公爵様は、どうやら嘘しか話せないようです
結婚式というものは、もっと感慨深いものだと思っていた。
少なくとも十年前の私は、真っ白なドレスを着て、大勢に祝福され、その日の夜には好きな人と二人きりになるものだと思っていた。もっとも、その頃の私は庭の木から落ちて右腕を吊っていて、従姉妹から「ラケシスには無理よ」と笑われていたのだけれど。
今になって思えば、ずいぶん先見の明があったものだ。そんなことを考えながら、鏡の前で最後の髪飾りを抜き、窮屈な靴まで脱いだところで扉が叩かれた。今日からこの屋敷は私の家で、扉の向こうにいるのは今日から私の夫になった男だ。慌てて姿勢を正して迎えると、ディートハルトは昼間と変わらず隙のない顔で入ってきた。
「本日はお疲れさまでした、ディートハルト様」 「こちらこそ」
短い。まあ、こういう人なのだろう。
私たちの結婚は恋愛ではない。両家は領地をまたぐ商いで以前から関わりがあり、その結びつきを強めるための婚姻だと聞いている。むしろ、よく私で話がまとまったものだと思う。
私は昔から「もう少し淑やかに」と言われ続けてきた。木に登るな、馬を飛ばすな、腹を立てても顔に出すな、言いたいことをそのまま言うな。二十年かけて半分も直っていない。自分を嫌っているわけではないし、今さら別人になるつもりもない。ただ、男から好かれる種類の女ではないことくらいは分かっていた。
「では、明日からよろしくお願いいたします」
公爵夫人として必要なことをする。ディートハルトも夫として必要なことをする。それで十分だと思っていたのに、彼は帰ろうとしなかった。妙に深刻そうなので、借金でもあるのだろうかと考えたところで名前を呼ばれた。
「ラケシス。君を愛することはない」
なるほど。借金ではなかった。
「承知しました」
少しだけ胸の奥が痛んだ。結婚したばかりの夫から言われて嬉しい言葉ではないけれど、驚くほど意外でもない。政略結婚に恋まで求めるつもりはなかったし、そもそも私は昔から、男に好かれるために自分を変えることを諦めている。気が強いのも、口がきついのも、今さら直せるとは思っていない。
それでも、期待していなかったことと、実際に本人の口から「愛することはない」と言われて平気でいられることは別だったらしい。胸の奥に残った小さな痛みを認めるのは癪だったので、私はこれを政略結婚の確認事項みたいなものだと思うことにした。最初から分かっていたことを、今さら言葉にされた。それだけだ。
これで話は終わりだと思ったのに、なぜかディートハルトの方が納得していないようだった。最後には「私は、君がここで楽しく暮らすことなど望んでいない」とまで言われた。
さすがにそこまで言う? 愛さないのは勝手だ。でも、こちらが楽しく暮らすことまで禁止される筋合いはない。
「ご心配なく。楽しく暮らせるかどうかは、自分でどうにかしますので」
今度はディートハルトが返す言葉をなくした。何がそんなに気に入らないのか、さっぱり分からない。ただ一つ分かったのは、この夫との生活は思っていたより面倒そうだということだった。
◇
翌朝も、ディートハルトはおかしかった。約束より十分早く朝食の間へ行ったのに「遅い。私は一刻も早く一人で食事を済ませたかった」と言われた。それなら先に食べればいいでしょうに、と思って卓上を見れば、パンも切られておらず、スープからはまだ湯気が立っている。
どう見ても、私を待っていた。
「先に召し上がればよかったのでは?」 「君と食事をするのは苦痛だからな」
苦痛なら、なおさら先に済ませればいい。それなのに私が来るまで待っている。口ではこちらを遠ざけるくせに、やっていることが合っていない。
さらに、私のために栗毛の牝馬が用意されていた。私は昔から乗馬が好きで、おとなしく歩くだけでは物足りない。その好みまで知っていたらしく、ディートハルト自身が選んだ馬だと侍女から聞いた。
「ありがとうございます。あとで会いに行っても?」
「好きにすればいい。私が選んだ馬ではないし、君が馬に乗る姿など見たくもない」
さっき聞いた話と違う。そのうえディートハルトは直後に午後の仕事をすべて空け、当然のように私と一緒に厩舎へ向かった。
昨夜は少し性格の悪い夫なのかと思った。でも今は、性格以前の問題だと思い始めている。この男、絶対に何かがおかしい。
