第5話(6)
部屋のドアを開く音がして、翼はゆっくりとベッドから体を起こした。
・・・そこには無表情に近い顔をした瑠が立っている。
「わざわざ来てもらって悪かったな。どうもまだ体が動かなくてなー」
「・・・スイマの鎌で切られて、消えないで済むなんて・・・運がよかったんじゃない?センパイ」
「・・・まっ、確かにな。生きててよかったよ」
翼は苦笑いを浮かべる。
どうやら瑠も、自分がこういう状況に陥ったことは知っていたようだ。おそらく、朝菜が話したのだろう。
「それで、用事って何なの?」
「瑠・・・お前に、朝菜を追って意思の中に行ってほしいんだよ」
「・・・──やっぱり危険な奴なんだ。そのコウっていう奴は」
「!・・・そのことも知ってたんだな。そうだよっ・・・ツボミの持つ支障っていうのはコウのことだ。アイツ・・・朝菜のことを夢に取り込もうとしてる・・・─!
情けねーけど、もう俺には何もできない・・・。でも、お前なら夢の中へ行けるだろっ?」
翼はこぶしを握りながら、力強くそう言った。
自分の無力さが嫌になる。
けれど、何もしないまま待っていることだけはしたくなかった。
瑠はそんな翼の言葉に、「・・・もちろん、行けるよ」と呟く。
「瑠・・俺の代わりに朝菜をコウから守ってくれ!お願いだ・・──」
翼は俯き、必死にそう言うことしかできなかった。
訪れる沈黙・・・そして
「分かったよ」
「ほんとか!?」
瑠は無表情のまま頷く。
「で、朝菜は誰の意思に行ってるの?」
「えっ・・・とっ・・それはだな・・」
(一体、誰の意思に行ってるんだ??)
翼が焦っていると・・
「こっち」
「!」
声の方を見ると、いつの間にそこにいたのか、ツボミが部屋の出入口に立って手招きしてした。
「・・行ってみようか」
瑠は呟くような声でそう言った。
ツボミは朝菜の部屋に入ると、ベッドで眠っている朝菜のことを見下ろした。
ちなみに歩くとふらつく翼は、瑠の肩をかりてここまできた。
一見すると、朝菜はいつものように眠っているだけ・・・だが、
「朝菜、自分の意思に行ったんだな・・」
翼も眠っている朝菜のことを見下ろし、そう言葉をこぼす。
「・・・」
瑠はただ、沈黙を守っていた。
すると、瑠の瞳は朝菜からツボミの方へと動く。
「それで・・君はどうしたいの?」
ツボミは無表情の顔で瑠を見た。そして小さく口を開く。
「・・・・朝菜に無事に帰ってきてほしい」
「・・・」
瑠はそれに何も言うことなく、小さく笑みを作っただけだった。
「・・・だから、早く行ってきて?」
「頼んだぞ!!瑠!」
「・・・・─分かったよ」
翼は瑠の肩をかりていない方の手の中に、白い鎌を現した。そして、朝菜の体を切り裂く。
パラパラとあふれ出す光の粒・・・。
瑠は口元に笑みを浮かべたまま、姿をかき消した。
瑠は真っ白の空間をゆっくりと降下する。
ゆっくりとゆっくりと降りていき、そしてどこかに足をついた。
その途端、周りの景色は一変する。
「!・・・」
立ち並ぶ木々。そして、暗闇。
唯一の明かりといえば、遠くの方に見える小さな光の集まりだけだ。
おそらくあちらの方に町か村があるのだろう。
(暗くてたいくつそうな夢世界だな・・)
瑠はそう思い、小さく舌打ちをする。
こんなところに長くいても仕方ない。早く朝菜を見つけて帰った方がよさそうだ・・。
瑠が歩きだそうとしたその時、
「初めまして。ムマさん」
「!」
その声に振りかえると、そこにはいつの間にか一人の青年が立っていた。
真っ黒の髪に、背景に溶け込むような真っ黒の服。しかし、肌だけはやけに色白く、ここではやけに浮だって見えた。
「・・・早速来たね。コウ」
瑠は口元を吊り上げる。
コウはそれに柔らかな笑みを浮かべ、
「邪魔者は早く、追い出さなきゃいけないからさ」
「ふーん・・・ずいぶんと自信があるみたいだね」
それと同時に、瑠は手の中に闇色の鎌を現した。
ムマの鎌は記憶を切り裂く。
だから、この鎌を使えばコウは・・・
