宝物庫の扉の向こうで、六つの王女殿下が歌っている。鍵は折れた。息がもつのはあと一時間、わたしの髪の奥にはピンが二本
「その針金、また持ってきたのか」
王宮へ向かう馬車の中で、ギルベルト様は、わたしの髪に差したピンを指でつまんで引き抜いた。
髪が一筋、肩に落ちた。
黒く塗った、細くて硬い鋼のピン。先がほんの少しだけ曲げてある。わたしはそれを毎朝、一本だけ、結い髪の見えるところに差す。
「錠前いじりは下品だと、何度言えばわかる。泥棒の手だ。ブランシュフォール伯爵家の嫁が、髪に泥棒の道具を差して王宮に上がるなんて冗談じゃない」
ギルベルト様はピンを馬車の窓から捨てようとして少し迷った。窓を開けるのが面倒だったのか、結局、自分の上着のポケットに突っこんだ。
「……申しわけありません」
「今日は王女殿下の誕生祝いだ。宝物庫の百年扉が開く。王家の宝冠を、招かれた家の者だけが拝める日だぞ。おまえは黙って、俺の腕につかまって、宝冠を見て、きれいですわと言っていればいい」
「はい」
わたしは肩に落ちた髪を、指でゆっくり巻き戻した。
髪の奥に、まだ二本、ピンが差してあった。
ギルベルト様は知らない。毎朝一本だけ、と言っているのは、一本だけ見つかるように差しているからだ。
わたしは窓の外を見たまま、口の端を少しだけ上げた。
意地の悪い笑い方だと、自分でもわかっていた。
今朝、屋敷の玄関で、伯父はわたしの髪をじろりと見た。
「ブランシュフォール家には、借りがある。先代のころからの借りだ。おまえが嫁いで、それをきれいにする。わかっているな」
「はい、伯父さま」
「錠前屋の娘だということは、向こうも承知の上で引き取ってくれるんだ。せめて、それを思い出させるようなことはするな」
引き取ってくれる。伯父はそう言った。わたしは犬か何かなのだろうか、と思った。思ったけれど、口には出さなかった。
伯母がわたしの後ろに回って結い髪の形を整えてくれた。指先が髪の奥のピンに触れて一瞬だけ止まった。
伯母は何も言わなかった。ピンを抜きもしなかった。ただ、わたしの耳もとで小さく息を吐いた。
その息が少しだけ震えていた。
ヴェルノン伯爵家の養女、マリエット。十九歳。
本当の父はオーギュスタンという、王宮の錠前師だった。
平民だ。母は伯爵家の次女で父と恋をして家を出た。わたしは王都の職人町の、鉄と油の匂いのする小さな仕事場で育った。
父の膝の上で、わたしは錠前をおもちゃにして遊んだ。
「マリー、錠前は、目で開けるんじゃない。耳で開けるんだ」
父は真鍮の錠前をわたしの耳もとに近づけて、細い針金を鍵穴に差しこんだ。
「中に、小さな棒が並んでいる。一本ずつ、持ち上げてやると、ちいさく、こつ、と鳴る。その音を一つも聞きのがさずに、全部そろえたら、開く」
こつ。こつ。こつ。
七つ鳴ったとき、錠前の掛け金が、かちり、と外れた。
父はわたしの頭を、油のついた手でぐしゃぐしゃに撫でた。
「おまえの耳は、俺よりいい」
わたしが十の年に、母が熱病で死んだ。十二の年に父が胸を病んで死んだ。錠前を削る鉄の粉を何十年も吸いこんできたせいだと、医者は言った。
父の葬式のあと、母の姉の、ヴェルノン伯爵夫人が、わたしを引き取った。
伯母はやさしかった。わたしの手を取って、爪のあいだの黒い油を自分の手で洗ってくれた。
そして、言った。
――マリエット。今日から、あなたは伯爵家の娘よ。お父さまのお仕事のことは、もう、誰にも話さないでね。
わたしはうなずいた。
うなずいて、その夜、伯爵家の客間の鍵を髪のピンで開けてまた閉めた。何度も。眠れなかった。
