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第5話(7)



 朝菜は瑠に手を引かれながら、夜の森の中をひたすら駆け抜ける。

 ・・・息が上がってきた。きっと爽の家からは、大分離れたはずだ。

「瑠!・・一端止まろう・・!!」

 朝菜は必死に瑠に向かって叫ぶと、彼は歩調を緩め立ち止まった。それと同時に朝菜から手を離す。

(苦しい・・)

 朝菜は肩で息をしながら、呼吸を整える。

 瑠はそんな朝菜を見ながら、小さな声で言った。

「・・・取りあえずは逃げられたみたいだけど、すぐに追いつかれるだろうね・・」

「・・──コウ、何であんなことするんだろ・・あれじゃ、爽がかわいそう・・・」

 朝菜はとぎれとぎれに思ったことを口にした。

「・・・朝菜もああなりたくなかったら、今すぐ目を覚ますべきだと思うよ。ここ、朝菜の夢の中でもあるんでしょ?」

「うん・・・でも・・──」

 その時、瑠の背後にコウがフワリと姿を現した。

「!・・コウっ」

 するとコウは、瑠の肩に手を置く。

 その瞬間、瑠の姿は空気に溶けるようにして消えてしまった。

 その場に残されたのは、朝菜とコウだけ・・・

「コウっ・・瑠をどうしたの!?」

 朝菜の焦りの声色にも、コウはゆったりとした口調を返す。

「瑠君には現実世界に帰ってもったのさ。これ以上、邪魔されたら困るしね」

「─・・・」

 朝菜はその言葉に少しばかり安心する。・・・これで瑠が、また夢に取り込まれるなんてことはなくなったからだ。

「・・・朝菜ちゃんは優しいんだね」

 コウはそう呟くと、手の上に一匹の空アゲハを現した。

「・・・─」

「朝菜ちゃん。この世界をこの俺を必要としてくれるだろう?」

 コウは手の上にとまっている空アゲハを、朝菜の目の前にさしだした。

 朝菜は一歩、後ずさる。

 コウは言葉を続けた。

「必要あるか、ないか・・・さぁこたえてくれよ」

 朝菜の額には、いつの間にか冷や汗がにじんでいた。

 必要ない─・・・そう答えたら、間違いなくコウは傷つくだろう。

 誰かを傷つけることはとても怖い・・・──けれど。

 朝菜は覚悟を決めた。

「私には・・・必要ないよ」

 そして、手の中にムマの鎌を現し、その刃でコウの手の上の空アゲハを思いっきり切り裂く。

「コウ・・・私には、この世界もこの世界で生きるコウも必要ない」

 コウは朝菜の言葉に、大きく表情を歪めた。

「どうしてそんなこと言うんだい?朝菜ちゃん」

「どうしてって・・・・」

 朝菜はコウの悲しげな表情に、思わず言葉を詰まらせる。

 次に発する言葉を探しているうち、コウが口を開いた。

「朝菜ちゃんは知っているだろう?俺の異様な体質。・・・そんな俺の居場所は、夢世界しかないんだよ」

「・・・」

 ・・・きっとコウにとって、夢世界は自分を保っているために、無くてはならないものなのだろう。

 今、自分はコウの大切な場所を否定してしまっているんだ・・・。

 朝菜はそんな思いを心の隅に無理やり追いやると

「でも・・爽を夢世界に取り込むなんて間違ってる・・」

「間違ってる・・・?じゃぁ、爽は現実世界に帰そうか」

「え・・!?」

 コウが口にした意外な言葉に、朝菜は目を見開いた。

 と、コウは右手を空に向かって伸ばす。

「?」

 何事かと思っていると、どこからともなく空アゲハがフワフワと飛んできて、コウの指先にとまった。

「これは爽の中にあった空アゲハさ」

「!!」

 コウは微笑みを浮かべながら、そう言ってその空アゲハを手で粉々にした。

「・・!!」

「これで爽は現実世界に帰ったよ」

「・・・ほんとに?」

 半ば信じられない気持ちで朝菜は呟いた。

「あぁ、本当さ」

 コウはにっこりと笑う。

 そして朝菜は駆け出していた。爽の家に向かって。

 夜の森の中を駆け抜け、爽の家に到着すると家の扉を開け放つ。

「爽っ!いる!?」

 ・・・が、そこには誰もいなかった。

 ただ、天井から吊るされたランプが静かに光を放ち、開けっ放しの窓から吹く風がカーテンを揺らしているだけだ。

「言っただろう?爽には現実世界に帰ってもらったのさ・・・悪いけどね」

 いつの間にか背後に立っていたコウが、静かに呟く。

 とっさに離れようとした朝菜だが、背後から首回りに腕をまわされた。

「朝菜ちゃん・・君は今、ツボミのパートナーだろう?俺が必要なのは“今の”ツボミのパートナーなんだよ」

「!」

 朝菜はコウの腕を振り払い、彼の傍から離れると

「どうしてツボミからパートナーを奪うなんてことするの・・?」

 ツボミがコウのことを大切に思っていることは、朝菜は知っていた。それなのに、コウはそんなツボミの思いをまるで無かったようにしている。

 コウはそれに少しだけ目を伏せて言った。

「ツボミは俺の大切なものを奪い、裏切ったのさ。だから、いいだろう?大切なものの一つを俺のものにしても。ツボミはそれぐらいのこと、許してくれるはずさ」

「!・・・ツボミはそんなこと・・──」

「爽が現実世界に戻った今、朝菜ちゃんは用無しじゃないかな?ツボミは朝菜ちゃんがいなくても、爽とパートナーになれば事足りるしね」

「!!・・・──」

 朝菜はコウの言葉に、何も言い返すことができなかった。

 ・・・確かにその通りだ。

 自分はツボミの持つ支障を知ったとき、彼女と契約したことを後悔してしまった。

 でも、爽はどうだろう。

 ツボミの全てを受け入れ、契約したのかもしれない。・・・ツボミもそんな爽とパートナーになった方が・・・

「だから、朝菜ちゃんは俺と誓いを結んでほしい」

「え?」

 コウは微笑みを浮かべる。

「・・・もう無理やりなんてことはしないさ。ただ、俺と一緒にこの世界で過ごすという誓いを結んでほしいんだよ」

 コウは手を朝菜の目の前まで持ってきた。

「・・・これもツボミのためだろう?ツボミは初めて契約したムマ、と一緒に仕事がしたいんじゃないかな?」

「──・・・」

(そうだ・・・私が現実世界に帰ったら、ツボミは爽と仕事ができなくなっちゃうんだ・・・)

 ツボミにとって、私とパートナーでいることと、爽とパートナーでいること、どちらが幸せなのだろう。

「朝菜ちゃん。誓いを結んでくれるなら、この手を取って?」

 コウの静かな声で、朝菜ははっとしてコウの顔を見る。

 ・・・彼はただ、寂しげな表情で朝菜のことを見据えていた。


 翼は瑠と朝菜が無事に帰ってくることを祈りながら、ただ待っていた。

 朝菜の足元のベッドには、ツボミがただ座っている。

 翼のように、落ち着かない様子を見せることなくただ、じっと座っている。

「・・・・」

(ほんとに何考えているか分からない奴だな・・・)

 ・・・しかし、ツボミは朝菜の傍から離れようとする様子はない。

 とその時、瑠がフワリと部屋の中央に姿を現した。

 翼はイスから立ち上がると同時に言った。

「瑠!朝菜は!?」

 瑠はそんな翼から、わずかに顔を背ける。

「まだ、夢の中だよ」

「なっ・・・?何で朝菜のこと置いてきたんだよ?」

 瑠は翼の言葉に眉を寄せる。

「置いてきたんじゃなくて、無理やり追い出されたんだよ・・・悔しいけどね。やっぱり夢の世界はアイツの思うようになっちゃうみたいだね・・・」

「!・・・っ」

 ムマの瑠に期待を寄せていた翼は、最後の望みを絶たれた気分だった。

 コウは自分が思っているよりとても手ごわい。

「・・・じゃぁ俺たちは、ここで朝菜のことを見守るしかできないのかよっ!もしかしたら・・・一生帰れなくなるかもしれねーのに」

 翼はいつの間にか、叫ぶようにしてそう言っていた。

 自分がムマだったら、夢の中にでも行けたのに・・・──。そう考えずにはいられなかった。

 すると瑠は、ただ黙りこくっているツボミの方へ目を向ける。

「・・・どうするの?君、またパートナーを失うことになるよ」

「・・・」

 ツボミは瑠の言葉にも、顔色一つ変えない。

 瑠は静かな瞳で、ツボミのことを見据える。

「・・・君、スイマとムマのハーフ・・夢の中にも行けるんでしょ?」

「・・・」

 ツボミは金の瞳を瑠に向けた。

「なっ・・・それ、ほんとなのか?」

 翼がとっさにそう訊ねると、瑠は「多分ね」と小さく呟く。

 ツボミは沈黙をおいた後、また瑠のことを見るとコクリと一回だけ頷いた。

「うん。行ける」



 一匹の空色の羽を持ったチョウが、どこかへ消えたかと思うと、爽は意識を手放していた。

 ・・・とても懐かしい香りと感覚。それが爽を包んでいることが分かる。そして、ゆっくりと目を開いた。

(ここは・・・どこ?)

 ゆっくりと体を起こす。

 ここは・・・自分の部屋のベッドの上だった。

 とても長い夢をみていた気がした。

 ・・・いや。あれは夢じゃない・・・“現実”だ。

「爽!」

 部屋の扉が開いたかと思うと、自分の母親がそう叫んだ。

「母さん・・・」

 母は手に抱えていた洗濯物を、その場に落とすように置くとベッドの上の爽に抱きついた。

「爽・・やっと帰ってきてくれたのね・・・──」

 母は・・・泣いているようだった。

「・・うん。ごめんね、母さん・・・心配かけちゃって・・」

「っ・・・」

「でも、私、行かなくちゃ」

 爽はゆっくりと母の体から離れると、ベッドから足を下ろす。

 そして、部屋を飛び出した。


 爽はある家の玄関の前に立つと、呼び鈴を鳴らした。

 こんな夜中に訪ねてくる客なんて、迷惑以外何者でもないがそんな考えは頭の隅の方にあった。

 少しの間の後、誰かの足音が家の中から聞こえくる。そして、玄関の明かりがついたかと思うと、目の前の扉が開いた。

「誰~?こんな夜中に」

 その声と同時に玄関から顔をだしたのは、不機嫌な様子の舜だった。

「爽さんっ!?帰ってこれたんだねー!!」

 舜はとても驚いた様子でそう叫ぶと、爽に抱きついてくる。

「舜・・ツボミは!?」

 舜はその問いかけに、爽から離れると、

「そういえば、今日は会ってないなぁ・・・でも、リノならツボミさんがどこにいるか知ってるかも」

 舜は爽の真剣な様子に、疑問を抱いたようだが、また言葉を続ける。

「あのねー爽さん。ツボミさんは今、違うムマと契約してて・・・」

「舜・・リノのこと、呼んできてもらってもいい?」

「あ・・・うん!」

 そして舜は、パタパタと家の中へ駆けていった。

(はやく・・・──)

 ツボミに会わなくちゃ。そして、朝菜の危険を知らせなきゃ。

 爽はずっとその気持ちを抱いて、ここまでやってきた。

「・・・」

 爽は唇を噛みしめる。

(ごめんね、ツボミ)

 辛かったでしょう?

 契約の証が消えたって、関係ないよ。

 パートナーじゃなくなっても、関係ないよ。

 私とツボミはそんな関係だけで、繋がっていたわけじゃない。

 ただ今は、早くツボミに会いたかった。



 ツボミは、朝菜の部屋からその家の屋根の上へ移動していた。

 夜空に浮かぶ星々から、顔を背け膝を抱える。

「あさ・・な」

(早く帰ってきて・・・)

 わたしは夢の中には行けないから。

 ・・・コウに会うことは、できないから。

 わたしはまだ、朝菜のパートナーでいたいよ。新しいパートナーを見つけるなんてそんなこと、もうしたくないよ。

 だから、わたし、朝菜が帰ってこなかったら・・・──時間を止めるつもりだよ。

 今度は、本当に。

 変わっていくわたしを止める方法は、それだけ。

 そうしたら、もうコウを傷つけなくて済むから。裏切らなくて済むから。

 ・・・夏の夜風が、ツボミの真っ白な髪とスカートをパラパラと揺らしていった。

 コウ・・・わたしがね、真っ白になったのは、わたしの時間を止めたかったから。・・・だって、コウもそれを望んだんだよ。

 でも・・・──時間は止まらなかった。

 時の流れは、“あの頃のわたし”と“今のわたし”の距離を少しずつ離していくの。

 もう少しで、手が届かなくなりそうなの。

「コウ・・・─」

 わたしは、あとどれぐらいあなたのことを想っていられるのかな?



 あの事故のあと、少したったらツボミと爽は契約したらしかった。

 何となく予想できていた展開に、コウは病院のベッドの上でため息をついていた。

 予想はできていたけど・・・──こんな気持ちになるなんてことは、予想外だった。

 ふと窓の外を見ると、病院の広い駐車場から爽とツボミが歩いてくるのが見える。

(久々なんじゃない?)

