女の子元年
大学生×大学生
四月、進学。誰も知り合いがいない新しい環境に身をおくのは、自分をリセットするのにちょうどいい機会なのかもしれない。
四月生まれで長女(内訳は私・妹・弟)で名字が会田ときたら生まれた順でもあいうえお順でも出席番号は頭の方だし、本人が望んでいなくてもしっかり者にならざるを得ない。そんなわけで私はもうずっと家/学校問わず『頼りになるみんなのおっかさん』ポジションだった。縫い物が苦手な子の、制服から取れてしまったボタンを縫い付けたり。怪我をした子に絆創膏したり。
そんなだから、好きな子が出来てもぜんぜん女の子扱いしてもらえずに切なくも不毛な高校生活を送ってしまった。挙句、好きだった子がちょっと頼りない感じの女の子とくっついたのを見て、私はいよいよ決心したのだ。
脱・頼りになるみんなのおっかさんを。
何も好き好んでおっかさんになったわけじゃない。私よりしっかりした人がいなかっただけだ。私だって、どうせならかわいげのない割烹着よりかわいいエプロンの似合う女の子になりたかった。だから。
さらば、おっかさんな私。
少し寂しい気もしたけれど、上りの新幹線の車内で、私はずっと纏っていた心の割烹着をひっそりと脱いだ。
入学式の会場は大学の講堂ではなく、大学から二駅離れたところにある区民センターだった。
今日も電車の乗り換えや会場までの経路のチェックは当然済んでおり、伝線した時用のストッキングの替えやのど飴といった『お出かけ時携えセット』もばっちりだ。人の面倒は今後見ないと決意したけど、自分の面倒は見ないといけないし、お守りみたいにないと落ち着かないから。きっと私は、お財布とスマホだけ持って出かけるなんて一生出来ないんだろうな。
親御さんと連れ立つ人が多い中、わざわざそれだけのために仕事を休んで上京してもらうのは気が引けて、『来てもらわなくて大丈夫だからね』と云ってあった私は一人で駅の連絡口を歩く。たしか南口だったとそちらへ足を向けようとしていると、会場の案内を手に逆方向の出口へと歩き出したスーツ姿の男の子を見つけて、無意識のうちに話しかけてた。
「そっち、逆ですよ」
「え」
しまった脱・おっかさんのはずがまた人助けをしてしまった、しかも急に知らない人に声かけるとか! と思っていたら、にっこりと笑い返してもらった。
「ありがとうね、助かっちゃった」
「いいえ」
彼はじゃあ、と云って正しい方へ歩き出すも、駅を出てすぐ左に曲がるところを右に行こうとしたりかと思えば立ちどまってきょろきょろしたり――なんだかとにかく放っておけない。なので脱・おっかさんはとりあえず棚上げして、「よかったら、一緒に会場に行きますか」と申し出た。
「いいの?」
おずおず、といった様子でこちらを伺う目は、どうみても既に頼りにされてる。脱いだはずだった割烹着を再び心の中で身に着けて「どうせ、同じとこ行くんですから」と口にすれば、「優しいね」なんて云われて慌ててしまう。
「別に、普通ですよ」
「俺、困ってたの気がついてくれたでしょ」
「え、――うん、まあ」
だって、案内板を見て、きょろきょろしてた。『途方に暮れてます』って、おっきく顔に書いてあった。
「スマホの充電切らしちゃって地図アプリ見れないし、かといって渡されてた地図はなんか分かりづらいし、上京してきたばっかで頼れる友達もいないし、だからさっきはほんとに心底困ってた」
「そうだったんだ」
「俺の横を、みんな気づかないで通り過ぎて行ったよ。声掛けてくれたの、君だけだ」
「――」
「すっごい嬉しかった。頼りになるとかより、声掛けてくれたのが嬉しかったな。ありがと」
「そんな、全然大したことしてないのに」
慌ててたら車道にはみ出しそうになって、着慣れない黒のスーツの腕を引かれる。
「危ないよ、女の子はこっち側」と、くるりと位置を入れ替えられて、今度は彼が車道側。
「あ、りがとう」
「どういたしまして」
ドキドキしてるのは、別にこの彼の笑顔がかわいいからじゃなく、今車に引かれそうになったから。うん、そうだ。
そんな内心の動揺をひた隠しにして、なんとか会場へ無事に辿り着いた。
式の会場は自由着席だったので、そのまま流れで二人並んで座った。単調で何度も眠くなってしまったそれがやっと終わると、彼――三浦君から「このあと予定、ある?」って声を掛けられる。
