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ハルショカ  作者: たむら
season1
14/59

夢の爪痕(☆)

「夏時間、君と」内の「ねがいごと、ひとつ」の二人の話です。

 夢を見た。

 ああ夢だなと頭の片隅で分かってはいても、それでも彼女に会えて嬉しい。


 二人で、夕暮れの街を歩いていた。半袖で、さほど暑くはないから、せいぜい初夏といったところだろうか。

 彼女はお気に入りのワンピースを着ていた。襟ぐりが大きめに開いていて、袖はふわっとした服。薄くて柔らかそうなコットンの生地には、薄紫色とベージュで葉のような模様が細かく描かれている。胸の下に切り替えが入っていて、そこから裾に向かって緩やかに広がっているものの、凹凸があまりないシルエット。

 これを着てるとたまに妊婦さんに間違えられる、と口をとがらせていたっけ。

 外では年齢と立場に相応しいふるまいをしようと努めている彼女の、らしからぬふるまい。唯一自分の前では武装を解除していた事に、どれだけ優越感を抱いたか。


 炭酸が好物な彼女に、ソーダ水の瓶を手渡す。ありがとう、と笑って立ちどまったので、自分も同じように歩をとめた。

 小鳥の水飲みのように少しずつ瓶を傾けて飲むさまを見るのが、俺はとても好きだった。――今でも好きだ。

 今日も遠慮なく見ていたら、彼女にキッと睨まれた。どうせ私はあなたみたいに歩きながら飲めないわよ、って見当違いに俺を怒る。その声は、夢の中のせいか音声として再現される事はない。離れて、だんだんに忘れていたのかもしれない。


 声が聞きたいなと思いながら彼女の頬に手を伸ばす。

 その途端すべてが砂のように崩れ、残ったのは夕闇だけ。

 夢の中でさえ、俺は彼女を失う。いつも。



 本社のある方へ戻ってからは、息の仕方さえ忘れたような日々だった。彼女の住む街に行くまでは当り前だった彼女のいない日常は、共に過ごした三年を経て再び戻ったところで、もう当り前ではなくなっていた。

 引っ越しを期にリセットできるほど器用な性質じゃない。捨てる事も出来ずに連れ帰ってきたものたちを使うたび、見るたびに彼女の不在を強く思い知らされる。

 一緒に選んだマグカップ。教えてもらったおいしい時短レシピ。似合うと云ってくれた、イギリス流に右上へ向けて並ぶストライプのネクタイ。それらは、どんなコンピューターよりも鮮明に記憶を呼び起こす優秀な再生装置だ。――ただし、痛みを携えて。それでも彼女との思い出が色濃く残るそれらを使わずにしまい込むという選択肢は、なかった。胸が痛むうちは彼女も自分を忘れないでいてくれるのではないかなどと、まるで拗ねた願掛けのようだ。

