第2話 (5)
瑠は目を開いた。
瑠は病院のベッドの上に横になっていた。そして瑠は、夜の闇に包まれた病室内で、一人ゆっくりと体を起こす。
静かな病室内に、雨音だけが響いた。
(どうしてこんなところにいるんだろ・・・)
自分は雨の中の公園にいたはずなのに・・・。トイロと一緒に。
「っ・・・」
頭がズキンズキンと痛む。それに吐き気もした。
瑠は病室内に響く雨音が嫌だった。
瑠は素足のままベッドから降りると、その場から逃げるようにして病室を後にした。
薄暗い廊下をしばらく歩くと、ひらけた場所にでた。
どうやらそこは、小さなロビーらしい。
ソファが何個か並べて置いてあり、その向かいに小さな本棚がある。
そしてそのスペースだけ、明かりが灯っていた。
「・・・」
瑠は光が目に入って、少しばかり安心する。そして、ソファの端っこにゆっくりと腰をおろした。
「やればできるじゃない」
「!」
いつの間にか瑠の隣に座っていたミゾレが、そう呟いた。
ミゾレは表情を失った瑠に微笑みかける。そして彼女は、すっと立ち上がると瑠の手を引いた。
瑠はされるがままによろよろと立ち上がる。
ミゾレは窓の前まで行くと、手を離し窓のカーテンをサッと開いた。
「!・・・」
窓ガラスには、黒髪の自分と黒い瞳の自分が映っていた。
「トイロが病院に連絡してくれたみたいよ。で・・・病院の人が来た時には、瑠はその姿になってたみたい」
「・・・」
ミゾレはカーテンを元にもどす。
瑠はその姿になった覚えは全くなかった。・・・無意識のうちにやったとしか考えられない。
「瑠には才能があるのよ。あの大きな記憶を消すなんて、普通はできないし」
ミゾレは瑠の気持ちを知ってか知らずか、淡々とそう言う。
瑠はこの場から消えたかった。
頭も痛いし、ミゾレの話なんて聞きたくない。
「・・・瑠のお父さんとお母さん、もう瑠に会いたく・・・」
「もういいよ!!・・・そんなのもういい!!」
瑠は必死にそう叫んだ。
頭が割れてしまいそうだ。
吐き気と頭痛で目の前の景色が歪む。
「・・・そう」
ミゾレは少しの沈黙の後、そう呟いた。
瑠は気分の悪さに我慢できず、その場にしゃがみ込む。
「・・・病人はちゃんとベッドで寝てなくちゃだめよ?」
ミゾレのその声が聞こえた後、彼女の気配は瑠の隣から消えた。
瑠は一週間ほどその病院で過ごした後、施設に入ることになった。
・・・両親はいない、と嘘をついた。本当のことを言ったとしても、結果的には自分が傷つくことになる、そう思った。
瑠は施設に入居してからも、両親のことは考えないように努めていた。そして、その空白は施設にいる先生たちが上手に埋めてくれた。
しかし、時々、隙間から冷たい風が入り込む。いや、時々ではない。ほぼ毎日だ。
きっとその原因は芯と奈雪との思い出だろう。
瑠はいつの間にか、二人の温もりを思い出のなかでしか考えられなくなっていた。
そして、今の瑠の感情は“怒り”だった。
・・・いつか見返してやりたい。
瑠は、施設の先生や仲間に愛想を振りまきながら、そのことばかりを考えるようになっていた。
そんな日のこと・・・
「今日は新しいお友だちを紹介しますよ」
朝食をとるため、皆が食堂に集まったときだ。先生が前に立って、笑顔でそう言った。
「!?」
瑠は一瞬、目の前の光景を疑った。
先生の隣に立っている人・・・その人は凪だったのだ。
「新しいお友だちの、田嶋 凪くんです。皆、仲良くしましょうね!」
『はーい』
皆は元気よく返事をする。
凪も、あの時とさほど変わりなく、恥ずかしそうに微笑んでいた。
一方、瑠は固まっていた。
(凪君・・・元気そうだ)
しかし、凪がここにいるということは決していいことではない。
・・・・両親と一緒に暮らせる状況ではなくなったということだ。
「ここ座ってもいーい?」
「!」
ドキリとして声の方を見上げると、そこにはいつの間にか凪が立っていた。
「う・・・ん」
瑠は視線を泳がせながら、何とかそう言うことができた。
凪は椅子を引くと、そこに腰をおろす。
「ねぇ・・・凪君。僕と凪君って会うの初めてだよね?」
瑠は思わずそう言ってしまった。そして、次の瞬間には言ってしまったことを後悔した。
・・・・答えなんて分かっているはずなのに。
