魅惑・当惑(☆)
「ゆるり秋宵」内の「誘惑・困惑」の二人の話です。
葛西君の彼女になって、改めて思い知った事。
――あなた、モテすぎるのよ!
見目麗しいルックスと懐こい性格は、販売員として得難い資質だ。でも、ぱっと思いつくだけで今現在二人の女性に思いを寄せられている彼氏を持つ身としては、もう少し普通の男の子だったらこんな気苦労要らないのに、なんて思わなくもない。今、仕事での接点が殆どないのもナーバスになっている一因だろう。
お付き合いがはじまると、私は二人の事を会社の上司に報告し、自身の担当替えを願い出た。
その希望は、「分かった。次のタイミングで動くようにしておく」と、特に問題なくあっさり受理された。そう思いきや、「何もしなくても丁度異動がかかる時期だったのに、大塚は馬鹿正直だな」なんて苦笑されてしまった。社内恋愛が容認されている会社なのに、わざわざ自己申告するなんて肩肘張ってる四角四面な女らしい、と云いたかったんだろう。まあそれも否定はしないけれど。
会社に関係を明かす、ついでに担当替えも希望すると彼氏である葛西君に云ったのは上司への報告より少し前で二人の思いが通じ合ってすぐ、つまり葛西君のお店で手を繋いでいた時だ。
葛西君は猛烈に反発した。
「なんで?! 別に俺たち悪い事してないよ?」
素直にそう憤ってくれる事を喜びつつ、「うん、でもね」と私はゆっくり一つずつ伝えた。
「上司に報告するって決めたのは、そういった情報は他の誰かから云われるよりも早く、自分から申告した方がいいと思ったからだよ。その方がきちんと伝わるし、担当を変わりたいのは悪意ある嘘とか邪推――例えばだけど私が担当しているあの店にはカワイイ彼氏がいるから優先的に商品を回すんだ、なんて云われる機会を出来る限り排除したいから」
私がそう云うと、葛西君ははっとした顔になった。
筋を通したいだけじゃない。私はこの恋と彼を守りたい、なんて云ったら大げさだけど。
難しい顔付きになっちゃった葛西君に、私はあえて軽い口調で話しかけた。
「まあそれ以外の理由としては、不器用だから仕事と恋愛はできるだけ分けて考えたいってのもあるかな。地続きだと多分駄目になる、私」
「くららさんが?」
「そう、くららさんが」とすまし顔で返すと、葛西君はくすりと笑ってくれた。
「いくら仕事に私情は持ち込まないって頑張ってても、きっと仕草や態度で滲み出ちゃうと思う。私もされた事あるんだけど仕事場で恋愛オーラを振りまかれると周囲は迷惑だし、だから」
――分かって、もらえたかな。
ちらりと表情を伺うと、葛西君は「今すぐ納得は出来ないけど、わかった」と悔しさを隠さずに渋々了承してくれた。
「でも、だったらくららさんじゃなく俺が異動する」
「それはだめ」
「どうして!」
言葉の勢いで、繋いだ手をぎゅっとされた。少し強すぎる力。でも、引く訳にはいかない。
「葛西君には、葛西君についてる固定のお客様がいるでしょう? その人たちをほっぽり出していいなんて云うなら、私はあなたを軽蔑する」
「……」
「異動が掛かるまでは、今のお店で頑張って。それで、同期の中で一番早く店長さんになってよ」
私がおどけ半分本気半分で口にすると、思いのほか優しい顔して「……了解」と返してくれた。座ったまま天井を見上げて「あーあ」と云う口調は、どこかさっぱりしたもの。
「くららさんはかっこいいな」
「……かっこいいはいらない」
さっき『かわいい』って云ったその意趣返しか。むっとしたら、「嘘。やっぱかわいい」ってすぐに前言撤回してくれる葛西君。繋いでない方の手でそっと頬を撫でられれば、ふくれっ面もすぐにごきげんになってしまう。――もう、この人に対して強がる理由はないから。
そんな単純な私を優しく見つめて、葛西君はぽつりぽつりと語った。
「俺はさっき両思いになったばっかでチョー浮かれててさ、目はくららさん以外に向いてなくて、今どうするかしか考えられないのにあなたときたら先を考えてくれちゃってさ。恋のことも、俺のことも。……かなわないよな」
その言葉は、私の方は生まれたての恋に浮かれていないみたいだ、と思われてしまったかのように聞こえた。
違うよ、分かりにくいかもしれないけど、すごく舞い上がっているし怖がってもいるんだよ。だから、大事にしたくて必死なんだよ。