そして、瑠はコウに向かい駆け出した。・・・おおきく鎌を振り上げる。
素早く振り下ろすが・・・そこにはコウの姿はなかった。
「!?・・」
「こっちだよ。ムマさん」
振り返ると、後ろの木の枝の上にコウが立っている。彼は、その場に腰を下ろすと言った。
「ここは朝菜ちゃんの夢の中だけど・・俺が支配する夢世界だよ。ツボミのせいで変な体質になっちゃったけど・・・─まぁ、こういうこと、ができるってことには感謝しなくちゃね」
「─・・・」
「つまり、この世界ではムマさんは俺には適わないってことさ。せっかく来てくれたのに、悪いね」
コウは微笑みながら、瑠のことを見下ろす。
「へぇ。それはすごいね・・・」
瑠は木の枝の上のコウを、半ば睨むように見ながら手の中の鎌をかき消すと、
「じゃぁ俺は帰るよ」
「!」
「こんなくだらない世界に、いつまでもいたくないしね」
瑠の言葉に、コウの表情は一変する。
「・・くだらない?随分とおかしなことを言うムマさんだね」
瑠は薄い笑みを浮かべ、言葉を続ける。
「何もかも自分の思い通りになる世界に、ずっと浸ってるなんて楽しいの?しかも、それに朝菜も巻き込もうとするなんて、俺には考えられないね。
まぁ・・・そういうふうにして、腐っていく、君の姿を見ているのは、大分楽しいと思うけど・・・」
瑠の言葉に、コウの表情はより引きつっていく。そして、先ほどとは正反対の刺すような目つきで瑠を見た。
「ウルサイ!!」
瑠はそれにも余裕の笑みを浮かべて見せた。
「・・・──それでもまだ、ここにいる気なの?コウ」
「──・・・少し、黙っててくれるかな?」
コウは低い声でそう返すと、木の枝の上から身軽に飛び降り瑠の前に足をつく。そして、微かに眉を寄せ言った。
「やっぱりムマさんには、この世界のよさが分からないみたいだ」
「・・・」
「爽も初めは分かってくれなかったな・・・でも、今はちゃんと分かってくれてるんだよ?」
すると、コウは人差し指を自分の目の前に立てる。
・・・その先から煙のようにフワリと現れたのは、一匹の空色のハネを持ったチョウ。
その空色の羽は、この闇の中ではやけに輝いて見える。
そう思っているうちに、チョウの数はいつの間にか増え、コウの周りには無数のチョウがフワフワと飛んでいる状態になった。
瑠はその光景に瞳を細め、
「・・・何する気なの?」
「この世界のよさをムマさんにも味わってもらうのさ」
コウはその言葉の直後、小さく「いけ」と呟く。
その瞬間、コウの周囲をフワフワと飛んでいたチョウたちは群れをなして、それとは思えないスピードで飛んできた。
「!!」
瑠はとっさのことに、顔を腕でガードする。
・・・瑠の体はチョウの群れに飲み込まれ・・・そのうちの一匹は、瑠の額にピタリととまった。
そして、そのチョウは彼の額の中に溶けるようにして消えてしまう。
チョウの群れも、いつの間にか姿を消していた。
「・・・!」
瑠は額に現れたわずかな違和感とともに、地面に崩れるようにして倒れてしまった。
(体が・・・動かない?)
「悪いね、ムマさん。もう君の体は君の意志では動かないよ。次、動くとしたら・・・俺が“設定”をつけたときだけ・・」
コウの声が頭上から聞こえる。
瑠はその間にも、何とかして体を動かそうと試みるが・・・やっぱり動かない。
そうしている間にも、瑠の瞼は少しずつ重くなっていく。
(俺を甘く見ないでほしいな・・・コウ)
そして、瑠は意識を手放した。
「この空アゲハは朝菜ちゃんのために・・・」
コウは手の指にとまっているチョウを空へ向かって飛ばした。
チョウはヒラヒラと森の中を漂い、暗闇の中へ消えていく。
「・・・」
そしてコウは、足元に倒れているムマの青年を見下ろした。
きっとこのムマは、自分の病室にきた、あのスイマのパートナーだろう。
「全然たしたことないじゃないか・・・」
コウは小さくため息をつく。
たいしたことはないけど・・・──あんな言葉を言われたのは初めてだった。
“この世界はくだらない”
・・・くだらないのは、現実世界の方だろう?