そして、凪は言った。
「えっ・・・うん」
「・・・っ・・」
凪は瑠の質問に驚いたようだった。
当たり前だ。なのに、こうも胸が締め付けられる。
「名前・・・何ていうの?」
瑠が視線を下に落としていると、凪がそう質問してきた。
瑠は目の淵にたまった涙を拭きとってから、呟くように言った。
「・・・りゅ・・う」
その日の夜・・・。
瑠は、銀の瞳と髪を夜闇の中に輝かせて、一人で部屋に立っていた。
同室の瑠と同じ歳の子たちは皆、すやすやと眠っている。
─そう、瑠は仕事を終えた。
「瑠・・・おつかれさま」
白く輝く鎌を持ったトイロが、瑠の前に姿を現した。
「うん」
瑠は微笑む。
最近の瑠にとって、仕事の時間が一日の中で最も楽しみな時間だった。
─皆のみる夢の中にいれば、幸せを味わうことができる。たとえそれが幻でも、瑠にとってはそれが心の支えだった。
「瑠・・・廊下に誰かいるみたい」
「!」
瑠はトイロの言葉にどきりとして髪色と瞳の色を黒にする。
「・・・」
瑠は耳を澄ました。確かに廊下から誰かのいる気配がする。
瑠はそっとドアに近づくと、それを少しだけ開いて廊下の様子を窺う。
トイロも一緒に、ドアの隙間から廊下の様子を窺っていた。
「!・・・」
そこにいたのは施設の先生だった。
しかし、彼女は瑠とほとんど関わりのない先生だった(この先生は、もっと年齢が上の人を担当している)。
彼女は、急いだ様子でエプロンを外し、それを手持ちのバッグに詰め込んでいる最中のようだ。
(なんでそんなに急いでるんだろ・・・)
瑠がその理由を聞こうと、彼女の前に姿を現そうとしたその時・・・
瑠はその動きをぴたりと止めた。
─彼女の黒髪が、みるみるうちに金色に染まっていく。そして、横顔から見える彼女の瞳までもが、金色に染められたのを瑠は確かに見た。
次に、彼女の肩から手首までに刻み込まれたツタの模様が瑠の目に留まった。
「先生・・・ムマだったんだ」
瑠は知らぬ間にそう呟いた。
「施設に、瑠以外のムマがいたなんて・・・」
トイロも驚いた様子でそう呟く。
先生はその間にも用事を済ませ、早足でこの場を去ってしまった。
「っ─・・・」
瑠はドアを開いた。
そして瑠の心には、嬉しさの感情が芽生えていた。
・・・先生も自分と同じように、偽りの姿で生活してるんだ。
瑠はその先生の家の前に立っていた。
瑠は先生の行き先と、急ぎの理由が知りたかった。だから、先生の後をこっそりとつけ、行き着いたのが先生の家の前だったというわけだ。
「瑠。どうする?あの人・・・家の中入っちゃった」
瑠の隣に姿を現したトイロが、家の玄関先を見ながら言った。
「・・・」
瑠はふと、二階の窓を見上げた。
明るい部屋の中に、数人の人影が見える。
「トイロ、あそこ・・・連れてって」
「・・・うん」
瑠は、一階の屋根の上を指差した。
トイロは、差し出された瑠の手を握り締めると、地面を足でける。
たちまち、瑠とトイロは屋根の上にスタッと着地した。
瑠はトイロの手を離すと、はやる気持ちを抑えてそっと窓から中の様子を窺った。
「─・・・」
その部屋にあるベッドには、金髪の女の子が眠っていた。
彼女は、見た目的に瑠と同じぐらいの年齢に見える。
そして、そのベッドの横に膝をつき、心配そうに女の子の顔を覗き込んでいるのはあの先生だった。
先生は女の子の額に、そっと掌を乗せる。そして、先生は安心したように微笑んだ。
「っ──・・・」
瑠の心に何かがグサリと突き刺さった。そして、たちまちその部分は、ズキズキと痛みを帯び始める。
先生の笑顔が、自分の母─奈雪のそれと似すぎていた。
今思えば、あの先生は何となく奈雪の雰囲気と似ているところがあった。
しかも、今の先生の姿─金の髪に金の瞳の姿だと、ますます奈雪に似ている気がする。
今、奈雪は何をしているのだろう。
きっと、自分のことなんて、これっぽっちも思ってくれていないかもしれない。
・・・いや、自分のことなんてこれっぽっちも思っていないはずだ。
だって、あの時から数ヶ月も過ぎた。それなのに、連絡の一つもこないんだから。
「トイロ・・・先生の“気”とって」
「えっ・・・」
トイロは弾かれたように、こちらに振り向く。
「僕たちは・・・掟を破ることなんてもう怖くない。そう思わない・・・?」
