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24話 迷宮異変⑨ 更なる脅威

 それでも、足は止まらなかった。


 ここまで来て引き返すという選択肢が頭をよぎらなかったわけじゃない。むしろ一瞬だけ、あまりにも自然に浮かんだその発想に、自分でも驚いたくらいだった。だが、それはすぐに消える。

 視線の先にいる人型と、その背後から現れつつある存在を前にしてしまえば、そんなまともな判断は、この場ではもう意味を持たないと分かってしまうからだ。


 黒い塊が、地面にへばりつくように存在している。輪郭は曖昧で、どこからが本体で、どこまでが影なのか判別できない。


 だが──“それ”は、確かに動いていた。


 表面が脈打ち、そこから何本もの触手が、ゆっくりと這い出してくる。

 一本ではない。二本でもない。数えようとすること自体が無意味なほど、無数に。


 細いもの、太いもの、途中で分岐しているもの。

 それぞれが勝手に動きながら、しかし確実にこちらへと向かって伸びてくる。


 地面を這うもの。空中をなぞるもの。

 何もないはずの空間を掴むように、蠢き続ける。


 その中心──黒い塊の奥で、何かが脈打っている。

 心臓のようにも見えるが、規則性がない。

 むしろ周囲の触手の動きに合わせて、歪に膨らみ、沈んでいた。


 リリアが、息を呑む。


「……なに、あれ……」


 答えは、誰も持っていなかった。


 ただひとつだけ、確かなことがある。


 ──あれは、存在してはいけないものだ。


 さっきまでの緊張とは質が違う。もっと重く、もっと深いところで身体に絡みつくような圧が、じわじわと広がっていく。


 叫び声も、咆哮もない。ただ、そこに在るというだけで、空気が重く沈み、肺に取り込むたびに異物を吸い込んでいるような不快感が残る。


 視界の端で、触手の一本が壁に触れた。


 ──じゅ、と。


 鈍い音とともに、岩肌が溶ける。


 熱ではない。腐食とも違う。触れた部分だけが崩れたように見えた。


「……なるほど。私、逃げてもいいですか?」


 リンスさんがおどけたようにそう言うが、その声は震えており、顔には冷や汗をかいている。


「触れたら、終わり」


 チュールさんの短い断定。


 だが、誰もそれを疑わなかった。


 ガレスさんが一歩、前へ出る。


 斧を肩に担ぎ直し、ゆっくりと息を吐く。その視線は、触手の動きではなく、あの黒い塊の“中心”へと向けられていた。


「あの中心に見えるやつ、あれを破壊すればなんとかなるんじゃねえか」


「でも、あそこまで近づくの無理でしょ……!」


 リリアの声に焦りが滲む。


 実際、その通りだった。触手の密度が違う。一本一本を捌くことはできても、この数を同時に相手にするのは現実的じゃない。


 それでも──


「やるしかねえ」


 ガレスさんは迷わなかった。


「後ろに下がるって選択肢は、もうねえぞ」


 その言葉に、空気が静かに締まる。


 ここで退けば、あの人型を逃がすことになる。それが何を意味するのか、今の僕たちにはもう十分すぎるほど分かっていた。

 数々の異変と、それによる犠牲者。さらにはダンジョン資源によって栄えているこの都市にとって、ダンジョンの異常事態のいうのは存亡にかかわる。原因と思われる存在をみすみす逃せば、緩やかに都市が衰退していくのは明らかだ。