大切なのは思い出なんてただの綺麗ごとで、全ては時間が経てばただの薄っぺらい感情に変わる。そんな世界。
・・・だから、あの写真も今ではただの紙きれ同然だ。
(期待も何もないさ・・・あんな世界)
コウが今一番、必要としているのは夢世界。
この体質のせいで、夢世界にいることの多くなったコウは、いつの間にかそのような気持ちが芽生えていた。
そして夢世界に“自分を必要としてくれる人”が必要だった。
現実世界に必要とされなくなりつつあるコウにとって、誰かに必要とされることが何もよりも大切かよく分かる。
同時に、それを失ったときの虚しさもよく分かっていた。
(だから俺は、ここに居場所を作るんだ・・)
もう何も失わないように。
時の流れが止まったこの場所で。
コウはその場に膝をつき、ムマの青年の額にそっと掌を乗せる。
そこから淡い光が発せられたかと思うと、彼の容姿は見る見るうちに変化していった。
コウは変化が終わると、そこから掌を離す。
(君もこの世界で生きていくのさ・・・何も知らずにね)
そして、立ち上がる。
コウはゆっくりと歩き出すと、暗闇に溶けるようにして姿をかき消した。
*
朝菜は爽と一緒に、森の暗闇の中歩いていた。
ここら辺には、もう家は建っていなく一歩進むごとに、闇が増していく気がした。
・・・今は、爽から預かったこの小さなランプだけが頼りだ。
「爽、随分遠くまで来たね?ちょっと疲れちゃった・・・」
朝菜はそう言うと立ち止まり、ゆっくり辺りを見渡す。
やっぱりそこには、暗闇が広がるだけで、空アゲハらしきものはまるで見当たらない。
爽も朝菜の隣で立ち止まる。
「そうだね。少し休もうか?」
「うん・・」
朝菜は近くにあった大きな木に寄りかかるようにして、腰かけた。
爽も朝菜の隣にゆっくりと腰を下ろす。
「・・・・朝菜、ありがとうね・・・ツボミと契約してくれて」
「えっ・・」
朝菜が驚いて爽の方を見ると、彼女はわずかに微笑んでいた。
爽はまた口を開く。
「この世界に閉じ込められてから、私の契約の証、は消えたの。・・・だから、次、ツボミがパートナーを見つけられるか心配してたんだ」
「そうだったんだ・・」
「どう?ツボミとは上手くやってる?あの子、少し変わったところあるから」
「はは・・・大丈夫だよ。確かにツボミ、マイペースすぎるところとかあるかもしれないけど・・・」
朝菜は苦笑しながらそう言った。
爽もそれに笑いを返し、
「そうなんだよね~」
「・・・」
爽は今でもツボミのことを忘れてないし、大切なままなんだと朝菜は感じた。
だから、爽ははやくここから出なくちゃいけない。ツボミと爽を会わせてあげたい・・・改めてそう感じた。
ツボミは爽のことについて、何も話してくれないけど・・・きっと忘れるなんてことはしないと思うから。
朝菜が何となく空を見上げると、木々の間から少しだけ明るい夜空に、小さな月が浮かんでいるのが見えた。
「・・・って言うか、見つかんないね・・・空アゲハ」
朝菜がそう言葉をこぼすと爽は、
「私もそんなに何回も見かけてるわけじゃないから・・・だから、まだ諦めないで?」
「・・・うん」
(爽は強いな・・・)
朝菜は改めて、そう感じた。
「じゃぁ、もう少し探してみる?」
爽はそう言いながら立ち上がって、服の汚れを払い落とした。
「うん。そうだね」
朝菜も爽に続いて立ち上がる。
そして、暗い森の中を再び歩き始めた。
そして、30分後・・・。
「さ・・・爽っ。私、もう限界かも・・」
朝菜はどのタイミングで言うか迷っていた言葉を、ついに吐き出した。
・・・そう、自分の体力はそろそろ限界に近づいてきていた。
夢の中だからと言って、体力が増すなんてそんな都合のいいことはなく、足は痛いし体も重い。
爽はそんな朝菜を見て、
「確かに今日は、けっこう歩いたしねっ。そろそろ帰ろうか?」
「うん、そうしよう・・・また明日、一緒に探しに行くから・・・」
朝菜はその言葉を笑顔で言い終えると、心の中で安堵の溜息をつく。