七年たった今も、ときどき、夜中に屋敷のどこかの鍵を開けてまた閉める。誰にも気づかれずに。
それがわたしの中に残った、父のいちばん大きな形見だった。
ギルベルト様との婚約は、去年、伯父が決めた。
ブランシュフォール伯爵家の嫡男。乗馬と狩りが得意で、声が大きくて笑うと歯がよく見える人。
伯父はわたしを嫁がせることで、ブランシュフォール家との古い借りを返すつもりらしかった。そういう話を、わたしは伯父の書斎の扉の外で聞いた。鍵の掛かった書斎の扉の、外で。
ギルベルト様は婚約してひと月目に、わたしの指のたこに気づいた。右手の親指と人差し指の、細い針金を挟む場所にできた、小さな硬いところ。
――何だ、これ。
――……刺繍のしすぎで。
嘘をついた。でも、ギルベルト様は、伯母から父のことを聞いて知っていた。それからずっと、わたしの指を見るたびに、錠前いじりは下品だ、と言う。
わたしは言われるたびに、はい、と答えた。
答えながら、心の中で、ギルベルト様の部屋の、銃をしまう棚の錠のことを考えた。安物の三本棒の錠だ。あれなら、目をつぶって十秒で開く。
そう考えると、少しだけ、胸がすっとした。
すっとする自分が、少しだけ、いやだった。
王宮の宝物庫は北の塔の地下にあった。
石の階段を下りると、天井の低い、ひやりとした前室に出る。壁の燭台の火が湿った石に照り返して揺れている。
階段の途中で、ギルベルト様の腕に力が入った。わたしの腕をつかむ指が、急に硬くなった。
見上げると、ギルベルト様は、天井の低い石の通路をいやなものでも見るように見ていた。額に、細かい汗の粒が浮いている。
「……狭いな、ここは」
ギルベルト様はそう言ってわざと大きな声で笑った。笑い声が石の壁に跳ね返ってひどく薄っぺらく聞こえた。
この人は狭いところが怖いのだ。
初めて知った。婚約して一年、狩りと馬の話しか聞いたことがなかった。
わたしは腕をつかむ指の湿り気を手袋ごしに感じながら、黙って階段を下りた。知らなかったことを今さら一つ知っても、どうしたらいいのかわからなかった。
前室の奥に、扉があった。
厚い樫の板に、黒い鉄の帯を何本も打ちつけた、人の背丈の倍もある扉。真ん中に、拳二つ分ほどの大きな錠前が、黒々と埋めこまれている。
百年扉。
百年前に造られて、火事にも水にも盗賊にも破られたことのない、王家の宝物庫の扉。年に一度、王家の子の誕生祝いの日にだけ開かれる。今年は、王女殿下の六つのお祝いだった。
わたしは扉の前で足が止まった。
錠前の鍵穴のまわりに、小さな刻印があった。
葉の上に、錠前が一つ。
父の印だった。
――十年前に、百年扉の中の錠を新しく作りかえた。俺の一生でいちばんの仕事だ。
父が死ぬ前の年に、一度だけ話してくれた。外側の扉は百年前のまま。でも中の錠の仕組みは、父が作った。
わたしの胸の奥で、こつ、と、小さな音がした気がした。
「マリエット、何をぼんやりしている」
ギルベルト様がわたしの腕を引いた。
「宝冠はあっちだ。早く行くぞ。後ろの連中に先を越される」
扉はもう大きく開けられていた。中から、蝋燭の光と、古い金の、乾いた匂いが流れてくる。
扉の横に、黒い上着の男の人が立っていた。
宝物庫長官の、スタンホープ侯爵。テオフィル様。
三十を少し過ぎたくらいの、細い眼鏡をかけた人だった。首から、太い鎖で大きな鍵を一本下げている。百年扉の鍵だ。
長官は入ってくる客の一人一人を、眼鏡の奥から黙って見ていた。
わたしの番でその目が少しだけ止まった。
