水路にて
大学生×大学生
座ってる先輩の背後からこっそり近づいて、頭のてっぺんにあるつむじを「とりゃ!」って押すのが、私のお気に入り。
つむじを押されるのを嫌がるくせにいつも無防備に晒している佐野先輩は、私にそうされるまでちっとも気付かず、おかげで毎回面白い程のリアクションを戴ける。
「高崎お前、俺が便秘になったらどーすんだコラァ!」
「そしたら責任取っていーい下剤を手配しますよ」
「いらんわ!」
――在籍人数二名の、水路研究会はいつもこんな感じ。
活動華やかりし頃には在籍人数が公認サークルの条件の一つである一〇名を満たしていたと云う話だけれど私が入った頃には既にその半分で、そのうち二名が去年の三月に卒業し、続けて翌月、一人が留学を理由に会をやめればとうとう残ったのは佐野先輩と私の二人だけ。そんな非公認サークルに今入らんとする勇気ある一年生はどうやらいない、らしい。
サークル室を使えなくなってからは水路マニアな教授のお情けで、ゼミ室隣の書庫の片隅を活動拠点として使わせていただいてる。非公認ゆえ、大学からの支援は一切ない。――そんななのに、どっちからも「やめましょうか」って言葉が出ないでいる。だって、同志との水路めぐりは楽しい。
一言に水路と云えどもその種類はいくつもあり、そして全国に点在しているものだからおいそれと見に行くのも二人では難しく、守備範囲は自然と関東近郊に落ち着いた。週に一度集まって(曜日は特に決まっておらず、互いの都合の良い日というのは、活動人数が二人ならではの利点の一つだ)水路について語り合い勉強し、そして月に一度は実際に現地へ足を運び見学している。
「先輩」
「なんだ」
「私、次ここ行きたいです」
差し出したのは、去年も一度見に行った円筒分水――丸い筒の真ん中から吹きだす水を均等に分ける仕組み――の紹介サイトをプリントアウトしたもの。
「却下」
「えー?」
「去年行ったばっかだろ、まだ行ってない他のを優先」
「ちぇー」
インスタントのコーヒーでもいれようと立ち上がり、座っている先輩の後ろを通る時、腹立ち紛れにまたつむじを押したろと思ったら珍しく悟られ、両手で隠された挙句「押すなよ」と先回りして云われてしまった。ちぇ。
あつあつのコーヒーを手に戻り、「それにしても前回は残念でしたねえ」と悔しい気持ちで活動を振り返ると、先輩も不満げな顔をしていた。
「この間は下調べが足りなかったな」
「直前で愛好家さんのサイトに新しい情報が載るかもしれませんから、ギリギリまでチェックしないとですね」
古い水路は年々減ってきている。前回がまさにそのパターンで、使用されていないだけでなく一連の施設が立ち入り禁止になっていて近付けず、無駄足を踏んでしまった。もっと早く行くんだったと二人してさんざん悔しがったな―なんて思い出してたら、「じゃ次ここな」と、先輩一押しの、都内にある川と川を繋ぐ水路に設けられた水門を見に行くことに勝手に決められた。まあ、いいけどね。
水路が、好きだ。水を運ぶために創られた道や水を分ける為のしくみを見ると、昔の人が知恵を絞った様子や工夫した痕に胸が熱くなる。
――と、そう水路の良さを語れば語るほど友人はさーっと引いていくので、聞かれない限りこちらからは話さない。いいんだ、私にはいくら熱く語っても引くどころかこっちを凌駕する勢いでエキサイトする佐野先輩がいるから。
来年、先輩が卒業したら多分この会も消滅する。それまでは、この二人の会はまったりと続いてくんだと、何も疑わずそう思ってた。
友人と、「新年度になったらなんかランチの量、少なくない?」なんて文句を付けつつ、学食でお昼を食べてた時。
ふっと、懐かしい匂いを鼻がとらえた。匂いの軌跡を辿るようにして何気なく学食の中をぐるりと見回すと。
「恵麻ちゃん!」
