第2話(3)
瑠は目を覚ました。
「・・・・」
見慣れた天井が見える。既に、部屋の中は明るかった。
・・・・何となく、幸せな夢をみた気がした。多分、凪と普通に楽しく話している夢だ。
瑠は寝返りを打って、また目を閉じる。そして、昨日、ゼンが言っていたことを思い出した。
“芯は怒っていなかった”ということ。
瑠はその言葉を聞いて安心した。だから、寝ることができたらしい。
それに、今日の夢。
自分は、凪と普通に話していた。もしかしたら凪は、もう自分のことは気にしていないのかもしれない。瑠の髪と瞳の色を、自分の見間違いだと思ったかもしれない。だって、普通に考えて銀の瞳と髪は、ありえないことだ。
それに、次に会うのは入学式のとき。今日、すぐに会うってわけじゃなんだ。
そう思うと、気持ちが凄く楽になる。
瑠は起き上がると、布団からでた。
気持ちが軽い。昨日の夜の気持ちがまるで嘘のようだ。
これからは、この軽い気持ちのまま過ごしていけそうだ、と瑠は思った。
そして、入学式の前夜。
いよいよ今日から、ムマの仕事が始まる。
午後九時。
瑠と芯と奈雪は居間にいた。そして、そこは静寂に包まれている。
ソファに座っている奈雪は、隣に深々と腰をおろしている芯に声をかけた。
「ゼンの妹さんは、どんな人かしら?」
「・・・・」
芯はそれに答えようとせず、ただ相槌をうつ。
瑠はソファから、飛ぶように立ち上がると、奈雪の太ももに両手をついて、ニコッと笑った。
「きっといい人だよ!」
奈雪は「はいはい」と言いながら、瑠のことを自分から丁寧に引き離した。しかし、彼女の口元には幸せそうな笑みが浮かんでいる。
「またせたな」
「!」
その声とほぼ同時に、ゼンが笑みを浮かべて瑠の隣に姿を現した。
(あっ・・・)
瑠の目に即座に飛び込んできたのは、ゼンの隣に立っている、彼よりやや年上に見える少女だ。
「こいつが俺の妹で、トイロっていうんだ」
ゼンはその少女=トイロを一瞥してニッコリと笑う。
トイロも、微かに頬を赤らめて微笑んだ。
「!・・・・」
瑠は二人の姿を見て思い出した。
トイロは明らかにゼンより年上だが、ゼンの妹。
・・・だって、スイマの人はムマの人と契約した時点で、年をとらなくなるから。
そして、トイロの袖なしのワンピースからのぞく右腕には、肩から手首にかけて、ツタのような黒い印が刻み込まれている。
どうやら、この印は、スイマの人には誰でもついているらしい。
たしか、少し前、ゼンの腕にもその印があるのを見た(近頃は長袖を着ていたので、それが見えなかったのだ)。
そして、契約したムマの左腕にも、それと同じ印が刻み込まれている。
それは、スイマの契約した証拠だということを、昔、奈雪から聞いた。
「あら!可愛らしい子じゃない!」
トイロの姿を見て、始めに言葉を発したのは奈雪だった。
トイロは、丁度、肩に付くぐらいのしなやかな黒髪と、大きな黒い瞳を持った少女だ。
「あっ・・・ありがとうございます」
トイロは恥ずかしそうに微笑んでそう言うと、軽く頭を下げる。
「トイロ。よかったなー。お前、第一印象が悪かったらどうしようって、心配してたもんなー」
「・・・うん」
トイロはゼンを見て、呟くような声でそう言った。
瑠も、トイロの姿を見て安心した。
トイロは思っていた以上に、可愛らしくて優しそうな人だった。
「・・・・」
瑠は芯の反応が、どうしても気になって、彼の方に目線を移す。
「!・・・」
瑠の目に映った芯は、思った以上に穏やかな表情を浮かべていた。