 コウはそんな二人から目を背けると、テレビの前に置いてある写真に目を移す。

 そして、立ち上がるとその写真を手にとり、テレビの裏のベッドの上からは見えない場所にそれを移動した。

 ・・・変わっていく。何もかも。

 いったい何が自分たちを変えていっているのだろう。

 ・・・いや、自分は何も変わっていない。自分はずっと同じ部屋の、ベッドの上。

 けれど・・・──それでも、何かが少しずつ変わっていっている。

 写真、は残酷なものだと思うんだ。

 だって、こんなにも変わってしまったことを思い知らされる。

 今の自分は、ツボミとリノと一緒にこうも楽しそうに笑っていられない。

(・・変わったのは、ツボミとリノだろう?)

 ・・・本当にそうなのだろうか。少しだけ頭の隅に引っかかる。

 けれど、その少しだけのその感情は、大きな感情にあっという間に支配されていた。

 そして、ツボミが真っ白になった理由も。今のコウにとって、どうでもいいことだった。

 

 

「さぁ朝菜ちゃん。俺と誓いを結んでくれるだろう?」

 コウは、不安げな瞳でこちらを見るだけで何も言わない朝菜に向かい、右手を差し出した。

 そう・・・まるでこの世界は一枚の写真。

 何も変わることはない、ずっとそこにあり続ける。

 ・・・とても幸せなことだろう?

 朝菜は覚悟を決めたように、キュッと唇を結ぶ。そして、ゆっくりとその手をコウの手に近づけた。

 

 リノに案内されたのは、いたって普通の家。

 ・・・ここ、朝菜の自宅にツボミはいることが多いらしい。

「・・・って言うか爽。大丈夫?ずいぶんと痩せたみたいだけど・・・それに何か顔色も悪いし」

 リノが心配そうに、爽の顔を覗き込んでくる。

「だいじょうーぶ!」

 爽はそれに、笑顔でそう応えて見せた。

 ・・・本当はここまで来るのに、予想以上に疲れていたのだが。

「・・・まぁ・・あんな長い時間、寝てたんじゃー・・・体力も落ちるし痩せるわよね・・」

 リノは呟くようにそう言うと、何かに気付いたように屋根の方を見上げ、

「爽、行ける?」

 リノは爽に手を差し出した。

「・・・うん」

 爽は微笑みを浮かべると、リノの手を取った。

 ・・・久々に握るリノの掌は、ひんやりしていて心地よい。

 リノは爽の手を握ったまま、空中に飛び出し近くの外灯の上へ足をつく。そして、すぐに朝菜の自宅の屋根へ飛び移った。

 爽もリノに続いて屋根の上へ足をつく。

「!!・・」

 そこには・・・──

「ツボミっ!」

 懐かしいツボミの姿があった。

 ツボミはあの頃と変わらない、真っ白の容姿と金の瞳で驚いたようにこちらを見ていた。

「・・・爽。帰って・・・これたの?」

 ツボミはそう呟いて、ゆっくりと立ち上げる。

「・・・うん!」

 爽はゆっくりとツボミに近づき、そして抱きしめた。

「っ──・・・」

 その手に力を込める。

「ごめんね。ツボミ・・・私・・・─」

 その言葉に、ツボミが小さく首を左右に振るのが分かった。

「爽のせいじゃない・・・」

「ありがとね・・・」

 爽はツボミから離れると、彼女に微笑みを浮かべて見せた。

「・・・」

「爽、あのこと早く言わないと」

 後方に立つ、リノの言葉にはっとし爽は口を開いた。

「ツボミ。朝菜が危ないの。早くしないと、コウが夢に取り込んじゃう」

「!・・・」

「朝菜は今のツボミのパートナーでしょ?」

「爽、知ってたの?」

「うん、夢の中で会ったから」

 すると、ツボミは目を伏せて言った。

「・・・わたし、夢の中には行けないよ?」

「?・・どうして?私が夢に取り込まれる前まで、一緒に夢の中にまで行ってたでしょ?」

 それでもツボミは目を伏せたままだった。

 すると、小さく口を開く。

「わたし・・・──」

「?」

「わたし、ほんとに爽と会っちゃってよかったのかな?」

「!・・・──」

 爽は思わぬツボミの言葉に、大きく目を見開く。

 ツボミは目を伏せたまま、消えてしまいそうな声でまた言った。

「・・・だって・・・また、コウを傷つける。わたし・・またコウに会いたくなくなるよ?」

「・・・ツボミっ」

 ほとんど表情を変化させないツボミだが、その言葉だけで十分にツボミの気持ちが伝わってきた。

 ・・・─ツボミは、あの頃と変わることなくコウのことが大切なんだ。

 爽はコウによって夢に取り込まれ・・・──もちろん、そんなコウのことは許したくない。

 だってコウは、私の時間を奪い、ツボミを大きく傷つけた。

 でも、そんなコウはツボミの大切な人。悪くは言えなかった。

「ツボミはそんな理由で朝菜を見捨てるのっ?」

 そう叫んだのは、リノだった。

 リノは鋭い瞳で、ツボミを見る。

「あんた、朝菜と契約できて嬉しいって言ってたわよね?それ、嘘だったわけ?また、新しいパートナーを探せばいいとかってそんなこと思ってるの!?」

「ちょっと・・・リノ・・」

 爽は叫ぶようにして言っているリノを止めようとするが、彼女は聞いている様子はなかった。

「どうなのよ!?ツボミっ」

「・・・」

 ツボミは伏せている瞳を持ち上げ、リノのことを見る。

「・・・・・わたし、朝菜のこと見捨てたくない・・・──もう、新しいパートナーと契約なんてしたくないっ・・・」

「・・・──そう」

 リノはツボミの言葉を聞き、安心したように少しだけ瞳を緩めた。

「じゃぁ、早く朝菜を迎えに行ってきて。

 ・・・いいのよ。爽をこんな状態にしたコウが少しぐらい、傷ついたって」

「・・・」

「どんなに傷ついたって、ごめんねって伝えればいいのよ・・・そうでしょ?ツボミ」

 ツボミはリノの言葉に、ほとんど表情を動かすことなく黙りこくっていた。

 そして、コクリと一回だけ頷く。

 ツボミは何も言わないままリノに背をむけ、朝菜の部屋の方へ姿を消した。


「泣いてるの?リノ」

 爽の言葉にリノは慌てて、目の淵にいつの間にか溜まっている涙を手で拭う。

「・・・ツボミは泣かないのに、どうしてあたしが泣かなくちゃいけなんだか・・・」

 リノはそう言って、微笑んで見せた。

 ツボミはどうもこうして、コウのことを大切に思っていられるんだろう。

 どんなに時間が流れても、ツボミの心はあの頃と同じ。でも・・・自分は、知らず知らずのうちに忘れていってしまった。

 自分は残酷なのだろうか?それとも、ツボミはヒト、だからこうも長い時間、誰かのことを想い続けていられているのだろうか。

 リノには分からなかった。

 ただ、忘れてしまった自分を実感した気がして、少しだけ悲しい気持ちになった。



 朝菜は、コウの手を取ろうとした自分の手をゆっくりと引っ込めた。

(やっぱり・・・私には、できないよ・・)

 たしかに、ツボミは爽と仕事ができた方が幸せかもしれない。

 でも、それでも現実世界に私の居場所はちゃんと残っている。

 ・・・手を広げて、待っていてくれている人が確かにいる。

 手を引っ込めた朝菜を見て、コウはより表情を歪めた。

「どうしたんだい?朝菜ちゃん」

「・・・やっぱり私、現実界を捨てるなんてできないよ」

 朝菜は必死の思いでそう言った。

「・・・──それじゃぁ、仕方ないね」

 コウはポツリとそう言うと、手の中に一匹の空アゲハを現した。

「悪いね。朝菜ちゃん」

「!」

 コウは突然、朝菜の手を掴み、引き寄せた。

 それとほぼ同時に、コウは空アゲハを朝菜の体へ押し込む。

「!!」

 ・・・体が一気に重くなる。

 そして、朝菜は地面に崩れるようにして倒れてしまった。

(うそっ・・体が動かないっ・・──)

 もう指一本も自由に動かすことができなくなってしまった。

 このままでは・・・コウの思うがままだ。

 “夢に取り込まれてしまう”

 コウは朝菜の傍らにしゃがみ込むと、朝菜の顔にかかった髪をその指でかき上げ、耳元で囁いた。

「爽の家は朝菜ちゃんが使えばいいさ」

 ・・みるみるうちに瞼が重くなってくる。

 必死にもがく朝菜だが・・・もうどうすることもできなかった。

 そして、朝菜は意識を手放した。


**


 ひんやりと風が頬に当たるのを感じて、朝菜はゆっくりと目を開いた。

 ゆっくりと体を起こす。

 あたりはとても静かだ。

 窓の方を見ると、少しだけそれは開いている。

(閉めないと・・・)

 朝菜はそう思うとベッドから降りて、窓の方へ近づいた。

「!!」

 窓ガラスの背景は夜。そして、そこに映し出された自分の姿。

(これって・・・自分!?)

 真っ白の髪は腰に届くほど長く、それを耳の横で二つに結わえている。

 それに、身にまとっている服は、星々にツタが絡まっているような変わった模様が施されたワンピース。・・・何となく、爽が着ていたものと似ていた。

「・・・」

(なんか、めちゃくちゃファンタジーだなー・・・でも、割とこの服とか髪型とか可愛いかも・・)

「・・じゃなくて」

 どうして自分はこんな容姿をしているのか。

 ・・・そうだ。ここは私の夢世界。コウに無理やり空アゲハを入れられたんだ。

「?・・・」

(私・・・空アゲハを入れられたのに・・夢に取り込まれてない・・?)

 容姿は随分と変化したが、朝菜の心は確かにここ、にある。

(でも、どうして・・)

 ここが自分の夢の中だから?少しは自分の思い通りになった・・というのだろうか。

 いろいろな考えがめぐるが、今の朝菜にとって、助かったという結果だけで十分だった。

(コウはどこだろ?)

 朝菜は窓から離れ、部屋を見渡す。

 朝菜を夢に取り込めなかったと知れば、コウはまた空アゲハを使ってくるかもしれない。

「どうしよ・・」

 朝菜が外に出ようか迷っていると、部屋の扉がゆっくりと開いた。

「!・・コウ!」

 そこには、コウが立っていた。

 コウは何食わぬ顔で部屋に入ってくると、窓の近くのテーブルのイスに腰をかける。

「?・・」

「朝菜、俺にコーヒー入れてほしいな」

 コウはにっこりと笑う。

「・・・はい?」

「砂糖とミルクの量は、いつもと同じで頼むよ」

「・・・えーっと・・・」

(・・・もしかして、気付いてない?)

 朝菜が夢に取り込まれていないという事実に。

 朝菜は、取りあえずキッチンの方へ移動し、そこで考えを巡らせた。

 いや・・・確実に、コウは朝菜が夢世界の住人になったと思っている。さっきと態度と言葉からして。

 やはりここは、夢の住人を演じた方がよいのだろうか。

「朝菜―まだかな?」

「!はーい」

 朝菜はとっさに返事をするしかなかった。

 ・・・やっぱりここは演技をして、”状況を変える方法”をいち早く見つけた方がよさそうだ。

ばれるようなことがあったら・・・きっと、もう後はない。

「・・・って言うか、コーヒーってどれ?」

 キッチンにある棚には、いろいろな形のビンがところ狭しと並んでいる。

 朝菜がよく知る、コーヒー、らしきものはそこにはなかった。

「・・・」

(やばいっ・・・ここで変なのだしたら、夢に取り込まれてないってことばれるかもっ?)

 一体どうすれば──・・・。

 朝菜の額に嫌な汗がにじむ。

「うー・・・ん・・」

 ここは一か八か。やるしかなかった。


 朝菜はコウの前に、コーヒーのつもりでつくった飲み物、が入ったマグカップを置く。そして、自然に見えるように彼の隣に腰を下ろした。

「ありがとう、朝菜」

「いいえーっ」

 朝菜はドギマギしながら、コウに微笑みを返した。

 コウは早速、マグカップを手に取りそれを口へと持ってくる。

(だっ・・・大丈夫かな?)

 何も気にしていないような態度をとっている朝菜だが、心の中はそれとは正反対だった。

 ・・・コウは少しだけ中身を口に注ぐと、マグカップをテーブルの上に置き、

「・・・やっぱり朝菜の入れるコーヒーはおいしいね」

「・・・はは。よかった」

(よし・・何とか乗り切ったー・・)

 朝菜は心の中で、ほっと溜息を漏らすことができた。

「朝菜は、飲まないのかな?」

「今回は大丈夫だよ」

 朝菜は笑みを浮かべながら思う。

 正直、この世界の飲み物はあまり気が進まない。

「そう?」

「うん・・」

 そして、コウは朝菜から目線を外しまたコーヒーに口をつけた。

「・・・」

(はやく夢から抜け出さないと・・)

 でも、コウを見捨てて現実に戻るのも気が引ける。

 それに、このまま何もせずに帰ったらわざわざここに来た意味がない。

 ・・・今のコウにとって、夢世界は必要不可欠な場所になってしまっている。

 そんなの悲しいよ。私だって、現実世界から逃げ出したいときだってあるよ。

 コウの抱える闇とはくらべものにならないくらい、小さなことかもしれないけど。

 それでも私が世界を捨てないのは、大切な人がいるから。その誰かが、私に笑いかけてくれるから。

 どんなに闇が大きくても、同じでしょ・・?