浮かれてばかりじゃ駄目だと自分を戒めてはいるけど、全然冷静なんかじゃない。でも勘違いされちゃったらどうしよう。せっかく両思いになれたのに。
一度は通り過ぎた筈の涙が、もう一度私の目元に寄せてきた時。
「でも、なるべく早く、俺くららさんに相応しい男になるから。――って、ちょっと何泣いてるのくららさん?!」
きっぱりと言い切る葛西君の言葉に男らしいなあ、って感心しながら、誤解されずに済んだ安心感で涙腺は勝手に緩んでしまった。そんな私の横で葛西君はおろおろしながらなかなか止まない涙を拭い、優しくハグしてくれた。
そしてこの四月から、私の担当エリアは変わった。
今まで担当していたお店があるのはカジュアルな街が多かったけど、今度はビジネス街が近いせいか、道行く人もスタッフもぐっと大人の雰囲気だ。
私の顔もすぐに覚えてくれて、お店に顔を出せば「お疲れ様です」と、皆にこりとしつつも落ち着いた対応で出迎えてくれる。けれど。
『こんにちは、くららさん!』と惜しみない笑顔をくれる子は、静かなこのお店には当然いない。ピアスを直して、とねだって甘える子も。
自分で手離しておいて、そんな事がさみしくなる。
さみしく思うくらいはいいだろう、と開き直り、品のよい店長(これも、今まで周りにいなかった人種だ!)にノベルティとカタログを渡しつつアーリーサマーフェアの打ち合わせをした。
三時過ぎにお店を出て携帯をチェックすると、やっと休憩出来たのか葛西君からメールが入っていた。
いつもと同じ調子でああだったこうだったと綴られている文章を見ていると、彼の日常を覗き見しているようで楽しい。
『また今日もあのお客様からアプローチされてしまいました。困ってたら店長が『これはもう飼い主がいるので』って云ってくれたけどその言いぐさちょっとひどくない?』
ほんとだ、ちょっとひどいよね――。店長に助けられつつからかわれて憤慨している葛西君を想像出来て、道端でくすりと笑ってしまう。
『あのお客様』は、私の担当替えと入れ違いのタイミングでお店に通われるようになった、比較的新しめの顧客だ。彼氏のお買い物について来て一目ぼれしたと、翌日一人で来店した時にご本人から葛西君へストレートに伝えられたそうだ。メンズのお店なので女性客は少なく、その点では安心してたんだけどなあ。
その後も彼女はちょくちょく来店しては、葛西君を指名してコーディネートの相談をして一点二点お買いものをしていくとの事。どうして担当を離れた私があのお店の近況に詳しいかというと、頼んでないのに葛西君のお店の店長が会社のパソコンのアドレスに定期連絡をくれるからだ。ありがたいけど、読むと毎回やきもきする。
件の方は彼氏とはそのまま続いていて、その彼が身につける物を買いながら葛西君にアプローチをしてくる困った人だ。葛西君はいくら気持ちを寄せられても『ありがとうございます』の一言(笑顔付き)で躱しているらしい、けれど。
――私がまだそのお店を担当していたとしても、やめてください、なんて私の口からは立場上云えやしない。葛西君だってクレームを付けられている訳ではなく、正価で定期的にお買い物をしてくれるいいお客様と云えなくもないだろう。
もしお店で『あのお客様』に絡まれている葛西君を見たら、絶対今以上モヤモヤする。だから、離れてよかったんだ、と無理やりに自分の心を納得させた。
それが、葛西君に思いを寄せている一人。もう一人は、私の後任であのお店の担当になった営業の女性だ。『あのお客様』のようにはぐいぐいストレートに来ないらしい。そのかわり、『営業会議しましょう、二人で』と食事に誘われたり、バックヤードで検品してると不必要に距離を詰められたりする点が厄介だ。
でもこっちは同じ会社の社員だから『あのお客様』よりは対応しやすいよ、と葛西君は笑って話してくれた。営業会議はするけどどうせなら全員でいい会議にしましょうと周りを巻き込んで二人きりを回避し、その会議の場で『うちの会社のセクハラ対策ってどうなってましたっけ。仕事してる時、必要以上に体近づけられるのは男でも女でもアウトですよね』と彼女をじっと見ながら云ったそうだ。ついでに、話が雑談に移ると待ち受けにしている私とのツーショット画像を周囲に見せびらかして、店長や皆に『ほんとお前って大塚さんのこと好きな』と呆れられた、って。――次になんかの機会でお店に行く時に行きづらくなるような事、しないでっ!