どうやら、その表情からして、トイロの第一印象は悪くないらしい。
瑠は心の中で安堵のため息をついた。
もし、ここで芯がいかにも不服そうな表情を浮かべていたら、トイロと契約することを取り消しにされてしまったかもしれない。
「瑠・・・トイロに挨拶はどうした?」
「あっ・・・」
瑠は芯の言葉にはっとして、トイロの前にでると、ニッコリと笑った。
「西園寺 瑠だよ。よろしくね、トイロ!」
トイロは瑠の言葉に、少し驚きの表情を浮かべると、微笑んだ。そして、瑠の目線の高さに合わせて、その場にしゃがみ込むと、口を開いた。
「・・・こちらこそよろしくね。瑠・・・」
「トイロがいい人そうで、よかった!」
瑠は自分の本音をトイロに伝えたくて、笑顔のままそう言う。
「・・・私も、瑠みたいな子が、私のパートナーになってくれるなんて嬉しいよ」
トイロの声は、春に吹く風のように、温かくて優しいそれだった。
「瑠。トイロがパートナーでいいんだな?」
芯が、ソファに腰をおろしたまま、真剣みのある声で瑠に問いかけた。
瑠は肩越しに振り返り、芯を見ると「うん!」と頷く。
「トイロもいいよな?」
トイロもゼンの声を聞いて、立ち上がると頷いた。
「それじゃ、瑠」
芯はすくっとソファから立ち上がる。そして、大きな掌で瑠の背中を押し、瑠をトイロに一歩近づけた。
「瑠。左手でトイロの手を握るんだ」
「!」
瑠は芯の言葉にドキリとした。
・・・・きっとこれから“契約”が始まるんだ。そして、トイロが正真正銘、自分のパートナーになる。
トイロは、その白色の右手をゆっくりと瑠の目の前にさしだした。
瑠はその手をしっかりと確認してから、トイロの顔を一瞥する。
トイロの黒い瞳には、不安が入り混じっているように見える。
「・・・・」
瑠はすぐさま、トイロの右手に視線を戻した。
そんな二人の様子を、ゼン、芯、奈雪が声を漏らすことなく見ている。
瑠は自分の小さな掌を、トイロの手の中まで持ってきた。そして、トイロの手をそっと握る。
トイロも、瑠の手を腫れ物に触るかのように優しく握り返す。
「契約成立・・・」
トイロがその言葉を呟くのとほぼ同時に、瑠とトイロの手の間から淡い光が漏れた。
「!!」
すると、トイロの右肩から手首に刻み込まれている黒いツタに似た模様が、静かに波打った。
「!」
そして、その先端部分が早送りしたかのように伸び始めた。
まるで、ツタの成長を早送りして見ているようだ。
そのツタは、みるみるうちにトイロの指の先端まで伸びて行き、そしてそれは、瑠の手の上にも伸びてきた。
「!」
瑠は気味悪さを覚えて、思わず手を離そうとする。
が、離れない。
まるで、そのツタがトイロと瑠のことを繋ぎとめてるかのようだ。
その黒いツタは、あっと言う間に瑠の腕半分のところまで伸びてきた。そして、瑠の肩まで伸びると、その動きはピタリと止まった。
今、トイロの右肩から瑠の左肩が、一本の黒いツタの模様で繋がっている。
「!」
途端、そのツタがトイロと瑠の手の境目ですっとちぎれた。ちぎれた部分は、瑠の手首までに収まるようにシュルルと縮む。
トイロのほうのツタも、同じようになった。
「・・・・」
瑠は自分の腕をまじまじと見つめた。
確かにそこには、トイロと同じ、黒いツタのような模様が刻みこまれていた。
瑠はその部分に、そっと手を乗せる。
確かにそこには、自分の腕の実感がある。その模様は、瑠の肌の一部になっていた。
・・・今、自分はスイマとの契約が成立したんだ。