(コウにも・・いるよね?)

 ねぇ、気付いてよ。ツボミの想いに。

 真っ白のまま黙りこくっているツボミの本当の想いに。

 コウはマグカップをテーブルの上に置くと、そこにおいてある朝菜の手に自分の手をのせる。

「!・・・」

「朝菜・・」

 見るとコウは、こちらを静かな瞳で見据えていた。そして、朝菜の背中に手をまわし抱き寄せる。

「朝菜、俺とずっと一緒にいてくれるだろう?」

 朝菜はコウの腕のなかで、固まっていた。

(ここは嘘でも、一緒にいるって言わなくちゃ・・)

「・・うん。私、コウとずっと一緒にいるよ」

 その言葉を発した途端、朝菜の心に重い鉛が落ちてきた。

 ・・・──自分はコウに、大きな嘘をついてしまった。

 本当によかったのだろうか。

「・・・ありがとう。朝菜」

 コウは朝菜の耳元で呟く。

「・・・──ねぇ、コウ」

「何だい?」

「少し外にでない?星空でも眺めながら散歩でもしようよ」

 コウはその言葉に、朝菜から離れるとにっこりと笑い「いいよ」と言った。

 こんな狭い空間に二人きりでいては、考えるべきことも考えられなくなってしまう。

 朝菜はそう思った。


 朝菜はコウと肩を並べて、森の中を歩いていた。

 木々の葉の間からは、満点の星空が広がっているのが見える。

「きれいな星空だね」

「そうだね」

「・・・」

(どうにかして、この世界から抜け出さないと・・コウも一緒に・・でも、どうすれば・・)

 そんな考えを巡らせて、歩いていくうち、見知った景色が目に留まった。

 公園だ。そう・・朝菜がこの夢世界にきて初めて立った場所。

 夜の公園は相変わらず少しだけ不気味で、そして中央にある噴水の水面には星々が浮かんでいる。

 ・・・自分はあの噴水の中から、この世界にやってきた。もしかしたら、またそこから現実世界に帰れるかもしれない。

 何とかして、コウのことをあの中に入れることができれば・・・。

 そんなことを考えていると、コウが言った。

「朝菜、どうしたの?」

 朝菜はコウの言葉に、立ち止まっていたことに気付き、

「ううん。何でもない・・・ねぇ、あの噴水の近くまで行ってみよう?あんなに星が綺麗に映ってるよー」

 朝菜はコウの手を引き、引っ張る。

 コウはそれに何のためらいもないように歩みを進め、朝菜とコウは噴水の前に立った。

 その中央からは、静かに水が湧き出ていて、水面をゆっくりと揺らしている。

「・・・」

(っていうか・・・どうやってコウをこの中に入れればいいんだろ?)

 やっぱり、無理やり突き落すしかないのだろうか・・・でも、そんなこと自分の力で本当にできるのだろうか・・・。

 いつの間にか、朝菜の鼓動は早鐘のようになっていた。

(早く、何か言わないとっ・・──)

「コウ!」

「何だい?」

「私と一緒に噴水の中、入ってみない?」

「・・・」

(何言ってんだろっ自分!絶対怪しまれたよ・・・)

 朝菜はすぐさま後悔した。

 コウは不思議そうな朝菜のことを見ている・・・が、ニッコリと笑うと、

「ははは。確かに星の水面に二人で入るのもロマンチックで素敵だね」

「で、でしょ?」

 朝菜はコウの笑顔に、ほっと胸をなでおろした。

(よかった・・何とか大丈夫だった)

 朝菜は噴水の外壁になっている部分に足をかけ、そこに上るとコウを見て言った。

「コウ、せーので一緒に飛び込もうよ・・」

「・・・いいね」

 コウは微笑みを返すと、朝菜の隣に上る。

 朝菜は念のため、コウの手をしっかりと握った。

 ・・・ドクドクと心臓が波打つ。

(どうか帰れますように・・・)

「じゃぁ、いくよ?」

「いつでもオーケーさ」

「・・・──せーのっ」

 その言葉の直後、朝菜はコウと一緒に飛び込んだ。

 ヒヤリとする水しぶきと水の感覚。

 バラバラになる星々。

 ・・・バラバラになった星々は、また水面に静かに映り込む。

「・・・」

 朝菜はコウと二人、噴水の中に立っていた。

(うそっ・・帰れない・・!)

 が、何かが変わった。

 水の底から、何かがゆっくりと浮かび上がってくる。

 それはすぐに近づくと、朝菜とコウの間の水面を漂っていた。

「何これ・・?」

 朝菜はとっさに手に取ろうとするが、それよりも先にコウが手にとった。

「!!」

 朝菜はそれを見て、思わず息をのむ。

 水の底から現れたそれは、写真だ。

 コウとツボミ、リノと3人で写っている。彼の病室にあったものと同じ・・。

「コウ・・それ・・」

「現実界から迷い込んできたようだね。ここは、現実とリンクしやすい場所だからさ」

「・・・」

「・・・こんなもの、俺には必要ないね」

 すると、コウはその写真を破こうと手に力を込めた。

「!・・・ダメっ」

 朝菜は思わずそう叫び、コウの手から写真を引き抜いて自分の手の中に納める。

「あっ─・・」

 その瞬間、やってしまったと思った。

 見ると、コウは濡れた前髪の間から、朝菜のことただ静かに見据えている。そして、ニッコリと笑った。

「悪いね、朝菜ちゃん。ここからでは現実に帰れないよ」

「!!・・・」

「・・・──朝菜の演技はなかなかよかったよ。でも、あの飲み物は明らかにコーヒーではなかったけどね」

「!気付いてたの・・」

「とっくの前に気付いてたさ」

「・・・」

 それならば、なぜコウは朝菜をもう一度、夢に取り込もうとしなかったのだろうか。

「優しいね、朝菜ちゃん。俺のために演技してくれたんだろう?」

「・・・」

 朝菜は首を左右に振る。

「・・・優しいのはコウでしょ?」

「!・・」

 そして、朝菜はムマの鎌を手の中に現し握りしめた。

「コウ!一緒に現実界に帰ろうよ。ずっとこんな場所にいちゃダメだよっ・・」

 鎌を握りしめた朝菜の容姿は、髪も服もいつの間にか元通りになっていた。

 コウは目を伏せ、言う。

「どうしてだい?」

「だって・・こんなところにずっと一人じゃ寂しいでしょ?爽や私が、コウの傍にいたとしても・・・同じ、でしょ?」

「──・・・」

 朝菜は噴水から抜け出すと、そこの空間をムマの鎌で大きく切り裂いだ。

 途端、そこの空間に大きな亀裂が入る。

「さすが、朝菜ちゃんもムマだね。そんなこともできるんだ。

・・・その鎌で、俺の世界をぐちゃぐちゃにする気なのかい?」

 コウは朝菜に続いて噴水から抜け出ると、静かすぎる声でそう言った。

「違う!!」

「・・・」

 朝菜は必死に言葉を続ける。

 ・・・少しでも、コウに自分の気持ちが伝えられるように。

「コウ・・この世界は作り物だと思うの・・・私の鎌さえあれば、こんなに簡単に壊せちゃう・・・」

「・・・」

「私、コウにこんな世界にずっといてほしくない・・・だって・・コウには・・」

「いいんだよ」

 コウは少しだけ悲しそうに微笑んだ。

「作り物でも、嘘の愛情でもいいんだ。だって、そうだとしたら、もう裏切られることも置いて行かれることもないだろう?」

「!・・・ツボミはコウのこと、忘れてなんかいない!」

 そう・・・ただ、それを伝えることができないだけで。

 ツボミは何も言葉にしないけど、その気持ちは心の中で今にも溢れ出しそうなほど存在しているんだ。

「きれいごとが上手いんだね、朝菜ちゃん」

「!」

 コウは朝菜に近づき、手から鎌を奪い取る。

 その鎌はコウの手の中で、瞬く間に消えてしまった。

 ・・・次の瞬間、彼の手の中に現れたのは一匹の空アゲハ。

「!!」

「・・・偽りで俺を愛しておくれよ。死ぬまでね」

 とっさに逃げようとする朝菜だが、コウに腕を掴まれこの場から動けない。

「コウ」

「!」

 呟くように言われた言葉に振り向くと、そこにはツボミが立っていた。

 その金の瞳は、いつものように無表情で・・・でも、それは確かにコウのことを見据えていた。

「コウ・・・朝菜から、手、離して?」

 ツボミがその言葉を言い終える前に、コウは朝菜から手を離し、ただ驚いた様子でツボミを見据えていた。

「ツボミ・・・どうしたんだい?自分から会いに来るなんて、珍しいね」

 コウは引きつった笑顔を浮かべる。

「・・・」

 ツボミは怯えたように目を伏せた。

「・・──さぁ、朝菜ちゃん。続きを始めようか」

「!」

 コウの手の中に姿を現す空アゲハ。

 その時、ツボミが朝菜の手をひっぱりコウから引き離す。

 ツボミは何も言わず、彼から守るように朝菜の前に立ち、言った。

「わたしから、朝菜、うばわないで・・・」

「!・・ツボミ・・」

 朝菜から見るツボミの横顔は、静かな決意が現れているように見えた。

 その表情は、朝菜がよく知るツボミとは全く違う。

「よくそんなこと言えたもんだね・・・俺から“大切”を奪ったのはツボミの方だろう?」

 ツボミはコウの言葉に、何も言わずただコクリと一回だけ頷いた。

「!・・・──」

 コウはそんなツボミを見て、少しだけ目を見開く。

 ツボミが大切なものを奪った、と認めていることにコウは少なからず驚いているようだ。

「・・でも、わたし朝菜のこと好きだから、まだ一緒にいたいから・・だから、わたしから朝菜、奪わないで」

 ツボミは消えてしまいそうな声で、そう言った。

 ツボミからきいた初めての言葉に、朝菜は何も言うことができなかった。

 ・・・とても嬉しかったから。

 ツボミがそんなことを思っていてくれていたなんて、正直、思いもしなかった。

(ツボミ・・・私も・・まだツボミと一緒にいたいよ・・)

 コウはそれに大きく表情を歪ませる。そして、俯きポツリと言葉をこぼす。

「・・・羨ましいね」

 コウの声は、ただ寂しげだった。

「・・・」

 ツボミは黙りこくったまま、朝菜の手元に目線を落とすと、そこに握られている写真に手を伸ばした。そして、そこから“コウが破こうとした写真”を抜き取る。

「あっ・・ツボミ・・それは・・」

「わたしもこの写真、持ってる」

 ツボミは呟くようにそう言うと、ただ静かに写真に目線を落とした。

 その顔は無表情だったが・・・だんだんとそれは変化していく。

「ごめんね・・・コウ・・・、辛かった・・よね?」

 ツボミは大きく表情を歪ませ、そう言った。

 コウはツボミの言葉に、顔を上げる。

「・・・──もちろん、辛かったさ」

 彼の頬には、いつの間にか涙が伝っていた。

 けれど、コウは少しだけ笑っていた。

「・・・」

 ツボミは写真から目線を外し、それをコウの目の前にゆっくりと持ってきた。

「?・・・」

 何をしているのかと思っていると・・・」

「わたし、この写真・・いらない」

 ツボミはそう言って、写真を、何のためらいもなく破いてしまった。

 ・・・破けてしまった写真は、ひらひらとツボミの足元に舞い落ちる。

「ツボミっ・・?」

 朝菜が思わずそう言うと、ツボミは首を左右に振る。

「わたし、コレもう必要ないよ?」

 すると、ツボミはコウにゆっくりと近づき、そして、そっと彼の手をとった。

 ・・・ぎゅっと握りしめる。

「わたし・・ほんとは、コウと一緒にいたかったの・・・爽がいても・・リノがいても・・朝菜がいても・・・ほんとはコウがいなくちゃ嫌だったんだよ・・?」

 コウはただ、驚いた様子でツボミの言葉をきいていた。彼は少しだけ微笑むと、

「・・・ほんとうかい?ツボミ」

 ツボミは頷いた。

「だから、写真なんていらないの。わたし・・・──今、コウと一緒にいたいんだよ?」

「──・・・」

 コウはただ、微笑んだまま何も言わずツボミを見ている。そして、そっと瞳を伏せて言った。

「ありがとう」

 ツボミはその言葉に、目を見開く。

「・・・一緒に帰ろう?わたしもいるし・・・朝菜もいるよ?」

 コウは、ツボミの言葉にも、その穏やかすぎる表情を崩そうとしない。

 朝菜はそんな彼の表情に、不安を感じずにはいられなかった。

「そうだよっ・・コウ。私たちと一緒に現実に帰ろう・・・お願い・・・ツボミのためにも」

 ・・・コウと会うことをあんなに避けていたツボミが、やっと彼と会うことができたのだ。

 それに、心のため込んでいた気持ちを今、こうして言葉にできた。

 そのことは、ツボミにとって簡単なことなんかじゃないから・・・だから─・・。

「・・・でも、俺は現実には帰れない」

 コウは静かにそう言って、ツボミの手を振りほどいた。そして、一歩一歩後ずさる。

「ど・・う・・して?」

 ツボミは金の瞳を大きく歪ませた。

 それでもコウは、穏やかな表情で、

「どうやら俺は、ここに長く居すぎたみたいだね」

「・・・」

「現実を生きていくのが、どうしても怖くなってしまったんだよ。

・・・──それに、ツボミ。俺が君にした罪は消えない・・そうだろう?」

 すると、コウは手の中に一匹の空アゲハを現した。

「!・・わたし、そのことはもう・・・──いいの」

 ツボミは震えた声でそう言う。

 ツボミとコウの間を、ふわふわと漂う空アゲハ。

「コウ!やめてよ!」

 朝菜は思わず、そう叫んだ。

 ・・・しかし、コウはツボミの言葉も、朝菜の声もきいている様子はなかった。

「・・・──知っているかい?ツボミ、朝菜ちゃん。空アゲハを作ることができるのも・・・消すことができるのも、俺しかいないんだ」

 その途端、漂っている空アゲハは、フワフワとコウの方へ飛んでいき・・・彼の体の中へ消えていった。

 ・・・ゆっくりと地面に倒れるコウ。

「コウっ・・!?」

 朝菜は地面に倒れたまま、動かなくなってしまったコウのもとへ駆け寄っていた。

 うっすらと目を開けているコウは・・・やがて目を閉じた。

(うそっ・・・!?)