◇
栗毛の牝馬は、私の好みにぴったりだった。艶のある毛並みにすらりとした脚。まだ名前はないというので、リゼと名づけた。
久しぶりに鞍へ跨がると、それだけで胸が弾んだ。リゼは合図によく応えるのに従順すぎず、速度を上げればもっと走りたいと身体全体で伝えてくる。こういう子が好きなのだ。
「少し走ってきます」 「ゆっくり走れ」
命令かと聞けば違うと言うので、遠慮なく好きに走ることにした。リゼを走らせると、一気に風が頬を叩いた。屋敷の裏手に広がる草地へ出て夢中になっていると、後ろから馬蹄の音が近づいてくる。見たくないと言った本人が、普通についてきていた。
「見たくないのではなかったのですか!?」 「見ていない!」
さすがに笑った。その油断がいけなかった。
草に隠れていた窪みにリゼの前脚が入り、身体が大きく傾いた。落ちる、と覚悟したところでディートハルトに腕を引かれ、気づけば彼の馬の上にいた。自分の馬を寄せ、落ちかけた私を強引に引き上げたらしい。
「怪我は?」 「ありません。リゼも大丈夫そうです」
「そうか。君が落馬すればよかったと思っている」
どう見ても、私が落ちかけたことに動揺している人間の顔だった。しかも私を助けたせいで、ディートハルトの右手からは血が流れている。
「手当てをしましょう。傷が――」 「傷などない」
そこで、昨日からずっと感じていた気持ち悪さの正体が、急に見えた気がした。この人は言っていることと行動が食い違うのではない。言葉だけが、いつも目の前の事実から外れている。朝食のことも、馬のことも、そう考えれば妙に筋が通る。
「ディートハルト様。今日は晴れていますよね」
雲一つない空の下で、彼はしばらく黙った末に「雨だ」と答えた。続けて名前を確認すると、それも「違う」と否定する。
偶然ではない。目の前の事実を確かめるたび、ディートハルトの答えだけが外れていく。
「あなた……本当のことを、言えないのですか?」
さっきまで私の質問を受け流していた人から、初めて余裕が消えた。「それ以上考えろ」と言われた瞬間、その言葉まで逆なのだと気づく。つまり、考えるな。
そこまで辿り着いたところで「やめろ」とはっきり命令された。単に嘘しか言えないだけなら、ここまで必死に止める必要はない。
何かある。しかも、私に関係する危険な何かがある。これ以上ディートハルトの言葉を逆算するのはまずい気がして、私は屋敷へ戻ることにした。
◇
屋敷へ戻ると、王宮付きの呪術師レーヴェンが来ていた。父から何度か名前を聞いたことがあるほどの人物が、結婚式の翌朝から偶然この屋敷へ来るはずがない。本人から聞けないなら本人以外から聞けばいいと、私はそのまま客間へ向かった。
「夫は今、本当のことを言えない。何かの呪いを受けている。違いますか?」
「違いません。ただし私は、旦那様から事情を聞いたわけではありません。今朝こちらへ呼ばれ、術式を調べて判断しました」
妙な前置きの意味は、そのあとの説明で分かった。ディートハルトにかけられているのは、真実を語ることを禁じる古い呪いだった。事実や自分の感情を口にしようとすれば、真実ではない言葉へ変えられる。ただし命令や質問のように、それ自体に真偽のない言葉は使える。
それだけなら、まだどうにかなりそうだった。嘘だと分かっているなら逆に受け取ればいいし、紙に書いてもらう手もある。けれどレーヴェン師は、そんな考えを先回りするように首を振った。
「この術が禁呪とされる理由は、嘘しか話せなくなることではありません。旦那様が真実を伝えようとし、その意図によって相手が真実へ到達した場合、命を奪われるのは真実を知った側です。筆談も、合図も、第三者を介した伝言も同じです」
ようやく草原での必死さが理解できた。私が呪いに気づくことそのものではなく、彼の言葉を逆に受け取って真実を探り始めることを止めたかったのだ。
ただし、ディートハルトの意図とは無関係に私が自力で気づいたことなら問題ないらしい。なんとも性格の悪い呪いだった。
「いつからですか?」
「術式の状態から見て、昨日。おそらく婚礼の宴の最中でしょう」
その答えで、真っ先に昨夜の言葉が浮かんだ。
『君を愛することはない』
