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第2話 (4)





瑠は、夜が明けるのとほぼ同時に、家の玄関の戸を開いた。

家の中はひっそりとしている。

芯も奈雪も、おそらく寝ているのだろう。

・・・担当の時間帯はとうに過ぎている。

「瑠、ゆっくり休んだ方がいいよ・・・」

トイロが、靴を脱ぎ捨てている瑠に向かって心配そうに言った。

「うん」

瑠はトイロのことは見ようとせず、そのまま家にあがる。

・・・まだ心の整理がつかない。少しでも衝撃が加わったら、粉々に崩れてしまいそうだ。

「・・・」

瑠は、トイロの方には振り返らずそのまま階段まで行くと、重い足取りで二階へと上がった。

トイロは、瑠の姿が見えなくなるまで、そこに立ちつくしていることしか出来なかった。

(瑠・・・どうしたんだろ)

あんなに長い時間、相手の意思の中にいるなんて何か特別な理由があったのだろうか。

しかも、瑠の表情は決してよくなく、苦しいでいるように見えた。

やはり、相手のあの記憶を消してしまったことを後悔しているのだろうか。

もしかしたら・・・自分とあんな約束なんてしなければよかった、と思っているかもしれない。

「遅かったな」

「!・・・」

突然、ゼンがトイロの前に姿を現した。

ゼンは、玄関をあがったところの壁に寄りかかりこちらを見ている。

トイロはドキリとした。

・・・絶対に“あのこと”は口にしないようにしなければ。

「うん・・・。遅くなっちゃった」

「遅いにもほどがあるぞ!もう朝になるし」

「・・・うん。でも仕方ないよ・・・。私たち、仕事するの初めてだったし・・・」

トイロはドギマギしていた。

・・・自分の言葉に違和感はないだろうか。

「そんなに難しかったか?」

「うん。・・・ちょっとだけ。多分、瑠が手こずってたみたい」

トイロはとっさに瑠のことを口にした自分に少し後悔した。・・・でも、遅くなってしまった原因は、瑠にあるのは確かだ。

「瑠が?・・・そうか。確かに瑠はまだ小さいからな・・・」

「・・・うん」

「まぁ、慣れるまでの辛抱だな」

トイロはゼンの言葉に曖昧に微笑んで頷いた。

トイロは辛かった。

・・・自分は、ずっとこの気持ちを抱いたまま、これから過ごさなくてはいけないのだ。

でも、仕方ない。それは瑠も同じ。

トイロは、このまま何事もなく、時が過ぎてくれるのを懸命に祈った。



「時間よ!瑠!」

「・・・」

瑠は奈雪の声で目を覚ました。

奈雪が、怒りの入り混じった顔で瑠のことを見下ろしてしる。

奈雪の背景に見える部屋の景色は、明るい。カーテンも全開に開かれていた。

おそらく、奈雪が開けたのだろう。

「・・・・」

瑠はゆっくりと体を起こした。

「早くしたくしなさい。入学式に遅れちゃうわよ?」

「うん・・・」

そうだ。今日は入学式だったんだ・・・。なのに、全く嬉しい気持ちにはなれない。その理由は、嫌というほど分かっている。

瑠はベッドから立ち上がった。

奈雪は、瑠の背中を押して早く行動するように促す。

「で、どうだったの?初仕事は?」

「!・・・」

奈雪の声は、明らかに瑠の答えに期待を膨らませているそれだ。

「・・・普通だよ!」

瑠は奈雪の方は見ずに、明るい声でそう言った。

「普通って・・・?それじゃ、分からないじゃない~」

「・・・」

瑠はその声を耳に入れながら、階段を勢いよく駆け降りた。

・・・今の瑠にとって、奈雪の姿を見ることさえ辛いことだった。



瑠と芯と奈雪は、小学校へ向かうため、芯の車へ乗り込んだ。

芯が運転、奈雪が助手席、瑠が後部座席だ。

そして車は走りだす。

「・・・」

ふと、サイドミラーに映った自分の姿が目に入った。

そこには、黒髪と黒色の瞳を持った自分が映っている。

瑠はすぐさま、そこから目を離した。

それは偽りの姿・・・偽りの姿しか、他人に見せてはいけないはずだった。

偽りを隠すことは、以外に難しく、辛いことだと瑠は改めて実感していた。

「お父さん、やっぱりこの色じゃなくて、グレーのほが良かったかしら?」

「・・・今更戻るわけにはいかないだろう。出かける前に、さんざん迷ってたじゃないか。・・・今日は、その色でいけ!」

どうやら奈雪は、まだ服装のことで迷っているらしい。

今日の奈雪は、化粧も髪型もいつもにもましてきまっている。

(当たり前か・・・。今日、入学式だしね)