 空アゲハは、人を夢に取り込む力を持っている。

 でも・・・それを取り出せる人は、コウしかいない。

「コ・・・ウ・・?」

 消えてしまいそうなツボミの声に振りかえると、彼女はただただ驚いた様子で倒れたままのコウのことを見下ろしていた。

「!!」

 すると、周りの景色に突然、大きな亀裂が走る。

 それは、みるみるうちに枝分かれし、景色を粉々に砕いていく。

 夜の公園も、星空も、星々が浮かぶ噴水も、全てが粉々に砕かれていく・・・。

「夢が終わるんだ・・!!どうしよっ!?」

 朝菜がツボミの方へ振り返ると、彼女は無の表情でそこに立っていた。

 その金の瞳は・・・倒れたまま動く様子のないコウへ注がれている。

 朝菜はそんなツボミの方へ駆けよると、

「ツボミ!・・・帰らないと・・・」

「・・・」

 ツボミは朝菜の言葉を、きいているのかいないのか、何も言わず黙りこくったままだ。

「──っ・・ツボミ」

 朝菜はゆっくりとツボミのことを抱きしめていた。

 ・・・そして、彼女とともに崩れゆく世界から姿をかき消した。



 朝菜はゆっくりと目を開けた。

 部屋の照明がとても眩しい。

 朝菜はそのまぶしさに目を細めながら、ゆっくりと体を起こす。

「朝菜!!よかったーっ!!」

 その途端、翼はそう叫んで勢いよく朝菜に抱きついてきた。

「あいつが帰ってきたと思ったら、何も言わねーでどっか行っちまったから・・・マジで心配してたんだぞっ?」

 翼はそう言いながら、朝菜から離れる。

「大丈夫だって・・・そんなに心配しなくても・・」

「なっ・・・心配するにきまってるだろー!?」

 翼越しに見える瑠は、ただ静かにこちらを見据えていた。そして、口を開く。

「朝菜・・・コウはどうなったの?」

「!!・・」

 瑠の言葉で、夢の中での鮮明な記憶が朝菜に戻る。そして、一気に不安感に襲われた。

「コウ、空アゲハを自分の中に入れちゃったのっ・・・──そのあと、夢が壊れ始めて・・・」

 翼は朝菜の発言に不思議そうに眉を寄せたが、瑠は表情に影を落とす。

「・・・コウは、現実世界を完全に手放すことを選んだんだね・・」

「・・・──っ・・じゃぁ、コウはどうなっちゃうのっ?」

「・・・死ぬまで、あのベッドの上で眠ったままだろうね」

「──・・・」

 あの日に見た、病院のベッドの上でゆったりと眠っているコウの姿が、朝菜の目に浮かぶ。

 あのときは、長い時間がかかってもコウは目を覚ますと思っていたのに・・・。

「・・・ツボミっ・・ツボミは?」

 コウの姿が浮かんだあと、朝菜の頭から離れないのはツボミの顔だった。

 この部屋にツボミの姿は見当たらない・・・どこに行ったんだろう?

「・・朝菜が目を覚ます少し前に帰ってきて・・どっか行っちまったぞ?」

 翼が不安げな声でそう言った。

「!・・・─」

 朝菜はベッドから足を下ろすと、立ち上がる。

「私も行ってくる!」

 翼と瑠の間をすり抜けて、朝菜も部屋を飛び出した。


「おいっ行くってどこにだよ・・!?」

 翼は突然、部屋を出て行った朝菜を追いかけようとするが・・・

「センパイ、やめておいた方がいいんじゃない?」

 瑠の落ち着き払った声に、翼の足の動きはとまっていた。

「は?何でだよ?」

「・・・」

 瑠は黙りこくったまま、その銀の瞳を細め、翼から視線を外しただけだった。


 朝菜は、ツボミが向かってであろう場所に来ていた。

 ここは、コウの入院する病院。

 夜中であるため、病院内は奇妙なぐらい静かだ。

「・・・」

 朝菜は余計な物音を立てないよう、コウの病室に向かい歩みを進める。

 ・・・そして、コウの病室のトビラの前に到着した。

(ツボミ、いるかな・・)

 ・・・ただ、今はツボミの隣にいてあげたかった。それに、コウのことも気がかりだ。

 朝菜は扉に手をかける。そして、少しずつ開いていく。

「!・・・」

 最初に目に留まったのは、真っ白な女の子の後ろ姿。

「ツボミ・・」

 朝菜は彼女の隣まで歩みを進めると、コウの様子を伺う。

 コウは・・・──ただ、静かに眠っているだけだった。

「コウ!起きてっ」

 朝菜はその可能性を信じて、そう呼びかけ彼の肩を強く揺さぶる。

 しかし・・・起きる様子は、全くと言っていいほどなかった。

「コウ!」

 朝菜がもう一度そう叫ぶと、

「・・もう起きないよ?」

 隣に立つツボミが、ただ静かにそう言った。

 彼女は、その瞳を歪ませることはせずコウの眠っている顔を見据えていた。

「・・・コウは、夢の世界の人になっちゃったの。だから、もうここには帰らないの・・・──」

 ツボミは独り言のような言葉を並べていく。

「ツボミ・・・」

 ツボミはゆっくりと目を伏せた。

 ・・・すると、そこから一粒の涙が零れ落ちる。

「・・・わたし、ずっとコウと一緒にいたかったんだよ・・?どうしてあんなこと、したの・・コウ・・」

 ツボミはすぐに涙を手で拭うが、涙はとまることを知らず、次々と彼女の頬を濡らしていった。

 その涙でコウが目を覚ます・・・ということはなく、彼はどこか穏やかな顔で眠り続けている。

「っ・・・─」

 朝菜は何も言うことができずにいた。

 ただ、やるせなくて悲しい気持ちになった。

「ねぇ・・・ツボミ。また、夢の中に行ってみようよ・・ね?コウが現実に帰る方法、分かるかもしれないし・・」

「──・・・」

 ツボミは涙を拭っていた手を止めると、その目を朝菜に向けた。

 ・・・夢の一部になってしまったコウが、現実に帰る方法があるなんて本当はよく分からなかった。

 でも、そう言わずにはいられなかった。

 ツボミはしばらく何も言わず黙りこくっていたが、やがて一回だけ頷くと、すぐに姿をかき消してしまった。


 ツボミは、いつもそういているように舜とリノの家の屋根に座って夜空を見上げた。

 小さな星々がキラキラと光りを放っていた。

 ・・・コウがあのベッドの上で、たくさんの時間、眠るようになってから・・・いや、それ以前から、自分はコウから遠ざかっていたのかもしれない。

 コウは生きているのに。

 死んじゃったわけじゃないのに。

 どうしてこんな関係になってしまったんだろう。

 ・・・──わたしにとって、あまりにも長い時間眠っているコウは遠い位置にいたんだ。まるで、死んでしまったような位置に。

 笑うのも泣くのも罪悪感があったのは、その気持ちがあったからかもしれない。

 ツボミは何となくそう思った。

「・・・」

 ツボミは夜空を見上げたまま、仰向けに寝転がると、膝を抱えるように体を丸くした。

 こうすると、少しだけ安心感に浸っていられる。

「ごめんね・・コウ・・」

 今いまで流せなかった涙が、今はこうして簡単に流れ出ていく。

 コウは夢の一部になった・・・──もうここには帰ってこない。

 朝菜は、まだ可能性はあると言ってくれたが、ツボミにとっては安心を偽るための言葉にしか聞こえなかった。

「びっくりした・・・──泣くなんて、らしくないことしてるから」

「!・・」

 見ると、リノがツボミの顔を驚いたように覗き込んでいる。

「・・・」

 ツボミはただ、黙って目線を外す。

 リノは何も言わないまま、ツボミの隣に寝転がると、

「朝菜は無事帰ってきたみたいだし・・・コウと何かあったの?」

 と静かな声で問いかけた。

 ツボミは丸めていた体を伸ばすと、夜の真っ黒な空を見つめて、そって口を開く。

「・・・コウ、夢の一部になっちゃったの」

「!?・・・」

 リノが驚いた顔でこちらを見るのが分かった。

「うそ・・・どうしてそんなことになっちゃったの?」

「・・・」

 ・・・本当にどうしてこんなことになってしまったんだろう。

 やっとの思いで、コウに会いに行って、やっとの思いで「ごめんね」が言えたのに。

 黙りこくったままのツボミを、リノが心配そうに見ていることが分かったので、ツボミはゆっくりと口を開く。

「・・・コウは・・この世界に帰りたくない・・って言ってたよ」

「・・・そう」

 リノは小さくため息をついた。

 ・・・まるでコウがこうなることを予想していたみたいに、どこか諦めが入り混じっている溜息だった。

「コウが帰りたくないんなら・・・それでいいじゃない?

 眠っている時間が長いコウにとって、夢世界が現実のようなものなのよ・・きっと。それにそのことが、コウにとっての幸せかもしれないし」

 リノは静かにその言葉を並べた。

「・・・」

 コウにとっての幸せ、その言葉がツボミの心の隅で引っかかる。

 ずっと夢の中にいることが、コウにとっての幸せなのかな?

 現実でわたしやリノと過ごすよりも・・?

 本当にコウのことを大切に思うならば、そっとこのままにしておいた方がいいのかな・・?

 ツボミにはよく分からなかった。



 そして、次の日の朝・・。

 いつもの時刻に設定したケータイのアラームが鳴りだす前に、誰かが朝菜の部屋のカーテンを勢いよく開いた。

「朝菜―っ!遅刻するぞー!!」

 眩しさに目を細めながら体を起こすと、そこにはニコニコした翼が立っている。

「まだケータイ鳴ってなし、大丈夫じゃん・・・」

 いつものように、朝からテンションが高い翼に内心でイライラしながら、朝菜はケータイで今の時刻を確認する。

AM 07:15

「やばい!寝坊したっ」

 どうやらアラームをセットするのを忘れていたようだ。

「俺はさっきから、そう言ったたんだけどなー」

「・・・」

 朝菜は翼の言葉を無視して、自室から出ると階段を駆け下りる。

 いつもそうしているように、洗面台の前で顔を洗い、髪をとかした。

「・・・」

 ・・あれから数日たつが、ツボミは朝菜の前に姿を現すことはしなくなった。

 鬱陶しいぐらいに思っていたツボミのマンガタイムが、今では懐かしいものに思えてくる。

(ツボミ・・・大丈夫かな)

「・・・って言うか、早くしないとっ」

 どうやら今日は、朝食をとる時間はなさそうだ。

 ・・・自分の日常は、何事もなく続いていくが、ツボミの当たり前の日常は大きく変わってしまったんだ。

 その変化が、当たり前の日常に塗り替えられてしまう前に。

 そんな悲しいことになる前に。

 朝菜はできる限りのことをしよう、そう思った。


(やっぱり、私にできることと言ったら、また夢の中に行くってことしかないんだよね・・)

 授業中、いろいろ考えを巡らせていたが、結果的に思いついたのはそのことだけだった。

「う~ん・・」

(でも、夢の中にいくにはツボミがいないとダメだし・・)