「ありがと、朝菜。じゃ、また明日頑張ろうね」
「・・うん」
爽は今までこうやって、暗い森の中で空アゲハを探していたんだろう。たった一人で。・・・寂しくなかったんだろうか。
朝菜はそんなことをふと考えた。
「!」
その時、目線の先にある木の下にある何か、が朝菜の目にとまった。
ここからではよく見えないが・・・けっこう大きいものだ。
「爽・・・あれ何だろう?」
爽は朝菜の言葉に、その目線の先を目で追う。そして、瞳を僅かに細めて言った。
「もしかして・・・──。一緒に来て、朝菜!」
「?」
朝菜は走り出した爽の背中を追う。
彼女の困惑したような雰囲気に、朝菜の鼓動は早めに波打った。
朝菜は、その何かのところまで行くと大きく目を見開いた。
その木の下には・・・男の子が倒れていた。
小学校低学年ぐらいだろうか。
爽の髪色とは逆の、真っ黒の髪。身にまとっている服は、ボロボロで見ているだけでも痛々しかった。
「爽っ・・・大丈夫なの?この子」
「・・・」
爽は沈黙したまま男の子を抱き上げると、
「・・・─早く家に連れて帰らなきゃ。衰弱しきってる」
「!・・爽、この子は一体・・・」
「きっと旅人の子ども・・・この子も捨てられた、んだね・・・」
「えっ?」
「よくあることなの・・・この世界では。そして、私たちが旅人の子どもを育てることもよくあること・・」
そして、爽は男の子を抱えたまま、歩きだす。
朝菜も爽の隣を歩き、歩調を早めた。
「捨てるって・・・──どうしてそんなこと・・」
いくら夢の世界の出来事だと知っていても、胸が痛まずにはいられなかった。
「・・・」
爽は黙りこくって表情を歪めていただけだった。
そして二人は沈黙も守ったまま、ただ家路を急いだ。
爽は家に帰ってくると、男の子を窓際のイスへ丁寧に座らせた。
朝菜はその様子を緊張気味に見守る。
「どうしよう・・?大丈夫かなっ・・・」
朝菜が思わずそう言うと、爽は机の上に置きっぱなしになっていた噴水の水が入った瓶を手に取り、言った。
「この子に効くかどうかは分からないけどっ・・・──あっ、このままじゃ飲みづらいから、コップに移さなきゃ」
そして爽は慌ただしく、部屋の奥にある戸棚の方へ走っていく。
・・・朝菜はただ、目を開けようとしない男の子の様子を見守ることしかできない。
「大丈夫かな・・・──?」
(あれ・・・?)
外は暗かったため気付かなかったが、朝菜は男の子の顔に小さな違和感を覚えた。
(私・・・この子のこと、知ってる?)
・・ような気がした。
この年代の知り合いなんていないはずなのに、どうして・・・。
そんなことを考えていると、コップに移し替えた水を手に持ち爽が戻ってきた。
「爽、この子・・」
朝菜の呟きを気に留める様子なく、爽は男の子の背中に腕をまわした。そして、彼の体を支えるようにすると、空いている方の手でコップを持ち男の子の口に近づける。
その時、男の子のまぶたがわずかに動いた。そして、ゆっくりとまぶたを開く。
「・・・大丈夫?これ飲んでみて?」
爽は優しく声をかけると、まだ意識が定まっていないらしい男の子の唇にコップを持ってきた。
「!!」
その瞬間、男の子の目が大きく開かれ、彼は爽の持っているコップを勢いよく手で弾き飛ばした。
「!!・・きゃっ」
爽は驚いたようにそう声を上げ、そして、コップは水をまき散らして床に落ちると、鈍い音をたてそこを転がる。
訪れる沈黙。
・・・朝菜の鼓動はいつの間にか早鐘のようになっていた。
(もしかして─・・・この子は・・・)
男の子は顔色が悪く、とても具合が悪そうだ。
それでも彼は、刺すような目つきで爽を見て言った。
「・・・余計なこと、しないでくれる?」
そして男の子は立ち上がろうとするが、その行為は虚しく、少し歩いただけで彼の体は床に崩れ落ちた。
「瑠!!」
朝菜はいつの間にかそう叫び、彼のもとへ駆け寄った。