入学式の主役は、自分たちのはずなのだが、自分以上に気合いが入っているのは母親のようだ。

・・・それは、卒園式でも同じようだった気がする。

「瑠ー、お母さんの格好、ちょっとおばさんぽくない?」

奈雪が、肩越しに振り返って瑠にそう問いかけた。

「・・・大丈夫だよ!」

瑠はなるべく笑顔でそう言った。

「・・・そう?」

「うん!」

奈雪は安心したように微笑むと、前に向き直る。

「・・・」

そして瑠は、気を紛らわすため、外の景色に目を移した。

桜の花びらが舞い散る中、歩きで入学式に向かう親子の姿がところどころに見られる。

その姿は皆、幸せそうだ。

「っ・・・」

瑠は泣きたくなった。

何で自分は、こうも辛い思いをしなくてはいけないのだろう。

前までは、仕事をすることが楽しみで仕方なかったのに。

今、自分の心を支配するのは、不安と恐怖。それ以外、何もない。

凪がいない入学式なんて行きたくない、瑠はそう思った。



瑠は、他の新入生と一緒に体育館に入場した後、指定された自分の席へと着席した。

新入生の人数は、そう多くない。そのせいで、体育館がより広く感じられる。

やはり、凪の姿はなかった。

・・・当たり前だ。

凪の座るはずの席だけが、ぽっかりと空いており、その光景が目に入るたび心がズキズキと痛んだ。

「瑠君ー。凪君ってお休みなの?」

隣に座っていた同じ幼稚園の子が、話しかけてきた。

「・・・そうみたい」

「何で?」

「・・・」

瑠は口を閉ざした。

これ以上は何も言いたくない。嘘をつくのはもうんざりだ。

「これから、○○年度、桜ヶ丘小学校の入学式を開催いたします」

司会者の人が、マイク越しにそう言った。

そして、入学式は始まった・・・。



「瑠、こっちにおいで」

「!」

声の方を見てみると、そこには奈雪のパートナーのスイマ・・・ミゾレの姿があった。

瑠は眉を寄せた。

瑠はミゾレとほとんど話したことがない。

当たり前だ。だってミゾレは、ほとんど自分たちの前には姿を現さないのだ。

ミゾレは、ゼンと同じぐらいの容姿を持った女性だ。そしてミゾレは、その容姿には似合わない大人びた表情を常に持ち合せている。

「・・・駄目だよ。今、入学式の途中だし・・・」

瑠は呟くような声で言った。

周りから見ては、一人で話しているように見えることを瑠は知っている。

普通のときでも、そのような状況を怪しまれるのに、こんな入学式のときに話しかけるなんてもってのほかだ。

話している人と言えば、ステージの上に上がってマイクを握っているおじさんぐらいだ。

ミゾレは瑠の言葉を気にする様子なく、瑠に一歩近づくと瑠の手をとった。

「!」

「いいの?秘密がばれちゃっても。私が、秘密の上手な隠し方、教えてあげるのに」

「・・・・え!?」

瑠の心臓が一気に高鳴った。

「ふふ。私、瑠とトイロの秘密、知っちゃったんだ。

あの日の夜の二人の会話、私、聞いてたんだよ。でも、瑠とトイロは私がいたことに気づかなかったみたいね」

「!!」

「でも、安心して?奈雪さんたちにはまだ言ってないから」

「・・・」

ミゾレは、瑠の表情とは対照的に、それをふんわりと和らげる。

「私は、瑠とトイロの味方よ。決して誰にも言ったりしないから」

瑠は、ミゾレの言葉を聞くとゆっくりと椅子から立ち上がった。そして、それと同時に呟いた。

「外で話そう・・・」

ミゾレが、瑠の言葉に微笑んだのが見えた。

そして、瑠はそのまま早足で体育館の出口へと向かう。

保護者席の横を通り過ぎるとき、芯と奈雪の姿が目に入った。二人とも、出口へ向かう瑠の姿を目にして何事かとこちらを見ている。

「・・・・」

瑠は二人には気づかないふりをして、そのまま体育館の出口へと向かった。



瑠が体育館を出たのと同時に、ミゾレが隣に姿を現した。

しかし瑠は、ミゾレの姿には見抜きもせず、その歩みを止めようとしない。

「ミゾレお姉ちゃん・・・。この建物からでよう?そっちのほうが安全だし」

瑠は黙々と歩きながら、隣を歩いているミゾレにそう言った。

「そうね」

ミゾレは、そのポニーテールに結わえた髪を踊らせて、こちらに振り向くと微笑みながらそう言う。

瑠とミゾレは、短い廊下を抜けると、げた箱の横を通り過ぎて外へと出た。

人気はない。

学校にいるほとんどの人が入学式に参加しているようだった。

(・・・どこに行けばいいんだろ)

瑠は戸惑いながらも、渡り廊下を通って校舎の入口の重い扉とゆっくりと開けた。

ミゾレは、扉を当たり前のようにすり抜けて、瑠の後に続く。

瑠は教室がある廊下にでると、辺りをきょろきょろと見渡した。

(あそこがいいかも・・・)