髪の奥のピンを見られた気がして、わたしは、思わずうつむいた。
宝物庫の中は思っていたより奥が深かった。
石の棚が何列も、暗がりの奥まで続いている。その真ん中の台座に、王家の宝冠が置かれていた。
客たちが宝冠のまわりに集まってため息をついた。
ギルベルト様も、きれいだな、と大きな声で言った。わたしも、きれいですわ、と言った。
王女殿下は王妃さまの手を引いて、くるくると台座のまわりを回っていた。今日で六つ。金の巻き毛に、白い花冠。
「お母さま、奥には何があるの?」
「古い宝物よ。さわってはだめ」
王女殿下はこくりとうなずいた。うなずきながら、目はもう、棚の暗がりのほうを見ていた。
台座から少し離れて立っていたわたしのドレスの裾を、小さな手が引いた。
「ねえ、あなた。あの大きなとびらの、まんなかの黒いの。あれ、なあに」
王女殿下がわたしを見上げていた。金の巻き毛の下の、まっすぐな青い目。
「錠前です、殿下。扉を閉めておくためのものです」
「だれがつくったの?」
わたしは口を開きかけて閉じた。
わたしの父です。そう言いたかった。王宮でいちばん大事な扉の錠をわたしの父が作ったのです、と。
隣で、ギルベルト様が、わざとらしく咳ばらいをした。
「……腕のいい、錠前師です」
王女殿下はふうん、と鼻を鳴らした。それから、わたしのドレスの裾を離して、王妃さまのところへ駆けていった。
わたしは言えなかった言葉を、舌の上で転がしていた。少しだけ、苦かった。
見物の時間は短かった。
長官が扉の前で静かに告げた。
「お時間です。皆さま、前室へお戻りください」
客たちがぞろぞろと扉を出た。わたしも、ギルベルト様の腕につかまって出た。
王妃さまが最後に出てきた。侍女たちと話しながら。
長官が首の鎖から鍵を外した。重い扉がゆっくりと閉められた。
鍵が鍵穴に差しこまれた。
長官の手が鍵を回した。
がちん、と大きな音がした。
そして、それとは違う、もう一つの音がした。
ぱきん。
長官の手の中で、鍵の持ち手が、ぐらりと傾いた。
鍵が鍵穴の中で折れていた。
「……リゼルは?」
王妃さまの声だった。
前室の空気がすうっと冷えた。
王妃さまが侍女たちの顔を一人ずつ見た。侍女たちが首を振った。前室のどこにも、白い花冠は見えなかった。
「リゼル!」
王妃さまが扉に駆け寄って拳で叩いた。
扉の向こうから、ほんのかすかに、子供の声がした。
「……お母さま? まっくら……」
王女殿下は中にいた。
棚の奥の暗がりに。
長官が折れた鍵の残りを、指で鍵穴から抜こうとした。抜けなかった。鍵の先が錠の奥で何かに噛みこんでいる。
「鍛冶を呼べ。石工もだ」
長官の声は落ち着いていた。けれど、鍵の残りをつまんだ指が、白くなっていた。
近衛兵が走った。
鍛冶の親方と石工の親方が駆けつけるまでずいぶんかかった気がした。
石工の親方は扉のまわりの石壁を、手のひらで叩いて、首を振った。
「この壁は、火事に備えて三重に積んであります。崩すには、半日かかる」
「中の空気は」
長官が訊いた。
鍛冶の親方が汗を拭きながら答えた。
「この扉は、煙も水も通さねえように、ぴったり閉まるように作られてます。中の空気は……大人なら半日もつかもしれませんが、子供で、怖がって泣いてたら……一時間か、もっと短いか」
王妃さまがその場に崩れ落ちた。
前室が凍りついた。
誰も、何も言えなかった。燭台の火の、じじ、という音だけが、低い天井に響いていた。
わたしの髪の奥で、ピンが、ちくりと頭の皮を刺した。
父の錠だ。