 忘れられるなら、他の人で上書きが出来るなら、きっとその方が今よりもずっと楽になれる。でも俺は思いが果てるその時まで連れ立ってゆくと、はなからそう決めていた。

 苦しいけれど、自分でそう仕向けているのだから仕方がない。


 幾度となく繰り返される夢の結末はいつも同じ。だからといって逃げる事は許されない。差し出された別れを、自分は受け入れたのだから。

 本当に大事に思っているのなら手放すのではなかった。

 本当に大事に思っていたのに、なぜ手放してしまったのだろう。


 あの時は二人ともどうかしていた。全ての良くないピースが奇麗に嵌ってしまった夜。

 でもあの晩をどうにか凌いだとしても、結局同じ未来は訪れていたかもしれないとも思う。タイミングが早いか遅いかだけで。

 自分は本社に戻った。何事もなければもうあの支社へ戻る事はない。

 そして彼女が、あの街から遠く離れる事も、又ないのだから。


 いくらテクノロジーが発達して遠くの人と顔を見ながら会話を出来たとしても、ぬくもりだけは未だ伝えられない。

 果たして自分たちがそれなしでどこまで行けただろうか。そちらの未来は選ばなかったので、分からないけれど。


 暗闇を見つめる。まぼろしでも彼女がさっきまでそこにいて、笑ってた。

 別れて何かが変わるかと思ったけれど、何も変わらない。気持ちも。自分自身も。

 離れてみてよく分かった。

 離れてはいられないという事が。


 君はどうかな。もう新しい恋人はいるのだろうか。

 いてもいなくても、なるべく君が泣かないでくれたらと思う。別れの直前、短冊に書いた『幸せな人生を送りますように』という願いはカッコつけもあるけどまるっきり嘘でもない。

 俺の分まで幸せになって欲しい。

 でも本当は、ずっと傍にいて欲しかった。

 君がいれば他には何もいらないなんて云えるほど若くないけど、君のいない俺にはぽっかりと大穴が空いているのも事実だ。その穴を、他のもので埋める事は出来ない。

 大穴も、夢の暗闇も、彼女に繋がっているのならそれすら愛おしい。

 なのに自分はどうしてこんなに悲しいのだろう。



「――大丈夫?」

 どこまでもつづく深い闇は、君の声で突如破られた。

 まぶたを開ける。君の夢を見た後のこの瞬間は、未だに恐ろしい。これもまた夢かもしれない、彼女の姿は幻なのかもしれないとぼんやりしたままの頭でそう思う。

 起きた直後は夢をリアルに覚えているから、自分の手はただシーツを掴んでいた。そんな俺に、君はそっと手を伸ばしてくれる。自分より一回り小さな手が両の目尻に近付き拭われた事で、ようやく涙が溢れていた事を知る。

 彼女の掌は頬に触れ、静かに俺を包み続けてくれた。分け与えられる暖かさに、強張っていた心がようやく少しずつ警戒を解く。

 消えない。そう確信してから初めて、自分からも手を伸ばした。

 頬に触れる。髪にも耳にも。そして、ベッドの横で膝を付いて覗き込んでいた彼女をそっと胸に引き寄せた。仕事帰りのせいか汗ばむうなじと、静かにくりかえされる彼女の呼吸。

 今ここに君がいるという僥倖。

「おかえり」の声はまだ少し震えていたけれど、彼女はそれには触れずに「ただいま」をくれる。『どうしたの?』と云いたげにしているくせ、こちらを気遣い口にはしない優しさにようやく白状する気になった。

「――離れてた時によく見てた夢を、見た」

 これ以上情けない顔を見られたくなくて、俺の顔を覗き込もうとする彼女の後頭部を抱き込む。すると、胸元から「振り向きもしないでさっさと歩いて行っちゃったくせに」と別れた日の行動に今更のクレームがついた。そんな拗ねた声もただ嬉しい。

「ああでもしないと、君を無理にでも連れて行ってしまいそうだったから」

「嘘ばっかり――って云ってやりたいけど、さっきの見ちゃったから信じてあげる」

「あんなのは早く忘れて」

「無理」

 くすくすと笑って「さ、もうお昼寝はおしまい、夜寝られなくなるよ」と先に体を起こした彼女が俺の顎のホクロにキスを一つ落としてから、手を引っ張る。その小さな手と細い腕に負荷を掛けないようにして自分も起きると、彼女はそのまま立ち上がり玄関へと向かう。壁掛けの時計を見やれば六時半過ぎで、外へ出ると空は昼と夜がせめぎ合い不思議な色になっていた。

 繋いだ手の先で、ワンピースが揺れる。君の好きな、でもよく妊婦さんに間違えられるワンピース。

 近い将来、それが『間違えられる』じゃなくなるといい。


 去年俺がこちらに舞い戻り、色々落ち着いた頃合いで籍を入れた。

 別に式はしなくても、と彼女は割と本気で式には執着していない様子だったけれど、その日新居へ遊びに来ていた彼女の後輩の石黒(いしぐろ)さんが『駄目ですからね! ちゃーんと綺麗な先輩をお披露目してくれないなら、ワシはこの結婚を認めん!』と強く意見してくれて――隣に座っていた年下の恋人が、『何云ってんですか、そもそも誰なんですかそれ』と絶妙なタイミングでつっこんだのがおかしくて、彼女と二人で笑った。