瑠の目は、廊下の端にある教室に留まった。

そこの教室のドアの上についているプレートには、なんの文字も書かれていない。

普通なら、1年1組とか1年2組とかって書かれているはずなのに。

・・・おそらく、今は誰にも使われていない教室だろう。

瑠はその教室の前まで、早足で近寄った。そして、ドアの前で歩みを止めると、それをゆっくりと開く。

「・・・・」

教室の中には何もなく、ガランとしていた。ただ、端っこのほうに、使われていない机や椅子が並べて置かれているだけだ。

カーテンのついていない窓からは、太陽の陽ざしがさんさんと降り注ぎ、何もない教室の床を明るい色で染め上げている。

「いいんじゃない。ここ。誰も入って来なさそうだしね」

いつの間にか教室の中にいたミゾレがそう言って、瑠に笑いかける。

「・・・・」

瑠は、沈黙を守って教室に入ると、しっかりと入ってきたドアを閉めた。そして、ミゾレの前に歩み寄ると、彼女と少しの距離を置いて立ち止まった。

「ミゾレお姉ちゃん・・・。ミゾレお姉ちゃんは、僕たちの味方なんだよね?・・・誰にも“あのこと”言ったりしないよね?」

「もちろん」

ミゾレは、雲りのない漆黒の瞳で瑠のことを見据えた。

「・・・瑠。私に、偽りの姿なんて見せないで?私の前では、“本当の姿”でいて」

瑠はミゾレの言葉にドキリとした。

「・・・嫌だよ。

僕、学校ではこの姿でいる。万が一のことも・・・あるし」

もう二度と、同じ過ちを繰り返したくない、瑠はそう思った。

「私は“本当のあなた”に話したいの」

ミゾレはそう言うと、瑠の腕を掴んで自分の方に引き寄せた。

そして、その掌を瑠の両眼にそっと押しあてた。

「!」

瑠は瞳に違和感をもった。

恐らく、瞳の色がもとの色に戻ったのだろう。

「やめてよ!」

瑠はミゾレの手を払いのける。

それとほぼ同時に、頭にかぶっていた黒髪のカツラもミゾレの手によって外された。

「!!」

瑠がミゾレの方を見ると、彼女の手の上でその黒髪のカツラは灰になっていた。

「瑠にはその姿が一番よ」

ミゾレは愛おしそうにそう言うと、瑠の銀の髪にそっと触れる。

瑠は目の前の光景が信じられなかった。

ミゾレがこんなことをする人なんて、思いもしなかったからだ。

「何でっ・・・!?」

「誤解しないで。瑠」

ミゾレは、驚くほど落ち着いた表情でそう言った。

ミゾレは、手の上にある灰を床に落とす。それらは床に落ちる前に、幻のように消えてしまった。

「・・・嘘を隠すには・・・嘘がいいと思わない?」

ミゾレは微笑む。

一方、瑠は必死だった。

「意味・・・分からないよ!」

「分かるはずないじゃない。・・・だから私が教えてあげる」

今の瑠には、怒りの感情しか湧き上がってこなかった。教えることは当たり前だ。

もし、それがいい方法じゃなかったら僕は・・・。

「“本当の姿の自分を、偽りの姿”だと言えばいいのよ。・・・ね?そうしたら、本当のことは2つの偽りに隠れて見えなくなる」

