追風参考少年(☆)
「ゆるり秋宵」内の「雨傘尾行少女」の二人の話です。
大勢の人と騒いだり派手に遊んだりするのは苦手な性質で、出来れば図書館の片隅でひっそりと生息していたい方。
にもかかわらず、身内から見ても整っていると思わざるを得ない両親から、それなりの容姿と何事もそつなくこなす術を受け継いだのは、果たして手放しで喜べる事だろうか。
どこにいても客寄せパンダで終わってしまう。
何をしても「すごい」の一言で済ませられ、また人と同じ失敗をしても「たまにはそういう事もあるから」と叱責を免除され。
いい事も悪い事も認められない自分のその在りようは、常に追い風参考記録のようだと思っていた。
彼女を初めて見た時の事を覚えている。
学期始め、最初の委員会の会合。まずはとコの字に並べられた机の端から一人ずつ立って自己紹介をしていた。
随分大人しそうな子だな、と思ったのが第一印象だ。でも、はっきり通る声でその名を告げ、『よろしくおねがいします』というだけのシンプルな自己紹介を、彼女は思いのほか堂々とやり遂げた。
俺と目が合う。
こちらをじっと見た後、その視線は自然と解かれ、次に自己紹介を始めた隣のクラスの男子に向けられた。
ただそれだけの事。
なのに、妙に印象的だった。
その後も変わらず彼女は淡々と業務をこなした。
発言するこちらをじっと見て、熱心に板書をメモに取って。何度か校内の見回りで一緒になった時も、ぶっきらぼうながらもこちらの問いかけには律儀に答えを返して。
――この子だ。
そう思うのに、時間はかからなかった。
深く人となりを知った訳でもないくせに、何故か彼女はフラットな目で俺を見てくれるような気がした。
同じ委員会だというだけで学年も異なれば、こちらから声を掛けに行くだけの材料もなく、密かに見つめるだけで日々は過ぎていく。
そうして何も変わらないまま一学期が終わり、夏休みに突入した。自分の気持ちを更に深化させる出来事が、午前中に登校し補講を受けている最中に待ち受けているとも知らずに。
エアコンなどといった気の利いた物が公立高校の教室に入っている訳もなく、壁掛けの扇風機が振りまく温い風が室内の空気をかき混ぜているだけ。そんな中での補講は一限目にして早々に集中力が切れ、水やりの涼しげな音がすれば素直に耳が誘われた。窓の外に目をやると、教室前の花壇の脇でホースの口を絞って虹を作りながら花壇の水やりをしている彼女がいた。
笑ってる。
跳ねた水に、目を細めてる。
委員会の時とは全然違う、くるくる変わる柔らかな表情。見られていると気付いたら逃げてしまうかも。そう思って、真面目に補講を受けているふりをしながら何度も盗み見ていた。
やがて一階の教室の前にある花壇の端から端まで水をやり終えて彼女が帰ってしまうと途端に寂寥感に襲われたものの、美化委員会の花壇への水やりは比較的学校から近い生徒が受け持つ事が多く、つまり彼女のあの姿はまたみられる可能性が高いという事を思い出すと、現金な心はすぐに復活した。
五日間の補講の一限目、何かのご褒美のように彼女は必ず現れ、花壇に咲くヒマワリと俺を大いに喜ばせてくれた。
一〇分程度で終わってしまうその時間を、待ちわびる日々。
万が一雨など降ろうものなら彼女はやってこないのだから、快晴を望んだ。毎朝、うだるような暑さが予想される天気予報をテレビで確認しては頬を緩める自分を、母がどうしちゃったのかしらこの子、という目で見ていたけどそんなのは気にしない。
思いがけず楽しめた補講が終わるとあとは予備校の味気ない夏期講習通いしかなかったけれど、それでも新学期を待ち望む心は日めくりのカレンダーを一枚いちまい剥がすようにわくわくしていた。
委員会は一〇月で引退だ。だから、それまでのひと月に見回りで一緒になるチャンスがある。そう楽観的に構えて二学期を迎えたものの、当番表に彼女の名はほんの一、二回分しか載っておらず、一緒になる事はなかった。――夏休みの水やりと引き換えに二学期の見回りが大幅に免除されるルールなど、浮かれた頭は考える余地もなかったと見える。