あのときには、もう呪われていた。なら、あれも嘘だったのだろうか。胸が大きく鳴ったけれど、すぐに自分を止めた。「愛することはない」が嘘だからといって、その反対がそのまま「愛している」になるとは限らない。少なくとも嫌ってはいないのかもしれないし、これから愛する可能性があるだけかもしれない。呪いが、たまたま都合の悪い虚偽を選んだだけということだってあり得る。
そうやっていくらでも別の答えを並べられるのに、私の頭から一番都合のいいものだけが消えてくれなかった。私は昔から、男から好かれる種類の女ではないと思っていたからこそ、昨夜の言葉をあっさり受け入れられた。それが違うかもしれないとなった途端、今度は確かめたくて仕方がない。自分でも勝手だと思う。
思い返せば、朝食を待っていたことも、私の好みに合う馬を用意していたことも、落馬しかけた私を迷わず助けたことも、口から出た言葉とは正反対だった。だからといって、そこへ「愛している」という答えを勝手に置くのは都合がよすぎる。分かっているのに、一度芽生えた期待はなかなか消えてくれなかった。
昨日の私は、愛されなくても構わないと思っていた。今日の私は、もしかすると愛されているかもしれないと思ってしまった。たったそれだけで、同じ言葉の意味がまるで違って見える。何より厄介なのは、私はもうこの人に愛されているかどうかを知りたいと思ってしまっていることだった。
しかも、一番聞きたい本人には聞けない。こんなところまで性格の悪い呪いがあるだろうか。真実を隠すだけならまだしも、知りたくなった相手の目の前に答えを置いたまま、本人にだけは確かめられなくするなんて。解除方法があると聞く前だったら、この呪いを作った人間に一度会って文句を言いたいくらいだった。
「この呪い、解除できますか?」
幸い、答えは「できる」だった。婚礼の最中に何かを介して術を送り込まれた可能性が高く、その媒介を見つけて術式を破壊すればいいらしい。
ディートハルトは当然のように私を外そうとしたが、従うつもりはなかった。昨日は私たちの結婚式だったのだ。その場に誰かが呪いを持ち込んだのなら、私にだって関係がある。それに本人が事情を説明できない以上、私が動いた方が早い。
「あなたから真実を聞き出そうとはしません。それは約束します。でも、自分で調べることまでやめるつもりはありません」
それなら呪いにも触れない。そう説明すると、ディートハルトはまだ不満そうではあったものの、それ以上は止めなかった。
婚礼祝いは東側の広間にまとめられていた。昨日は次から次へと差し出される品を笑顔で受け取っていたけれど、改めて見るとひどい量だった。新婚生活というものは、翌日に夫婦で祝いの品をひっくり返して呪具を探すところから始まるものではないと思う。
レーヴェン師に魔力を調べてもらい、私は帳簿と送り状を照らし合わせた。ディートハルトまで黙って箱を開け始めたのには少し驚いた。言葉を信用できなくなったせいで、私はかえって彼の行動を見るようになっていた。そうして見ていると、昨日まで冷たくて何を考えているのか分からないと思っていた男が、実は随分分かりやすい人なのではないかという気がしてくる。
しばらくして、帳簿に記載のない小さな木箱が見つかった。中に入っていたのは、柄に黒い石の埋め込まれた銀のペーパーナイフ。レーヴェン師は、その石が呪いの核だとすぐに見抜いた。
さらに柄には、三本の槍を束ねたような刻印があった。王国軍へ物資を納めているハーゲン商会の印だと聞き、私は結婚式の前に父が話していたことを思い出した。ディートハルトは最近、王命で何か大きな調査を任されているらしい、と。
殺したかっただけなら、もっと簡単な方法はいくらでもある。それなのに犯人は、ディートハルトを生かしたまま真実だけを話せなくした。本人は証言できず、無理に誰かへ伝えようとすれば、その相手まで死ぬ。そこまで考えて、ようやく目的が見えた。
「……口封じ」
これは奇妙な嫌がらせの呪いではない。最初から、秘密を知った人間を殺さずに黙らせるためのものなのだ。
犯人探しは王家に任せればいい。今の私にとって重要なのは、ディートハルトからこの呪いを取り除くことだった。
レーヴェン師が黒い石から術式を引き戻し、最後に核を砕いた。小さな音とともに石が割れ、しばらく術式を確認していた彼が「もう真実を話しても、誰にも害はありません」と告げた。