「──・・・」
瑠は表情を歪ませたトイロから視線を外すと、ギュッと唇を噛みしめた。
あの笑顔を自分の目の前から、消し去ってやりたい。みんな不幸にしてやりたい。
──・・・自分と同じように。
先生は自分と同じ“ムマ”だが、自分とは全く違っていた。自分とは正反対の世界を生きている人だと瑠は思った。
だから瑠は、余計に怒りが募っていた。
母に似たあの微笑みを、この世から消してやろう・・・そう思った。
そのことは見返したことにならないことを瑠は知っている。
しかし、瑠には今の感情を抑えることができなかった。
トイロは瑠の顔を一瞥すると、その目をふせる。そして「分かった」と呟くと、壁をすり抜け部屋の中に入って行った。
先生は、突然部屋に入ってきたトイロの姿を見て、驚いたようだ。そして先生は、トイロに何かを言ったようだが、ここからではそれを聞き取れなかった。
するとトイロは、手の中に白い鎌を現した。そして、それで先生の体を勢いよく切り裂く。
多くの光の粒が現れたのと同時に、先生はベッドに上半身を倒して動かなくなった。
「・・・」
トイロはその光景を静かに見届けた後、窓の鍵を内側から開けてくれた。
それと同時に、トイロの苦しみに歪んだ顔が瑠の目に映る。
「──・・・」
瑠はトイロの顔からすぐさま顔を背けた。
瑠は窓を開けると、靴を脱ぎすて部屋に入る。そして、先生と女の子が眠っているベッドにゆっくりと近づいた。
瑠はベッドの横まで歩みよると、そこで動きを止めた。
「・・・」
瑠は先生の寝顔を一瞥した後、女の子の顔を見下ろした。
女の子の顔は微かに赤くなっており、彼女には微熱があるらしかった。
(この子もムマなの・・・?)
自分と同じぐらいの歳のムマに、瑠は会ったことがなかった。
髪の色はそうだが、この状態では瞳の色までは確認できない。
「・・・」
瑠は女の子にかけてある薄い布団を、少しだけ捲ってみる。
・・・女の子の腕には、契約したムマの証─ツタの模様は刻み込まれていなかった。
「・・・」
瑠は布団を元の位置に戻す。
そして、先生の方に視線を移した。
しかし、瑠の頭に浮かんでいるのは施設に来た凪の顔だ。自分が、先生の記憶を消せばこの親子は凪の親子のように一緒に暮らすことは無理になるだろう。
瑠はそれでも構わなかった。むしろ・・・そのことを望んでいた。
「・・・」
瑠は先生の顔をじっと見下ろし、その髪と瞳を銀色に染め上げる。
瑠の後方には、目の淵に今にも溢れだしそうな涙をためたトイロがたたずむ。
瑠はそんなトイロには振り返ることなく・・・この場から姿を搔き消した。
瑠は真白の空間に立っていた。
空間に絡みつくのは、大量の鎖。
そして、瑠の手の中には闇色の鎌。
錆びている鎖には目もくれない。目的は、必要としている鎖。
(そうだ。家族との記憶だけを消してやろう)
そうしたらきっと、あの微笑みは・・・もう生れない。
瑠は鎌を両手でぎゅっと握りしめると、空間を足で蹴り飛び上がった。そして、鎖の前にふわりと着地する。
瑠は目の前にある鎖をしっかりと見据えると、鎌を大きく振り上げた。
・・・そして、切り裂いた。
鎖にはたちまち亀裂が入り、粉々になって・・・消えた。
瑠はそれを無我夢中で繰り返した。
罪を感じることさえ、少しもしなかった。
──・・・ただ、必死だった。
と、周りの景色が一変した。
瑠の足がついている空間は、いつの間にかフローリングの床になっており、周りを見渡すと、部屋の中のようだった。
左側にある大きな窓からは、そのカーテン越しに淡いオレンジ色の光が差し込んでいる。そして、テレビにテーブルにソファ。ここは、誰かの家の居間なのだろうか。しんと静まり返っており、人のいる気配はしない。
「!」
瑠はどきりとした。
人はいないと思っていたが、そこに人がいた。彼女は、部屋の隅に膝を抱えて蹲っている。
(お母さん・・・?)
瑠は一瞬、そう思った。なぜなら彼女は、美しい金色の髪を持っていたからだ。しかし、その考えはすぐに打ち消された。
だってここは、先生の意思のなかだ。先生の夢の中に奈雪がいるはずない。
彼女が自分の膝を抱えて蹲っているせいで、瑠は彼女の顔を確認することができなかった。
(先生かな・・・?)