中の仕組みは父が作った。わたしは父の錠を、子供のころから、何百回も開けてきた。父が練習用に作った、百年扉の中の錠と同じ仕組みの、小さな錠を。
七本の棒。こつ、こつ、こつ。
開けられる。
たぶん。
たぶん、でしかなかった。七年、本物の父の錠には触っていない。鍵が奥で噛みこんでいる。もし、わたしがいじって、もっと深く噛ませてしまったら。
そうしたら、六つの子供が、暗闇の中でわたしのせいで。
膝ががくがくと震えた。
そのとき、耳もとでギルベルト様がささやいた。
「おい、変な気を起こすなよ」
ギルベルト様の顔は汗でてらてらと光っていた。
「ここで泥棒の真似なんかしてみろ。開けられなかったら、おまえのせいで王女殿下が死んだことになる。開けたら開けたで、ブランシュフォール家の嫁は泥棒だと言われる。どっちにしても、俺が恥をかく」
わたしはギルベルト様の顔を見上げた。
この人はいま、王女殿下のことではなく、自分の恥のことを考えている。
そして、わたしも、さっきまで、自分のせいになることを考えていた。
同じだ。
そう思ったら、急に、膝の震えが止まった。
「長官さま」
わたしはギルベルト様の腕から手を離して前へ出た。
「わたしに、錠を見せていただけますか」
前室の目がいっせいにこちらを向いた。
「マリエット!」
ギルベルト様の手がわたしの手首をつかんだ。わたしはそれを振りほどかなかった。つかまれたまま、長官を見た。
「ヴェルノン伯爵家の、マリエットと申します。実の父は王宮の錠前師の、オーギュスタンです。この扉の中の錠は、十年前に父が作りかえました。わたしは同じ仕組みの錠で、子供のころから遊んでいました」
長官の眼鏡の奥の目が大きく見開かれた。
「……オーギュスタン殿の」
「泥棒の真似だと、お思いになるかもしれません。でも、時間がありません」
わたしは髪の奥から、ピンを二本抜いた。ギルベルト様が知っていた一本は、ギルベルト様のポケットの中だ。わたしの髪には、もともと三本、差してあった。
ギルベルト様の手が、わたしの手首から、だらりと落ちた。
長官は一瞬だけ、わたしの手のピンを見た。それから、扉の前から一歩下がった。
「頼む」
短い声だった。
わたしは扉の前に膝をついた。
石の床が膝の骨に冷たく当たった。ドレスの膝のところが、湿った床の水を吸って重くなった。
鍵穴に、顔を寄せた。鉄と、古い油と、さっき鍵が折れたときの、焦げた金属の匂い。
折れた鍵の先が鍵穴の中に見えた。奥のほうで斜めに噛みこんでいる。
わたしは一本目のピンの先を、鍵穴の下の縁に差しこんだ。折れた鍵の先と、錠の壁のあいだの、髪の毛一本ぶんの隙間に。
ゆっくりと、押した。
折れた鍵の先がほんの少し、動いた。
もう少し。
ピンがぐにゃりと曲がった。
息が止まった。
わたしは曲がったピンを引き抜いて、歯で噛んでまっすぐに戻した。鉄の味が口の中に広がった。
「……時間は」
「十二分たった」
すぐ後ろで長官の声がした。長官が膝をついて、燭台を鍵穴に近づけてくれていた。
扉の向こうから、かすかな声が聞こえてきた。
歌だった。
子守唄だった。音程の外れた、細い、六つの子供の声。暗闇の中で、自分で自分に歌っているのだ。
王妃さまが扉に額を押しつけて声を殺して泣いた。
わたしの指がピンの上で一瞬止まった。
「止まるな」
長官の声だった。
「あの歌が聞こえているうちは、まだ大丈夫だ。……聞こえなくなる前に」
長官が、声を落として訊いた。
「あと、どのくらい要る」
「わかりません。折れた鍵の先をどかさないと、棒に届きません」
もう一度、ピンを差しこんだ。今度はもっと浅い角度で。