「!・・・」

「だから、黒髪のカツラもいらなくなるってわけ」

瑠はその場で固まった。

(・・・そんなことできるわけない)

「瑠。・・・今日は帰ろう?」

「!」

振り返ると、そこにはトイロの姿があった。

「・・・トイロ」

「突然、そんなこと言われてもできるわけないよ・・・」

トイロは呟くようにそう言った。

トイロの歪んだ瞳は、瑠ばかりをみつめており、ミゾレのことは見ようとしていない。

「私は瑠のことを思ってやったの。トイロには口出ししてほしくないな」

トイロは、ミゾレの言葉に俯いた。

どうやら、トイロとミゾレは初対面ではないらしい。

「・・・ごめんね。でも・・・」

「トイロ、帰ろう」

瑠が強めの口調でそう言うと、トイロの表情が一気に柔らかくなる。

瑠はそのままミゾレの顔は見ずに、出口へ向かった。

瑠はミゾレの考えが、まったく理解できなかった。

ミゾレは本気でそう言ったのだろうか。それとも・・・。

「・・・」

どちらにしても、瑠の心に、また大きなもやもやが増えたことは確かだった。



瑠は、家に向かう車の中にいた。

トイロが上手く理由をつけて誤魔化して、芯のことを呼んできてくれたのだ(ちなみに奈雪は、式の後に保護者の集まりがあるらしいので学校に残っている)。

「瑠、具合はもう大丈夫か?」

「・・・うん」

どうやら、入学式の途中に具合が悪くなった、ということになっているらしい。

「その上、トイレに間違ってカツラを流すなんて災難だったな。・・・この機会に、髪の色も変える練習、してみたらどうだ?」

「うーん・・・」

瑠は芯の発言に内心焦っていた。

トイロの説明の仕方が上手かったのか、どうやら芯はその理由で納得したらしい。

「これから毎日、学校に通うんだし、早いうちに変えられるようにしていた方がいいぞ」

「そうだね・・・」

確かにその通りだ。

そっちの方が、体育のときも安全だし。

「・・・」

いつの間にか芯の運転する車は、自宅の前の通りまで来ていた。

・・・もうすぐで“安全な”家へと帰れる。



瑠は、自室に入るとそのままベッドに倒れ込んだ。

(もう・・・いやだよ)

瑠は目を固く閉じた。そして、ギュッと唇を噛みしめる。

いつ、あの秘密はばれてしまうのだろう。

もしかしたら、ミゾレが自分の思いどうりにならなかったことに怒って、秘密をばらしてしまうかもしれない。

瑠は秘密を隠し通す自信はあった。それにトイロも、自分から秘密をばらすことは絶対にしない。

問題はミゾレだ。

「・・・」

瑠はミゾレが、自分を裏切らないことをただ心の底から祈るしかできなかった。




「!・・・」

瑠は目を覚ました。

いつの間にか眠ってしまったようだ。

既に、部屋の中は薄暗い。

瑠は慌てて飛び起きると、枕もとに置いてある目覚まし時計に目をやった。

午後7:43

(速くしないと・・・)