――一年前、留学するに当たって会をやめた郁美先輩が、変わらない笑顔を私に向けていた。
再会の喜びの前に、氷の刃で刺されたような冷たい痛みが胸に走った。でもそれは一瞬。
「郁美先輩! わー、久しぶり!」
思わず近寄って華奢なその手を取り、きゃあきゃあはしゃいでしまった。
「おかえりなさい、いつこっちに?」
「一週間前。まだ色々片付いてなくて」
ああ、郁美先輩だ。おっとりしてて色白で、お姫様なポジションがよく似合う、この人が帰ってきたんだ。
郁美先輩と佐野先輩は、私が会に入る前からずっとお付き合いをしてた。そして郁美先輩の留学の直前、お別れをした。という報告を、一年前に双方から受けた。
どちらからも元パートナーに対する悪口は聞かれず、声を揃えたように『向こうは悪くないから、これからも仲良くしてあげて欲しい』と口にしていた。きもちのいいカップルだったのだ。とても。
女子高育ちの私にとって、二人は初めて身近で見る恋人同士だった。
大雑把な佐野先輩の横で、いつもにこにこしていた郁美先輩。いつか自分もあんな風になりたいって、密かに憧れてた。二人に終わりの日が来るなんて、信じられなかった。
郁美先輩がいなくなっても、佐野先輩はあんまり変わらなかった。こちらからそのことに触れることは躊躇われて、でもきっと態度に出ていたんだろう。
『もう、修復しようとして足掻く時期はとっくに過ぎてた。留学は、いいきっかけだったんだよ。あいつとは最後笑って握手して終れたから、そんなに心配すんな』って、かえって気を使わせてしまった。
『心配したくて、したんです』とちょっとむきになって返すと、『高崎らしい』なんて笑われた。
あくまで私の前では落ち込む様子ひとつ見せはしなかった先輩だけど、郁美先輩が置いて行ったマグカップや、いつも座っていたパイプ椅子を、時折じっと見ていた。大雑把な人には似つかわしくない静かなその表情は、私の存在に気付いた瞬間ぱっと霧散してしまう。だから、いつも気付かれないようそっと抜け出して一五分くらいしてから戻るようにしてた。
戻った時、背後からこっそり近づき『早く元気になあれ』と願いを込めてぎゅっとそのつむじを押せば、いつだって先輩はプンプン怒った。――まあ、つむじ押されて喜ぶ人はいないか。
ほんとは二人になった時点で、この会をやめようかなと思わないでもなかった。でも先輩のあの様子がどうにもほっとけなくて、うっかりずるずると居着いてしまった次第。
別れの春が過ぎて、三つの季節を通過していくうちに、先輩はいつしか郁美先輩の痕跡を眺めなくなってた。なのに、もともと留学期間は決まっていたとはいえ先輩がすっかり立ち直ったこのタイミングで戻ってくるだなんて、まるでドラマの筋書きのよう。
郁美先輩の帰国以降、佐野先輩はそわそわしている、ように見える。今も、手にシャーペンを持ったものの本来の用途で使わずにずーっとテーブルをコツコツ叩いていたので、「うるさいですよ」と取り上げたばかり。
「――悪い」
「いいえ。ま、今日はこれくらいにしておきますかー」
今度行く水門の打ち合わせをしてても、通りすがりにぎゅーっとつむじを押しても、先輩はどこか上の空だった。水門なんかねじ込むほど行きたがってたくせになんなのさ。
郁美先輩のことを、ここではどちらも口に出さなかった。お別れの時と同様に、出してはいけないかと思って。そんなのかえって不自然なんだけど。
一年前は自らその話題に触れてきた佐野先輩も、何故か今回は口をつぐんだまま。だから、郁美先輩は会に復活するのかなあ、なんてことも聞けずじまい。それだけでなく、私と佐野先輩はここへきてなんだかぎくしゃくしていた。
ポンポン交わしていたはずの会話は、打ったボールがネットに引っかかるみたいにつっかえつっかえ。こないだまではいい感じにラリーが続いていたのにね。