指先が汗でぬるぬるした。ピンが指のあいだで滑った。わたしはドレスの胸もとで指を乱暴に拭いた。上等の絹に、黒い油の筋がついた。
かまわなかった。
こつ。
折れた鍵の先が奥から外れて、錠の底に、ことりと落ちた。
前室の誰かが息をのんだ。
「長官さま、鍵の、残りの持ち手をください。棒を押さえておく道具が要ります」
長官は折れた鍵の持ち手を、すぐにわたしの手に置いた。重い真鍮の柄の、先の短く折れた部分をわたしは鍵穴の下に差しこんで軽くひねった。
それから、二本目のピンを上から差しこんだ。
目を閉じた。
前室の音が遠くなった。王妃さまの泣き声も、ギルベルト様の荒い息も、燭台の火の音も。
耳の中に、錠の中だけが残った。
一本目の棒を、ピンの先で探す。持ち上げる。
こつ。
二本目。
こつ。
――マリー、全部そろえたら、開く。
三本目。四本目。
こつ。こつ。
五本目が重かった。何度押しても、上がらない。ピンがまた曲がりかけた。
指の先が裂けていた。ピンの角で切ったのだ。血がピンを伝って、鍵穴の縁に、ぽたりと落ちた。
「二十八分」
長官の声がすぐ耳のそばでした。低くて震えていなかった。
「中の王女殿下が、さっきまで歌を歌っていた。いまは黙っている」
わたしの背中を、冷たいものが流れた。
五本目の棒をピンでもう一度、探った。
父の錠は五本目だけ、わざと重くしてある。そこで、焦った泥棒の手が止まるように。
焦るな。
わたしは息を吐いた。父の声と、同じ速さで。
ピンの先を棒の付け根に、もっと深く当てた。ほんの少しだけ、ひねりを戻した。
こつ。
五本目が上がった。
六本目。七本目。
こつ。こつ。
かちり。
扉の奥で、重い掛け金が、外れる音がした。
長官と近衛兵が扉に肩を当てて押した。
百年扉がゆっくりと、内側へ開いた。
暗がりの奥から、ひやりとした、重たい空気があふれてきた。息の詰まる、古い金と、ほこりの匂い。
王妃さまが灯りも持たずに駆けこんだ。
棚のいちばん奥の、床の上に、白い花冠が落ちていた。その横に、王女殿下が、膝を抱えて丸くなっていた。
「リゼル!」
王妃さまが抱き上げた。王女殿下の小さな頭が、ぐらりと王妃さまの肩に落ちた。
それから、王女殿下は、ぼんやりと目を開けて大きく息を吸った。
「……お母さま。わたし、ちゃんと、しずかにしてたよ。歌をうたうと、くるしくなったから」
王妃さまが声を上げて泣いた。
わたしは扉の前の床に、尻をついた。
手のひらが血と油と汗でべとべとだった。曲がったピンが二本、膝の上に転がっていた。
指がずっと震えていた。止めようとしても、止まらなかった。
開いた。
開いた、と思った瞬間、胸の奥から、熱いものがこみ上げてきた。
うれしかった。王女殿下が助かったから、だけではなかった。
わたしが開けた。父の錠を。王宮じゅうの人の前で。下品だと言われてきた手で。
見たか、と思った。
見たか、ギルベルト様。見たか、伯父さま。見たか、わたしを伯爵家の娘にしてくださった皆さま。
思ってから、血のついた手のひらをぎゅっと握りしめた。
王女殿下があそこで黙っていたあいだ、わたしは、心のどこかで、自分の手のことを考えていた。
それが少しだけ、気持ち悪かった。
王妃さまは王女殿下を抱いたまま、わたしの前に膝をついた。
「あなたの手を」
王妃さまはわたしの血と油で汚れた手を、ためらわずに両手で取った。絹の手袋に、黒い筋と赤い染みが移った。
「この手が娘を返してくれました」
それから、王妃さまは、前室の後ろのほうに立っていたギルベルト様に、目を向けた。
