猛暑の一室にて
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私は、目の前にあるカップアイスを訝しげに見つめていた。カップ一杯に、こんもりと山を作り、溢れるように膨れていたというのに、見ると、既にその山肌は白濁と液状に為し、私の右手に持つ銀匙で一つ掬えば、それでもう終わりである。外はかんかん照りになっていて、一歩外に出れば、それいまだといって暑苦しい熱気達がほくほく顔で私の体に抱きついてくるのは解りきっていることである。そうなってしまっては、せっかく涼ませた私心身が一息に沸騰して、あたりかまわず苛立ちを露わにしてしまう恐れがある。周囲の事も思慮にいれず、どなり散らしてしまうのは一人の大学生として、一般人として許しがたいことだと考える。そのため、私はこの六畳一間にしきられたマンションの一室に、喧騒に己の身を託したいという欲望を抑え、立て籠もることにしたのだ。いわば、これは戦である。号と轟きながら猛然とその猛威を、奮わなくてもよいものを奮ってくるのである。安易にそれに対抗しようと、一歩城外へと足を踏み出せば、刹那、全身が奴らに貫かれてしまう。
が、この六畳一間の一城に十分に備えられていたであろう、三のつカップアイスは今では、目の前のわずかばかりのカップアイスばかりである。この一城に立て籠る前に、十分と手配されていたであろう、カップアイスが既に、こればかりというこの現実が、私を暗澹とした気持にさせるのであった。こうして、ただ眺めるばかりだと、目の前のカップアイスが余計に冷たさを失い、いつか生温かくなってしまい、わずかに残ったそれの本来の働きさえも失う。それに気づいてはいるのだが、私には、どうしてもこのわずかばかりの希望を断ち切ろうという意思が湧きおこらなかった。この最後の一掬いを頂戴したあとは、只外から滲みよる奴らに怯え続けなければならないのだ。私にはそれが大変恐ろしく、とても耐えれそうになかった。
それから、幾ばくかの間、私は途方にくれながら、徐々に息を失いつつあるわずかのカップアイスを情けなく見ていた。そうしてふと、思った。私に特別な力があれば、そう、このカップアイスを有限から無限へと昇華せしめる、神通力にも似た何かが備えられれば、私は思う存分にカップアイスに貪りつくことができるであろうと。人が聞けば、一笑に付すであろうと途方もない考えが、その時の私にはどうもそうは感じられなかった。私には、ああどうして気付かなかったのだろうと、自分に呆れさえした。
私は、躊躇なく両の手をカップアイスに近づけた。それから、カップアイスの周囲を呼吸に合わせ撫でまわした。私は目を閉じた。すぐに目を開ける。わずかに残っていたカップアイスも既に溶けていっていたが、それでも、尚私は祈り続けた。時折、わけもわからない言葉を声高高に発してみたりもした。元より、この祈りも本当にアイス神に通じているのかもわかることではなかったので、手当たり次第に祈ることにした。手をかざして駄目ならば、カップアイスを全身で覆い隠してみたりした。「フエロ、フエロ」とどこぞの外国語らしく歌ったりもした。挙句は、「フエロ」を謳いながら、いつかテレビで見た舞踏会の踊りとやらを鼻につく汗水とよだれとを垂らしながら、相手はいないが、相手がいると仮想しながらカップアイスの周りで踊ってみたりもした。そうして、何だか無性に自分を殴りつけたくなった。こんな阿呆道を究めようとしたために、私に残っていたわずかの体力も、アイスカップも雲散霧消となった。つくづく私は自分に苛立ちを感じた。阿呆阿呆。何がフエタだ。何がアイス神だ。この阿呆め。
そうやって、仰向けに倒れると、私は己に思いつく限りの罵詈雑言を吐きつけた。全身汗水漬くにし、ほそおもてでいて蝋のような顔から熱気をあげながらも、私のべろは働き続けた。と、視界の端で、何かが動いた。ひたひたと瞼を横切る汗水を細腕で拭いながら、その何かを見ようと振りかえった。振りかえってみると、既に溶けきり、泡を吹かしていたカップアイスが、海辺に佇む氷岩のごとく、元の白濁の塊となっていた。そればかりではなく、そのアイスの内から、湯水が溢れるがごとく、内から互いに押し合うようにアイスが吹きこぼれ出している。ぶくぶくと膨れ続けるアイスを見ながら、悟り、疲れ切った心身はその疲れなど微塵も感じさせないほどに、飛び上がり、私は、喉が裂けそうなほどの、歓喜に燃えた声を上げた。