でも、店長レポートによるとその営業会議のあとはぱたりとアプローチが止み、バックヤードで二人きりになるなんて事態もないようだという事で、珍しくレポートの内容にホッとした。
こんな風に、揺さぶられれば簡単に動揺してしまう、私の心。
彼の気持ちは疑ってない。私が勝手に不安になるだけ。
あの人は魅力的だから。皆に好かれてしまう人だから。年下の彼氏がモテすぎて困る、なんて、人から聞いたらぜいたくな悩みか単なるノロケだと思ってしまうんだろうに、まさか自分が実際に体験するとはね。
私をこんなに当惑させておいて、葛西君ときたらいつでも楽しそうで幸せそう。聞けば、『だって、念願叶ってくららさんの恋人になれたんだもん』なんて台詞で、私をいい気にさせて。――そんな事云われちゃったら、困ってたのがバカらしくなるじゃない。
お店の子とは違って、営業の私は土日休みだ。当然、店員さんの葛西君は不定期休。土曜日である今日はお仕事で、夜は他店の同期の子たちとの飲み会があると云っていたので、帰りは遅くなるのだろう。
明日も仕事だというのに、皆タフだなあと呆れてしまう。頼むから、お酒の匂いさせたままお店に立ったりなんかしないでよね。
いつもより一時間遅起きしたり、のんびりご飯を食べたり。自分のためだけに一日時間を使って、時計の針は今、夜の一〇時を指している。今日はまだ楽しく飲んでるんだろうけど、いつもなら遅番でもそろそろうちにやって来る時刻。
途中にあるお花屋さんで小さなブーケを作ってもらって、それを手に静かにチャイムを鳴らし、『来ちゃった』と玄関先ではにかむ葛西君を見るたび、幸せで胸がぎゅっとなる。
来ちゃったなんて、ちゃんと『今日、お邪魔してもいい?』って連絡をくれるのにそんな言い方して。どんな風にされたら私の胸がかき乱されるか全部分かっててしているんじゃないかと思う程、葛西君はかわいい(って云うと拗ねるけど)。
お花を受け取ってお礼を云う。それからうちに招き入れて、ご飯の支度で狭いキッチンを動き回っていると、後ろからぽすんと包まれる。葛西君の腕の緩やかな拘束を苦笑しながら外して『ご飯があっためられないでしょ』と注意しても、『まずはくららさんを』とひとしきりハグして、ハグしながらキスも沢山落として、気が済んでからようやくご飯タイムになる。
好き嫌いがなくて、遅い時間に唐揚げやてんぷらを食べても太らない体質なのは、少し憎らしい。使ったお皿は自分で洗ってくれる。食休みをしたら、と云っても聞きやしないで、お皿洗いが終わるとすぐに『シャワー借りるね』と毎回きちんと断ってからさっと使って、上がってくるともう纏う雰囲気がどこか違う葛西君。一人掛けのソファに座っている私を閉じ込めるように、肘掛けに両手を置いて――
不埒な回想は、突然の着信音に破られた。あたふたと慌てて表示を見ると、そこにある名前はついさっきまでの回想に登場していた彼氏。偶然でもなんだか嬉しいな、と思いながら「葛西君?」と柔らかい声で出ると。
『――あのっ、』と聞こえてきたソプラノは、残念ながら掛けてきたスマホの持ち主ではなかった。回想の続きでふわふわと甘い空気に浸っていた頭が、急遽戦闘モードに切り替わる。直接攻撃されるのは今回が初めてだけど、うまく迎撃できるかちょっと不安。
――大丈夫だよ。
私を小型犬か何かと勘違いしているように、いつもかわいいかわいいと云ってくれるその人の声を胸に携えて、「それ、葛西君のスマホだと思うんですけど、もしかして彼、体調悪くなっちゃいました?」と、絶対違うだろうなと思いながら口にしたら、『いいえ』とやはり否定された。
「じゃあ、あなたは人のスマホを勝手に弄ってまで、私に何か云いたい事があるっていう事かな?」
事実だけを淡々と述べただけだけど、相手がぐっと怯んだのが分かった。
『――彼、今私と居るんです。一緒に、ホテルで……それで彼、寝ちゃって』
「ふうん」
『ふうんって、平気なんですか?!』
「平気な訳ないでしょ、ほんとだったら二人まとめて殴りたいほど怒ってるよ」
ほんとじゃないって信じてるから余裕ぶって云えるんだけどね。
耳を研ぎ澄ませる。何かヒントになる音は拾えないかと思うけど、彼女の息遣いの他には何も聞こえなかった。