「泥棒の真似、と聞こえましたけれど」
ギルベルト様の肩がびくりと跳ねた。
「わたくしの娘は、泥棒の手で助かったのかしら。それとも、あなたが恥をかかずに済む手を、選ぶべきだったのかしら」
ギルベルト様は口を開いて、閉じた。汗で光っていた顔から、すうっと色が引いていった。
ギルベルト様の上着のポケットから、黒いピンの頭が一本、のぞいていた。今朝、馬車の中で、わたしの髪から抜いたピンだった。
ギルベルト様はそれに気づいて、慌ててポケットの奥に押しこんだ。
押しこむ指が震えていた。
わたしはそれを見て、少しだけ、かわいそうになった。
かわいそうになった自分に、少しだけ、腹が立った。
婚約はその月のうちに、ブランシュフォール家のほうから解かれた。
伯父は王妃さまから届いた感謝の手紙を、書斎のいちばん目立つところに飾った。そして、わたしに言った。
「これでヴェルノン家の名が上がる。もっといい縁談が来るぞ、マリエット」
わたしははい、と答えた。
答えながら、伯父の書斎の、新しく付けかえたばかりの錠のことを考えた。王都の錠前屋の、いちばん高いもの。それでも、わたしなら、目をつぶって三十秒で開く。
伯母はわたしの裂けた指に薬を塗りながら、ぽろぽろと泣いた。
「ごめんなさい、マリエット。お父さまのお仕事のこと、話さないでと言ったのはわたしよ。あなたを守るつもりだった。……違ったのね」
わたしは伯母の背中に、包帯の手を回した。
伯母の背中は思っていたより、ずっと小さかった。
その夜、屋敷が寝静まってから、わたしは伯父の書斎の前に立った。
包帯を巻いた指で髪からピンを一本抜いた。新しい錠の鍵穴に差しこむ。
こつ、こつ、こつ、こつ、こつ。
かちり。
三十秒もかからなかった。
わたしは取っ手に手をかけたまま、しばらく動かなかった。この扉の向こうに、わたしをブランシュフォール家への借りの返し方として量っていた人の、書きつけや手紙がある。見ようと思えば、全部見られる。
見たら、少しは気が晴れるだろうか。
晴れないと思った。晴れたとしても、そのあとでもっといやな気持ちになる。
わたしはピンをもう一度差しこんで錠を掛け直した。
かちり。
扉は何もなかったように閉まっていた。わたしだけがそれを開けたことを知っていた。指先の包帯に、少しだけ血がにじんでいた。
十日後、宝物庫長官の使いが、ヴェルノン家に来た。
北の塔の地下まで来てほしい、と。
前室に下りると、百年扉の前に、テオフィル様が一人で立っていた。
扉の錠はまだ父の錠のままだった。新しい鍵がもう一本、作られたのだという。
「マリエット嬢。……覚えていないだろうか」
テオフィル様は眼鏡を外して指で鼻の付け根を押さえた。
「十年前、オーギュスタン殿がこの扉の中の錠を作りかえたとき、私は、宝物庫の若い書記だった。工事の見張り役を言いつけられて、毎日、ここに座っていた」
十年前。わたしは九つだった。
「オーギュスタン殿は、いつも、仕事場から小さな女の子を連れてきていた。女の子は前室の床に座りこんで、練習用の錠を一日じゅう開けたり閉めたりしていた」
覚えている。
前室の、冷たい床。石の段の三段目に座っていた、痩せた若い書記。眼鏡の奥から、ずっとわたしの手もとを見ていた人。
「ある日、私が冗談で言った。私と、どちらが早く開けられるか、競争しようと。私はその錠を、半時間かけても開けられなかった。女の子は十を数えるあいだに開けた」
テオフィル様の口の端が、少しだけ上がった。