仕事の時間になってしまう。

瑠はタンスの奥にしまってある適当な洋服とズボンを引っ張りだして、それに着替えた(入学式の服装のまま眠ってしまったのだ)。

そして、慌てて部屋から飛び出すと、階段をドタバタと駆け降りた。

「瑠!はやくしなさい」

階段の下で待ち受けていた奈雪がそう怒鳴る。

「うん」

 瑠は流すようにそう言うと、そのまま玄関へ向かった。

 そして、いつもの運動靴を履いていると、奈雪が手にジャンバーを持ってやってきた。

「今日は、冷え込んでるみたいだからこれ着て行きなさい」

「・・・うん」

 瑠は、奈雪からジャンバーを受け取った。そして、黙ってそれに腕を通す。

「いってらっしゃい。気をつけるのよ。夜道は危ないんだから」

 奈雪のほうを見ると、彼女は柔らかい表情で瑠のことを見ていた。

「うん・・・いってきます」

瑠は呟くようにそう言うと、奈雪に背を向け明るい玄関を後にした。



「瑠、今日は・・・誰の家に行くの・・・?」

大通りを曲がって裏の小道に入ったところで姿を現したトイロが、瑠にそう問いかけた。

「・・・・」

「また凪君の家、行く・・・?」

瑠はトイロの言葉に、彼女から視線を外す。

本当は「うん」と言いたい。

けど・・・言えるはずがない。

だって、凪の記憶はすべて自分が消してしまったのだから。

トイロは、そのことを知らないからそんなことが言えるんだ。

トイロは瑠の無言の答えに、戸惑いの表情を浮かべた。そして、少しの沈黙の後、口を開いた。

「どうする・・・?凪君の家で大丈夫?」

「凪君の家なんて行けるわけないよ!!」

瑠は、気づいたらそう叫んでいた。

トイロはそれと同時に、大きく目を見開く。そしてその表情は、みるみるうちに苦しみの表情へと歪んだ。

「ごめんねっ・・。確かにそうだよね。もう、あんな失敗したくないもんね」

 トイロの声は、最後のほうにはほとんど呟くようになっていた。

「・・・」

 瑠は自分が嫌になった。

間違いなく、さっきの言葉はトイロのことを傷つけてしまったんだ。

「トイロ・・・ごめ・・」

瑠は、次に続けるはずの言葉を言うことができなかった。

言いたくても・・・言えない。

だって、次から次へと涙が溢れてくる。

それに、胸が苦しくて苦しくて、張り裂けてしまいそうだ。

「瑠!どうしたのっ・・!?」

トイロが、驚きと不安が入り混じった表情でこちらを見ているのが分かる。

瑠は、トイロのことは見ようとせず、ただ次から次へと流れてくる涙で自分の頬を濡らしていた。

「トイロ・・・僕っ・・・もう嫌だよっ・・・」

瑠は整わない呼吸の中で、その言葉を口にすることで精一杯だった。

トイロはただ、不安げな表情でこちらを見据えている。そしてトイロは、呟くように言った。

「私も・・・嫌だよ・・・」

「僕はもっと嫌なんだよ!!」

 瑠の叫び声に、トイロの表情が大きく動く。

 ・・・・また言ってしまった。

 瑠の口をついででる言葉は、自分自身にもとめられなかった。

 すべてを話して楽になりたい。この心にたまり続けている重い鉛を、全て吐き出してしまえたらどんなに楽だろう。

「・・・トイロ・・・僕・・・凪君の記憶、全部消しちゃったんだ・・・。あの記憶はとても大きくて、その大きな記憶を消しちゃったら・・・他の記憶も全部、消えちゃったんだ・・」