「平野ちゃ~ん、また明日ねー」

 その声の方を見ると、千絵が教室の出入口付近でニコニコしながら手を振っていた。

「うん、じゃぁね~」

 朝菜もそれに手を振りかえす。

「朝菜。またコウに会いに行くつもりなの?」

 千絵から目線を外すと、いつの間にか朝菜の机の前に立った瑠がそう訊いてきた。

 朝菜は突然の瑠の登場に、内心でドギマギしながら、

「んー・・・まだ分からないよ?」

「・・・」

 瑠は曖昧に笑ってそう言った朝菜に、不審な視線を送ると、小さく笑みを浮かべた。

「何やっても、コウは現実に帰らないと思うけど。・・それに、朝菜を夢に取り込もうとしたアイツのこと、どうして気に掛けるわけ?俺には分からないな」

 瑠の声は、いつも以上に冷ややかなものに感じた。

 それでも、朝菜は恐る恐る口を開く。

「だって・・・あんなに悲しそうなツボミのこと、放っておけないよ・・・ツボミとコウ、やっと仲直りできそうだったのに・・」

「・・・ふーん・・朝菜らしいね」

「・・・」

「いいこと教えてあげようか?」

 瑠はニヤリとする。

「えっ何?」

「ここじゃうるさいから、屋上行こうか・・」

 すると、瑠は朝菜から離れそそくさと教室から出て行ってしまった。

(一体、何んだろう・・)

 もしかして、コウを助けるいい方法でも教えてくれるのだろうか。

(取りあえず、行ってみようっ)

 朝菜はそう思い、生徒の声で騒がしい教室を後にした。


 屋上へ続く扉を開けると、少し強めの風が朝菜の前髪をかき上げた。

 夕方になりつつある空の下には、フェンスに寄りかかりながら朝菜を待っている瑠の姿があった。

 朝菜は瑠の隣へ駆け寄ると、

「話ってどういうこと?」

「コウが現実に帰る方法はあるよ」

 瑠はすっと目を細め、そう言った。

「!!・・・ほんとに?」

 瑠は頷く。そして、口元に薄い笑みを浮かべた。

「でも、そう単純な話じゃないんだよなぁ・・・それでも聞きたい?」

 瑠の微笑みは、あまりいい予感がしなかったが、朝菜は「知りたい!」という他なかった。

「・・・コウのことをムマの鎌で切り裂けばいいんだよ」

「!!・・」

「そうすれば、コウの中にいる空アゲハはバラバラになって消えるだろうね」

「たっ・・・確かに!」

 コウが操る空アゲハは、ムマの鎌で確かに切り裂けた。

 コウの中に空アゲハがとどまっているとしたら、その方法は有効かもしれない。

「朝菜、大事なこと忘れてない?」

「えっ・・!?」

「ムマの鎌は記憶を切り裂く・・その鎌でコウのことを切ったら、どうなると思う?」

「!・・」

 心の中に芽生えた不安が、一気にかき消された気がした。

(・・・もしかして、記憶を失う・・?)

「そんなこと、今まで一度もなかったから分からないけど・・・大体は想像つくでしょ?」

 瑠は今まで通り、落ち着き払った声でそう言った。

「っ・・・──方法は、それしかないの?」

「多分ね」

「・・・っ私・・・」

(一体どうすればいいんだろう・・・)

 瑠は俯いた朝菜を何も言わないまま見据えていた。

「どうするかは朝菜次第だよ」

 その言葉を残すと、瑠はこの場から立ち去ってしまった。


(コウを鎌で切るってことは、コウは記憶をなくしちゃうってことなんだよね・・・きっと)

 朝菜は自宅に向かって自転車のペダルをこぐ中、考えた。

(それって、ツボミのこととか忘れっちゃうってことなのかな・・)

 記憶をなくすとしても、どこの範囲の記憶なのか、予想はつかなかった。

 もしかしたら、自分の名前さえ忘れてしまうかもしれないし、最近の出来事を忘れるだけで済むかもしれない。

「・・・」

 最悪のパターンを考えてみる。

 コウが自分の名前さえ忘れて、ツボミのことを忘れてしまうパターン。

 ・・その場合、現実に帰れたとしても、本当によかったと言えるのだろうか。

(でも・・)

 もし仮にそうなってしまったとしても、思い出す、かもしれない。そう・・そういうことだってありえる。

 自分がどうするか、によって、コウの運命は大きく変わるんだ。

(もう・・ツボミの悲しい顔なんて見たくないよ・・)

 朝菜の心の内に溜まっている気持ちは、そのことだけだった。


「ただいまー」

 朝菜はそう言いつつ、自宅の玄関の戸を開いた。

 靴を脱いで家にあがると、翼がリビングからヒョッコリと姿を現した。

「おかえり~今日も暑いなぁ!冷凍庫にアイスあるぞ!さっきコンビニで朝菜のぶんも買ってきたからなっ」

「あ~・・ありがと」

(気晴らしにアイスでも食べようかな・・)

 朝菜はリビングに入ると、カバンを置き冷凍庫からソーダアイスを取り出す。そして、パッケージを破くと、リビングのソファに腰かけた。

 出窓から見える景色は、綺麗な茜色に染まっている。

 この時刻になっても蒸し暑さを変わらなかったが、網戸から入り込む緩やかな風が気持ちよかった。

(って言うか・・お兄ちゃん、もう元気になったんだ)

 朝菜はご機嫌な様子でアイスを口に運んでいる翼を見て、そう思う。

 もし・・リノが翼に、気を分けてくれなかったら、今こうしてアイスを食べることもできなかったかもしれない。

「お兄ちゃん・・リノにちゃんとお礼言った?」

 朝菜が何気なくそう訊くと、

「ん?おー・・─確か、リノがコウの病室で倒れた俺を、ここまで運んできてくれんだよな。ちゃんとそのお礼は言ったぞ?」

「・・そっか」

(やっぱりお兄ちゃん、そのことまでは知らないんだ・・)

 リノが自分の腕を切ってまで、翼のことを助けたのに。

 翼はそのことをなかったようにしている(知らないので仕方ないが)。

「・・リノが自分の腕を切って、気、を分けてくれなかったら・・・お兄ちゃん、助からなかったかもしれないんだよ・・」

 朝菜はいつの間にか、そう口にしていた。

 その言葉、穏やかだった翼の顔が驚いたような表情になる。

「!?・・それ、マジなのかっ?」

「・・うん」

「そこまで、俺、やばかったのかっ・・・!?」

「かなりやばかったと思うよ・・」

「・・・」

「・・・」

 表情を引きつらせ、黙りこむ翼。

「・・・ちょっと、俺、行ってくる!!」

 そして、慌ただしく居間からでていった。



 翼は近くのスーパーでお菓子やらアイスやらを大量に購入すると、西園寺家の家の前に立っていた。

(なんでアイツが俺のことなんて、助けたりしたんだよ・・・)

 助けてくれたことはもちろん有難い。けれど・・・悔しかった。

 自分はリノのことを、まだ疑いの目で見ていたところがある。

 そのことが間違いだった、というのを思い知った気がした。

(ここは俺が、ちゃんとリノにお礼を言えばいいだけの話だっ)

 そう・・・そうすれば、疑いの目をリノに向けていた自分を・・・少しだけ許すことだできる・・・と思う。

 翼は玄関の前に移動すると、思い切ってチャイムのボタンに手を伸ばした・・・その時、

「あっスイマのお兄さん!僕んちに何か用?」

 その声に振り返ると、自転車にまたがりヘルメットをかぶった舜の姿があった。

「まっまーな!」

 舜はヘルメットを自転車のカゴへ入れ、それを庭の端の方へ止めると、翼に駆け寄ってくる。

「リノは家にいると思うから、あがっていいよ~」

 舜はニッコリと笑ってそう言った。

「な・・・分かってたのか?」

「何となくねっ。ちなみにお父さんもお母さんも帰ってきてないから、大丈夫だよ」

 舜はそう言いつつ、玄関の戸を開ける。

「はいっどうぞ」

「ありがとなーっ」

 翼は舜にニコニコとした笑顔を返すと、西園寺家の家へ足を進めた。

 すると、早速、家の奥から

「おかえりー」

 リノが姿を現した。その手には、クッキーらしきものが握られている。

「ただいまっリノ」

「・・・っていうか、何であんたまでいるのよ?」

 リノはクッキーを口の中に放り込むと、不審な目つきで翼を見た。

「僕、手洗ってくるね~」

 舜がそう言って、パタパタとこの場から立ち去った後、翼はすぐに口を開いた。

「朝菜からきいたんだけどね・・・この前、自分の腕を切ってまで俺のこと、助けてくれたんだよな・・」

「・・・」

「ありがとな!ほんとに助かったよ!」

 翼は思い切ってそういうと、手に持っているお菓子やアイスが入ったビニール袋を差し出す。

「まぁーこれは、ほんの気持ちだ!食べてくれ」

 リノは翼から、ビニール袋を受け取るとクスリと笑う。

「・・・ずいぶんと、ヒトらしいことするんじゃない?スイマさん」

「・・あのなーっ」

 その時、リノの腕にうっすらと傷跡があるのが分かった。

 翼はそれに気づかないふりをして、笑って見せる。

「だいじょうぶよ・・・あたしの責任でもあるし」

「ん?何だ?」

「取りあえず、ありがとうね!お腹のたしにはならないけど、あたし、こーいう食べ物も好きだから」

「おーならよかった」

 翼はそう言いつつ、いつの間にか周囲を見渡していた。

 最近、家にこないアイツは、この家にいるのだろうか・・・

「そーいえば、最近、アイツのこと見ねぇけど何処にいるんだ?・・・あっ朝菜が心配してるみたいだから、ちょっと気になってな!」

 その言葉に、リノは袋の中身を確認する手を止めると、翼を見る。

「・・・ツボミのこと?」

「・・おう」

 リノは少しだけ言いずらそうに、目を伏せると言った。

「ツボミなら、きっとあの場所よ・・」


 リノに案内されたのは、コウの病室だった。

 朝菜からコウのことはきいていたが、それは事実のようだ。

 彼は・・穏やかな顔で眠っている。

 翼はコウにあんなことをされたせいもあり、彼のことはよくは思わない。

 けれど・・・今のコウは気の毒に思えて仕方なかった。

「ツボミ・・・今日はちゃんと帰りなさいよ?」

 リノが心配そうにそう言うと、コウの足元のベッドに腰掛けているツボミは、リノを見た。

「そうだぞ・・・朝菜もお前のこと、心配してんだからなっ・・・前みたく顔見せにこいよ・・」

 翼はリノの言葉に付け加えるように、その言葉を並べる。

(家にこないと思ったら、こんなところにいたのか・・)

 彼女は、一体どんな気持ちでこの病室に長い間いたのだろう。正直、そのことについては深く考えたくなかった。

 ツボミは二人の言葉をきいても、特別な反応は示さず、いつものように黙っているだけだ。

「あたし、今日はツボミに付き合うから・・・あんたは帰れば?」

「・・・そーだな」

 自分がここにいたとしても、何もできることはないだろう。

 翼は踵と返すと、病室を後にした。


 次の日

 朝菜は遅めの朝食をとるため、ゆっくりと階段を下りて行った(今日は土曜で学校はない)。

(あまり眠れなかった・・)

 その理由はもちろん、昨日、瑠から訊いたことのせいだ。

 そのことをツボミに言うか、言わないか。

 どちらがコウにとって幸せなのか。

 いろいろ考えていたが、結局は答えはでなかった。

(・・・って言うか、ツボミどこにいるんだろ?最近、家にきてないけど)

 ツボミが流した涙なんて、今まで見たことなかった。

 きっと、落ち込んでいるに違いないと思った。

(・・ツボミ、大丈夫かな)

「・・・」

 朝菜は冷蔵庫のふたを開けると、ペットボトルに入った麦茶を取り出し、いつも使っているコップにそれを注いでいく。

 とその時、居間の扉から翼が入ってきた。

「おはよー朝菜」

 ・・・やっぱり、翼は元気がいい。

「・・・おはよう」

 朝菜は小さくそう返すと、コップの麦茶を飲み干す。そして、ペットボトルを冷蔵庫にしまった。

(・・・今日は暑くて食べる気しないから・・ヨーグルトでいいや・・)

 そんなことを考えて、冷蔵庫からヨーグルトをとりだす。

「?・・・」

 すると、翼がさっきと同じ場所でこちらを見ていることに気付いた。

「どうしたの?」

 翼は朝菜の声に、はっとしたような表情をすると、

「あっ・・えーとだな・・最近、アイツ、家にこないなーなんて思ってさ」

 翼は困ったような笑顔でそう言った。

 朝菜はそれに、瞬時にツボミの顔が浮かぶ。

「・・・──大丈夫かな・・ツボミ」

 朝菜は独り言のようにそう呟いた。

「・・・」

「・・・」

「あっ・・アイツなら、コウの病院にいるみたいだぞっ」

「え?」

 朝菜は翼の意外な言葉に目を丸くした。

「どうしてお兄ちゃんがそのこと、知ってるの?」

「・・んー・・ちょっとな・・リノからきいて・・」

「・・・」

 朝菜はヨーグルトを冷蔵庫に戻す。

(ツボミに会いに行きたいっ・・)