接点を失って、ひどくがっかりした自分に驚く。
そんなに好きなら、呼び出しでも何でもして告白すればいい。
勇ましくそう思っても、小さい心がそれはちょっと、と都度尻込みした。ギャンブラーな気質をまるで持たない自分は堅実だと称される事が多い。聞こえはいいが、要は勝てる勝負しかしないような臆病者なのだと思う。この状態で足踏みしているのがいい証拠だ。
そう揶揄しても結局やはり何も変わらぬまま、委員長の看板を下ろした。
家に帰り予備校へ行く前の小休憩をしていた最中、母が「毎日大変だわね。ごくろう様」と労ってくれたけれど「別に、受験生は皆こうしてんだし」とそっけなく聞こえる返事をしてしまう。母も同じように感じたらしく、「まったくあんたはあの人に顔そっくりなくせにかわいげってものがないんだから」と苦情を云われつつ、微妙にノロけられた。
「――二人のなれ初めって、どんなんなの」
食卓に乗っていたおやつ鉢に手を伸ばしながら、自然を装って聞いてみる。すると、母はキラキラと目を輝かせた。
「あら! 知らなかったの? てっきりあの人から話してたと思ってたのに! でもそうよね、そんなの聞かれてもないのにこっちからなんて云えないわよねえ」と思い出し笑いをしつつ、少女のようにほんのり赤面した頬を両手で押さえている。
「で?」
「今話すわよ!」
あの人と私が出会ったのはね、雨の季節よ――で始まるサーガは、「分かった。ありがとう、そろそろ時間だから」と俺が切り上げるまで、実に三〇分も続いた。
「要するに、急な雨に降られたけど傘がなくて駅の改札口で困ってたお父さんにお母さんが相合傘を持ちかけたって事だね」
げんなりしつつ総括すると、「私たちの運命の出会いを一言で語れると思わないで」と叱られてしまった。
「怖くなかったの、知らない男だよ相手」
「別に? だって『この人だ!』って分かったんだもの、怖いとか恥ずかしいとか云ってる場合じゃないわ」
――何とか彼女へ渡りを付けたいくせして躊躇ってばかりの俺に、それは雷が落ちたような衝撃だった。
そもそも母にこんな話を聞いたのも、現状を変える為にどうしたらよいか、そのヒントが欲しくてだったのだけれど、それにしても、そうか。
出来ればなるべく傷付かないように。いつもそう思ってた。でも、それでは駄目なんだな。
息を潜めてただ待っていても何も起きない事は、身を持って体験した。何もしないで運命の相手が空から降ってくるのはアニメ映画の中でだけだ。
「ありがとう」
俺がしみじみお礼を云うと、「何でお礼云われてるのか分かんないけど、どういたしまして」と母が笑った。
あんな話を聞いたせいなのか、翌日は一日細かい雨が降っていた。
雨は好きだ。少しの雨なら濡れて歩くのが気持ちいい。そんな思いもあって、幾人もが傘に入らないかと勧めてくれたものの、その全てをやんわりとお断りした。
本当は、いつのまにやら俺の後ろを歩いている彼女が、俺に『入りませんか』と声を掛けてくれるといいなと思う気持ちもあった。けれど、駅までの道に立ち並んでいる店のガラスに映る彼女は一定の距離を取りながら歩いていたし、俺に近付く気配もないままだった。
昨日までなら、それをがっかりするだけで終わっていた。でも。
――だって『この人だ!』って分かったんだもの、怖いとか恥ずかしいとか云ってる場合じゃないわ。
その言葉を胸に、駅を目指し歩いた。そこで自分から声を掛けると決めて。
空が少し明るくなって、一つ二つ傘の花が閉じていく。駅の入口について振り向くと、彼女はようやく雨上がりに気付いた様子で、慌てて傘を閉じていた。目線を上げる彼女が、俺の姿を捉える。声を掛けると動揺してか、傘を落とす。それを拾い上げて、手渡す。
なりふり構わず、ありったけの言葉を伝えて伝えて、伝えまくった。――それで引かれても仕方ないと思っていたけれど、その時の彼女の顔は父の事を話す母と同じに、みるみる赤く染まって。
