」

 はにかんだようなその声に後押しされて「君に離さないって思ってもらえて嬉しい」と攻めのモードで告げると、谷原君の足が一瞬止まった。

「遥ちゃんて、ほんとにさあ……」

「ほんとに、何?」

 私の問いに、振り向いた谷原君はにやりと笑って「今教えたら路上にへたり込んじゃいそうだから、続きは部屋で」と、『続きはウェブで』的に思わせぶりな予告をした。


「ただいまー」

「お邪魔しまーす」

 新しい年度になったばかりのこの時期は冬と春がまだ交互に訪れていて、留守にしていたお部屋はすっかり冷えている。結局手は繋いだままだから、電気のスイッチやらこたつのスイッチやらを入れる彼について回っている状態だ。


 ずっと気になってた、路上での言葉の『続き』が聞きたくて、もうお部屋にいるのだからいいだろうと「ねえ、『ほんとにさあ』の続きって、」と口にした、その途端。

 専門書と漫画がギッチリ詰まった背の高い本棚に、背中を押しつけられた。

 谷原君の前髪が、私の頬に掛かる。くすぐったくて目をぎゅっと閉じるとキスが降ってきた。数え切れぬほど。

 合い間合い間に、目が合う。そのたび、ふ、と緩む表情を見ていられなくて思わず目をつむってしまうと、また次のキス。啄みながら鼻と鼻をこすりつけて、ひんやりとした鼻先と熱い舌を交互に味わって。

 角度が変わるたびに、背中を付けた本棚が揺れる。後頭部は谷原君の手でカバーされていたものの、キスの影響で本棚の上から落っこちてきたアメコミのフィギュア(箱入り)までは防げず、それは谷原君の頭で跳ね、次に私の頭で跳ね、そして床に転がった。足元に転がった箱を見て、どちらともなくくすりと笑う。谷原君はそれを拾い上げ、また元の位置に上げた。そうしてから近づいてきた唇が、唇を掠める。

「『ほんとにさあ、攻める遥ちゃんは男前過ぎて悔しい。でも、逆が慣れてないのがすげーかわいい』」と唇同士で触れながら『続き』を告げ、仕上げのようにおでこにキスを一つ落としてから台所へと歩いて行った。――きっと、私にカフェオレを、自分用にはブラックを淹れる為に。


 見送った私は、彼の予言通りへたりこんでしばらく動けずにいた。



 その後、谷原君はしばらく忙しそうにしていて、あのバーでも会えたり会えなかったりが続いていた。そんなある日、郵便受けに届いていた封筒。印字されていた差出人は彼の所属している研究室名義で、開けてみると展覧会のお知らせが入っていた。添えられていた一筆箋に書かれている、見慣れた谷原君の字を追う。

『うちの研究室プレゼンツで、大学の博物館で展覧会やります。多分会期中は毎日駆り出されてると思うので、暇な時にでも顔見せに来て』

 チラシによると、会期はゴールデンウィークが過ぎてからの土日を含む一〇日間。展覧会のテーマである折り紙と幾何学について積極的な興味はなかったけれど、彼氏に『顔見せに来て』とおねだりされて行かない訳にはいかない。

 予定が書きこまれているスケジュール帳とにらめっこして、足を運んだのは会期が終わる一日前の土曜日だった。


 初めての駅で初めての下車だったけど、チラシの地図が分かりやすかったのかスムーズにキャンパスへと到着出来た。

 門をくぐり、ヒマラヤ杉をぐるりと囲んだロータリーの前を通ってしばらく行くと、歴史を感じさせる、クラシカルで重厚な建物が並んでいるのが見える。素敵だなあとうっとりするけど。