 そう思った。

 ツボミのために何かできるなんて思えないけど。

 彼女に会えないと、落ち着けない自分がいる。

「私、ちょっと行ってくるね」

「!・・お・・おうっ・・」

 朝菜は翼の横を通り過ぎ、玄関へ向かった。

 ただ今は、ツボミと言葉を交わしたかった。


 朝菜が緊張気味にコウの病室のドアを開くと、部屋の隅に置いておるイスに、リノが腰かけているのが見えた。

「あ・・リノ」

 リノは朝菜の姿を見るなり、口元に手を当てて静かにしてほしいという仕草をする。

「?・・」

(何だろ・・)

 病室内に足を進めると、コウの眠っているベッドの足元の方に、ツボミが寝転がっているのが分かった。

 ・・・彼女は、小さな寝息をたてて眠っている。

「やっぱりツボミ、疲れているのね・・最近、ろくに寝てなかったみたいだから」

 リノは朝菜に近づいて、小声でそう言った。

「・・そうだったんだ」

 その言葉に、朝菜は少なからずショックを受けた。

 やっぱりツボミは、コウのことが心配で心配でたまらないんだ。

 ・・・ムマの鎌でコウを切り裂けば、彼は戻ってくるかもしれない。でも・・記憶をなくすかもしれない。

(・・そのこと、リノに相談してみようかな)

 リノはツボミとコウと昔からの友だちだ。何かいいアドバイスがもらえるかもしれない

「ね・・リノ」

「ん?」

「瑠からきいたことなんだけど・・もしかしたら、コウを救う方法があるかもしれないんだって・・」

「!」

「でも・・」

 とその時、ベッドの方で人の動く気配がした。

 見ると、起き上がったツボミが驚いたような表情でこちらを見据えている。

「あっツボミ・・おはよう」

「朝菜・・・さっきのこと、ほんと?」

「!・・・聞いてたのっ?」

 ツボミはコクリと頷く。

「・・・」

「別にいいんじゃない?どうせ、ツボミにも話すつもりだったんでしょ?・・で、その方法ってどんなの?」

 リノは早口でその言葉を並べて、朝菜に問いかけた。

「・・・──コウのこと、ムマの鎌で切り裂くの」

「!」

「・・・!」

「あっ・・正確に言えば、コウの体の中にとどまっている空アゲハを鎌で切り裂くの・・。リノはよく知らないと思うけど、空アゲハは人を夢の一部にする力を持ってて・・」

「じゃぁ、その空アゲハが消えれば、コウはこっちに帰ってくるのねっ?」

 リノの表情が、ぱっと明るくなる。

「うん・・で・・」

「よかったわねっツボミっ」

 リノはツボミの方へ近づくと、彼女の体をギュッと抱きしめた。

 ツボミは少しだけ驚いたようにリノを見ると、微笑んで「・・うん」と頷く。

「──・・・」

 朝菜はそんな二人の様子を見て、固まってしまった。

 本当のこと、は言えるはずなかった。


 そして。

「ツボミ・・お腹空いてたんだね・・」

 朝菜は、ごはんとハンバーグをひたすら口へと運ぶツボミの姿を見て、思わずそう言った。

 ツボミは口をもぐもぐさせながら、頷く。

 ・・・朝菜とツボミは病院の近くにあるファミレスに来ていた。

 病院からでた途端、ツボミの口から発せられた言葉は「お腹すいた」だ。・・そして、ツボミの目線の先は、道路を挟んだ向かい側にあるファミレス。

 ・・・行くしかなかった。

(実は私も少し、お腹空いてたんだけどね・・)

 ・・・朝ごはん、食べてなかったし。

「お待たせしましたー」

 突然やってきた店員がにこやかにそう言って、朝菜の前にさっき注文したフレンチトーストを置いて去って行った。

 おしゃれにお皿の上に並べられているそれを、ナイフでちょうど良い大きさに切って口へと運ぶ。

(おいしいなぁ)

 さっきまでの気持ちとは逆に、少しだけ幸せな気分になれた。

「朝菜、いつ行くの?」

 ツボミの声に彼女を見ると、その金の瞳を目が合う。

「え・・」

「朝菜の夢の中に・・いつ行くの?」

 ツボミはそういって、またごはんを口へ運ぶ。

「え・・えーっと、いつ行こうか?ツボミはいつがいい?」

「・・今夜」

 ツボミは即答する。そして、朝菜を追い詰めるように、

「今夜でいいよね?」

「そっそうだねー今夜にしようか」

 朝菜は笑顔をつくって、何とかそう言った。

 ・・・きっとツボミは、コウに帰ってきてもらって早く安心したいんだ。・・なんとなくそう思った。

(って言うか記憶を無くしちゃうってこと・・伝えないとっ)

 でも、こんなところじゃなくて、夜の時でも・・・いいかもしれない。

 そんなことを考えていると・・・

「朝菜」

 またツボミに声をかけられた。

 今度は何を言われるんだろうと、ドキリとすると

「デザート頼んでもいい?」

「いっ・・いいけど、できるだけ安いのにしてね??あまりお金持ってきてないし・・」

「うん」

 そして、ツボミは、壁際に立てかけてあるメニューに手を伸ばした。

(いつものマイペースのツボミだな・・・)

「・・・」

 朝菜は今夜のことを考える。

(コウが記憶を無くすって、決まったわけじゃないんだ・・・)

 どうか無事に。

 コウがツボミのところに帰ってきますように・・・。


 そして、夜。

 朝菜は自室で、ツボミがくるのを待っていた。

 時計を確認する。

(・・約23時か・・・)

 落ち着かないので、早く来てほしいのだが・・・。

 そして、時間は過ぎ・・──24時。

「おそいっ!」

 朝菜が思わずそう叫ぶと同時に、ツボミが朝菜のすぐ前に姿を現した。

「あっ・・ツボミ」

「朝菜、怒った?」

「んー・・・大丈夫だけど・・落ち着かないし、できればもっと早く来てほしいなーなんて・・」

「・・・」

 ツボミは何も言わずに、ただ目を伏せた。

「?・・・」

(なんか・・元気ない・・?)

 すると、ツボミは小さな声で言う。

「ムマの鎌は記憶を切り裂く・・」

「・・!」

「コウのこと、ムマの鎌で切ったら、記憶、なくなっちゃうかもしれないよね・・?」

 ツボミは不安げな瞳で朝菜を見た。

「・・ツボミ、知ってたの?」

「少し考えて分かったの・・それに、あのときの朝菜、少し変だったから・・・ムマの鎌は記憶を切り裂く・・・そうだよね?」

「・・・うん」

 そして、二人を包む重い沈黙。

 朝菜はそんな中、意を決して口を開いた。

「ツボミはどうしたい?」

「・・・わたし・・・ずっと考えてたの・・でも、どうしたらいいか何て分からなかったの」

 ツボミの金の瞳には、うっすらと涙がたまっている。

「・・ツボミ・・・」

 ・・胸が締め付けられる思いがした。

 一体、どんな言葉を選んだら、ツボミのことを救えるだろう。

「・・・少しでも可能性があるなら・・・私、諦めるなんてしたくない」

 朝菜はいつの間にか、そう呟いていた。

「・・・」

「すごく怖いけど・・・──私、ツボミがコウのこと待ってる姿、もう見たくないたくないの・・・だって、ツボミ・・・辛そうだから・・・私にできることと言ったら、このことしかないし・・少しでもツボミのためにできることがあるならって・・」

「・・・」

 ツボミは静かな瞳で朝菜を見据えた。そして、

「・・・──ありがと、朝菜。わたしも・・・──」

「・・・?」

「わたしも、可能性を捨てたくないよ?」

「・・・うんっ─!」

 ツボミはほんの少しだけ微笑むと、朝菜の片方の手を取りギュッと握りしめた。そして、それを自分の額にそっとつける。

「・・わたし、信じるよ?コウが帰ってくるって」

「・・・うん、私も・・」

 朝菜はもう片方の手をツボミの手の上に重ねて、そう呟いた。


 朝菜が記憶の鎖を切り裂くと、周囲が一瞬のうちに闇に包まれた。

 そして、何の前触れもなく暗闇の中を落下する。

「っ・・・!」

 夢の中の感覚にまだ慣れない朝菜は、恐怖のあまりギュッと目を閉じた。

 ・・・とその時、誰かに手を掴まれる。

「朝菜、大丈夫?」

「!」

 その声に目を開くと、そこにはツボミがいた。

 ・・・いつのまにか闇はなくなり、落下の感覚もおさまっていた。

「うん、大丈夫・・・」

(ここは・・──?)

 朝菜は周囲を見渡す。

 とても見慣れた景色。聞きなれた人のざわめき。

 朝菜とツボミは、学校の教室にいた。

 この前の夢世界とはまるで違う。朝菜の身近にあるそんな風景だ。

「あっ・・いつの間にか制服きてるし」

 朝菜は自分の格好を見て、思わずそう呟いた。

「わたしの服、朝菜と同じだね?」

「あっ・・ほんとだ」

 見ると、ツボミも朝菜と同様、学校の制服に身を包んでいる。

 次に朝菜は周囲を見渡した。

(コウ、どこにいるんだろう??)

 教室にいる生徒は、朝菜の知っている顔ばかり。どうやらこの教室は、朝菜のクラスのようだ。

 一通り教室を見渡したが、コウの姿はなかった。

(外、探してみるか・・・─)

「ツボミ、コウここにはいないみたいだから、別の場所探してみよう?」

「うん」

 そして、朝菜とツボミは教室から廊下の方へ移動した。

 ・・ここは夢の中だが、まるで現実にいるようだと朝菜は感じた。

 夢の中でいつも感じている違和感が、今回はまったくと言っていいほどないのだ。

「・・・」

(逆にいつも見ている夢より不気味かも・・)

 上の階へと続く階段に目が留まった朝菜は、そちらの方へ歩みを進める。そして、それをゆっくりと登って3階へと移動した。

(ここは夢の世界なんだし・・気軽に動き回っていいよね・・)

 今は休み時間らしく、3階の廊下も多くの生徒がいる。

 朝菜は生徒の一人一人の顔を確認しながら、廊下を進む。そして、適当な教室に足を踏み入れた。

「朝菜・・・」

「ん?」

 ツボミの声が後方から聞こえたと同時に、足元の床にピキッと亀裂が走る。

「!?」

 ・・それはあっという間に広がり、朝菜の足元はバラバラと崩れ落ちた。

「!!」

 朝菜の体は空中に投げ出され・・・とその時、後ろから手を掴まれた。

 見ると、廊下側に立ったツボミが、こちらを見ている。

 ツボミは黙ったまま、朝菜のことを廊下側に引き寄せると教室のドアを勢いよく閉めて、

「知らないところ、あまり行かない方がいいよ?」

「え・・」

「夢が現実のイメージに近ければ近いほど、朝菜の知らない場所は曖昧、になるの」

「確かに、ここは3年生の教室で・・・普段は行かないけど・・」

「そう、だから、あまり知らない場所、行かないでね?」

 ツボミは淡々とした声でそう言う。

「・・そうなんだ。分かったよ」

 声にはあまり感情がこもっていないように思ったが、それでも心配してくれていることが分かって、朝菜は少し嬉しかった。

「・・・じゃぁ、うちのクラスの周辺探してみよう?」

 ツボミはコクリと頷いて、朝菜の隣を並んで歩く。

 ・・・ここは夢の中なんだ。そのことを改めて実感できて、朝菜は少し安心していた。

 そして、階段を一歩ずつ降りていく。

「・・・!」

 朝菜はドキリとした。

 さっきすれ違った男子生徒・・・朝菜のよく知る顔。

「コウ!」

 朝菜は階段の途中で立ち止まると、そう叫んだ。

 ・・・コウも階段を登り終えたところで立ち止まり、朝菜とツボミを見下ろした。

「あっ・・朝菜ちゃん、ツボミ。まだ学校にいたんだね?」

 コウは微笑む。

「─・・」

 そのコウは、朝菜の知るコウと全くと言っていいほど違っていた。

 学校の制服に身を包み、明るい笑顔を見せる彼は・・まるで別人みたいだ。

「あ・・そうだ。折角だから一緒に帰らないかい?最近は、俺が委員会の仕事があったから、一緒に帰れなかっただろう?」

 ドギマギしていた朝菜は、コウの言葉にはっとしてとっさに「うん!」と返していた。

「・・ちょっとその前に借りてた本、図書室に返してくるから、教室で待っててくれるかな?