トイロは、手を瑠の手から離した。
瑠もはっとして、トイロの手から自分の手を離す。
「瑠!おめでとう!これで瑠も、立派なムマね。トイロちゃんと仲よくするのよ」
瑠の隣に来た奈雪は、そう言って瑠の頭に手を乗せる。奈雪は、幸せそうな笑みを浮かべながら、瑠を見下ろしていた。
「・・・うん!」
芯はその光景を見て微笑んだ。トイロの隣に立っているゼンも、瑠の目の前のトイロも微笑んだ。
・・・・ここにいるすべての者が、これから先の明るい未来を確かに信じていた・・・。
瑠は夜道をトイロと二人で歩いていた。
そう・・・これから、ムマの仕事に行くのだ。
向かうは凪の家。
やっぱり初めのころは、知っている人のほうが“意思”の中に侵入しやすいらしい。本当は、顔が分かっていれば相手の近くまで行く必要はないのだが、瑠にとってそのことはまだ不安だったので、ここまできた。
「ついたよ」
瑠はトイロにそう言うと、凪の家の前で歩みを止める。
トイロも、瑠の隣で歩みを止めた。
凪の家は、大通りに面した場所に建っている。しかし、ここからでは高めの塀に囲まれており家の中の様子は見ることができない。
「・・・・」
瑠は、家の二階を見上げた。
そこには窓がついている。・・・・凪の部屋の窓だ。まだそこには灯りが燈っている。
他のスイマに、先をこされた様子はないようだ。
「まだ、他のスイマは来てないみたい」
トイロも、凪の部屋の窓を見上げてそう呟く。
「うん。よかった」
瑠の口から、安堵のため息が漏れた。
「瑠。・・・はいっ」
トイロは片方の手を瑠に差し出して、その手を瑠に握るように促した。
「・・・?」
瑠は何事かと思いながらも、トイロの手を握った。
すると、それと同時にトイロは地面を蹴る。
「!!」
トイロは瑠の手を握ったまま、高々と飛び上がると塀の上に上手に着地した。
瑠も、トイロに促されるまま塀の上に着地する。
トイロは、地球の重力なんて関係ないようだ。
その証拠に、トイロはまた高くジャンプすると、次は一階の屋根へスタッと着地した。
瑠は慣れないことに戸惑いながらも、何とか転ばず屋根の上に着地することができた。
「これで、凪君の様子、見れるね」
トイロは手を瑠から離し、こちらに振り返るとニコッと笑う。
「・・・うん!」
瑠は笑みを返しながらそう言った。そして、目線をトイロから外すと凪の部屋の窓へ慎重に近づく。
・・・足元が不安定なので、足を滑らせないようにしなくては。
瑠はやっとの思いで窓の前まで来ると、窓の下から顔を半分だけだし、部屋の中の様子をそーっと窺う。
そこには、薄いカーテンがかかっているが、目を凝らすと何とか中の様子を見ることができた。
凪は部屋の左側にあるベッドに寝転がりかがら、DSをやっていた。
・・・多分、“クルム”というゲームだ。クルムは、人気№1のRPG。
最近、そのゲームをやることにはまっていると、凪は瑠に話してくれた。瑠も凪の話を聞いて余計にやってみたくなったが、ゲーム機自体持ってないし、それに・・・
「私・・・行ってくるから。
凪君の“気”をとったら、中から窓の鍵、開けるね。そしたら瑠も入ってきて・・・?」
瑠はトイロの言葉にはっとして、彼女のことを見る。
「あっ・・・分かったよ」
トイロは頷くと、窓の桟に両手をかけた。そして、ふわりと飛び上がると、窓をすり抜け部屋の中に着地する。
・・・もちろん、凪はその異変に気づく様子はない。
だってトイロは人間じゃない。だから、普通の人には姿も見えないし、声も聞こえない。