 ――近くで見ると結構ぼろいよ。夏は暑いし冬は寒いし、二一世紀を生きる俺らにはここで研究するのはなかなかツライもんがある。

 いつかそう教えてくれた谷原君の声が、耳の奥で再生された。


 五段ばかりの外階段を上がり中へ足を踏み入れると、奥へと続く廊下の手前に古めかしいエレベーターが待機しているのが見えた。

 ――古過ぎて安全が保障できないから、荷物専用なんだよコレ。しかもこっちがヒーヒー云いながら階段で五階まで上がっても、まだ到着してないくらいのろいの。


 薄暗く、どこかかび臭い廊下。でも、天井にはすずらんを逆さに吊るしたような美しい形のランプが続いている。そのうちの一つは教えてもらった通り、端が僅かに欠けていた。

 ――どっかの数理科学研究科の教授が酔っ払って、ボールか何かをぶつけたらしいんだけどね、見つかると大学の歴史的建造物保存委員会の人たちにめっちゃ怒られるから、その場にいた奴ら全員を焼肉に連れて行って緘口令を敷いたんだよ。ん? お肉めっちゃ美味しかった。だからこの話はマジ内緒で。


 こんな風に、そこかしこに谷原君から聞いたエピソードが埋まっているもんだから、初めての場所のはずなのにどこか懐かしい気持ちさえ覚えてしまう。


 廊下を突きあたりまで行くと、深い色合いの木製の両開きのドアは片方が開け放たれていて、覗くと中には私の恋人が立っていた。こちらに気付くや否や破顔して「いらっしゃい」と声を掛けてくる。隠そうともしないその甘ったるさは見なかったことにして「はい、これ差し入れ」と彼の好物を手渡した。中を見ずとも匂いとビニール袋にあしらわれたお店のロゴで分かってしまった谷原君が、「カツサンドだ! コレ好きなんだよー」と声を弾ませる。お痩せさんなのに、がっつり肉食なのだ、この人は。

「どうせあれでしょ、牛カルビ弁当とかばっかり食べてるんでしょ」

「やーだなんで分かるのよー」

 目を逸らしつつの谷子ちゃんだったから、大当たりらしい。まったく、放っておくとすぐこれだ。

 いつもなら、週に一、二回くらいの頻度で私が手料理を振る舞ったりもするけど、このところは会えていなかったからきっと不摂生極まりなかったに違いない。それを分かっているのに、喜ぶ顔が見たくてついカツサンドをチョイスしてしまった自分は、心底谷原君に甘いな。

「袋の中、コールスローも入ってるから食べて。肉肉しいのばっかりじゃなく野菜もちゃんととらないと」と、云ったところで大して効果がなさそうな苦言を呈した。


 明日が最終日のせいか、谷原君曰く『マイナー・オブ・ザ・イヤーにノミネートされそうなくらいマイナーな展覧会』にはそれでもぼちぼちお客さんの姿があった。いつまでも彼を独り占めしている訳にも行かないので、「せっかくだから展示見てくるね」と声を掛けてそこを離れる。

 地図や人工衛星のパネルにも採用されているという折り方が施された、触って開いて体験できる立体物や、3Dモデルを元に、動物の形をリアルに折り紙で再現したオブジェ(こちらは触れない)。谷原君が所属する研究室が取り組んでいるこれらのメカニズムは分からないけれど、分からないなりにそれでも案外楽しんだ。ついでに、遠くから展示を眺めるふりして来客に対応している彼をこっそり見て、こちらも大いに楽しんだ。

 こういう、人と接する役割は人当たりの良い谷原君にぴったりだと思う。

 今にも走り出しそうな小さい子の興味を引いて、繊細な作りの展示からさりげなく遠ざけたり。

 この分野に興味があるのか、熱心に展示を見ていた賢そうな中学生の男の子に懐こい様子で話しかけ、まるで同級生の様に議論を交わしたり。

 ナニコレ全然わかんなーいと無邪気に言い放つ大学生らしき女の子たちにもムッとすることなく、優しく噛み砕いて説明したり。――楽しげに女の子たちと会話を交わすのを見て、そこまでにこやかにしないでよろしいと思ってしまう、心の狭い私。