小糠雨が音もなく降り、街をしっとりと潤している。
あの日のようだと思いながら、梅雨時独特の湿気にむせ返りそうな駅の入口で本を相棒に佇めば、ほどなく彼女がお気に入りの傘をさして早歩きでやって来るのが見えた。
猫のシルエットのプリントが施された傘も彼女自身もあの日と何も変わらないようでいて、彼女だけは立ち位置をがらりと変えた。後輩から、特別な存在へ。
「せんぱい」
息を弾ませた彼女がそう象る言葉は、柔らかくて甘い。
呼ばれるだけでうっとりしているなんて我ながら気持ち悪いと思いつつ、平静を装って本を閉じた。
「日曜なのに塾、お疲れ様。でもそんなに急いで来なくてもいいっていつも云ってるのに」
「だって、お待たせしたらいけないし、それに」
「それに?」
「――ないしょ、です」
内緒にされてしまったその言葉は、こちらを見上げてくる表情から推測するに『だって早く会いたかったんです』かな。自分の恋愛脳がそう云う風に解釈したいだけかもしれないけれど。
「内緒かあ」
「なんですか?」
「教えてくれたら、カフェでワッフルご馳走しようと思ったのに」
「えっ!」
内緒の中身を教えて聞かせて欲しくて、彼女の好物で釣ってみる事にした。
あくまでも己の希望に寄った推測に過ぎない俺の見立てを、推測じゃありません、本当にそうですと云って欲しいなんて我儘もいいとこだ。
カフェのワッフルは、どうやら交渉の条件としてとても良いものだったらしい。
それはその、ともごもご口ごもりつつ、結局小さい声ながらも教えてくれた答えは、嬉しい事に俺の希望通りだった。
破顔する俺と、その横で顔を赤くしている彼女。
「もう、お店でいっちばん高いの頼んじゃいますからね!」
「いいよ、それにお土産の分もテイクアウトしようか?」
「それはやりすぎです」
彼女は必要以上に甘えるのをよしとしない。こっちは大学生で、時間もお金も受験生の彼女よりは融通が利くのに。
もっと甘えて欲しいと思う。でもそれを押し付けるのは一つとはいえ年上の男のする事じゃない。ましてや、受験生に。
今年に入って塾通いを始めた彼女と、塾へ行く前や後――ただし塾終わりに会うのは土日の夕方に限る――、時間がある時にデートしている。逢瀬によく使うのは塾から程近い駅ビルのカフェで、初めて彼女と訪れた場所だったりもする。
俺なんかより真面目な気質の彼女が『受験生なのにうつつをぬかして』と思わないように、そこで塾のテキストを見ながら教えたりして。
今日も、日曜日なのに一日塾で勉強してきた彼女の頬をワッフルで緩ませる事に無事成功した後、「小テストに出たところがよく分からない」とこぼしたのを聞いて一緒に数学に取り組んだ。どうにか理解の尻尾を捕まえたところで時計を見やれば、残念ながら帰さなくちゃいけない時間だ。
名残惜しい気持ちを上手に隠して、「今日はこれ位にしておこうか」とテキストを閉じた。
分厚いそれを手渡そうとテーブルの上でリレーのバトンのように差し出す。いつもなら『ありがとうございました』の言葉に飛び切りの笑顔を添えてくれる彼女だけど、なぜか今日は受け取る手も笑顔もなにもない。
どうしちゃったかな、と思案していると小さく小さく声を掛けられた。
「――せんぱい」
「ん?」
「あの、――もう少しだけ、一緒にいちゃ駄目ですか?」って、震える声で尋ねる彼女はとてつもなくかわいくて、ここがお店でなければ掻き抱いていたに違いなかった。
すっかり冷えてしまったブレンドコーヒーの最後の一口を飲み干す。「あんまり遅くなると家の人が心配するから、あと三〇分だけね」と誘うと、ぱっと笑顔になる。二人でメニューをのぞきこみ、もう一杯ずつ飲み物を頼んだ。
俺と付き合って彼女の何が変わったって、一番は笑顔がたくさん見られるようになったことだ。
無差別に振りまくわけじゃない。俺の前でだけ。とは言え、お付き合いをしていく中で雰囲気が柔らかくなったのも事実で、つまり俺は今同じ学校にいない現状をとても憂いている。