私の沈黙を好機ととらえたのか、彼女はさっきより強い口調で云い募る。
『彼、云ってたんです。あなたと別れたいって、私のことが好きだって、それで、』
「あのね」
まだまだ続きそうな名演技をぶった切る。嘘だと思っても、別れたいとか聞きたくないな。
「葛西君そこで今寝てるって云った?」
『え? ええ……』
それが何かと言いたげな彼女に、「へえ、かわいそう」ってとびきり意地悪な声を出した。
「私、この時間に寝られた事ないけどなあ。あなたには随分淡泊なんだ」
そう告げると、向こう側で息を飲む音が聞こえた。でも嘘設定に乗っかっていじめるのは、これでおしまい。
「葛西君のスマホが持ち出せるって事は、あなたは彼の同期なんだね。今日、同期会だもんね」
『……』
ええそうですなんて云う訳ないかと苦笑しながら、こちらからも攻撃させてもらう。
「今なら、黙っててあげる。あなたが、彼を付き合ってすぐに心変わりする男だって侮辱するような事を云ったのも、人のスマホを勝手に持ち出した事も。だから、こんな卑怯な真似はもうしないでね。葛西君が欲しいなら正々堂々と彼に云って。それでもし彼が心変わりしたなら、私はそれを受け入れるから」
それだけ告げて返事を待った。
電話の向こうから『ごめんなさい』や『は? 意味わかんないんだけど!』は結局飛んでこなかった。沈黙が続いて、やがて切れた。
まったく、徹頭徹尾迷惑だ! ただでさえ波立ちやすい私の心を乱して。葛西君を悪い男に仕立て上げて。苛々したまま、何も悪くない携帯をベッドに放り投げた。
迎撃は恐らくうまくいった。なのにこれっぽっちもすっきりなんてしなかった。
いくらラブラブの両思いでも、あんな電話のやり取りのあとでは不安になってしまう。切ったタンカは本心で、でも云わなきゃよかったとすでに後悔しているところ。だって未来の事なんて誰も分からない。彼女や『あのお客様』や後任の子や別の誰かに絶対に取られない保証なんて、どこにもありやしないんだ。
ねえ、今すぐここに来て、私の事抱き締めてよ。いくつもいくつも生まれてくる心の波頭が穏やかに凪ぐまで、ずっと。
今すぐなんて無理だって分かってて、そう思う。葛西君に恋をしてからの私は、ひどく滑稽だ。
ありもしない絶対に縋りたくなる。その笑顔を思い出すだけで、泣きたくなったり勇気をもらったりする。
付き合ってからは、ちっとも傾かなくなったピアス。訳を聞いたら、『あんなん、くららさんに触ってもらう口実だよ。今はもう口実なくても触れるし触ってもらえるから、キャッチもちゃんとしたのに替えた』とあっさり種明かしされて、顔を赤くしつつ呆れたっけ。
そんなに私の事が好き? どれくらい好き?
バカげた質問をしたくなる。口に出して聞けやしないけど。
突然、ベッドのシーツの上で、投げ出したままの携帯がむむむとくぐもった音を立てて震え、サイレントモードで電話の着信を伝えてきた。
手に取ると、さっきと同じ大好きな人の名前の表示。懲りない彼女がまた掛けてきたんだとしたらちょっといやだな、と思いながら「もしもし?」と出ると、『あ、くららさん!』と、聞きたくてたまらなかった声をようやく聞く事が出来た。
『ごめんね、なんか飲んでる途中でスマホ行方不明になっちゃって、あ、今は見つかったんだけど』
「うん」
『スマホが見えなくなったタイミングで女子が一人席を外しててさ、彼女が戻って来てからしばらくしてスマホも見つかって。疑っちゃいけないんだけど』
「うん」
『――もしかして、くららさんいやな思い、した?』
「……」
彼女には一連の出来事を葛西君には云わないと約束したけど、どうやら向こうは私の態度でかえって察しがついた様で、『そっか』とため息を漏らしたのが聞こえた。
『くららさん、いまどこ? おうち?』
「……うん」
『約束してなかったけど、俺これからお邪魔してもいい?』
その返事にうん、と漏らした声はとても小さかったけど、葛西君は『わかった。待ってて』と甘い声で私を包むように囁いてくれた。
ほとんど「うん」しか云わなかったな、と気付いたのは電話を切って大分経ってからだった。
葛西君は、私の『うん』の返事を、的確に聞き分けてくれた。
きっと今、夜の街を走ってる。電車に乗って、乗り換えでまたコンコースを走って。