 小一時間ほどかけてコンパクトな会場内を見終えてしまえば、もうここに残っている理由もない。入口の方へさかのぼって、私に気付いてくれた谷原君に「そろそろ帰るね」と声を掛けていたら。

「谷原」

 彼の知り合いらしい人物が、彼女さんらしい人と手を繋いでやってきた。

「おう、吉野(よしの)。お前今日せっかく当番休みなのにわざわざ来たの」

「ん」

「谷原さん、こんにちは」

「どーも。もしかして戸田(とだ)ちゃんが見たくて来てくれた?」

「はい。見てもやっぱり分かんないかもですけど」

「吉野」

「ん」

「お前ちゃんと説明してやれよ?」

「ん」

「――なんでだろうな、すげー不安だ……」

 吉野君とやらはこの短い時間で分かるくらい、無口な人と見た。まあ、横ににこにこ顔の彼女さんがいるくらいだから、きっと悪い人じゃないんだろうけどね。

 なんて考えてたら、その無口君と目が合った。小さく目礼されて、こちらも会釈を返す。――もしかしてこの人。

「谷原」

「あ?」

「彼女、彼女?」

 無口な人は、どうやら日本語がかなり残念らしい。でも谷原君は慣れているのか通じているみたいで、にやっと人の悪い笑いを浮かべると私の肩を引き寄せ、「そ。カノジョ」と言い放った。

「ちょっと、谷原君!」

 ここはいつものバーじゃないし、展覧会の会場なのに。

 小声での注意も肩から手を外そうとするのも知らんふりで、谷原君は胸元に私を引き寄せ「俺の遥ちゃん。遥ちゃん、これが同じ研究室の吉野で、こっちが吉野の彼女の戸田ちゃん」とざっくり互いの紹介をした。

「わあ、私と名前すごい似てる!」と彼女が云ったので、『もしかして』が確証に変わる。――あいつ君と、はるちゃんさんだ。

「私、下の名前波留子(はるこ)なんですよ」

「遥と波留子って、なんかお笑いコンビみたいですね」

「ほんとだ!」

 笑う彼女を見て、勝手に抱いていたイメージがぷしゅーっと自分の中から抜けていったのが分かる。


 正直、二人はもっと嫌な奴だったり、カッコ良かったりすごいかわいかったりしてればいいのにと思ってた。その方が、『谷原君を傷つけた人たち』ってつんけんしやすいから。でも実際の吉野君は想像以上に無口で、はるちゃんさんは普通にかわいい、感じのいい人だ。

 二人は、谷原君がはるちゃんさんに思いを寄せていたことを知らない。なのに勝手に、頼まれてもいないのに私は。――恥ずかしい。

 申し訳ない気持ちがじわじわと心を満たし始めた時、「あの」と吉野君に声を掛けられた。

「はい?」

「谷原、いい奴だから、よろしくお願いします」

 たったそれだけの言葉を、吉野君はつっかえつっかえになりながら凄く真面目な顔でこちらへとくれた。その言葉が持つ厚みと温度に圧倒されそうになる。

 同じものは到底返せないけど、私も私なりに、真摯な気持ちで言葉を差し出した。

「まかせてください、幸せにします」

 背筋をぴんと伸ばして、彼の目をじっと見て。そしたら、吉野君も「――ん」とどこか満足げに、小さく笑ってくれた。

「ねえほんと君たちは俺をむず痒死にさせるつもりなのかな!?」

 振り仰げば、耳まで赤くした谷原君が俯いてそう呻いていた。人前でラブシーンを展開させちゃう人には云われたくないよそれ。


 谷原君は展覧会を見に来たお客さんの数と自身の顔の赤みが落ち着くと、「吉野、悪いけど一五分替わって。遥ちゃん見送りがてら煙草休憩してくる」と係員の役目を吉野君に押し付けて「じゃー戸田ちゃん、ごゆっくり」と手を振り、私の手を取って歩きはじめた。廊下を抜けて、外階段を降り、ヒマラヤ杉の前を過ぎて、――行きがけにチェックしておいた喫煙ポイントに行くには、ロータリーでお別れのはずなのだけど。