「見ろ、私の祈りが通じたのだ。アイス神はいらっしゃるのだ。嗚呼、ありがたき幸せ。わたくしめのような祈りにさえ御耳を貸してくださる。何て慈悲深い御方なのだろう。こんな嬉しいことはあるまい」
私は、疲れた体に鞭打ち、喜色を孕んだ声で「フエタ」を謳いながら、カップアイスの周りで舞踏会の踊りを踊り続けた。六畳一間のむさくるしい一室で吠えたぎる私のそれは、まさに獣が吠えるようなものであった。
暫くの間、感涙に浸っていると、てんでその膨れ続けるのが止む気配にないのに気付いた。ややと近づいてみる。白濁の海を漂っていた氷山は、今では器を打ち破らんがごとく、もりもりと膨れていた。それに、それはちっとも止もうとしない。これでは、せっかくのアイスが零れてしまうではないか。私はもったいない、もったいないと呟きながら、台所から丼の器をもってきた。それを膨張し続けるカップアイスの下に敷く。ついにこぼれ出したアイスがしっかり丼の器に収まるのを見て、私はほっと安心した。やれやれと一息ついたからか、不意に放尿感が訪れた。あせと用を足しに、トイレへと行く。排尿からか、すがすがしい心持になり、丼一杯のアイスをどうしようか、何日にわけて食べようか。それとも、思い切って一日で食べてしまおうか、楽しげに思考に耽りながらトイレから出た。私のアイスはどうなってであろうかと、顔を丼へと向けるが、今度は丼からアイスがこぼれ出していた。零れ出たアイスが机を濡らすのを見て、私は「おお、まだ増えてくれるではないか」と喜び、今度は、土鍋を持ってきてそれに入れた。が、入れるものの、そのアイスの膨張は一向に気配がない。のみならず、どうも膨れるのが早くなっていっているようにも見える。アイスの膨張が加速してゆくのをみて、さすがに、これ以上増えてもらっても困ると眉をひそめるものの、増えるものは仕方がないので、食器棚から食器をいくつか持ってきて、そこにアイスを分けて入れてみた。が、その分けられたアイスが片っ端から、とめどなく膨れだす。どういったことなのだと私は驚くが、そうこうしている間に、アイスはまたこぼれ出す。こぼれるのを見ると、体は反射的に食器を運ぶ。そのとき、既に私は、どうしようもなく困り果てていた。が、困惑するものの、アイスが増え続けるものだから、あれこれ考える間もなく、私の体は食器棚と膨張するアイスの間を幾度と往復する。
外の熱気が室内へと、にじみよってきたことに加え、休むことなく動き続けた私の体は既に限界に達していた。延々と、食器を運び続ける私の様はまるで、炭鉱労働者が土を掘り続けるそれと何ら変わりなかった。目の前に机一杯に広がるアイスにかじりつければ、どんなに私は幸福を感じ得るだろうか。しかし、それは叶わぬこと。一息つく間にアイスは、瞬く間に積みあがってゆく。その時、私には眼前に広がり続けるアイスが、寂れた釣り橋の向こうに重なり続ける金銀財宝のように感じられた。青々とした空に点とある雲からはみぞれが降り注ぐように、翡翠が埋め込まれた金冠に、碧玉の勾玉、透き通った琥珀の首飾りなどがざあと降ってくる。それらに見とれているうちに、金銀財宝の元へとたどり着く只一のつり橋がぎしぎしと、如何にも崩れそうなのに気付く。この釣り橋を渡ってしまえば、私はどんなに幸せを感じ取れるかわからない。が、渡るが最後、私はもう戻ることはできないだろう。私は躊躇する。そうしている間に、つり橋はゆらゆらと揺れ始める。財宝の山はなおその高さを重ねていく。
と、それは、全く反射的なものであった。山のように積み重なった財宝がもう見れなくなる、消え失せてしまう。私の頭の中でそう一瞬過っただけであったが、体はすばやく釣り橋を渡っていった。気づけば、私は視界一杯に広がったアイスに顔を押し付けていた。ひんやりとした感触が私を包み込み、私の頬は緩む。
「なんて、気持ちいいのだろう。なんて、美味しいのだ」
私は、部屋一杯に膨れ上がったアイスに体を押されながら感嘆の声をあげた。