「ううん」
アパートに帰る途中でスーパーに寄るだけだ。なので素直にそう返すと、「じゃあ、一緒にお茶でもどう? 連れて来てもらったお礼がしたいんだ」なんて云われてしまって、焦る。
「え、いいよそんなの」
「でも一時間飲み物も飲めなかったから喉乾かない? 俺カラッカラ」と喉を押さえて大げさにしかめ面して見せるから、思わず笑ってしまった。するとすかさず「行く? 行こうよ!」って、お散歩したい犬みたいな勢いで急かされた。
別にお礼されたくてした訳じゃないし、そもそもお礼なんてされるとも思ってなかった。でも、頑なに断ったらこの人はしゅーんとしてしまいそうだな、と会ったばかりなのにそんな想像をしてしまう。
せっかくのにこにこ顔を曇らせたくなくて、「うん」ってお返事したら、「やったね!」ってもっとにこにこされた。
何がそんなに嬉しいんだろうと思ってたら、「俺絶対会田ちゃんと仲良くなりたいって思ったんだ。断らないでくれてありがとう」と、もう親しげな呼び名を私にくれた。
「こちらこそ、ありがとう」
嬉しくて、むず痒い。男の子からお茶に誘われたり、『おっかさん』以外の呼び名をもらうのは初めてだったから。
それから、学部は違うものの同じキャンパスだった三浦君とは連絡先を交換し合い、お昼を一緒にとったり、説明会で配られたシラバスを一緒ににらめっこしつつ講義を選んだりした。それだけでなく、甘いものが大好きな彼とはちょくちょくカフェや雑貨屋さんなんかにも連れ立ってゆく。東京のカフェなんて一人だと気後れしてとても入れやしないけど、三浦君と二人だと心強くて、楽しい。
やっぱりいちいちドアを引いてくれたりメニューを先に見せてくれたりするのがなんとも落ち着かなくて、――でも嬉しい。
なんで私なんだろう、と思う。少女漫画に出てくる人のようにちょっと中性的な雰囲気の三浦君は、見た目だけじゃなく性格だって優しくていい人だ。唯一の弱点は、入学式の時のとおり方向音痴ってことかもしれない。あの時は地図アプリがみられなくて迷ったと言い訳していたけど、初めて行くカフェへの途中ではいつもアプリを見ていながらも必ず反対方向に歩きだすから、方向音痴で間違いないとジャッジを下した。
方向音痴だけど、明るくて穏やかで、優しい。
そんな三浦君はすぐに周りの人とも馴染んで、五月を迎える頃にはたいへんな人気者になった。今や彼の周りにはかわいい女の子も面白い男の子もいくらだっている。なのに三浦君は一向に私から離れる様子を見せず、むしろ前より傍にいることを選んでくれているし、そう請われてもいる。だから彼を囲む輪の中に不似合いながら私もいて、休講した子にノートを貸したりカレーうどんの汁を飛ばしてしまった子の服のシミ抜きを手伝ったりと、結局今まで同様みんなのお世話に励む日々だ。それなのにあんまりおっかさん気分じゃないのには、ちゃんと訳がある。
講義を取っていなかった空き時間、スカートの裾の糸がほつれて困っていた女の子に泣きつかれて、学食の隅っこでまつり縫いをした。こんなの、高校時代に何度もやってるのでお手の物。数分で、でも出来るだけ丁寧に仕上げた。
このあとデートだという彼女が何度もお礼を口にして去ると、とことこと近付いてきた三浦君が「ごくろうさま」と私にクリームソーダをご馳走してくれた。多分、座ったままとは云えスカートを少し持ち上げつつ縫っていたから、気を使って席を外してくれてたんだと思う。
「お母ちゃん疲れちゃったよ」と十八番の台詞でおどけて自分の肩をとんとん叩いたら、「違うよ」と静かに反論された。
「お母さんでもお姉さんでもないよ、会田ちゃんは女の子なんだから自分をそんな風に云ったらだめ」
真顔で諭されたら、それ以上ちゃかせなくなる。結局、うつむいて「うん」と呟くのが精いっぱいだった。
三浦君は小さく笑って、「ほらほら、早く食べないとアイスが溶けちゃうよ」とロングスプーンを手渡してくれる。素直に受け取り、とろりと柔らかく崩れるバニラアイスを掬って、口に入れた。
「あまい」
「そりゃあ、アイスですから」
「おいしい」
「ん、よかった」
バニラアイスの乗った鮮やかな緑色の炭酸は、その日から私の大好物になった。
でも相変わらず謎は謎のまま。
どうして、私と一緒にいてくれるの?