姿はまるっきり変わってしまっていたが、朝菜には何となくそのことが分かった。
何となくだが・・・彼の姿はこの世界に馴染んでいない、そんな気がした。
「瑠なんでしょ・・!?私のこと・・・分かるっ?」
姿形が丸っきり変わってしまった瑠の姿を見て、朝菜の心に恐怖が芽生えた。
もしかして“これ”が、夢に取り込まれる・・ということなのだろうか。
朝菜は・・・男の子・・瑠の痩せ細った体を、何とか支える。
「・・・・・りゅ・・う・・」
瑠は今にも消えてしまいそうな声で、自分の名前を口にした。
「そうだよっ」
「朝菜・・・どうしたの?急に。りゅうって誰?」
見ると爽が、不思議そうにこちらを見下ろしていた。
「爽っ。この人・・・私の友だちなのっ。どうしよ?・・・瑠!大丈夫!?」
朝菜は意識を失いそうな瑠に、また声をかけた。
その間にも、朝菜の不安はより大きいものになっていく。
なぜ瑠がこんな姿なのか・・・分からないし、それにすごく苦しそうだ。
「この子が朝菜の友だち?」
爽はそう言って、朝菜の隣にしゃがみ込み、瑠の顔を覗き込む。
「うんっでも・・」
「朝菜。何を勘違いしているかは知らないけど・・・この子は夢の一部にすぎない子だよ。もちろん、朝菜の友だちなんてことはないと思うよ?」
そう言う爽は、どこか冷めた目つきで瑠を見ていた。
朝菜はその表情に、少なからずショックを受ける。
「違う・・!夢の一部なんかじゃない・・・・私、なんとなく分かるの」
「・・・」
「瑠!!起きて!」
瞼を閉じようとしている瑠に、朝菜はまた必死に声をかけた。
「あまりその名前で呼ばないで!もうすぐ夢の一部になるのにっ」
爽はその言葉を発した後、はっとして自分の口を手で押さえる。
「え・・・・?」
朝菜は信じられない気持ちで、爽のことを見た。
爽は少しの間、困惑した様子で黙っていたが、やがて表情を緩めると、
「ばれないと思ったんだけどなー・・・」
と言って、口元に薄い笑みを浮かべる。
「爽っ・・・どうして?」
「ごめんね。朝菜・・・──私たち、この子のことが欲しかった、の」
「!?・・・」
その言葉で、朝菜の心に恐怖に近い感情が芽生えた。
もしかすると瑠は・・・こっちの世界に帰れなくなるかもしれない。
そう思った瞬間、朝菜は瑠の頬を思いっきり平手打ちしていた。
「瑠!!起きて!」
すると、瑠はうっすらと目を開ける。
「!・・・」
朝菜はその瞳の色を見て、目を見開いた。
瑠の瞳の色は・・・先ほどとは違い、銀色に染まっていた。
それと同時に、彼の額にうっすらとチョウの影のようなものが現れる。それは見る見るうちに濃くなると、瑠の額からフワリと飛びたった。
・・・そのチョウの羽は、とても綺麗な空色だった。
「え?・・・あれって・・─」
不思議なことに、そのチョウは瑠の額の中から現れたように見えた。
(もしかして、あのチョウって・・・・)
朝菜がそう思っているうちに、チョウは細かい粉のようになって消えてしまう。
すると、瑠は朝菜の前に立ち上がった。
いつのまにかその姿は、“いつもの瑠”に戻っている
「瑠!・・戻れたの?」
瑠はそれに小さく頷くと、
「アイツがつけた設定のせいで上手く体が動かなくてね・・・でも、朝菜のお蔭で抜け出せた。
だから・・さっきの平手打ちはなかったことにしてあげるよ」
瑠は口元に、小さな笑みを作る。
「はは・・・よかった」
朝菜はほっと胸をなでおろす。
「残念・・・まえの方が可愛かったのにな・・」
爽は瑠のことを見上げて、困ったように微笑んだ。
すると、爽は立ち上がり窓の方へゆっくりと歩みを進める。
朝菜も瑠の隣に立ち上がると、少しの希望を信じて訊いてみた。
「爽は・・・コウの味方なの?」
「味方?ううん・・違う。コウは私の大好きな人」
「!!・・・爽が現実世界に帰れないのは、コウのせいなんでしょ?それなのにっ・・・どうしてそんなこと言えるのっ?」
確かに自分も、コウのことを悪者にしたくないという気持ちもある。
コウはツボミの大切な人だから。