なんだかなあ、ともやもやしていると向こうからじーっと見られていて、でもそちらに目線をやると目が合う前にぱっとそらされた。もう、云いたいことがあるなら云えばいいのに。そう思って、はたと気付く。
云いたくても、云えないのでは。大雑把だけど、佐野先輩は優しい人だから。
――このところずっと見ないふりしてたことと向き合わなきゃいけない時がやってきたらしい。
郁美先輩が帰ってきた。お別れしたけどやっぱり佐野先輩は郁美先輩が好きで、だから水路研究会に私とはいえ異性と二人きりなのは誤解を招きそうだしよろしくないと思っている。『遠慮してくれないか』って云われないのは、私の水路愛をよく知ってるから。そう、仮定するなら。
どう動くべきか、頭はちゃんと分かってる。でも、心は。
それから、何回かに分けて私物をこっそりと持ち帰った。万事大雑把な佐野先輩は予想していたとおり、物が減っていっても全然気が付かない。感づかれた時用の言い訳まであれこれこさえていたこっちはなんだか拍子抜けだ。
いよいよ水門を見に行く、その直前の活動日。少し早めに切り上げたタイミングでこんこん、と聞き覚えのあるノックと共にドアを開けたのは。
「こんにちは」
一年と少しぶりにここを訪れてくれた、郁美先輩だった。
書棚の隅に無理やり作った狭いスペースを懐かしそうに眺めて「変わらないわねえ」ってにこにこして、伏せて置いてあるマグの一つを見つけて、苦笑して。
「まだ置いてあったんだこれ。ヒビ入ってるから捨ててって云ったのに放置?」
捨てるなんて。佐野先輩は、郁美先輩の愛用していたそのカップをずっと見ていたのに。
私がハラハラしながら二人を見守っていたら、むすっとした佐野先輩が「何しに来た」とつっけんどんに言い放った。郁美先輩はそれを「陣中見舞いだよー」と軽く受け流す。
「あれからどうしたかなと思って」
「どうもしない。見ての通りだ」
「うわー、何してたのよこのチキン」
「うるさい、用がないなら帰れよ」
「あ、そういうこと云う? せっかく向こうで撮ってきてあげた水路の写真のデータ、持ってきたのになー」
「そう云うことは早く教えろ」
二人の会話はケンカのようでケンカではない。ちょっと前まで、その相手は私だったのになと思うと少しだけ寂しい。
「恵麻ちゃん」
急に呼ばれてびっくりした。
「ちょっとこの人借りてもいいかな?」
「あ、どうぞどうぞ!」
私が某お笑いトリオ的に身振りも付けておどけてそう返すと佐野先輩は「勝手に俺を貸し出すな!」と怒っていたけど結局は連れ出され、ドアの向こうへと消えていった。
二人の話し声と足音がだんだん遠ざかる。と同時に、この部屋で一人きりという事実が急に重くのしかかってくる。
うん、今目の前で見てよ――く分かった。
やっぱり、私じゃだめだったんだなあ。
佐野先輩が、私をそんな目で見てないことくらいわかってた。だから図々しくも傍に居られたんだけど。
郁美先輩と別れてからずっと彼女の席は空いてて、だからといって合コンに行くわけでもない先輩と二人でいるのは、居心地がよかった。友達のような同志のような。
でもほんとのほんとは、空きっぱなしのその座に、座ってみたかったな。
そんなの今更だよ。
なにも、しなかったくせに。努力しなかったのは自分自身じゃない。
でも、傍にいるだけでよかったのも本当だもん。それ以上を望むのは欲張りだって思ったし。
心の中で反発しあう色んな気持ちが一個くっつき、二個くっついて、最後は一つの大きな塊になる。それは、『失恋した』って悲しげにため息を吐いた。
数分後、戻ってきたのは佐野先輩一人だった。なんか顔が赤い。
「郁美先輩は?」
「用事があるから帰るって。――それより、」
「先輩」