今、恋人はいないと話す三浦君だけど、彼女が出来たら彼はあっさり友人の輪から抜けて、私にはもう今みたいなにこにこ顔は見せてくれなくなるんだろうか。だとしたら、それはとても残念だ。もっとずっと見ていたいから。
あの魔法のような『会田ちゃんは女の子なんだから』という彼の言葉は、私の中にいつまでも残って、私を緩やかに作り替える原動力に、なった。
かわいいエプロンの似合う女の子になりたいとずっと思ってた。でもなにか具体的にアクションを起こすことはなくて、憧れは憧れに過ぎなかった。今は少し違う。
急には変われなくても、少しずつでも。まずは、自分を『おっかさん』て思うの、今度こそやめよう。割烹着を捨てないまでも、まずはもう一度脱いでみよう。
そんな私のささやかな決意を、三浦君は笑ったりしなかった。それどころか、『会田ちゃん』からもう一歩踏み込んで『知世ちゃん』なんて呼ぶようになって、また私を戸惑わせる。そんな風に私を下の名で呼ぶのは今まで家族だけだったから。
慣れるまで、結構しばらくの間恥ずかしかった。でも毎日呼ばれるたびに、ちょっとずつちょっとずつ戸惑いよりも嬉しいが大きくなって、私の中に生まれた女の子の芽がすくすくと伸びていく。
グロスを塗る。
後ろで一つに縛っていた髪は、編み込みを施しつつサイドで結んでシュシュをした。
素のままの耳に、イヤリングをちりばめた。
ぺたんこだけど、かわいいストラップシューズを履いた。
ボトムをジーンズからギャザースカートに替えた。
間違い探しかと思う程にささやかな私の変化に、三浦君は必ず気が付いてくれる。私が身につけた中でこの日一番かわいいと思うものにきちんとスポットライトを当てて褒めてくれる。それでまた次はもっとかわいくなろうと思う。
知らなかった。きちんと自分を見てくれる人がいると、こんなにもチャレンジ出来るだなんて。
とは言え、人気者の三浦君との日々はいつでも春の日差しの中にいるようなのんびりモードだけであるはずもなく、時には突然の雨のような出来事にも見舞われる。それは大抵、三浦君にアプローチしたり、私に牽制してくる人によってもたらされた。
彼がどうやって断っているかは知らない。私にその場面を決して見せないから。毎日のように私や周りの友人をきれいに無視して三浦君にだけぐいぐいと話しかけていた人が突然近づきもしなくなることで、私や周りの友人は『ああ、駄目だったんだな』って悟るだけ。
私に牽制してくる人の手法は様々だ。
髪の毛がまとまらないの、と泣きつかれて編み込みをお手伝いしたそのあとに「ありがとう、じゃあこれから三浦君のバイト先に遊びに行って見せて来るね」ってにっこりされたり、「二人はお付き合いしてないんでしょう? なら、私に協力してくれない?」って先制攻撃されたり。
三月までのおっかさんな私なら、心で泣きながらも今までしてきたとおり女の子たちを『わかった! がんばって!』って応援したに違いない。
でも私は、私だって、女の子、なのだから。――三浦君が、そう云ってくれたのだから。譲らなくちゃいけない理由なんて一つも、ない。
多分、女子としてのレベルはものすごーく負けてるわ、って思いつつ「そう云ういじわる云う人には、もうお手伝いしないから」「ごめんね、協力は出来ない」ってしっかりお断りした。私がそうやって強気の返事をすると、みんな驚くのはどうしてだ。そんなに私、無抵抗な人に見えるのかな。こうなったらアイラインを強く引いて目力アップしてみようか、なんて思って自主練してみたけど、残念ながらタヌキがのこのこ都会にやって来たような残念具合だったので、お披露目は断念した。鏡を見ながらクレンジングして、こんなんなっちゃったのも三浦君のせいだよ、なんて八つ当たり。
好きな人がもてるって大変。
ため息吐きつつ化粧水をはたき込んで、――自分の考えてたことに、自分でびっくりした。
そうか。うわ、そうなのか。
自覚するや否や、ほてる頬と高鳴る胸に、洗面所でずるずるとしゃがみこんだ。
ようやく『これは恋だ』と自覚すれば、ふわふわなパステルピンクのコットンキャンディが、どこからかおしよせてきて、体中に詰まっているような気分になった。
甘くて、幸せで、くらくらする。
自覚したからと云って日常は変わることもなく、表面上は今までと同様に過ごした。
梅雨時期、微妙なお天気な日は傘を持たない三浦君に、雨が降るたび「いーれて!」って何度も飛び込まれた。震えそうになる声を隠しつつ「いいよ」って返して、何度も一緒に一つの傘で歩いて、用事がなければそのあとは必ず「お礼に」って、カフェでお茶をご馳走になった。
風邪で休んだあとにノートを貸して、まだ少し掠れた声で小さく「ありがと」って云われれば、知らない人みたいでドキッとした。