彼女のよさとその魅力を、他の男に気付かれていやしないかと。
そうだとしても彼女はほいほい乗り換えていくような子じゃない。
真面目だし、――俺の事、好いてくれてるって分かってる。
でも危機感はなくならない。彼女が来春進学したら、ますます俺の心配は度合いを増すだろう。
やきもちや我儘は、どこまで許されるのか。そのあたりについてはまた先人に聞いてみたいけれど、母のあのトークに付き合わされるのは正直疲れるので次は父に教えてもらうとしよう(こちらからもサーガを聞かされる可能性については、意識的に排除した)。
ずっと自分には要らないだけの、追い風だったものは、思っていた通りフラットに俺を見て中身を好いてくれた彼女のおかげでとうとう消失した。今は彼女の気持ちがいい風になって俺の中を隅々まで渡る。嫌なものを一掃して、俺に必要なものだけを残して。自分も、彼女のいい風になれたらいい。疲れて座り込んだ時に優しく頬を撫でて、また立ち上がる力になるような。
延ばした三〇分は、あっという間に過ぎてしまう。母のサーガを聞かされていた時は、その同じ長さである筈の時間を一時間にも二時間にも感じられたというのに。
「時間。帰ろう」とスマホのカウントダウンタイマーが賑やかに時間切れを告知する前に数字を止めて手を差し出すと、「はい」と云いつつ不満げな彼女。
今だけだよ。来年になってしまえば、この時間じゃまだきっと彼女を帰せやしない。それどころか、日を跨いでいたって解放できないかも。
思わず暴走しかけた不埒な想像は、おずおずと伸ばされた彼女の手が俺の手の中に納まるのを見た瞬間、慌てて頭から追い出した。
まだ真っ白な彼女が「せんぱい?」と無邪気に声を掛けてくる。まったく、人の気も知らないで。そう毒づく事さえ甘く感じつつ、繋いだ手をきゅっと恋人繋ぎに直して、彼女が右、自分が左のいつもの位置でゆっくりと歩き出した。
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いつもよりゆっくりなその歩き方。
私に合わせているにしても、まるでスロー再生みたいな足運び。混雑した駅のコンコースで、帰りを急ぐ人たちにどんどん抜かされた。
――じゃあ、っていつもお別れするポイントは、駅から延びている歩道橋。さっきまで降り続いていた雨で路面も柵も濡れているそこに辿り着きとうとう足が止まっても、まだ手は離されなかった。
「せんぱい」
「ん?」
「――もしかして、私のこと帰したくないなんて思ってます?」
図々しくそんな風に思って、ごめんなさい、ちょっと調子に乗り過ぎましたって頭を下げようとしたら。
「――そうだよ」
珍しく頬を赤くした先輩が、聞き分けのないちいさな男の子みたいにそっぽを向いたまま、そう認めた。
「ええ?!」
「そんな驚くほどの事じゃないと思うけど」
「でもせんぱい、いつもは……」
名残惜しいという気持ちを所有しているのはこっちだけなのかと思うくらいにあっさりと手放されてたのに。
「いつも、帰したくないなって思ってるよ。でもそう云ったら困らせるって分かってたから」と、繋いでいない方の指が私のおでこをちょんと突いた。
――うれしいな。
お金でも宝石でもなく、先輩の言葉一つで、私はこんなにも有頂天になってしまう。
思いが一方通行じゃないのはわかっていて、それでも時折妙に不安になって、確かめたくなる。そんな時、先輩はいつだって私が欲しい言葉を、欲しいタイミングで与えてくれるんだ。今日だってそう。
延ばしても延ばしても、まだ帰りたくない。ずっと一緒にいたい。今はまだ、そんなこと云える立場じゃないけど。
でも、来年になったら――。
大胆な自分がちらりと顔を見せて、あっという間に引っ込んでいった。
うん、まだ、ちょっとだけ早いから。
雨上がりの湿気た空気に暑がっているふりをして、上気した頬をぱたぱたと手で仰いだ。