「負けたら何をくれる、と女の子は言った。私は何でもやると言った。そうしたら、女の子は、こう言った」
――じゃあ、いつか、王宮でいちばんむずかしい錠をわたしに開けさせて。
「あれから十年、その約束を果たす方法を探していた。オーギュスタン殿が亡くなって、あなたは伯爵家に引き取られて名前が変わった。去年、ブランシュフォール家の嫡男の婚約の知らせに、ヴェルノン家の養女マリエットとあった。すぐに、あの子だとわかった」
テオフィル様は眼鏡をかけ直した。
「わかっていて、何もしなかった。他人の婚約者に、十年前の約束を持ち出すわけにはいかないと、自分に言い聞かせた。……本当は、断られるのが怖かった。そういう臆病な男だ」
わたしは何も言えなかった。
あの日、宝物庫の扉の横で、この人の目がわたしの上で止まった。髪の奥のピンを見られた気がした。
見られていたのはピンではなかったのだ。
「先日、約束は果たせた。あなたは王宮でいちばんむずかしい錠を開けた。……私が何もしないうちに、自分の手で」
テオフィル様は上着の内ポケットから、小さな木の箱を取り出した。
けれど、すぐには差し出さなかった。箱を手のひらにのせたまま、百年扉のほうを見た。
「その前に、宝物庫長官として一つ頼みがある。この扉の錠を、あなたに預けたい。宝物庫の錠前番として。王宮の名簿に、あなたの名で」
「……わたしの、名で」
「オーギュスタン殿の娘、マリエット、と。ヴェルノン家の養女としてではなく」
わたしは扉の真ん中の、父の刻印を見た。葉の上に、錠前が一つ。
七年、誰にも話さないでと言われてきた名前だった。
「……お受けします」
声が思っていたより、はっきり出た。テオフィル様は小さくうなずいた。それから、もう一度、手のひらの箱を見下ろした。
手のひらにのるくらいの、不格好な箱だった。蓋に、ぎこちない形の錠前が、一つ付いている。
「十年前、負けた夜から、作りはじめた。錠前の作り方の本を読んで休みの日に少しずつ。……オーギュスタン殿のようには、とてもいかなかった」
テオフィル様は箱をわたしの手にのせた。
「開けてくれるだろうか。中のものは開けた人に差し上げる」
わたしは髪の奥から、ピンを一本抜いた。
鍵穴に差しこんだ。
こつ。こつ。こつ。
三本。
三本の棒がばらばらの高さで、ぎこちなく並んでいた。ひどい錠だった。棒の削り方が一本ずつ違う。十年分、削り直した跡が、鍵穴の奥に、いくつも残っていた。
かちり。
四つ数えるあいだに、開いた。
蓋を開けると、中に、細い金の指輪が一つ入っていた。輪の内側に、小さな刻印があった。
葉の上に、錠前が一つ。
父の印だった。
「オーギュスタン殿の仕事場を継いだお弟子に頼んで刻印だけ借りた。……下手な錠ですまない」
「下手です」
わたしは言った。声が震えていた。
「とても下手です。三本しかないのに、四つ数えるあいだもかかりました」
「十年かけた」
「知っています。削り直した跡が全部、聞こえました」
テオフィル様が初めて声を出して笑った。
低くて、少しかすれた笑い声が、宝物庫の前室の、低い天井に響いた。
わたしは指輪を箱から出さなかった。
かわりに、箱の蓋を閉めて、ピンでもう一度だけ錠を掛けた。
それから、その箱をテオフィル様の手のひらに返した。
「明日も、開けに来ます。その次の日も。ちゃんとした錠になるまで、毎日、一緒に削ってください」
テオフィル様は箱を受け取った。
受け取って、わたしの手ごと、両手で包んだ。
包帯の下の裂けた指先に、テオフィル様の指がそっと触れた。かさついた、紙と墨の匂いのする指だった。
(完)