 ツボミも朝菜ちゃんと一緒に待っているんだよ」

 ・・・コウは、腕に抱えた本と共に踵を返すと、パタパタと走って行ってしまった。

「・・・」

「・・・」

 その場に残された朝菜とツボミは、重たい沈黙に包まれる。

「・・・コウ、笑ってた」

 隣に立つツボミは、消えてしまいそうな声でそう言った。

「・・・うん」

 朝菜はあんな笑顔を見せるコウを初めて見た。

 ツボミやリノと仲が良かった頃の彼は、いつもあんな風に笑っていたのかもしれない・・そう思った。

「・・・朝菜。あのコウのこと早く切って」

「!!・・」

 ツボミは淡々とした口調で、当たり前のようにそう言った。

 朝菜はそれに、思わず口ごもる。

「・・・うん・・そうだよね・・でも、もう少し待ってみない?」

 ・・あんな幸せそうなコウのことを、自分は鎌で切ることができるのだろうか・・・いや、できないだろう。

「・・・やっぱり朝菜は単純だね?」

 ツボミは金色の瞳をすっと細め、朝菜を見る。

「ここは現実とは遠く離れた夢世界、なんだよ?」

 するとツボミは、頭上に手を伸ばし、そこの空間で何かをつまむような仕草をした。

「!・・」

 ・・・ツボミの指は、確かに空間を掴んだ。

 ピリピリと破く。

 ツボミが破った空間の隙間からは、真っ白な空間が見えた。

「・・・ほら、ね?」

「──・・うん。分かっているから」

 朝菜は目を伏せて、力強くよう言った。

 ツボミがそこから手を離すと、空間はもとのようになる。

 朝菜はギュッと唇を噛みしめた。

(そうだよ・・・ここは偽りの世界にすぎないんだ・・)

 いくらコウが笑っていたって。

 もし、コウがそのことを望んでいったって・・・──

 ここは夢の世界。偽りの世界。

 コウに帰ってきてほしい・・・だから、

「・・ツボミ、大丈夫だよ。私、あのコウのこと・・ちゃんと鎌で切るから」

 朝菜は自分に言い聞かせるためにも、そう言った。

 ツボミはコクリと頷く。

 ・・・そして、朝菜はコウが走り去っていった廊下の方へ目を向けた。

 そこにすでにコウの姿はなかった。

 きっともう図書室の方へ行ったのだろう。

「コウ、図書室に行ったんだよね・・・行ってみようか?」

「うん」

 そして朝菜は、ツボミと共に図書室へ歩みを進めた。

 ・・・図書室が近づくたび、朝菜の心臓は早鐘のようになっていた。

 額からは嫌な汗がにじみ出る。

 ・・・──とても怖い。

「・・・朝菜が可能性、を信じてくれたから──・・・わたし、ここまでこれたの・・コウが帰ってくるって思えたの」

 ツボミは呟くような声でそう言った。

「!・・」

「ありがとう、朝菜」

「・・・ううん」

 朝菜は首を左右にふる。

 ─・・わたしがツボミとコウのためにできることは、こんな小さなことだけど。

 本当に力になれるかなんて分からないけど。

 ただ、その言葉がもらえただけで、ここにいれてよかった、そう思うことができた。

 ・・・図書室に到着した。扉を開け、中へと進む。

 放課後であるためか図書室は、少し込み合っていた。

(・・・いた)

 数人の生徒に混じって本棚の前で、本を開いているコウの姿をすぐに見つけることができた。

「朝菜・・・」

「うん・・」

 朝菜はゆっくりとコウに近づく。

 手の中に鎌を現したそのとき、

「物語ってとても残酷なものだと思わないかい?」

 コウが突然、そう呟いた。

「!・・・えっ」

 そして、彼はこちらに振り向く。

 本を腕に抱えながら、コウは言った。

「・・・本を読んでいると、まるで夢の中にいるような気分になるんだよ。

現実は確かにそこにあるのに、まるでここにはないような気分になる・・・──でも、気付くんだ。ハッピーエンドで時が止まった物語は、夢から覚めた瞬間みたいに・・・残酷だろう?」

 コウは微笑む。そして、

「・・・でも、俺は物語を読むことをやめられない。読み終えた後は、最悪な気分になることは知っているのに・・・何でだろうね?」

 するとコウは、朝菜とツボミに背を向け本を本棚に戻す。

「・・・ってそんなこと思っている俺って、変わり者だな。ははっ」

 コウはさっきの言葉に付け足すように、そう言った。

「──・・・」

「二人とも図書室まで来てくれたんだね、ありがとう。じゃぁ、行こうか」

 コウは朝菜とツボミの横を通り過ぎると、出入り口に向かう。

「・・・」

 朝菜は黙って、手の中にムマの鎌を現した。

 ・・・しっかりと握りしめる。

「・・・私、コウの夢物語、終わりにするから」

 朝菜の言葉に、コウはこちらに振り返った。

 大きく目を見開く。

「・・・そうか。ここも夢の中だったのか」

「!・・」

 コウは寂しげに微笑んだ。そして、

「残酷だね」

「っ──・・・」

 朝菜は大きく鎌を振り上げる。そして、コウの体を大きく切り裂いた。

 その途端、彼の体はぱっと弾けて、白い光になる。

 その白い光の中を舞っているのは、半分に切り裂かれた空アゲハの羽。

 それはヒラヒラと朝菜の目の前を漂うと、空気に溶けるように消えてしまった。

「──・・・」

 朝菜は手から鎌をかき消し、俯いた。

 残酷だね、その言葉は、朝菜の胸に深く突き刺さっていた。

 目頭が熱くなり、涙が零れ落ちる。

「っ・・・──本当に・・よかったのかな・・」

 とても怖くなる。

 コウにとって私は、大切な場所を奪った者、でしかないだろう。きっとそうだ。

 すると、ツボミの手がこちらへ伸びる。そして、朝菜の目から零れ落ちそうな涙をぎゅっと拭った。

「!・・・・」

「朝菜、泣かないで?」

「・・・ツボミ」

 ツボミは金の瞳をすっと細める。

 ・・・無表情のその顔からは、ツボミの心はよく分からなかった。

 その時、周りの景色に亀裂が走った。

「・・・帰ろう?」

 ツボミのその言葉に、朝菜は静かに頷いた。

 ・・・バラバラに崩れゆく景色。

 そんな世界から、二人は姿をかき消した。


 朝菜がゆっくりと目を開けると、見慣れた天井が目に映った。

 ゆっくりと体を起こす。

「おっ起きたな」

「・・・!」

 見ると、ベッドの横の勉強机のイスには翼が座っていて、こちらを見ていた。

「無事、帰ってこれたみたいね・・」

 振り向くと、朝菜の隣にはリノが微笑みながら座っている。

「リノ・・・どうして私の部屋にいるの?」

「ちょっとね、朝菜とツボミの様子が気になってたのよ・・で、案の定・・・二人ともまた夢の中に行ってたのねー」

 リノは溜息混じりに、

「まっ・・・あたしはあんたたちの行動に、口出しはしないけど、ね・・・」

「・・・」

「朝菜、それでどうだったんだよ?また、コウに会いに行ったんだろ??」

 翼は不安げな顔で、朝菜を見る。

「!・・・そうっ・・そういえば、ツボミはっ?」

 翼の言葉ではっとした朝菜は、そう訊いた。

 翼は眉を寄せながら、

「あいつなら何も言わずに、どっか行っちまったけど・・何か深刻そうな顔してたなー・・」

「!・・・」

(ツボミはコウのところに行ったんだ・・)

「私も行かなくちゃ」

 朝菜は立ち上がる。

 とその時、リノが言った。

「・・朝菜も何も言わずに行く気?」

「!・・ご・・ごめん。コウが目を覚ますかもしれないから」

 リノはそれに目を見開く。

「ほんとなのっ?それ」

「・・うん・・でも、心配なことがあって・・」

 朝菜が口ごもると、リノは目を伏せた。

「じゃぁ、早く行ったら?」

「!・・うん」

 リノの表情は、少しだけ寂しげだった。

 しかし朝菜は、そんなリノのことを気にすることは出来ずに部屋をとびだした。


 朝菜がコウの病室の扉をゆっくりと開けると、薄い暗闇に映えるツボミの姿が目に留まった。

 朝菜が病室内に足を進めると・・・コウがベッドの上で体を起こしていることが分かった。

「コウっ」

 朝菜が思わずそう言うと、コウは驚いたようにこちらを見る。

「朝菜ちゃん、どうしたんだい?こんな夜中に」

「!・・」

 コウから発せられた自分の名前に、朝菜はほっとして、

「ツボミ、よかったね・・・コウ、うちらのことは忘れてないみたい・・・」

「・・・」

 ・・・が、ツボミは、黙りこくったままコウのことを見据えている。

 その表情はいつも以上に無機質で、朝菜はそれに不安を感じずにはいられなかった。

「ツボミ・・・?」

「独り言が上手いんだね、朝菜ちゃん」

「・・・え?」

「だって、ツボミはここにいないだろう?」

「何言ってんの!?コウ。ツボミはここにいるよ?」

 コウは朝菜の発言に眉を寄せ、

「・・・──おかしなこと、言わないでくれるかな・・?」

「っ・・──どうしてっ?・・・」

(コウはツボミのことが見えなくなっちゃったの・・!?)

「・・・コウは、スイマの姿が認識できなくなった・・」

 ツボミは小さな声でそう言った。

「・・え?」

「コウの記憶は確かに消えたんだよ?きっと消えたのは・・・スイマやムマ・・人間の世界以外の記憶。その記憶がないと・・・わたしの姿を認識できないみたいだね・・?」

「・・・うそ・・」

 朝菜はコウの姿を見た。

 彼は不思議そうに朝菜だけ、を見据えている。

「っ・・・コウ・・思い出してよっ・・ツボミはここに・・──」

 とその時、コウの視線が朝菜の横に動いた。

「!」

 ・・・そこには、黒髪のツボミがいた。

「でも、こーすれば、大丈夫だよ?」

 ツボミは少しだけ微笑んでそう言った。

「ツボミっ・・いつの間に来てたんだ。全然気づかなかったな・・・─」

 コウはとても驚いた様子で、目をパチクリさせる。

「・・・ははは」

(よかった・・ツボミはハーフだから、スイマの姿でいなければ問題ないんだ・・)