よかった。まずそう思った。ディートハルトがまた普通に話せる。公爵としての仕事にも戻れるし、誰かへ真実を伝えただけで、その人を死なせることもない。それだけで十分なはずだった。
その次に、怖くなった。もうディートハルトは本当のことを話せる。昨夜の言葉について尋ねれば、今度こそ本当の答えが返ってくる。でも、もし同じことをもう一度言われたら、今度は呪いのせいにはできない。
昨日なら平気だったはずなのに、今は聞くのが怖い。愛されていないことより、愛されているかもしれないと思ったあとで、それを失う方が怖いらしい。
だから私は聞かなかった。この人が最初に何を言うのか、待つことにした。呪いが解けて最初に自由に選べる言葉を、ディートハルト自身に選んでほしかった。
「ラケシス。昨日、君に言ったことを訂正したい。あれは私が言おうとしていたことではない」
分かっていたはずなのに、本人の口から聞くと全然違った。私は黙ったまま続きを待った。
「本当は、君を愛していると言うつもりだった」
その一言が、すぐには胸の中へ入ってこなかった。嬉しい、と素直に思うより先に、なぜ、が浮かんだ。私は自分を嫌いではない。それでも、これまで周囲から何を言われてきたかは覚えている。気が強い。可愛げがない。黙っていればまだいいのに。そんな私を、どうしてディートハルトほどの男が三年も前から好きだったというのだろう。
「……どうして私なのです?」
呪いが解けたことより先に、そんなことを聞いてしまった。ディートハルトは少し驚いたようだったが、やがて三年前の王宮での出来事を話し始めた。
給仕の少年が高価な杯を割ったと責められた日だった。正確には、近くにいた令嬢が自分でぶつかって落としたのに、少年のせいにした。何人も見ていたくせに、相手が格上の家の娘だったから誰も口を出さなかった。
私だけが言った。
『今ぶつかったの、あなたでしょう』
私にとっては、また余計なことをして母に叱られた日の一つでしかない。社交界でもしばらく「可愛げがない」と笑われた。
「皆が黙っていた中で、君だけが言った。あの日から気になっていた。今回の縁談も、候補の中から君を選んだのは私だ」
初耳だった。私はてっきり、条件を並べた末に自分へ順番が回ってきただけだと思っていた。
「でも私は、あなたが思っているような女ではありませんよ。短気ですし、口もきつい。乗馬をすれば髪だってぐちゃぐちゃになります。昔から、もう少しおとなしくしろ、言いたいことを全部言うな、男の人の前では言い返すなって、何度も言われました」
言い始めると、止まらなかった。自分を嫌っているわけではない。それでも、直さなかったものの代わりに諦めたものはあった。私は私のままでいいと思っている。でも、そのままの私を恋愛の相手として好む男までいるとは思っていなかった。それは自分を卑下しているというより、長いあいだ周囲から教え込まれてきた常識に近かった。
ディートハルトは途中で遮らず、全部聞いた。慰めるために「そんなことはない」と否定されるのだろうと思っていたけれど、返ってきたのはまったく違う言葉だった。
「知っている。まず、私は君を美しいと思っている。少し吊った琥珀色の目も、その目でまっすぐ相手を見るところも好きだ。赤褐色の髪は陽の下だと色が変わって見えるし、きちんと結い上げているときも綺麗だが、馬に乗ったあとに乱れている方が君らしくて私は好きだ。背が高いことも気にしているようだが、私は隣に立ったときの君が好きだし、人混みの中でもすぐ見つけられる。黙っていれば可愛いのにと言われたそうだが、私は黙っている君より、笑っている君の方がずっと好きだ」
そこまで外見を真正面から褒められるとは思っていなかったので、私は途中から何を返せばいいのか分からなくなった。顔立ちについて褒められた経験がないわけではない。舞踏会なら誰だって「お綺麗です」と言う。でも、目の形も、背の高さも、馬に乗ったあとの乱れた髪まで含めて好きだと言われたことは一度もなかった。
ディートハルトは私が困っているのを分かっているはずなのに、そこでやめなかった。