「――煙草休憩じゃなかったの」

「まあまあ」

 結局、一人でやって来た道を、二人で辿った。やっぱり私に合わせたペースで半歩先をゆく谷原君の口から、ぽろぽろとこぼされる本音。

「ほんと参るよね、なんなのあの告白大会は。ああ云うことてらいなく云えちゃう君らは、俺から見れば眩しすぎるよ。太陽を直で見ちゃったみたいな」とおどけて笑って見せるけど。

 ――ああ、そんな顔をすると、君が遠くで微かに瞬く寂しい星のままのような気がしてしまう。

「まあでも嬉しかった」

 そう付け加えて門のところで立ち止まり、「んじゃ、ほんとに煙草吸って戻るわ、遥ちゃんも気を付けてお帰り」と手放されそうになった手を、両手でとどめた。

「あのね谷原君」

「なんでしょう」

「好きだよ」

「――知ってる」と云いながら、細めた目。

「谷子ちゃんも」

「そりゃ、どうも」

「情けない君も、今日みたいに生き生きしてる君も、全部だよ。もっともっと大事にしてあげたい」

「――」 

 こんなの重いかな。でも私だって、せっかく手に入れた君を離してやるなんて、もう出来ないのよ。

 今までだったら、出来てた。どんなに辛くても、それを相手が望むならと。そんな私を丸ごと変えちゃったのは、君。

「本当に手放せないのは、多分私の方だから」

 力強く宣言すると、「――ほんと、かなわん」という声が、顔を覆った指の間から漏れてきた。その口の形が、笑ってる。

 正面より半歩横に立った谷原君が、私の肩におでこをくっつける。そのまま、首を傾げてこちらを見上げる形になった。

「どうしてくれんのよ、人をこんなに喜ばせちゃって。責任取ってよ今すぐ」

 アンタに出来んの、人前よ? って谷子ちゃんが挑発しているのが分かる。でも。

「望むところだよ」

 受け止めるのはまだまだだけど、君の為になら恥ずかしい気持ちも道徳心もふっ飛ばせるもの。

 そのままではキスしにくかったから、谷原君の頬に手を添えて、改めて正面に立ってもらって、二人でゆっくりと距離を詰めた。

 睫毛の先が触れ合って、一足先にキスをする。それから、谷原君が分かりやすく顔を傾けて唇を近付けてくる。

 息のかかる距離で、「逃げないの?」と囁かれたので、「逃げませんよ?」って笑い返したら「遥のくせに生意気だわ!」と噛みつく勢いのキスを喰らった。普段交わすのとも、深夜の寝室でする深いのとも違う、どこか焦っているようなそれを一方的に受けつつ、私は一つの結論を見出す。

 この人、素直になると恥ずかしい場面は谷子に任せてるんだ。まったく。

「――ほんとに、君って人はかわいいね」

 キスののち、まいったか! と云わんばかりの谷原君に色男みたいなイイ笑顔でさらりと云ってのけ絶句させてから、今度は私から軽いキスをした。


 片方は思いを返されることに慣れてなくて、片方は恋を信じ切れてなくて。他のことならうまく出来るのに、二人揃って両想いの恋だけはへたくそだなんて笑える。

 それでも、谷原君がいいの。君じゃなきゃ駄目。

 今はまだいびつな形かも知れないけど、いつか二人で最上の恋を作り上げましょうよ。 

 谷原君となら、それが出来るはずだから。


 門の傍でキスだの愛の告白だのしてたら「あのね、悪いけどそう云うのはよそでやってね」という守衛さんの申し訳なさそうな声が聞こえてきて、「すいません!」と慌ててその場を離れた。『じゃあね』ってすればよかったのに動転していた私は結局駅まで谷原君を引っ張ってしまって、「一度するのも二度するのも同じだから」なんて唆されて、改札をくぐる前にもう一度キスをする羽目になった。

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