三浦君とのやりとりを、全て自分のいいように考えたい自分がいる。でも、『気のせいかもしれないよ』って窘める自分も、いる。
本当は聞いてしまいたい。なんとも思ってない子も、下の名で呼ぶのか、とか(これに関しては、今現在そう呼ばれているのは私だけなので、何とも判断がつかない)。
二人きりで何度もお茶をするのは三浦君にとっては普通のことなのか、とか。
――私を、ほんとうはどう思っているのか、とか。
今までずっと、密かに見つめる恋しかしてこなかったから、告白するにはあとどれくらい勇気をためたらいいものか、途方に暮れる。
でもきっといつか、と思っていた遠い未来は、案外早く向こうから訪れた。
いつものようにカフェでお茶をしていた時、突然三浦君から「これ、お誕生日プレゼント」とデパートの紙袋を渡された。
「……私、もうとっくに過ぎてるけど」
「知ってる! お誕生日はただの口実。あげたいからあげたの」
「そんな、もらえないよ」
受け取ってしまった紙袋は、胸の前に両手で持っていた。そのまま返そうとしたら掌に遮られた。
「『ありがとう』って受け取って。それ返されたら、悲しい」
少し困った表情で三浦君が笑うと、私はそれ以上突っぱねられない。いつもにこにこしている彼がたまに見せる弱気な顔は、今や私にとって最大の弱点だと云っていい。そんな訳で今回も、三浦君が何か云って、私が遠慮して、でも結局はソフトに押し切られて受け入れる、というお約束の流れになった。
「えーっと、『ありがとう』?」
「『?』は要らないんだけどね」
いいから開けてみてよと急かされて、紙袋から出した箱の包装を膝の上で解く。
薄い長方形の箱の中、薄紙に包まれて入っていたのは。
「……エプロンだ」
私が好きで、小物やバッグも集めているメーカーの、裾にだけフリルが入っているエプロン。優しく懐かしい色遣いで描かれた花が全面にプリントされたそれは、ずっとこんなのが似合う女の子になりたい、と密かに憧れていたものだ。
でもそれを三浦君には教えてなかったはずなのに。
不思議に思いつつ突然のこの嬉しすぎる贈り物を返す気は、もう微塵も起きなかった。
「知世ちゃん、そこのシリーズ好きだよね」
「……うん」
あれ、なんでばれてる。
「一緒にお出かけしてさ、雑貨屋さんに入ると知世ちゃんは絶対そのエプロンを見てるんだ。で、そーっとそーっと撫でて、それで名残惜しそうに手を離すの。だから、いつでも触れるように、プレゼント」
「でも、いいの? こんな、」
こう云っちゃなんだけど、大学一年生がお友達への贈り物で買うエプロンにしては高価なものだ。でもそれを口にするのは彼の厚意まで踏みにじるようで、濁した。
「もちろん! 俺、これ知世ちゃんにあげたいってずーっと思ってたから。こないだようやくバイト代が振り込まれた日、よっしゃ! って朝イチでATM駆け込んで、でもお店あいたの一一時だよ。ひどくない?」って、笑う三浦君だけど。
「……どうして?」
「好きな子の喜ぶ顔が見たいから」
三浦君ははっきりとそう云い切ってから、突如慌てた。
「ちょっと待ってやり直し! こんな聞かれたからぽろっと云っちゃうようなの、ナシ!」
「別に、いいのに」
ぽろっとでも何でも、私がそうだといいなって、心の中でずっと温めていた言葉をそのまま、三浦君はくれたんだもん。
でも本人は納得してないみたいで、「だめ! ――ちょっと、仕切り直させて」と咳払いをしたり、深呼吸したり。
「はーい」
面映ゆい気持ちがそのまま溢れて、笑顔になる。
云われる言葉が嬉しいものだって知っててもう一度聞けるのって、贅沢。
手渡されたのは、「いつもみんなの為に動いてる優しい君が好きです。俺と、付き合って下さい」と、野花のブーケのような、シンプルで力強い三浦君の言葉。それを「よろしくお願いします」と受け取って、「私も、好き」って伝えたら、三浦君はにっこにこな顔になった。
私は、かわいいエプロンの似合う女の子になれたかな? 自分じゃ分からないけど、三浦君にそう思ってもらえたらいい。
エプロン姿は今度の週末、私も向こうもバイトが休みの日に三浦君のアパートでお披露目になる。
「何もしなくていいよ、知世ちゃんがエプロンつけたのを見たいだけだから」という三浦君だったけど、料理なら実家時代からしているし、せっかくだから出来たて彼氏に好物を振る舞いたいというものだ。それを余すところなく伝えると、三浦君は「……さっきの嘘。ほんとは、知世ちゃんが俺んちで俺に料理を作ってくれたらすごい嬉しいって思ってた」と顔を赤らめて、「ハンバーグをお願いします」ってリクエストをくれた。
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