佐野先輩が何か私に云いかけたけど、聞こえないふりして遮った。
「ちゃんと、郁美先輩に気持ち伝えました?」
「――今あいつの事は関係ないだろ」
「伝えましたか?」
「いや。別に、なんも云うことないし」
そう口にしながらも、先輩はこちらを見ない。赤い頬を隠すように、背を向けてリュックに荷物を詰め込んでいる。
「明日って天気どうなんだろうな、梅雨入りしたわりに降らないから大丈夫かもな」なんて早口で饒舌になってるのは、何か隠したいことがある時の癖。声のトーンは低くなってないから、機嫌は悪くないみたい。
そんな風に、この人のことがだいぶ読めるようになってた自分に驚くけど、この先はもう役に立たないスキルだね。
次に好きになる人のことも、ちょっと機嫌の悪い時の顔や、ちょっとご機嫌な時の顔に気付けるといいなと思っていたら、佐野先輩が私から目を背けたまま「そういえば、私物どうした」って今更聞いてきた。遅いよー。だって。
「私、ここやめるんで」
「――は?」
「だから、遠慮なく郁美先輩にもう一度告白してください」
云いたいことをきちんと云って、すっくとパイプ椅子を立った。
「ちょっとまて、おい高崎」
急いで立ち上がろうとする先輩だけど、座っているあたりの床は敷き詰めてある四角い床材の角がめくりあがっており、パイプ椅子はそれに引っかかってうまく立ち上がれずにいた。そんな中途半端な体勢の佐野先輩の後ろに回り込んで、つむじを「とりゃ!」と押した。いつもより長く。
いつの間にやら、大好きでした。
きっとこの先も告げることのない気持ちは、当たり前だけど指先からなんて伝わらない。伝わるわけがない。
でも元気になって欲しくて、構って欲しくて、今までたくさん触れた。ずるい私は、こんな風にただの後輩のふりをして。――でもそれも、今日でおしまい。
「スイッチを長押ししたから、先輩は今から再起動しますよー」
「――なんの話だ?」
「だから先輩、好きな人にちゃんと気持ちを伝えるんですよ! じゃあ!」
そう云い切って、踵を返して今度こそそこを出た。あ、『今までありがとうございました』って云うの、忘れちゃったな。あとでメールしよう。
普段水路めぐりで歩く以外にほとんど運動してない割には、なかなかのスピードで薄暗く長い廊下を小走り出来た。そのままエントランスを出た途端、目に飛び込んできた夕日に圧倒されて、あっという間に失速する。
とぼ、とぼ、と今の心境のまま、当てもなく歩いた。一歩踏み出すごとに、心が揺れる。
よかった――よくない。
うれしい――うれしくない。
先輩がもう一度郁美先輩と付き合うのならよかったし、嬉しい。
なのにそれを全否定する自分もいるのを、今日だけは許して欲しい。
さっきのあれは、余計なおせっかいだったかも。まあ、いいや。
先輩の気持ちを後押し出来たなら、今は喜べなくてもきっといつかちゃんとほんとに『良かった』と思える日が来る。そう信じる。
でも、自分のこの気持ちを、どうしようね。
夕日は眩しくて、なのに暗渠の中に迷い込んでしまったように心は暗い。光差さぬ水路の中には何がいるのか、自分はどこへ向かうのかもわからない。
いつもなら、『こっち』と大雑把に手招きしてくれる人がいない。
その人にはもう二度と、手招きしてもらえない。
ううん、そんなのなくたって、ほんとは進める、私。
でも、そうして欲しかった。佐野先輩に、して欲しかった。ずっと。
気が付いたらちゃんと駅前まで来ていた。頭はボーっとしていても足は習慣で自動運転していることを、すごいなあと他人事みたいに感心してしまう。
とりあえず家に帰ろう。そう決めて、青になった横断歩道を渡ろうとしていたら誰かに呼ばれたような気がして足を止めた、その瞬間。
「わ!」
私の目の前を、信号無視で恐らくスピードも相当無視した車が横切って行った。今、立ち止まらなかったらと思うとぞっとして、へたり込みそうになる。