瑠は一歩ずつ、彼女に近づく。
「・・・」
瑠は、心の片隅で思わずにはいられなかった。
金色の髪を持った彼女は、もしかしたら自分の母かもしれない。
「ごめんなさい・・・」
突然、彼女が消えてしまいそうな声でそう呟いた。
瑠はドキリとした。
(もしかしたら・・・)
彼女は瑠に謝っているのだろうか。
「本当にごめんね・・・」
彼女がまた呟く。
・・・・彼女はもしかしたら、瑠に謝っているのかもしれない。
“瑠を見捨てた”ということを。
「っ──・・・」
瑠は拳をギュッと握って、首を左右に振る。
(この人は・・・お母さんのはずないのに・・・)
そして、瑠は気づいてしまった。・・・自分の本当の気持ちを。
自分は、彼女が奈雪であることを望んでいる。・・・奈雪が、彼女のように自分のことを思って泣いてくれていることを望んでいるんだ。
瑠は、彼女のことを静かに見下ろしていた。
そして、彼女がまた呟く。
「お母さんね・・・ずっと貴方と一緒にいたかったのに・・・」
「!・・・」
瑠はいつの間にか口を開いていた。
「お母さんなの・・・!?」
「──・・・本当にごめんね。朝菜」
「!」
いつの間にか、彼女の腕の中には、金髪の女の子の姿があった。
彼女は、ぎゅっと女の子のことを抱き締める。
「っ──・・・」
(お母さんじゃなかった・・・・)
なぜ自分はそのこと望んだのだろう。
幻だということは、分かっていたはずなのに。
お母さんじゃないということは、分かっていたはずなのに。
それなのに・・・泣きたくなる。
やっぱり望みは叶わなかった。自分は何も分かっていなかったんだ。
瑠はその光景から顔を背け、唇を強く噛みしめた。
そして、この場から姿を搔き消した。
瑠はもといた部屋に立っていた。
目の前にあるベッドには、先生と女の子が先ほどと同じように眠っている。
「・・・消したの?」
瑠のとなりに立っているトイロが、そう聞いてきた。
彼女の瞳は何かを望んでいるように、微かに歪んでいる。
「うん。消したよ」
瑠は流すようにそう答えた。そして、すぐさま先生たちに背を向けた。
「・・・早く帰ろう」
と、その時部屋のドアが開いた。
「朝菜ー!おかゆ持ってきたぞー!今日は、お父さんが作ったおかゆだから・・・」
瑠は、突然部屋に入ってきた黒髪の男の子を見て固まった。
一方、男の子も瑠たちの姿を見て固まる。
「っ・・・──!」
(どうしようっ・・・。またこの姿、見られちゃった・・・)
一気に冷や汗が滲んだ。
・・・そうだ。記憶を消しちゃえばいいんだよ。・・・そうしら無かったことになるし。
「トイロ、早くっ・・」
「へー!そんな年で、もうムマの仕事してんだ。すごいな!」
「!?・・・」
男の子は当たり前のようにそう言うと、近くにあった本棚の上に手に持っていたおかゆを置く。そして、その場から部屋の外に向かって叫んだ。
「お父さーん!ムマの人たちが来てるー!」
瑠は、茫然とその光景を眺めていることしかできなかった。
(何で?普通の人なのに・・・)
すると、トイロが呟いた。
「あの子・・・スイマだよ。今は、長袖着てて印は見えないけど・・・」
「!!」
「うちんちに、他のムマとスイマが来るなんて珍しいな。って言うか・・・もう仕事終わったんだ」
男の子は、ベッドで寝ている二人のことを一瞥するとそう言う。
「・・・」
すると、一人の男性が部屋の中に入ってきた。
「翼、朝菜の調子はどうだ?」
「今は寝てるよ」
その男性は、瑠たちの姿を見ると微笑んで軽く頭を下げる。
「お父さん!すごくね?あの子、朝菜と同じぐらいの年なのにもう仕事してるよ!」
その男の子─翼は、その男性に向かって興奮気味の声でそう言った。
「そうだな」
男性は頷きながらそう言うと、ベッドで寝ている二人に目線を移した。
すると、男性の表情が一変する。そして彼は呟くように言った。
「・・・翼。朝菜を下に連れてってくれ」
「・・・?分かったよ」
その男性の表情は、今までとは違い引きつっていた。そして彼は、ベッドから女の子を抱き上げる。
瑠は嫌な予感がした。
(もしかしたら・・・)
心臓の鼓動が一気に早くなるのを感じる。