トイロは瑠に背を向けたまま、凪に近づいて、そしてその手の中に白色の鎌を現した。
・・・あの鎌はゼン兄ちゃんが使っているのと同じ・・・スイマの鎌だ。
トイロはその鎌で、凪の背中を何の躊躇いもなく大きく切り裂いた。
するとそこから、数えきれないほどの光の粒が溢れだす。そしてそれらは、次々とトイロの体の中に吸い込まれるように消えていく。
と、凪が動いた。
凪は、大きな欠伸をしながらベッドから体を起こして、照明からぶら下がっている紐に手を伸ばす。そして、部屋の明かりを消すとベッドに潜り込んだ。
部屋はもう、真っ暗だ。凪は・・・・眠ってしまった。
トイロはベッドで寝息をたて始めた凪のことを見届けると、安心した表情をこちらに向けた。
そして、手に鎌を持ったまま窓の方に近づくと、鍵を開け内側から窓を静かに開けた。
「・・・・ありがと」
瑠はトイロに小声でそう言った。
そして瑠は、窓の桟に両手をかけ何とか自分の体を持ち上げると、桟に片足をかける。そして、足に力をこめ一気に部屋へ飛び込み、床に足をついた(瑠はその時、自分が土足だったことに気づいた)。瑠は急いで靴を脱ぐと、それを屋根の上に置いておく。
「瑠。私はここで待ってるね」
瑠が凪の前まで歩み寄ったとき、隣に立っているトイロがそう言った。
「・・・うん」
瑠は緊張気味に頷く。
(いよいよなんだ・・・)
と、その時、部屋の扉が開いた。外の光が部屋に差し込む。
「!!」
そこに立っていたのは、凪の母親だった。
彼女は、大きく目を見開きこちらを食い入るように見ている。
「え・・・?瑠君・・・?何で凪の部屋に・・・!?」
「っ・・・・!!」
瑠は一瞬、目の前が真っ白になった気がした。
・・・・自分はバカだ。ここは“凪の家族”の家なんだ。
またこの姿を見られてしまったなんて。しかも今度は“大人”に・・・。
「!!」
と、隣にいたトイロが凪の母親の前へ飛び出した。そして、彼女は大きな鎌を凪の母親に向かって振り下ろした。
凪の母親からは、先ほどより多くの光の粒が一気に溢れだす。そして凪の母親は、その場でしゃがみ込むとそのまま床に倒れるようにして眠ってしまった。
「どうしよう!!」
トイロは、今までにないヒステリックな声でそう叫んだ。
まだ凪の母親からは、光の粒が溢れだしている。
トイロはそんな彼女に背を向けると、瑠のほうに振り返った。
「!・・・・」
瑠は驚いて声も出なかった。
トイロは泣いていた。
その顔は、決して穏やかではなく、絶望に歪んでいるように見える。
トイロは涙を流したまま、口を開いた。
「私・・・どうしようっ・・・!!
この人・・・“条件”を満たしてないのに・・・私、“気”をとっちゃったっ・・・」
「えっ・・・!?」
瑠は、今の状況が理解できず、戸惑った。
ただ、今、理解できることは“絶望的な状況”だということだけだ。
トイロは鎌を手から離し、床にうずくまる。
その鎌は、トイロの手から離れると、まるで幻のようにその姿を消した。
瑠は急いでトイロのもとへ駆け寄った。
「トイロ・・・一体どうしたのっ!?」
トイロは顔を上げようとせず、整わない呼吸の中で言った。
「・・・条件を満たしてない相手の気をとることは、スイマの中で禁止されてることなのっ・・・。絶対にやっちゃいけないことなのっ・・・!
でもっ・・・ムマの姿の瑠を・・・他の人に見られたら駄目だから・・・私っ・・・」
「・・・どうしてやっちゃいけないの!?