 相変わらず冴えたアシストのおかげで、『いいトシなのに』と及び腰だった彼女にも無事に白いドレスを着てもらう事が出来たのは、この四月。 

 あいにく時期が満開を少しだけ過ぎていて、時折風が吹くとチャペルの横に植わっていた桜の枝から白い花弁がはらはらと雪のように舞った。その中で、繊細なレースをちりばめたオフホワイトのウェディングドレスに身を包んだ彼女が笑っている。風に乗って俺の髪まで運ばれた花弁を、白手袋の手でそっとつまんで、その時に少し乱れてしまった前髪を撫でつけて。

 石黒さんとその恋人君も駆けつけてくれた。あの子はせっかくかわいく装っていたのにメイクがすべて流れ落ちてしまうのではないかという勢いで、式が始まる前から終わった後まで泣き続けた。その背中を、年下の恋人君がずっと優しく撫でていた。

 そんな、夢とは反対に、ひたすら白く優しく染め上げられた日。

 あの幸せな光景はしっかりと目に焼き付けた。幸せのレパートリーなら彼女と二人で着実に増やしている。弱い自分はまだ過去と呼ぶには近すぎる、離れ離れになっていた日々を忘れられずにいてたまに悲しい夢を見てしまうけれど、こうして二人で夢をなぞるように歩いていればだんだんとその爪痕が自分の中から薄れていくのが分かる。


 ソーダ水を渡す。「ありがとう」と彼女が立ちどまる。俺も立ちどまって、彼女が飲むさまを見つめる。

「どうせ私はあなたみたいに歩きながら飲めないわよ」って彼女が見当違いに俺を怒る声を聞いて無意識に頬を緩ませては、もっと怒られてしまう。

「どうして私が怒ってるのに笑うの!」

「ごめん」

「ほら、また!」

 俺の前限定で物わかりのよい大人をやめる彼女は、なかなか怒りを収めてくれない。

「夕飯作りと片付けをするから、機嫌直してくれ」

「やだ」

「明日の朝、ホットサンドも作るから」

 好物で釣ろうとしても、そっぽを向かれてしまう。繋いでいた手を振り切ってすたすたと歩く彼女の後ろを付いて、さらに提案し続けた。

「夏休み、南の島に行こう。旅行中に着る服と靴もたくさん買おう」

「ご機嫌取りでどれだけ散財する気なの」

 ようやく、彼女が笑う。

「図書館の笹の葉に吊るす短冊を書いて。それで許してあげる」

 彼女の望むものなら何でも、と意気込んでいた自分に、それはささやか過ぎるリクエストだ。

「短冊に書く事は、毎年同じなんだけどね」

「毎年同じ事を書き続けることが大事なのよ、きっと」

「――そうだね」

 ずっと傍にいられますように。

 二人の唯一にして最大の願い。愛し合っていれば簡単だと思っていたそれは案外脆いともう知ってしまったからこそ、尊い。

 結婚したらそれで終わりではなく、これからもずっと願い続け、努力し続けなければまた危機は何度でも訪れるだろう。

 だから願う。今年も。来年も。


 君が幸せである事。

 俺も幸せである事。

 ずっと、傍にいる事。


 その当り前を噛み締めつつ、「夕飯、何が食べたい?」と彼女に聞いたら、今度こそ素直に「手作りのコロッケ!」と返ってくる答え。

 また地味に作業工程の多いものをオーダーされたなあと内心苦笑しつつ、「じゃあ、帰りスーパーに寄って行こう」と手を伸ばす。ためらいなくするりと掌に忍び込んできた小さな手をしっかりと繋いで、灯りがともり始めた夕闇の街を二人で歩いた。


ちょこっと登場→ https://ncode.syosetu.com/n0063cq/54/

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