「大丈夫か」
後ろから私を支えて、心配そうに声を掛けてくれたのは。
「――佐野、先輩……」
何でこの人ここにいるんだろう。息を切らし、玉のような汗をかいて。疑問に思いつつもとりあえず「ありがとうございます」とお礼を云った。
「怪我、してないか」
「多分」
「……」
「……」
それだけ交わすと、双方黙り込んでしまった。再び赤がともった信号が青に変わるのを待っていたら、「ちょっと、時間あるか」と問われる。
「七時からバイトですけど、それまでなら……」
「じゃあ、少しだけ俺に付き合ってくれ」
肩と背中を支えてもらったまま、横断歩道の手前側にある公園へと連れて行かれた。
お散歩に来ている犬とその飼い主、手押し車を押しているご老人、その横をゲーム機片手に走っている小学生の男の子たち。そんな心和む風景をベンチに並んで腰掛けつつ眺めていたら、「高崎」と先輩がこっちを向いて話しかけてきた。
「はい?」
「何で急に会やめるなんて云ったわけ?」
その口調や顔が少し怒ってるみたいに感じるのは、自分の願望なのかな。やだやだ。
独りよがりな思い込みを振り切るように、私はとびきりの笑顔を拵えた。
「やだなー、私と二人でいたらうまくまとまるカップルもまとまらないかもしれないじゃないですか。空気の読める後輩は、ちゃんと引きドコロを知ってるんですよ!」
「――お前ね……」
せっかく笑顔の大盤振る舞いをして差し上げたのに、先輩ときたらわざとらしいくらいにデッカイため息を吐いた。
「あいつの云う通りだったか……。あのな高崎」
「はい?」
「俺が今好きなのは、お前」
「――――え?」
耳が、都合よく自分の聞きたい言葉に改変したのかと思った。
「あの、なんか聞き間違いしてるみたいなのでもう一度いいですか」
「間違いじゃねえし」
「――!」
「お前が云ったんだろ、つむじ長押ししたから、俺は今から再起動するんだって、だから俺は、好きな人にちゃんと気持ちを伝えるんだって。そうしたのになんでそんなに不思議がるんだ」
「い、云ったけど、云いましたけどでも」
ちょっと待って、そんなの聞いてない、だって先輩は――
「思考停止って顔だな。――おーい、高崎―」
目の前で手をひらひらされて、フリーズしてた頭がやっと動き始めた。
「えっ、でも、だって、佐野先輩には郁美先輩が」
「留学前に終わってたって、お前がよく知ってるだろうが」
「で、でも、先輩いっつも見てた、郁美先輩のマグとか座ってた席とか、」
「――こっちに気持ちがあるのに振られたからな。見てくれは優しげだけど、あいつ俺なんかよりよっぽど中身男らしいから一度別れるって決めたら絶対心変わりなんかしないって分かってた。だから、未練たらたらのままだったけど、別れた。で、あいつの残したもんをただ見てた」
――ほら。やっぱりそうじゃん。
敵わないんだよ。私なんて。
掌に爪痕が残るほど、ぎゅっと強く拳を握った。
「あん時、お前は何も云わなかった。俺を好きなだけうじうじさせてくれてた。だから、思ったより早く立ち直れたしこいついい女だなって事に気づけた」
「!」
想像もつかなかった言葉に、息が詰まる。
「人のつむじを遠慮なく突いてくるくせに、高崎面白いよな。気い使ってないようですげー気い使うの。そうだろ?」
はいそうです。なんて云えなくて、ただ頭をぶるぶると、水にぬれた犬みたいに振った。なのに佐野先輩は優しく笑うだけだった。
「帰ってきてすぐに、俺の気持ちなんか簡単にあいつにバレた。それで、顔合わすたび『告白したの? まだなの? 相変わらずチキンだなあ!』なんて云われてムカついてた。で、そのあとお前を変に意識してた」
それで、あの一連の挙動不審か。