トイロは悪いことなんてしてないよ!気をとることなんて、トイロたちにとって当たり前のことなのにっ」
瑠も必死だった。
だってトイロは悪いことなんてしてない。なのに、こうも苦しそうに涙を流している。
「・・・あのねっ。瑠。“禁止されていること”は・・・どんなことがあっても、やっちゃいけない。
もし・・・このことが、他のスイマの人にばれたら・・・私・・・」
「・・・・」
瑠もトイロもその場で口を閉ざした。
瑠はスイマの人々が、決まりの中で生きていることを知った。自分たち(ムマ)と同じように。
そして瑠は、何とか冷静さを保ちながら口を開いた。
「大丈夫だよ!だって誰にもばれてないよ」
「・・・・」
「・・・ずっと僕たちのなかで、秘密にしておけばいいんだよ」
「・・・・」
トイロはその顔をゆっくりと上げ、瑠を見た。
・・・その顔には、安心とは程遠い表情が浮かんでいる。
もちろん、瑠も“安心”はしていなかったが。
トイロは一端、目を伏せた。
そして、再び瑠の瞳を見据えると静かに口を開いた。
「・・・・うん」
「・・・・」
瑠の心に何かが勢いよく突き刺さった。
・・・トイロは全てを諦めてしまった表情だった。
きっと・・・トイロは、自分の望む未来を諦めしまったんだ。
瑠はそう思った。
トイロは目のふちに溜まった最後の涙を手で拭うと、ゆっくりと立ち上がる。
そして、重々しく口を開いた。
「瑠・・・あのね。彼女・・・凪君のお母さん・・・何だけど、多分、彼女・・・瑠のその姿、見たと思うの・・・。
私は・・・眠らせることはできたけど、彼女はそれを忘れたわけじゃない・・・。
瑠・・・それでも大丈夫・・・?」
「!!」
瑠は言葉を失った。
そうだ。自分は凪の母親にこの姿を見られてしまった。ほんの一瞬かもしれないけど。
それに、凪にもこの姿を見られている。おそらく、凪母親にそのことを話しただろう。
普通は信じがたいことだが、自分が実際にそれを見ると信じざるをおえなくなる。
つまり、凪の母親が凪の話を完全に信じることになってしまう、ということだ。そして凪も、自分が見た光景を真実と確信する。
瑠は自分の心臓の音が今までになく、大きく聞こえるように感じた。
・・・・このままではいけない。・・・きっと噂はすぐに広まってしまうだろう。
「っ・・・・・」
(どうしよう・・・・)
一度の失敗は許される事はあっても、きっと二度目はないだろう。・・・どちらとも自分の油断が原因なのだ。
「――――・・・・」
俯いている瑠を、トイロが心配そうに見ているのが分かる。
「・・・もう・・・―――いいや・・・」
瑠の自然と口にした言葉はそれだった。
瑠は、もうすべてがどうでもよくなった。どうせ、“許されない事”をしてしまったんだから、きっともう一つぐらい“許されない事”をしても大して変わらないだろう。
それにこの方法なら、“取り消し”に出来るかもしれない。
そして瑠は口を開いた。
「僕・・・が、凪君のお母さんのその記憶・・・消せばいいんだよ。そして、凪君の“あの記憶”も消しちゃえば・・・もう誰も見なかったことになるし」
「!!」
トイロの表情が大きく動いた。
「だっ・・・駄目だよ!だってそれは禁止されていることなんじゃないの?