そんなに走らなくていいのに。酔いが回っちゃうよ。そう思うけど、駆けつけてもらえたら、きっとすごく嬉しい。
今、多分駅に着いた。
そろそろ、あの急な坂道を上ってくる。
そんな風に想像しながら待ちきれなくて、玄関の内側で、ひんやりと冷たいドアに耳を当てる。すると、いつもより急いでいる足音がこちらに近付いて来た。
優しく押されたチャイムが鳴り終わるのを待ちきれずにドアを開けたら、葛西君は少しびっくりした顔で、それから満面の笑みを浮かべて「来ちゃった」と私を抱き締めた。
想像通り、本当に走ってきたのだろう。乱れた髪と、落ち着かない呼吸と、玉のような汗。
息を吐くたびに広がる、アルコールの匂い。でもそんなのどうでもいい。
明日も仕事なのに、この人は私のケアを最優先にしてここへ来てくれた。
柔らかい髪の毛に手を伸ばす。くすぐったそうな顔を堪能してから、こっちからも抱き締め返す。
好き過ぎて、体が黙っていられない。小さな子供とハグしてる時みたいに、ぎゅうっと抱き締めあったまま体を左右に揺らした。
熱烈にハグしているのが気恥ずかしくなりはじめた頃合いで、そろそろと腕を抜かれ、正面から向かい合った。疲れてても酔っ払ってても髪の毛がくしゃくしゃでもかわいいってずるいよなあと思いながら、知らずに緩んでしまう頬。
「くららさん」
「はい」
「……やな思いさせちゃって、ごめんね」
「大丈夫。葛西君にぎゅってしてもらったから」
強がりじゃなく心からそう云ったら、「もーこの人は……」って、頭をこてんと肩に乗せられた。
「俺浮気してないから信じて、とかが霞むほど男前発言だよね。なんかへこむ」
「だって、してないって信じてるし」
「だからー! それ以上俺よりかっこよくならないで!」
「……ほんとにかっこよければ、いちいちこんな事で揺らがないし、葛西君をもっとちゃんと守れるのにな」
情けなく呟いたら、「もう、充分守ってもらってるから。俺こそ、あなたをちゃんと守れる男になりたいよ」と、同じくらい情けない呟きが返ってきた。
「いいの。私は今のあなたが好きなんだから」
「それはこっちの台詞!」
二人して競い合って、それからぷっと吹き出す。
今日なんかあったっけ? なんて白々しく云いたいくらい、心はもう凪いでいる。スマホ乗っ取りの件についての話し合いは、今の私たちにはもう必要ない。優しい気持ちのまま、「ご飯はもういらない感じかな? 汗かいたから、お風呂入る?」となんの気なしに勧めたら。
「シャワー借りたい。そのあと、くららさんが欲しい」とまっすぐに望まれた。
その言葉通り、葛西君はいつもより慌ただしくシャワーを使うと、ガシガシ頭を拭きながらせわしなく戻ってきた。――いつもなら上がったあと身につけているTシャツとハーフパンツはナシで、ボクサーパンツだけ。
纏う雰囲気がどこか違う、どころの騒ぎじゃない。全然違う。
「――えと、かさいく、」
「聞かない」
取り成そうとした口は、無用とばかりに塞がれた。ずっと。
そして、『葛西君は明日も仕事なんだからもう寝よう』っていう私の意見は無視されて、押し切られて。甘えられて、こっちからも存分に甘えた。
月曜日、出社してすぐにメールチェックをすると、さっそく店長レポートが送信されていた。
日曜の夕方に送られてきていたそれは、――葛西がご機嫌です。こっちから聞いてないのに『今朝、くららさんちから来たんですよ』『あの人なんであんなにかわいいんだろ』とかうるせーので大塚さんの方でどうにかして黙らせて下さい。あと、ご来店された『あのお客様』にまた告白されてましたが、いつもみたいに躱すんじゃなく、『前にも俺には飼い主がいるって店長がふざけてお伝えしてましたけど、俺、その人が大事なんで他の人と付き合うとか未来永劫無理です』って笑顔で伝えてました。そしたら『あのお客様』は手にしてたシャツを陳列棚に戻して『分かりました』って退店されたから多分終わったっぽいです。以上。――と綴られていた。
未来永劫って。小学生みたい。そう思いながらも、その気持ちはすごく嬉しい。でも職場で色ボケはしないでって伝えなくちゃ。
ほんのり甘い気持ちで苦笑して、それから次のメールを開いて仕事モードに頭を切り替えた。