病院のベッドの上で長い間眠っている彼は、きっと自分が知らない闇を抱えていると思うから。
でも・・・爽にそんなことを言われると、どこか裏切られたような気持になる。
「確かにそうだよね。でも、私にとっても現実世界よりここの方が、住みいいみたい・・・だから、コウには感謝しなくちゃ」
朝菜は、爽の口からでた言葉が信じられなかった。
「爽・・・ツボミのこと心配って言った!・・・それなのに?」
爽はそれに、少しだけ悲しそうな顔をする。
「契約の証が消えた今、ツボミと私は何の関係もないんだよ・・・?だから、心配なんてしない。そんなこと、小さな嘘でしょ?だから、そんな顔しないで。朝菜」
「っ・・・──さわ・・」
「君、ツボミのもとパートナーなんだ。随分としらけたこと言うんだね・・」
何も言えない朝菜に代わり、瑠がそう口にした。
窓際に立つ爽は、それにも動じる様子は見せない。そして、朝菜と瑠に背を向けると、窓の取っ手に手をかけそれを開け放った。
爽は空を見上げる。
「見て。朝菜。今夜は満月だよ・・とても綺麗・・・」
「・・・」
爽はこちらに向き直ると、朝菜に向かって微笑みかける。
それと同時に、その窓から何かがフワリと部屋に入ってきた。
──それは、空色のハネを持ったチョウ。
フワフワと爽の周りと舞っているチョウに、彼女はそっと手を差し伸べた。
「見て・・・この空アゲハもとてもキレイでしょ?」
爽は差し伸べている手を、ゆっくりと朝菜の方へ向ける。
すると、空アゲハはそれとは思えない速さで、朝菜に向かって飛んできた。
「!!?」
朝菜が驚いて固まっていると、空アゲハは目の前で粉々になる。
「瑠・・!!」
瑠は空アゲハを切り裂いたムマの鎌を持ち、爽を睨むように見ていた。
「穏やかじゃないね・・」
朝菜の心臓は、それにバクバクとより強く音を立てる。
「・・・ありがとう。瑠・・・」
(やっぱり空アゲハはヤバいんだ・・)
瑠の額からでてきたのは、間違いなく空アゲハだった。
瑠は空アゲハのせいで、あんな姿になっていたんだ。
「朝菜。さっきのチョウには気を付けた方がいいよ。きっと、そのツボミの元パートナーにも、空アゲハが・・・」
するとその時、爽の隣に姿を現した人物がいた。
真っ黒の髪に、背景に溶け込むような闇色の服・・・
「余計なこと、しないでくれないかな。瑠くん?」
「!!・・・コウ!」
朝菜は思わず、そう叫んだ。
コウはあの夜会ったときと、まるで別人のような表情で瑠を睨んでいた。
爽は隣に立つコウに、寄り添うように立つと彼の手に自分の指を絡め、幸せそうに表情を緩めて言った。
「コウ・・・会いたかった」
「俺もだよ。爽」
コウもポツリとその言葉を返す。
「コウ・・!!爽をもとに戻して!」
今の朝菜にとって、爽の笑顔も穏やかな声も全て偽りでしかなかった。
コウは朝菜に目を向けると、
「朝菜ちゃん、今の爽はとても幸せなんだよ。だから、そんなこと言わないでくれるかな?」
「うん。私、とても幸せだよ。こうしてコウとずっと一緒にいられるんだもの・・・」
すると爽はコウの唇に、そっと自分の唇を近づける。
コウはそれにこたえるように、微笑みを浮かべると爽の唇にそっとキスをした。
「!!・・・─」
コウは爽から顔を離し、朝菜を見ると掌をこちらに向け呟く。
「・・・これからの朝菜の居場所もここ、さ」
すると、その掌から大量の空アゲハが現れる。
・・・部屋全体を満たすほどの空アゲハは、その瞬間を狙ってフワフワと部屋を漂っているようだ。
─・・・朝菜は、もうダメかと思った。
その時、瑠が朝菜の手を突然掴み、言った。
「逃げるよ。朝菜」
「!」
朝菜は半ば強引に、瑠に手を引かれて空アゲハで満たされた部屋から脱出した。
「爽はここで待っててくれるかな。妹の世話もあるだろうしね」
「うん・・・」
爽は名残惜しそうにコウから手を離す。
コウはそんな爽に微笑みを返すと、二人の後を追うべく部屋を後にした。