“必要としている記憶”を消しちゃうなんて・・・絶対にだめ!」
トイロの声には、焦りの感情しか混じっていないように聞こえる。
一方、瑠は落ち着き払った声で言った。
「分かってるよ。でも、もうどうでもよくなっちゃった」
「・・・どうでもって・・・」
瑠は、トイロの焦りの色の瞳をしっかりと見据えた。
「それに、トイロも禁止されていることをやったんだよ。
・・・・そのこと内緒にしておくから・・・僕が今からやることも、誰にも言わないでくれる?」
トイロの瞳が苦しみに歪んだ。
・・・でも気にしない。だって、自分のやろうとしていることは、自分を守るための最後の手段なんだから。
「っ・・・だめだよ・・・」
トイロの声は消えてしまいそうだった。
「それじゃ、トイロのやったこと、ゼン兄ちゃんに言うから!!」
瑠はお構いなしにそう怒鳴る。
「・・・・―――言わないで!」
「・・・トイロが、僕のやることを誰にも言わなければ、僕もトイロのやったこと、誰にも言わない」
「・・・・」
「・・・・」
耳が痛くなるほどの長い沈黙。
そして・・・
「・・・分かった・・」
トイロは一つ一つ言葉を選ぶようにして、そう言った。・・・確かにそう言った。
「約束だよ!絶対に!!」
「うん・・・・」
トイロの声は呟くようだったが、その瞳はしっかりと瑠のことをとらえている。
(よかった・・・)
きっとトイロは、僕には嘘をつかないでくれるだろう。
瑠の心に安心感が芽生えた。
・・・しかしそれは、いつ壊れてボロボロになってしまうかも分からない・・・とても脆いものだった。
そんな二人の様子を、窓の外から静かに見据えている人影があった。
「大丈夫・・・。誰にも言わないから・・・」
彼女は、ふふっと笑うとその姿を闇に掻き消す。
もちろん、そのことは、瑠もトイロも気づくことはなかった。
瑠は凪の意思の中にいた。
周りにあるのは、真っ白の空間。そして、そこに絡みついているのは、おびただしい数の鎖。
既に瑠は、凪の母親の“あの記憶”を消去した。そして、次は凪の番だ。
「・・・・」
瑠はその銀の瞳で、鎖たちに目を凝らした。鎖は皆、同じように見えるが、中に詰まっている記憶はすべて違う。
(・・・あった)
ひときは大きくて、ガッチリとした鎖。そこから、何個もの鎖が長く繋がれている。
・・・絶対に錆びることのなさそうな鎖だ。
瑠は手の中にある闇色の大きな鎌を、ギュッと握りしめた。
(・・・あれを壊しちゃえば、凪君は僕のことを“化け物”になんか思わない・・・)
瑠は床を軽くけると、空中に浮き上がった。そして、また空間を蹴って上に飛び上がると、その鎖の前の空間にふわりと着地する。
「・・・・」
瑠は鎌を高々と振り上げた。
・・・迷いなんてこれっぽっちも感じない。そして、その鎖を勢いよく切り裂いた。
鎖は一瞬にしてボロボロになり、そして、勢いよく弾けて・・・消えた。
「!!・・・」
途端、瑠は強い風によって、後ろへ吹き飛ばされる。
瑠は思わず目を閉じる。そして、何とか目をあけると空間に足をついた。
「・・・・」
瑠は思わぬ出来事に内心、焦っていた。だってこんな強い風が起きるなんて、普通ではありえない。
・・・きっと、大き過ぎる記憶を消したせいだ。瑠はそう思った。
「!!!」
瑠は目の前の光景が目に入った途端、心臓が凍りつく思いがした。
・・・鎖が全てなくなっていた。
さっきの強い風のせいで、周りの鎖も全て吹き飛んでしまったのか・・・!?