 不思議とその言葉は、なんの抵抗もなく、瑠の口から出てきた。

 トイロにも話さない。自分だけの秘密にしていようって思っていたはずなのに。

 トイロは一瞬、驚いたように目を見開いた。

「そうか・・・」

 その言葉を口にしたトイロの表情は、以外にも落ち着いており穏やかだった。

「僕っ・・・もう嫌だ。ずっと隠すことなんて嫌だっ。・・・もうやだよ・・・」

 瑠は、その場に蹲った。

 涙が止まらない。視界が潤んで何も見えない。

「瑠・・・泣かないで・・・」

 トイロは戸惑い気味にそう言うと、瑠の隣にゆっくりとしゃがみ込んだ。そして、その掌で、瑠の背中にそっと触れる。

 それでも瑠は、嗚咽を漏らしてその涙を止めようとはしない。

 トイロはそんな瑠の姿を見て、胸が苦しくなった。

 瑠は自分以上に苦しんでいる。まだこんなにも小さいのに。

 それなのに自分は、瑠を安心させてあげる言葉さえも言えやしない。言おうとしてもその言葉は、口に出す寸前で止まってしまう。

「っ・・・」

 トイロは眼がしらが熱くなるのを感じながら、立ち上がった。

 泣いてはいけない。

 トイロは手に白い鎌をしっかりと握りしめていた。そして、その鎌で瑠の背中を大きく切り裂く。

 瑠の嗚咽は、だんだんと小さくなり、そして消えた。

 キラキラした粒がトイロの体へと消えていく。

「・・・!」

 トイロは、瑠の体が地面に倒れるまえに、彼のことを両腕で抱きかかえた。

 瑠は穏やかとは言えない表情を浮かべ、小さな寝息を立てている。

 トイロは、一時的にでも瑠に辛い思いを忘れてほしいと思った。今の瑠を救う方法と言えば、こうするしかない。もう“掟”のことはほとんど頭の隅のほうにあった。

 瑠がたくさん苦しんでいるのだから、自分の苦しみが少し増えたぐらい我慢できる、そう思った。

「・・・・」

 トイロは瑠の顔を静かに見下ろした。そして、彼の顔を濡らしている涙をそっと手で拭う。

 そして・・・・トイロは、“ある事”を決心することができた。




 瑠はゆっくりと目を開いた。

 目に映ったのは、見慣れた公園。ただ、いつもと違うことは、夜だということと、雨が降っているということだ。

 瑠は、そんな公園の休憩場所のベンチに深く腰掛けて眠っていたようだ。

「瑠、大丈夫?」

「!・・・」

 横に振り向くと、そこには不安げな表情でこちらを見ているトイロの姿があった。

 トイロの顔を見た途端、全てのことが瑠の頭の中に舞い戻ってきた。

「・・・トイロが僕のこと・・・眠らせたの?」

「うん・・・でね・・・雨、降ってきたから雨宿りできるところに来たの」

 トイロは悲しそうに微笑んでいる。

 瑠はトイロから目線を外し、俯いた。

 心の鉛は・・・まだとれそうにない。

「・・・ぜんぶ、話しちゃわない?」

「!」

 瑠はトイロの言葉に、バッと顔を上げた。

「・・・何を?」

 トイロは少しの沈黙の後、瑠のことをしっかりと見据え言った。

「私たちの秘密にしていること・・・」

「!!」

 瑠はトイロの口から発せられた言葉が信じられなく、大きく目を見開く。

 トイロはそんな瑠とは対照的に、その穏やかな表情を崩そうとはしない。

「・・・そうしたら、この苦しみから解放されるよ・・・?」

「!・・・」

「私も・・・こんな辛いの・・・もう嫌なの」

瑠の心の中で、何かがパチンと弾けた気がした。

そうか・・・。トイロも“辛い”んだ。トイロも・・・“嫌”なんだ。

分かっていたつもりだったのに・・・トイロの静かなその声は、初めて知ったことのようにじんわりと瑠の心にしみ込んできた。

トイロは続けて口を開く。

「私・・・瑠の苦しむ姿、もう見たくない。だから・・・お願い。一緒に“苦しみ”から逃げよう」

「・・・・」

(逃げても・・・いいの?トイロも一緒に逃げてくれるの・・・?)