 そうだ・・ツボミは、昔、普通に学校に通っていた。だから、こっちの姿でいたとしても問題はない。

 ・・・するとツボミは、ゆっくりとコウの方へ歩み寄る。そして、彼のことをそっと抱きしめた。

「コウ・・・もう、どこにもいかないでね・・?」

「何言ってるんだい・・?ツボミ・・」

 するとツボミはコウから離れ、彼の顔を静かに見据えた。

「・・・コウは何も知らなくていいから。だからまた・・ゼロから始めよう・・?」

「──・・?」

 ツボミの声は寂しげだった。

 そして、朝菜も寂しさを感じずには、いられなかった。

 コウの中にあった事実は、跡形もなく消えてしまったんだ。

 ・・・もしかしたら、これでよかったのかもしれない。その事実は、コウにとっては苦しみの記憶でもあったと思うから。

 でも、ツボミにとってはどうだろう。

 すると、こちらに振り向いたツボミと目が合う。

「・・・コウが覚えてくれていただけで、わたしは十分だよ・・?」

 ツボミは消えてしまいそうな声で、そう言った。

「・・・ツボミ・・──」

「・・コウ。今日はわたしたち、帰るね?」

 ツボミは突然そう言って、コウから離れ、朝菜の背中を押す。

「分かった。二人ともまたきてね」

 ツボミはコウの言葉にうなずくと、朝菜を出入り口まで押していく。

「ツボミ・・・押さなくてもちゃんと行くからっ」

「・・・」

 そして朝菜は、扉を開けた。

 部屋からでたその時、出入り口の傍に立ったリノの姿が目にとまる。

「!・・・リノ」

「つまりコウは、ただのヒトになったってわけね」

 リノはため息交じりに、そう言った。

「リノ・・・さっきの話、きいてたの?」

「・・・」

 リノは少しだけ、微笑んだ。

 すると、ツボミは、

「うん。そうだよね?朝菜」

「・・・──うん・・」

 認めたくないが、きっとそういうことになるだろう。

「じゃ・・あたしは、もうコウとは会えないわね」

「!どうして?ヒトにも姿を見せるようにすれば・・・」

 朝菜がとっさにそう言うと、

「──・・・もういいのよ。あたしはきっと・・・コウにまた会う権利なんてないから・・・それに、ただのヒトになったコウと、スイマが仲良くするもの変な話だし」

 リノはクスリと笑うと、踵を返し姿をかき消してしまった。

 ・・・姿をかき消す瞬間のリノの表情は、苦しそうに歪んでいた・・と感じたのは、朝菜の気のせいだろうか。

「・・・リノって素直じゃないね?」

 ツボミはポツリとそう言った。

「・・・──」

「でも・・・」

「?」

「これ、が自然なかたち」

 ツボミは金の瞳をすっと細めて、どこか遠くを見ただけだった。



 少しだけ時間は流れ・・・

 秋の風を感じ始めたころ。

「朝菜。ムマの仕事にもだいぶ慣れてきたんじゃない?」

 下校中、隣を歩いている瑠に、突然そんなことを言われた。

「うーん・・まぁまぁかな。まだまだ、鎖を切るのは遅いし、夢の中は怖いし・・・」

「やっぱりか。まだまだこれからだね、朝菜」

 瑠はニヤリとする。

「あー・・ははは。そうだね~」

「朝菜はまだまだだね?」

「!」

 その声に振りかえると、そこにはツボミがいた。

 黒髪の学校の制服に身を包んだツボミが。

 そう・・・ツボミは少し前から、朝菜と同じ高校に通っている(学年は一コ下だが)。

 初めはツボミの制服姿にドギマギしていたが・・・今ではだいぶ慣れてきた。

 そして、コウも・・・来春から高校に通う予定になっている。

 今では変わった体質、もだいぶ落ちついてきていて・・・普通に眠ることができているみたいだ。

「・・・ツボミにまだまだなんて、言われなくないんだけどなー。だってツボミ、この前校内放送で呼び出されてたよね?」

「うん。授業中にマンガ読んでたの、バレたからだよ?」

「・・って言うか、バレないように読むようにしないとダメじゃん!」

「二人とも、授業中は授業に集中するべきだよ」

 朝菜は、瑠の言葉にはっとし、「そうだよね」と笑っていった。

「じゃぁ、また明日ね。二人とも」

「うん」

 そして瑠は、踵を返し曲がり角の向こうに見えなくなる。

「・・・──ツボミ。今夜、だよね?」

「うん」

 そう、今日はツボミと二人で決めていた、あの日だ。



 瑠が、朝菜、ツボミと別れてから、少し歩くと後方から誰かが走ってくる足音が聞こえてくる。

「兄さーん!」

「・・・」

 瑠は聞き覚えのある声に立ち止まると振り返った。

 彼・・舜は、瑠の隣で立ち止まり息を切らしながら、にっこり笑う。

「一緒に帰ろー?」

「・・・一緒に帰るって言っても、もう俺のアパートなんだけど」

 二人が立っているのは、瑠のアパートのすぐ横の歩道だった。

「なんだぁ~学校終わってダッシュでここまで来たのに・・」

 舜は不機嫌な様子で、頬を膨らませる。

 瑠はそんな舜のことを無視して、自分の部屋の扉の前までスタスタと移動した。

 当たり前のように、舜も後に続く。

 ・・・少し前から、舜がこうして瑠に会いにくることが、当たり前のようになっていた。

 初めに会ったときは、あんなに敵意むき出しだったのに。

 しかし、瑠はいつのまにか少しだけ微笑んでいる。

(・・・嫌じゃないけどね)

 彼が自分を嫌っていた理由は、あの手紙の内容を読んだら何となく分かったし、それに心変わりした理由も、朝菜から話を聞き出したら何となく予想がついた。

 ・・・そう、とても単純なこと。でも、とても難しいこと。

 瑠は扉を開けると、部屋の中に進む。

 舜も瑠に続いて部屋に入ってきて、ランドセルやら手に持った大きな袋やらを床に下ろす。

「やっぱ兄さんの部屋は、いつ来ても片付いてるねー!・・・あっこれ、母さんからだよっ」

 舜は床に置いた袋をまた持つと、それを瑠に手渡した。

「・・・またか。いつもいらないって言ってるだろ?」

 瑠は溜息混じりにそう言いつつ、ビニール袋の中を覗き込む。

 そこには、米やら冷凍食品やら野菜やら・・・生活に必要な食料品が詰め込まれていた。

「え~だって、また持ち帰っても、母さんに怒られるのは僕なんだよ?兄さんは、可愛い弟が怒られてもいいと思ってるのー?」

「・・・うるさいなぁ」

 これ以上、言い合いをするのも面倒なので、瑠はその袋をキッチンのスペースの棚にしまいこんだ。

「いちいちこんな面倒なこと、しなくていいのに・・・」

 瑠がそう呟くと、舜はにっこり笑って言った。

「親っていうのは、子どものためなら、面倒なことだって面倒なんて思わないんだよー?特に、母さんは兄さんに世話を焼きたいみたいだから」

「──・・・生意気なこと言うんじゃない?舜」

 瑠はニヤリとして瑠を見る。

 舜はただそれに、にっこりと笑った。

 瑠がキッチンのスペースからもとの部屋へ移動すると、

「そうだ!兄さん、ちゃんと書いておいてくれた?」

 舜が期待の眼差しで、瑠を見上げる。

「・・・──何を?」

「もー・・とぼけちゃって・・・母さんと父さんの手紙の返事だよ!」

 瑠はそれに微かに眉を寄せた。

「だから、書かないって言ってるだろ?しつこいな」

「・・え~・・兄さんが書いてくれたら、二人とも大喜びなのになー・・」

「・・・」

 と、その時、翼が瑠の隣に姿を現した。

「瑠!あのなっ・・今日は・・」

「あっセンパイ。いいところにきた」

 瑠はニヤリとして言うと、舜のことを翼の方へ押し出し、

「今から舜のことを連れて、どっか遊びに行ってきてよ。俺は今から学校の課題、やるから」

「なっ・・・!!」

 翼は目を丸くする。

「やった~どっか連れてってよースイマさん~」

 舜はニコニコ笑って、翼に抱きついた。

「なんかすごーく悪いタイミングで来たみたいだなっ俺は・・・でも、せっかくだしどっか遊びに行くか!?」

「うん!・・・あっ兄さん。僕の荷物はここに置いてってもいいよね?」

「かまわないよ」

「ありがと~」

 そして、舜と翼はわいわい騒ぎながら瑠の部屋からでていった。

「・・・」

 静けさを取り戻す瑠の部屋。

 瑠は学校の鞄からノートを取り出すと、そっとページを開く。

 そこには、一枚の白い便箋がはさまっている。

 これは・・・両親への手紙。でも、まだ書き途中のもの。

 書こうと試みてペンを取るものの、なかなか思ったように文章をつづれなかった。

 どんな言葉を並べたら、この気持ちを上手に伝えることができるのだろう。

 消えていったトイロのこと、今の自分のこと、これからの自分のこと・・・本当は寂しかったということ・・。

 書くべきことは、たくさんあるはずなのに。

(・・でも、いつか書き終わすから)

 そう・・・だから。

 その時がくるまで、気長に待っていてほしい。

 そして瑠は、ゆっくりとノートを閉じた。



「ねぇ、爽。不思議だと思わない?」

 リノは爽の部屋の勉強机の隅っこに腰かけて、そう訊いた。

 その机の上でノートと教科書を広げている爽は、こちらを見る。

「・・・何のこと?」

「この写真のことよ」

 リノはスカートのポケットにしまいこんでいる写真を取り出し、それを机の上に置いた。

 この写真は・・・コウの病室にあったものと同じ。ツボミ、リノ、そしてコウと一緒に撮ったものだ。

 爽はシャーペンを机に置き、代わりに写真を手に取ると、それをじっくりとみる。

 リノは言った。

「・・その写真、爽とツボミが知り合う前に、あたしとツボミとコウで撮ったんだけど・・──」

 爽はそれに眉を寄せる。

「・・・でも、ここにリノ、写ってない・・・よね?」

「・・・そうなのよねー・・コウが記憶を失う前にはちゃんと写ってたんだけど」

 リノはため息交じりに、そう言った。

「・・・」

「まるで、あたし、初めから存在してなかったみたい」

「・・リノ・・」

 爽は悲しげな表情でリノを見る。

 寂しくなんかない、そう思っても、この気持ちをこうして言葉にしてしまうってことは・・・きっと自分は、寂しくて仕方ないってことなんだろう・・リノは何となくそう思った。

「やっぱりスイマはムマ以外の人間とは、関わらないべきなのよね、きっと」

 リノの言葉に、爽はより悲しげな表情を浮かべる。

「違うよ、リノ・・スイマはムマ以外の人間とは、関わりたくても関われない・・・そうでしょ?」

「・・まぁ確かにそうとも言えるわねー」

「でも、リノは関われた・・それっていいことだったんじゃない?」

 爽は少しだけ微笑んだ。

 リノもそれに少しだけ笑みを返して、

「そーいう考え、爽らしい」

 そして、リノは写真をスカートのポケットにしまいこんだ。

「・・・でも、あたしのこと、きれいさっぱり忘れられちゃ・・ねぇ・・」

「・・・」

 とその時、ノック音が聞こえたかと思うと部屋の扉がゆっくりと開く。

 そこには・・・

「あっ・・コウ。どうしたの?」

 コウは困ったような笑みを浮かべ、

「突然悪かったね・・爽ちゃん。メールは見てくれたかな?」

「あっ・・」

 爽は、はっとし机の隅っこに置いてあるケータイを開く。

 そういえば、メールの着信音がなって後で確認しようと思っていたら、忘れていた。

 表示されたコウのメールの本文は、「今から爽の家に行くよ」というものだった。

「わたし、メール見るの忘れてたんだ・・・でも大丈夫」

 爽はにっこり笑ってそう言った。

 「ならよかったよ」

 コウはそう言って、部屋の中に歩みを進める。

「そう言えば・・今日はツボミ、一緒にこなかったんだ?」

「あぁ、今日は珍しく、さぼらずに最後まで授業うけるって言ってたな。でも、ツボミのことだから、居眠りして終わりそうだけどね」

「はははっツボミは、いつでもどこでも寝ちゃうから」

 そして、コウは爽の隣に立つと、手に持った紙袋を手渡す。

「・・これ、よかったら食べてくれるかな?」

「・・・いつもありがとう、コウ。でも、そんなに気を使わないで?」

 爽はそう言いつつ、コウから紙袋を受け取った。

「いつも勉強を教えてくれるんだから、これぐらいのことはさせておくれよ・・──それに、爽にはとても申し訳ないことをしてしまったし」

「!・・・もしかして、思い出したの?」

 コウからでた思わぬ言葉に、爽はドキリとした。

(もしそうだとしたら、リノのことも・・・)

 コウはそれに不思議そうに首を傾げ、

「何をだい?」

「・・・」

「・・何となく、爽にはいつも悪いことをしてしまった気分になるんだよ。なんでだろうね?」

「・・・」

 そしてコウは鞄を肩から下ろし、その中から取り出したノートや教科書を、机の後ろにある小さなテーブルに広げていった。

「・・・コウ、今日はどの問題が分からなかったの?」

 爽はそう言って、コウの隣に腰を下ろした。

「・・・爽ちゃんは俺に、何を覚えててほしかったのかな?」

「・・──え?」

 爽は思わずドキリとし、コウを見る。

 彼はただ静かに微笑んで、

「もしかして・・・リノちゃん、・・・っていう人のこととか・・かな?」

「!・・・」

 コウは微笑みながら、言葉を続ける。

「いつも夢でみるんだよ。そのリノちゃんっていう人がでてくる夢をね・・・夢の中で、ツボミと彼女は仲良くしてて・・・そして、俺も当たり前のように、その中に加わって仲良くしてる。

彼女のことを知らないはずなのに・・夢の中では彼女の名前を当たり前のように、呼んでいるんだよなぁ・・」

「・・・」

「そして、目が覚めたとき、いつも俺は思うんだ。もしかしたら、俺は彼女のことを忘れてしまっただけで、本当は友だちだったのじゃないかって。

・・・──変な話だろう?ただの夢だってことは、分かっているのに」

 その後、コウは困ったように笑う。

 ・・・爽は、コウの言葉をきいて何も言うことができなかった。

 ・・・──とても嬉しかったから。

「・・・心はちゃんと覚えてる」

「・・ん?何か言ったかい?」

「ううん・・何でもない・・じゃぁ、勉強始めようか?」

「そうだね」

 そして、爽とコウは教科書を開き・・・──リノは、そんな二人の様子を黙りこくったまま見ていた。

「・・・きれいさっぱり忘れた・・わけじゃなかったのね」

 ・・・いつの間にか、リノの目のふちには涙がたまっていた。

 コウが自分のことを忘れてしまったのは、自分がコウのことを心のどこかで、過去に置き去りにした部分があるからだと思っていた。

 そう・・・そんなひどいことをした自分には、バチが当たったのだと。

(でも・・──)

 救い、はあった。とても嬉しかった。

(ごめんね・・コウ)

 そして、

「・・ありがとう」

 リノは目のふちに溜まった涙を、指で拭う。そして、この場から姿をかき消した。



 そして・・夜。

 朝菜は金色の瞳を輝かせ、目の前のベッドで眠っている青年・・・コウを見下ろしていた。

 朝菜の隣には、真っ白の鎌を握りしめているツボミが立たずんでいる。

 ツボミは、キラキラした光の粒がその体にゆっくりと吸い込まれていく中、言った。

「コウのところに仕事に行くの・・初めてだよね?」

「・・・うん」

 人になったコウが、みる夢はどんなものだろう。

 どうかそれが、幸せなものでありますように。

「・・──コウの知る世界は、狭くなっちゃったよね、きっと・・」

 朝菜は独り言のように、そう呟いた。

 そう・・自分がこっちの世界、を知った時、世界は大きく広がった。

 ・・・でも、コウの場合、その逆なんだと思う。

「・・・違うよ?朝菜」

「・・え?」

 見ると、ツボミは少しだけ微笑む。

「コウのヒトとしての世界は、大きく広がったの。コウ、もう病院にいなくていいし・・学校、にも行けるから」

「!・・うん・・そうか・・そうだよね」

 朝菜はツボミの口にした意外な言葉に、少し驚きそして、少しほっとした。

 そうか・・コウは、失っただけじゃないんだ。

「それじゃ・・行こうか、ツボミ」

「うん」

 そして、朝菜とツボミは・・・この場から姿をかき消した。



end.

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