「……やるしかない」


 僕は短く呟き、剣を握り直す。


 その瞬間、触手が一斉に動いた。


 先ほどまでの緩慢な動きとは違う。明確な意思を持ったかのように、複数の触手が同時に跳ね上がり、空間を裂くように叩きつけられる。


「散れ!!」


 ガレスさんの声と同時に、全員が弾かれるように動いた。


 床が砕ける。


 いや、砕けるというより、消える。


 触手が叩きつけられた箇所が、ごっそりと削り取られ、そこにぽっかりと空間が生まれていた。


「……やっぱり、当たったらアウトね……!」


 リリアが息を吐きながらも、すでに詠唱に入っている。


「でも、あれ──遅い!」


 その通りだ。無数の触手がこちらに迫ってくるが、その速度は緩慢で脅威はあまり感じない。


「リリア、触手なんとかできる!?」


「やってるわよ!」


 放たれた炎が、広範囲に広がる。


 触手の何本かが焼かれ、わずかに動きを鈍らせる。だが、それだけだ。すぐに再生するように、黒い靄が補完し、元の形へと戻っていく。


「全然だめ!効いてるきがしない!」


「チュール!」


「分かってる」


 弦が鳴る。


 矢は触手ではなく、その奥──核と思われる場所へと向かう。

 だがその攻撃は本体に届く前に、まるで速度を失ったかのように勢いを無くし、地面へと落ちる。


「……届かない」


 いつも通り淡々とした声だが、その声にはわずかに悔しさがにじみ出ている気がした。


 ガレスさんが、笑う。


「結局、いつも通りかよ」


 その声に、妙な安心感すら混じっていた。


「突っ込んで、ぶっ壊す。それだけだ」


「簡単に言うわね……!」


「簡単じゃねえよ」


 斧を構える。


 視線は、核へ。


「だから面白えんだろうが」


 次の瞬間、ガレスさんが踏み込んだ。


 真正面からではない。触手の合間を縫うように、その巨体へと迫る。


 チュールさんが矢で牽制し、触手の動きをずらす。


 リリアの炎が、わずかな空間を焼き払う。


 そして──


 僕は、その隙間に踏み込んだ。


 触手が迫る。


 空間が歪む。


 それでも、止まらない。


 あいつを倒せる可能性があるなら、多少のリスクなんて関係ないし。みんなを守れるのなら、自分がどうなったって構わない──そんな考えが一度でも頭をよぎってしまった時点で、もう引き返すという選択肢は完全に消えていた。


 だからこそ、僕は迷わず前に出た。

 眼前へと迫った巨大な本体の体を駆け上がり、怪しい光を放つ中心へと向かって剣を思い切り振るった。

 だが、刃は核へ届く寸前でわずかに逸らされ、確かに触れているはずの手応えは、霧の中に沈むように曖昧なまま指先から零れ落ちていく。


 防がれているわけではない。


 弾かれているわけでもない。


 ただ、そこに到達できない。


 その事実が、遅れて理解として胸の奥に沈んでいく。


 背後でリリアの炎が炸裂し、チュールさんの矢が連続して放たれる。確かに当たっているし、確かに削れてもいる。だが、それはあくまで表層の話に過ぎず、黒い塊の奥で脈打つそれには、ほとんど影響を与えていないように見えた。


 削れているのに、減っていない。


 傷ついているのに、弱っていない。


 そんな矛盾した光景を前にしているうちに、戦いそのものの意味が、少しずつ曖昧になっていく。


 その時だった。


 それまでただ佇んでいた人型が、ゆっくりと腕を持ち上げる。


 ほんの些細な動作でしかないはずなのに、その仕草ひとつで空気の質が変わるのが分かった。見えない何かが一斉に圧を強め、周囲の空間そのものが軋むような感覚が走る。


 次の瞬間、衝撃が来た。


 それは斬撃でも、打撃でもない。もっと根本的な、殺意そのものを押し付けられるような圧力だった。前に出ていたリンスさんの盾が軋み、ガレスさんの体勢でさえわずかに崩れる。その余波だけで、足場がぐらりと揺れた。


 ああ、とその時ようやく理解する。


 さっきまでのあの人型は、ただ見ていただけで、本気でこちらを潰す気になれば、最初からこうできた。


 その事実が、遅れて現実味を伴って押し寄せてくる。


 それでも、足は止まらなかった。


 止められなかったと言った方が正しいのかもしれない。ここで下がるという選択肢が、思考の中でまともな形を取る前に、身体の方が先にそれを拒絶していた。


 踏み込む。


 触手を捌き、歪む空間を無理やり踏み越えながら、もう一度核へと迫る。


 だが、やはり届かない。


 何度繰り返しても結果は同じで、刃は決定的な一線を越えることができないまま、意味のある一撃へと昇華する前に流されていく。


 呼吸が乱れる。


 視界が狭くなる。


 それでも前に出ることをやめないのは、やめてしまった瞬間にすべてが終わると、本能のどこかで分かってしまっているからだった。


 けれど、僕の行動とは裏腹に、戦況はまるで変わらない。


 攻撃が全く通っていないというわけではない。それなのに、この戦いの終わりだけが、どうしても見えてこない。


 その不自然さに気づいた時、胸の奥で何かが軋んだ。


 ──ああ、これだ。


 嫌になるほど見覚えのある感覚だった。


 追いつけない距離。


 届かない差。


 どうやっても埋まらない、圧倒的な力。


 それを理解してしまった時に、ようやく名前がつく感情。


 絶望。


「……また、これか」


 気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。


 強くなりたいと願った理由も、ここまで来た意味も、全部がこの瞬間に引き戻される。

 届かなかった過去も、守れなかった記憶も、まとめて目の前に突きつけられているような気がして、思わず視線を逸らしたくなる。


 それでも、逸らさなかった。


 逸らしてしまえば、もう二度と前を向けなくなる気がしたからだ。


 だから僕は、歯を食いしばったまま、もう一度だけ踏み込む。


 届かないと分かっていても、それでも手を伸ばさずにはいられない自分が、まだここにいることだけは、はっきりと分かっていた。


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