予想外の展開についていけずにぼーっとしたまま、答え合わせは進んでいく。
「さっきも、あいつに指摘されるまでお前の私物がなくなってるの気付かなくて『佐野君、何やってるの?!』って超怒られたんだからな。勘弁してくれよ、まったく」
そう、郁美先輩はおっとりしているようで中身はなかなかの烈女なので、怒ると怖いんだ。思い出してくすりと笑うと、強く握りこんだ手がやっと緩んで、掌についた爪痕が顔を出す。それを見て、佐野先輩が触れそうに近くまで手を寄せて、止めた。さっきの私のように固く拳を握って、そして。
「やめるなんて云うな」
「――」
「傍に、いてくれ。――好きになってくれなんて、云わないから」
懇願にも似たその言葉に、歓喜と同時に罪悪感がせり上がってきた。
「違うんです」
「え?」
「――この一年、いっぱいいっぱい、郁美先輩に嫉妬しました。佐野先輩の鈍さにいらっときました。だからよくつむじに八つ当たりしました。そんな、小っさい人間なんです。郁美先輩とは全然違うんです。佐野先輩が好きだって云ってくれたのは必死につくろってた私で、ほんとはちっとも好きになってもらえるような人間なんかじゃない」
告白しながら、涙がだーだー流れた。
好きな人に、好きって云ってもらえてうれしかった。でもいつもテンションが高くてふざけてばかりいる私を好きになったのなら、小っちゃくてずるい私はきっと幻滅される。それでも。
先輩の気持ちを知った心は、もう欲張りになってる。ここで終わりにしたくないって思う。
「怖いけど、これからほんとの私を見て下さい。それで、私を好きかもう一度考えてください」
「好きだ」
即答かよ。
「人の話聞いてました?」
「聞いてた。判断するには十分だ。本当に騙そうとする奴は、手の内を明かしたりしない」
「それが騙すテクニックかもしれないじゃないですか」
「そうかもしれないけど、お前にその技量はない」
「先輩ヒドイ!」
「ひどいのはどっちだよ。勝手に人の気持ち決めつけて、勝手にいなくなろうとして」
その声の昏さに、自分のしたことを思い知らされた。
「ごめんなさい……」
「罰として、明日はお前が写真撮れよ」
「……何のですか?」
「扇橋閘門。行くって云ってたろ」
「それ、私的には全然罰じゃないんですけど」
「いいよもう。水路以外にもガンガン出かけるぞ。遊園地も、食事も、買い物も」
聞いてて顔が赤くなる。だって、その扱いがただの後輩にするものじゃないって、もう分かってる。
だからこっちからも勇気を出した。
「琵琶湖疏水も、通潤橋も行きましょう、今度二人で」
「ああ、そうだな」
――そっけなさそうだけど、これはかなり嬉しい時の声。私も嬉しくて、もっと欲張りになる。
「いつか先輩とメキシコのケレタロ水道橋、見に行きたい」
「お前の好きなやつか。『キリンが行列してるみたいでかわいい』って云ってたな」
「先輩が留年してくれたら、一緒に卒業旅行で行けるんですけどね」
「お前ってほんと失礼」
帰るぞって差し出された手におずおずとこちらからも手を伸ばしたら、あっという間にぎゅっと閉じ込められた。初めて繋いだ先輩の手は熱くて、でも自分の頬も、負けないくらい熱くて。
思わず俯いてしまった私のつむじに、「減らず口なのにそうやってときどきすげー女の子っぽいのがずるいよな」と呆れたような声と、小さなキスが降ってきた。ひゃあ、と首を竦めたら、笑っている気配。くそう、あとでつむじアタックかましてやる。
暗渠を抜けた先には、大海原が広がってた。そこでどんなことが待ち受けてるかなんて、まださっぱりわかんない。
でも先輩と二人ならなんとかなるだろう、この一年がそうだったように。――これって、もう私もだいぶ大雑把の影響を受けているってことなのかな。
繋いだ手が歩くテンポで揺れるのを見ながら、そんな風に思った。