「大丈夫。瑠には私がついてるし、私には・・・瑠がついてくれてるから」

 トイロは弱弱しく微笑んだ後、その瞳を伏せる。

「うん・・・」

 瑠は頷いた。

 ・・・頷くことができた。

 きっと大丈夫だ。だって隣にはトイロがいてくれるんだ。こんなにも自分のことを大切に思ってくれているトイロが・・・。

 とても弱くて不器用な答えかもしれないけど、これがトイロの出した答え。自分のことを思ってだしてくれた答えだ。

 ・・・・そして、瑠自身のだした答えなんだ。



 瑠とトイロは、小雨の降る中、自宅へと向かった。

 今日は、いつもより肌寒い気がする。瑠が家を出る前、奈雪がジャンパーを持ってきてくれたことに改めて感謝した。

 ところどころにひっそりと建つ街灯の明かりが、小雨を鮮明に映し出している。

 どうやら、小雨であっても降り方は強いようだ。

 瑠は傘の代わりに、ジャンパーのフードを頭にすっぽりと被った。

「・・・トイロ・・・濡れちゃわない?」

「あっ・・・私は大丈夫」

「・・・」

 それっきり、二人の会話は途絶えた。

 ただ、夜の街に二人の足音だけが静かに響いている。

 瑠はふと、自分の足元に目線を落とした。

 そこには、街灯に映し出された自分の真黒い影がコンクリートに映っているのが見える。しかし、トイロの足元には影がなかった。

 ・・・そうか。トイロは“ここのせかい”の人じゃないから、雨が降っても肌寒くても関係ないんだ。

 ・・・・そう思っているうちに、自宅の前についたようだ。

「・・・・」

 心臓の鼓動が瞬く間に早くなる。

 瑠はギュッと拳を握った。

(ちゃんと言わなくちゃ・・・)

 するとトイロが瑠の傍らに立ち、呟いた。

「瑠・・・行こう」

「・・・うん」

と、その時、ミゾレが二人の前に姿を現した。

「こんばんは。瑠、トイロ」

 ミゾレはにっこりと笑う。

「・・・・」

 瑠は一気に気が抜けた。が、まだ早鐘のような心臓の音は完全にはおさまらない。

「ミゾレ、どうしたの?」

 トイロは控えめな声で言った。

「私、重要なことに気付いたから・・・二人にお知らせしようと思って」

「!・・・」

 瑠はドキリとした。

 重大なことって・・・・一体なんだろう。

 今まで自分たちが気付かなかったこと?

 それとも、ミゾレしか知らないこと?

 しかし・・・どちらにしてもあまりいいお知らせとは思えない。

「お知らせって・・・何?」

 瑠はしっかりとミゾレの瞳を見据えた。

 ミゾレも、瑠の不安が入り混じっているであろう瞳を見据える。

「ふふ。人間の使う道具は凄いなって思って。・・・・例えば“テレビ”とか」

「!」

「だって、テレビにはいつも新しい情報がながれているみたいだし。・・・ほんと驚いた。だって瑠の友だちの子が、両親の顔も名前も覚えていないんだって。そのことも、奈雪さんと芯さんが見ているテレビでながれてた。ほんと・・・驚いた!」