「ただ、顔が好みだっただけなら、三年前のことを今まで覚えてはいない。君は気が強いし、頑固で、一度納得できないと思ったら簡単には引かない。腹を立てれば顔に出るし、言い方がきついときもある。それも全部知っている。それでも、誰かが理不尽な目に遭っていれば、自分がどう思われるかより先に口を出す。給仕を庇ったあの日もそうだった。皆が黙っていた中で君だけが言った。私が好きになったのは、まさにそういう君だ。だから、誰かに好かれるためにそこを捨てられたら、私は困る。ラケシス、君がこれまで直せと言われてきたところを、私は一つも直してほしくない。おとなしい女になる必要も、言いたいことを飲み込む必要もない。私の前でまで、私が好みそうな女になろうとしなくていい。外見も性格も含めて、私は今の君が好きなんだ」
私はしばらく何も言えなかった。自分が欠点だと思っていたものを否定されなかったことが、かえって嬉しかった。気が強いわけではない、口がきついわけではない、本当は優しい女だ、と言われたら、たぶん少し違うと思っていただろう。ディートハルトはそうではなく、私がそういう女だと知ったうえで、それでも好きだと言った。
私は自分を曲げるつもりはなかった。でも、曲げなければ誰にも好かれないのだろうとも思っていた。それは仕方のない交換条件のようなものだった。自分らしくいることと、誰かに愛されることのどちらか一方しか選べないなら、私は前者を選ぶつもりでいた。
どうやら、最初から二つに分ける必要などなかったらしい。少なくとも一人だけ、私が直さなかったからこそ好きになった男がいて、しかもその男は私が思っていたよりずっと前から、私のことをよく見ていた。
そう分かった途端、今日一日の出来事まで違って見えた。私が来るまで朝食に手をつけなかったこと。私の好みに合う馬を自分で選んでいたこと。落馬しかけたときには、考えるより先に手を伸ばしてくれたこと。呪いのせいで口からは正反対の言葉しか出なかったのに、行動の方は一度も嘘をついていなかった。
昨日までの私は、ディートハルトをほとんど知らなかった。冷静で、仕事ができて、何を考えているのか分からない公爵。それくらいだった。それが今日一日で、随分変わってしまった。
この人は、自分が傷つくことより私が落馬する方を怖がる人だった。危険な呪いを受けても、私を巻き込まないために何も言わずにいる人だった。そして三年も前から、私自身が嫌われる理由だと思っていたものを好きだと言う、かなり変わった人だった。
そこまで考えて、ようやく自分の気持ちにも気づいた。逃げずに口にしてしまおうと思った。
「昨日までは、あなたに愛されなくても別に困らないと思っていたんです。でも今は違います。今日知ったあなたのことを、私はかなり好きになってしまったみたいです」
言ってから、さすがに恥ずかしくなった。人に文句を言うときならいくらでも言葉が出てくるのに、こういうときだけは何を続ければいいのか分からない。
けれどディートハルトは、私の下手な告白を笑わなかった。
「それなら、昨日の分まで大事にする」
今度は言葉の裏を考える必要がない。それが妙に嬉しくて、私はようやく素直に笑えた。
◇
呪具を送り込んだ者は、その後すぐに王家の調査で捕らえられた。ハーゲン商会を利用した軍需品の横流しも明るみに出たらしいけれど、そこから先はディートハルトと王家の仕事だ。
私にとっては、もっと大事な問題が残っていた。
「そういえば、結婚式の夜。本当に最初から『愛している』と言うつもりだったんですか?」
「そうだ。君にきちんと伝えるつもりだった。それが、あの言葉になった」
想像すると、笑いがこらえられなかった。三年も好きだった女とようやく結婚して、最初の告白だけ真逆にされ、そのうえ私から「承知しました」と納得されたのだ。
「忘れてくれ」 「嫌です。たぶん一生忘れません」
結婚初夜、ディートハルトは私に「君を愛することはない」と言った。
あれは、この人が私についた最初の嘘だった。そしてたぶん私は、その嘘を一生忘れない。そのたびに、今度は本当の言葉も思い出せるから。
「ラケシス。愛している」
もう、その言葉を疑う理由はなかった。
「では、最初の嘘が帳消しになるまで、何度でも言ってください」
嘘しか話せなかった夫は、これから好きなだけ本当のことを話せるのだから。
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