そうしか考えられない。それほどまで“あの記憶”は凪の意思にとって重要だったのだ。
「っ・・・」
瑠は息が詰まる思いを感じた。
一瞬にして、目のふちに涙がたまる。
・・・こんな事態、考えもしなかった。
凪の今までの記憶は、全てなくなってしまった。
・・・自分が“あの記憶”を消してしまったせいで。
「!!」
すると、周りの景色が一気に変化した。
それと同時に、瑠の手の中の鎌も一瞬で消える。
・・・凪の記憶が夢へと変わったのだ。
瑠は、夕焼け色に染まった教室に一人で立っていた。瑠のすぐ後ろには、窓がある。
「瑠君!帰ろ」
「!」
声の方を見ると、そこには凪が立っていた。
背中には、真新しいランドセル。
「うん!」
瑠の目の前の机に座っていた“瑠”が、凪の言葉に元気にそう答えた。瑠は、立ち上がると机の上に置いてあるランドセルを背負う。そして机と机の間をすり抜け、凪のもとまで歩みよる。
そして二人は、楽しそうに話しながら教室の出口へと向かった。
「・・・・」
銀色の髪の瑠は、その幸せな光景を目の前にして固まっていた。
(・・・いいな)
瑠は“夢の中の瑠”が羨ましかった。
あれが、ただの幻にすぎないことは分かっている。しかし、幻でも、彼らはしっかりとした意思があり、動いているように見えた。
瑠は静かに泣いた。
凪のことを思って泣いた。
自分のせいで凪の“これから”を壊してしまった。なのに、夢の中はこんなにも居心地がいい。ずっとこの世界にいたかった。
(・・・これは・・・凪君の一番望んでいることなの・・・?)
瑠の心の片隅では、そんな疑問がうまれた。
・・・そうだったらいいのに。
そうだったらいいのにな・・・。
だって瑠もそのことを望んでいる。
“凪と一緒に小学校に通う”ということを。
瑠は、今まで“瑠”が座っていた席にそっと腰をおろした。
もう教室には瑠一人だけ。誰の声も聞こえない。
瑠は眩しすぎるオレンジ色の光に目を細める。・・・そして目を閉じた。
「・・・瑠!」
どのくらい時間がたっただろう。そう思った時に、自分の名前を呼ばれた。
瑠はゆっくりと目を開ける。
一瞬、目に入った景色はさっきまでと同じ、オレンジ色に染まった教室。
が、次の瞬間、その景色に何本もの大きな亀裂が入った。そしてその景色は、瞬く間にバラバラになり、ガラスの破片のようにそこらじゅうに散らばり始める。
「・・・」
(帰らなくちゃ・・・)
でないと、“この夢”が終わってしまう。
瑠は席から立ち上がると同時に、その姿を壊れゆく世界からかき消した。
瑠の足の裏に、床の感覚が伝わった。それと同時に、凪の部屋に自分は立っていた。
どうやら戻ってきたらしい。
凪の部屋は夜の闇で包まれているのではなく、ほのかに明るい。
もうすぐで夜が明けるんだ。瑠はぼんやりとそう思った。
目の前にあるベッドの上には、凪が小さな寝息をたてて眠っている。
「・・・・」
瑠は静かに凪の寝顔を見下ろした。いや・・・正確には“凪だった人”を見下ろした。
このままずっと、目を覚まさないでいてくれればいいのに。そうすれば、ずっと“凪”のままでいられるのに。
(ごめんね。・・・凪君)
全ては自分のせいだよ。そして、こんな苦しい思いをするのも、全て自分のせい。
だから許してくれるよね・・・?全てを自分のせいにするんだから。
「瑠・・・」
「!」
後に振り返ると、そこにはトイロの姿があった。
手に白い鎌は握られていなく、ただ心配そうに瑠のことを見据えていた。
「瑠・・・。どうしたの?ずっと帰ってこなかったから、心配してたんだよ・・・」
「・・・ごめんね。大丈夫だから!気にしないで」
「・・・」
トイロは瑠の言葉に、軽く頷いた。しかし、その表情には雲がかかっているように見える。
瑠は、凪の記憶を全て消してしまったことも黙っていようと思った。
・・・もちろん、トイロにも。
このことは自分しか知らない。だから、他人に話す必要なんてもちろんない。
ただ、自分の中で大切にそして厳重にとどめておけばいいことの話だ。
「・・・早く帰らなくちゃ。夜が明ける前に」
瑠はぼそりと言った。
「うん・・・」
トイロも弱々しい返事を返した。