翼は眠ったままの女の子を、男性から受け取ると、瑠たちの方を気にしながら部屋から出て行った。
「・・・どうして私たちの家に仕事に来たんだ?」
男性は、翼と女の子が出て行った後ろのドアをゆっくりと閉めると、瑠にそう問いかけた。
「・・・」
「教えてくれないか?」
「・・・特に理由なんてない」
瑠は男性の顔は見ずにそう呟く。
「・・・そうか」
「・・・」
「それなら・・・夏枝の“気”を無理やりにとった理由なら聞かせてくれるか?」
男性はトイロの方に視線を移す。
「っ・・・─」
トイロは男性の質問に口を開かない。・・・いや、開けない。
瑠の頭の中では、いろいろな考えが渦を巻いていた。
・・・もしかしたら彼は、今、ベッドで眠っている女性─夏枝が、記憶まで失ったということは気づいていないのかもしれない。
それなら気づく前に・・・
「トイロ!早く帰ろう!」
瑠は男性に背を向けた。
「待ちなさい!!」
男性の声が部屋に響く。
瑠はドキリとして動きを止めた。そして、男性のほうに振り返った。
「!」
瑠の目の前には、白い鎌を持った男性の姿があった。
男性はその黒い瞳で、瑠のことをしっかりと見据える。
「君も夏枝と同じように、無理やり眠らされるか?」
「・・・・」
「スイマだけに関係あることじゃない。・・・パートナーの君も一緒にここにいるんだ」
男性は瑠の瞳を見たまま、そう言った。そして、言い終えるとその手から鎌をかき消す。
すると、ベッドに上半身を倒して眠っていた夏枝がゆっくりと体を起こした。
「・・・あ・・・れ・・・?」
夏枝は辺りをきょろきょろと見渡し、こちらに振り向く。
「ごめん・・・!私、明の家で寝ちゃうなんて」
夏枝は驚いたようにそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。
夏枝の言葉に、明の目が大きく開かれる。
「夏枝・・・?何言ってるんだ。ここは私たち家族の家だろう」
「え?家族って・・・明こそ、変なことを言うのね」
夏枝は、困ったように口元を緩めた。
沈黙・・・。
「あれ。この子たち・・・」
夏枝は瑠たちの方を見る。
「夏枝・・・─私たちの関係は何だ?」
明は、一歩夏枝に近づいて消えてしまいそうな声でそう言った。
「・・・えっ。私はムマで明はスイマ。仕事のパートナーよ」
「・・・・他には?」
「他にって・・・──」
と、その時、部屋のドアが勢いよく開いた。
「お母さん!!俺たちのこと、忘れちゃったの!?」
翼の声は震えている。おそらく、二人の会話を部屋の外で聞いていたのだろう。
夏枝は翼の言葉に、困ったように微笑んだ。
「翼くん・・・。私は翼くんのお母さんじゃないよ?」
「っ──・・・!どうしたんだよ・・・?」
翼の瞳には、今にも溢れだしそうなほどの涙が溜まっていた。
そして突然、その瞳は瑠のほうに向けられる。
「あのムマがっ・・・お母さんの記憶を消したんだ!!」
翼はそう叫ぶと、瑠に向かって駆け出した。そして、瑠の頬を拳で殴り飛ばす。
「っ・・・!」
瑠は突然の衝撃に、思わず床に尻もちをついた。
「瑠・・・!」
トイロも慌てた様子で瑠の隣にしゃがみ込み、彼を心配そうに見つめる。
「──・・・・」
瑠はずきずきと痛む右頬を自分の掌で庇い、ぎゅっと唇を噛みしめた。
「今すぐお母さんの記憶をもとに戻せ!!」
声の方を見上げると、すぐそこには怒りの色で染められた翼の顔があった。
瑠は翼から顔を背ける。
「もう無理だよ!!消しちゃったんだから!!」
「!!」
「それにいいじゃん。お父さんがいるんだし」
瑠は翼の瞳をしっかりと見据え、そう言った。
瑠はその言葉の後、ほとんど間を空けずゆっくりと立ち上がった。そして、トイロに視線を移す。
「トイロ・・帰ろう」
しゃがんだままのトイロはこちらを見て、そしてまた目をそらす。
「・・・う・・・ん」
そして、瑠とトイロは光が溢れる部屋を後にした。
(いいんだよ。・・・これで)
瑠は振り返らなかった。
そして、何処かにいる自分の両親のことを思っていた。
・・・・あの時のように、自分のお父さんとお母さんが自分のことを思って泣いてくれていたらいいのに。・・・・そうしたら、許すことができるのに・・・──。