「!!・・・」

 一瞬の沈黙。

 ミゾレは言葉を続ける。

「それ、今日の朝の出来事よ。たしか・・・その前の夜、瑠たちってその子のところに仕事に行ったんだよね?」

「・・・・・・」

「おかしな事件よね。・・・・まるで寝ている間に、全部の記憶が無くなっちゃったみたいに」

 瑠はミゾレの言葉が言い終わらないうちに、玄関へ向かって走り出していた。

 ドアノブに手をかける。

 ・・・何度ドアノブを回しても、それは開かない。それに、いつもならドアの下から漏れている中の光が今日は見えない。

「これ、郵便受けに入ってた手紙よ」

 隣りに姿を現したミゾレが、瑠の手を取りその手に手紙を握らせた。

「!!・・・」

 ミゾレは微笑む。そして呟くように言った。

「さようなら。瑠」

ミゾレは姿をかき消した。

瑠は震えていた。

・・・・寒さのせいではない。“恐怖”で。

そして瑠は、震えの止まらない指先で手紙の封をきると、中の手紙を取り出しそれを広げた。

そこには、自分にでも読めるような全てが平仮名で書かれた文が書いてあった。

 りゅう。おまえはムマしっかくだ。

 きまりごとをまもることのできないおまえは、このいえにかえってくるな。


 とても短い文章だ。

 しかし、それらの文字は、今、瑠が陥っている状況を的確に表していた。

「っ・・・・」

 震えは止まった。しかし、その瞬間、瑠の心は暗闇に染まった。

 瑠はその手紙をゆっくりと折りたたんで、ドアの前の床に落とす。そして隣に立っているトイロには目もくれず、方向転換するとその場から駈け出した。

・・・自分の考えが甘かったんだ。人一人の一生・・・それも、凪の一生をめちゃくちゃにしておいて、ただで済むはずがない。

「瑠!!どこ行くの!?」

 トイロの叫び声が背後から聞こえた。

 瑠はトイロの声なんて気にしなかった。

「!!」

 と、歩道に出たところで、誰かに手首を掴まれた。

 弾かれたように振り返ると、そこにはトイロの顔がある。

「っ・・・!!離せっ!」

 瑠はトイロの手を乱暴に振りほどいた。

「瑠・・・・」

 トイロの黒い瞳には、今にも溢れだしそうなほどの涙が溜まっていた。

 ・・・・雨が強くなったようだ。

 被ったはずのジャンパーのフードもいつの間にか外れており、冷たい雨が、瑠の頭や頬へ激しく当たる。

 そのせいで、瑠の銀の髪も銀の瞳にも雲がかかったように暗い色に見えた。

「トイロはいいよね!!スイマだからっ!“こっちのせかい”のことなんて気にする必要ないし!!」

「りゅ・・・」

「僕、スイマになりたかった!ムマなんてもう嫌だ。何で僕だけっ・・・なの!?何で・・・っ」

 トイロの歪んだ表情が瑠の瞳に映った。

 今のトイロは、口を開こうとせず、その瞳で瑠のことを見据えている。

 と、その時トイロが何かを呟いた。

 しかしその言葉は、激しく降る雨のせいで聞き取ることができない。

 瑠は構わず叫び続ける。

「皆、ずるいよ!!いつも僕だけ不幸だっ・・・。僕っ・・・しにた・・」

「それじゃ、スイマになる?」

「!」

 瑠はトイロの落ち着き払った声に、大きく目を見開いた。

 そして、次の瞬間、トイロが瑠の目の前から姿をかき消した。

「!!」

 背後から人の気配がした。

 そして、それとほぼ同時に瑠の首元に何かを突きつけられる。

 ・・・それは間違いなく、スイマの鎌だった。

「私・・・ムマが死んだら、スイマになるって話を聞いたことがあるの」

 トイロの呟くような声が、背後から聞こえる。

 トイロはより一層、鎌の刃先を瑠の首筋に近づけた。

「・・・私が望めば、この鎌は“人を傷つける”こともできるんだよ・・・?」

 瑠は身動きがとれなかった。

 だって、少しでも動いたらこの刃が瑠の喉を切り裂いてしまうかもしれない。

「っ・・・嫌だよっ。・・・僕やっぱり、スイマになんてなりたくないっ・・・。死にたくないよっ・・・!!」

 瑠は泣いていた。

 トイロまで僕のことを裏切るの・・・?

 これじゃ僕は一人ぼっちだ。

 と、首もとの鎌が音もなく消えた。

「・・・ひっく・・・・・ひっぐ・・・・」

 雨の音に混じり、誰かの鳴き声が聞こえてくる。

 瑠は、涙と雨で頬を濡らしたまま、後ろに振り返った。

「ごめんねっ・・・嘘なの。私の鎌で、人を傷つけることなんてできない・・・。私っ・・・瑠のこと、傷つけないよ・・・!」

 トイロは次々と流れてくる涙を手で拭いながら、必死にそう言った。

「・・・・・・」

 瑠は地面に倒れた。

 もう、何もかもが限界だった・・・・。



 トイロは倒れた瑠の傍らにしゃがみ込み、膝を抱えて蹲る。

 ・・・瑠に死にたいなんて言ってほしくなかった。

 瑠は、生きる喜びも死の哀しみもまだ理解していない小さな小さな子だ。

 そう思うと、自然と体が動き口を継いで出た言葉は、瑠を傷つけるものでしかなかったのだ。

 ・・・・たとえそれが嘘でも、自分は瑠を傷つけてしまった。

 自分は本当に、瑠のパートナーになって正しかったのだろうか。そう考えずにはいられなかった。

 もし、他の誰かが瑠のパートナーになっていたら、瑠はこうも苦しまなくて済んだかもしれない。

 雨は止まない。

 冷たい雨はトイロの体を通り過ぎ、地面に激しく打ち付ける。

 冷たい雨は瑠の体に激しく打ちつけ、彼の体をより一層冷たくさせる。

 トイロは瑠のことを救ってあげたかった。

 しかし、“本当の冷たさ”を理解できない自分には、それは無理かもしれない・・・そう思った。






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